無料ブログはココログ

カテゴリー「歴史・民俗」の15件の投稿

2024年11月18日 (月)

国立東京博物館「はにわ展」(その2)

 2024年11月15日(金)、国立東京博物館(平成館)の特別展「はにわ」を観覧する。

 本ブログ記事「国立東京博物館「はにわ展」(その1)」の続き。

■第5章 物語をつたえる埴輪

 埴輪は、複数の人物や動物などを組み合わせて、当時の王や王を取り巻く人々の物語を表現しているという。古墳を護る盾持人(たてもちびと)、古墳から邪気を払う相撲の力士など…、多様な人物の役割を表現。また、魂のよりどころとなる神聖な家形埴輪は、古墳の中心施設に置かれ、複数組み合わせることで王の居館を再現したと考えられている。

67~70.「盾持人」群馬県高崎市、鳥取県米子市、群馬県太田市、埼玉県本庄市 5~6世紀

Img_8115

 盾形の上に人の顔が造形されている。盾は地面に置くタイプのもので、人物の手足は表現されてない。目や耳を大きくしたり、入れ墨を表現したり、あるいは満面の笑みで悪しき者を古墳に寄せ付けない。

71.重要文化財「両面人物」和歌山市 大日山35号墳出土 6世紀 和歌山県教育委員会

Img_8109repl

 頭の両側にある2つの顔には、一方に矢じり、他方に矢羽根のような線刻がある。盾持ち人の頭部とみられている。形象埴輪では、現実に存在しないものを作ることはないそうで、両面人物はこの作品が唯一の例だという。

74.「力士」大阪府高槻市 今城塚古墳出土 6世紀 高槻市立今城塚古代歴史館

Img_8116jtblur

 力士は大地を踏み、悪霊を鎮める役割がある。片手をあげ四股を踏む直前の動作を表現。現在の力士と同様、ふくよかな体格でまわしを締めている。髷は横一文字で手足に飾り紐や鈴のようなものをつけている。

78.「鷹匠」群馬県太田市 オクマン山古墳出土 6世紀 新田荘歴史資料館保管

Img_8118psblur

 飼いならした鷹を放って鳥等を捕える鷹狩りの男子。高さは約147cm。左手には尾に鈴を付けた全長15cm程の鷹を止め、巾広の鍔(つば)のある帽子をかぶり、肩まで垂らした美豆良(みずら)を結っている。裾縁に鋸歯文(きょしもん、鋸の歯のように三角形を並べた文様)を施した袴をつけ、腰には大帯をしめている。盛装した人物は高い地位にあったと思われ、鷹狩りが支配者層の狩猟行事であったことを物語る。

79.「琴をひく男子」伝・茨城県桜川市出土 6世紀 東京国立博物館

Img_8120

 亡き王を弔うために音楽を奏で、踊る様子を再現した埴輪たち。膝の上に乗せた琴を弾く高貴な男子。並んで弦をつま弾く2人の童女(次項の「二人童女」)。邪を払うために一心に舞い踊る者(写真なし)もいる。

80,81.「二人童女」栃木県足利市 熊野古墳出土 6世紀 東京国立博物館(80) 足利市ふるさと学習・資料館保管(81)

Img_8122blurps

83.重要文化財「ひざまずく男子」(右)群馬県太田市 塚廻り4号墳出土 6世紀 群馬県立歴史博物館保管

84.重要文化財「ひざまずく男子」(左)茨城県桜川市 青木出土 6世紀 大阪歴史博物館保管

Img_8125blur

 腕輪、冠、籠手(こて)などを着込んで正装し、両手を前面に揃えて顔を上げてひざまずく男子の埴輪。亡き王の遺徳をたたえ、新たな王へ忠誠を誓うために、体を伏せた所作をとる公式的な礼拝場面を表現。

85.「あぐらの男子」群馬県高崎市 綿貫観音山古墳出土 6世紀 群馬県立歴史博物館保管

Img_8132ps

 次の「正座の女子」と対面しておかれた人物埴輪。呪術的な双脚輪状文(そうきゃくりんじょうもん、古墳時代の装飾文様の1つ)の帽子を被り鋸歯文(きょしもん)の入った服を着る。鈴付大帯を腰に締めるので、この人物は王がモデルかも知れない。

86.「正座の女子」群馬県高崎市 綿貫観音山古墳出土 6世紀 群馬県立歴史博物館保管

Img_8133

 下半身には折り目の付いた裳(スカート)をはき正座する。裳をはく女性は大変珍しく、朝鮮半島から伝来した最先端のファッションを着る人物は、高貴な女性であった。

89~94.「家形埴輪」,95.「囲形(かこいがた)埴輪」群馬県伊勢崎市 赤堀茶臼山古墳出土 5世紀 東京国立博物館

Img_8128

 赤堀茶臼山古墳からは堅魚木(かつおぎ、屋根の上に乗っている丸太のような部材)のある主屋を中心に、倉庫や住居の家形埴輪が発見され、豪族居館を再現している。小さな家は囲形埴輪(左端)の中に入り、水にかかわる重要施設と考えられている。

99.「導水施設形埴輪」大阪府藤井寺市 狼塚古墳出土 5世紀 藤井寺市教育委員会

Img_8131_20241118132001

 一辺に2個ずつ囲形埴輪を並べた方形区画を構成し、内部に川原石を敷き詰めた導水施設をかたどった。中央に導水管形の土製品が置かれる。聖水の儀礼または遺骸を洗浄Lた施設と考えられている。

100.「埴輪棺」香川県高松市 本堯寺北1号墳出土 4世紀 東京国立博物館

Img_8134

 埴輪は、棺(ひつぎ)にも用いられている。補強のための帯を巡らせてある。このような専用の棺の他に、円筒埴輪をそのまま転用した棺も見たことがある。

105.「牛形埴輪」(前)大阪府高槻市 今城塚古墳出土 6世紀 高槻市立今城塚古代歴史館

108.重要文化財「猪形埴輪」(中)群馬県伊勢崎市 剛志(上武士)天神山古墳出土 6世紀 東京国立博物館

110.「犬形埴輪」(後) 同上

Img_8160

112.「鹿形埴輪」静岡県浜松市 辺田平1号墳出土 5世紀 浜松市市民ミュージアム浜北蔵

Img_8152

 後ろを振り返ったポーズをとる、いわゆる「見返りの鹿」。大きな角を持った牡鹿で、胴部には焼く時に空気を抜く穴がある。鹿の埴輪は犬や人物とセットになって狩猟場面を構成。後世の武士が愛好した鷹狩のように、狩猟は常に権力と結びついていた。

103.「馬形埴輪」(奥前)群馬県前橋市 白藤古墳群V-4号墳出土 6世紀 前橋市粕川歴史民俗資料館保管

101.重要文化財「馬形埴輪」(中)埼玉県熊谷市 上中条出土 6世紀 東京国立博物館

102.「馬形埴輪」(後)愛知県春日井市 味美ニ子山古墳出土 6世紀 春日井市教育委員会

116.「魚形埴輪」(手前)千葉県芝山町 白桝遺跡出土 6世紀 芝山町立芝山古墳・はにわ博物館保管

115.「鵜形埴輪」(中)群馬県高崎市 保渡田八幡塚古墳出土 5世紀 かみつけの里博物館

107.「水鳥形埴輪」(後)埼玉県行田市 埼玉出土 6世紀 東京国立博物館保管

Img_8155

 奥の列は、金属製の馬具をまとってハレの場に臨む飾り馬である。胸にはいくつもの馬鐸(鐘)をぶら下げており、口にくわえた轡(くつわ) や背中にぶら下げた杏葉(ぎょうよう、飾り板)には鈴が付いている。

114.重要文化財「翼を広げた鳥形埴輪」和歌山市 大日山35号墳出土 6世紀 和歌山県教育委員会

Img_8159_20241118132601

118.「乳飲み児を抱く女子」茨城県ひたちなか市 大平古墳群出土 6世紀 ひたちなか市教育委員会

Img_8137blue

 乳房にしがみついてお乳を飲む赤ん坊に、手をそえて支える。このようなボーズの埴輪は本品が唯一。大きな髷を結い、耳飾りや首飾りを付けて頰紅を差した柔らかな表情は、子への慈愛に満ちている。

119.「犬猿の円筒埴輪」群馬県前橋市 後二子古墳出土 6世紀 前橋市教育委員会

Img_8140

 子を負う母親を表現した。犬に追われ樹上に逃げた親子猿が、円筒埴輪に小像で表現されされている珍しい埴輪。

■エピローグ 日本人と埴輪の再会

 古墳時代が終わると埴輪は作られなくなる。江戸時代に入ると考古遺物への関心が高まり、埴輪がふたたび注目を浴びるようになった。著名人が愛蔵した埴輪、著名な版画家が描いた埴輪、埴輪の人気投票でNo.1になった埴輪など、芸術家や一般市民など幅広い層で埴輪が愛されている。ここでは近世以降、現代にいたるまで埴輪がどのように捉えられてきたかについて紹介。

123.「両手を挙げる女子」茨城県水戸市愛宕町出土 6世紀 東京国立博物館

Img_8145_20241118083101

 島田髷を結い、首飾りを付けてスカート状の広がる服を着た埴輪。下半身には何も装飾がなく、頬紅をさした素朴な愛らしさが魅力。木版画家の斉藤清によって作品「ハニワ」(1952年)のモチーフに採用された。

124.「頭巾をかぶる男子」(左)、125.「首飾をする女子」(右)東京都港区芝 丸山第8号墳出土 6世紀 東京国立博物館

Img_8144ps

 東京タワーのそばの芝公園内の古墳から出土した。1916年(大正5)に発見され、東京帝国大学人類学教室が調査した。この調査がきっかけに武蔵野会(現武蔵野文化協会、武蔵野の自然と歴史・文化を研究する地域史研究団体)が設立した。

126.「帽子をかぶる男子」東京都葛飾区柴又 八幡神社古墳出土 6世紀 葛飾区郷土と天文の博物館

Img_8147t

 千葉県北部を中心に分布する下総型の埴輪に属する人物埴輪で、平板な顔、切れ長の目などの特徴がある。出土した際、映画『男はっらいよ』の渥美清が扮する車寅次郎に似ているとして話題を呼んだ。

127.「笑う男子」群馬県藤岡市 下毛田遺跡出土 6世紀 藤岡市教育委員会

Img_8148ps

 農道工事中に見つかった埴輪。平成30年度(2018年度)に群馬県が「群馬HANI-1グランプリ」を開催し、埴輪の人気投票を行なったところ100体エントリーした中で本品は見事優勝。ほぼ無名だった埴輪が、一躍注目を省びた。

そのほか、1912年(大正元年)には吉田白嶺作の「武人埴輪模型」が明治天皇陵に埋められたとされる。幕末の孝明天皇陵は円墳、明治天皇陵では埴輪が作られたという。

 「平成館」1階の常設展「考古展示室」を観覧。

Img_8170mos 

Img_8172mos

Img_8173mos

 14:35「平成館」を出て、「本館」の常設展を観覧。15:50「本館」を退出。
  

 博物館の「表慶館」では、「ハローキティ展」が開催中(11月1日2025年2月24日)。こちらは、若い女性で混み合っている。

Img_8186mos

 15:55、国立東京博物館を退場。上野恩賜公園の木々は、秋に色付いてきた。

Img_8028jt

 公園では、「酒屋角打ちフェス」が開催中(11月15日~17日)。 入場料は、500円。

Img_8021jt

 個性的な酒屋が集結、日本酒・焼酎・ワインの飲み歩きやお土産のお酒を購入が出来るそうだ。

 16:05上野駅着。

Img_8015jt

 

 ★ ★ ★

 西都原古墳群のある宮崎県西都市出身の本部マサは、「はにわ製作の先駆者」と評される。幼い頃から出土品に関心があり、女学校の頃から埴輪を模倣して焼くという製作活動を始める。やがて1955年に「本部はにわ製作所」を開業し、土産物として販売される埴輪を多数制作した。古墳時代に祭祀や魔除けなどのため、古墳から出土したという程度しか知らず、模造の埴輪を置物として見たり、お土産として貰ったことがあった。

 しかし近年、古代史に関心を持って博物館・資料館、書籍やネットを見ると、本部の時代より研究が進んでいて、いろいろなことが分かってきた。埴輪は、古代の王や王を取り巻く人々の生活の様子や時代背景を映す鏡であり、王の人生の物語を今日に伝えているドラマだ。

 特別展の開催に合わせて、テレビや新聞なども埴輪をテーマに取り上げている。ちょうど特別展を観覧したこの日の夜、NHKテレビ番組 「チコちゃんに叱られる!」で、埴輪のことを放映していた。「ハニワって何?」という質問に、「魔除け」「お墓の石みたいなもの」「子供が健やかに成長できるように・・・」と答える。チコちゃんは、「ハニワは、王様の大河ドラマ」と答える。

 国立東京博物館の河野正訓主任研究員は「王のやって来たことを再現した大河ドラマ」と解説する。古墳時代の初期、3世紀中頃には円筒埴輪を並べて古墳を取り囲み、現実の世界と聖なる場所を区別する境界線の役割があった。円筒埴輪は壺を載せる台で、一説によると壺に飲食物を盛って邪悪な者をもてなし、お引き取り願うというものであったという。

 その後、王が住んでいてその魂が宿ったという家形埴輪や、王が持っていた持ち物、武力を表わす物などの形象埴輪が王の権力を象徴した。5世紀になると、その権力の幅を広げるために誕生したのが、人物埴輪。狩猟、儀式や祭祀、葬儀の場面など、人物で王が行なってきたことをストーリーにして表現するようになったそうだ。

  
 埴輪について、本ブログの関連記事

  「古墳群と足袋蔵のまち行田」 2023/02/02投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2023/02/post-d96e71.html

  「かみつけの里博物館と観音塚考古資料館」 2020/07/07投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2020/07/post-926374.html

  「群馬の古墳めぐり」 2020/07/06投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2020/07/post-efd120.html

  「群馬県立歴史博物館」 2020/07/05投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2020/07/post-dde2b8.html

  「神話のふるさと日向の国ーその1」 2019/05/31投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2019/05/post-4189df.html

2024年11月17日 (日)

国立東京博物館「はにわ展」(その1)

 2024年11月15日(金)、国立東京博物館(平成館)の特別展「はにわ」を観覧する。

 12:25、JR上野駅を出て上野恩賜公園から、横断歩道を渡り「国立東京博物館」の正面ゲート。特別展「はにわ」の観覧料は、大人2,100円(本館、東洋館などの常設展も含む)。

Img_8030

 国立東京博物館の「本館」の前。

Img_8182mos2

  特別展「はにわ」の会場は、国立東京博物館の一番奥の「平成館」。

Img_8034_20241117004401

 全国から埴輪が集結した特別展「はにわ」。「平成館」に12:45入館。

Img_8038

 特別展「はにわ」は、2階、第1・第2会場。

Img_8168

 埴輪の始まりは、今から1750年ほど前。古墳時代の350年間、時代や地域ごとに個性豊かな埴輪が作られ、王をとりまく人々や当時の生活の様子を今に伝える。「挂甲(けいこう)の武人」(群馬県太田市飯塚町で出土)が1974年の国宝に指定から50年を記念し、会期2024年10月16日(水)~12月8日(日)で特別展が開催中。


■プロローグ 埴輪の世界

 会場に入るとまず、東京国立博物館の代表的な所蔵品のひとつである「踊る人々」が展示。この埴輪は、当博物館が創立150周年を機に文化財活用センターとクラウドファンディングなどで寄附をつのり、2022年10月から解体修理を行い、2024年3月末に修理が完了したもの。

1.「踊る人々」 埼玉県熊谷市 野原古墳出土 6世紀 東京国立博物館蔵

Img_8041blur

 初期の埴輪と思いきや、実は時代が新しく、表現の省略が進んだ姿だそうだ。埴輪がもつ独特な「ゆるさ」を象徴する。王の祭祀に際し、死者の復活を願ってて踊る姿であるとする説のほか、近年は片手を挙げて馬の手綱(たづな)を曳(ひ)く馬子の姿であるとする説が有力となっている。

■第1章 王の登場

 古墳からの副葬品は、王の役割の変化で移り変わった。古墳時代前期(3~4世紀)の王は司祭者的な役割であったので、宝器を所有し、中期(5世紀)の王は武人的な役割のため、武器・武具を所有した。後期(6世紀)は官僚的な役割を持つ王に、金色に輝く馬具や装飾付大刀が大王(ヤマト王権)から配布された。このほか各時期において、中国大陸や朝鮮半島と交流関係を示す国際色豊かな副葬品も出土している。

11.国宝「金銅製沓」 熊本県和水町 江田船山古墳出土 5~6世紀 東京国立博物館蔵

Img_8047

 死者のための沓(くつ)で、全長34cm。金銅板を鋲で留めてたもので、朝鮮半島の百済で作られた。

12.国宝「金銅製鈴付大帯」 群馬県高崎市 綿貫観音山古墳出土 6世紀 群馬県立歴史博物館保管

Img_8049

 鈴付大帯は石室右側の壁に沿って安置されていたので、死者の頭部に置かれていた。鈴の付いた帯の出土は国内で3例のみで、他の2ヵ所は奈良の藤ノ木古墳と山王金冠塚古墳(前橋)。長さ105cm、幅9.4cmで、20個の鈴が付いている。

 この他、金象嵌銘大刀や神獣鏡、耳飾りなどの展示あり。

■第2章 大王の埴輪
 
 ヤマト王権を統治していた大王の墓に立てられた埴輪は、大きさや量、技術で他を圧倒している。天皇の系譜に連なる大王の古墳は、時期によって築造場所が変わった。古墳時代前期は奈良盆地に、中期に入ると大阪平野で。倭の五王の陵(みささぎ)としても名高い大阪府の百舌鳥(もず)・古市古墳群は、世界文化遺産に登録された。後期には、継体(けいたい)大王(天皇)の陵とされる今城塚(いましろづか)古墳が淀川流域に築造されている

16.重要文化財「円筒埴輪」 奈良県桜井市 メスリ山古墳出土 4世紀 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館蔵 出典:ウキメディア・コモンズ

Wiki_cylindrical-haniwa_in_sakurai_city

 日本最大の埴輪。メスリ山古墳では、後円部中央の竪穴式石室を取り囲むように多数の巨大な円筒埴輪が立てられた。最大のもので、2mを上回るその高さ、大きさもさることながら、厚みは2cmほどしかない。

23.「水鳥形埴輪」 大阪府羽曳野市 誉田御廟山古墳 (応神天皇陵古墳)出土 5世紀 東京国立博物館

Img_8054

 誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)は「応神天皇陵」とも呼ばれ、大仙陵古墳(仁徳天皇陵、大阪府堺市)に次ぐ全国第2位の規模の巨大古墳。「水鳥形埴輪」の高さは、61.8cm。

25.「家形埴輪」と26.「盾形埴輪」 大阪府高槻市 今城塚古墳出土 6世紀 高槻市立今城塚古代歴史館蔵

Img_8056
 「家形埴輪」は、3つのパーツを組合せてつくられた巨大な家形埴輪(高さ170cmの日本最大)で、屋根の上部と床下の高床部分が別づくり。屋根の上には現代の神社建築にも通じる千木(ちぎ)や鰹木(かつおぎ)などの部材がのせられており、大王にふさわしい建物であることがわかる。
 古墳時代の盾は、主に革(かわ)や木などで作られていたが、「盾形埴輪」はそれを粘土でかたどった盾面部分が円筒部分に取り付けられている。

27.「捧げ物をする女子」と28.「挂甲の武人」 大阪府高槻市 今城塚古墳出土 6世紀 高槻市立今城塚古代歴史館

Img_8055

 「挂甲の武人」は、今にも刀を抜こうとする瞬間。衝角付冑(しょうかくつきかぶと、前後に少し長い卵形の冑 )をかぶり、籠手(こて)や手甲まで着込んだ完全武装の埴輪である。今城塚古墳では祭祀区を中心に多くの武人の埴輪が置かれ、大王を死後も護る役割が与えられていた。

■第3章 埴輪の造形

 日本列島の幅広い地域で埴輪は作られた。地域ごとの習俗の差、技術者の習熟度、大王との関係性の強弱によって、表現方法に違いがある。その結果、各地域には大王墓の埴輪と遜色ない精巧な埴輪が作られる一方で、地域色あふれる個性的な埴輪も作られた。

29.「特殊器台・特殊壺」(左)岡山県新見市 西江遺跡出土 2〜3世紀 岡山県立博物館保管

30.「朝顔形円筒埴輪」(右)奈良県天理市 東殿塚古墳出土 3〜4世紀 天理市教育委員会 

Img_8059

 「特殊器台・特殊壺」は、弥生時代後期後葉(2世紀)に吉備地方(岡山県)で生まれ、古墳時代前期には衰退した。華麗な文様を施し赤く塗るなどして装飾性に富んだ筒型・壺型の土器。埋葬祭祀に使用された。これらの土器類が発達・変遷して、円筒埴輪や朝顔形埴輪が生れたと考えられている。

 「朝顔形埴輪」は、広義の円筒埴輪に含まれる。器台の上に壺を載せた形状をしており、上部は口縁部が大きく朝顔の花が開いたようにラッパ状に広がっている。

31.「鰭付楕円筒埴輪」 奈良県天理市 東殿塚古墳出土 3〜4世紀 天理市教育委員会

Img_8061_20241117115201

 円筒型埴輪に鰭(ひれ)がついたもの。よく見ると前後に船の絵が線刻されている。これらの船の絵は、後に出現する「舟形埴輪」と多くの表現が共通しているという。

33.国宝「円筒埴輪」 奈良県天理市 東大寺山古墳出土 4世紀 東京国立博物館

Img_8060_20241117115201

 「円筒埴輪」は、墳丘の上に並べられた土管状の形態をしたもので、埴輪の中で一番早く登場した。れとは別種の埴輪として形象埴輪がある。

40.重要文化財「子持家形埴輪」 宮崎県西都市 西都原古墳群出土 5世紀 東京国立博物館

Img_8065

 中心の大きな家(親)の周りに小さな建物(子)が4つ配置されているのは極めて珍しいという。中央の家は竪穴式住居、周りの建物は高床式建物となっている。

43.模造「船形埴輪」 原品:三重県松阪市宝塚1号墳出土 5世紀 九州国立博物館保管

Img_8071

 高い側板と波切板で船底を深くし、外洋を航行できる。櫂(オール)受けや隔壁の表現は繊細で、船体中央には権威を象徴する蓋(きぬがさ)と呼ばれる日傘、王のもつ杖とされる威杖(いじょう)が2本、威厳を示す大刀(たち)が華々しく飾る。死者を乗せて冥土へ渡る船だろうか。

46.「馬形埴輪」 三重県鈴鹿市 石薬師東古墳群63号墳出土 古墳時代・5世紀 三重県埋蔵文化財センター保管

Img_8073

 馬は、古墳時代に朝鮮半島から渡来して急速に普及し、農耕や軍事、儀式などに用いられた。馬形埴輪の大半は、数多くの馬具を身に付けた「飾り馬」。この埴輪は、頭部の表現が独特で、被りものか、たてがみを垂らした状態を表したと思われ、全国的に見ても例がない。

47.重要文化財「旗を立てた馬型埴輪」 埼玉県行田市酒巻14号墳出土 6世紀 行田市郷土博物館

Img_8074

 戦闘用の馬の鞍から筒のような蛇行状の鉄器を付けて、旗竿を装着している。旗を立てた表現は日本で唯一の例となる。

48.重要文化財「天冠をつけた男子」 福島県いわき市 神谷作101号墳出土 6世紀 磐城高等学校保管

Img_8064blur

 美豆良(みずら)を肩まで垂らしたヘアスタイルに、両手を前に捧げあぐらをかいて座る男性。三角形の冠(天冠)のひさしの先端には7つの鈴がゆれている。左腰には、大刀と弓を射る時の防具である鞆(とも)を下げた盛装。衣服や冠、頬紅をつけた端正な顔だち。王の葬祭に際して、威儀を正して霊前に拝礼する若き後継者の姿を表現しているという。

50.「あごひげの男子」 伝・茨城県出土 古墳時代 6世紀 東京国立博物館

Img_8080blur

 長い髭を生やし、先の尖った帽子をかぶる。千葉県北部から茨城県南部にかけて見られる地域色豊かな埴輪。高さが173cmもある人物埴輪としては最大級の大きさ。

52.重要文化財「武装石人」 福岡県八女市 鶴見山古墳出土 6世紀 岩戸山歴史文化交流館保管

Img_8083blur

 甲冑で身を固める武人で、腕を水平に広げ、近づくものを退ける姿勢をとる。阿蘇溶結凝灰岩で出来た埴輪で、重厚感にあふれる。筑後や熊本県北部の「石人」の分布は、この地域を支配した「筑紫君一族」勢力範囲を示しているという。

■第4章 国宝 挂甲の武人とその仲間

 埴輪として初めて国宝となった「挂甲の武人」には、同じ工房で作成された可能性も指摘されるほど、兄弟のようによく似た埴輪が4体がある。そのうちの1体は、現在アメリカのシアトル美術館が所蔵しており、今回5体の「挂甲の武人」を史上初めて一堂に集めて展示。

55.国宝「挂甲の武人」(左) 群馬県太田市飯塚町出土 6世紀 東京国立博物館蔵 出典:ウキメディア・コモンズ

61.彩色復元「挂甲の武人」(右) 製作:2023年 文化財活用センター 原品は、上記の55.

Wiki_haniwa_warrior_in_ota_city Img_8099t

 国宝「挂甲の武人」には、表面に色が塗られていた痕跡が各所に残っている。2017(平成29)年~2019(平成31)年に実施した解体修理に際し、詳細な分析を行った結果、白、赤、灰の3色が全体に塗り分けられていたことがわかった。このたび実物大で彩色復元を行い、製作当時の姿を展示する。

56.重要文化財「挂甲の武人」(左) 群馬県太田市成塚町出土 6世紀 (公財)相川考古館蔵

57.重要文化財「挂甲の武人」(右) 群馬県太田市世良田町出土 6世紀 天理大学附属天理参考館蔵

Img_8091t Img_8096blurt

58.「挂甲の武人」(左) 群馬県伊勢崎市安堀町出土 6世紀 千葉・国立歴史民俗博物館蔵

59.「挂甲の武人」(右) 群馬県太田市出土 6世紀 アメリカ・シアトル美術館蔵

Img_8092t Img_8095t

60.国宝「挂甲の武人」 群馬県高崎市 綿貫観音山古墳出土 6世紀 群馬県立歴史博物館保管

Img_8102t Img_8104tpsblur

 2020年(令和2年)に指定されたもうひとつの国宝「挂甲の武人」。突起の付いた特徴的な冑をかぶり、左手で弓を持ちう右手は大刀の柄頭に触れている。甲冑を着込んだこの武人は、身なりから被葬者自身を表わした可能性もあるという。また背中側には、完全には残っていないが靫(ゆぎ)という矢の入れ物が付いていたと考えられ、復元されている。

 この後、■第5章 物語をつたえる埴輪 以降は、本ブログ記事「国立東京博物館「はにわ展」(その2)」に続く。

 

 ★ ★ ★

 埴輪の最高傑作「挂甲の武人」(群馬県太田市飯塚町出土)は、1958年(昭和33年)重要文化財に指定された後、1974年に埴輪で初めて国宝に指定された。しかし、同じ工房で製作されたと考えられ、「きょうだい」と称される4体が国内、アメリカに存在していた。今回、初めて5体の「挂甲の武人」が勢ぞろいした。今回の特別展の目玉展示である。

 「挂甲の武人」は、小札(こざね)と呼ばれる小札状の鉄板を重ねた甲(よろい)を身に着け、左手に弓、右手に大刀を持つ。背負っている靫(ゆぎ)には矢を入れている。「挂甲の武人」の埴輪のほとんどは、他の埴輪に比べて顔以外は写実的な作りをしており、不思議に思っていた。最近、身分の高い権力者か埋葬された人物がモデルとされているためだと知り納得できた。

 2020年(令和2年)に群馬県高崎市の綿貫観音山古墳出土の埴輪群が国宝となるまでは、群馬県太田市飯塚町出土の「挂甲の武人」は、唯一の国宝埴輪であった。群馬は「埴輪王国」と呼ばれ、古墳時代の東国文化の中心地であったことが、改めて認識した。

2024年7月 2日 (火)

八王子博物館ー桑都物語

 2024年6月28日(金)八王子博物館と八王子城跡に行く。

 

 9:50八王子駅南口近くの駐車場へ入る。

 

●八王子博物館 10:05~10:55

 「桑都日本遺産センター  八王子博物館」は、JR八王子駅南口(八王子市子安町4丁目) の「サザンスカイタワー八王子」 3階にある博物館。2021年(令和3年)6月にオープン。愛称:はちはく。

 東京都内唯一の「日本遺産」として認定されたストーリー「霊気満山 高尾山~人々の祈りが紡ぐ桑都物語」と八王子の歴史・文化を紹介。

 八王子博物館のエントランス。入館無料、ボランティアガイドに案内してもらう。

Img_7413

Img_7410

 テーマ展示ゾーンでは、八王子の歴史文化と日本遺産のストーリーを4つのテーマ➊~➍を紹介。

➊霊気満山 高尾山・・・歴史、信仰、自然や観光・行事。いろいろな角度から高尾山の魅力を紹介。

 高尾山は、動植物の玉手箱ームササビは高尾山の人気者。

Img_7380

 高尾山は、戦国武将の祈りの山、戦略上も重要な山。江戸時代は大名も庶民も信仰した山。

Img_7383_20240701232601

➋滝山城と八王子城・・・北条氏照(うじてる)の居城、「滝山城」と「八王子城」を紹介。

 氏照は、北条氏の領国支配と勢力拡大に重要な役割を果たした人物。

Img_7381

 滝山城跡の投射模型。

Img_7387

 八王子城跡の出土品ー北条氏照は、茶の湯や生け花をたしなむ戦国大名だった。

Img_7391

 八王子市の名は、深沢山に祀られている「八王子権現」(八王子神社)に基づいている。下の「八王子」の文字を大きく鋳出した扁額。

Img_7389ps

➌八王子のまちと人びと・・・甲州道中の宿場町として発展した八王子宿。まちの様子やそこに住む人々、幕府に仕えた「千人同心」について紹介。

 街道沿いに旅籠や店が立ち並び、旅人を迎えた。八日市宿の風景。

Img_7395

 「千人同心」は元武田氏の家臣団。武田氏滅亡後は徳川家康に召し抱えられ、軍事面で支えた。家光死後は軍事動員がなくなり、日光火の番を主な任務とした。身分はあくまで百姓だが、幕末に入ると幕府直属軍として再び軍事面で支えた。

 「千人同心」の郷土調練。

Img_7392

 「千人同心」に関する品々 -韮山笠、日光火の番の鳶口と手鎌。

Img_7394ps

➍桑都と織物・・・古くから養蚕や機織りが盛んで「桑都」と呼ばれてきた。まちの発展を支えた織物業や、現在に伝わる伝統芸能などを紹介。

 八王子は、織物のまち。織物工場からは、織機の音が聞こえた。

Img_7396

 「八王子祭り」では、真夏の甲州街道を山車や神輿が彩る。獅子舞などの個性豊かな伝統芸能が受け継がれている。

Img_7399

➍交流コーナー・・・車人形や、機織りを体験できる。

 車人形と車仕掛けの箱に人形の遣い手が腰掛けて、前後左右に動けるようにし、両手両足を用いて人形をあやつる。

Img_7404

 車人形の使い方の解説ビデオ。

Img_7407

 明治時代に実際使われていた高機(たかばた)。

Img_7402

 八王子博物館から八王子市滝山町にある東京都道169号淵上日野線(新滝山街道)の道の駅「八王子滝山」へ移動。

●道の駅八王子滝山 11:40~12:30

 2007年(平成19)4月開業。東京都内では、唯一の道の駅。

Img_7419

 「道の駅八王子滝山」で昼食。降雨が強いため「滝山城跡」の散策は中止。

 次に、「八王子城跡ガイダンス施設」へ移動する。本ブログの記事「八王子城趾」へ続く。

 

 ★ ★ ★

●午頭天皇(ごずてんのう)

 牛頭天王は、日本における神仏習合の神。釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされた。京都東山祇園や播磨国広峰山(ひろみねさん)に鎮座して祇園信仰の神(祇園神)ともされ「感神院祇園社」(現在の「八坂神社」にあたる)から勧請されて全国の祇園社、天王社で祀られた。牛頭天王は、3尺の牛の頭をもち、また、3尺の赤い角もあったそうだ。

 北条氏照が城を築いた城山(しろやま)は、かつては深沢山(ふかざわやま)呼ばれた。この山に牛頭天王の8人の王子神である「八王子権現」(八王子神社)を祀り、「八王子城」と名づけた。 この城名が市名の由来であるという。

●桑都八王子

 「桑都」(そうと)とは八王子を指す美称。古くから養蚕や織物が盛んであったことを示している。「桑都」と呼ばれる由縁は、西行が詠んだという短歌

 浅川を渡れば 富士の雪白く 桑の都に青嵐吹く

にあるという。この歌は、江戸時代後期の随筆に記録されており、このころ栄えてきた八王子宿の織物市のにぎわいを背景に「桑都」と言い習わされてきた。日本で「桑都」と称されるのは八王子だけ。ちなみに桐生市は、「織都」という雅称がある。

 戦国時代には北条氏および徳川氏から軍事拠点として位置づけられて城下町となり、江戸時代には甲州街道の宿場町(八王子宿)として栄えた。絹織物産業・養蚕業が盛んであったが、特に明治以降は山梨県や長野県、群馬県(桐生市)、栃木県(足利市)などから鉄道により八王子に生糸が集積され、絹織物に加工された。絹織物や生糸は横浜鉄道(現在のJR横浜線)で横浜港に輸送され、当時の貴重な外貨獲得源として世界中に輸出された。

 明治初期までの八王子は、横浜とのつながりが強い。実際、1893年までは神奈川県に属していた。東京府(現・東京都)に移管された理由は定かではない。神奈川県知事が東京府へ譲渡したとも、東京府の水源となっている多摩川流域が神奈川県に属することは管理上で不都合が生じたとも。また1889年に新宿駅―立川駅で開業を果たした甲武鉄道(現・JR中央線)は、半年も経たないうちに八王子駅まで延伸。八王子から東京方面へと人と物が流れるようになり、東京との経済的な結びつきは強まっていった。

 八王子市は、23区を除く東京都内の全自治体のなかで最も人口が多く、現在およそ60万人。東京市(現在の東京23区)に次いで2番目に早く市制を施行した。面積は奥多摩町に次いで、東京都の市区町村で2番目に広い。

2024年5月11日 (土)

川越市立博物館

 2024年3月26日(火)、大雨の中、「川越市立博物館」(埼玉県川越市)へ行く。

 

 もともと天覧山・高麗峠ハイキング(埼玉県飯能市)に参加予定していたが、雨のために中止し、目的地を変更。

 13:00川越駅東口。13:11市内循環バス「川越シャトル」に乗車、13:21博物館バス停着。

 13:30~15:20「川越市立博物館」見学(入館料200円)。

Photo_20240423235901

◆特別展示室

 3月16日(土)から5月12日(日)、 館蔵資料公開「職人の道具」を公開中。

 博物館の収蔵品のなかから職人に関する道具や職人の手による製品を中心に展示。

 ファイルダウンロード 新規ウインドウで開きます。令和5年度館蔵資料公開チラシ

20240222_r5kanzou

◆常設展示室

 常設展示パンフレット(写真をクリックすると拡大表示)

Photo_20240510072601

●〈近世〉小江戸川越

 近世展示室。中央に天海僧正座像が見える。

Img_6652

 「木像 天海僧正座像」(複製) 県指定有形文化財 「喜多院」所有。

Photo_20240511002501

 天海僧正は、徳川家康の側近として江戸幕府初期の朝廷・宗教政策に深く関与した。1599年(慶長4年 )、第27世住職として小仙波村(川越市小仙波町)の「無量寿寺」に入寺し、寺号を「喜多院」と改めた。1643年(寛永20年)に108歳で没したとされる。

 「江戸図屏風」は、3代将軍・徳川家光の功績を称えるために作られたもので、江戸城と川越城が描かれている。江戸城には将軍、川越城には老中などの重鎮が住み、両地は密接につながっていたという。

Img_6656

 幕末期の様子を復元した城下町模型(1/500) 。上左が川越城、上右は喜多院。 

Img_6655

 新河岸(しんがし)の舟運

Img_6658

 高瀬舟模型(縮尺1/16)

Img_6661

 新河岸川は荒川に注ぎ、やがて隅田川となる。江戸時代初期から昭和始めまでの約300年間、川越と江戸を結ぶこの流れを数多くの舟が往来した。当初は年貢米の輸送を主としたが、時代が進むにつれて人や、日用品などの物資が行き交うようになった。また、川越と江戸を強く結びつける役目を果たし、川越の江戸の文化はこの舟運によってもたらされた。

●〈原始・古代〉川越のあけぼの

 川越を中心とした発掘調査などにより、縄文時代から平安時代に至る原始・古代の生活文化などを紹介。

Img_6663

●〈中世〉武士の活躍と川越

 平安末期から戦国期に至る川越地方は、河越氏、上杉氏、太田氏、後北条氏など群雄が活躍する舞台だった。

 「銅造 阿弥陀三尊懸仏」(複製) 県指定有形文化財 古尾谷八幡神社所有 鎌倉時代後期の大型懸仏(かけぼとけ)。

Img_6675

 「木像 薬師如来座像」(複製) 県指定有形文化財 古谷本郷「灌頂院」所有 12世紀末葉から13世紀初頭に製作。

Img_6676_20240510072601

 古尾谷八幡神社は1184年、源頼朝によって京都石清水から勧請されたとの由緒をもつ。

●〈近代・現代〉近代都市川越の発展

 蔵造りの町並みは、近代都市川越の象徴。

Img_6650

 大火の原因となった北風から家を守るため、北側の壁には窓がない。

Img_6648

●〈民俗〉川越の職人とまつり

 蔵造りに大きくかかわった職人の技術と習俗を展示。

 地面を固めて台づくり。

Img_6645

 棟上げ式

Img_6646

 原寸大に復元した蔵造り模型。荒打ちから黒漆喰までの壁づくりの工程が分かる。

Img_6647

 「川越まつり」の山車模型。

Img_66701Img_66702

 「川越氷川祭」は、毎年10月第3日曜日とその前日の土曜日に行われる「川越氷川神社」の祭礼、一般には「川越まつり」と呼ばれている。「常陸國總社宮大祭」(石岡のおまつり)、「佐原の大祭」と並び、「関東三大祭り」の一つとも称される。2日間で80万人以上の人出を数える。

 360年以上にわたり続いてきた祭事で、国の重要無形民俗文化財に指定。また2016年にはユネスコの無形文化遺産に「山・鉾・屋台行事」の1つとして登録された。
 

 次に予定していた「川越城本丸御殿」見学は、時間がなくて割愛。

 15:25博物館バス停発。15:40川越駅東口バス停着。15:50~17:40、焼鳥居酒屋「ビッグ」で打ち上げ。

Img_1872

 17:45川越駅で解散。この日は、本降りの雨だった。

 

 ★ ★ ★

 「川越市立博物館」は、市制60周年記念事業の一つとして1981年昭和56年)より準備を進めて建設されたもので、 1990年平成2年)3月に開館、地下1階地上3階建。2002年12月には隣接して「川越市立美術館」が開館した。 川越市の考古・歴史・民俗等を中心に扱う人文系総合博物館。

 川越に蔵造りの町並みが形成される切っ掛けは、1893年 (明治26年)の大火。この大火災は、川越商人たちの防火対策への意識の変革をもたらした。川越商人は江戸時代以来、新河岸川の舟運などによる江戸との商いで富の蓄積があり、復興のための財力は十分にあったようだ。同じ惨事を繰り返さないよう、建物そのものを防火建築にすることにした。

 大火の際に焼け残った1軒の家屋「大沢家住宅」が全て耐火建築の蔵造りであったことから、商人たちは競ってコスト的には高く付くものの蔵蔵造り建築による店舗(店蔵)を建てた。この頃、東京では既に耐火建築として、レンガ造りや石積みの近代的な建物が造られていたが、川越商人たちは伝統的な蔵造り建物を選択したという。

 本大火後2~3年に、200棟を上回る蔵作りが建設され、当地のシンボルともなった。当地の蔵造りは赤レンガを地下室や塀に用いており、その色調に合わせて黒漆喰をふんだんに用いているのが特色。黒漆喰は白漆喰より高額で維持費もかかるが、その結果他都市とは異なる独特な蔵作りの家並を形成することになった。

2024年3月16日 (土)

菅谷城跡 ー 比企城館跡群

 2024年2月25日(日)、比企城館跡群の一つ「菅谷城跡」(埼玉県嵐山町)に行く。
 

 「菅谷城」(すがやじょう)は、武蔵国比企郡(埼玉県比企郡嵐山町菅谷)にあった城。「菅谷館」(すがややかた)とも呼ばれる。鎌倉幕府の有力御家人として知られ、武蔵武士の典型的人物で武将の鑑(かがみ)として尊敬されてきた畠山重忠の居館。1973年(昭和48年)、居城跡は、国の史跡に指定された。館跡には埼玉県立「嵐山史跡の博物館」が設置されている。2017年(平成29年)4月、「続日本100名城」(120番)に選定された。

 畠山氏は、重忠の父・畠山重能の代から大里郡畠山荘(現在の深谷市畠山)の荘司であり、重忠も当初は同荘内に館を置いていたが、やがて鎌倉街道の要衝にあたる菅谷の地に移って館を構えたのが始まり。

 8:59、東武東上線の武蔵嵐山駅に到着。

Img_6557

 武蔵嵐山駅でボランティアガイドと合流し、駅西口から歩いておよそ1Kmほどの「菅谷城跡」に向かう。朝から曇りだが、このあと雨の予報が心配。

 9:30、「菅谷城跡」の「搦手(からめて)門」跡に到着。

 国道254号線から見る「菅谷城跡」の土塁と搦め手門 出典:Googleマップ 

Sugaya_joshi

 「菅谷城跡」内にある県立「嵐山史跡の博物館」の入り口。

Img_6561

 9:35入館(入館料100円)。エントランスに「菅谷城跡」のほか、「杉山城跡」、「松山城跡」、「小倉(おぐら)城跡」の「比企地区の城館跡群」の立体模型や写真が展示。

 「畠山重忠」のロボット(何故か動かない?)。

Img_6562

 「重忠の参陣」の展示。

Img_6576

 源頼朝が房総半島で勢力を回復して鎌倉を目指して長井の渡し(現在の横須賀市)に達したとき、それまで平家方に属していた畠山重忠は、源氏の白旗を掲げて頼朝に参陣した。1180(治承4)年、重忠は17歳。父が平家に仕えていたため、平家軍に加わっていたが、在京中の父・重能に代わり、河越氏、江戸氏らの同族や一族郎党を率いて頼朝の傘下に入り、頼朝の忠実な御家人となった。 

 企画展「武蔵武士の食と信仰 -食べて 祈って 戦って-」1月13日~3月3日)が開催中。

Img_6575

 武蔵武士の食の風景を紹介。

Img_6567

 「第1章 掘り出された食」の展示。

 比企地域を中心とする中世の遺跡の出土物から、煮炊きに関する道具や食器、食材など、食に関するものを紹介。

Img_6568

 「2章 食を得る」の展示。

 食材を得る手段として、狩猟や農林漁業、市での購入や領内からの貢納などがあった。それぞれの場面の美術工芸品や古文書を紹介。

 犂先(すきさき)鋳型(金井遺跡B区-坂戸市) 出典:当博物館のホームページ 犂の説明図(上の右図)の出典は、「デジタル大辞泉」。

R5kikakuten_2_2Suki_setsumeizu112774

 犂とは、牛や馬に引かせ、畑や田を耕す農具。犂の先端の鉄製部分が犂先。

 「3章 食の風景」の展示。

 鎌倉時代の料理に関する記録や、武士が食事の時の行儀を記した家訓など資料を展示。また復元写真や絵画資料などで武士の食の風景を紹介。

Img_6572

 「絹本着色酒飯論絵巻模本」(群馬県立歴史博物館蔵) 出展:当博物館のホームページ

R5kikakuten_3_1

 「第4章 食と信仰」の展示。

 武士は、合戦に赴き殺生を生業としていたが、さらに食においても肉食も得ていた。鎌倉時代の武蔵武士たちが殺生をどのように贖罪していたのか、仏教や神道といった信仰を紹介。

 「銅造阿弥陀三尊像懸仏」(古尾谷神社蔵で県指定文化財)は、古尾谷神社(川越市)の神宝として秘蔵されていた懸仏(かけぼとけ)。

Img_6573

 『吾妻鏡』『今昔物語集』などの古文書。

Img_6571

 10:15、博物館を出て、城跡内をめぐる。「嵐山史跡の博物館」の建物。

Img_6592

 しばらくすると雨が降り出す。

Img_6590

Img_6591

 10:30、竹筋コンクリート製の畠山重忠の像

Img_6595

 菅谷城の二ノ郭(くるわ)の土塁上に建っている。1929年(昭和4年)に造られ、鎌倉の南の方角の空を仰いでいる。2011年度(平成23年度)に嵐山町の文化財に指定された。 

 この辺りが本郭(ほんぐるわ)跡とされている。奥まった場所で、土塁と空堀に囲まれ、南側は都幾川の絶壁。

Img_6612

 1205年(元久2年)、北条氏の策略により畠山重忠が武蔵国二俣川(現・横浜市旭区)で戦死した。その後は、畠山の名跡を継いだ足利義純の子孫に伝えられたというが、15世紀後半に至るまでの詳細は不明だという。

 

 11:05「安岡正篤記念館」の前を通過。

Img_6614

 1970年に安岡正篤氏が昭和初期に創立した「日本農士学校」の跡地に、「財団法人郷学研修所」が設立。2012年に「公益財団法人 郷学研修所・安岡正篤記念館」が正式名称となった。「日本農士学校」の精神を継承しつつ、郷学の振興を図ると共に、今の世にこそ必要とされる安岡正篤の教学・人間学を後世に伝えるために活動しているそうだ。

 広い敷地の左手の平屋の小さい建物のほうが記念館らしいが、ちょっと入りにくい。

Img_6616

 11:15、昼食のために「国立女性教育会館」に入館。

Img_6619

 「国立女性教育会館」(NWEC)は、文部科学省所管の独立行政法人が運営する研修施設。1977年に「国立婦人教育会館」として宿泊棟も備えた研修施設の運営をし、地域活動の主婦リーダーの育成を主な事業として設立されたという。広大な敷地は、元々は「日本農士学校」だった。建物も50年近くなり老朽化し、あまり利用されてないようだ。国が嵐山町に譲渡、または撤去を提示しているという。

Img_6622

 館内のエントランス。

Img_6623

 11:30、教育会館のレストランで、日替りランチ(とんかつ定食880円)。12:30、教育会館を出て、武蔵嵐山駅まで歩いて戻る。

 次の予定地、戦国期城郭の最高傑作とされる国指定史跡「杉山城跡」(嵐山町杉山)は、東口から約4.4km(徒歩で約50分)。雨のため中止となった。

 

 ★ ★ ★

●嵐山町(らんざんまち)

 埼玉県の中央、比企郡に属する。人口は約1万8千人。「武蔵の小京都」と称され、全国京都会議に加盟。昭和初期には、現在の「嵐山渓谷」が京都の嵐山(あらしやま)の風景に似ていたことから、「公園の父」といわれる本多静六(林学者、造園家、旧名;折原静六)により「武蔵嵐山」と命名され、評判になって多数の観光客が訪れた。

 平安時代末期は、武将・源義仲や畠山重忠ゆかりの地。江戸時代には江戸と上州を結ぶ川越児玉往還(川越道)の菅谷宿として栄えた。1889年(明治22年)、比企郡菅谷村が成立。1955年(昭和30年)比企郡七郷村と新設合併し、改めて菅谷村が発足。1967年(昭和42年) 町制施行で嵐山町となる。日本の国蝶・オオムラサキの生息地としても有名。

●国指定史跡「比企城館跡群」

 埼玉県比企地方には現在、69ヵ所の城館跡が確認されている。その多くが15世紀から16世紀にかけて築城された。2007年(平成19年)、文化審議会から文科大臣に答申が出され、「杉山城跡」が国指定史跡になることが決まった。指定の名称は『比企城館跡群』で、埼玉県の比企地方でで、既に国指定されている「菅谷館跡」に「杉山城跡」、「松山城跡(吉見町)」、「小倉城跡(ときがわ町・嵐山町・小川町)」が加わり、4つの城館跡の広域指定された。

 比企地方は埼玉県のほぼ中央に位置していて、東松山市、比企郡滑川町、嵐山町、小川町、川島町、吉見町、鳩山町、ときがわ町にまたがる地域。秩父山地から関東平野に突き出るように比企丘陵があり、東側は位置の側や越辺川が形成した沖積地が広がる。鎌倉〜戦国時代には、鎌倉と上野国(群馬県)を結んでいた鎌倉街道が通る交通の重要ポイントで、また河川を利用した物流でも重要な地域だった。

●安岡正篤(まさひろ)

 1898年(明治31年)大阪市生まれ、(大正11年)東京帝国大学法学部政治学科卒業。昭和2年「金鶏学院」、昭和6年「日本農士学校」を設立、陽明学を基礎とした東洋思想の研究と後進の育成に努める。昭和24年「師友会」を設立、政財界のリーダーの啓発・教化に努め、その精神的支柱となった。東洋古典の研究と人材育成に尽力する一方で、体制派「右翼」の長老としても政財官界に影響力を持ち続けた。

 安岡正篤(1971) 出典:ウキメディア・コモンズ

1971yauoka_masahiro

 佐藤栄作首相から中曽根康弘首相に至るまで、歴代首相の指南役を務め、さらには三菱グループ、東京電力、住友グループ、近鉄グループ等々、昭和を代表する多くの財界人に師と仰がれた。1983年(昭和58年)、愛人の細木数子との再婚騒動があったが、12月に逝去。死後に婚姻無効が調停されている。昭和20年8月15日、昭和天皇の「玉音放送」で発せられた「終戦の詔勅」の草案作成にかかわり、また「平成」の元号の考案者でもあったという。

●国立女性教育会館

 文部科学省所管の独立行政法人で、宿泊研修施設を運営する。広大な敷地(東京ドーム5つ分、23ha)は元々は、農村の指導的人材の養成を目的として設立された「日本農士学校」だった。1977年に「国立婦人教育会館」として宿泊棟も備えた研修施設の運営をし、地域活動の主婦リーダーの育成が主な事業として、設立された。残りの部分は「日本農士学校」設立者である安岡正篤を後世に伝える「郷学研修所・安岡正篤記念館」となった。

 1999年以降の目的は、男女共同参画社会の形成の促進。具体的には、女性教育指導者その他の女性教育関係者に対する研修、女性教育に関する専門的な調査及び研究等を行う。本館に男女共同参画および女性・家庭・家族に関する専門図書館である「女性教育情報センター」、女性教育や男女共同参画施策等に関わった女性団体や女性の史・資料の収集・整理・保存・提供を行う「女性アーカイブセンター」がある。

2020年7月 7日 (火)

かみつけの里博物館と観音塚考古資料館

 2020年6月28日(日)、群馬県の古墳めぐりで、高崎市の「かみつけの里博物館」と「観音塚高校資料館」を観覧する。

 

 午前中に「群馬県立歴史博物館」(高崎市綿貫町)を観覧した後、14:40同市井出町の 「かみつけの里博物館」に到着。
 

●かみつけの里博物館(高崎市井出町) 14:40~15:00

Img_2742mos

 「かみつけの里博物館」の周囲は、広大な「上毛野はにわの里公園」となっていて、園内には「八幡塚古墳」、「双子山古墳」、土屋文明文学館、はにわ工房などの遺跡や施設がある。

 《エントランスの展示》

 保渡田古墳群「八幡塚古墳」の舟形石棺の実物大模型。

Img_3286

 石をくりぬいて作り、直方体よりも両端が斜めに切られた形状で舟に似ている。運搬のための縄かけの突起を備える。内部は魔除けにため赤く塗られていた。実物は「八幡塚古墳」の後円部の地下室に展示されている。古墳時代の石棺は、長持形石棺、舟形石棺、竹割型石棺、家形石棺、箱形石棺などがあった。

 床に描かれた榛名山の二ツ岳火口の噴火地図。赤城山と同様に榛名山という山は、いくつかの峰の総称で、同名の峰はない。

Img_3285

 埴輪円筒棺は、円筒埴輪を棺(ひつぎ)に転用した墓。石はすべて川原石。

Img_3262

 埴輪円筒棺の多くは、古墳の近く(墳丘裾部,または周濠外堤など)から発掘されるので、古墳の被葬者の従属的な地位を示す追葬用として使われたと考えられている。

 竪穴系小石棺は、榛名山の噴火でできた石を使用。

Img_3263

 この石棺の多くは古墳から離れた場所で発掘され、被葬者の身分は低いと考えられている。小さいため、子供の墓? 骨にしてから埋葬?

 1981年上越新幹線建設で発掘された「三ツ寺Ⅰ遺跡」」(高崎市ミツ寺町)の発掘当時の模型。右手が北の方角。

Img_3265

 左右に走る県道10号線(前橋安中富岡線)と、左から右上に伸びる工事中の上越新幹線が交差する付近が遺跡。居館跡は内側に1mの盛土が施された一辺約86mの方形で、周囲を幅30~40m、深さ約3~4mの濠を巡らせ、更に濠の内縁には石垣が築かれていた。

 

《常設展示室》 次の9つのコーナーで構成されている。

 ①よみがえる5世紀 ②王の館を探る ③王の姿を探る ④王の墓を探る ⑤広がる小区画水田 ⑥火山灰に埋もれたムラ ⑦海の向こうからきた人たち ⑧埴輪に秘められた物語 ⑨埴輪の人・動物・もの。

 常設展示室内の様子。

Img_3282

 ①よみがえる5世紀/榛名山東南麓の古墳社会復元模型(上の写真の中央部)。

 榛名山の2度にわたる火山災害に遭った東南麓には、東日本有数の勢力を誇る豪族(王)の本拠地があった。1500年前、豪族の館である「三ツ寺I遺跡」と周囲の住居、保渡田古墳群などが再現されている(縮尺1/500)。写真の右上の方が、榛名山。

Img_3281

 ②王の館/「三ツ寺Ⅰ遺跡」復元模型。

 日本で最初に発見された古墳時代の豪族の館跡(縮尺1/100)で、日本最大級。上越新幹線建設の際に発掘、今は新幹線や道路の下に埋め戻されている。 

Img_3266 

 日本を代表する豪族(王)の居館「三ツ寺Ⅰ遺跡」と「北谷(きたやつ)遺跡」(高崎市間引町)から出土した遺物群。

Img_3268 

 「北谷遺跡」は、「三ツ寺Ⅰ遺跡」と同時期、同規模の豪族館跡で、2000年に民間開発の時に発掘された。

 ③王の姿を知る。

 全国の5世紀の前方後円墳分布図が展示。三ツ寺の王や上毛野地域が、日本、また東アジアの中でどのような位置を占めていたのかを探る。

 ④王の墓を知る。

 この博物館に隣接する保渡田古墳群の「八幡塚古墳」の築造時の風景。葺石(ふきいし)の設置、後円部へ石棺の搬入、窯場から円筒埴輪の搬入の様子を再現。保渡田古墳群は、榛名山東南麓でこの一帯を治めた「三ツ寺Ⅰ遺跡」の豪族(王)たちの墓所。

Img_3273 

 ⑤広がる小区画水田/古墳時代の水田復元模型。

 畳2枚ほどに区画されたミニ水田の初夏(田植え前後)の様子。榛名山の噴火によって火山灰で埋もれた地表や遺跡を元に再現。

Img_3276 

 ⑥火山灰に埋もれたムラ/古墳時代の榛名山東南麓のモデルムラ

 火山灰に埋もれていた下芝遺跡群などの発掘データを元に、ムラの姿を再現。竪穴住居に柵で囲まれた作業小屋、作業小屋や家畜小屋。周りに広がる畑では、ヒエ、アワ、キビ、イモなど根菜を栽培していた。

Img_3275 

 ⑦海の向こうからきた人たち

 「下芝谷ツ(しもしばやつ)古墳」から発見された日本最古の飾履(しょくり、金のクツ)の展示のほか、様々な渡来系文化を紹介。

 朝鮮半島で王の埋葬時に使われる「金銅製の飾履」(復元模型)の展示品は、写真を取り損ねた。出典:「ジパング倶楽部」2020年4月号

Zipanguclub202004

 ⑧埴輪に秘められた物語

 保渡田Ⅶ遺跡から出土したはにわ群を中心に様々な埴輪を展示。

Img_3269 

 ⑨埴輪の人・動物・もの

 盃を差し出す高貴な女子、甲冑で武装した男子、家形埴輪。

Img_32702

 

 15:00~15:40、博物館に隣接した「八幡塚古墳」と「二子山古墳」を見学。

  本ブログ記事「群馬の古墳めぐり」を参照。

 

 ●観音塚考古資料館 16:05~16:20

 16:05、「観音塚考古資料館」(高崎市八幡町)に到着。すでに閉館(16:00?)していたが、特別に開けて貰って観覧する。

Img_2808

 この資料館は、100mほど北にある「観音塚古墳」で未盗掘で発見された30種類、約300点の副葬品が主に展示されている。

 日本画「古代・若田原のあけぼの」(高崎市若田町)は、若田原遺跡群(資料館から北へ1km)の古代想像図。作者名は確認できず。

Img_2765

 朝鮮半島から技術が伝えられたという「韓式系土器」が多数出土した。

Img_2766

 渡来系遺物が多く出土することから、群馬県に多くの渡来人が存在していたことが推測される。

 剣崎長瀞西遺跡から出土した鉄製くつわ(馬の口にかませる金具)は、県指定重文 。

Img_2767

 朝鮮半島からもたらされた黄金色に輝く承台付(うけだいつき)の銅碗(どうわん)が2セット出土。

Img_2768

 1セットは、蓋(ふた)、碗、受け皿の3点からなる。仏具に似た形状の端正な姿で、6世紀に伝来した仏教の影響か。

Img_2770

 「観音塚古墳の出土品で最も多い馬具。材質も銀・銅・金銅(銅に金メッキ)・鉄・木・鹿角・革など多様。馬の装飾具。馬を所有する事は、財力と権威の象徴だったので、古墳に馬具が多く埋葬され、馬の埴輪が多く並べられた。

 鏡板は、馬を操作するための轡(くつわ)に付属する金具で、鐘形・花形・心葉形といった多様な形状をもつ。

Img_2771

 鞍金具は鞍や鐙(あぶみ)等の付属する金具、その革ベルトや金属の鎖に使われる金具など、多種にわたる。

Img_2772

 雲珠(うず)、辻金具(つじかなぐ)は、馬の身体に装着するベルトが交差する部分に使用する金具。銅や鉄に金メッキし、鈴が取り付けられたりした。

Img_2773

 馬具は、現代の馬の装備や機能とさほど変わらないという。古代人が馬を制御する技術の高さ、馬具の機能や装飾への美的感覚が、現代人と基本的には変わらないことに驚く。

 修羅(しゅら)の模型。修羅は、古墳に使う巨石を運ぶ木のソリ。

Img_2775

 中原Ⅱ遺跡(高崎市吉井町)の1号墳(円墳)の模型。三段の墳丘は、直径24m、高さ4m。埋葬施設は、両袖の横穴式石室で、全長7.8m。

Img_2776

 方墳の下芝谷ツ古墳(高崎市箕郷町)は、二段の方墳。一辺が約20m、高さ4.2m、葺き石で覆われている。石室は、竪穴式石室。渡来人のリーダー格の墓と考えられているという。

Img_2777

 武具、工具。鉄鏃(てつぞく)は、矢の先端に取り付ける鉄の鏃(やじり)で、古墳時代の鏃はほとんど鉄製だった。

Img_2779

 金属容器の金具や耳環(イヤリング)など装飾具。

Img_2781

 観音塚古墳から4つの青銅製の鏡が発掘された。弥生時代に中国からもたらされ、古墳時代には多く埋葬された銅鏡は、所有者の権力を象徴する呪術性の高い祭器だった。

Img_2782
Img_2783

 観音塚古墳に副葬されていた大刀(たち)のうち、3点が原形をとどめている。出典:「観音塚考古資料館」のパンフ。

Ginsoukeikantoutati_tukagashira

 中央の銀装鶏冠頭大刀(ぎんそうけいかんとうたち)の柄頭(つかがしら)。鶏冠頭大刀は、柄頭が鶏冠(とさか)のような形状を呈する装飾付き、儀仗の大刀。出典:同上資料館の歴史カード。

Ginsoukeikantoutati_tukagashira1

 比べてわかる古墳の大きさ。日本最大の「大仙(だいせん)古墳」(堺市、仁徳天皇陵)の全長は486m、群馬県最大の「太田天神山古墳」(大田市)は210m。

Img_27801

 巨大古墳は、奈良県、大阪府が上位のほとんどを占める。奈良県・大阪府以外では、全国4位「造山古墳」( 岡山市、350m)、10位「作山古墳」(岡山県総社市、286m)で、次が群馬県最大の「太田天神山古墳」(大田市、210m)は28位。

 群馬県内の古墳の大きさベスト20。(写真をクリックすると拡大表示)

Img_27802 


 この後16:25、資料館の100mほど近くの「観音塚古墳」に見学に行く。

 16:40、資料館の駐車場を出発。帰路は前橋ICから関越道へ。

 18:20、帰宅。

 

 ★ ★ ★

●群馬の古墳は、1万3千基

 2017年4月18日の毎日新聞によると、

 群馬県教委が2012年度から実施してきた古墳総合調査の最終報告がまとまった。県内の古墳の総数は1万3249基で、そのうち2434基(速報値)が現存していることが分かった。県教委によると、古墳総数は、東日本では千葉県に次ぎ2番目に多く、規模などの「質」では「東日本随一」という。
 (中略)
 市町村別では、高崎市が2741基(現存639基)で最多。以下、太田市1605基(現存178基)▽前橋市1542基(現存139基)▽藤岡市1511基(現存1444基)が続く。

 群馬県は、この古墳総合調査をまとめた「群馬県古墳総覧」を2017年に刊行したという。1万3,000基あまりの全古墳の詳細データが網羅されており、主要な古墳については、発掘調査時の写真等も掲載されているそうだ。

 文化庁のデータでは、消滅も含め全国で16万基あるそうだ。文化庁の『平成28年度(2016年度)周知の埋蔵文化財包蔵地数』で現存と消滅の「古墳・横穴」を合計した総数は、159,636基。都道府県別では、群馬県は11位の3,993基。群馬県の調査で、本当に1万3千基もあったのだろうか。その差異は何だろうか。
 

●古墳王国の群馬

 古墳時代(3世紀後半~6世紀末)の上毛野(現在の群馬県)の特徴は、以下のように思われる。

 上野毛は当時、東国で最も先端の文化が栄え、先端技術や強力な軍事力を持つ複数の勢力が存在していたと考えられている。豊富な水源と肥沃な大地は豊かな食糧を生産し、国力を高めた。当時の交通は、海路や川を利用する水運が主流で、日本海と大平洋の中間に位置する群馬は交通の要衝でもあった。またヤマト王権にとっては、異民族と見なしていた東北地方の蝦夷(えみし)に対抗するため、上毛野国の豪族と密接な関係を作りたかった。

 ヤマト政権は、朝鮮半島や中国とも交流があり、当時は最先端の技術を持つ先進国家だった。地方の豪族と同盟を結ぶため、馬の生産や鉄の鍛冶(かじ)や窯業などの技術を伝えた。そのなかでも最大の技術が、前方後円墳の築造技術だった。「長持形石棺」や「両袖形横穴式石室」は、大王(おおきみ、ヤマト王権の首長)クラスしか埋葬することができないとされるが、畿内以外でこの最高位のタイプの古墳は、上毛野国に多く存在する。畿内の専門の工人が特別に当地に派遣され、その有力豪族のために製造(石材は当地で調達)と考えられている。

 「お富士山古墳」出土の長持形石棺(複製)国立歴史民俗博物館展示 出典:ウキペディアコモンズ

Ofujiyama_kofun

 長持形石棺は、関東では「太田天神山古墳」と「お富士山古墳」の2基しかない。「お富士山古墳」(群馬県伊勢崎市)は5世紀中頃、全長125mの前方後円墳。墳丘は両毛線により前方部の一部が切断されているが、三段築成で葺石がある。砂岩の長持形石棺は、墳頂にある富士神社の社殿造営の際に出土したそうだ。「太田天神山古墳」(群馬県太田市)は、5世紀前半~中頃、前方部の外堀を東武小泉線が横断するもの、墳丘は三段築成で葺石が認められる。墳丘長約210mは、全国28位の大きさで、東日本では最大規模である。墳丘周囲には二重の周濠、くびれ部には天満宮の祠が鎮座し、古墳名はその神社から由来する。未調査のため、長持形石棺の使用が認められるほかは詳細不明。

 「お冨士山古墳」(群馬県伊勢崎市) 出典:ウキペディア・コモンズ

Ofujiyama_kofun_20200707084401

 船形石棺は、長持形石棺の被葬者のようにヤマト王権と同等ではない、次のランクの王の棺とされている。それでもその地域における支配者だったことに疑いはない。前方後円墳はヤマト王権の承認なしには造れなかったそうだ。ゆるやかな序列もあって、豪族の勢力に応じて墳丘の大きさや石棺の形なども決められましたとされる。前方後円墳は、ヤマト王権の勢力範囲を誇示する、価値ある建造物であり、地方豪族にとってはヤマト王権と同盟を結ぶネットワークだった。

 馬は単なる人の交通手段だけでなく、軍事、輸送、農耕を飛躍的に向上させた。上毛野では5世紀から馬の飼育を開始。群馬県には、馬の埴輪や出土した馬具やその装飾品が、他の地域に比して著しい事に気がついた。群馬は、県名の由来(県のマスコットは馬のゆるキャラ「ぐんまちゃん」)になったように、馬の大生産地であったのだ。現代、自動車が国の基幹産業となって、その生産力が国力を表すように。王は、祭事には装飾品で着飾った馬具をまとった馬にまたがり、人々の前に立って権力を誇示したのだろうか。

 群馬県のマスコット「ぐんまちゃん」 出典:群馬県ホームページ

Gunmachan

 もともと馬は、渡来人が日本に持ち込んだものである。また中国や朝鮮半島で発見された土器などの出土品に類似するものが、榛名山南麓から高崎市を中心とする群馬の地域から多く出土しているという。渡来人が直接持ち込んだものか、ヤマト政権が持ち込んだものか、それとも渡来人が上毛野で製作したものだろうか。「日本書記」には、上毛野の豪族たちが何度も朝鮮半島に渡航していたともいう。「観音塚考古資料館」の資料では、渡来人が多くこの地に存在したことが推測されるとある。

 榛名山ニツ岳が、6世紀前半に2度噴火した。火砕流や泥流に埋没した南東麓の集落は、発掘により当時の古墳時代の姿が、まるでポンペイの町のようによみがえった。火山灰で閉じ込められた豪族の館、竪穴住居、水田など、当時の生活や文化が明らかになり、今日の群馬の考古学研究が大きく前進したそうだ。

 群馬は、東国で巨大な権力を持つ複数の首長が、肩を並べていたという「古墳王国」であった。群馬県には、他県にはない「上毛かるた」や「群馬交響楽団」など、県民に身近な文化もある。県内の大規模な古墳総合調査のことや、充実した博物館・資料館を観覧し、群馬県が遺跡整備や文化財保護にも力を入れていることが、伝わって来る。

2020年7月 5日 (日)

群馬県立歴史博物館

 2020年6月28日(日)、群馬県高崎市にある「群馬県立歴史博物館」を観覧する。

 

 朝から土砂降りの雨の中、8:00出発。上武道路(国道17号バイパス)を経由し、9:35前橋市西大室町の「大室公園」南口駐車場に到着。

 公園内の大室古墳群を見学した後、10:25「大室公園」出発。

 大室古墳群については、本ブログ記事「群馬の古墳めぐり」を参照。

 

 11:00、高崎市綿貫町の「群馬の森公園」着くころには、雨が止む。

Img_3256

 公園には、「群馬県立歴史博物館」と「群馬県立近代美術館」がある。11:10、「群馬県立歴史博物館」に入館(入館料300円)。

●群馬県立歴史博物館 11:10~12:35

Img_3253
Img_3223
Img_20200630_0001

 常設展示は、①原始 ②古代 ③中世 ④近世 ⑤近現代の5つのテーマに分かれている。

 《原始》 土器文化と定住生活

Img_3236

 《東国古墳文化》 全長97m、高さ9mの「綿貫観音山古墳」(高崎市綿貫町)の復元模型。盗掘に遭わず多くの副葬品が多数出土した。

Img_3226

 《東国古墳文化》  「綿貫観音山古墳」から出土した埴輪や副葬品の数々。

Img_3234

 馬の埴輪が目立つ。古代、この地域は馬の産地で、県名「群馬」の由来となった。渡来人が、この地に馬とその飼育方法をもたらした。

 《古代》 「上野三碑」(こうずけさんぴ)。左から金井沢碑(かないざわひ)、多胡日碑(たごひ)、山上碑(やまのうえひ)の石碑のレプリカ。

Img_3238

 7世紀以降、律令支配と仏教文化の広まりで、文字が普及した。「上野三碑」は、高崎市の南西部半径3Km以内の範囲に集中して存在し、当時の仏教、政治、家族関係を示す貴重な資料。国指定史跡だが、ユネスコ「世界の記憶」に登録された。

 群馬県の地域は毛野(けの)と呼ばれていたが、やがて栃木県地域に政治勢力が出来ると下毛野(しもつけの、現在の栃木県)と分かれ、元の毛野は上毛野(かみつけの)と呼ばれた。8世紀初頭(奈良時代)に全国の地域が漢字2文字に統一され、上野(かみつけの、こうづけの)と改められた。

 《中世》 山間部から石塔・石仏の石材が多く採石され、流通した。右は、石造不動明王立像。

Img_3240

 《近世》 倉賀野宿・河岸の模型。左に中山道と右に利根川支流の烏川。関東北辺の水陸交通の要衝として、産業・文化が栄えた。

Img_3241

 《近代》 富岡製糸場の模型。世界遺産である富岡製糸場は、明治に5年建設された、日本で最初の官営模範製糸場。

Img_3244

《近代》 中島飛行機の疾風(はやて)と木製プロペラ。

Img_3246

 《現代》 ラビットスクーターとスバル360

Img_3247

 航空機産業の技術が生かされたスバル360は、1958年(昭和33年)~1970年(昭和45年)まで生産された。

 今年3月、「綿貫観音山古墳」の出土品が国宝に決定。写真は、「群馬県立歴史博物館」ホームページから転載。

Tokusetsu_top1

 左から、国宝の一部の金銅製心葉形杏葉(しんようけいぎょうよう)、三人童女の埴輪、銅製水瓶。心葉形杏葉は馬具の装飾物で、金銅は銅に金メッキを施したもの。


 12:40~13:35、「県立近代美術館」内の「森のレストラン・ころむす」で 昼食。

Img_3254

 対面に椅子がない、コロナ対策仕様のテーブルに着席。メニューもいつもより少なくしているという。ソースカツ丼950円を注文。

 13:45、「群馬の森」を出て、次の「かみつけの里博物館」へ行く。

 本ブログ記事「かみつけの里博物館と観音塚考古資料館」に続く。

 

 ★ ★ ★

 「群馬の森」は、高崎市にある県立の都市公園。明治百年記念事業の一環として計画され、1968年に整備を始め1974年に開園した。公園内には、現在「群馬県立近代美術館」や「群馬県立歴史博物館」などの施設がある。

 現在の「群馬の森」がある一帯は、烏川と井野川に沿って舟運の便が良く、水車の動力も得やすいという理由から、1882年(明治15年)に 黒色火薬製造の「東京砲兵工廠岩鼻火薬製造所」が設置された。その後、「陸軍造兵廠火工廠岩鼻火薬製造所」や「東京第二陸軍造兵廠岩鼻製造所」へと改称し、終戦の1945年(昭和20年)まで軍用、産業用火薬の生産を行なっていた。

 「群馬県立歴史博物館」は、この地に1979年10月に開館した。しかし2011年に展示中の重要文化財に水滴が落ちる事故が発生、文化庁から文化財の公開を取り消された。2016年7月に大規模改修が完了し、リニューアルオープンした。

 博物館の公式ガイドブック「常設展示図録」の序文によると、最初のオープンから38年の歳月を経てリニューアルされたが、その間の歴史・考古学は日進月歩しており、群馬県を取り巻く状況も激変したとある。それは、県内を縦横断する関越道・上信越道・北関東道の高速道路、上越・長野新幹線、国道バイパスの建設、住宅開発・工業団地などの建設、土地改良工事が活発化したことだったという。

 その結果、遺跡調査が空前の規模と数となり、県内で新たな遺跡が次々に発見されたという。こういった人類による開発行為によって、特に考古学が進歩・発展するのは、どこか皮肉な感じがする。しかし群馬県が特に、古墳時代の遺跡の宝庫であることを改めて認識した。その理由は、上毛野と呼ばれたこの地域には古墳時代、東国で有数の勢力を持った豪族(王)が支配していて、最先端の技術と文化を持つヤマト王権と同盟を結び交流していたという解説を知り、腑に落ちた。

2020年2月12日 (水)

国立歴史民俗博物館(中世~現代)

 2020年2月1日(日)、千葉県佐倉市の「国立歴史民俗博物館」に行く。

 本ブログ記事「国立歴史民俗博物館(先史・古代)」の続き。

 

 「国立歴史民俗博物館」(略称「歴博」)は、日本列島に人類が登場した旧石器時代から近代・現代まで、考古学・歴史学・民俗学の総合博物館。

 3年前にここを訪れた時は、第1展示室「原始・古代」はリニューアル中のため閉室。今回は、午前中「先史・古代」と名を変えた第1展示室を中心に観覧した。

 昼食後の13:00~14:00、第2展示室(中世)~第6展示室(現代)は復習のつもりでわずか1時間でザッと見て回った。

 

■第2展示室(中世)13:00~

 平安時代の半ばから戦後期時代にかけて、テーマは、王朝文化(10〜12世紀)、東国と西国(12〜15世紀)、大名と一揆(15〜16世紀)、民衆の生活と文化(14〜16世紀)、大航海時代のなかの日本(15〜17世紀)、印刷文化(8〜17世紀)。

 王朝文化:入口からの展示風景。中央は、屋根飾りの「鴟尾(しび)」。右手は、藤原道長の邸宅「東三条殿」模型。

Img_2898

 御帳台(右)と王朝貴族の服装。左から十二単(女性)、束帯(そくたい、男性の正装)、白の直衣(のうし、日常着)。

Img_2900

 京都の町並み。四条室町付近。

Img_2904

 大航海時代の日本:御朱印船の模型(17世紀)

Img_2906

 民主の生活と文化:芸能と職人。手前は田楽の装束。奥は大鋸(おが)引き。初めて製材か可能となり建築に一大革新をもたらした。

Img_2908

 

■第3展示室(近世) 13:15~

 近世は、江戸時代を中心(16世紀末~19世紀半ば)に、人びとの生活や文化を紹介。テーマは、国際社会のなかの近世日本、都市の時代、人と物の流れ、村からみえる「近代」、絵図・地図に見る近世、寺子屋「れきはく」。

 都市の時代:江戸橋広小路の模型。日本橋と江戸橋の間の南側一帯。江戸の中心部の町。

Img_2911

 人と物の流れ。多くの道しるべが建てられた。

Img_2914

 北前船は、大阪と蝦夷地を結ぶ長距離航路で活躍。

Img_2917

■第4展示室(民俗) 13:25~

 人びとの生活のなかから生まれ、幾多の変遷を経ながら伝えられてきた民俗文化を展示。テーマは、「民俗」へのまなざし、おそれと祈り、くらしと技。

 おそれと祈り:右は、能登の宇出津(うしつ)あばれ祭りの神輿。中央は、沖縄県八重山地方の西表島節祭(しち)では中国伝来の龍船競争も行われる。

Img_2923

 死と向き合う:佐渡の五十回忌棚飾り。奥に見えるのは、安らかなくらし:移動式の神前結婚式祭壇(東京、明治の終わり頃)。

Img_2929

 なりわいと技:カツオ一本釣り漁船「竜王丸」。

Img_2931

 里のなりわいと技の展示。

Img_2932

■第5展示室(近代) 13:40~

 19世紀後半の近代の出発(明治)から 1920年代(大正~昭和初期)までを、文明開化、産業と開拓、都市の大衆の時代の3テーマで構成。

 文明開化:山梨県に建てられた擬洋風建築の小学校。人々の献金で建てられた。

Img_2935

 文化住宅の台所。関東震災以後に中流向け家庭のために造られたアパートの台所。水道・ガス完備。

Img_2941

 都市の大衆の時代:大正~昭和の浅草の町並み。

Img_2943

■第6展示室(現代) 13:45~

 1930年代から1970年代(昭和5年~昭和45年)までを、戦争と平和、戦後の生活革命の2テーマで構成。

 戦時生活:人生画訓

Img_2947

 占領下の生活:闇市、露天の実物大の模型。

Img_2949

 戦後の生活革命:1964年東京オリンピックポスター(左)、1960~70年代おもちゃ(右)。

Img_2950

 14:05、「歴博」を退場。

 14:15「歴博」の駐車場を出発、佐倉の城下町を巡る。

 本ブログ記事「城下町佐倉」に続く。

 

 本ブログの関連記事「国立歴史民俗博物館」 2017年3月7日投稿

   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-b174.html

 

 

国立歴史民俗博物館(先史・古代)

   2020年2月1日(日)、千葉県佐倉市の「国立歴史民俗博物館」に行く。

 

 「国立歴史民俗博物館」(略称「歴博」)は、日本列島に人類が登場した旧石器時代からの第1展示室、そして現代の第6展示室までの考古学・歴史学・民俗学の総合博物館。

 3年前に「歴博」を訪れた時、第1展示室「原始・古代」はリニューアル中のため、残念ながら閉室していた。今回、「先史・古代」と名を変えた第1展示室を中心に観覧する。

 

 9:50四街道インターで東関東道を降り、10:07「歴博」の駐車場に到着。

Img_2951

 10:15、入館(入館料600円)。

 

■第1展示室(先史・古代)のエントランス。

Img_2832

 1983年の開館以来、はじめて第1展示室の「原始・古代」展示を大幅に見直し、2019年3月19日に「先史・古代」と名称を改めリニューアルオープンした。

 プロローグ: 人類の進化の様子を猿人、原人、旧人、新人の段階に分けた概念図。

Img_2834
Img_2835 

 この第1展示室は、以下のテーマから成る。

 Ⅰ 最終氷期に生きた人々
 Ⅱ 多様な縄文列島
 Ⅲ 水田稲作のはじまり
 Ⅳ 倭の登場
 Ⅴ 倭の前方後円墳と東アジア
 Ⅵ 古代国家と列島世界

 副室1 沖ノ島
 副室2 正倉院文書

 

Ⅰ 最終氷河期に生きた人々

 4万年前の最終氷河期の森。ナウマン象もいた。

Img_2843

  列島に到達した最初の人々。沖縄県の港川で見つかった2万年前の「港川1号人骨」。

Img_2837

 狩猟採集民とその遊動生活。皮をなめしたり石器づくりの人々のリアルな模型。

Img_2838

Ⅱ 多様な縄文列島

 縄文文化の時代:縄文人のすがた・かたちは、男162cm、女149cm、手足が長く丸顔、鼻が高く、あごのエラが張っている。

Img_2847

 縄文人の登場:縄文人は丸顔で彫りが深い等の特徴を持つが、同時期に中国大陸にはこれらの特徴を持つ人は確認されていない。

Img_2849

 縄文文化の地域性:定住生活により西と東で土器の形が違うなど、地域ごとの文化が発達した。

Img_2851

 定住生活の進展:縄文人のメジャーフード。季節ごとに何を食べ何を貯蔵するか、計画的に食料を調達していた。

Img_2853

 縄文人の家族と社会:縄文人の一生。13~18歳で成人儀礼を受け、成人の証しの抜歯や入れ墨。16~20歳で結婚。50歳くらいで一部の人は集落のリーダーとなり、60歳くらいで第一線を退いた。

Img_2859

 三内丸山遺跡(青森市)の家屋の復元模型。6000年~4500年前。

Img_2860
Img_2861

 縄文人の祖霊祭祀:一度埋葬された遺体を一個所に寄せ集めて祖霊を祀り、人々のつながりを強化した。

Img_2863

 縄文人の「おそれ」・「いのり」・「まつり」の展示。

Img_2864

 輪になるように石や石棒が立てられ、「いのり」の場として使われた。

Img_2865

Ⅲ 水田稲作のはじまり

 紀元前10世紀後半、新天地を求めて朝鮮海峡を渡って、北九州や薩摩半島にやって来る人々が現れた。

 水田耕作は北九州でしばらく留まった後、紀元前8世紀末頃から南へ、北へと日本列島に一気に拡散した。

Img_2867

 出土した頭の骨を元に、当時の女性を再現。

Img_2872

Ⅳ 倭の登場

 弥生時代の人々、つまり倭人が1、2世紀頃の中国の歴史書に登場する。

Img_2874

 倭が、「漢委奴国王」の金印を手にする。(写真は、パンフから転載)

Img_20200211_0001

Ⅴ 倭の全方後円墳と東アジア

 3~7世紀に築かれた約5,200基もの前方後円墳は、日本の様式だが朝鮮半島にも似たような古墳があったという。

Img_2876

 倭の境界と周縁:北縁の岩手県中部から北は縄文文化を続ける人々がいたり、南縁の南九州は独自の文化が見られる。 

Img_2878

Ⅵ 古代国家と列島世界

 仏教が伝来し、寺院の建立によって権力を表すようになり、古墳時代は終末を迎える。 

Img_2880

 飛鳥京、難波京、藤原京の王宮が出現。

Img_2882

 平城京を象徴する「羅城門」の模型。701年大宝律令が制定、古代国家が誕生する。

Img_2879

 古代国家の北、多賀城は政庁と外郭(城柵)から構成された。

Img_2888

 古代国家の南には、太宰府を設置し西海道を支配した。左下は、太宰府政庁の鬼瓦。

Img_2890

 

副室1: 沖ノ島

 福岡県の孤島「沖ノ島」では、4~9世紀(500年間)に航海の安全を祈る祭りが行われた。2017年に世界遺産に登録。

Img_2885

 島には海外から宝物が運び込まれており、盛んな国際交流があった。実物大の祭祀遺跡の模型で、当時を体感できる。

Img_2886

 

副室2: 正倉院文書

 役所の文書や文具まで残されている奈良・東大寺正倉院の模型。左端は、国の平安を祈り写経を奉納する写経生の模型。

Img_2891

 「正倉院」は、奈良・天平時代を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた建物。1997年に国宝に指定、翌1998年に「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産登録。

 12:00前に、駆け足だったが2時間かけて、第1展示室(先史・古代)を見終わる。

 12:00~12:50、レストラン「さくら」で昼食(古代カツカレー1,030円)、休憩。午後から、第2展示室(中世)~第6展示室(現代)を観覧することにする。

 

 本ブログの関連記事「国立歴史民俗博物館」 2017年3月7日投稿

   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-b174.html

 

 本ブログ記事「国立歴史民俗博物館(中世~現代)」に続く。

 

 ★ ★ ★

 「歴博」のパンフレットによれば、「先史・古代」を対象とする時代は、3万7千年前に日本列島に人類が出現してから、7世紀末~8世紀初頭に古代国家が成立後、10世紀に中世の姿を見せ始める(「平安時代」中期)迄だという。「歴博」の先端的研究が明らかにした先史時代の新しい年代観にもとづき、リニューアル後は約3500年さかのぼった土器の出現、約500年さかのぼった水田稲作のはじまり、開館時には明らかにされていなかった調査成果をふまえた新しい歴史展示になっているという。

 また「歴博」の民衆生活・環境。国際交流という3つの基調テーマ、そして多様性・現代的視点という2つの視点をもとに、中国・朝鮮や北海道・沖縄との関係を重視した展示になっていたのは、目新しい。

 「歴史時代」(有史時代)以前の歴史区分に、「先史時代」というのは昔からあった。しかし昔の学校教科書には「原始時代」と書かれていた。「原始」とは、人類の進化・発展段階において一番初期の段階で、文明社会に対する未開・野蛮というニュアンスもあった。現在は「原始」という概念は学術的には使われず、「先史時代」または「原史時代」などと呼ばれていて、改めて認識する。また「原始人」という表現も、アウストラロピテクス属などと人類の属名を用いて分類するように変わっているそうだ。

 また日本史の「古代」は、古墳時代または飛鳥時代から平安時代までとされていた。古代国家(ヤマト王権)の形成時期をめぐっては、見解が分かれており、3世紀、5世紀、7世紀の各説があるそうで、今でもはっきりしない。「中世」は武士の時代と思っていたが、中世の初め、つまり「古代」の終りも様々な見解があるとは知らなかった。政治権力の分散、武士の進出、主従制、荘園公領制の確立といった中世的な特徴が出現する11世紀後半(鎌倉時代の開始前)までというのが主流だそうだが、律令制から王朝国家体制に移行する平安中期(900年頃以降)とする意見もある。「平安時代」を「古代」と「中世」のどちらに分類するかは、いまだに議論が分かれるそうだ。

2020年2月11日 (火)

城下町佐倉

 2020年2月1日(日)、城下町佐倉(千葉県佐倉市)を巡る。

 本ブログ記事「国立歴史民俗博物館(先史・古代)」(・・・現在、公開準備中)の続き。

 

 千葉県佐倉市の「国立歴史民俗博物館」に行った後、市内の「佐倉順天堂記念館」、最後の佐倉藩主だった堀田正倫の「旧堀田邸」、武家屋敷「旧川原家住宅」、「旧但馬家住宅」と「旧武居家住宅」を巡る。

 

●佐倉市立美術館 (佐倉市新町、14:20~14:25)

 市の中心部にある「佐倉市立美術館」に行く。

 1918年(大正7年)建築の「旧川崎銀行(現・三菱UFJ銀行)佐倉支店」のエントランスホールを保存・活用した美術館。設計者は、矢部又吉。千葉県指定文化財(有形文化財)。写真は、ウィキペディア・コモンズから転載。

Sakura_city_museum_of_art_2010

 ここは浅井忠のほか、荒谷直之介、香取秀真、津田信夫など佐倉市と房総ゆかりの作家を中心に収蔵している、というので興味があった。

 受付に行くと、入館料800円と高い。常設展は無料のはず。よく見ると、2020年1月25日(土)〜3月22日(日)、2階・3階の展示室で企画展「メスキータ展」が開催中。メスキータは初めて聞く名前だが、19世紀末から20世紀はじめにかけてオランダで活躍した画家、版画家、デザイナーだそうだ。  

 館内は、1階がロビー、喫茶コーナーと売店。2階は、原則的には常設展示室。3階は市民ギャラリー。ただし、企画展の実施時には2階・3階は企画展の展示室となるようだ。4階はハイビジョンホール、映像による絵画紹介。

 企画展の開催中は、常設展はなし。美術館を諦め、「佐倉順天堂記念館」へ移動する。

 なお佐倉には他に、3年前に観覧した印刷インキのDIC株式会社が運営する「DIC川村記念美術館」や、日本刀を専門に展示する「塚本美術館」などの美術館がある。

 

●佐倉順天堂記念館(佐倉市本町、14:35~15:17)

Img_2992

 記念館の冠木門(かぶきもん)をくぐると、庭には順天堂の創始者・佐藤泰然(たいぜん、1804-1872)の胸像がある。

Img_2989
Img_2957

 武家屋敷・旧堀田邸・佐倉順天堂記念館の3館を見学できるお得な「三館共通入館券」540円を購入して入館。ガイドの案内で見学。

 長崎で蘭方医学を学んだ佐藤泰然は、1838年(天保9年)江戸で蘭医学の「和田塾」を開く。1843年(天保14年)に弟子の林洞海に「和田塾」を譲り、佐倉に移住し蘭医学塾兼外科診療所「順天堂」を創設する。

Img_2963

 佐倉に移住したのは、蘭学を奨励していた佐倉藩主・堀田正睦の招きのよるものとされる。泰然は、町医から藩医となる。

 「順天」とは、中国古書にある「天道に順(したが)う」、つまり「自然の理に従う」の意味。

 泰然は進歩的で行動力に富んでいて、書物だけの知識ではなく実際の診療に役立つ技術を習得する教育を目指し、多くの優秀な近代医学の門人が育った。また天然痘の新しい予防法の導入に力を入れ、普及させた業績も評価されている。

 手術道具の複製。(原品は、順天堂大学所蔵) 

Img_2964

 手術の様子。当時はまだ麻酔は使ってなかった。

Img_2966

 「療治定」の複製模型。つまり治療別の料金表。現在の外科、眼科、産婦人科に相当する。

Img_2967

 佐倉順天堂の復元模型。「順天堂」の業績は全国に知られるようになり、全国各地から医学を志す者が多く集まった。

Img_2975

 泰然は1859年(安政6年)病気を理由に、家督を優秀な弟子で養子の佐藤尚中(たかなか、1827-1882)に譲り隠居する。

Img_2977

 尚中は、1861年(文久2年)長崎に留学、オランダ軍医ポンペに西洋医学を学ぶ。明治維新後の1869年(明治2年)、政府から要請されて大学東校(東大医学部の前身)に出仕、大学大博士 (学長) となる。また明治天皇の侍医をつとめた。1872年(明治5年)辞職し、翌年東京下谷(したや)に「順天堂」を開き、1875年(明治8年)に御茶の水に移した。 (現在の順天堂大学 )

Img_2988

 

●旧堀田邸 (佐倉市鏑木町、15:17~16:00)

 最後の佐倉藩主だった堀田正倫(まさとも、1851-1911)の「旧堀田邸」に行く。

Img_2993

 「旧堀田邸」の玄関棟。

Img_2995

 明治の建築様式を残した旧大名家の純和風の木造住宅。玄関棟・座敷棟・居間棟・書斎棟・湯殿および土蔵、門番所の7棟が、2006年(平成18)に国の重要文化財に指定された。

 堀田正倫は、幕末の佐倉藩主で老中・堀田正睦(まさよし)の四男。安政6年(1859年)、父が井伊直弼との政争により排斥されたため、家督を譲られて藩主となった。

Img_3007

 1871年(明治4年)の廃藩置県により佐倉を離れ、東京に移住した。明治17年(1884年)に伯爵に叙される。

 明治23年(1890年)佐倉に戻って、私立の農事試験場を設立し農業の振興や、佐倉中学校(現在の県立佐倉高等学校)の教育発展に寄与するなど地域の振興に尽力した。

 ちなみに長嶋茂雄は佐倉市生れで、佐倉高校の出身でよく知られているが、女子マラソンの小出義雄監督も佐倉市の出身、順天堂大学を卒業して佐倉高校でも教鞭を執っていた事は、初めて聞く。

 展示されていた写真は「堀田家農事試験事務所」とその前庭。庭園を含む一帯は、「旧堀田正倫庭園」(さくら庭園)として、2015年(平成27年)に国の名勝に指定された。

Img_3008

 「旧堀田邸」と「堀田家農事試験場」の模型。

Img_3009

 「旧堀田邸」は、農事試験場の敷地を含めると3万坪もあったという。現在の「旧堀田邸」と「さくら庭園」の敷地は、その1/3ほどの広さ。

 座敷棟の客座敷。「旧堀田邸」の各棟の床の間の裏に、トイレ(雪隠)があるのは珍しいそうだ。

Img_3011

 座敷棟の向かいは、先ほど通って来た玄関棟。

Img_3013

 座敷棟から庭園に続く。

Img_3014

 他に、居間棟(1階)を見学。居間棟の2階部分、書斎棟は非公開。

 近代化の波が押し寄せた時代、旧大名家の上級住宅の多くは洋風または和洋折衷であった。「旧堀田邸」のように純和風の旧大名家住宅は、全国で三例(他に松戸市の戸定邸(旧水戸藩別邸)、鹿児島市の磯御殿(旧島津藩別邸))のみとも言われている。豪商や豪農のように華美に流れず、質実堅牢な建築とされる。

  

●武家屋敷 (佐倉市宮小路町、16:13~16:35)

 「旧河原家住宅」(千葉県指定文化財)、「旧但馬家住宅」(佐倉市指定文化財)、「旧武居家住宅」(国登録有形文化財)の3棟が公開されている。いずれも江戸時代後期の建築。城下町佐倉の面影を今に残す土塁と生垣の武家屋敷通りに面して、3棟が並ぶ。

 もともと「旧但馬家住宅」が、当時よりこの場所に建っていた。「旧河原家住宅」と「旧武居家住宅」が、それを挟んで移築されたという。

Img_3052

  旧武居家住宅の裏手の駐車場に車を止め、武家屋敷通りを通って順路の旧川原家住宅に入る。

 

・旧河原家住宅(千葉県指定文化財)

 「旧河原家住宅」は、300石以上の藩士が住む大屋敷。

Img_3027

 右手前は、井戸。

 

Img_3033

 土間と畳縁(たたもべり)のない質素な茶の間。

Img_3034

 「旧河原家住宅」は、市内に残る武家住宅の中で最も古いそうだ。

 座敷には畳縁がある。奥が客間。

Img_3036

・但馬家住宅(佐倉市指定文化財)

 「旧但馬家住宅」は、100石以上の藩士が住む、規模は中屋敷。

Img_3050

 「旧河原家住宅」に比べ、少し簡素な門。

 「旧但馬家住宅」だけが、もともとこの場所に建っていたもので、植栽や建物の形も当時のままだという。

Img_3041

 垣根の左側は、菜園があったのだろうか。

 本物の甲冑が飾られていた。

Img_3043

・旧武居家住宅(国登録有形文化財)

 「旧武居家住宅」は小知(しょうち)と呼ばれる藩士の小規模な屋敷で、門も更に簡素。小知とは少しの知行、わずかな扶持(ふち)のこと。

Img_3051

 門が閉まっていて、「旧但馬家住宅」に庭から移動する。

 「旧武居家住宅」の建物は、良い写真が撮れなかったので、ウィキペディア・コモンズより転載。

Img_20200208_0001

 移築・復元の時に茅葺き屋根だったが、維持の問題で銅葺きに変えられたそうだ。

 床の間に飾られた佐倉藩士の肖像写真。

Img_3045

 移築復元の様子の写真や、出土した茶碗や皿など資料(写真にない)が展示してあった。

Img_3046

 武家屋敷を後にして、16:45佐倉インターから東関東自動車道、帰路へ。

 

 ★ ★ ★

・堀田正睦

 以前から、順天堂大学や順天堂病院の発祥の地が、佐倉というのは聞いたことがあったが、今回初めて詳しいことが分かった。蘭方医の佐藤泰然が佐倉に来た理由は諸説があるらしいが、堀田正睦が佐藤泰然を江戸から招聘したのは当然の事だろう。

 佐倉藩主で老中の堀田正睦は、老中首座の水野忠邦を補佐して「天保の改革」を推進したが挫折、忠邦と共に辞任する。正睦は、蘭学に傾倒して「蘭癖(らんぺき)」と称された。藩政改革を行い、藩校を拡充して蘭学の導入を図る。佐倉は関東の蘭学の拠点となり、「西の長崎、東の佐倉」と呼ばれた。

 老中に再任、老中首座を阿部正弘から譲られて開港問題でハリスと日米通商交渉に対処。朝廷に条約調印の了承を求めるが失敗。一方将軍の継嗣問題では、一橋慶喜を支持する一橋派であった。紀伊派(徳川慶福を支持)の井伊直弼が政治工作により大老に就任、正睦は老中を罷免される。家督を正倫に譲り隠居、佐倉城で蟄居(ちっきょ)を命じられる。1864年(元治元年)3月、佐倉城三の丸の御殿において死去。享年55歳であった。

 

・佐藤家の系図

 優秀な泰然の弟子だった佐藤尚中は、養子となって家督と「順天堂」を継ぐ。一般には実子を後継にしがちだが、優秀な弟子を養子とする選択は、尚中の後も続き順天堂を発展させる一因となったという。記念館には佐藤家の系図が貼ってあって、主な人物の業績がパネル展示されていた。

 佐藤舜海= 尚中の隠居後に養子となって3代目として「佐倉順天堂」を任され、病院の近代化を図る。後に東京鎮台佐倉営所の軍医。

 佐藤恒二= 舜海の三女の婿養子。舜海が亡くなった後「佐倉順天堂」の4代目院長となり、分院を設けるなど地域医療の拠点になった。

 林薫(ただす)= 泰然の5男。幕府医官の林洞海の養子。外交官として活躍、日英同盟を締結。その後外務大臣・逓信大臣を歴任。伯爵。

 松本良順= 泰然の次男。幕府医官の松本良甫の養子。近代医学に貢献、初代陸軍軍医総監、貴族院議員。男爵。

 佐藤進= 尚中の養子となり佐倉藩医。東京の順天堂医院で外科を担当、日本初の医学博士の学位。日清・日露戦争の陸軍軍医総監。男爵。

 佐藤志津= 尚中の長女で佐藤進と結婚。横井玉子らが創設し経営難となった私立「女子美術学校」(現・女子美術大学)を再建、校長となって発展させた。女子教育発展の功績により、津田梅子(父は佐倉藩出身の農学者・津田仙)らとともに勲六等宝冠章。

 

・佐倉の武家屋敷

 江戸時代の武家屋敷の多くは、藩が所有して藩士に貸し与えたという。身分、石高によって、屋敷の規模や様式が細かく定められていた。武家屋敷は、主に城下の主君の居所の周囲に形成された。

 基本的に主君の居所から近いほど身分の高い人物、遠くなるほどに身分の低い人物が住んだ。特に家老を始めとする重臣は、藩主の居所の近隣に住むことも多かったが、一方身分の低い藩士は町屋や村に近い場所に住んでいた。佐倉の武家屋敷の身分の違う3棟が移築して並んでいるが、一般的には隣接することないようだ。

 石高の違う3つの武家屋敷の様式などを、比較して見られたのは興味深い。佐倉城は、石垣でなく土塁で守られているが、武家屋敷も土塁というのは、共通の理由があるのだろうか。

より以前の記事一覧

2025年2月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28  

最近のトラックバック