映画「雪の花 ーともに在りてー」
2023年1月31日(金)、映画『雪の花 ーともに在りてー 』を観る。
江戸時代末期の福井藩を舞台に、数年ごとに大流行して多くの人命を奪う疫病から人々を救おうと立ち向かい、絶対に諦めなかった実在の町医者・笠原良策の姿、そして人々との出会いと夫婦の絆を描く。主人公の笠原良策を松坂桃李、良策の妻・千穂を芳根京子、良策を指導する蘭方医・日野鼎哉(ていさい) を役所広司が演じる。そのほか吉岡秀隆、三浦貴大、宇野祥平らが共演。
監督は、小泉堯史(たかし)。黒澤明監督に師事し、28年間にわたって助手を務めた。黒澤の死後、その遺作シナリオ『雨あがる』を映画化(2000年公開)し、監督デビュー。『阿弥陀堂だより』(2002年)、『博士の愛した数式』(2006年)、『蜩(ひぐらし)ノ記』(2014年)、『峠 最後のサムライ』(2022年)などで人間の美しい在り方を描いてきた巨匠が、吉村昭の小説『雪の花』(1988年、新潮文庫刊)を原作に映画化。2025年1月24日公開された。
江戸時代の末期、有効な治療法がなく伝染力が非常に強く、死に至る疫病として人々から恐れられていた疱瘡(天然痘)が猛威を振るい、多くの命を奪っていた。治癒した場合でも顔面に醜い瘢痕(=あばた)が残るため、忌み嫌われていた。福井藩の町医者で漢方医の笠原良策(松坂桃李)は、患者を救いたくとも何もすることができない自分に無力感を抱いていた。自らを責め、落ち込む良策を、妻の千穂(芳根京子)は励まし続ける。
どうにかして人々を救う方法を見つけようとする良策は、旅先の温泉宿で大聖寺藩(加賀藩の支藩)の町医者・大武了玄 (吉岡秀隆 )と出会い、蘭方医学であれば疱瘡を治せるかもしれないと聞く。良策は、友人の福井藩・藩医の半井元沖 (三浦貴大)の紹介で、京都の蘭方医・日野鼎哉 (役所広司)に教え請うため京都へと向かう。
「名を求めず、利を求めず」という鼎哉の教えのもと、蘭方医学を一から学びなおす。 鼎哉の塾で疱瘡の治療法を探し求めていたある日、 異国では疱瘡を防ぐ「種痘」という方法があると知る。だが種痘を行うためには、牛痘の膿やカサブタ の「種痘の苗」を海外から取り寄せる必要があり、幕府の許可も必要。実現は極めて困難だが、諦めない良策の志はやがて、藩、そして幕府をも巻き込んでいく。そして、私財を投げ打って種痘の苗を福井に持ち込んだ。
しかし、天然痘の膿をあえて体内に植え込むという種痘の普及には、さまざまな困難が立ちはだかる。庶民は激しい恐怖心をいだき、漢方の藩医らの妨害もあっていっこうに広まらない。それでも良策は、妻・千穂に支えられながら疫病と闘い続ける。
★★★
笠原の天然痘へ立ち向かう活動は、事なかれ主義の役人や、自己の権益に固執する漢方医や藩医だった。医術の主流だった漢方医はこの疾病に、為す術はない。種痘は長崎や大阪、福井で普及し全国に広がっていったが、江戸では漢方医の権勢が強く、お玉ケ池に種痘所の設置が公認されるのは1858年と、福井より 9年も遅れを取ることになったという。
医者には藩医と町医者がいるのがよく分かった。前者は藩に仕える士分であるが、後者は市中で開業していた町人などの出身者。笠原は映画の中で、種痘を普及させた功労で藩の家老から士分に取り立てて3人扶持を与えると沙汰があるが、「名を求めず、利を求めず」という鼎哉の教えを守り断っている。
笠原が牛痘の苗を持ち帰る大雪の「栃ノ木峠」越えの場面がクライマックスで、彼の大事業がこのロケシーンで実感できる。当然リハーサルなしで撮影されたようだが、しかし吹雪の割には周囲の樹木は静止したままで、キャストの動きも違和感があった。すぐに暖かい宿で祝い酒や親子でくつろぐ姿に切り替わるが、凍傷にならなかったのか、濡れた着物はどうしたのか、気になった。
映画の最初の方で、疱瘡にかかって伏せている村人たちが出て来るが、その顔には天然痘特有の豆粒状の発疹がない。また、天然痘を発症したが1人だけ助かった村娘・はつにも顔にアバタがない。映画作りでメイクをどうするか、小泉監督はあまり悲惨なものにしたくないという思いがあって、その後も美しくたくましく生きるという女性を描きたかったということのようだ。
映画の中で「男ノ助」と呼ばれた笠原の妻・千穂は、優しくて強い女として描いていて、演技を見ていて清々しい気持ちになる。しかし護身術を使った浪人を追い払う立ち回りや、ラストシーンで祭りの太鼓を叩くシーンは、ちょっとやり過ぎか。小泉監督の渋い、地味な作風の映画に、派手さを盛り込んだのだろうか、ほかに強さを表現する方法は無かったのだろうか。
数年前の未知のウィルスだった新型コロナが猛威を振るったとき、闘い抜いた多くの医療関係者の専門家の人たちがいて、多くの患者の命が救われた。迷走する官僚や政治家、根拠のないデマを吹聴する者、科学的なデータや知見を超越して権力を振りかざす者、政府の補助金の無駄使い、それを食い物にする者。そういったコロナ禍を経験した今の時代の我々こそ、この物語を身近に心に感じ、共感を得た人たちも多いと思う。
★ ★ ★
笠原良策(1809ー1880)は、福井藩の町医者。越前国足羽郡深見村(現・福井市深見町)生まれ。父も福井城下の町医だった。初め漢方医学を修め、福井城下で開業したが、その後蘭方医学を志して京都で学んだ。1845年、牛痘による天然痘予防が可能であることを知り、痘苗輸入が急務であることを説いて、幕府の輸入許可を求める嘆願書を提出。福井藩主・松平春嶽の建言により、幕府の牛痘輸入許可がおりた。
1849年、痘苗を入手するため長崎に行く途中の京都で痘苗が手に入り、まず京都で苦心の末に種痘に成功し京都での普及を果たした。当時の種痘は子どもから子どもに7日目毎に植え継ぐ方法しか確実な方法が無かった。良策の日記『戦兢録』(せんきょうろく)によると、同年11月19日、子ども2人に種痘を施した親子と一緒に京都を出発。11月22日、福井から連れてきた子ども2人に途中の長浜で植え継ぎ、京都の親子は帰した。
笠原らは11月23日、豪雪の国境(滋賀・福井県境)の「栃ノ木峠」(539m)を越えた。2mを超える積雪、吹雪が行く手を阻み、あわや遭難という時、迎えに来た村人に助けられる。京都から福井まで7日間の行程によって、11月25日福井城下へ痘苗をもたらした。
映画で、吹雪の「栃ノ木峠」を越えるシーン。
同年、福井城下で初の種痘が実施されたが、庶民の理解を得ることは困難であった。藩役人からは「西洋の妖術」と批判され、種痘をすると牛になるというデマも流れたため、予防接種は広まらなかった。怪しげな情報や、払いがたい不安が広がる状況は、現代のコロナ禍でも同様だった。
それでも良策は諦めず1850年に、『牛痘問答』を出版。ふりがなをつけ、庶民向けに種痘の意義を説いて次第に広まっていく。1851年には藩営の種痘所「除痘館」が 開設され、急速に普及していった。種痘の継続に尽力し、領内諸地域や北陸の近隣諸藩の府中、鯖江、大野、敦賀、大聖寺、金沢、富山に種痘を広めた。
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種痘は、天然痘の予防接種を指し、人類初のワクチン。1796年にイギリスの医師エドワード・ジェンナー(1749-1823)が、天然痘に感染したウシの膿から精製した「牛痘ウイルス」を接種することで、天然痘の軽症化を発見した。種痘によって近縁のウイルスがヒトの体内に入った場合でも、軽度の発熱、発赤、発しんなどの副反応が生じる場合があるが、発病しない免疫力がつくられる。
エドワード・ジェンナーと笠原良策 出典:ウキメディア・コモンズ
天然痘の歴史は大変古く、およそ1万2000年前からあったと言われていている。紀元前1000年前後のエジプトのミイラには、天然痘の痕跡が見られるという。ジェンナーはウシの乳しぼりをしている人から、「牛痘にかかった人は、天然痘にはかからない」という話を聞き、これをヒントに天然痘の研究に取り組み、ウシやブタで実験をくり返し行なった。そしてついに「種痘」を完成させ、仮説が正しいことを証明した。
江戸時代の後期、西洋の情報を得た多くの蘭方医が種痘の研究や接種の効果を説き、牛痘苗の入手を試みた。シーボルトに師事した佐賀藩医・伊東玄朴は、藩に痘苗の入手を進言した。藩主・鍋島直正は、オランダ商館長に牛痘苗の取り寄せを依頼。牛痘苗の海外からの輸送は、航海中に効力が失われ失敗していた。同じくシーボルトに師事した佐賀藩医・楢林宗建は、藩主の命を受け1848年にオランダ商館医のオットー・モーニッケから種痘法を学んだ。
翌1989年、バタヴィア(ジャカルタ)からオランダ船が牛痘苗を移入、楢林は長崎出島でモーニッケと協力して、自身の子息を含む3名に対して牛痘接種に成功した。この痘苗は日本の各地へ受け継がれて、本格的な牛痘法が普及する。笠原良策の清国からの牛痘苗の取寄せが実現する前に、この最初の種痘から2か月の間に長崎の市中に広がっていたものが元になった痘苗が、京都の日野鼎哉まで伝わった。笠原はその痘苗を福井に持ち帰ることにした。
こうして各地で種痘が急速に普及していった。全国に広まっていくと同時に、もぐりの施術を行う牛痘種痘法者も現れた。種痘の普及に尽力していた大坂の蘭学者・蘭方医の緒方洪庵らは「除痘館」のみを国家公認の唯一の牛痘種痘法治療所として認められるよう奔走していた。1858年、洪庵の天然痘予防の活動に対し、幕府からの公認が行われ、牛痘種痘は免許制とされた。
天然痘ウイルスの電子顕微鏡写真 出典:ウキメディア・コモンズ
中国 (北宋 )から入った「人痘法」という予防法もあったそうだ。ところが「人痘法」は疱瘡‘を実際に発症してしまうことも多く、危険とされ、広まり方は中途半端だったという。
明治政府は、1874年(明治7)に定期の種痘を定めた文部省告示「種痘規則」を布達、1876年(明治9)「天然痘予防規則」が制定、1909年(明治42)の「種痘法」によって国民に定着した。20世紀中盤には、先進国においては天然痘を根絶した地域が現れ始め、日本国内における発生は1955年(昭和30)の患者を最後に確認されず、1976年(昭和51)には種痘の定期接種が中止された。
1980年(昭和55)5月に世界保健機関(WHO)によって、天然痘の世界根絶宣言がなされた。以降、これまでに世界中で天然痘患者の発生はない。コロナ禍を今日、江戸時代に感染症と諦めず粘り強く、最後まで闘った無名の町医者の存在を知った。
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