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カテゴリー「歴史・民俗」の10件の投稿

2020年7月 7日 (火)

かみつけの里博物館と観音塚考古資料館

 2020年6月28日(日)、群馬県の古墳めぐりで、高崎市の「かみつけの里博物館」と「観音塚高校資料館」を観覧する。

 

 午前中に「群馬県立歴史博物館」(高崎市綿貫町)を観覧した後、14:40同市井出町の 「かみつけの里博物館」に到着。
 

●かみつけの里博物館(高崎市井出町) 14:40~15:00

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 「かみつけの里博物館」の周囲は、広大な「上毛野はにわの里公園」となっていて、園内には「八幡塚古墳」、「双子山古墳」、土屋文明文学館、はにわ工房などの遺跡や施設がある。

 《エントランスの展示》

 保渡田古墳群「八幡塚古墳」の舟形石棺の実物大模型。

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 石をくりぬいて作り、直方体よりも両端が斜めに切られた形状で舟に似ている。運搬のための縄かけの突起を備える。内部は魔除けにため赤く塗られていた。実物は「八幡塚古墳」の後円部の地下室に展示されている。古墳時代の石棺は、長持形石棺、舟形石棺、竹割型石棺、家形石棺、箱形石棺などがあった。

 床に描かれた榛名山の二ツ岳火口の噴火地図。赤城山と同様に榛名山という山は、いくつかの峰の総称で、同名の峰はない。

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 埴輪円筒棺は、円筒埴輪を棺(ひつぎ)に転用した墓。石はすべて川原石。

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 埴輪円筒棺の多くは、古墳の近く(墳丘裾部,または周濠外堤など)から発掘されるので、古墳の被葬者の従属的な地位を示す追葬用として使われたと考えられている。

 竪穴系小石棺は、榛名山の噴火でできた石を使用。

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 この石棺の多くは古墳から離れた場所で発掘され、被葬者の身分は低いと考えられている。小さいため、子供の墓? 骨にしてから埋葬?

 1981年上越新幹線建設で発掘された「三ツ寺Ⅰ遺跡」」(高崎市ミツ寺町)の発掘当時の模型。右手が北の方角。

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 左右に走る県道10号線(前橋安中富岡線)と、左から右上に伸びる工事中の上越新幹線が交差する付近が遺跡。居館跡は内側に1mの盛土が施された一辺約86mの方形で、周囲を幅30~40m、深さ約3~4mの濠を巡らせ、更に濠の内縁には石垣が築かれていた。

 

《常設展示室》 次の9つのコーナーで構成されている。

 ①よみがえる5世紀 ②王の館を探る ③王の姿を探る ④王の墓を探る ⑤広がる小区画水田 ⑥火山灰に埋もれたムラ ⑦海の向こうからきた人たち ⑧埴輪に秘められた物語 ⑨埴輪の人・動物・もの。

 常設展示室内の様子。

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 ①よみがえる5世紀/榛名山東南麓の古墳社会復元模型(上の写真の中央部)。

 榛名山の2度にわたる火山災害に遭った東南麓には、東日本有数の勢力を誇る豪族(王)の本拠地があった。1500年前、豪族の館である「三ツ寺I遺跡」と周囲の住居、保渡田古墳群などが再現されている(縮尺1/500)。写真の右上の方が、榛名山。

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 ②王の館/「三ツ寺Ⅰ遺跡」復元模型。

 日本で最初に発見された古墳時代の豪族の館跡(縮尺1/100)で、日本最大級。上越新幹線建設の際に発掘、今は新幹線や道路の下に埋め戻されている。 

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 日本を代表する豪族(王)の居館「三ツ寺Ⅰ遺跡」と「北谷(きたやつ)遺跡」(高崎市間引町)から出土した遺物群。

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 「北谷遺跡」は、「三ツ寺Ⅰ遺跡」と同時期、同規模の豪族館跡で、2000年に民間開発の時に発掘された。

 ③王の姿を知る。

 全国の5世紀の前方後円墳分布図が展示。三ツ寺の王や上毛野地域が、日本、また東アジアの中でどのような位置を占めていたのかを探る。

 ④王の墓を知る。

 この博物館に隣接する保渡田古墳群の「八幡塚古墳」の築造時の風景。葺石(ふきいし)の設置、後円部へ石棺の搬入、窯場から円筒埴輪の搬入の様子を再現。保渡田古墳群は、榛名山東南麓でこの一帯を治めた「三ツ寺Ⅰ遺跡」の豪族(王)たちの墓所。

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 ⑤広がる小区画水田/古墳時代の水田復元模型。

 畳2枚ほどに区画されたミニ水田の初夏(田植え前後)の様子。榛名山の噴火によって火山灰で埋もれた地表や遺跡を元に再現。

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 ⑥火山灰に埋もれたムラ/古墳時代の榛名山東南麓のモデルムラ

 火山灰に埋もれていた下芝遺跡群などの発掘データを元に、ムラの姿を再現。竪穴住居に柵で囲まれた作業小屋、作業小屋や家畜小屋。周りに広がる畑では、ヒエ、アワ、キビ、イモなど根菜を栽培していた。

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 ⑦海の向こうからきた人たち

 「下芝谷ツ(しもしばやつ)古墳」から発見された日本最古の飾履(しょくり、金のクツ)の展示のほか、様々な渡来系文化を紹介。

 朝鮮半島で王の埋葬時に使われる「金銅製の飾履」(復元模型)の展示品は、写真を取り損ねた。出典:「ジパング倶楽部」2020年4月号

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 ⑧埴輪に秘められた物語

 保渡田Ⅶ遺跡から出土したはにわ群を中心に様々な埴輪を展示。

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 ⑨埴輪の人・動物・もの

 盃を差し出す高貴な女子、甲冑で武装した男子、家形埴輪。

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 15:00~15:40、博物館に隣接した「八幡塚古墳」と「二子山古墳」を見学。

  本ブログ記事「群馬の古墳めぐり」を参照。

 

 ●観音塚考古資料館 16:05~16:20

 16:05、「観音塚考古資料館」(高崎市八幡町)に到着。すでに閉館(16:00?)していたが、特別に開けて貰って観覧する。

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 この資料館は、100mほど北にある「観音塚古墳」で未盗掘で発見された30種類、約300点の副葬品が主に展示されている。

 日本画「古代・若田原のあけぼの」(高崎市若田町)は、若田原遺跡群(資料館から北へ1km)の古代想像図。作者名は確認できず。

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 朝鮮半島から技術が伝えられたという「韓式系土器」が多数出土した。

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 渡来系遺物が多く出土することから、群馬県に多くの渡来人が存在していたことが推測される。

 剣崎長瀞西遺跡から出土した鉄製くつわ(馬の口にかませる金具)は、県指定重文 。

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 朝鮮半島からもたらされた黄金色に輝く承台付(うけだいつき)の銅碗(どうわん)が2セット出土。

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 1セットは、蓋(ふた)、碗、受け皿の3点からなる。仏具に似た形状の端正な姿で、6世紀に伝来した仏教の影響か。

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 「観音塚古墳の出土品で最も多い馬具。材質も銀・銅・金銅(銅に金メッキ)・鉄・木・鹿角・革など多様。馬の装飾具。馬を所有する事は、財力と権威の象徴だったので、古墳に馬具が多く埋葬され、馬の埴輪が多く並べられた。

 鏡板は、馬を操作するための轡(くつわ)に付属する金具で、鐘形・花形・心葉形といった多様な形状をもつ。

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 鞍金具は鞍や鐙(あぶみ)等の付属する金具、その革ベルトや金属の鎖に使われる金具など、多種にわたる。

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 雲珠(うず)、辻金具(つじかなぐ)は、馬の身体に装着するベルトが交差する部分に使用する金具。銅や鉄に金メッキし、鈴が取り付けられたりした。

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 馬具は、現代の馬の装備や機能とさほど変わらないという。古代人が馬を制御する技術の高さ、馬具の機能や装飾への美的感覚が、現代人と基本的には変わらないことに驚く。

 修羅(しゅら)の模型。修羅は、古墳に使う巨石を運ぶ木のソリ。

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 中原Ⅱ遺跡(高崎市吉井町)の1号墳(円墳)の模型。三段の墳丘は、直径24m、高さ4m。埋葬施設は、両袖の横穴式石室で、全長7.8m。

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 方墳の下芝谷ツ古墳(高崎市箕郷町)は、二段の方墳。一辺が約20m、高さ4.2m、葺き石で覆われている。石室は、竪穴式石室。渡来人のリーダー格の墓と考えられているという。

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 武具、工具。鉄鏃(てつぞく)は、矢の先端に取り付ける鉄の鏃(やじり)で、古墳時代の鏃はほとんど鉄製だった。

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 金属容器の金具や耳環(イヤリング)など装飾具。

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 観音塚古墳から4つの青銅製の鏡が発掘された。弥生時代に中国からもたらされ、古墳時代には多く埋葬された銅鏡は、所有者の権力を象徴する呪術性の高い祭器だった。

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 観音塚古墳に副葬されていた大刀(たち)のうち、3点が原形をとどめている。出典:「観音塚考古資料館」のパンフ。

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 中央の銀装鶏冠頭大刀(ぎんそうけいかんとうたち)の柄頭(つかがしら)。鶏冠頭大刀は、柄頭が鶏冠(とさか)のような形状を呈する装飾付き、儀仗の大刀。出典:同上資料館の歴史カード。

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 比べてわかる古墳の大きさ。日本最大の「大仙(だいせん)古墳」(堺市、仁徳天皇陵)の全長は486m、群馬県最大の「太田天神山古墳」(大田市)は210m。

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 巨大古墳は、奈良県、大阪府が上位のほとんどを占める。奈良県・大阪府以外では、全国4位「造山古墳」( 岡山市、350m)、10位「作山古墳」(岡山県総社市、286m)で、次が群馬県最大の「太田天神山古墳」(大田市、210m)は28位。

 群馬県内の古墳の大きさベスト20。(写真をクリックすると拡大表示)

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 この後16:25、資料館の100mほど近くの「観音塚古墳」に見学に行く。

 16:40、資料館の駐車場を出発。帰路は前橋ICから関越道へ。

 18:20、帰宅。

 

 ★ ★ ★

●群馬の古墳は、1万3千基

 2017年4月18日の毎日新聞によると、

 群馬県教委が2012年度から実施してきた古墳総合調査の最終報告がまとまった。県内の古墳の総数は1万3249基で、そのうち2434基(速報値)が現存していることが分かった。県教委によると、古墳総数は、東日本では千葉県に次ぎ2番目に多く、規模などの「質」では「東日本随一」という。
 (中略)
 市町村別では、高崎市が2741基(現存639基)で最多。以下、太田市1605基(現存178基)▽前橋市1542基(現存139基)▽藤岡市1511基(現存1444基)が続く。

 群馬県は、この古墳総合調査をまとめた「群馬県古墳総覧」を2017年に刊行したという。1万3,000基あまりの全古墳の詳細データが網羅されており、主要な古墳については、発掘調査時の写真等も掲載されているそうだ。

 文化庁のデータでは、消滅も含め全国で16万基あるそうだ。文化庁の『平成28年度(2016年度)周知の埋蔵文化財包蔵地数』で現存と消滅の「古墳・横穴」を合計した総数は、159,636基。都道府県別では、群馬県は11位の3,993基。群馬県の調査で、本当に1万3千基もあったのだろうか。その差異は何だろうか。
 

●古墳王国の群馬

 古墳時代(3世紀後半~6世紀末)の上毛野(現在の群馬県)の特徴は、以下のように思われる。

 上野毛は当時、東国で最も先端の文化が栄え、先端技術や強力な軍事力を持つ複数の勢力が存在していたと考えられている。豊富な水源と肥沃な大地は豊かな食糧を生産し、国力を高めた。当時の交通は、海路や川を利用する水運が主流で、日本海と大平洋の中間に位置する群馬は交通の要衝でもあった。またヤマト王権にとっては、異民族と見なしていた東北地方の蝦夷(えみし)に対抗するため、上毛野国の豪族と密接な関係を作りたかった。

 ヤマト政権は、朝鮮半島や中国とも交流があり、当時は最先端の技術を持つ先進国家だった。地方の豪族と同盟を結ぶため、馬の生産や鉄の鍛冶(かじ)や窯業などの技術を伝えた。そのなかでも最大の技術が、前方後円墳の築造技術だった。「長持形石棺」や「両袖形横穴式石室」は、大王(おおきみ、ヤマト王権の首長)クラスしか埋葬することができないとされるが、畿内以外でこの最高位のタイプの古墳は、上毛野国に多く存在する。畿内の専門の工人が特別に当地に派遣され、その有力豪族のために製造(石材は当地で調達)と考えられている。

 「お富士山古墳」出土の長持形石棺(複製)国立歴史民俗博物館展示 出典:ウキペディアコモンズ

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 長持形石棺は、関東では「太田天神山古墳」と「お富士山古墳」の2基しかない。「お富士山古墳」(群馬県伊勢崎市)は5世紀中頃、全長125mの前方後円墳。墳丘は両毛線により前方部の一部が切断されているが、三段築成で葺石がある。砂岩の長持形石棺は、墳頂にある富士神社の社殿造営の際に出土したそうだ。「太田天神山古墳」(群馬県太田市)は、5世紀前半~中頃、前方部の外堀を東武小泉線が横断するもの、墳丘は三段築成で葺石が認められる。墳丘長約210mは、全国28位の大きさで、東日本では最大規模である。墳丘周囲には二重の周濠、くびれ部には天満宮の祠が鎮座し、古墳名はその神社から由来する。未調査のため、長持形石棺の使用が認められるほかは詳細不明。

 「お冨士山古墳」(群馬県伊勢崎市) 出典:ウキペディア・コモンズ

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 船形石棺は、長持形石棺の被葬者のようにヤマト王権と同等ではない、次のランクの王の棺とされている。それでもその地域における支配者だったことに疑いはない。前方後円墳はヤマト王権の承認なしには造れなかったそうだ。ゆるやかな序列もあって、豪族の勢力に応じて墳丘の大きさや石棺の形なども決められましたとされる。前方後円墳は、ヤマト王権の勢力範囲を誇示する、価値ある建造物であり、地方豪族にとってはヤマト王権と同盟を結ぶネットワークだった。

 馬は単なる人の交通手段だけでなく、軍事、輸送、農耕を飛躍的に向上させた。上毛野では5世紀から馬の飼育を開始。群馬県には、馬の埴輪や出土した馬具やその装飾品が、他の地域に比して著しい事に気がついた。群馬は、県名の由来(県のマスコットは馬のゆるキャラ「ぐんまちゃん」)になったように、馬の大生産地であったのだ。現代、自動車が国の基幹産業となって、その生産力が国力を表すように。王は、祭事には装飾品で着飾った馬具をまとった馬にまたがり、人々の前に立って権力を誇示したのだろうか。

 群馬県のマスコット「ぐんまちゃん」 出典:群馬県ホームページ

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 もともと馬は、渡来人が日本に持ち込んだものである。また中国や朝鮮半島で発見された土器などの出土品に類似するものが、榛名山南麓から高崎市を中心とする群馬の地域から多く出土しているという。渡来人が直接持ち込んだものか、ヤマト政権が持ち込んだものか、それとも渡来人が上毛野で製作したものだろうか。「日本書記」には、上毛野の豪族たちが何度も朝鮮半島に渡航していたともいう。「観音塚考古資料館」の資料では、渡来人が多くこの地に存在したことが推測されるとある。

 榛名山ニツ岳が、6世紀前半に2度噴火した。火砕流や泥流に埋没した南東麓の集落は、発掘により当時の古墳時代の姿が、まるでポンペイの町のようによみがえった。火山灰で閉じ込められた豪族の館、竪穴住居、水田など、当時の生活や文化が明らかになり、今日の群馬の考古学研究が大きく前進したそうだ。

 群馬は、東国で巨大な権力を持つ複数の首長が、肩を並べていたという「古墳王国」であった。群馬県には、他県にはない「上毛かるた」や「群馬交響楽団」など、県民に身近な文化もある。県内の大規模な古墳総合調査のことや、充実した博物館・資料館を観覧し、群馬県が遺跡整備や文化財保護にも力を入れていることが、伝わって来る。

2020年7月 5日 (日)

群馬県立歴史博物館

 2020年6月28日(日)、群馬県高崎市にある「群馬県立歴史博物館」を観覧する。

 

 朝から土砂降りの雨の中、8:00出発。上武道路(国道17号バイパス)を経由し、9:35前橋市西大室町の「大室公園」南口駐車場に到着。

 公園内の大室古墳群を見学した後、10:25「大室公園」出発。

 大室古墳群については、本ブログ記事「群馬の古墳めぐり」を参照。

 

 11:00、高崎市綿貫町の「群馬の森公園」着くころには、雨が止む。

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 公園には、「群馬県立歴史博物館」と「群馬県立近代美術館」がある。11:10、「群馬県立歴史博物館」に入館(入館料300円)。

●群馬県立歴史博物館 11:10~12:35

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 常設展示は、①原始 ②古代 ③中世 ④近世 ⑤近現代の5つのテーマに分かれている。

 《原始》 土器文化と定住生活

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 《東国古墳文化》 全長97m、高さ9mの「綿貫観音山古墳」(高崎市綿貫町)の復元模型。盗掘に遭わず多くの副葬品が多数出土した。

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 《東国古墳文化》  「綿貫観音山古墳」から出土した埴輪や副葬品の数々。

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 馬の埴輪が目立つ。古代、この地域は馬の産地で、県名「群馬」の由来となった。渡来人が、この地に馬とその飼育方法をもたらした。

 《古代》 「上野三碑」(こうずけさんぴ)。左から金井沢碑(かないざわひ)、多胡日碑(たごひ)、山上碑(やまのうえひ)の石碑のレプリカ。

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 7世紀以降、律令支配と仏教文化の広まりで、文字が普及した。「上野三碑」は、高崎市の南西部半径3Km以内の範囲に集中して存在し、当時の仏教、政治、家族関係を示す貴重な資料。国指定史跡だが、ユネスコ「世界の記憶」に登録された。

 群馬県の地域は毛野(けの)と呼ばれていたが、やがて栃木県地域に政治勢力が出来ると下毛野(しもつけの、現在の栃木県)と分かれ、元の毛野は上毛野(かみつけの)と呼ばれた。8世紀初頭(奈良時代)に全国の地域が漢字2文字に統一され、上野(かみつけの、こうづけの)と改められた。

 《中世》 山間部から石塔・石仏の石材が多く採石され、流通した。右は、石造不動明王立像。

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 《近世》 倉賀野宿・河岸の模型。左に中山道と右に利根川支流の烏川。関東北辺の水陸交通の要衝として、産業・文化が栄えた。

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 《近代》 富岡製糸場の模型。世界遺産である富岡製糸場は、明治に5年建設された、日本で最初の官営模範製糸場。

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《近代》 中島飛行機の疾風(はやて)と木製プロペラ。

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 《現代》 ラビットスクーターとスバル360

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 航空機産業の技術が生かされたスバル360は、1958年(昭和33年)~1970年(昭和45年)まで生産された。

 今年3月、「綿貫観音山古墳」の出土品が国宝に決定。写真は、「群馬県立歴史博物館」ホームページから転載。

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 左から、国宝の一部の金銅製心葉形杏葉(しんようけいぎょうよう)、三人童女の埴輪、銅製水瓶。心葉形杏葉は馬具の装飾物で、金銅は銅に金メッキを施したもの。


 12:40~13:35、「県立近代美術館」内の「森のレストラン・ころむす」で 昼食。

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 対面に椅子がない、コロナ対策仕様のテーブルに着席。メニューもいつもより少なくしているという。ソースカツ丼950円を注文。

 13:45、「群馬の森」を出て、次の「かみつけの里博物館」へ行く。

 本ブログ記事「かみつけの里博物館と観音塚考古資料館」に続く。

 

 ★ ★ ★

 「群馬の森」は、高崎市にある県立の都市公園。明治百年記念事業の一環として計画され、1968年に整備を始め1974年に開園した。公園内には、現在「群馬県立近代美術館」や「群馬県立歴史博物館」などの施設がある。

 現在の「群馬の森」がある一帯は、烏川と井野川に沿って舟運の便が良く、水車の動力も得やすいという理由から、1882年(明治15年)に 黒色火薬製造の「東京砲兵工廠岩鼻火薬製造所」が設置された。その後、「陸軍造兵廠火工廠岩鼻火薬製造所」や「東京第二陸軍造兵廠岩鼻製造所」へと改称し、終戦の1945年(昭和20年)まで軍用、産業用火薬の生産を行なっていた。

 「群馬県立歴史博物館」は、この地に1979年10月に開館した。しかし2011年に展示中の重要文化財に水滴が落ちる事故が発生、文化庁から文化財の公開を取り消された。2016年7月に大規模改修が完了し、リニューアルオープンした。

 博物館の公式ガイドブック「常設展示図録」の序文によると、最初のオープンから38年の歳月を経てリニューアルされたが、その間の歴史・考古学は日進月歩しており、群馬県を取り巻く状況も激変したとある。それは、県内を縦横断する関越道・上信越道・北関東道の高速道路、上越・長野新幹線、国道バイパスの建設、住宅開発・工業団地などの建設、土地改良工事が活発化したことだったという。

 その結果、遺跡調査が空前の規模と数となり、県内で新たな遺跡が次々に発見されたという。こういった人類による開発行為によって、特に考古学が進歩・発展するのは、どこか皮肉な感じがする。しかし群馬県が特に、古墳時代の遺跡の宝庫であることを改めて認識した。その理由は、上毛野と呼ばれたこの地域には古墳時代、東国で有数の勢力を持った豪族(王)が支配していて、最先端の技術と文化を持つヤマト王権と同盟を結び交流していたという解説を知り、腑に落ちた。

2020年2月12日 (水)

国立歴史民俗博物館(中世~現代)

 2020年2月1日(日)、千葉県佐倉市の「国立歴史民俗博物館」に行く。

 本ブログ記事「国立歴史民俗博物館(先史・古代)」の続き。

 

 「国立歴史民俗博物館」(略称「歴博」)は、日本列島に人類が登場した旧石器時代から近代・現代まで、考古学・歴史学・民俗学の総合博物館。

 3年前にここを訪れた時は、第1展示室「原始・古代」はリニューアル中のため閉室。今回は、午前中「先史・古代」と名を変えた第1展示室を中心に観覧した。

 昼食後の13:00~14:00、第2展示室(中世)~第6展示室(現代)は復習のつもりでわずか1時間でザッと見て回った。

 

■第2展示室(中世)13:00~

 平安時代の半ばから戦後期時代にかけて、テーマは、王朝文化(10〜12世紀)、東国と西国(12〜15世紀)、大名と一揆(15〜16世紀)、民衆の生活と文化(14〜16世紀)、大航海時代のなかの日本(15〜17世紀)、印刷文化(8〜17世紀)。

 王朝文化:入口からの展示風景。中央は、屋根飾りの「鴟尾(しび)」。右手は、藤原道長の邸宅「東三条殿」模型。

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 御帳台(右)と王朝貴族の服装。左から十二単(女性)、束帯(そくたい、男性の正装)、白の直衣(のうし、日常着)。

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 京都の町並み。四条室町付近。

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 大航海時代の日本:御朱印船の模型(17世紀)

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 民主の生活と文化:芸能と職人。手前は田楽の装束。奥は大鋸(おが)引き。初めて製材か可能となり建築に一大革新をもたらした。

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■第3展示室(近世) 13:15~

 近世は、江戸時代を中心(16世紀末~19世紀半ば)に、人びとの生活や文化を紹介。テーマは、国際社会のなかの近世日本、都市の時代、人と物の流れ、村からみえる「近代」、絵図・地図に見る近世、寺子屋「れきはく」。

 都市の時代:江戸橋広小路の模型。日本橋と江戸橋の間の南側一帯。江戸の中心部の町。

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 人と物の流れ。多くの道しるべが建てられた。

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 北前船は、大阪と蝦夷地を結ぶ長距離航路で活躍。

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■第4展示室(民俗) 13:25~

 人びとの生活のなかから生まれ、幾多の変遷を経ながら伝えられてきた民俗文化を展示。テーマは、「民俗」へのまなざし、おそれと祈り、くらしと技。

 おそれと祈り:右は、能登の宇出津(うしつ)あばれ祭りの神輿。中央は、沖縄県八重山地方の西表島節祭(しち)では中国伝来の龍船競争も行われる。

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 死と向き合う:佐渡の五十回忌棚飾り。奥に見えるのは、安らかなくらし:移動式の神前結婚式祭壇(東京、明治の終わり頃)。

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 なりわいと技:カツオ一本釣り漁船「竜王丸」。

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 里のなりわいと技の展示。

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■第5展示室(近代) 13:40~

 19世紀後半の近代の出発(明治)から 1920年代(大正~昭和初期)までを、文明開化、産業と開拓、都市の大衆の時代の3テーマで構成。

 文明開化:山梨県に建てられた擬洋風建築の小学校。人々の献金で建てられた。

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 文化住宅の台所。関東震災以後に中流向け家庭のために造られたアパートの台所。水道・ガス完備。

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 都市の大衆の時代:大正~昭和の浅草の町並み。

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■第6展示室(現代) 13:45~

 1930年代から1970年代(昭和5年~昭和45年)までを、戦争と平和、戦後の生活革命の2テーマで構成。

 戦時生活:人生画訓

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 占領下の生活:闇市、露天の実物大の模型。

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 戦後の生活革命:1964年東京オリンピックポスター(左)、1960~70年代おもちゃ(右)。

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 14:05、「歴博」を退場。

 14:15「歴博」の駐車場を出発、佐倉の城下町を巡る。

 本ブログ記事「城下町佐倉」に続く。

 

 本ブログの関連記事「国立歴史民俗博物館」 2017年3月7日投稿

   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-b174.html

 

 

国立歴史民俗博物館(先史・古代)

   2020年2月1日(日)、千葉県佐倉市の「国立歴史民俗博物館」に行く。

 

 「国立歴史民俗博物館」(略称「歴博」)は、日本列島に人類が登場した旧石器時代からの第1展示室、そして現代の第6展示室までの考古学・歴史学・民俗学の総合博物館。

 3年前に「歴博」を訪れた時、第1展示室「原始・古代」はリニューアル中のため、残念ながら閉室していた。今回、「先史・古代」と名を変えた第1展示室を中心に観覧する。

 

 9:50四街道インターで東関東道を降り、10:07「歴博」の駐車場に到着。

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 10:15、入館(入館料600円)。

 

■第1展示室(先史・古代)のエントランス。

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 1983年の開館以来、はじめて第1展示室の「原始・古代」展示を大幅に見直し、2019年3月19日に「先史・古代」と名称を改めリニューアルオープンした。

 プロローグ: 人類の進化の様子を猿人、原人、旧人、新人の段階に分けた概念図。

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 この第1展示室は、以下のテーマから成る。

 Ⅰ 最終氷期に生きた人々
 Ⅱ 多様な縄文列島
 Ⅲ 水田稲作のはじまり
 Ⅳ 倭の登場
 Ⅴ 倭の前方後円墳と東アジア
 Ⅵ 古代国家と列島世界

 副室1 沖ノ島
 副室2 正倉院文書

 

Ⅰ 最終氷河期に生きた人々

 4万年前の最終氷河期の森。ナウマン象もいた。

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  列島に到達した最初の人々。沖縄県の港川で見つかった2万年前の「港川1号人骨」。

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 狩猟採集民とその遊動生活。皮をなめしたり石器づくりの人々のリアルな模型。

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Ⅱ 多様な縄文列島

 縄文文化の時代:縄文人のすがた・かたちは、男162cm、女149cm、手足が長く丸顔、鼻が高く、あごのエラが張っている。

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 縄文人の登場:縄文人は丸顔で彫りが深い等の特徴を持つが、同時期に中国大陸にはこれらの特徴を持つ人は確認されていない。

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 縄文文化の地域性:定住生活により西と東で土器の形が違うなど、地域ごとの文化が発達した。

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 定住生活の進展:縄文人のメジャーフード。季節ごとに何を食べ何を貯蔵するか、計画的に食料を調達していた。

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 縄文人の家族と社会:縄文人の一生。13~18歳で成人儀礼を受け、成人の証しの抜歯や入れ墨。16~20歳で結婚。50歳くらいで一部の人は集落のリーダーとなり、60歳くらいで第一線を退いた。

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 三内丸山遺跡(青森市)の家屋の復元模型。6000年~4500年前。

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 縄文人の祖霊祭祀:一度埋葬された遺体を一個所に寄せ集めて祖霊を祀り、人々のつながりを強化した。

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 縄文人の「おそれ」・「いのり」・「まつり」の展示。

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 輪になるように石や石棒が立てられ、「いのり」の場として使われた。

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Ⅲ 水田稲作のはじまり

 紀元前10世紀後半、新天地を求めて朝鮮海峡を渡って、北九州や薩摩半島にやって来る人々が現れた。

 水田耕作は北九州でしばらく留まった後、紀元前8世紀末頃から南へ、北へと日本列島に一気に拡散した。

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 出土した頭の骨を元に、当時の女性を再現。

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Ⅳ 倭の登場

 弥生時代の人々、つまり倭人が1、2世紀頃の中国の歴史書に登場する。

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 倭が、「漢委奴国王」の金印を手にする。(写真は、パンフから転載)

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Ⅴ 倭の全方後円墳と東アジア

 3~7世紀に築かれた約5,200基もの前方後円墳は、日本の様式だが朝鮮半島にも似たような古墳があったという。

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 倭の境界と周縁:北縁の岩手県中部から北は縄文文化を続ける人々がいたり、南縁の南九州は独自の文化が見られる。 

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Ⅵ 古代国家と列島世界

 仏教が伝来し、寺院の建立によって権力を表すようになり、古墳時代は終末を迎える。 

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 飛鳥京、難波京、藤原京の王宮が出現。

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 平城京を象徴する「羅城門」の模型。701年大宝律令が制定、古代国家が誕生する。

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 古代国家の北、多賀城は政庁と外郭(城柵)から構成された。

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 古代国家の南には、太宰府を設置し西海道を支配した。左下は、太宰府政庁の鬼瓦。

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副室1: 沖ノ島

 福岡県の孤島「沖ノ島」では、4~9世紀(500年間)に航海の安全を祈る祭りが行われた。2017年に世界遺産に登録。

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 島には海外から宝物が運び込まれており、盛んな国際交流があった。実物大の祭祀遺跡の模型で、当時を体感できる。

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副室2: 正倉院文書

 役所の文書や文具まで残されている奈良・東大寺正倉院の模型。左端は、国の平安を祈り写経を奉納する写経生の模型。

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 「正倉院」は、奈良・天平時代を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた建物。1997年に国宝に指定、翌1998年に「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産登録。

 12:00前に、駆け足だったが2時間かけて、第1展示室(先史・古代)を見終わる。

 12:00~12:50、レストラン「さくら」で昼食(古代カツカレー1,030円)、休憩。午後から、第2展示室(中世)~第6展示室(現代)を観覧することにする。

 

 本ブログの関連記事「国立歴史民俗博物館」 2017年3月7日投稿

   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-b174.html

 

 本ブログ記事「国立歴史民俗博物館(中世~現代)」に続く。

 

 ★ ★ ★

 「歴博」のパンフレットによれば、「先史・古代」を対象とする時代は、3万7千年前に日本列島に人類が出現してから、7世紀末~8世紀初頭に古代国家が成立後、10世紀に中世の姿を見せ始める(「平安時代」中期)迄だという。「歴博」の先端的研究が明らかにした先史時代の新しい年代観にもとづき、リニューアル後は約3500年さかのぼった土器の出現、約500年さかのぼった水田稲作のはじまり、開館時には明らかにされていなかった調査成果をふまえた新しい歴史展示になっているという。

 また「歴博」の民衆生活・環境。国際交流という3つの基調テーマ、そして多様性・現代的視点という2つの視点をもとに、中国・朝鮮や北海道・沖縄との関係を重視した展示になっていたのは、目新しい。

 「歴史時代」(有史時代)以前の歴史区分に、「先史時代」というのは昔からあった。しかし昔の学校教科書には「原始時代」と書かれていた。「原始」とは、人類の進化・発展段階において一番初期の段階で、文明社会に対する未開・野蛮というニュアンスもあった。現在は「原始」という概念は学術的には使われず、「先史時代」または「原史時代」などと呼ばれていて、改めて認識する。また「原始人」という表現も、アウストラロピテクス属などと人類の属名を用いて分類するように変わっているそうだ。

 また日本史の「古代」は、古墳時代または飛鳥時代から平安時代までとされていた。古代国家(ヤマト王権)の形成時期をめぐっては、見解が分かれており、3世紀、5世紀、7世紀の各説があるそうで、今でもはっきりしない。「中世」は武士の時代と思っていたが、中世の初め、つまり「古代」の終りも様々な見解があるとは知らなかった。政治権力の分散、武士の進出、主従制、荘園公領制の確立といった中世的な特徴が出現する11世紀後半(鎌倉時代の開始前)までというのが主流だそうだが、律令制から王朝国家体制に移行する平安中期(900年頃以降)とする意見もある。「平安時代」を「古代」と「中世」のどちらに分類するかは、いまだに議論が分かれるそうだ。

2020年2月11日 (火)

城下町佐倉

 2020年2月1日(日)、城下町佐倉(千葉県佐倉市)を巡る。

 本ブログ記事「国立歴史民俗博物館(先史・古代)」(・・・現在、公開準備中)の続き。

 

 千葉県佐倉市の「国立歴史民俗博物館」に行った後、市内の「佐倉順天堂記念館」、最後の佐倉藩主だった堀田正倫の「旧堀田邸」、武家屋敷「旧川原家住宅」、「旧但馬家住宅」と「旧武居家住宅」を巡る。

 

●佐倉市立美術館 (佐倉市新町、14:20~14:25)

 市の中心部にある「佐倉市立美術館」に行く。

 1918年(大正7年)建築の「旧川崎銀行(現・三菱UFJ銀行)佐倉支店」のエントランスホールを保存・活用した美術館。設計者は、矢部又吉。千葉県指定文化財(有形文化財)。写真は、ウィキペディア・コモンズから転載。

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 ここは浅井忠のほか、荒谷直之介、香取秀真、津田信夫など佐倉市と房総ゆかりの作家を中心に収蔵している、というので興味があった。

 受付に行くと、入館料800円と高い。常設展は無料のはず。よく見ると、2020年1月25日(土)〜3月22日(日)、2階・3階の展示室で企画展「メスキータ展」が開催中。メスキータは初めて聞く名前だが、19世紀末から20世紀はじめにかけてオランダで活躍した画家、版画家、デザイナーだそうだ。  

 館内は、1階がロビー、喫茶コーナーと売店。2階は、原則的には常設展示室。3階は市民ギャラリー。ただし、企画展の実施時には2階・3階は企画展の展示室となるようだ。4階はハイビジョンホール、映像による絵画紹介。

 企画展の開催中は、常設展はなし。美術館を諦め、「佐倉順天堂記念館」へ移動する。

 なお佐倉には他に、3年前に観覧した印刷インキのDIC株式会社が運営する「DIC川村記念美術館」や、日本刀を専門に展示する「塚本美術館」などの美術館がある。

 

●佐倉順天堂記念館(佐倉市本町、14:35~15:17)

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 記念館の冠木門(かぶきもん)をくぐると、庭には順天堂の創始者・佐藤泰然(たいぜん、1804-1872)の胸像がある。

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 武家屋敷・旧堀田邸・佐倉順天堂記念館の3館を見学できるお得な「三館共通入館券」540円を購入して入館。ガイドの案内で見学。

 長崎で蘭方医学を学んだ佐藤泰然は、1838年(天保9年)江戸で蘭医学の「和田塾」を開く。1843年(天保14年)に弟子の林洞海に「和田塾」を譲り、佐倉に移住し蘭医学塾兼外科診療所「順天堂」を創設する。

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 佐倉に移住したのは、蘭学を奨励していた佐倉藩主・堀田正睦の招きのよるものとされる。泰然は、町医から藩医となる。

 「順天」とは、中国古書にある「天道に順(したが)う」、つまり「自然の理に従う」の意味。

 泰然は進歩的で行動力に富んでいて、書物だけの知識ではなく実際の診療に役立つ技術を習得する教育を目指し、多くの優秀な近代医学の門人が育った。また天然痘の新しい予防法の導入に力を入れ、普及させた業績も評価されている。

 手術道具の複製。(原品は、順天堂大学所蔵) 

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 手術の様子。当時はまだ麻酔は使ってなかった。

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 「療治定」の複製模型。つまり治療別の料金表。現在の外科、眼科、産婦人科に相当する。

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 佐倉順天堂の復元模型。「順天堂」の業績は全国に知られるようになり、全国各地から医学を志す者が多く集まった。

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 泰然は1859年(安政6年)病気を理由に、家督を優秀な弟子で養子の佐藤尚中(たかなか、1827-1882)に譲り隠居する。

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 尚中は、1861年(文久2年)長崎に留学、オランダ軍医ポンペに西洋医学を学ぶ。明治維新後の1869年(明治2年)、政府から要請されて大学東校(東大医学部の前身)に出仕、大学大博士 (学長) となる。また明治天皇の侍医をつとめた。1872年(明治5年)辞職し、翌年東京下谷(したや)に「順天堂」を開き、1875年(明治8年)に御茶の水に移した。 (現在の順天堂大学 )

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●旧堀田邸 (佐倉市鏑木町、15:17~16:00)

 最後の佐倉藩主だった堀田正倫(まさとも、1851-1911)の「旧堀田邸」に行く。

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 「旧堀田邸」の玄関棟。

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 明治の建築様式を残した旧大名家の純和風の木造住宅。玄関棟・座敷棟・居間棟・書斎棟・湯殿および土蔵、門番所の7棟が、2006年(平成18)に国の重要文化財に指定された。

 堀田正倫は、幕末の佐倉藩主で老中・堀田正睦(まさよし)の四男。安政6年(1859年)、父が井伊直弼との政争により排斥されたため、家督を譲られて藩主となった。

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 1871年(明治4年)の廃藩置県により佐倉を離れ、東京に移住した。明治17年(1884年)に伯爵に叙される。

 明治23年(1890年)佐倉に戻って、私立の農事試験場を設立し農業の振興や、佐倉中学校(現在の県立佐倉高等学校)の教育発展に寄与するなど地域の振興に尽力した。

 ちなみに長嶋茂雄は佐倉市生れで、佐倉高校の出身でよく知られているが、女子マラソンの小出義雄監督も佐倉市の出身、順天堂大学を卒業して佐倉高校でも教鞭を執っていた事は、初めて聞く。

 展示されていた写真は「堀田家農事試験事務所」とその前庭。庭園を含む一帯は、「旧堀田正倫庭園」(さくら庭園)として、2015年(平成27年)に国の名勝に指定された。

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 「旧堀田邸」と「堀田家農事試験場」の模型。

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 「旧堀田邸」は、農事試験場の敷地を含めると3万坪もあったという。現在の「旧堀田邸」と「さくら庭園」の敷地は、その1/3ほどの広さ。

 座敷棟の客座敷。「旧堀田邸」の各棟の床の間の裏に、トイレ(雪隠)があるのは珍しいそうだ。

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 座敷棟の向かいは、先ほど通って来た玄関棟。

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 座敷棟から庭園に続く。

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 他に、居間棟(1階)を見学。居間棟の2階部分、書斎棟は非公開。

 近代化の波が押し寄せた時代、旧大名家の上級住宅の多くは洋風または和洋折衷であった。「旧堀田邸」のように純和風の旧大名家住宅は、全国で三例(他に松戸市の戸定邸(旧水戸藩別邸)、鹿児島市の磯御殿(旧島津藩別邸))のみとも言われている。豪商や豪農のように華美に流れず、質実堅牢な建築とされる。

  

●武家屋敷 (佐倉市宮小路町、16:13~16:35)

 「旧河原家住宅」(千葉県指定文化財)、「旧但馬家住宅」(佐倉市指定文化財)、「旧武居家住宅」(国登録有形文化財)の3棟が公開されている。いずれも江戸時代後期の建築。城下町佐倉の面影を今に残す土塁と生垣の武家屋敷通りに面して、3棟が並ぶ。

 もともと「旧但馬家住宅」が、当時よりこの場所に建っていた。「旧河原家住宅」と「旧武居家住宅」が、それを挟んで移築されたという。

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  旧武居家住宅の裏手の駐車場に車を止め、武家屋敷通りを通って順路の旧川原家住宅に入る。

 

・旧河原家住宅(千葉県指定文化財)

 「旧河原家住宅」は、300石以上の藩士が住む大屋敷。

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 右手前は、井戸。

 

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 土間と畳縁(たたもべり)のない質素な茶の間。

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 「旧河原家住宅」は、市内に残る武家住宅の中で最も古いそうだ。

 座敷には畳縁がある。奥が客間。

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・但馬家住宅(佐倉市指定文化財)

 「旧但馬家住宅」は、100石以上の藩士が住む、規模は中屋敷。

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 「旧河原家住宅」に比べ、少し簡素な門。

 「旧但馬家住宅」だけが、もともとこの場所に建っていたもので、植栽や建物の形も当時のままだという。

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 垣根の左側は、菜園があったのだろうか。

 本物の甲冑が飾られていた。

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・旧武居家住宅(国登録有形文化財)

 「旧武居家住宅」は小知(しょうち)と呼ばれる藩士の小規模な屋敷で、門も更に簡素。小知とは少しの知行、わずかな扶持(ふち)のこと。

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 門が閉まっていて、「旧但馬家住宅」に庭から移動する。

 「旧武居家住宅」の建物は、良い写真が撮れなかったので、ウィキペディア・コモンズより転載。

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 移築・復元の時に茅葺き屋根だったが、維持の問題で銅葺きに変えられたそうだ。

 床の間に飾られた佐倉藩士の肖像写真。

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 移築復元の様子の写真や、出土した茶碗や皿など資料(写真にない)が展示してあった。

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 武家屋敷を後にして、16:45佐倉インターから東関東自動車道、帰路へ。

 

 ★ ★ ★

・堀田正睦

 以前から、順天堂大学や順天堂病院の発祥の地が、佐倉というのは聞いたことがあったが、今回初めて詳しいことが分かった。蘭方医の佐藤泰然が佐倉に来た理由は諸説があるらしいが、堀田正睦が佐藤泰然を江戸から招聘したのは当然の事だろう。

 佐倉藩主で老中の堀田正睦は、老中首座の水野忠邦を補佐して「天保の改革」を推進したが挫折、忠邦と共に辞任する。正睦は、蘭学に傾倒して「蘭癖(らんぺき)」と称された。藩政改革を行い、藩校を拡充して蘭学の導入を図る。佐倉は関東の蘭学の拠点となり、「西の長崎、東の佐倉」と呼ばれた。

 老中に再任、老中首座を阿部正弘から譲られて開港問題でハリスと日米通商交渉に対処。朝廷に条約調印の了承を求めるが失敗。一方将軍の継嗣問題では、一橋慶喜を支持する一橋派であった。紀伊派(徳川慶福を支持)の井伊直弼が政治工作により大老に就任、正睦は老中を罷免される。家督を正倫に譲り隠居、佐倉城で蟄居(ちっきょ)を命じられる。1864年(元治元年)3月、佐倉城三の丸の御殿において死去。享年55歳であった。

 

・佐藤家の系図

 優秀な泰然の弟子だった佐藤尚中は、養子となって家督と「順天堂」を継ぐ。一般には実子を後継にしがちだが、優秀な弟子を養子とする選択は、尚中の後も続き順天堂を発展させる一因となったという。記念館には佐藤家の系図が貼ってあって、主な人物の業績がパネル展示されていた。

 佐藤舜海= 尚中の隠居後に養子となって3代目として「佐倉順天堂」を任され、病院の近代化を図る。後に東京鎮台佐倉営所の軍医。

 佐藤恒二= 舜海の三女の婿養子。舜海が亡くなった後「佐倉順天堂」の4代目院長となり、分院を設けるなど地域医療の拠点になった。

 林薫(ただす)= 泰然の5男。幕府医官の林洞海の養子。外交官として活躍、日英同盟を締結。その後外務大臣・逓信大臣を歴任。伯爵。

 松本良順= 泰然の次男。幕府医官の松本良甫の養子。近代医学に貢献、初代陸軍軍医総監、貴族院議員。男爵。

 佐藤進= 尚中の養子となり佐倉藩医。東京の順天堂医院で外科を担当、日本初の医学博士の学位。日清・日露戦争の陸軍軍医総監。男爵。

 佐藤志津= 尚中の長女で佐藤進と結婚。横井玉子らが創設し経営難となった私立「女子美術学校」(現・女子美術大学)を再建、校長となって発展させた。女子教育発展の功績により、津田梅子(父は佐倉藩出身の農学者・津田仙)らとともに勲六等宝冠章。

 

・佐倉の武家屋敷

 江戸時代の武家屋敷の多くは、藩が所有して藩士に貸し与えたという。身分、石高によって、屋敷の規模や様式が細かく定められていた。武家屋敷は、主に城下の主君の居所の周囲に形成された。

 基本的に主君の居所から近いほど身分の高い人物、遠くなるほどに身分の低い人物が住んだ。特に家老を始めとする重臣は、藩主の居所の近隣に住むことも多かったが、一方身分の低い藩士は町屋や村に近い場所に住んでいた。佐倉の武家屋敷の身分の違う3棟が移築して並んでいるが、一般的には隣接することないようだ。

 石高の違う3つの武家屋敷の様式などを、比較して見られたのは興味深い。佐倉城は、石垣でなく土塁で守られているが、武家屋敷も土塁というのは、共通の理由があるのだろうか。

2019年6月16日 (日)

足利学校と足利氏

 2019年6月1日(土)、栃木県足利市に行く。

 

 足利市は、栃木県の南西に位置する歴史の街。室町幕府を開いた、源氏の流れをくむ足利尊氏の先祖が住んでいた足利氏発祥の地。この辺りは、昔から養蚕が盛んで、織物でも知られていた。足利市には、2015年「あしかがフラワーパーク」に行ったことがある。

 ワゴン車のレンタカーに参加者6人同乗。渡良瀬川に架かる「中橋」を渡って、9:35足利市観光協会の「太平記館」(足利市伊勢町)に到着。休憩後、車を駐車場に置き、歩いて数分の国指定史跡「足利学校」(足利市昌平町)へ。

 

●足利学校(10:10~11:10)

 「足利学校」の創建は奈良時代、平安時代、鎌倉時代など、諸説ある。「坂東の大学」と称され、室町時代から戦国時代にかけては、関東における事実上の最高学府であった。

 国道293号線の歩道橋の上から「足利学校」の全景を望む。

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 足利学校の「入徳(にゅうとく)門」から入場。

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 受付で参観料420円(JAFカード提示で340円)。入学証をいただく。

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 「足利学校の歴史」という紹介ビデオ(約15分)視聴したあと、「学校門」をくぐる。

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 「旧遺跡図書館」は「足利学校」が廃止になった後、明治36年(1903年)に開設。「足利学校」の書物を引き継いだ図書館。

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 「庫裡(くり)」は学校の台所、食事など、日常生活が行われたところ。

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 建物内部に入ると、「足利学校」の歴史を中心に、ゆかりの資料が展示されている。

 「足利学校」の模型。堀と土塁に囲まれている。中央の建物が「方丈(ほうじょう」。その手前L字形の建物が「庫裡」、その右の黒い屋根「書院」。

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 「方丈」は、学生の講義や学習、学校行事や接客のための座敷として使用された。「書院」は、庠主(しょうしゅ=学長)の書斎、応接室。学生への個人授業も行われた。

 「足利学校」の教育内容は、儒学が中心。孔子は儒学の祖。1535年に造られた日本で最も古い「孔子坐像」が祀られている。

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 「足利学校」の蔵書に見る元号「平成」と「令和」の出典。国宝『宋版 尚書正義』(中国南宋時代)と『万葉集』(文化2年(1805年)刊)。写真をクリックすると拡大表示します。
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 「足利学校」跡の東半分は、小学校の敷地になっていたそうだ。1990年(平成2年)、江戸時代中期頃の「方丈」や「庫裡」、書院」の建物や庭園が復元された。下の写真は、「方丈」の建物と奥に「庫裡」の建物。

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 「方丈」の南側にある池と築山の「南庭園」。発掘調査と、江戸時代の絵図を元に復元された。

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 同様に「方丈」の北側にも、復元された築山、池と中島の「北庭園」がある(写真なし)。

 「南庭園」の築山越しに見る「方丈」と「庫裡」の建物。

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 「杏壇(きょうだん)門」と、その先の孔子を祀る孔子廟。改修中のため入門禁止。

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 孔子廟の建物は「大成殿」と呼ばれ、1668年(寛文8年) に造営。様式は、中国明代の古廟を模したものと伝えられている。

 8年前の東日本大震災の影響で傾いてしまったため、2018年11月から改修工事が始まった。屋根瓦を下ろし、回廊や柱を解体する大工事で、創建された1668年以来、記録に残る限り初めての工事だという。工事の終了は2020年3月の予定、総工費・調査費など計9千万円。

 「足利学校」の伝統行事である「釋奠(せきてん)」は、足利市指定の民俗文化財に指定され、毎年11月23日に孔子廟で行われるそうだ。

 工事前の孔子廟「大成殿」での「釋奠」の様子。パンフレット「日本最古の学校 国指定史跡 足利学校」の写真を転載。

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 孔子とその儒学の弟子たちを祭るこの儀式は、古代中国に起源をもち、現在は国内でも数ヶ所でしか行われていない。

 「釋奠」の終了後、庠主(学長)の講話や記念講演も行われるという。今年の11月は、まだ工事が行われているが、「釋奠」行事はどうするのだろうか。 

 「足利学校」から参道「石畳通り」を通って、正面の「鑁阿寺(ばんなじ)」(足利市家富町)の山門に向かう。

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●鑁阿寺(ばんなじ)(11:25~11:50)

 堀に架かる太鼓橋を渡って、立派な山門をくぐる。
 
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 「鑁阿寺」は「足利学校」に隣接し、1196年(建久7年)足利義兼(よしかね)によって創建された真言宗の古刹。足利氏の氏寺。坂東八十八ヶ所霊場十六番札所。この地は足利氏の館(やかた)跡で、国指定の史跡。四方に門が設けられ、境内は堀と土塁がめぐらされているのは、鎌倉時代前後の武士の館の面影を残しているという。

 本堂は国宝。御本尊は大日如来。

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 参拝で正面を見ると、祭壇はシンプルで鏡が置いてある。お寺のイメージが無くなぜ鏡なのか、本堂にいたおばさんに聞くと、「よく参拝客に聞かれるけど・・・」と前置きして「神仏習合の名残り」だそうだ。御本尊は、鏡の後ろの幕の裏に安置されているとのこと。

 国指定重要文化財の経堂(きょうどう)。経堂は経典を納めておくところ、経蔵(きょうぞう)ともいう。

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 栃木県指定重要文化財の西門。

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  国指定重要文化財の鐘楼。

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 「鑁阿寺」の山門を出て、参道へ。

 参道沿いの小公園に建つ「征夷大将軍 足利尊氏公像」。室町幕府を開いた尊氏は、足利氏の始祖・義康(源義家の孫)から数えて八代目にあたる。

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 尊氏は、七代目貞氏の次男として、側室・上杉清子との間に生まれた。生誕地は母の実家で、上杉氏の丹波の国上杉荘(京都府綾部市)とされる。過去、尊氏は足利荘(足利市)で出生したとされていたが、30年ほど前からこの説は否定されているそうだ。尊氏は、鎌倉や京都に住み、足利には来なかったとも聞く。足利一族は、二代目義兼が頼朝挙兵に参加したことや、義兼は母が頼朝のいとこ、妻が北条政子の妹・時子(つまり頼朝の義理の弟)という関係で、鎌倉幕府で優遇されていた。北条家とも代々婚姻関係を結んでいて、尊氏の正妻も北条家の出身だった。

 

●めん割烹「なか川」(11:55~12:55)

 「鑁阿寺」の 参道「石畳み通り」に面して、めん割烹「なか川」(足利市通2丁目)がある。足利市出身の書家・相田みつをの縁(ゆかり)のこの店で昼食。

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 店のお薦め「天ぬきそば御前」(2,100円)を注文。盛り蕎麦、天ぬき、ニシンの甘露煮、炊込みご飯、デザートの水わらびもちのセット。”天ぬき”とは、”天ぷら蕎麦”から蕎麦を抜いたもの。温かいつゆに入った天ぷらでゆっくりと日本酒を飲み、〆に盛り蕎麦を残ったつゆにつけて食べるのが、通の食べ方だそうだ。そんなことも知らずに、まず生ビールで乾杯の後、日本酒を飲みながら天ぷらも蕎麦もニシンも一緒に食べていた。ちょうど昼時で店は満員。地元の人達というより観光客が相手なのか、2,100円はちょっと高かかった・・・・。

 店内には相田みつをの書が、いくつも飾ってあった。

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 めん割烹「なか川」は1945年(昭和20年)、旅館「なか川」として創業した。その頃訪れた相田みつをの作品に対する思いと夢を聞き、支援を始める。「なか川」は、個人では相田みつを作品の日本一の所有者、店内にも季節に応じて作品を展示しているという。
 

 レンタカーを駐めておいた「太平記館」に戻り、お土産購入。

 足利土産は、香雲堂本店の和菓子。日本最古の学校「足利学校」、足利氏の氏寺「鑁阿寺」の古印、足利出身の画家・田崎草雲の落款に因んだ方形の最中(7個入り1,080円)。

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 13:00、レンタカーで出発。「鑁阿寺」の北東方向にある発掘・復元中の「史跡樺崎寺跡」(足利市樺崎町)へ行く。



●史跡樺崎寺(かばさきじ)跡 (13:10~13:35)

 「樺崎八幡宮」の石段下の駐車場に、レンタカーを駐める。

 「樺崎寺」は、「鑁阿寺」の開基で足利氏二代目の義兼によって、1189年(文治5年)に創建。義兼は1195年(建久6年)に出家、1199年(正治元年)に没した。三代目の義氏が、父義兼の霊をなぐさめるため廟所を造り、「赤御堂」と称した。あわせてお堂を建て、八幡神を勧請して義兼を合祀したことが、「樺崎八幡宮」のはじまりとされている。

 「樺崎寺」は、鎌倉時代後期から南北朝にかけて最盛期を迎えたが、戦国時代になって足利氏が力を失うと「樺崎寺」も衰退し荒廃。明治維新後の神仏分離令により、廃寺となった。旧境内域の一部には、「樺崎八幡宮」のみが現在も残る。

 八幡山を背景に、「樺崎八幡宮」が建つ。

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 八幡神は、清和源氏、桓武平氏を始めとする武家に広く信仰されたが、清和源氏は八幡神を氏神として崇敬し、日本全国各地に勧請した。源義家は、石清水八幡宮で元服し自らを「八幡太郎義家」を名乗ったことでも有名。

 本殿は、江戸時代の天和年間(1681〜83年)に再建され、1989年(平成元年)に修復された。

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 「樺崎寺」跡は、1984年(昭和59年)から発掘調査が行われた。旧境内は西側の八幡山を背にし、東を正面として伽藍が営まれていた。山麓には廟所「赤御堂」のほか、多宝塔などがあった。これらの東側には、大日如来を安置する「下御堂」(または「法界寺」)と呼ばれる堂宇があり、浄土式庭園が築かれていた。

 多宝塔の礎石。

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 足利氏御廟の礎石建物跡の案内板。写真をクリックすると拡大表示します。

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 浄土式庭園は、平泉の藤原氏の庭園をまねたものだそうだ。写真は、復元工事中の浄土庭園と池。

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 「樺崎寺」は、「鑁阿寺」と並ぶ足利を代表する寺院であり、鎌倉時代の浄土庭園を持つ寺院として貴重であることから、2001年(平成13年)に国の史跡に指定された。

 次の目的地「ココ・ファーム・ワイナリー」は、 「史跡樺崎寺」から北西の方向、関東自動車道の下をくぐって、足利市田島町へ。

 

●ココ・ファーム・ワイナリー (13:45~14:30)

 1958年(昭和33)、特殊学級の中学生達と担任教師・川田昇によりブドウ畑を開墾。川田は、1969年(昭和44)障がい者支援施設「こころみ学園」を設立し、そして賛同する園生の家族の方々と1980年(昭和55)有限会社「ココ・ファーム・ワイナリー」を創立した。

 平均斜度38度という南急斜面のブドウ畑。ブドウには、日当たりがよく、水はけも良いという。

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 ワインショップ&カフェで休憩。

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 ワインの醸造タンク。

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 ワイナリーはカルフォルニアから専門家を呼んで指導を受け、200年沖縄サミットや2008年洞爺湖サミットで振る舞われ、国際的のも高い評価を受けているという。障がい者支援施設「こころみ学園」は現在140名の園生がおり、88歳を筆頭に約半数が高齢の知的障がい者。園生みんなが、何らかの形でワイン作りに携わっているそうだ。
 
 最後の目的地「織姫神社」は、「ココ・ファーム」から南西の方向、再び北関東自動車道の下をくぐって足利市西宮町へ。「織姫神社」に最も近い織姫駐車場に車を駐める。

 

●足利織姫神社(14:45~15:15)

 織姫山に広がる「織姫公園」、その南端に建つ朱塗りの美しい神殿は足利名勝のひとつ「足利織姫神社」。1300年の歴史と伝統を誇る、足利織物の守護神が奉られている。

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 旧社殿は1879年(明治12)に焼失したため、1937年(昭和12)に再建された。2004年(平成16)には国の登録有形文化財に認定。

 境内から市街地を展望。正面の山は、「足利富士浅間神社(男浅間神社)」。その手前に「女浅間神社」と渡良瀬川に架かるトラス構造の橋「渡良瀬橋」。

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 富士山を眺望、関東平野を遠望できるというが・・・。織姫公園からは「天狗山ハイキングコース」などが整備されている。

 織姫公園の駐車場からでなく、県道40号線の織姫神社交差点から一の鳥居をくぐり、229段ある石段を昇って参拝すると願いが叶うとされている。

 15:15、織姫公園の織姫駐車場に戻り、帰路へ。案内してくれたIさんに感謝。

 

 ★ ★ ★

●足利学校

 「足利学校」の創建については、奈良時代の教育機関という説、平安時代の小野篁(おののたかむら)が創設したという説、鎌倉時代の初期に「鑁阿寺」を開いた足利義兼が建てたという説がある。明らかなのは、室町時代の上杉憲実(のりざね)が学校を再興したという。学校を整備し、孔子の教え「儒学」の五つの経典のうち四経の貴重な書籍(多くは現在、国宝)を寄進。鎌倉から禅僧・快元(かいげん)を招き、初代の庠主(しょうしゅ:校長)とし、学生(僧)の養成に力を注いだ。その後は、代々禅僧が庠主になったという。

 室町時代には儒学、特に「易」について学校に学んだ僧は非常に多く、永正年間(1504~1520)から天文年間(1532 ~1554)には学徒三千といわれ、事実上日本の最高学府となり大いに発展した。フランシスコ・ザビエルは1549年、「日本国中最も最大にして有名な坂東の大学」と世界に紹介した。

 江戸末期には役割を終え、書籍も散逸の危機に陥った。南画家の巨匠・田崎早雲などの尽力で保存され、1903年(明治36)に「遺跡図書館」が造られた。1921年(大正10)、「足利学校」跡は孔子廟、学校門などの建物を含め国指定史跡となった。1982年(昭和57)の「足利学校」の東半分にあった小学校の移転を契機に史跡の保存整備事業に着手、1990年(平成2年)に江戸中期の絵図を基に「方丈」や「庫裏」、庭園などが復元された。

 室町時代から戦国時代にかけて、関東の最高学府と言われる「足利学校」がどんなものかが、よく分かった。明治以降に廃校になってしまったが、その直後に書籍などの文化財を保存しようという有志たちは立派。10年の歳月と15億円をかけて、やっと今の形に復元されたそして足利市の熱意も素晴らしい。

 「足利学校」の「杏壇門」の扁額と「大成殿」の建物。 パンフレット「日本最古の学校 史跡足利学校」の表紙を転載。

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●足利市と足利氏の歴史 

 足利市は、足利氏発祥の地であり、源義家(八幡太郎義家)の孫の義康(よしやす)が源姓足利氏を名乗り、この地を治めたことが始まり。鎌倉時代には、足利氏二代目の義兼が居館を現在の「鑁阿寺」に置き、義兼の子孫も足利に住み、多くの寺社を建てたことから、市内には足利氏ゆかりの社寺が点在する。

 足利は、昔から織物業で栄えた。その歴史は奈良時代まで遡り、絹織物が税として朝廷に納められたとある。大正から昭和初期にかけては「足利銘仙」の生産が盛んで、安価な銘仙は日本中の人々に愛用された。足利銘仙は足利市を大きく発展、銘仙業者の手で「足利織姫神社」も立派に再建された。戦後はトリコット(縦編みメリヤス)生産が盛んで、昭和30年代には日本一の産地に成長。現在では、アルミや機械金属、プラスチックなどの工業が中心となっている。

 平成の時代になって「足利学校」の復原が完成、NHK大河ドラマ「太平記」(足利尊氏が主人公の物語)の放映(1991年)など、足利市は観光のまちとして有名になった。現在では「足利学校」や「鑁阿寺」をはじめとする社寺、「あしかがフラワーパーク」、「栗田美術館」などの名所旧跡に多くの観光客が訪れる。

  足利市は1921年(大正10年)に市制施行、現在の人口は約15万人。栃木県の南西部に位置し、東京から北へ約80km、栃木県佐野市、群馬県桐生市・太田市・館林市・邑楽郡に接している。

 

●森高千里の「渡良瀬橋」

 足利市の中央を渡良瀬川が流れる。「渡良瀬橋」は、この川に架かる県道5号線(足利太田線)、東武足利市駅から西へ約500mほど先、「中橋」の上流にあるトラス橋。足利市は、歌手の森高千里が1993 年に発表した名曲『渡良瀬橋』の歌詞に登場したことによって、ファンの間で全国的に知られるようになった。

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  50万枚に迫る大ヒットとなったこの曲は、リリースした翌月に足利市から森高に感謝状が贈られ、地元の人から愛された。橋の上から望む夕日の美しさは、森高の曲に歌われるほど。2007 年には「渡良瀬橋」と夕日が一緒に見える場所に、歌碑が建立されたそうだ。

 

●ペタンコ祭り(初山祭り)

 この日の足利市街では、打ち上げ花火が1時間おきに聞こえ、どこやらでお祭りの様子。街では、額に朱印が押された幼児や乳児を目にする。6月1日に開催される「ペタンコ祭り」は、400年以上も前から始まったとされ、足利市の指定民俗文化財。その昔、足利地方に起こった洪水・疫病・飢饉で多くの子供が苦しんでいた時、「足利富士浅間(せんげん)神社」の浅間山(標高108m)から見事な龍が立ち上り、子供たちが救われたという伝説があるそうだ。

 「ペタンコ祭り」は、この1年に生まれた新生児を連れて参拝し、御朱印を赤ちゃんの額に”ペタンコ”と押してもらい(御朱印代500円)、無病・息災・開運を祈願する。男の赤ちゃんは男浅間神社(「足利富士浅間神社」の上宮)へ山道を登り参拝。御朱印は、桜の花の形の中に浅間神社と書かれている。女の赤ちゃんは、男浅間神社より低い山の女浅間神社(下宮)に登って参拝。御朱印は、2cm角の角印で山の形と浅間神社と書かれている。

 足利市広報『あしかがみ』 2013年6月号の表紙から転載

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 必ずしも1歳未満の赤ちゃんではなくても、参拝・祈願出来るそうだ。兄弟姉妹がいる家庭もあるので、どちらの山に登ってもそれぞれの神社で、両方の御朱印が用意されている。渡良瀬川右岸の河川敷には臨時駐車場が設けられ、屋台も出て参拝客で大賑わいだという。

 なお、全国に1300余の富士山信仰の浅間神社があるが、御神体は富士山、御祭神は木花佐久夜姫(コノハナノサクヤヒメ)。初めて霊山に登り参拝することを「初山参り」と呼ぶが、このように1歳未満の子供が毎年決まった日(山開きの日?)に、「初山参り」や「初山祭り」の祭事を行うところが、他にも北関東の一部にいくつもあるようだ。

 

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  「紅葉の上州沼田と足利のイルミネーション」 2015年11月16日投稿

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2017年3月 7日 (火)

国立歴史民俗博物館

 2017年2月26日(日)、佐倉市にある「国立歴史民俗博物館」に行く。

 

 ワゴン車に参加者7人が同乗、7:35出発。「国立歴史民俗博物館」は、千葉県佐倉市城内町、「佐倉城址公園」の一角にある。9:55、博物館到着。

 

 (写真はクリックすると拡大表示します。)

 

 

 

 

 

●国立歴史民俗博物館(9:55~12:40)

 

 正式名称は、「大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国立歴史民俗博物館」。略称は、「歴博」。

 

 歴史学、考古学、民族学の大学共同利用機関で研究を推進するとともに、あわせて資料を展示・公開する博物館としての施設。35年ほど前に開館した比較的新しい国立の博物館で、約13万平米の敷地に延べ床面積約3万5千平米の規模を有する壮大な「日本の歴史」の殿堂。

 

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 広々とした博物館のロビー。10:10、展示室に入場。

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●第1展示室(原始・古代)・・・日本列島に人類が登場した旧石器時代~律令国家が成立した奈良時代まで。

 

 残念ながら、リニューアル中のため閉室。

 

●第2展示室(中世)・・・平安時代~安土桃山時代

 

 平安京のジオラマ

 

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 「王朝文化」; 女房装束の十二単、男性の左が束帯(そくたい、正装)、右は直衣(のうし、日常着)など貴族の服装を展示。唐風文化に代わって独特な王朝文化が花開く。

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 「大名と一揆」; 室町時代は大名が力を持つ一方、地域的な自治も発達した。戦国大名朝倉氏の一乗谷遺跡、一揆関係の資料、京都の町並の再現模型などが展示。「洛中洛外図屏風」を元にした京都の町並のミニチュア(写真中央)は、良く出来ていた。

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 「民衆の生活と文化」エリア; 中世後期は、底辺の民衆が歴史の表舞台にはなばなしく登場、農業や手工業の技術が発展し、多くの芸能も生まれた。

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 中世の賑やかな「市」の様子。

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 縦引き鋸(のこぎり)と職人。この鋸は、製材に一大革新をもたらした。

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 芸能(田楽)の装束。奈良春日社など、現代の祭礼に名残をとどめる。

 

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 煎じ物売りの商人。

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 「大航海時代のなかの日本」; これまでの中国(明)を中心とした交易から、ヨーロッパ勢力の東アジア進出は多くの文物をもたらし、特に鉄砲とキリスト教は日本に大きな影響を与えた。写真下は、御朱印船の模型。

 

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 そのほかの展示エリアは、

 

 「東国と西国」; 中世では、東の鎌倉幕府と西の朝廷とに分権化する。それによって文化・生活の違いが顕著になるが、一方で人々や物資が東西を交流する。

 

 「印刷文化」; 平安の経典などから近世初期の古活字本など、印刷文化の歴史を紹介。

 

 

 

●第3展示室(近世)・・・江戸時代

 

 「国際社会のなかの近世日本」; 近世では「鎖国」をしていたと思われがちだが、中国、オランダ、朝鮮、琉球、アイヌとの交流していた。特に松前藩を通じてのアイヌとの交流は初めて知ることが多く、興味深い。

 

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 「都市の時代」; 近世は、各地に城下町ができ、現代にもつながる都市が作られた「都市の時代」だった。江戸中心部の町・日本橋付近の模型も良く出来ている。

 

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 「ひとともののながれ」; 各地に都市ができ新たな物流が生まれ、また庶民が旅行するようになると全国の交通網が整備された。写真中央は各地に建てられた道標、左には旅篭屋(はたごや)、右に北前船。

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 「村から見える近代」; 「四季農耕図屏風」には、農民の生き生きした働く姿や暮らしぶりが描かれている。村びとは、技術開発によって生産性を向上させ、暮らしのゆとりが出来ると学んだり、娯楽を楽しんだりする一方で、貧富の差も広がる。

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 江戸時代も末期になると、幕府を批判する考え方や、自分たちの地域の文化や歴史をみつめ直そうという動きが起こり、「近代」社会の担い手もこのなかから生まれました。村に住んでいた人たちが考えていたことや活動していたことを紹介。
 

 

 第3展示室では、特集展示「見世物大博覧会」が開催中。

 

 江戸時代に隆盛を極め、明治から現代に至るまで命脈を保ってきた多種多様な「見世物」の様子を、本館や個人が所蔵する絵看板、錦絵、一枚摺(ずり)などを紹介。残念だが撮影禁止。写真は、歴博のパンフから転載。

 

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●第4展示室(民俗)・・・列島の民俗文化を紹介しながら、過去を振り返り未来を見つめる。

 

 「民俗へのまなざし」; 産業開発や消費文化の影響を受けつつ変貌する民俗を展示。

 

 サブテーマ「ひろがる民族」では、時代によって三越デパートの「おせち料理」がどう変化したかを食品サンプルで展示されていたが、ここだけは撮影禁止。

 

 サブテーマ「開発と景観」では、世界遺産に登録された白神山地、屋久島、五箇山・白川郷の合掌造りの景観が保全される一方で、生活文化が改変されている。

 

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 同上サブテーマの沖縄戦跡と観光、西表島の自然についての展示。

 

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 「おそれと祈り」と「くらしと技」; 3月31日まで、施設工事のためエリアを閉室。

 

 

 

●第5展示室(近代)・・・明治・大正。19世紀後半近代の出発~1920年代まで。

 

 「文明開化」; 公教育の成立・普及、民間の学習活動、自由民権運動などを展示。

 

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 急激な文明開化は、人々の経済や生活に多くの動揺と混乱を生じ、貧困と格差、伝統文化の破壊、抑圧や差別の歴史をあぶりだすことになった。

 

 「産業と開拓」; 政府は、殖産興業や富国強兵をスローガンに、多くの国民の犠牲のもとに近代化政策を推進した。生糸と海外貿易についての展示。

 

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 政府は、国策の基幹産業といえる製糸、製鉄のほか北海道開拓を進めるが、一方で様々なひずみを生じた。アイヌに対しての和人同化の強制政策についての具体例は初めて知る。

 

 「都市の大衆の時代」; 近代工業の推進は、産業構造を変化させ、農村から都市変人口移動を加速し、都市の大衆化、消費文化が始まった。

 

 消費文化に着いて、飲料、化粧品、衣料などのポスターを展示。

 

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 浅草の町並。正面は活動写真館の券売所がある。

 

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 やがて1923年(大正12年)、関東大震災が大都市東京を襲うことになる。
 

 

●第6展示室(現代)・・・1930年代~1970年代、戦前と戦後 

 

 「戦争と平和」; 明治から大正、昭和と、日本は数々の戦争を繰り返した。富国強兵が国家目標とさ れ、そのために国民と他国民に多くの犠牲を強いた。戦争終結から占領下の生活を展示。

 

 写真中央の「入営祝いの幟(のぼり)」は、親類・知人が贈ったもので、見送りの際に各家庭の前や駅などに立てられた。

 

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 占領下の生活、闇市・露天商を実物大のマネキンで再現。

 

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 「戦後の生活革命」; 1950年代半ばから70年代初めまでの高度成長は、重化学工業を中心とした産業がそれを支え、農村から大量の人口が都市へ流入した。電化生活が実現し、都市型生活が広がった。

 

 大衆文化からみた戦後日本のイメージとして、昭和の映画、テレビ番組、CM、雑誌などが展示されていた。懐かしいものがたくさんあってゆっくり見たかったが、あいにく集合時刻まで残り少なくなった。

 

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 東宝映画『ゴジラ』の造作模型。

 

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 11:45、館内のレストラン「さくら」に入店。佐倉丼(豚丼)や古代米のカレーを注文(1,300円)。 

 

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 13:30~ミュージアムショップ。関連図書や博物館グッズが販売されている。本館のガイドブック(540円)を購入。

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●佐倉城址公園(12:40~13:10)

 

 博物館を退場し、城址公園内を散策する。日曜とあって家族連れが多い。さすがにサクラの木が多く植えられていて、花見の頃にはさぞ賑やかだろう。

 

 江戸時代の佐倉城は、佐倉藩の藩庁。明治以降は、歩兵第57連隊(通称・佐倉連隊)の駐屯地となった。

 

 写真は「佐倉陸軍病院」跡地に建つ石碑。戦後は「国立佐倉病院」となり後に移転するが、現在は国立千葉東病院と統合。

 

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 正岡子規の句碑「常盤木や冬されまさる城の跡」が建つ。

 

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 二の丸から本丸に入る二階建て「一の門跡」があった。

 

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 城の防御のための土塁と本丸跡。城郭は石垣を一切用いない土造りで、干拓以前の広大だった印旛沼を外堀の一部にした。

 

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 本丸の隅、赤いパイロンの付近に天守の代用の三重櫓(三階建てのやぐら)があった。

 

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 この後の行動は、本ブログ「DIC川村記念美術館」につづく。

 

 

 

 ★ ★ ★

 

 東京・京都・奈良の3か所の美術系博物館は明治時代から存在したが、歴史系の国立博物館(以下、歴博)を設置するべきとの意見は古くから出ており、特に歴史学者の黒板勝美が訴えていた。設置構想が具体化するのは、戦後になってから。1966年(昭和41)「明治100年」記念事業一環として歴博の設置を決定、学識経験者らによって検討が始まった。

 

 1971年(昭和46)文化庁内に歴博設置の基本構想委員会、1978年(昭和53)には歴博設立準備室が設置された。歴博を考古・歴史・民俗の3分野を柱とし、あわせて大学共同利用機関とするコンセプトは、準備室長の歴史学者で東大名誉教授・井上光貞によるところが大きい。

 

 歴博は1981年(昭和56)に発足、設置準備において指導的立場にあった井上が初代館長となった。ただし博物館としての一般公開が始まるのは、2年後の1983年(昭和58)3月。公開直前の2月に井上は急死する。2代目館長は、東大文学部の土田直鎮教授が引き継いだ。

 歴博は展示施設であるとともに、考古学・歴史学・民俗学の研究機関であり、他の研究機関や大学と共同で研究を推進し、調査研究の基盤のもとに収蔵品の展示を行うことが重視されている。収蔵品は、「収集資料」と「製作資料」とに大別される。「収集資料」は実物資料で、古文書、古記録、絵図などの歴史資料、考古資料、民俗資料など。これらは、歴博開館時に文化庁から移管されたものが大部分を占めるという。「製作資料」は、建造物の模型、古墳や町並み・集落などの復元模型、考古資料など遺物の模造(レプリカ)などがある。

 

 話に聞いた通り、天皇や将軍といった権力者中心ではなく、庶民の立場からの日本史をわかり易く、ビジュアルに展示・解説してあって、教科書では習わなかった事柄(例えばアイヌの事など)も多く、非常に有益であった。

 

 2時間近く見て回ったが、全部を見きれなかった。中世、近世の庶民の歴史・風俗に関心があって時間を費やして詳しく見たが、第6展示室(現代)では時間がなくて通り過ぎただけだった。今回は第1展示室(原始・古代)が閉室だったので、特に原始時代の考古学的資料が見られなかったのは残念。歴博は、何度も足を運んで観るものらしい。少々遠い所だが入場料も安いので、機会があればぜひまた行ってみたい。
 
 

 

 ★ ★ ★

 

 佐倉城は、1610年(慶長15年)に土井利勝(後に幕府の老中、大老)が徳川家康の命を受け完成した。江戸時代初期には城主の入れ替わりが多かったが、後に堀田氏が入封し幕末まで続いた。城主は江戸幕府の要職に就くことが多く、幕末の藩主で老中を努めた堀田正睦(まさよし)は有名。

 

 正睦は蘭学を奨励し、医師・佐藤泰然を招いて城下に医学塾・順天堂(現在の順天堂大学の起源)を開いた。幕府老中となり、ハリスとの日米修好通商条約締結に奔走する。しかし孝明天皇の勅許を得られず、井伊直弼の大老就任によって失脚した。

 

 佐倉城址公園には、堀田正睦とタウゼント・ハリスの銅像が並んで建っている。
 

 

 常盤木や 冬されまさる 城の跡

 

 正岡子規の句は、既に病魔にむしばまれていた26歳くらいの1894年(明治27)12月、開通したばかりの総武線を利用して佐倉を訪れて詠んだとされる。

 

 「冬の荒れ果てた寂しさが増した城跡は、常緑樹に包まれている」という意味だそうだ。「常盤木(ときわぎ)」は、常緑広葉樹林のこと。「冬され」と歌っているが、一般的には「冬ざれ」のことで、冬の荒れさびれた姿として用いられる季語だという。枯れ果てた古城より、常盤木のような生き生きとした軍事基地を、「冬されまさる」とは表現した。

 

 日清戦争が激しさを増している最中、新設なった総武線路によって大陸への人員・物資輸送に活況のある城址駐屯地のありさまと、荒れさびれた古城の対比を見て、子規はどう感じたのであろうか。

2016年4月26日 (火)

九州国立博物館

 2016年4月12日(火)、福岡県太宰府市にある「九州国立博物館」へ行く。

 

 

 

 通称「九博(きゅうはく)」は、4番目の国立博物館として「太宰府天満宮」の裏、同宮所有の丘陵地に建設され、2005年10月に開館。

 

 明治時代に開館し100年以上の歴史を有する東京、京都、奈良の3つの国立博物館が美術系博物館であるのに対して、九博は歴史系博物館である。「日本文化の形成をアジア史的観点から捉える博物館」をコンセプトに、旧石器時代から近世末期までの日本の文化の形成について展示している。アジア地方各地との文化交流を推進する拠点としての役割も持つ。

 

 

 

 5年前に太宰府天満宮を参拝した折、時間の都合でそばを通っただけで行けなかった。

 

 午後2時過ぎ、福岡空港に到着すると、旧友が車で迎えに来ていて、そのまま大宰府へ。3時ごろ入館。館内はやはり、撮影禁止。

 

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 建物は160m×80m の長方形で、独特の曲線を持つ蒲鉾型。屋根の一番高いところで36m、10階建てのマンションより高い。側面の外壁は全面ガラスウォール。

 

 九博の建物内部には、多くの木材が使用されている。エントランスホールの天井には、福岡県と宮崎県産の間伐材が使用。また、収蔵庫の天井と壁には吸湿性が高い九州各地の杉、床は北海道のブナが用いられているという。

 

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 3月15日~6月12日の期間で、特別展「始皇帝と大兵馬俑」が3階フロアで開催中。観覧料は、一般1,600円。

 

 この特別展は、東京国立博物館で昨年10月から開催され今年2月で終了、見逃していたのでタイミングが良かった。九博の後は、国立国際美術館(大阪)で7月~10月で開催予定だそうだ。

 

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 この特別展は、秦王朝と始皇帝にまつわる貴重な文物と兵馬俑(へいばよう)が展示されている。音声ガイド機を借用(520円)して、順路に沿って展示室を回る。

 

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 写真は、「始皇帝と大兵馬俑」のパンフから引用。右から、将軍俑、軍吏俑、歩兵俑、跪射俑、軍馬。

 

 

 

 第1章は、秦王朝の軌跡 - 周辺の小国から巨大帝国へ

 

 中国辺境の一小国だった秦は、やがて戦国の乱世を勝ち抜いて天下を統一していく。その成長の過程には様々な変化があった。青銅器、玉器、金銀器、土器など、展示された秦の文物でその軌跡をたどる。

 

 西周王朝の高度な文化を模倣したり、周辺の競合国や北の遊牧民の文化や技術・デザインを取り入れたり。それらをもとに自国の文化に洗練したり、占領した国の宝物の銘文を書き換えたりで、なかなか興味深い。

 

 写真左は、西周王朝の形や銘文をまねた青銅の鐘。右は、西周王朝の優れた玉器の文化を取り入れた玉と瑪瑙(めのう)の胸飾り。

 

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 秦と北方遊牧民との交流を示す玉剣と金剣鞘。

 

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 紀元前数世紀頃は、日本は弥生から古墳時代。同じ時代には、中国にこういった高度な文明があったことに改めて驚く。

 

 

 

 第2章 始皇帝の実像 - 発掘された帝都と陵園

 

 天下統一を成し遂げた秦王は、それまでの「王」を越える存在として「皇帝」と称し、自らを「始皇帝」と名乗った。統一のために始皇帝は次々と独裁的、中央集権的な政策を実行していく。全国に普及させるために、重量基準の分銅を多数製造したりして度量衡(重さ、長さ、体積など)や文字、通貨の統一を行った。と言っても、従来の秦の制度を占領国に押し付けたのが実態であったという。

 

 木や竹に書かれた公文書を改ざんされないように、泥(粘土)の塊に印を押した封泥(ふうでい)が多く発見されている。首都として発展した咸陽の発掘調査で出土した瓶や壺、宮殿の瓦やレンガ、壁画、水道管(写真下左)などが展示されている。

 

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 以上、展示物写真5枚は、「始皇帝と大兵馬俑」のパンフから引用。

 

 

 

 
 第3章 始皇帝が夢見た「永遠の世界」 - 兵馬俑と銅馬車

 

 秦では始皇帝の以前の世代から、陶俑(とうよう)と呼ばれる騎馬(写真上右)や侍従などの像や穀倉、竈(かまど)の模型など、10~30cmの単純化されたミニチュアが墓の副葬品として存在していた。

 

 このような死後も永遠と日常生活が続く「他界観」という思想が、始皇帝の兵馬俑につながっていると考えられている。

 

 兵馬俑は、将軍や軍馬など実物10体と複製50体を展示。それらを収めた地下坑「兵馬俑坑」のイメージを再現して、兵馬俑を見下ろせるよう高さ90cmのスロープを設置してある。

 

 将軍俑や軍吏俑、歩兵俑、立射俑(立ち姿の射手)、跪射俑(きしゃよう、片膝立て姿の射手)、騎兵俑と軍馬、御者俑(馬車を操る人)、馬丁俑(馬飼い)、雑技俑(力士か芸人か?)など様々な兵馬俑が展示。

 

 等身大に造られた陶製の像は、一体ずつ顔が異なり、髪型、冠、服装、靴、装飾品、鎧など細部に至り写実的で階級や役割など反映させた始皇帝の軍団そのものである。高度な技術、多数の職人と年月を要する巨大プロジェクトは、絶対的な権力者だからこそ実現できた。空前の規模で築き上げた陵墓の「永遠なる世界」を目のあたりにする。実際の兵馬俑は、武器を持っていて、着色されていた。

 

 銅車馬は実物の1/2の大きさで、展示品は精密に再現された複製。1号銅車馬は、先導車。4頭立て2輪馬車に御者が直立し、馬車には傘が立つ。

 

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 2号銅車馬は、始皇帝の御用車。4頭立て2輪馬車に御者が坐し、屋根付き馬車の左右に窓、後方には扉がある。2号車の背後には、始皇帝陵があるそうだ。

 

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 1号銅車馬と2号銅車馬の写真は、「始皇帝と大兵馬俑」のパンフから引用。

 

 

 
 4階フロアの文化交流展示(常設展)「海の道、アジアの路」を観覧。

 

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 九博のホームページでは、以下のようなことが書いてある。

 

 文化交流展示室では、時代別の5大テーマに分けて、常に展示替えをしながら、常設展示を行っている。小さな特集陳列の集合体が文化交流展示であり、何度、来館しても、新鮮な文化交流史が分かるような切り口を提案したいと思う。だからぱっと見ただけでは意図が伝わりにくい。これは他の博物館では行っていない初めての試みである。

 

 5大テーマは、次の通り。

 

  1.旧石器~縄文文化 「縄文人海へ」

 

  2.弥生~古墳時代 「稲づくりから国づくり」

 

  3.奈良、平安時代 「遣唐使の時代」

 

  4.鎌倉、室町、安土・桃山時代 「アジアの海は日々これ貿易」

 

  5.江戸時代 「丸くなった地球、近づく西洋」

 

 

 

 時間が無くてゆっくり観覧できなかったが、たしかに常設展示はパッとしない。「海の道、アジアの路」と題して、そういった切り口での日本史を見るのは興味があるが、なんとなくダラダラと並べられていてインパクトというか、印象に残らない。

 

 歴史の浅い九博の宿命は、収蔵作品数がきわめて少なく、地元、他館、所蔵家からの借用でまかなわれているという。展示物に歴史的、美術的価値の高い国宝級のものが少ないせいもあるし、説明の仕方、ディスプレイの仕方も、観る人に印象付けるような、もっと工夫の余地があるような気がした。

 

 

 

 夕方5時前に博物館を出て、博多へ。6時~旧友らと料亭「稚加栄」で旧交を温める。

 

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 ★ ★ ★

 

 中国では、紀元前2000年頃、黄河中流域に始めて「夏(か)」王朝が誕生、紀元前1600年頃には「殷(いん)」に、紀元前11世紀には「周」王朝にとって代わる。しかしこれら初期の王朝時代は、統治が緩やかであり、地方の小国勢力は常に覇権を争っていた。

 

 中国西方の甘粛省の山あいで農耕と牧畜を営む小さな勢力の秦は、西周王朝の諸侯の一つとなり、富国強兵を推し進める。やがて春秋戦国時代になって、次第に競合諸国を領有し、天下統一を目指して強力な専制政治を行う巨大帝国へと成長していく。

 

 紀元前221年、戦国時代に終止符を打った秦王の嬴政(えいせい)は、事実上中国全土を統治する。嬴政は、自らの権勢を強化するため、始めての皇帝という意味の「始皇帝」を名乗る。

 

 始皇帝は、中央集権や郡県制の実施、度量衡や漢字の統一など様々な政治改革、経済改革を行った。また匈奴などの北方民族へ対抗するため万里の長城の建設、それに加えて巨大な宮殿「阿房宮(あぼうきゅう)」の建築、兵馬俑で知られる皇帝陵墓の建設など、多くの農民を使役させて、次々と巨大プロジェクトを展開していく。

 

 秦王朝の首都・咸陽(かんよう)には、始皇帝の全国の富豪や美人たちを強制移住させ、阿房宮の大工事により人口が集中、当時としては稀な巨大都市になっていった。

 

 過酷な労働と厳格な法治主義、儒教弾圧や「焚書坑儒」などの思想弾圧は、全国人民の不満を高め、のちの反乱につながってゆく。

 

 

 

 始皇帝は自らの権威を誇示するためもあって、広大な秦の領地を時間かけて視察(天下巡遊)に回った。視察先には、皇帝が通行するため、幅70mもある道路も造らせた。巡遊5回目の旅の途中で始皇帝は病に侵される。不死の効果があるとされた有毒の水銀入りの薬を服用するなどして、逆に命を縮めて紀元前2010年49歳で死去した。

 

 それからすぐ小さな反乱が起きる。始皇帝の圧政に苦しんだ農民なども反乱に加わり、数十万にまで膨れ上がる大反乱に発展する。この反乱に、秦の二世皇帝である胡亥(こがい)は、即位3年目にして自害に追い込まれた。

 

 秦最後の王・小嬰(しえい、胡亥の兄の子)は、咸陽に迫って来た反乱軍の劉邦に降伏し、身の安全を保障された。しかし、劉邦に続いて咸陽に入城した項羽によって、一族もろとも殺害されてしまう。

 

 始皇帝によって初めて中国を統一した輝かしい秦帝国は、紀元前206年にあっけなく滅亡してしまう。阿房宮から美女や財宝が略奪され、火をかけられた咸陽は廃墟となった。

 

 秦滅亡後、西楚の覇王・項羽との「楚漢戦争」に勝利した漢王・劉邦は、長安を都として天下の再統一を果たし、前漢の皇帝に即位する。

 

 

 

 世界遺産に登録されている始皇帝陵は、始皇帝が13歳の時から建設が開始された。20世紀後半の1974年、地元住民により発見される。また兵馬俑坑は、この陵を取り巻くように配置され、その規模は2万平米余に及ぶきわめて大きなもので、3つの俑坑には戦車が100余台、馬が600体、将兵など成人男性が8000体近くあり、みな東を向いているという。

 

 兵馬俑一号坑のパノラマ写真。クリエイティブ・コモン:ウィキペディア「兵馬俑」より引用。

 

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 この兵馬俑の発見は特に中国史の研究上、当時の秦の文化や始皇帝の思想などを知る上できわめて貴重なもので、今の中国の原型を築いた秦の時代が浮かび上がって来たのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

2016年2月 9日 (火)

宇佐八幡神と渡来人

 2016年1月25日(月)~27日(水)、大分県別府市、宇佐市旅行の追記。

 

 

 

 本ブログの「宇佐神宮」: http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-d1af.html と、

 

 「大分県立歴史博物館」: http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-855d.html

 

の記事を投稿した後、司馬遼太郎の紀行集『街道をゆく』シリーズ「中津・宇佐の道」の巻に、宇佐八幡神についての記述があったことを思い出した。
 

 

 『大徳寺散歩、中津・宇佐の道 司馬遼太郎 街道をゆく 34』(1994年、朝日文庫)のカバー。

 

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 (カバーには、大徳寺(京都市)の土塀の写真が使われている。)

 

 

 司馬氏は、1985年5月31日~6月3日大分県中津市と宇佐市の取材旅行をし、「中津・宇佐の道」の巻を朝日新聞に連載した。

 

 氏は、全国に4万社余りある八幡神社の故郷「宇佐神宮」の前身(祖宮)とされる「薦(こも)神社」(別名、大貞八幡神社)を中津市に訪ねた。御神体の「三角池」(みすみいけ)に自生する薦(こも、植物のマコモのこと)から、古代に想いを馳せる。

 

 次に宇佐市の宇佐神宮と和間神社に足を延ばし、八幡神と渡来人の関係について論じている。更に中津に戻って、福沢諭吉の旧居を訪ね、諭吉の家族について考察。戦国武将・黒田官兵衛の中津時代、次に中津領主を務めた細川忠興について書いている。

 

 

 

 写真は、薦神社の神門(国の重要文化財) 。

 

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(出展:ウィキメディア・コモンズ Ginger1192 大貞八幡神社:2010年11月25日)

 

 下の写真は、宇佐神宮の南中楼門:2016年1月26日。

 

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 司馬遼太郎は、この地で八幡神を奉じ始めたのは、どういう人たちだったのだとうかと考えた。その結果、「八幡」(やはた)の「幡」を「秦(はた)氏」に結び付けて解釈し、八幡神は秦氏という渡来人の神だったと結論付けている。宇佐の地には、渡来系の代表的な家系として辛嶋(からしま)氏と大神(おおが)氏が有力だったが、辛嶋氏は秦氏に相違ないとしている。

 

 秦氏の人々は、弥生時代に朝鮮半島から日本にやってきた渡来人だった。中国の秦の始皇帝の末裔だと称していたが、それは定かではない。彼らは、進んだ農業技術を持っていて、稲作を営んだ。秦氏は、稲作に必要な用水池を築堤し、その水を集落の水田に配り、池を神として守ったのだという。

 

 司馬氏は、宇佐神宮の前身とされる「薦神社」の御神体は、「三角池」(みすみいけ、または御澄池)であるが、この池は秦氏の用水池ではなかったのだろうか。また「宇佐神宮」にも「初澤池」と「菱形の池」があり、秦氏の用水池を象徴しているとしている。

 

 

 

 ★ ★ ★

 

 飯沼賢司氏は、雑誌『週刊 司馬遼太郎 街道をゆく』の2005年9月18日号で、司馬遼太郎が八幡の幡を秦氏の秦と解釈していることに、反論している。飯沼氏は、『八幡神とはなにか』 (2004年、角川選書)などを著した中世・古代史専攻の別府大学教授。
 

 

 『週刊 司馬遼太郎 街道をゆく №34』(2005年9月18日号、朝日ビジュアルシリーズ)の表紙。

 

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 (表紙の写真は、由布山)

 

 

 東大寺の大仏鋳造直後の749年(天平勝宝元年)の12月、八幡神の女禰宜(めねぎ、女性神官)・大神杜女(おおがのもりめ)が、天皇しか許されない紫の輿(こし)に乗って入京、大仏に参拝した。

 

 このとき、『続日本紀』には、

 

 「豊前国宇佐郡に坐(いま)す広幡の八幡大神」

 

と呼ばれており、「広幡」(ひろはた)という枕言葉が付けられている。これは大きな旗の神ということだ。

 

 八幡は、中国の唐の時代に確立した軍隊の制度を象徴する「八幡・四鉾」制に由来する。14世紀初頭に成立した『八幡宇佐宮御宣託集』に、

 

 「辛国(からくに)の城に始めて八流の幡と天降りて、吾は日本の神と成れり」

 

とあるように、八幡神は渡来人の辛国の城に出現し、日本の神になったとある。 

 

 

 

 この「辛国の城」とは、朝廷が豊前の国にいた渡来人たちを大隅の国(鹿児島県)に入植させた開拓基地とみられる。その辛国の城の人々は、現地の隼人(はやと)と常に対立関係にあって、その争いの中で「八流の幡」がその城に天降ったというのである。八幡神は、軍旗に降りた神であった。このような幡に降りる神の思想は中国にあり、それをもたらしたのは大隅国の辛国の城にいた渡来の人々であった。

 

 

 一方で、ほぼ同じ時期の和銅年間、豊前宇佐の鷹居(たかい)の地で大神(おおが)氏と辛嶋(からしま)氏という渡来人の二氏によって、八幡神が祀られる。720年(養老4年)に反乱を起こした大隅の隼人の軍が辛国の城を攻めると、豊前の国守は宇佐の八幡神を奉じ豊前の軍を率いて、辛国の城を救援したとされている。ここに、二つの八幡神は宇佐の八幡神として一体となったというのだ。


 

 

 八幡神が仏教といち早く神仏習合した原因は、渡来人の神であったためだが、それよりも軍神であったことが大きい。八幡神は、隼人との戦いの神であった。仏教では、殺生は最も重い罪。戦いによって人を殺すと、その後の報いを人々は恐れた。

 

 そこに登場したしたのが「放生」(ほうじょう)という生き物を放つことによって、その報いから逃れるという仏教的な法、つまり仏教思想である。この放生の法を、宇佐の地に持ち込んだのは、法蓮という僧侶だった。 宇佐神宮は、今でもこの隼人の反乱に由来する伝統的な祭祀儀礼「放生会」(仲秋祭)が行われている。

 
  
 八幡神は、朝鮮半島から豊前国に来た渡来人によって信奉された神であった。しかし、その軍神としての幡の神の信仰や仏教との関係は、7世紀未から8世紀初頭の唐の文化の影響が極めて強く、まったく新しいタイプの神であったと、飯沼氏は述べている。

 

 
 

 

 ★ ★ ★

 

 司馬遼太郎が「八幡」の「幡」は「秦氏」の「秦」と断じたのは、やや乱暴に思える。古代史は、さまざまの古記録でどれが真実か、いくつもの説があって、どれが正しいかはわからないが、たぶん飯沼氏の説が現在の定説になっているのだろう。

 

 司馬氏は、『街道をゆく』の連載の中で、秦氏についてはしばしば触れているとそうだ。秦氏という渡来人が、弥生時代の3、4世紀頃、大挙して(一度ではないだろう)やって来て、日本各地でひたすら山野を開き、水田を作った農民だったという。そして、それぞれの地に神社を残したそうだ。現代多くの日本人の遠祖の人たちであって、日本に最大の功を残した人々であったと述べている。
 

 

 そういう意味で、司馬氏が関心のあった秦氏を八幡信仰を結び付けたと思う。なお辛嶋氏は秦氏の一族であるという説も多いが、異論もあるようだ。

 

 源氏や武家が守護神として「八幡大菩薩」を祀ったのは、八幡神が隼人との戦いの神であったことを考えると、納得できる。戦前は、国家や軍も国民も、大いに神がかりの時代であったが、皮肉にも古くは多くは渡来人の神だったのだ。

 

 九州南部の霧島連山に、「韓国岳」(からくにだけ)という標高1,700mの山がある。山の名の由来は、山頂付近が険しく登山者が殆どいない、あるいは草木が乏しいことから、空国(からくに)あるいは虚国(からくに)と呼ばれたという説。または、韓国(からくに、朝鮮半島)まで見渡すことができるほど高い山という説(実際には山頂からは朝鮮半島は見えない)があった。

 

 前述のように豊前の国の宇佐から大隅の国に移住した渡来人たちは、霧島連山の最高峰を眺めて、「韓国岳」と名付けて聖山としたという説を今回八幡神を調べていて知った。韓国岳の頂上より故郷が見えるわけではないが、望郷の気持ちを込めて彼らが名付けたと思われるこの説を支持したい。

 

 

 

 

 

 

2011年11月 9日 (水)

大宰府の史跡巡り

 

  2011年1028日(金)13:00雲仙・仁田峠を車で出発。14:15諫早ICで高速道路に乗り、大村湾SA20分ほど休憩、福岡県大宰府市に向かう。目的地のOB会場の「ホテルグランティア大宰府」には、1620に到着。

 

 

 その夜は18:30から、24名が参加してOB会が開催された。10名弱の人とは、40年ぶりの再会であった。部屋に戻って2次会の後、24:00ごろ就寝。

 

 

 

 翌日1028日(土)、7:15起床、7:30~朝食。

 

 9:00ホテルを後にし、同窓会幹事の企画で、地元ボランティアガイドと大宰府の史跡を巡る

 

  

 

●観世音寺(かんぜおんじ)

 

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 「観世音寺」は、746(天平18)天智天皇が母・斉明天皇の冥福を祈って建立。80年もの歳月を費やした。大宰府政庁の東に接して創建されていたので、九州の寺院を束ねる「府大寺」として栄えた。創建時には七堂伽藍(しちどうがらん)を配した西日本最大の大寺院だったが、現在は江戸時代初めに再建された講堂(本堂)と金堂(阿弥陀堂)のみが残る。

 

●梵鐘(ぼんしょう)

 

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 観世音寺境内にある「梵鐘」は、京都・妙心寺のものと同型で日本最古クラス、国宝に指定されている。この梵鐘の音は、「日本音百景」の一つにもなっているらしい。
 鐘楼の裏手には「観世音寺宝蔵」があり、
平安時代から鎌倉時代にかけての仏像13体(すべて重要文化財)などが、展示されているという。

 

 

●戒壇院(かいだんいん)

 

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 761年、観世音寺の境内に「戒壇院」が置かれた。東大寺、下野(栃木県)の薬師寺とともに、唐の名僧鑑真和上を招き設置された「三戒壇」の一つとされる
。「戒壇」とは、僧侶が守るべき規律のことで、西国で僧になるためには、必ずここで受戒しなければならなかった。
 戒壇院は観世音寺の一部だったが、平安時代以降は徐々に衰退、江戸時代に観世音寺から独立し、禅寺となっている。
 

 

 

●大宰府政庁跡

 

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 大宰府政庁跡(都府楼跡)は、かつては「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれ、九州を治める役所があった。奈良時代から平安時代にかけて、壮麗な建築が建ち並んでいたが、940年(天慶3)に藤原純友の乱で焼失。
 今は広い野原に、大きな礎石(レプリカ)が並んでいて、往時をしのばれる。そばには、「大宰府展示館」がある。発掘調査により出土した平安時代の遺構や出土品が公開されている。途中で雨が降り出し、展示館の軒下で雨宿り。ボランティアガイドはここまで。

 

 

●国立九州博物館

 

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太宰府天満宮の裏で、同宮所有の丘陵地に建設され、200510月に開館。100年以上の歴史を誇る東京・京都・奈良の3つの国立博物館が美術系博物館であるのに対して、ここは歴史系博物館であるという。「日本文化の形成をアジア史的観点から捉える博物館」を基本理念に、旧石器時代から近世末期(開国)までの日本の文化の形成について展示されているという。
 大変興味がある所だが、時間の関係で、入館せず外観を見ただけ。前日、雲仙に行かなければ、見学出来たのだが。

 

 

●大宰府天満宮

 

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 学問の神様として菅原道真公を祀っており、受験合格や学業成就などを祈願する参拝客や観光客など、この日もにぎわっていた。七五三の親子連れの姿も目立つ。
 境内には約6,000本もの梅の木があり、2月上旬~3月中旬になると、境内を紅白に彩るという。梅にちなんだ「梅ヶ枝餅」は有名で、おみやげに買い求めた。参道には、数多くの土産屋がにぎやかに並ぶ。このほか「合格ちくわ」、「うその餅」、「鬼瓦もなか」など、由来ある縁起物もあるそうだ。
 天満宮の中の食事処で昼食をとり、境内・参道を散策する。

 

 

 1330博物館駐車場に集合、14:00に解散。14:50筑紫野ICで高速に乗り、16:30実家に到着した。

 

 大宰府に来たのは、中学校の修学旅行以来だろうか、ほとんど記憶がない。今回は、宝物殿、展示館や国立博物館などもゆっくり見たかったが、OB会のオプションだったので時間が無く、駆け足の史跡巡りだった。

 

 

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