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2020年8月31日 (月)

すぐ死ぬんだから

 2020年8月29日、内舘牧子の小説『すぐ死ぬんだから』を読み終える。

 小説『すぐ死ぬんだから』は、『小説現代』の2017年12月号~2018年3月号に連載、2018年8月23日に講談社より単行本が刊行された。また、くさか里樹の作画により漫画化され、『WEBコミックトム』で2018年9月~2020年4月に配信されている。

 2020年8月23日から、NHK BSプレミアムとNHK BS4K「プレミアムドラマ」でテレビドラマ化、「人生100年時代の新!終活ドラマ」として三田佳子主演で全5話が放送されている。

 

 お洒落に気づかい、加齢に逆らって、若く見せる努力を重ねる78歳の女性が主人公。いかにして品格のある老後を迎えるかを描いた「終活」小説。人生の終盤におとずれたどんでん返しの荒波に溺れるが、最後は乗り越えて「品格ある老後」を手に入れる。「残りの人生、思い切ってみようかな。すぐ死ぬんだから」と、前を向いて歩き出す。

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 78歳のハナは、夫・忍(おし)岩造と一緒に営んでいた酒店を息子に譲り、近所のマンションで隠居生活をしている。10年前ブティックの店員に、「70ちょっとにしか見えない」と言われ目が覚める。実年齢見られない努力を重ね、気合を入れて老いを遠ざけ、美しさと若さを保つ。10年ぶりに開かれた同期会では、「無理して若作りして」と言う女友達の前で、「年とともにナチュラルという人いるでしょ。あれも危険よねえ。要は面倒くさがりの無精になるということだから」と本音を吐く。

 ただ家に帰ると、娘の苺(いちご)には「その年になると、普通の人より派手な服を着ているだけで奇抜なの。今はいいよ、ちゃんと奇麗。でもここがボーダーライン。ギリだから」と注意されたりする。周囲の視線をよそに、ひとり鼻高々で奔放に生きる。折り紙だけが趣味の真面目な岩造は「ハナと結婚してよかった」が口癖。優しい夫や子供や孫にも囲まれ、まあまあ幸せな老後だと思っていた矢先、岩造が突然亡くなる。

 葬儀を終えた後は、呆然自失で自慢の外見を気にする気力もない。だが、折り紙だけが趣味だった夫のために、せめて個展を開こうと奮起。遺品となった折り紙を整理すると、自宅から遠く離れた外科の診察券と一枚の写真を見つける。日付の書かれた写真は若い男で、そのイケメンはお通夜に来ていたと、孫のいずみが覚えていた。やがて真実を知ることになって、物語は急変、ハナは嵐の中に巻き込まれていく。

 ★ ★ ★

 『週刊朝曰』に、内館牧子の連載「暖簾にひじ鉄」というコラムがある。2020年8月28日号の「すぐ死なないってば」という題で、自著の『すぐ死ぬんだから』についての記事があった。

 この小説は、高齢になるほどに外見を磨く方がいいという物語である。傾向としてだが、人は加齢と共に自分に手をかけなくなる。・・・(中略)・・・「楽だからいいんだよ。どうせすぐ死ぬんだから、楽が一番」。・・・(中略)

 加齢と共に「楽が一番」となり、その証拠が今、町中にあふれている。高齢者のリュック姿だ。高齢者(中には中年も)はどうしてあんなにリュックを背負うのか。どこに行くにもリュックだ。一泊旅行もクラス会も、ちゃんとした集まりにも、散歩にもリュック。大きな理由のひとつは「楽だから」だろう。・・・(中略)

 そんなある日、私は70代後半から80代の男女が集まる会合に、オブザーバーとして出席した。驚くべきことに、出席男女の外見が「リュック系」と「洒落た系」にくっきりと分かれていた。両者の差は大きかった。とにかく、受ける印象がまるで違う。

 「洒落た系」は若く、活発で物おじしない。他者にも気を配る。これは自信のなせるわざだろうと思う。そういう中で、特に「リュック系」の女性たちは同系で話し、どこか不快気だった。これは本音として「同年代なのに私は婆サンだ」と思ったのかもしれない。

 本書は、「リック系」から「洒落た系」に変身した78歳のハナの物語だそうだ。しばらくして、NHKから内館に三田佳子がハナを演じたいと希望しているという連絡があったという。三田は主人公と同じ78歳、願ってもない主演だとしてNHKのBSプレミアムで放送されることになったと明かしている。筆者は、この内舘のコラム記事を読んで、小説の題名「すぐ死ぬんだから」に興味を持った。

 三田佳子は、1996年には子宮体癌が発覚し入院、手術と5度の抗がん剤治療が成功し退院している。また2018年5月には、頸椎(けいつい)硬膜外膿瘍(のうよう)で手術・入院している。そういった病気のこともあってか、次第に出演作品は減少、あまり見なくなった。そんな三田が、連続ドラマに23年ぶりの主演。主人公と同じ実年齢の78歳。久しぶりに見る三田は、正直いって歳を重ねた分、昔よりも老けた感じ。ちょうどこの物語のように、若く見せる努力を重ねるヒロイン、ハナを演じている。

   

 ★ ★ ★

 10年ぶりの同期会にハナは同級生たちは「年なんだから楽が一番」と言い、「どうせすぐ死ぬんだから」と続く。そうか、この言葉はよく聞くフレーズ。これが高齢者が、だんだんいい加減になる「免罪符」。この免罪符と共に生きる男女と、怠ることなく外見に手間をかける男女に、クッキリと二分される現実があるという。しかし高齢者で、あまりにも度が過ぎるお洒落で、ケバケバしいファッションを見ると、痛々しい感じに思えるは筆者ばかりではないだろうが。

 本書は、主人公の女性のファッションや化粧の話しが多い。男性にはあまり知識のない部分が多いが、あとがきに「本書を書くにあたり・・・、さらに多くの美容関係者、服飾関係者のアドバイスにも深く感謝申し上げます。」とある。内館は、1948年生まれの72歳。テレビや写真を見るとやはり有名人、やはり日ごろからファッションに強い関心がありそう。

 「ババくささが伝染(うつ)るよッ」、娘が「ママ、年齢に抗(あがら)うのは痛いよ。アンチエイジングでなく、ナチュラルエイジングにしな」、加齢による老化現象の「ペンギン歩き」、優しい温もりのある夫婦を言う「ベターハーフ」、パパが死んで「セルフネグレクト」・・・などなど、内館の文章に出てくるワードやフレーズが面白い。「セルフネグレクト(自己放任)」と「品格のある衰退(老化)」は、全く別物だとわかってくる。

 本書で「ジーパン」と「デニム」という言葉で歳がわかる、とブティックの店員がハナに言う。「デニム」は生地、「ジーンズ」は「デニム」生地のズボン、「ジーパン」は「ジーンズ」の和製英語。「スパッツ」が「レギンス」になったり、ファッション用語は時代とともに変わる。「背広」はいつのまにか死語になっていて、「スーツ」とか「ジャケット」と呼んだり、「ジャンパー」は「ブルゾン」に変わっている。ちょっと気にしていないと、時代について行けない。

 この小説の中で、ある有名書家の揮ごう「平氣で生きて居る」という掛け軸を、夫・岩造が座右の銘として大事そうに飾っている。これは正岡子規の『病牀六尺(びょうしょうろくしゃく)』に出てくるそうだ。調べてみると病床にあって苦しんでいた子規は、以下のように書いている。

 「余は今まで禅宗のいわゆる悟りという事を誤解していた。悟りという事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思っていたのは間違いで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きている事であった」

 人が窮地に陥ったとき、「頑張れ!」とか「前向きに生きよ!」よりも、「平気で生きよ!」って自分に言うと、死ぬのはやめよう、あきらめるのはやめよう、いかなる場合にも動じずに平気で生きようと思う。そういった意味で、この言葉には重みがあった。
 

 また本書に出てくる良寛の辞世の句とされる「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」は意味が深い。弟子の貞心尼が、良寛との和歌のやり取りをまとめた歌集『蓮(はちす)の露(つゆ)』に出てくる。良寛は、江戸時代の曹洞宗の僧侶。老若男女や身分・貧富によって人を分け隔てする事が無く、誰とでも、優しく温かい気持ちで接したので、人々は皆、穏やかに和み、良寛に親しんだという。

 高齢となり死期の迫ってきた良寛のもとに、貞心尼が駆けつけると、辛い体を起こし貞心尼の手をとり、「いついつと まちにし人は きたりけり いまはあいみて 何か思わん」と詠んだ。

 そして最後に貞心尼の耳元で、「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」と下の句をつぶやいて亡くなったという。

 この歌には「あなたには、自分の悪い面も良い面も全てさらけ出しました。あなたはそれを受け止めてくれました。そんなあなたに看取られながら旅立つことができます」と、貞心尼に対する深い愛情と感謝の念が込められているという。物事には裏と表がある。人間も、表と裏の部分を持ち合わせている。人は表だけで、内側を見せない。内側を見てもらうことで、理解することが出来、本当に支え合うことができるのではないか。良寛は、紅いもみじの美しさは裏と表との双方があって、両方自然にありのままを見せて、受け入れて散っていく。良寛は自然のままに、もっと自然に生きよ、と語っているのだという。

 内館牧子 幻冬舎新書『男の無作法』の帯から引用。

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 本書の中に出てきた「死後離婚」という言葉を初めて知った。「姻族関係終了届出」というのがあって、夫婦の一方が死亡した場合、もう一方が姻族関係を終了させるために役所に提出できる。法律上、結婚すると配偶者の父母や兄弟などの間に、たとえ血のつながりがなくても、姻族(いわゆる親戚)となる。夫婦の一方が死亡しても、死亡配偶者の血族と生存配偶者との姻族関係が終了することはない。姻族関係を終わりにするかどうかは、本人の意思で決めることができ、配偶者の血族の了解は不要だそうだ。

 だが「姻族関係終了届」を提出しても、戸籍はそのままの状態。戸籍も配偶者の戸籍から別にしたい場合は、「復氏届」を提出しなければならないという。このように、「姻族関係終了届」は、配偶者の血族との親戚関係を終了し、配偶者の父母や兄弟姉妹などの扶養義務もなくなるという。こういった手続きを、いわゆる「死後離婚」と呼ぶそうだ。
 

 「なんとでもなる」という思いは、若者と老人のものだという。若者は「切り拓くからなんとでもなる」と思い、老人は「すぐ死ぬんだから」何とでもなると思うと書いてる。こういった対比は、内館牧子の発想なのか、面白い。

2020年8月27日 (木)

女帝 小池百合子

 2020年8月25日、石井妙子著『女帝 小池百合子』(文藝春秋)を読み終えた。

 

 新型コロナウイルスの感染拡大に伴う「緊急事態宣言」は、東京など首都圏1都3県と北海道が5月25日に解除。6月18日には、小池知事の任期満了に伴う東京都知事選が告示(7月5日投開票)された。その告示の直前の5月30日、本書の第1刷が発売された。

 本書の”帯”にあるキャッチコピーは、次のようである。

 「救世主か? ”怪物”か? 彼女の真実の姿。」「彼女は宿命に抗った。そのためには物語が必要だった。」


 日本新党、新進党、自民党と「政界渡り鳥」と揶揄される一方、「女性初の首相候補」とももてはやされる。細川護熙(もりひろ)をはじめとして、小沢一郎、小泉純一郎らの時の権力者に近づき、そして離反し批判する。派手なパフォーマンスで国民を引きつけ、かき乱し、後片付けをせずに去って行く。カイロ大の「学歴詐称疑惑」。東京五輪の会場問題、豊洲市場への移転問題、2017年衆院選での「希望の党」結成によって、政界は混乱、小池の政治手法に疑問視する声は多い。しかし、新型コロナウイルスへの対応でテレビに出ずっぱりで、再び注目され、「時の人」となった。

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●序章 平成の華

 小池百合子は、平成を代表する女性。平成の始まりにテレビ界から転身して政治家になった。政権交代があっても、時の権力者に引き立てられ位を極め、更に男社会を敵にして、階段を登ってきた。ここまで権力を求め、権力を手にした女性はいない。なぜ彼女が、可能だったのか。

 2016年の都知事選挙の街頭演説で、小池は「病み上がりの人」とガンを乗り越えて出馬した鳥越俊太郎氏を批判した。テレビ討論会でそのことを指摘されると、彼女は当初、笑いながら「言っていない、記憶にない」などとしらばっくれる。誰もがテレビで見て知っているのに。

 著者はこのことが、選挙後も忘れられない。彼女の資料を集めて読み始めると、あまりにも話ができ過ぎている、辻褄が合わない、矛盾がある、腑に落ちないところがある。疑念が次々と湧き出てきて、当惑する。

●第1章 芦屋のお嬢さん

 本書の第1章は、小池の生い立ちや、父親のことから始まる。口の悪い人は、父親・小池勇二郎を「あの詐欺師」、「山師」、「政治ゴロ」と呼ぶ。大言壮語、おおぼら吹き、評判の悪い実業家だった。衆議院選挙に1度出馬して落選する。常に、社会的地位の高い人物に取り入り、その懐に飛び込んでいく生き方を良しとしていた。権力者に取り入ろうとする、嘘をつく。娘にもそういう生き方で、人生を開くことを教えたのか。生れながらのDNAか、父親の背中を見て育ったせいか。

 決して裕福ではなく、借金取りに負われる父親だったが、後年「芦屋のお嬢さん」だったと自分を美化する。甲南女子中・高校を卒業すると関西学院大学に進学。1学期だけで退学、カイロへ大学留学ためエジプトに行く。その頃、勇二郎が中東の石油の商売をしようと人脈を築いていたので、娘にアラビア語を習得させようとした。アラビア語は日本人にとって希少価値で、英語より役立つ。イギリスやアメリカに留学するより、日本の私立大学に通うより、エジプトなら金がかからない思ったのだろうか。

●第2章 カイロ大学への留学

 1971年9月エジプトに渡るが、翌年カイロ大学に入学できず。しかし1973年10月父親の口利きで、カイロ大学文学部社会学科に入学、2年に編入した。カイロ時代は、早川さん(仮名)とアパートに同居した。著者は、同居人の彼女に、何度も取材を重ねている。カイロでは、小池は男性たちのアイドルだった。愛嬌の良さで周囲を使役する要領の良さ。学生結婚した夫を踏み台にし、うまく利用するだけして離婚。アラビア語は、英語で言うと中学生レベル。遊んでばかりで、1976年7月進級試験で落第。

 カイロ大学 出典:ウィキメディア・コモンズ

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 1976年10月、サダト大統領夫人が来日。父親の勇二郎は帰国させた娘を、アラブ協会にアテンド役の末席にもぐり込ませる。そして「カイロ大卒の初めての日本人」「芦屋のお嬢さん」とマスコミに売り込む。いつのまにか「中退」が、「カイロ大を首席で卒業」という話が一人歩きする。

 飛行機事故を2度回避という強運の持ち主、と言うのも嘘。「物語」を作るうまさ。一方で、同居人の早川さんにも言わない秘密も多い人だった。

●第3章 虚飾の階段

 評論家・竹村健一に近づき、1979年4月テレビ番組の竹村のコーナーのアシスタントにデビュー。また「トルコ風呂」の名称変更で、小池の顔と名と行動力、中東通という経歴が広く宣伝された。

 愛煙家の小池は、竹村健一とともに嫌煙活動を批判、話がわかる女だとの印象を、男性たちに与える。知名度はまだ低かったが、週刊誌の対談や座談会に招かれた時には、自分の嘘で固めた「物語」を猛烈にアピールした。

 1985年に中川社長に気に入られ、テレビ東京に迎えられる。1988年春「ワールドビジネスサテライト」のメインキャスターに大抜擢。

●第4章 政界のチアリーダー

 1992年5月「日本新党」から、参議院に出馬宣言。ミニスカート姿で党首・細川護熙に寄り添う。細川との交渉で、比例順位は細川に次いで2位。この順位を巡って、党内はもめる。ミニスカートとハイヒールを売りとし、カイロ大の首席卒業、芦屋令嬢、外国語が堪能のイメージが作られ、マスコミには彼女の「物語」を語った。学歴疑惑の噂は、彼女が国会議員になることでうやむやになった。エジプトはコネと金の社会。日本は、エジプトにとって最大のODA出資国。その日本の国会議員という立場は、エジプトにとってどんな意味を持つのか。

 細川護熙  小沢一郎 出典:ウキメディア・コモンズ

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 小池は細川党首に次ぐ地位に見られたが、日本新党の綱領つくりや政策立案、国会対策には関わらず、目立つことが好き。政治のプロには考えもつかない発想で、党の広報を担う。

 作家の島崎今日子は「美女の衣装を着けた野心家の青年」、田嶋陽子元法政大教授は「父親にかわいがられて育った娘は、父親の持つ価値観をそのまま受け入れてしまうので、女だけど男性の価値観を持つ。男性の中で紅一点でいることを好む」、社民党の福島瑞穂は「女性議員が超党派で一緒に解決しよう集まることがあるが、小池はさんはあんまり参加しない」と批評している。

 1993年9月宮沢喜一内閣の不信任案が可決し、解散総選挙。日本新党の細川と小池は衆議院に鞍替え、日本新党は大躍進。細川政権が誕生すると、小池は総務政務次官へ。本人は大臣の座を期待していたという。やがて細川政権が窮地に落ち込むと、小池は細川おろしに加担するようになる。今度は小沢一郎に急接近する。

 小沢の自由党にいた池坊保子は、小池のことを「政治家としてやりたいことことはなくて、政治家をやりたいんだと思う」。細川も小沢も男女関係だと噂を立てられ、「色気でのし上がっていく」。同じく自由党西村眞悟が、小池は「ヤクザの世界の姐さん」。親分の威を借りて、子分よりずっと上に写る。

 小池の地元の阪神淡路大震災の被災者に、冷たい態度をとった。被災者や地方議員の間では、小池は「何もしてくれなかった国会議員」として記憶されている。やがて、小池にとって3回目の衆議院選挙。今度は自民・公明と連立を組む保守党から出馬。小沢と決別した小池は、小沢批判を繰り返す。

●第5章 大臣の椅子

 2001年4月小泉純一郎内閣が誕生、2002年9月小泉は訪朝。小池は、北朝鮮拉致被害者家族の並ぶ中央に並び「いつもテレビに映り込もうとする」と問題になった。12月保守党は解党、小池は自民党に入党。2003年9月、小泉は内閣改造で派閥や慣例を無視し、いきなり小池を環境大臣に任命。51歳の時だった。独身の小泉純一郎を気遣ってか、小池は首相官邸に手作りの弁当を届けていたそうだ。いずれ小泉と結婚するのではないか、とも囁かれた。

 2004年10月水俣病の最高裁判決が下され、国と熊本県の責任を認め、50年の歳月を経て国が敗れた。最高裁判決が出たのに、小池大臣は、苦しみつづけた患者を前にして、5分問だけ謝罪文を棒読みしただけだった。しかも慇懃無礼、被害者に寄り添わない態度に原告団から罵声が飛んだ。

 水俣問題に関心を示さず、そのかわりに「クールビズ」を持ち出して、環境省主催の「クールビズ・コレクション」というファッションショーを開催した。むしろ彼女は、クールビズの発案者としてそのファッションショーに夢中になり、今でもその功績に胸を張り続ける。

 小泉純一郎  安倍晋三 出典:ウキメディア・コモンズ

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 小泉政権が政治生命を懸けた郵政民営化は参議院で否決され、2005年8月郵政解散となる。小泉は民営化に反対する自民党議員を公認せず、刺客を送る(対立候補を立てる)。小池は「機を見るに敏」な本性を発揮し、兵庫六区から東京十区の選挙区替え、民営化反対の小林興起の対立候補となる。小池にとっては、小泉に恩を売り、マスコミに自分を宣伝し、なによりも選挙区が東京都心に移れる。

 2005年6月に持ち上がったアスベスト問題についても、水俣と同様に役人に丸投げし、自らは本腰を入れて向き合おうとしなかった。

 2006年9月安倍政権が発足すると小池は、小泉の進言で5人の側近(首相補佐官)に選ばれ、国家安全保障担当となる。そして小池の暴走が始まる。小池より年下の安倍も周囲もコントロールできない。参議院選挙が近づいているとき、久間章生(きゅうま ふみお)が失言で辞任し、防衛大臣の椅子が空席に。そして、女性初の防衛大臣へ。人気とりのこの人事も、小泉サイドとされる。

 しかし小池の暴走と混乱は続く。自民党の重鎮・山崎拓は「防衛大臣として不適格だ。日本の国益も損なわれる。総理は全く彼女をコントロールできてない。総理の責任も問われる」。小池は、「総理には了解をとっていましたけれど・・・」と、勝手に事務次官の更迭を決めてしまう。防衛大臣として渡米し、アメリカの高官と面会。女性のライス国務長官と会談し、「姉妹の関係を築いた」と得意満面だった。

 テレビ局でキャスターをしていた時から、彼女の姿勢は変わらなかった。トップとつながる。あるいはそのように見せる。一番強い者と親しくなり、虎の威を借りタテ社会の論理を突き崩す。官房長官より総理、総理よりもアメリカの高官。彼女は虎を求め続けていた。党内では小池の言動に対するに対する批判や反発が強まり、突然大臣を辞任すると表明。

●第6章 復讐

 体調不良で安倍首相は、2008年9月辞意を表明。後任の福田康夫は、1年しか持たず、2008年9月辞意を表明。小泉は「結党以来の危機だ。次の総裁選には女性を立てなきゃダメだ」。小池が総裁選に出ることになり、女性初の総理候補となった。結果は、麻生太郎が1位で2位は与謝野薫、小池は3位だった。

 麻生内閣は、1年足らずで衆議院を解散するが、小沢が率いる民主党に自民党は大敗する。2009年9月、鳩山由紀夫内閣が発足した。3年後の2012年12月、自民党は大勝して与党に、安倍晋三が総理の座に返り咲く。小池より若い、後輩の女性が次々と閣僚に選ばれた。小泉が政界を去って以降、安倍内閣は小池に要職を何も用意しなかった。

 小池は、22歳も年下の男性秘書Aと共同で土地を購入。その上に環境を配慮したエコハウスを建て同居するという。結婚かと噂が立つが、Aは家が建つ前にこの計画から降り、小池事務所も辞めてしまう。そしてやはり20歳ほど年少の男性秘書・水田昌宏に譲られた。小池から金庫番を任され、事務所を仕切るようになる。突然やってきた「従弟」として小池に信頼される秘書は、妻子とともに同居し、周囲には不思議がられている。

 石原慎太郎都政は13年も続いたが、4期目の途中で投げ出し国政に復帰。続いて猪瀨直樹と桝添要一はカネの問題、公私混同で辞任に追い込まれる。安倍政権では、若い女性議員にスポットライトが当たり、60代になっていた小池は冷遇されていた。都知事選は2016年7月、自民党の思惑や了解を得ずに出馬の記者会見を開く。「悪のかたまりの自民党、オッサン政治と闘います!」

 石原慎太郎  猪瀬直樹  舛添要一 出典:ウキメディア・コモンズ

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 小池が知事になれば過去の不正が暴かれ、自民党都議の利権の構図が明らかになると、東京都民は期待した。オリンピック予算が膨れ上がっていると訴え、利権を貪っている人がいると匂わせた。自民党と議連幹事長の内田茂、都連会長の石原伸晃らがその標的だった。元知事の石原慎太郎は、小池を「大年増の厚化粧」と言って、女性有権者に怒りの火が付いた。石原の発言には、うわべを嘘で固めているという比喩も込められていたのだが。

 自民党からは、議員歴の浅い元検事の若狭勝ただ一人が、小池側についた。小池の言う「東京大改革」、7つのゼロの公約は、真剣に考え抜かれたのか、実現性があるのか、公約を守る気持ちはあったのだろうか。そんな議論が深まることもなく、パフォーマンス優先の小池は291万票でトップ当選。次点は自民党・公明党の押す増田寛也(元岩手県知事)が179万票で、都連はこの大差にショックを受けた。3位の鳥越俊太郎(民進党、日本共産党、社会民主党など推薦) は134万票だった。

 豊洲新市場への移転問題は、環境問題、建設費に絡む利権の問題があるとして延期を発表。世論も小池の姿勢を支持し、小池フィバーが起こった。一方で都知事選挙では小池を支持して活躍した都議の音喜多駿(おときたしゅん)、上田令子を中心に地域政党「都民ファーストの会」を発足、音喜多はその幹事長に就任した。また来夏の都議選のため政治塾「希望の塾」を立ち上げ、多くの塾生を集めた。

 築地市場 出典:ウキメディア・コモンズ

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 豊洲新市場 出典:ウキメディア・コモンズ

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 オリンピックの3会場(ボート・カヌー、水泳、バレーボール)の移転問題は小池が火を付けて大騒ぎしたが、再検討の結果、3会場とも都内に予定通り新設され、元の鞘に納まった。大騒ぎしてネズミ1匹か、というマスコミの追求に対し「大きな黒い頭のネズミがいっぱいいることがわかった」とはぐらかした。豊洲移転問題については「築地は守る、豊洲を活かす」と明言したが、市場を二つにするのが実現可能なのか、と言う質問には答えなかった。

 20177月の都議会議員選挙では、音喜多は前回より大幅に得票数を伸ばして得票数トップで再選、「都民ファーストの会」は49議席を獲得して圧勝、都議会第一党になった。

●第7章 イカロスの翼

 従弟とされる水田秘書と同世代の特別秘書・野田数(かずさ)は、一般社会を知らずに政治業界に身を置く匂いがする。小池から「都民ファーストの会」の代表と、「希望の塾」の運営も任せられた。一度衆議院に出馬して落選、村山市議を経て自民党公認の都議となった。日本維新の会から衆議院に出馬するも落選。その後都議も落選して、無職となっていたが、小池が都議選の選対本部長を任せ圧勝した。思想的には現行憲法否定論者で、小池の威を借りて高圧的な態度や、お金に不明朗な点もあり、批判や嫌悪する人も多い。

 2017年9月、安倍首相が国会解散を表明する直前、小池は突然臨時記者会見を開き「希望の党」の新党結党を宣言した。結党メンバーには自民党を離党した若狭と民進党を離党した細野豪志が加わった14人。党代表は小池で、自身が先頭に立って選挙を戦うという。「小池新党で、女性初の総理が誕生か」と騒がれた。

 民進党の前原誠司代表は、両議員総会で「希望の党」への合流を発表し、了承された。民進党議員は、全員離党して「希望の党」へ合流するという。しかし小池は、全員を受け入れる積もりはない。安保法制に反対するようなリベラル派は「排除」すると言い切る。前原が、小池にだまされたのか、小池との詰めが甘かったのか。

 旧民進党リベラル派は枝野幸男を党首として「立憲民主党」を立ち上げた。また旧民進党費員の一部は、無所属で出馬。希望の党に移った旧民進議員は、選挙資金や選挙区割りで冷遇された。民進党と希望の党の合流話で危機感を味わった自民党は、これで小池総理はなくなったと安堵した。希望の党は235人を擁立して、当選はわずか50人、大惨敗だった。野党第1党は、立憲民主党の54人。小池の側近の若狭は、落選して政界を引退した。小池は、都政に専念するとして、旧民進党出身の玉木雄一郞に党首を譲る。

 201710月、小池知事・希望の党代表の国政関与は政治姿勢として疑問があるという理由で、音喜多は上田都議とともに、「都民ファーストの会」を離党することを表明し、記者会見を行った。音喜多は「党運営は密室で役員数人で決めるブラックボックスそのもの」と反発、密室体質には都知事特別秘書で野田数前代表や小池氏の意向が働いていたとの認識を示した。

 豊洲移転問題では結局、何か訳の分からないまま、「築地は守る、豊洲を活かす」 ということの根拠や具体案は示されなかった。 追加工事を行うも汚染値が下がらないまま、2018年10月豊洲新市場は開場した。「築地女将さん会」は裏切られ、失望した。「女だからと信じてしまった」と悔やんだ。

 希望の党の失敗後、小池は今まで以上に自民党にすり寄っていった。帰順の証しとして、築地の土地を差し出したのだろうか。なじみの二階俊博幹事長とは密に連絡を取り、自民党都連と都議会自民党を牽制している。メディアは、今までのように小池や都政に関心を示さなくなった。

 マスコミの責任も重い。彼女にどんどん嘘をつかせた。メディアも彼女の共犯者。彼女に「イカロスの翼」を与えたのは誰だろうか 父親か、自分自身か、マスコミか、平成という時代なのか。翼を持った小池はまだ飛び続けている。

 絵画『太陽またはイーカロスの墜落』(1819、ルーヴル美術館) 出典:ウキメディア・コモンズ

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 イカロスは、ギリシア神話に登場する人物の1人。クレタ島の迷宮ラビリンスから脱出するため、父が発明した翼によって自由自在に飛翔する能力を得るが、父の命にそむいて高く飛びすぎ、翼を固めていた鑞(ろう)が太陽の熱で溶けて海に墜死する。人間の傲慢さやテクノロジーを批判する神話として有名。

●終章 小池百合子という深淵

 2020年3月、都議会で自民党に学歴詐称を厳しく追及されたが、「卒業証書は持っている。カイロ大も認めている」と繰り返し答弁して、卒業証書の提出は、「ここ何度も公にしている」として拒んだ。著者によると、彼女は卒業証書を3回、極めて不完全な形で公表しているという。著者は、その不完全な卒業証書を検証し、疑問点をいくつも指摘している。まして「首席」卒業というのは、論外だとしている。

 また語学力についても、彼女がアラビア語で話す動画を専門家に見て貰うとあまりにもお粗末で、英語で言えば中一レベルだそうだ。小池が疑惑を払拭したいと思うなら、堂々と卒業証書なり卒業証明書を進んで提出すべきあるという。また、カイロ大と小池は利害が一致しているので、日本のメディアや政界から寄せられた問い合わせに対してカイロ大側は、在籍記録や成績を口頭で示す程度だけという。エジプトは軍事政権の国。カネやコネで大学内部の記録を書き換えたり、卒業証書を発行することはいくらでも可能らしい。

 彼女が彼女になれたのは、彼女の『物語』に負うところが大きい。本来、こうした『物語』はメディアが検証するべきであるのに、その義務を放棄してきた。そればかりか、無責任な共犯者となっていると著者は、主張している。

 

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 2020年7月5日都知事選挙が投開票され、現職の小池百合子(67)が再選された。任期満了による都知事選は9年ぶり、過去最多の22人が立候補した。無所属で出馬した小池は、1期目の実績や新型コロナ対策の推進などを掲げ、立憲民主・共産・社民の3党から支援を受けた元日弁連会長の宇都宮健児(73)や、都政の刷新を訴えた「れいわ新選組」代表の山本太郎(45)らを破った。小池は366万1371票を獲得。前回の約291万票を上回り、次点の宇都宮に約280万票の大差をつけ圧勝。この得票数は、歴代2位。投票率は55.0%で、2016年の前回都知事選(59.7%)を下回った。

 今回の選挙では、自民党は独自候補の擁立を見送り、事実上、小池の信任投票だった。新型コロナの感染拡大防止を理由に選挙期間中、街頭演説を行わずオンラインで余裕の選挙戦を展開。朝日新聞の出口調査では、知事のコロナ対応を64%が「評価」し、そのうち75%が小池に投票したという。コロナでテレビに出ずっぱりの小池は、究極の選挙活動だった。山本代表は記者会見で、「強かった百合子山、高かった百合子山。百合子山を越えられなかった自分の力不足が悔しい」などと選挙戦を振り返った。

 しかし、前回の選挙(2016年7月)で掲げた「7つのゼロ」の公約は大半が達成されていない。「東京大改革」をキャッチフレーズに、①待機児童、②介護離職、③残業、④都道電柱、⑤満員電車、⑥多摩格差、⑦ペット殺処分などの7項目の公約を列挙。自身が選挙戦で強く訴えた「都政の透明化」「五輪関連予算の適正化」といった主張とともに、当時は有権者から多くの注目を集めたのに。

 4年間の都政の評価として記者からの質問に「有権者が判断してもらえれば・・・」と逃げている。ツイッターでは「『七つのゼロ』は身近な都政の課題について高い目標を掲げることで、生活を改善する効果をもたらした」と答えている。過去の言動と食い違う行動を取った時、小池がこのような「すり替え」や、都合悪くなると「言ってない」としらを切るやり方は、政治家として失格だ。
 

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 著者の石井妙子は、1969年神奈川県茅ヶ崎市生まれ。白百合女子大学文学部国文科卒、同大学院修士課程修了。お茶の水女子大学の「女性文化研究センター」(現・ジェンダー研究所)に教務補佐員として勤務。大学時代は囲碁部に所属していて、 1997年より毎日新聞の囲碁関連の記事を執筆。2002年NHK「囲碁の時間」に司会として出演。

 石井妙子 出典:文藝春秋BOOKS ホームページ

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 5年にわたる緻密な取材をもとに、上羽秀(うえばひで)を描いた『おそめ』を発表。伝説的な銀座マダムの生涯を浮き彫りにした同書は高い評価を受け、新潮ドキュメント賞、講談社ノンフィクション賞、大宅壮一ノンフィクション賞の最終候補となった。女性の一代記を数多く手がける。『原節子の真実』(新潮社)で第15回新潮ドキュメント賞を受賞。他に『日本の血脈』(文春文庫)、『満映とわたし』(共著/文藝春秋)、『日本の天井 時代を変えた「第一号」の女たち』(KADOKAWA)など。

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 小池百合子は、「女帝」なのか。「女帝」は、女性の皇帝、あるいは女性天皇のこと。または女性が皇帝の後見として政治を行う場合に「女帝」と呼ぶこともある。中国史上唯一の女帝・武則天、清王朝の権力を掌握した西太后などは悪女として有名。ポジティブに「歌謡界の女王」とか「スケートの女王」とか比喩されることがあるが、「女帝」とか「女王」はネガティブ的な意味でそう呼ばれることもある。

 「越山会の女王」は、田中角栄の事務所の金庫番で、角栄の愛人とも囁かれた佐藤昭(昭子)。目白に住む角栄が脳梗塞で倒れると、療養のため政界やマスコミから遠ざけられることになった。ここで角栄の代わりに権力を預かっているとして注目されたのが、娘の田中真紀子は「目白の女帝」。三越百貨店社長・岡田茂の愛人で、納入業者・服飾デザイナーの竹久みちは、三越の社内人事にも口出ししているなどが伝えられ「三越の女帝」と呼ばれた。こういった政治または経営の権力を持ち、活躍する女性を「女帝」とか「女王」と呼ぶことがある。

 

 小池は、男性社会のなかで仕事をしていく困難さは、十分味わっていただろう。しかし、そこでの振る舞い方は、きっと父親から教わったか、父親の背中を見て倣ったのだろう。その時々で権力を持つ男性たちに取り入りながら、自らも権力の座を目指すというやり方だった。しかし父親と違うのは、男と女。 小池は女の武器を十分に発揮し、いかにすれば男に喜ばれるかは、少女時代やカイロ時代に身につけたのかも知れない。そのようにして、都知事にまで登り詰めた。しかし平成という時代、彼女が男たちの威を借りて、自らもいわば精神的に男と化すことでしか権力を得ることができなかったということに、まだまだ女性の社会進出には困難さがあり、壁があるということなのだろうか。

 小池は、二世議員のような地盤や看板、カネもない。立派な政治理念や、すばらしい政策も持ち合わせていない。取り巻きに有能なスタッフがいるとも思えない。被災者や被害者のような弱者に、寄り添うこともしない。ただパフォーマンスや横文字のフレーズ、容姿や見た目で人を引きつける。男にうまく媚びを売って、自己をアピールする。権力のある者の懐に飛び込む。それに似た女性は、周囲にもいそうだ。

 女性として、男の縦社会のスキをついて、這い上る。そうまでしないと、女性は上を目指せない。女性が各分野で進出する人数が増えて、裾野ができて、そこから押し上げられるようにして女性リーダーが出てくれば、そのときが真の「女性の代表」だと思うのだが。
 

 このノンフィクションは、立花隆『田中角栄研究─その金脈と人脈』(文藝春秋)を思い出す。田中角栄の内実については、ある程度政界やマスコミ業界でも知られていたことであった。ある程度、断片的な情報として批判的な記事が出回ってはいた。しかし田中角栄人気に押され、それに触れることはタブーであったり、知らぬ振りをしていたとことがあったようだ。それを立花隆は角栄の人脈、関連会社、金の流れを徹底的に調査して書き上げ、国民の大きな反響を呼んだ。

 

 本書は、執筆に3年半かかったという。エッセイや小説などと違って、ノンフィクションは取材や資料の収集など、お金や時間もかかって、つくづく大変だと思う。出版社もスタッフの支援体制が大変で、儲からない、売れないとなると、ノンフィクションから離れてしまうのではないかと心配する。石井妙子が、綿密な調査の元で3年半も年月をかけて執筆したこと、なんとしても真実を世間に伝えようという姿勢に敬意を表したい。

2020年6月26日 (金)

日産カルロス・ゴーン事件

 2020年6月18日、単行本『ゴーンショック 日産カルロス・ゴーン事件の真相』(朝日新聞取材班、幻冬舎)を読み終えた。

 

 コロナ禍の最中の5月13日、第1刷が発売された本書の”帯”には、次のようなセンセーショナルな活字が浮かぶ。

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 《 世界中が驚愕した前代未聞のスキャンダルの全貌 》

  孤独、猜疑心、金への異常な執着
  カリスマ経営者はなぜ「強欲な独裁者」と化し、
  日産と日本の司法を食い物にしたのか?
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 《 すべて調べ尽くしたのは本書だけ! 》

  ・検察はなぜゴーン逮捕に踏み切ったのか?
  ・ゴーン追放は「クーデター」だったのか?
  ・仏大統領マクロンvs.ゴーン。どんな確執があったのか?
  ・家庭の問題。孤独な青年時代。ゴーンの生い立ちとは?
  ・ゴーンによる恐怖政治と会社「私物化」の実態とは?
  電撃逮捕の世界的スクープを放った
  朝日新聞ならではの圧倒的取材力を駆使。
  迫力の調査報道ノンフィクション。
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書籍『カルロスゴーン 日産カルロス・ゴーン事件の真相』朝日新聞取材班、幻冬舎

 

 「週刊朝日」2020年6月19日号にも、「墜ちたカリスマ カルロス・ゴーン劇場の“全真相”」というタイトルで、本書の朝日新聞取材班の一人が執筆した記事が掲載された。

 日産自動車は5月末、最終赤字が6712億円に上ると発表した。この赤字額は“カリスマ”カルロス・ゴーンが仏ルノーから乗り込んできた20年前の6843億円に匹敵する。日産を舞台にしたゴーン劇場とはいったい、何だったのか? 朝日新聞取材班が迫った深層を明かす。

 

 2018月11月19日、日産のゴーン会長とゴーンの腹心・ケリー代表取締役が乗ったプライベートジェットが、夕暮れの羽田空港に降り立った。同時に2人は、周到に準備していた東京地検に逮捕された。
 「日産自動車のゴーン会長を金融商品取引法違反容疑で東京地検特捜部が逮捕へ」の大スクープ。
 朝日新聞司法クラブの記者たちの、数カ月にわたる取材の結果だった。事情を知らない日本中の、いや世界中の人々が驚愕した。まるでサスペンスドラマだった。

 2018年秋、フランスのルノーが日産自動車を吸収するという経営統合の動きが進んでいた。マクロン大統領は国内製造業の復活を計るため、ルノーと日産のトップを兼ねるゴーンに、退任をちらつかせて統合を進めるように迫っていた。ルノーは日産に比べて規模が小さく、技術力も劣る。電気自動車など先端技術も持つ巨大な日産を吸収することで、ルノーの衰退を食い止めたかった。

 フランスは第2次大戦後、政府が主要企業の株式を持ち、経営トップを送り込むという独特の経済体制をとっている。仏政府は、もともとルノーの株を15%保有していた。ルノーは、業績悪化による倒産の危機に直面した日産を救い、2006年5月から日産株の44%を所有した。しかし再建後は日産が業績を伸ばす一方で、ルノーは低迷。日産は高額な配当でルノーの業績を上げるなど、経営を支援してきた。悪く言えば、日産の巨額の利益がルノーに吸い取られるという構図だった。のちに日産は三菱自動車の34%の株式を取得、ルノー・日産・三菱の連合(アライアンス)は、2017年上半期の自動車販売台数は526万8千台で、トヨタ・グループやフォルクスワーゲン・グループを抑えて、初の世界首位に立った。

 ルノー、日産、三菱自動車のエンブレム 出典:ウキメディア・コモンズ

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 ルノー・日産・三菱アライアンスのロゴ Renault-Nissan-Mitsubishi Alliance logo 出典:ウキメディア・コモンズ

ルノー・日産・三菱アライアンスのロゴ Renault-Nissan-Mitsubishi Alliance logo 出典:ウキメディア・コモンズ

 フランスは、2014年に政府権限を強める「フロランジュ法」を制定、議決権を政府保有株式の2倍にした。これにより事実上、ルノーの経営に強い発言権と拒否権を持つようになっていた。それまでゴーンは、ルノーと日産の双方の利害のバランスをとり、その地位を長く保ってきた。生え抜きの日産幹部たちにとって、ゴーンは仏政府圧力の「防波堤」になってくれるという強い信頼があった。ところがゴーンはマクロンに従い、2018年9月の取締役会でルノーとの経営統合の話を切り出した。ルノー側に軸足を移したゴーンに、日産幹部たちはその変身ぶりに信頼をなくす。議決権を引き上げたフランス政府による経営介入によって、日産は経営の自主性を失いかねない危機に面した。

 

 同じころに別の問題が持ち上がっていた。ゴーンの肝いりで、日産傘下に 「ジーア・キャピタル」という投資会社が、2010年に設立された。しばらくして、この会社の活動実態に不審を抱く者たちが社内に現れた。監査役室でたびたび調査が行われたが、このペーパーカンパニーは怪しげだが、実態がよくわからなかった。そんなとき、今津監査役に内部告発があった。監査役室の動きを知った法務担当のマーレシア出身英国人のハリ・ナダ専務が2017年暮れ、これ以上ゴーンの不正に付き合わされるのがゴメンだと、ジーア社の実態とゴーンの不正を暴露した。

 ジーア社が投資すべき資金は、ゴーンの住宅費として2700万ドルが流用されていた。さらにゴーンの姉に、活動実績もないのにコンサルティング報酬75万ドルを支払っていた。また、本来開示しなければならないゴーンの役員報酬を退任後に受領するように装い、90億円以上も隠蔽していた・・・等など。衝撃的な内容だった。

 ナダ専務から相談された川口専務は驚愕し、さっそく密かに検察OBの弁護士に相談。検察OB弁護士やナダが懇意にしている米国の法律事務所の弁護士たちの協力を得て、ゴーンの不正行為を詳細に調べていった。そして、この問題は社内では解決できない程の重大事件だとして、東京地検特捜部に持ち込まれたのだった。

 写真は、日産自動車グローバル本社(横浜市)2009 ウキメディア・コモンズから転載。

日産自動車株式会社グローバル本社 ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) 撮影日2009-06-23 Nissan Head Office, at Naka-ku Yokohama Japan, designed by Yoshio Taniguchi & Takenaka Corp in 2009.

 ちょうどその頃、日本に「司法取引制度」が新しく導入された。検察は、大阪地検特捜部の証拠改ざん事件(障害者郵便制度の悪用事件を担当していた検事が、証拠物のフロッピーディスクを改ざんした)で、検察の威信は地に落ちていた。東京地検の森本特捜部長は、不正の捜査に新しい時代に沿った手法で検察の立て直しを図ろうと、「特捜部の復権」が期待されていた。

 日産からゴーンの不正が持ち込まれて4カ月後の2018年10月、不正に関与したナダ専務、大沼秘書室長と検察は、司法取引に向けて協議を始めた。司法取引は、犯罪に関与していても、証拠の提出や供述の協力によって、罪を問わないことを保証してもらう制度。ナダと大沼は、ゴーンと共謀したジーア社の不正や、役員報酬欄を虚偽記載した金融商品取引法違反を認め、多くの証拠を検察側に提出した。検察との協議が進んでいた2018年10月、今津がこれらの証拠をもとに西川(さいかわ)社長兼CEO(最高経営責任者)にゴーンの不正を説明した。ゴーンの側近だった西川には、有無を言わせぬようお膳立てが整った最後の段階になって、ようやく説明されたのだった。

 カルロス・ゴーン 2008年1月25日:World Economic Forum Annual Meeting Davos 2008 ウィキメディア・コモンズより転載。

カルロス・ゴーン ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>
解説	:DAVOS/SWITZERLAND, 25JAN08<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>
日付:2008年1月25日, 19:27<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>
原典	:World Economic Forum Annual Meeting Davos 2008<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>
作者	:World Economic Forum from Cologny, Switzerland

 
 以上が、朝日新聞取材班がつかんだ事件の「真相」だという。ゴーンが後に主張するような「日産の陰謀」とは違い、ゴーンを日産から追放するために不正が捏造されたのではなく、不正があったので追放されたのだった。朝日新聞社会部の司法クラブ記者たちが、東京地検が司法取引で大事件を捜査していることを感づいたのは、西川社長が知る数ヶ月も前のことだった。それから取材を重ねてたどり着いた先は、世界の大物「ゴーン」だったのだ。

 逮捕されたゴーンは拘置所に留置され、取り調べが続く。やがて、ゴーンの中東にいる友人らを使って「サウジアラビアルート」と「オマーンルート」と呼ばれる特別背任の構図も明らかになった。ゴーンの指示で「中東日産」から友人に送金した金で、ゴーン自身の私的な信用保証や還流を得ていた。ゴーンは保釈を要求をするも認められず、弘中・高野弁護士らの尽力でやっと厳しい監視の上で、異例の釈放が行われた。保釈金は15億円だった。保釈後、日産への忠誠や無実を訴えた。弁護人を付けない取り調べ、テロリストを扱うような人権無視の司法制度、「人質司法」と呼ばれる長期拘留を批判した。しかし保釈中の2019年12月29日、監視されていたはずのゴーンは、驚きの手口で関西空港から出身地のレバノンに逃亡する。またもやサスペンスドラマのように。

 レバノンは、犯罪人引渡しに応じないため、再逮捕・裁判は無理だろう。ゴーンはレバノンで、記者会見を開いた。世界中のマスコミが殺到した中、ゴーンの「独演会」だった。日産と検察の陰謀や日本政府の介入という「もう一つのストーリー」をゴーンは主張した。そして自分は無実で、日本の司法制度を批判した。しかしフランスでも、ゴーンのベルサイユ宮殿での結婚パーティが、ルノーの会社資産の乱用だとして捜査しており、多くのマスコミは冷ややかだった。この記者会見とは別に、朝日新聞はゴーンの独占インタビューを行っている。

 2020年4月頃には共犯者として起訴されたケリー、そして法人の日産に対し、裁判の初公判が開かれる予定だった。新型コロナウイルスの影響もあり、遅れている。主役のいない裁判で、どこまで真相は明らかになるのだろうか。

 

 ★ ★ ★

 このドキュメンタリーは、朝日新聞のスクープや手柄話が強調されているが、事件が公になる前から内密に取材し、詳細に調査されているのはすごい。しかし、カリスマ経営者のゴーンがなぜそういう不正を犯したのか、その原因となる彼の生い立ちや切っ掛けまでも、もっと掘り下げて欲しかった。また海外では、彼の功罪がどう評価されているのかも詳しく知りたかった。

 ゴーンは、ルノー役員たちからは良く思われてないようなことを、本書に書いてあった。やはりフランス人にも、本音と建て前があるのだろうか。ゴーンは日産の経営を建て直して、ルノーよりも技術力、生産力、販売台数で遙かに上回る昔の日産に蘇らせた。ルノーの子会社となった日産は、ルノーの利益の元手にもなった。そういった事に、ルノーの役員たちは敬意を表しながら、どかかで彼へのやっかみや胡散臭さを感づいていたのだろうか。生え抜きの日産幹部は、ゴーンの経営手法に畏敬の念を抱き、更にはルノーからの経営介入の防波堤になってくれていた。そういったことが、日産から信頼され、長くトップに居座り続けたのだろう。

 公私混同を始めたのは、どういう切っ掛けだったのか。莫大な報酬への執着、その開示を免れるようにしたのは何故か。別の情報では、ブラジルの大統領を目指すための資金作りではなかったのか、という話もある。本書では、複数の女性と不倫、長年連れ添った妻リタと2015年離婚。そして不倫相手だったキャロルと2016年結婚。ベルサイユ宮殿を使って結婚パーティと、セレブのような振る舞い。熟年再婚からおかしくなった、妻の影響なのか急に派手になっていったという。のちにジーア社というペーパーカンパニーを利用して、けじめのない私的な金遣いが次々に確認された。湯水のように金を使い、贅沢する様子はルイ16世とマリーアントワネットを彷彿とさせるとも書いてある。また、ゴーンが日産を建て直したときの「リバイバルプラン」のようには、働かなくなったという。しかしその地位を手放さない。

 2007年のリーマンショックの時の慌てようは、目に余ったという。経営目標の未達成は、No 2に責任を取らせ、自らは取らない。部下からの異論や進言を聞かなくなった。気に入らない社員は、飛ばされ。ゴーンに近かった「ゴーン・チルドレン」たちも、彼と少しずつ距離を置くようになる。しかし、それでもズルズルとゴーンをトップに君臨させ続けた。

 本書の第2部「独裁の系譜」では、日産の体質や企業風土がどういうものか、日産コンツェルンの創業者・鮎川義介から始まる日産自動車の社史に、多くのページを割いている。そのなかで全自動車日産分会・益田哲夫会長、興銀出身の川俣克二社長、そして日産労連の塩路一郎会長らの名前が出てくる。塩路一郎については、筆者もよく耳にした。「労働貴族」とか「塩路天皇」と呼ばれた労働組合の独裁者で、日産の経営にも多く口出した。当時は、労働運動のトップにこんな人がいるのかと、違和感を持ったことを思い出す。こういった独裁者が育った風土が、日産の体質なのだろうか。一方の勝ち組のトヨタやホンダは、どこか一本軸が通って、それでまとまっている気がするが、日産は優秀な人材は多いが、どこか軸足がない。

 両親はレバノン人で、ゴーンはブラジルで誕生した。幼少期をリオデジャネイロで過ごすが、6歳の時にレバノンの首都ベイルートに母と姉とで移り住む。レバノンに移住した理由は、父親が殺人を犯したという可能性を否定できない。ベイルートでは、母親の影響でイエズス会に入った。ここは多国籍企業ような色々な人種と多文化性、多様性があったという。イエズス会系の名門校「コレージュ・ノートルダム」で小学校から高校まで10年間学ぶ。家では幼少期に身につけたポルトガル語。学校では3ヶ国語、公用語がアラビア語、フランス語と英語が必須教科だった。ゴーンの国際性は、このときに養われたのだろう。勉強はよく出来、ボーイスカウトにも入り、学校ではリーダー的な存在だったらしい。

 17歳で単身フランスに渡り、名門校の「パリ国立高等鉱業学校」を卒業、大手タイヤメーカーのミシュランに入社し18年間在籍した。ミシュランでの業績が評価され、ルノーの上席副社長としてスカウトされ、同社の再建にも貢献した。しかし、強欲で公私混同や不正を犯したりするのは、少年期や青年期に何かあったのだろうか。本書では、はっきり分からないが、父親の存在が影を落とし、妻キャロルの影響だろうか。

 ルノー会長兼CEO(2005年~2019年1月)カルロス・ゴーン 2009年11月8日 - India Economic Summit 2009 ウィキメディア・コモンズ より転載。

カルロス・ゴーン ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>
解説	:NEW DELHI/INDIA, 08NOV09<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>
日付:2009年11月8日, 06:17<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>
原典:Carlos Ghosn - India Economic Summit 2009<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>
作者	:World Economic Forum from Cologny, Switzerland

 ルノーのルイ・シュバイツァー会長兼CEOは、フランスの名門家の出、エリート官僚だった。筆者は、フランスの植民地だったレバノン出身のゴーンは、保守的なフランス企業のトップにはなれないと思っていた。しかしシュバツァーは、彼の優秀さと多様性、日産での実績を買ってルノーの後継会長にもした。日産にやってきたゴーンの「コミットメント」(必達目標)という言葉は、当時は目新しかったことを思い出す。ゴーン自ら「コミットメント」を掲げ、部下にも「コミットメント」を出させ、自ら達成できなければ日産を辞めるとも言った。こんな経営者は、日本にはいなかった。日本の経営者は、彼の経営手法を見習おうとし、彼は経営の「カリスマ」になっていった。経済の長期低迷に苦しむ日本の大企業に、経営のグローバルスタンダードはこういうものかと、見せつけたのだった。

 ルノー元会長兼CEO(1992年~2005年)ルイ・シュバイツァー 出典:ウキメディア・コモンズ

ルノー前会長 ルイ・シュバイツァー Louis Schweitzer sur le stand Renault lors du Mondial de l'Automobile de Paris 2012. 出典:ウキメディア・コモンズ (シュバイツァー医学博士の従姉の孫、サルトルの親戚)

 ルイ・シュバイツァーは、ノーベル賞のアルベルト・シュバイツァー博士の従孫(いとこの孫)、哲学者サルトルの親戚にあたる。

 ゴーンの腹心と思われた西川社長兼CEOは、逮捕1ヶ月前に知らされたという。ゴーンが逮捕された後は、社長としてマスコミの全面に立って、社内調査の結果を報告し、ゴーン統治の精算を訴えた。事件を起こした日産の経営責任を取るべき、との声も多かったが辞めなかった。真相を明らかにして、ガバナンス(企業統治)と日産再建の道筋を付けたかったのだ。西川が、どうやって日産の信頼を取り戻し経営を建て直すのか、筆者の注目していた。しかし彼は意図的でなかったと釈明したが、自らの役員報酬の不正が見つかって、辞任せざるを得なくなった。

 日産の社長兼CEO(2017年4月~2019年9月)西川廣人 出典:ウキメディア・コモンズ

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 ゴーンが2005年、ルノーと日産のCEOを兼ねた時から「統治不全」は始まっていたともいう。薄情で強欲な独裁者、会社の私物化、まるで中小企業のオーナー社長のように。最後に朝日新聞の単独インタビューで、ゴーンの主張を知ることができる。彼の主張は、自身が強欲でないという証拠に、GMから報酬2倍のCEOのオファーを受けたが断ったこと。多くの学者が、自分を分析して独裁者とは言ってないこと。強欲というのは捏造されたイメージだ。日本人から17年間、「彼はいいやつだった」と言われてきた。なのに検察や西川や豊田(経産省出身の社外取締役)が、「彼は良くないやつだ」と言い出した。日本の司法制度には問題がある。司法制度が公平なら、逃亡しなかったとも答えた。

 ゴーンは、ICPO(国際警察機構)から手配されている。今後も米国、フランス、ブラジル等に渡航することは出来ないだろう。レバノンという拘置所に閉じ込められているのは、皮肉なものだ。しかし、ゴーン逃亡を許した責任は誰が取るのだろうか、誰の責任で保釈中のゴーンを監視すべきだったのだろうか。保釈を要求した弁護士か、保釈を決定した裁判所か、保釈に反対した検察か。おそらく誰も責任を取らないと思うが、今後は海外のように保釈中にGPSを装着するなどの方策がとられるべきであろう。

 2019年1月、ゴーン後任のルノー会長に就任したジャン=ドミニク・スナール 出典:ウキメディア・コモンズ

ジャン=ドミニク・スナール	 Jean-Dominique Senard, directeur général de Michelin, janvier 2015. 2015年1月23日 出典:ウキメディア・コモンズ

  

 今回の赤字額は、ゴーンが来る直前の赤字額に匹敵するという。11年ぶりの赤字の原因はいろいろあると思うが、ゴーン時代の無理な拡大路線が影響したとか、新型コロナが追い打ちをかけたとも言われている。そんな単純なことではないと思う。V字回復の「リバイバルプラン」では、日産村山工場など5工場閉鎖、2万千人の人員削減、傘下の部品メーカの保有株を売却、調達先を半分に絞り込み大量発注する代わりに値下げを求めた。日産というブランド価値を今後も維持していくためには、ゴンの負の遺産を払拭し、こういったリストラが新しい経営陣がどこまで出来るのだろうか。

 5月下旬のロイター通信によると、フランスのルメール経済・財務相が「ルノーは早期支援がないと消滅の可能性がある」と言及した。支援の条件は「国内雇用を最大限維持せよ」、「環境負荷の少ない車を開発せよ」だそうだ。つまりこれらが出来ないと、ルノーは消滅すると、大株主の仏政府が要請している。フランスでは労働者の権利が強く生産性が低いため、市場競争力が低いとされている、また日産のように独自で電気自動車を開発する能力は高くない。ルノーも厳しい局面に置かれている。日産からの支援が “頼みの綱” 、日産という組織を最大限に活用すること解決策だが、日産は今そんな余裕はない。

 

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●三菱自動車、燃費試験の不正事件

 2016年4月、三菱自動車工業は軽自動車の共同開発先の日産自動車の指摘により燃費試験の不正問題が発覚。燃費を実際よりも良く見せるため、国土交通省に虚偽のデータを提出していたことを明らかにした。対象車種は、「eKワゴン」「eKスペース」、日産ブランド「デイズ」「デイズルークス」。これらは即日、販売停止が決まった。

 実際よりも、5〜15%程度良い燃費を算出しており、軽自動車の業界基準であるJC08モードで30km/L以上という水準に見せかけていた。 相川社長は、石井国土交通大臣への報告後の記者会見で改めて謝罪し、「会社の存続に関わる程の大きな事案」と述べた。高市総務大臣は、エコカー減税について「燃費が変わった場合は、自動車重量税や取得税の差額を納めて頂く」と述べている。さらに、軽自動車に限らず1991年以降に発売した三菱自動車の全て車種において、違法な方法で燃費試験をしていたことも明らかになった。

 同年10月、日産自動車が三菱自動車の株式を34%保有する筆頭株主となり、ルノー・日産アライアンスの一員に加わった。12月、当時の日産会長兼社長のカルロス・ゴーンが会長に就任、CEOは三菱自動車の益子社長が継続した。

 

●日産、無資格者の検査問題

 2017年9月6日、日産の約7年ぶりにフルモデルチェンジした新型「リーフ」の発表イベントが、幕張メッセの大ホールで開催された。世界各国から報道陣をはじめ、販売店や取引先など約5000人を招待するという豪華なイベントだった。しかも、イベントから2週間足らずの19日には、新型リーフの生産拠点の追浜工場(横須賀市)で、量産開始のオフライン式と世界生産累計1億5千万台達成を祝う式典が盛大に行われた。

 そんなお祭り気分の最中に不祥事が発覚、社内は一転してお通夜のような雰囲気に包まれた。同年9月18日、国土交通省の抜き打ちの立ち入り検査によって、完成検査を無資格者が行っていたことが発覚したのだった。しかも一カ所に留まらず日産の6工場で常態的に行われていたのだ。この結果OEM供給を含む日本で販売した38車種116万台がリコールとなり、その後も各地の工場で同様の問題が発覚、日産の統治能力のなさが露呈した。

 9月29日夜には緊急記者会見を行ったが、出席したのは部長クラス、経過説明とともに深々と頭を下げて謝罪した。他の自動車メーカーでは、経営にかかわるような不祥事が発覚した場合は、経営トップか、それに準ずる役員が説明するのが普通だ。トヨタ自動車もリコール問題がクローズアップした時、消極的だった豊田章男社長を説得して夜遅くに会見を行ったことがあった。ところが西川社長がやっと記者会見を開いたのは、部長クラスによる会見から3日後の10月2日だった。

 またその後、スバルの群馬工場で同様の「無資格者による完成検査と捺印」が発覚。同社もトップが会見し謝罪、リコールとなった。これまで積み上げてきた、日本の自動車メーカーに対する品質や信頼感が揺らいでしまった。

 

 燃費の改ざん問題は、軽自動車は業界ではJC08モードで、30km/Lというのが定着していた。燃費は、速度・加速、気温・湿度・天候、路面・坂道、エアコン等など様々な条件で変わる。例えば燃費30km/Lとカタログに書いてあっても、実際の燃費はその6~7割だ。消費者には、非常にわかりにくい。もっと実体に近い燃費の測定方法は、ないのだろうか。実態とかけ離れた燃費測定が、不正を生んでしまったとも言える。

 また不正検査の問題は、無資格であっただけで品質には問題は無いという声も多い。完成検査は自動化しており、昔のような熟練者でなければ検査できないわけではない。国で決められたこの形式的な手順が、メーカーでは費用のみがかかる行為だとして軽視していたようだ。日産ではゴーンによるコストカットの行き過ぎで、現場が苦し紛れで起こしたという話もある。外国では、日本だけの不必要な、しかも通常監査される事もない規制を設けていて、それを変えようとしない事が問題だと批判しているマスコミさえもある。

 三菱自動車、日産自動車も、もちろんコンプライアンス(法令遵守)の甘さやガバナンス(企業統治)の低さが、こういった不祥事を起こしてしまったが、カタログの燃費に対する実体と乖離(かいり)や完成検査制度の曖昧さが問題でもあることを記しておきたい。

 

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2017年5月 3日 (水)

小説「火花」

 2015年の芥川賞を受賞したお笑い芸人・又吉直樹の小説『火花』の文庫版(文春文庫、580円+税)が、2017年2月10日に発売された。

 このベストセラー小説は、文庫版が出たら読もうと思っていたので、販売されるとすぐに買って読み始めた。

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 一方で小説『火花』は、日本のネットフリックス社と吉本興業でドラマとして製作され、2016年春にネットフリックス社から映像が世界に向け配信されたそうだ。

 ネットフリックス社(Netflix, Inc.)は、インターネットを介してDVDレンタルや映像ストリーミング配信事業会社。本拠地は米国カリフォルニア州にあり、世界各国でも運営されている。ストリーミング配信では、既存映画などコンテンツのほかにオリジナルのコンテンツも配信されている。(ストリーミングとは、インターネットを経由して動画データをダウンロードしなくても視聴できるようにするための技術)

 それのコンテンツの再編集版が2017年2月末 から、NHK総合テレビでドラマ『火花』全10話として放送が始まったのだ。放送は、2月26日(日) から毎週日曜午後11時00分。50分番組で、全10話。

 NHKドラマは、日曜夜遅い放送だったこともあって、見逃した回もあったが、4月30日(日)の最終回(第10話)まで見終えた。ドラマは小説にかなり忠実に作ってあり、セリフも小説とほとんど同じだった。

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 売れない漫才コンビ「スパークス」の徳永(林遣都、写真左)は、営業で行った熱海の花火大会で先輩コンビ「あほんだら」の天才肌の芸人・神谷(波岡一喜、写真右)と出会う。神谷の強烈な漫才にショックを受け、その才能に憧れて師匠になって欲しいと懇願。神谷は、徳永の弟子入りの条件に「俺の伝記を作ってほしいねん」と要求、師弟関係が始まる。

 二人は共に過ごすことが多くなる。居酒屋に行っては「笑い」とは何か、「漫才」、「人生」について熱く語り合う。先輩はお金の余裕はなくても、いつも後輩に飲食を奢るのが芸人世界なのだ。神谷は、「笑い」に対する自分の考え、信念や理想を持っている。その神谷に影響を受け、すべてを吸収しようとする徳永は神谷の元で次第に成長していく。

 少しづつであるが、売れていく徳永のコンビ。自分の信念で誰にも媚びないが、どこか荒唐無稽さは、周囲からは理解されず万事がうまくいかない神谷のコンビ。

 神谷は飲みに行けば、女の子にはモテる。同棲している彼女・真樹(門脇麦)もいたが、男が出来たため、アパートから追い出されてしまう。やがて二人の間で、歯車は少しずつ噛み合わなくなって来る。多額の借金を抱えたまま、苦悩する神谷はいつも間にか姿を消してしまうのだった。

 やっと売れ始めた徳永は、この道に入ってからもう10年が経っていた。やがて徳永に人生の転機がやってくる。コンビ「スパークス」の解散だった。そして1年ぶりに再会した神谷の絶望的な姿を見て、徳永は驚愕する・・・。

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 監督は、寺島しのぶ主演の映画『ヴァイブレータ』 (2003年公開)で知られる廣木隆一。

 

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 この小説は、筆者の身近な人にはあまり評判は良くない。NHKのドラマも、熱心に見たのは最初の回だけで、後は見なくなった。

 ネットでも、内容が無いし全然面白くないという声も多かったようだ。放送前には話題となったが、回を重ねるにつれ視聴率も落ち込んでしまったそうだ。ネット上では、キャストの声が小さくボソボソに聞こえる、ストーリーの展開が遅くて飽きてしまう、 映像が退屈で途中で寝てしまうなどが寄せられていたという。なるほどその通りだ。

 このドラマ作品の廣木監督は「この作品は空気感が肝」と言っているそうだが、映画通でない筆者にはその意味がよく理解できない。確かにカメラの長回しや遠くから撮影する引きの映像が多くて、NHKが作るような大多数の人に分かり易いドラマとは明らかに違う。

 芥川賞のこの作品を読んで最初の印象は、又吉の文章の表現力がすごい。彼には失礼だが、漫才師がよくあんなに素晴らしい文学らしい文章が書けるものだと尊敬してしまった。これまでビジネス文書やブログ記事くらいしか書いたことはない筆者は、彼の文章力に憧れてしまう。このブログもあんなふうな文章で書ければ良いのだが・・・。

 小説を読み始めてから、ダラダラした物語の展開で、著者は何が言いたいのか、何か感動するようなこともなかった。これは「大衆小説」のようだが、確かに「純小説」なのだ。一般的には、筆者のような読書家でない人間には難しい部類の小説なのかもしれない。

 読み終わってみると、「笑い」とは何か、「天才」とは何か、「人生」とは何かを考えさせられた。しゃべりの才能も社交性も乏しかった主人公が、先輩芸人に影響を受けて次第に成長していく。一方で、笑いや人生について語らせると自分の哲学を持っていて、自分の考えをつらぬく、他人に媚びない天才肌の芸人は、結局は周囲に理解されず、人生の裏側へと去って行く。師弟関係だった若者二人が、皮肉にも反対の道を歩むことになる。

 

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 神谷ほどではないが、自分の人生の中でも似たような人は周囲に何人かいた。せっかくその道の才能はあるが、周囲から理解されない、周囲に溶け込んでその中で生きようとしない。徳永のような一部の人には慕われたり尊敬されたりするが、理屈っぽくて自分勝手、自分だけが正しいとする独善的で排他的な人、周囲との社会性が乏しい人。人の立場や痛みが分からない人、約束を守らない人、金銭感覚に乏しい人、酒におぼれる人・・・、そんな人と神谷とが重なる。

 神谷は本当にお笑いの「天才」だったのか、単なる「天才肌」だったのか、才能はあったのか。もし彼が、お笑い芸人ではなく、才能ある芸術家だったら・・・、実力のあるスポーツマンだったら・・・・、名を残すような人になったのだろうか。

 天才の多くは、それと裏腹の何かの欠点を持っているはずだ。コンピュータの実業家スティーブ・ジョブズ、発明家のエジソンや理論物理学のアインシュタイン、そのほか天才音楽家も天才画家も、何らかの発達障害や適応障害があったとされる。このために周囲といろいろと問題を起こしているが、素晴らしい業績を残した天才だ。才能と欠点をうまくバランスしてこそ、天才が人生で成功するのだろう。

 小説の主人公・徳永が書いた「神谷さんの伝記」が、ノート20冊になったとある。実際に著者の又吉直樹は、神谷のような師匠と仰ぐモデルになった先輩(1人でないかもしれない)がいたのだろう。そんな先輩から教わった事、語り合った事、出来事などをノートに書き留め続け、それを元に小説を書いたのではないだろうか。

 なお2017年2月14日、小説『火花』の映画化が発表されたそうだ。2017年11月に公開予定。auのCMの菅田将暉(徳永)と桐谷健太(神谷)、木村文乃(神谷の彼女・真樹)が演じ、監督は板尾創路。もう一つ楽しみが増えた。

2017年2月24日 (金)

夏目漱石の妻と阿川弘之の妻

 明治の文豪・夏目漱石は、昨年12月で没後100年、今年2017年2月に生誕150年を迎えた。
 

 昨年末に、二松学舎大学で製作された漱石そっくりのロボット(アンドロイド、写真)が公開され、話題になった。

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 数年前から、毎年実施している都内の名所旧跡を巡るウォーキングの中で、漱石の旧居跡や墓地、漱石の小説に出てくる「伝通院」、「こんにゃく閻魔(えんま)」、「小石川植物園」、東大の「三四郎池」など、漱石のゆかりの地も訪ねた。

 漱石の旧居跡、2011/1/29千駄ヶ谷にて撮影。

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 漱石の墓、2012/1/22雑司ヶ谷霊園にて撮影。

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 ここでは、漱石の妻・夏目鏡子について記述してみたい。

 鏡子は、漱石が亡くなった後に結婚生活を口述し、それを漱石の弟子で長女・筆子の夫に筆記させた。その回想記『漱石の思ひ出』は、昭和初期に出版された。

 漱石は、幼少期に屈折した生活を過ごしたことがあり、小説家になる前は四国松山の中学教師、第五高校(熊本)の教授から東大の講師をしていた。頭脳は明晰だが、几帳面で気難しく、わがままで頑固者だった。しかしその後、留学先のロンドンで神経衰弱を患ってからは、ますます心が荒れてしまう。漱石の作品は良く知られていていくつか読んだこともあるが、留学中にノイローゼになった事は、ずっと後に知った。

 明治政府官僚のお嬢様だった妻・鏡子は、おおらかで自分の思ったことを口に出す性格、ことごとく夫とぶつかる。当時は漱石の弟子たちから、悪妻とも中傷されたこともあったようだが、今の基準で考えるとごく現代風の女性だったそうだ。

 妻として漱石との家庭生活の苦労を、この回想記で生々しく語っている。この回想記を元に、NHKで土曜夜のドラマ『夏目漱石の妻』となって、昨年9月から10月に4回に渡って放送された。

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 漱石(長谷川博己)の言動で家庭崩壊しそうな夫婦関係や親子関係を、妻(尾野真千子)は必死で守り、家庭の夢を追いかける物語。明治の亭主関白の夫、明治の女の芯の強さを少しコミカルに描いたこのドラマを、家内と一緒に興味深く視聴した。

 漱石は、小説を書きながらもひどい胃潰瘍、晩年には糖尿病にも悩まされ、小説『明暗』の執筆途中の49歳で亡くなった。亡くなるまでの彼女には、少しも平穏な結婚生活はなかったという。しかし、子供は2男5女もいた。
 
 このドラマが終わってから別の資料で知ったことだが、晩年の鏡子は孫に「いろんな男の人を見てきたけど、あたしゃお父様(漱石)が一番いいねぇ」と目を細めて言ったそうだ。20年も一緒に過ごした妻の苦労は、並大抵ではなかったはずだが…。
 
  

 この話を知った後、エッセイストでタレントの阿川佐和子が、あるテレビ番組で似たような話をしていたのに驚いた。佐和子のお母さんは最近になって、亡くなった夫で小説家・阿川弘之との結婚生活を振り返って、「幸せだった」とか、「いい人だった」と言うので、彼女は唖然としたそうだ。

 阿川佐和子は、テレビ番組の中で父親ことをよく批判していた。彼女の父親・阿川弘之は小説家で、代表作に『春の城』、『雲の墓標』のほか、帝国海軍提督を描いた三部作『山本五十六』、『米内光政』、『井上成美』などがある。文壇の重鎮として文化勲章をもらったほどの人だが、家庭では亭主関白、自己中心、短気で頑固者、堅物でいつも怒鳴り散らしていて、妻や子供たち(佐和子ほか兄弟)を困らせ、母はいつも泣かされていたそうだ。

 佐和子は、知的でユーモアがあって、聞き上手、話し上手。テレビ番組『ビートたけしのTVタックル』などでもお馴染。家内は、土曜の朝の対談番組『サワコの朝』が好きで、よく見ている。政治家や大物タレントにも物おじせず、ストレートに切り込む話し方が魅力だ。ベストセラーになった『聞く力』は、読んだことがある。

 弘之が一昨年94歳で世を去って一周忌の昨年7月、娘の佐和子は妻子に対しては絶対服従を求める「暴君」の父親の素顔を書いた『強父論』という単行本を出した。

 数日前に買って読んでみたが、数分おきに大声をあげて笑いながら、一気に読んでしまった。阿川佐和子のウィットに富んだ簡潔な文章ですっと理解でき、横暴で破天荒な父親・弘之の深刻な話だが、面白く楽しんで読める。

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 晩年の父親への介護の苦労から始まって、子供の頃は急に怒り出す父親にびくびくしながら育ったこと。大人になってからは、理屈っぽいが不合理、理不尽な考えの父親に従順ながらも確執もあり。そして、父親の最期の様子と亡くなってからのことが書かれている。

 弘之は、自分では合理主義者であると言うが、感情の先立つことが多い。男尊女卑でわがままで、妻や子供には絶対服従を求める。佐和子に対する口癖のひとつに、「文句があるなら出ていけ。のたれ死のうが女郎屋に行こうが、俺の知ったこっちゃない」だった。

 今なら児童虐待か、DV(家庭内暴力)か、それと離婚に対する敷居が低くなっているので、そんな夫婦は簡単に別れてしまうだろう。

 友達のような夫婦、優しい父親が今の時代は大多数だが、昔は怖くて強い父親はあちこちにいたのだ。亡くなった親戚の伯父、近所のおやじ、知人の旦那…、身近にいたそんな横暴な亭主関白の夫のいる家庭を見聞きした時、それに耐えている妻子に同情し、いたたまれない気持ちになる。そして、その妻の姿は、夏目漱石とか阿川弘之の妻と重なってしまうのだ。

 小説家としては立派でも、家庭では自己中心で古い考えの頑固な夫にあんなに苦労して不幸に耐えた妻は、夫が亡くなった後には夫のことをあんなに美化するものかと、そのギャップに言葉を失う。夫婦というのは、そんなものなのだろうか。

 

 関連ブログ

  ・本ブログ「池袋周辺の史跡めぐり-その1」 2012/01/29 投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-e97a.html

  ・本ブログ「池袋周辺の史跡めぐり-その2」 2012/01/30 投稿
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  ・本ブログ「白山・本郷界隈-その1」 2017/01/31 投稿
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  ・本ブログ「白山・本郷界隈-その2」 2017/02月/05 投稿
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2015年1月21日 (水)

捏造の科学者

 単行本『捏造の科学者~STAP細胞事件』(須田桃子著、文芸春秋)が、売れている。2015年1月7日発売の第1刷分は、一週間でほぼ完売したそうだ。

 

 1月9日午後の日本テレビの情報番組「ミヤネ屋」で、著者である毎日新聞科学環境部の須田桃子記者が出演していた。司会の宮根氏とのやりとりの最後で、驚く話があった。学術論文では、投稿者側が査読(学術誌に掲載前の論文を専門家が評価・検証すること)して欲しくない人物を指定できるそうだ。このSTAP細胞論文では、iPS細胞の山中伸弥教授が査読から排除されていたという。

 この番組を視聴して気になっていたが、17日の朝日新聞2面にこの書籍が全5段の広告で掲載され、読んでみたくなる。第2刷は、15日から配本が開始された。

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 1月18日、ネット販売のアマゾンでは、在庫切れ。駅前の本屋にかろうじて1冊だけ残っていたので購入。21日読了。

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 昨年1月、理化学研究所(理研)の小保方晴子氏は、チャールズ・バカンティ教授(ハーバード大学)や若山照彦教授(山梨大学)と共同でSTAP細胞を発見したとして、論文2本を科学誌「ネイチャー」に発表した。記者会見では、生物学の常識をくつがえす大発見とされ、若い女性研究者・小保方氏が脚光を浴び、世間から大いに注目された。

 STAP細胞(刺激惹起性多能性獲得細胞、Stimulus-Triggered Acquisition of Pluripotency cells)は、動物の体細胞を弱酸性溶液に浸すなどの外的刺激を与えて、体のどんな部分にもなれる能力を獲得させたとされる細胞。この新たな細胞は、ES細胞(胚性幹細胞)やiPS細胞(人工多能性幹細胞)を上回る「第3の万能細胞」だという。短期間に大量に作製できるなど、将来の再生医療への応用が期待されている。

 しかし、インターネットで論文の不正疑惑が多数指摘され、若山教授は論文撤回を呼びかけた。理研もSTAP細胞論文に捏造や改ざんなどの不正があったことを認めたが、論文共著者で理研の発生・再生科学総合研究センター(CDB)副センター長・笹井芳樹氏は、釈明を繰り返し小保方氏をかばっていた。

 STAP細胞論文について理研は不正を認定し検証実験を開始したが、4月の記者会見で小保方氏は、なおもSTAP細胞は存在すると反論。しかし7月、ついにSTAP細胞論文は撤回された。様々な責任が追及される中、8月には笹井副センター長は首吊り自殺してしまう。笹井氏の死とCDB解体の話、過去の海外捏造事件の事例で本書は終わる。

 

 12月、理研の調査委員会が記者会見で、小保方氏も参加した検証実験の結果では、STAP細胞は再現できなかったことが発表された。そして、故意にES細胞を混入した疑いが否定出来ないとした。誰がどのように混入したかは解明されず、理研は調査を終了。小保方氏は理研を退職した。(11月中旬に脱稿している為、12月の内容は本書に盛り込まれていない。)

 このSTAP細胞事件について、関係者とのメールや電話、面会など精力的に取材を進めた須田記者は、研究や論文のずさんさや、理研の対応のまずさを指摘し、STAP細胞作成においてES細胞が混入した可能性は、当初から十分に予想できたとしている。

 

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 世界中を騒がせたこのSTAP細胞事件は、「世界三大研究不正事件」の一つとなってしまった。一つは米ベル研究所の若手研究者の高温超電導事件、もう一つは、ソウル大学教授のクーロン胚ES細胞事件で、10年ほど前のことでまだ記憶に新しい。

 著者の須田氏(写真)は、早稲田大学大学院卒業で、小保方氏の先輩になる。リケジョ(理科系女子)で物理専攻だったが、生命科学の専門知識の深さに驚く。こうでなければ、新聞社の科学記者としての取材は務まらないのだろう。

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 STAP細胞研究を主宰した小保方晴子氏の評価は、聡明で研究熱心な努力家、初々しいリケジョだが、おしゃれ好きの普通の女の子だという。パッシングを受け始めると、一人責任を押し付けられた、かわいそうな女性研究者のイメージ。

 
 一言でいえば彼女は「ユニークな研究者」だろうが、それにしても単純ミスや倫理観のなさはあまりにもひどい。実験ノートの不備やアバウトさ、写真やデータの単純な取り違え、他文献の無断コピー等、同じような不正は学生時代の博士論文にも見られる。理科系の人間とは、到底思えない。

 研究者としての基礎的なトレーニングを受ける機会がなかったという弁解もあるが、STAP論文発表当時の小保方氏は30歳で、理研の研究ユニットリーダー。国立大学でいうと准教授にあたるそうだ。著者は、ある科学者の取材で「小保方さんは相当、何でもやってしまう人ですよ」との一言にドキリして、いつまでも頭に残ったという。故意だとすればなおさらだが、未熟さや過失だとしても、研究者としての資質が欠けているのではないだろうか。こんな人がよくぞ組織の中で評価され、周囲の人はその資質の問題に気がつかなかったのだろうか。共同研究者の若山教授、笹井氏、丹羽氏らは、どうして彼女の不正を見抜けなかったのだろうか、疑問が残る。

 STAP細胞事件は、研究の秘密保持を優先し、外部からの批判や評価を遮断した閉鎖的プロジェクトであった。朝日新聞の福島原発吉田調書の誤報問題のように、よくある極秘プロジェクトの弊害で、それと状況がよく似ている。

2015年1月20日 (火)

もう一つの維新史

 昨年11月にやっと思いついて、単行本『もう一つの維新史~長崎・大村藩の場合』 (新潮選書、1993/11発売) の中古品を購入。先日2015年1月15日に読み終えた。

 

 以前から読もうと思って気になっていた本だが、発売されて20年以上も経ち絶版になっていたようだ。著者の元長崎大学教授・外山幹夫氏は、一昨年の2013年(平成25)に80歳で亡くなっている。

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 幕末、幕府直轄の長崎に近い大村藩の第12代藩主・大村純熈(すみひろ)は、蘭学に通じ、文武や学問を奨励した。また外国船の来航に備えて台場を築き、洋式軍備を導入したり、軍船を改良したりした。 

 当時、藩論は倒幕に傾きつつあった。しかし1863年(文久3)幕府は、外様の小大名・大村純熈を長崎奉行に任命するという異例の人事を行った。何度となく辞退を申し出たが、幕府から嫌疑をかけられないよう、その職に就く。しかし藩主の奉行就任により、家老を中心とした佐幕派が、台頭するようになる。

 翌年、純熈は病気を口実に長崎奉行を辞任、また「大村藩勤皇三十七士」の中心人物で藩学者の松林飯山らが暗殺されたのを機に、犯人探しが始まる。藩内の数十人にも及ぶ佐幕派を獄門、斬首、切腹させて一掃し、勤王派を重用する。

 そして他藩に先駆け、藩論を「尊皇攘夷」と決定し、藩主先導の倒幕運動を薩摩藩や長州藩と力を合わせて行動を起こしていく。戊辰戦争では会津、秋田にも出兵した。

 この功績を買われ、禄高2万7千石の小藩ながら、新政府より賞典禄3万石を与えられた。これは薩摩藩・長州藩の10万石、土佐藩の4万石に次ぐものであり、佐賀藩の2万石を上回っている。

 

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 この本は、大村藩で起きた勤皇派による佐幕派の大粛清である「大村騒動」を中心に描いている。ただ、勤皇派による佐幕派の粛清というのは表向きの見方で、佐幕派というのは、藩内の旧来秩序を守ろうとした保守派であったり、軍事などの藩改革に消極的な人達であったりした。また藩主の跡継ぎ問題や藩内での特定個人の私怨が絡み合い、「佐幕派」というレッテルを貼って、排除していったと著者は言う。

 藩主の覚えがめでたく、尊王派の中心となったのは若手藩士の渡辺昇。剣客としても有名で、京都での活躍は一説では鞍馬天狗のモデルともされる。その藩主の意向を背に、その発言力、行動力、また反対派に対する剛腕ぶりはすごい。昇は、長州藩の桂小五郎、高杉晋作、伊藤博文と親交を結び、薩長同盟のために尽力する。理由は病気だというが、戊辰戦争には参加してない。その兄の渡辺清は、薩摩藩の大久保利通、西郷隆盛らの信頼を得て、大村藩の討幕軍を率いて京都へ行き、新政府軍の参謀となっている。

 この勤皇派と佐幕派というレッテルが、粛清を実行した側「勤皇派」の者たちは、明治維新後の薩長派閥の政界で活躍する。渡辺昇は、やがて大阪府知事になる。兄の清は、福島県知事、福岡県知事を歴任。また勤王派の一人の楠本正隆は、東京府知事、衆議院議長を務めている。大村純熈は明治15年に死去したが、その後大村家は子爵を賜り、明治24年倒幕の功が認められて破格の伯爵に昇爵している。 

 

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 別の資料によると、大村藩が尊王攘夷に早くから目覚めた一つは、ペリー来航より45年も前の1808年(文化5年)、長崎港にイギリス軍艦フェートン号が入り、オランダ人を人質にとるという「フェートン号事件」とも言われている。長崎奉行・松平康英は、これを追い払えなかったため切腹。この事件の警備を任された大村藩は衝撃を受け、外国に負けない近代化を図る必要性を感じたのだという。

 著者は史料に基づき、「もう一つの維新史」として、維新の裏側を暴き出した。どこかの国で、反対派を「反革命」として粛清した歴史と似ている。維新が必ずしも教科書のようなきれいごとではなかった。歴史とはこんなものか。またいつかどこかで繰り返すだろう。

 読んでいるうちに、大村藩は他藩に比べて長崎に近い地理的条件と、外様の2万7千石(実質は6万石ともいわれる)の小藩であったことから、藩主が革新的で藩論がまとまり易く、早い時期に藩主自らが尊王攘夷を唱えたこと。他藩では有能な下級武士たちが中心となったが、大村藩は家老を筆頭に有能な上級武士が勤王派を形成した。藩主の理解があったので、大村藩では脱藩をする者がいなかったこと、などの特徴が見えてきて面白い。ただ小藩ゆえに、薩長に並ぶほどの人材や、教科書に掲載されるほどの評価を受けなかったのは残念だ。

2014年2月26日 (水)

「永遠の0」-その2

 ブログ記事-映画「永遠の0」の続き。

 

 百田直樹(ひゃくたなおき)氏の小説と映画『永遠の0』は、なぜ大ヒットしているのか。映画を観る2日前の2月17日講談社文庫を購入し、25日に読み終えた。
 

 放送作家の百田氏は、2006年に『永遠の0』(太田出版)を発表、小説家としてデビュー。2009年に講談社から文庫本化。2013年12月東宝により映画公開。現在410万部を突破。また小説『海賊とよばれた男』では、2013年本屋大賞を受賞している。

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 小説は、航空戦史と空戦が、詳しく描かれている。軍上層部に対して、兵の命を軽んじ、作戦や判断を誤り、責任は誰もとらない官僚主義を批判。マスコミについても、戦前・戦中は愛国心を煽り、戦後は手のひらを反して反日、愛国心の否定、戦死者を悪者扱いにする報道も批判している。

 宮部久蔵のように戦いを避け、「生きて帰りたい」と言うパイロットは、実際いたのだろうか。その彼がなぜ特攻に志願したのか、その理由は読者に委ねている。十一章の特攻出動、最終十二章の戦後の松乃の生活で、どんでん返しに思わず引き込まれていく。

 「特攻は自爆テロと同じ」と言う新聞記者に戦友が反論する。映画では健太郎が合コンで友人と言い合う場面に置き換わっている。また別の戦友が、戦後ヤクザとなって登場する。そのヤクザは原作にもあるが、物語が軽い感じになってしまって、がっかりする。映画で、宮部が松乃との最後の別れのシーンや、零戦に乗った幻の宮部が飛んで来て健太郎の頭上で敬礼するエンディングは、小説にはないが心を打つ。

 映画では零戦や空母、戦闘シーンがリアルに表現され、ミーハー心が刺激されたが、小説では私の少年時代に吸収した戦史が、詳しく展開されていくので興味深かった。

 

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 安倍晋三首相の「お友だち」が多数送り込まれたNHK経営委員会は、NHK会長に元日本ユニシス社長の籾井勝人(もみいかつと)氏を決めた。氏は今年1月25日の会長就任会見で、慰安婦問題や秘密保護法をめぐる発言、理事の辞表集めなど言動が問題となり、国会でも追及。その後もどこが悪いのかと居直っている。即刻辞任すべきだ。

 経営委員で埼玉大名誉教授・長谷川三千子氏は、20年前に拳銃自殺した新右翼活動家・野村秋介氏を追悼文で礼賛。これは、言論機関へのテロを称賛するもので、経営委員には不適格だ。氏は、安倍首相の応援団を自認、夫婦別姓や男女共同参画に反対、象徴天皇制を否定し絶対天皇制を唱えている。

 同じく経営委員の百田尚樹氏は今月3日、東京都知事選候補の田母神氏の応援演説に駆けつけ、他候補者たちを「人間のクズ」という暴言をした。また南京大虐殺の存在を否定、どの国でも残虐行為はあったなどと明言。国会や市民団体から、公共放送の不偏不党の立場に抵触との批判が出ている。氏は、安倍首相に非常に近いとされる中の一人で、憲法改正、日本軍創設を主張している。

 これまでNHKの放送内容が偏向しているとして、NHK経営委員や会長選任に当たっては安倍政権の意向が強く働いている。このような暴言を平気するような人達が会長、経営委員を務めるとは、NHKの政治的中立、公平性は失われてしまう。

 

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 この作品は、戦争を美化、特攻を賛美しているようには見えないが、少なくとも反戦ではない。戦争を題材に、零戦の戦闘シーンや特攻の悲劇、そして多くの人に感動を与えるエンターテイメントと言える。直木賞作家の石田衣良(いしだいら)氏は、『永遠の0』や『海賊とよばれた男』などについて、ソフトに愛国心を強める「右傾エンタメ」と呼んでいる。

 戦場で倒れた人たちへの哀悼・尊敬の意を表するのは当然だが、戦争の悲劇と感動の先には英霊への感謝、A級戦犯の名誉回復、侵略戦争自体の否定といった伏線がある。作者の思想的背景を考えると、作品のヒットは現安倍内閣とは無関係ではない。こういった作品が底流にあって、日本のリーダーの右傾化、国家主義が、日本人の心と日本の社会に静かに浸透し始めているのではないかと、危惧せざるを得ない。

2012年7月18日 (水)

長崎から江戸へ旅した象-その4

 ブログ記事 「長崎から江戸へ旅した象-その3」について、追記する。
 http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/3-43a4.html

 
 杉本苑子の小説『ああ三百七十里』の中で主人公の象は、「天皇と対面する京都御所では、脱糞して護送役の役人たちをあわてさせた。役人はその上に羽織をかけ、事なきを得た。」といった内容がある。

 この話は石坂昌三著の『象の旅-長崎から江戸へ』の中に出て来ないと書いた。その後読み返したら、第4章「東海道を象が行く」の(7)節「東海道のど真ん中」で、袋井宿辺りを歩いているシーンで、2行ほど触れてあった。
 
 

 原文から以下に引用する。

 ”象が通りかかると百姓たちは手を休め、腰を伸ばして見送った。沿道では赤ん坊をおぶった子供たちが好奇の目を輝かせていた。
 象はこうした働く百姓に、道々贈り物をしていた。両手に納まらなくらい大きな糞である。大食漢の象は所構わず大量の糞をする。
 実は、京都御所に参内したときも、象が糞をし、「畏れ多いこと」と福井が来ていた羽織をさっと脱いで、糞に懸けて隠したのであった。
 一個分が牛や馬の糞の三倍もある象の糞は、百姓には肥料として有難かった。象が通過すると子供たちが奪い合い、道は掃除しなくてもたちまちきれいになった。”

 石坂昌三は、この京都御所の脱糞の話をどの文献から引用したのだろうか。

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 中野村から将軍の象が飼われていた浜御殿(現在の浜離宮)に、竹笹などの餌を運んでいた百姓の源助は、帰りに象の糞を持ち帰り、肥料として近所の百姓に売っていたそうだ。そのうちに源助は、当時流行っていた麻疹(はしか)や疱瘡(ほうそう、天然痘)に効く薬として売って儲けたという。あながちウソではあるまい。

 糞は、古来から漢方薬として用いられてきた。戦国時代には、馬糞に薬効があると信じられ、傷口に塗ったり、直接食べるか水でといて飲んだりしたらしい。白牛の糞が麻疹に効くともいわれていたこともあり、霊獣の象の糞ならもっと効くだろうとのことであった。
 なお一般的に、肉食獣に比べると、草食獣の糞の臭いは少ないらしい。インドやアフリカなどでは、牛や家畜の糞を医薬品以外に、いろいろな生活用品として利用している国もある。

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 最近ネットで、享保時代に将軍吉宗に献上したゾウの旅について、挿絵とともに児童向けに書いた本を見つけた。
 小林清之介(著)『ゾウの大旅行』 小峰書店 1970  「動物ノンフィクション」シリーズ

 小林清之介は、動物文学者、俳人で、児童向けの昆虫の本が多い。この本は、すでに絶版になっており、中古でも入手困難らしい。40年以上も前に、このような児童向けの本が出版されていたことに驚く。

2012年7月 9日 (月)

珍獣?霊獣?象が来た!-その2

 2012年6月10日まで開催されていた長崎歴史文化博物館の『珍獣?霊獣?象が来た!』展覧会では、長い歴史の中で日本人が象とどう関わりを持ち、象に対していかなるイメージを持ったのかをテーマに、多くの作品が展示されていた。
 あらためて、『珍獣?霊獣?象が来た!』の展示図録を見る。

 

 普賢菩薩を背に乗せる霊獣としての白象の姿は、現代でもよく見かけることがある。しかし鼻の特徴はあるものの、また牙が6本あったり、顔つきは獅子に似ている。菩薩は、まるで子牛か子馬に乗っているようで、実際の象の大きさを実感することはできない。
 下の写真は、京都・相国寺蔵の「普賢菩薩像」で、展示品にはない。

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 涅槃図の中にも、釈迦の死に際に嘆く悲しむ菩薩、弟子たちや動物に交じって白象が描かれている。下の写真は、展示品にはないが、長谷川等伯の「巨大涅槃図」。左下に白象が他の動物と一緒に座り込んでいる。象を含め動物たちの様子は何やら漫画的だ。
 現在でも、お釈迦さまの命日2月15日の「涅槃会(ねはんえ)」には、仏教寺院では大きな「涅槃図」を本堂に掲げ、人々がお参りしている様子を目にする。また釈迦の誕生日4月8日の「花まつり」では、子どもたちにとっては甘茶をいただく日で、白象を引く稚児行列を出す寺も多いという。

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 儒教にかかわりの深い中国の孝行話24話を集めた「二十四孝」が、日本にも伝わった。初めて知ったことだが、その第1話に孝行息子を助けて畑を耕す白象が登場する。
 江戸幕府が儒教を広める文教政策もあり、「二十四孝」の版本や浮世絵などが大いに流行したそうだ。社殿の欄間彫刻のモチーフとしても、よく知られている。
 普賢菩薩と涅槃図が代表的な象の仏画だが、二十四孝の象も当時の庶民はよく目にしたに違いない。下の写真は、江戸時代の歌川国芳の浮世絵で、本展覧会にも展示されていた。象はかなりリアルである。

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 展示図録のこの絵の解説には、「孝行を助けるその尊い姿の根幹には、・・・ 霊獣という前提があったはず」と書かれている。

 

 根付(ねつけ)は、煙草入れ、矢立て、印籠や袋物などを、紐で帯から吊るし持ち歩くときに用いた留め具で、材質は堅い木や象牙などが多かった。オランダ船を描いた絵に、象牙が積まれていたり、象牙を荷降ろしする様子が描かれているものがある。江戸時代には象牙を輸入し、象牙工芸が発展した。特に根付や印籠など、優れた工芸品が多い。

 
 明治以降、象牙の輸入量が増えると、三味線のバチや箏の爪、糸巻の高級品に使用された。更に大正・昭和に入ると、喫煙パイプが主な象牙製工芸品となった。日本は最大の象牙輸入国であったが、ワシントン条約により、1989年より象牙の貿易は禁止されている。
 展示図録を見ると、江戸時代から明治にかけての多くの根付や象牙工芸品が展示されている。また象を描いた道具箱や、象を描いたり、かたどった陶磁器など美術品もある。   

 象が霊獣とするなら、霊獣の象牙に対してはどのようなイメージを持って加工や使用していたのだろうか、不思議である。
 

 

 象は、室町時代までは霊獣として仏画に描かれている。安土桃山時代から江戸時代には、実際の象が入ってきたりして、だんだんと絵もリアリティを増し、霊獣としてだけでなく、珍しい異国のけもの、つまり珍獣でもあった。日本人の心の中には、霊獣と珍獣の二つが併存していたのだろうか。

 そして展示図録には、更に象のイメージは拡散して、日本人の心には霊獣・珍獣を越えたユーモラスな象として、伊藤若冲や長沢芦雪などの絵師が描いた新たな作品が現れたとしてしている。下の写真は展示図録の表紙で、上段に長沢芦雪の「白象唐子図屏風」の一部、下段に伊藤若冲の「象と鯨図屏風」の一部が使われている。

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 日本人の象に対するイメージは、霊獣か珍獣とかの一元的なものでなく、多元的なものになっていったようだ。何にやら象のイメージは、日本人の持つ多神教の宗教観や、東洋哲学の多元論のような広がりをもつ存在に思えてくる。

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