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2025年2月 2日 (日)

映画「雪の花 ーともに在りてー」

 2023年1月31日(金)、映画『雪の花 ーともに在りてー 』を観る。

 江戸時代末期の福井藩を舞台に、数年ごとに大流行して多くの人命を奪う疫病から人々を救おうと立ち向かい、絶対に諦めなかった実在の町医者・笠原良策の姿、そして人々との出会いと夫婦の絆を描く。主人公の笠原良策を松坂桃李、良策の妻・千穂を芳根京子、良策を指導する蘭方医・日野鼎哉(ていさい) を役所広司が演じる。そのほか吉岡秀隆、三浦貴大、宇野祥平らが共演。

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 監督は、小泉堯史(たかし)。黒澤明監督に師事し、28年間にわたって助手を務めた。黒澤の死後、その遺作シナリオ『雨あがる』を映画化(2000年公開)し、監督デビュー。『阿弥陀堂だより』(2002年)、博士の愛した数式』(2006年)、『蜩(ひぐらし)ノ記』(2014年)、『峠 最後のサムライ』(2022年)などで人間の美しい在り方を描いてきた巨匠が、吉村昭の小説『雪の花』(1988年、新潮文庫刊)を原作に映画化。2025年1月24日公開された。

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 江戸時代の末期、有効な治療法がなく伝染力が非常に強く、死に至る疫病として人々から恐れられていた疱瘡(天然痘)が猛威を振るい、多くの命を奪っていた。治癒した場合でも顔面に醜い瘢痕(=あばた)が残るため、忌み嫌われていた。福井藩の町医者で漢方医の笠原良策(松坂桃李)は、患者を救いたくとも何もすることができない自分に無力感を抱いていた。自らを責め、落ち込む良策を、妻の千穂(芳根京子)は励まし続ける。

 どうにかして人々を救う方法を見つけようとする良策は、旅先の温泉宿で大聖寺藩(加賀藩の支藩)の町医者・大武了玄 (吉岡秀隆 )と出会い、蘭方医学であれば疱瘡を治せるかもしれないと聞く。良策は、友人の福井藩・藩医の半井元沖 (三浦貴大)の紹介で、京都の蘭方医・日野鼎哉 (役所広司)に教え請うため京都へと向かう。

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 「名を求めず、利を求めず」という鼎哉の教えのもと、蘭方医学を一から学びなおす。 鼎哉の塾で疱瘡の治療法を探し求めていたある日、 異国では疱瘡を防ぐ「種痘」という方法があると知る。だが種痘を行うためには、牛痘の膿やカサブタ の「種痘の苗」を海外から取り寄せる必要があり、幕府の許可も必要。実現は極めて困難だが、諦めない良策の志はやがて、藩、そして幕府をも巻き込んでいく。そして、私財を投げ打って種痘の苗を福井に持ち込んだ。

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 しかし、天然痘の膿をあえて体内に植え込むという種痘の普及には、さまざまな困難が立ちはだかる。庶民は激しい恐怖心をいだき、漢方の藩医らの妨害もあっていっこうに広まらない。それでも良策は、妻・千穂に支えられながら疫病と闘い続ける。
 

 ★★★

 笠原の天然痘へ立ち向かう活動は、事なかれ主義の役人や、自己の権益に固執する漢方医や藩医だった。医術の主流だった漢方医はこの疾病に、為す術はない。種痘は長崎や大阪、福井で普及し全国に広がっていったが、江戸では漢方医の権勢が強く、お玉ケ池に種痘所の設置が公認されるのは1858年と、福井より 9年も遅れを取ることになったという。

 医者には藩医と町医者がいるのがよく分かった。前者は藩に仕える士分であるが、後者は市中で開業していた町人などの出身者。笠原は映画の中で、種痘を普及させた功労で藩の家老から士分に取り立てて3人扶持を与えると沙汰があるが、「名を求めず、利を求めず」という鼎哉の教えを守り断っている。

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 笠原が牛痘の苗を持ち帰る大雪の「栃ノ木峠」越えの場面がクライマックスで、彼の大事業がこのロケシーンで実感できる。当然リハーサルなしで撮影されたようだが、しかし吹雪の割には周囲の樹木は静止したままで、キャストの動きも違和感があった。すぐに暖かい宿で祝い酒や親子でくつろぐ姿に切り替わるが、凍傷にならなかったのか、濡れた着物はどうしたのか、気になった。

 映画の最初の方で、疱瘡にかかって伏せている村人たちが出て来るが、その顔には天然痘特有の豆粒状の発疹がない。また、天然痘を発症したが1人だけ助かった村娘・はつにも顔にアバタがない。映画作りでメイクをどうするか、小泉監督はあまり悲惨なものにしたくないという思いがあって、その後も美しくたくましく生きるという女性を描きたかったということのようだ。

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 映画の中で「男ノ助」と呼ばれた笠原の妻・千穂は、優しくて強い女として描いていて、演技を見ていて清々しい気持ちになる。しかし護身術を使った浪人を追い払う立ち回りや、ラストシーンで祭りの太鼓を叩くシーンは、ちょっとやり過ぎか。小泉監督の渋い、地味な作風の映画に、派手さを盛り込んだのだろうか、ほかに強さを表現する方法は無かったのだろうか。

 数年前の未知のウィルスだった新型コロナが猛威を振るったとき、闘い抜いた多くの医療関係者の専門家の人たちがいて、多くの患者の命が救われた。迷走する官僚や政治家、根拠のないデマを吹聴する者、科学的なデータや知見を超越して権力を振りかざす者、政府の補助金の無駄使い、それを食い物にする者。そういったコロナ禍を経験した今の時代の我々こそ、この物語を身近に心に感じ、共感を得た人たちも多いと思う。
 
 
★ ★ ★

 笠原良策(1809ー1880)は、福井藩の町医者。越前国足羽郡深見村(現・福井市深見町)生まれ。父も福井城下の町医だった。初め漢方医学を修め、福井城下で開業したが、その後蘭方医学を志して京都で学んだ。1845年、牛痘による天然痘予防が可能であることを知り、痘苗輸入が急務であることを説いて、幕府の輸入許可を求める嘆願書を提出。福井藩主・松平春嶽の建言により、幕府の牛痘輸入許可がおりた。

 1849年、痘苗を入手するため長崎に行く途中の京都で痘苗が手に入り、まず京都で苦心の末に種痘に成功し京都での普及を果たした。当時の種痘は子どもから子どもに7日目毎に植え継ぐ方法しか確実な方法が無かった。良策の日記『戦兢録』(せんきょうろく)によると、同年11月19日、子ども2人に種痘を施した親子と一緒に京都を出発。11月22日、福井から連れてきた子ども2人に途中の長浜で植え継ぎ、京都の親子は帰した。

 笠原らは11月23日、豪雪の国境(滋賀・福井県境)の「栃ノ木峠」(539m)を越えた。2mを超える積雪、吹雪が行く手を阻み、あわや遭難という時、迎えに来た村人に助けられる。京都から福井まで7日間の行程によって、11月25日福井城下へ痘苗をもたらした。

 映画で、吹雪の「栃ノ木峠」を越えるシーン。

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 同年、福井城下で初の種痘が実施されたが、庶民の理解を得ることは困難であった。藩役人からは「西洋の妖術」と批判され、種痘をすると牛になるというデマも流れたため、予防接種は広まらなかった。怪しげな情報や、払いがたい不安が広がる状況は、現代のコロナ禍でも同様だった。

 それでも良策は諦めず1850年に、『牛痘問答』を出版。ふりがなをつけ、庶民向けに種痘の意義を説いて次第に広まっていく。1851年には藩営の種痘所「除痘館」が 開設され、急速に普及していった。種痘の継続に尽力し、領内諸地域や北陸の近隣諸藩の府中、鯖江、大野、敦賀、大聖寺、金沢、富山に種痘を広めた。
   
 
 ★ ★ ★

 種痘は、天然痘の予防接種を指し、人類初のワクチン。1796年にイギリスの医師エドワード・ジェンナー(1749-1823)が、天然痘に感染したウシの膿から精製した「牛痘ウイルス」を接種することで、天然痘の軽症化を発見した。種痘によって近縁のウイルスがヒトの体内に入った場合でも、軽度の発熱、発赤、発しんなどの副反応が生じる場合があるが、発病しない免疫力がつくられる。

 エドワード・ジェンナーと笠原良策  出典:ウキメディア・コモンズ

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 天然痘の歴史は大変古く、およそ1万2000年前からあったと言われていている。紀元前1000年前後のエジプトミイラには、天然痘の痕跡が見られるというジェンナーはウシの乳しぼりをしている人から、「牛痘にかかった人は、天然痘にはかからない」という話を聞き、これをヒントに天然痘の研究に取り組み、ウシやブタで実験をくり返し行なった。そしてついに「種痘」を完成させ、仮説が正しいことを証明した。

 江戸時代の後期、西洋の情報を得た多くの蘭方医が種痘の研究や接種の効果を説き、牛痘苗の入手を試みた。シーボルトに師事した佐賀藩医・伊東玄朴は、藩に痘苗の入手を進言した。藩主・鍋島直正は、オランダ商館長に牛痘苗の取り寄せを依頼。牛痘苗の海外からの輸送は、航海中に効力が失われ失敗していた。同じくシーボルトに師事した佐賀藩医・楢林宗建は藩主の命を受け1848年にオランダ商館医のオットー・モーニッケから種痘法を学んだ。

 翌1989年、バタヴィア(ジャカルタ)からオランダ船が牛痘苗を移入、楢林は長崎出島でモーニッケと協力して、自身の子息を含む3名に対して牛痘接種に成功した。この痘苗は日本の各地へ受け継がれて、本格的な牛痘法が普及する。笠原良策の清国からの牛痘苗の取寄せが実現する前に、この最初の種痘から2か月の間に長崎の市中に広がっていたものが元になった痘苗が、京都の日野鼎哉まで伝わった。笠原はその痘苗を福井に持ち帰ることにした。

 こうして各地で種痘が急速に普及していった。全国に広まっていくと同時に、もぐりの施術を行う牛痘種痘法者も現れた。種痘の普及に尽力していた大坂の蘭学者・蘭方医の緒方洪庵らは「除痘館」のみを国家公認の唯一の牛痘種痘法治療所として認められるよう奔走していた。1858年、洪庵の天然痘予防の活動に対し、幕府からの公認が行われ、牛痘種痘は免許制とされた。

 天然痘ウイルスの電子顕微鏡写真 出典:ウキメディア・コモンズ

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 中国 (北宋 )から入った「人痘法」という予防法もあったそうだ。ところが「人痘法」は疱瘡‘を実際に発症してしまうことも多く、危険とされ、広まり方は中途半端だったという。

 明治政府は、1874年(明治7)に定期の種痘を定めた文部省告示「種痘規則」を布達、1876年(明治9)「天然痘予防規則」が制定、1909年(明治42)の「種痘法」によって国民に定着した。20世紀中盤には、先進国においては天然痘を根絶した地域が現れ始め、日本国内における発生は1955年(昭和30)の患者を最後に確認されず、1976年(昭和51)には種痘の定期接種が中止された。

 1980年(昭和55)5月に世界保健機関(WHO)によって、天然痘の世界根絶宣言がなされた。以降、これまでに世界中で天然痘患者の発生はない。コロナ禍を今日、江戸時代に感染症と諦めず粘り強く、最後まで闘った無名の町医者の存在を知った。

2024年6月30日 (日)

映画「九十歳。何がめでたい」

 2024年6月27日(木)、映画『九十歳。何がめでたい』を観る。
 

 昨年100歳を迎えた作家・佐藤愛子が、日々の暮らしと世の中への怒りや新しい時代への戸惑いを独特のユーモアでつづったベストセラー・エッセイ集『九十歳。何がめでたい』『九十八歳。戦いやまず日は暮れず』が映画化、6月21公開した。90歳を迎えた草笛光子が、エネルギッシュでチャーミングな佐藤愛子を熱演する痛快エンターテイメント。唐沢寿明が、 冴えない中年編集者の吉川をコミカルに演じる。

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 直木賞など数々の文学賞を受賞してきた作家の佐藤愛子(草笛光子)は、90歳を過ぎて断筆宣言して人づきあいも減り、新聞やテレビをボーッと眺める鬱々とした日々を過ごしていた。一方、大手出版社に勤める中年編集者の吉川真也(唐沢寿明)は、古い昭和気質がパワハラ、セクハラだと社内で問題となり、謹慎処分に。妻や娘にも愛想を尽かされ、仕事にプライベートに悶々とする日々。

 そんなある日、吉川の所属する編集部では佐藤愛子の連載エッセイ企画が持ち上がる。なんとしても企画を成功させたい吉川と、「書けない、書かない、書きたくない!」と断固拒否する愛子とのお互い一歩も譲らない「頑固者」どうしの攻防戦が繰り広げられる。

 以下6枚の写真は、『90歳。何がめでたい』のパンフレットより転載。

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 ようやく吉川を追い払ったが、情けなくうなだれる吉川の姿にほだされた愛子は、執筆を承諾する。ヤケクソで「いちいちうるせえ!」と、生きづらい世の中への怒りを歯に衣着せぬ物言いで綴った連載は、意図せず大反響を呼び、全国の書店で売れ行き№1に。愛子の人生は90歳にして大きく変わっていく。そして吉川も、妻と離婚して新しい人生を切り開こうと決意する。  

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 愛子と同じ家の2階に暮らす娘・響子役を真矢ミキ、吉川の妻・麻里子を木村多江が演じるほか、三谷幸喜、清水ミチコ、オダギリジョー、LiLiCo、石田ひかりらが出演。『老後の資金がありません!』(2021年10月公開 )などの前田哲監督がメガホンをとり、『水は海に向かって流れる』(2023年6月公開 )でも前田監督と組んだ大島里美が脚本を担当した。そういえば、昨年6月30日に観た『大名倒産』も前田哲監督だった。

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 書籍『九十歳。何がめでたい』は、2016年8月に小学館から刊行。『女性セブン』(同社)に連載されたエッセイに加筆修正したもの。自身の身体の不調、時代の進歩、悩める若い人たちについて書いているという。

 『九十八歳。戦いやまず日は暮れず』(2021年8月、小学館刊)は、その続編。自身の最後となるエッセイ集のタイトルは、夫が作った莫大な借金を一人背負い込んで奮闘する妻(愛子自身)の姿を描いた直木賞受賞作『戦いすんで日が暮れて』(1969年)を真似た借金は返済したけれど人生の「戦いはやまず」、今も「日が暮れていない」という愛子の人生の実感だそうだ。

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 ★ ★ ★

●暴れ猪

 佐藤愛子は、90歳の時に長い作家生活の集大成として『晩鐘』(文藝春秋、2014年12月)を書き上げた。その時のインタビューで「書くべきことは書きつくして、もう空っぽになりました。作家としての私は、これで幕が下りたんです」(女性セブン)と語った。一度は下ろした幕を再び上げて始まった連載『九十歳。何がめでたい』は、現代の世相に噛みつく様子が「暴れ猪」のように見えるという。自らを「暴れ猪」と自称する生き方は、 映画の中でも吉川に「私は暴れ猪だから・・・」と言うシーンがある。

 愛子は大正12年(1923年)の生れ、「癸亥(みずのとい)の年」。「十二支」は、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の12種類。「十干」(じっかん)は、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10種類からなり、これらを合わせて60種の「干支」がある。中国の陰陽五行説に基づいた占術「四柱推命」で、「干支」からその人の性格・本質が分かるそうだ。

 「癸亥生まれ」の性格や特徴は、乱暴な性格の持ち主。無茶苦茶な行動や常識はずれの言動が多い。ときにはお茶目でお調子者のようで、人気もあるが、憎まれることもあるという。本心はいたって正直で曲ったことを嫌、ウソがつけない。平常は温厚で努力家であり、成功する人が多いという。

 「暴れ猪」生まれの愛子と「頑固」な所が似た者同士で、がむしゃらに猪突猛進の編集者・吉川も「癸亥の年」かと思いきや、大正12年の次の「癸亥の年」は60年後の昭和58年(1983年)生れ。吉川とは年齢が合わないので、思い違いだった。草笛光子は、愛子の「暴れ猪」を見事に演じている。

●いい爺さん

 映画の中で吉川が、「いい爺さんになれますかね?」と愛子先生に尋ねると、「いい爺さんなんてつまらない。面白い爺さんになりなさい!」と言う。脚本の大島里美のセリフだそうだ。 「いいお爺さん」や「元気なお爺さん」と「面白いお爺さん」とは、何が違うのか? 死ぬまで、自分に何かを課して、目標・目的を持って生き続けることだろうか? 幾つになっても、生き生きと生きられるのは素晴らしい。

 この映画のラストは愛子が旭日小綬章を受章して、大爆笑の記者会見のシーンで終わる。そして彼女が、吉川への感謝と励ましを贈る。これは前田監督の中高年男性へのエールでもあるともいう。佐藤愛子は、著書『九十歳。何がめでたいの中で、人間は「のんびりしよう」なんて考えてはダメだということが、九十歳を過ぎてよくわかりました」と書いているそうだ。

2024年5月16日 (木)

映画「オッペンハイマー」

 2024年5月16日、映画『オッペンハイマー』を観る。

 今年の米アカデミー賞「視覚効果賞」を受賞した『ゴジラ-1.0』を3月に観た後、同賞最多の7部門受賞の本作品は、4月になって観に行くつもりが行きそびれ、最寄りの映画館では今日が上映最終日だった。


 第81回ゴールデングローブ賞最多5部門受賞、第96回アカデミー賞で7部門で受賞するなど世界で注目を集めているクリストファー・ノーラン監督最新作。原爆を開発した米国人物理学者の半生を描いた映画『オッペンハイマー』が、2023年7月21日より全米公開され、約8ヵ月遅れて 今年3月29日から日本で公開された。被爆の実情を知ったオッペンハイマーが苦悩し、核軍拡競争を懸念する姿を描いた。一方で、原爆を落とされた広島、長崎の惨状が映像として伝えられていないなど批判も多い。

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 原子爆弾の開発に成功したことで「原爆の父」と呼ばれたアメリカの天才科学者ロバート・オッペンハイマーを題材に描いた伝記映画。2006年ピュリッツァー賞を受賞した、カイ・バードとマーティン・J・シャーウィンによるノンフィクション「『原爆の父』と呼ばれた男の栄光と悲劇」を下敷きに、オッペンハイマーの栄光と挫折、苦悩と没落の生涯を実話にもとづいて描く。

 「『原爆の父』と呼ばれた男の栄光と悲劇」<上・下巻>

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 第二次世界大戦下、才能にあふれた物理学者のロバート・オッペンハイマーは、核開発を急ぐ米政府の極秘プロジェクト「マンハッタン計画」において、原爆開発プロジェクトの委員長に任命される。彼は、多くの優秀な科学者たちを率いて、世界初となる原子爆弾の開発に成功する。

 しかし、実験で原爆の威力を目の当たりにし、実戦で投下されると、その惨状を聞いたオッペンハイマーは深く苦悩するようになる。恐るべき大量破壊兵器を生み出したことに衝撃を受けたオッペンハイマーは、戦後、さらなる威力をもった水素爆弾の開発に反対する。冷戦、赤狩り、激動の時代の波に、オッペンハイマーはのまれてゆくのだった。

 

 オッペンハイマー役は、ノーラン作品常連の俳優キリアン・マーフィ。妻キティをエミリー・ブラント、原子力委員会議長のルイス・ストロースをロバート・ダウニー・Jr.が演じる。第96回アカデミー賞では同年度最多となる13部門にノミネートされ、作品賞、監督賞(クリストファー・ノーラン)、主演男優賞(キリアン・マーフィ)、助演男優賞(ロバート・ダウニー・Jr.)、編集賞、撮影賞、作曲賞の7部門で受賞を果たした。

 左から、クリストファー・ノーラン、キリアン・マーフィ、エミリー・ブラント、ロバート・ダウニー・Jr. 出典:ウキメディア・コモンズ

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 オッペンハイマーは、ドイツからのユダヤ系移民の子としてニューヨークで1904年に生まれた。母もユダヤ系の画家。弟のフランク・オッペンハイマーも物理学者。父は、起業家として成功していたため、オッペンハイマーは裕福な幼少期を過ごした。子供の頃から鉱物や地質学に興味を持ち、数学や化学、詩や数ヶ国の言語を学んだ。最終的には6カ国語を話した。一方で運動神経にはあまり優れず、同世代の子供たちと遊ぶことはあまりなかった

 ハーバード大学に入学し、化学を専攻。1925年に優秀な成績を修めてわずか3年で、かつ首席で卒業した。イギリスのケンブリッジ大学に留学し、物理学や化学を学んだ。ここでニールス・ボーアと出会う。実験を伴う化学が苦手で、理論中心の物理学の世界へと入っていく。彼は実験物理学が発展していたケンブリッジから、理論物理学が発展していたゲッティンゲン大学へ移籍して、博士号を取得した。

 ゲッティンゲン大学での業績には、マックス・ボルンとの共同研究による分子を量子力学的に扱う「ボルン-オッペンハイマー近似」がある。1929年には若くして カリフォルニア大学バークレー校やカリフォルニア工科大学の物理学の助教授となった。1936年には両大学の教授、1930年代末には宇宙物理学の領域で、ブラックホールの研究を行っていた。

 第二次世界大戦が勃発すると、1942年には原子爆弾開発を目指す「マンハッタン計画」が開始される。1943年、ルーズベルト大統領は原爆開発にあたって、優秀な化学者や物理学者が必要であると判断し、ロスアラモスの地に国立研究所を設立、そこへ名だたる優秀な化学者、物理学者を集めた。オッペンハイマーは、ロスアラモス国立研究所の初代所長に任命され、原爆製造研究チームを主導した。

 チームは、世界で最初の原爆を開発し、ニューメキシコで核実験、その後、広島・長崎に投下されることになった。終戦後、オッペンハイマーはその罪を悔い、核兵器撲滅を訴える活動を展開する。「マンハッタン計画」に参加した科学者たちは、終戦後も水爆実験などを積極的に実施したため、オッペンハイマーは彼らと対立。この核兵器廃絶運動にはアインシュタインも賛同、オッペンハイマーも信念を曲げることなく、核廃絶に向けて活動していくのだった。

 オッペンハイマー(1944年頃) アインシュタイン(左)とオッペンハイマー(右) 出典:ウキメディア・コモンズ

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 この映画には、カラー映像になったりモノクロ映像に変わったり、2つの映像が出てくることが、映画を観た後で気がつく。カラーがオッペンハイマーの視点、モノクロが原子力委員会議長のストローズの視点だそうだ。そして映画は時系列通りでなく、2つの視点が目まぐるしく入れ替わるので、どの時代を描いているのかがわからなくなる。この映画は、3回観るとよく分かるという人もいるくらい、わかりにくい。

  以下5枚の写真は、映画『オッペンハイマー』のパンフより転載。

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 マンハッタン計画の開始当初は、ユダヤ人であるオッペンハイマーは、原爆をナチスや敵国よりも早く開発することが重要だと感じていた。同時にこの研究が、殺戮を引き起こす可能性もよく理解していたようだった。しかし、原爆の投下がナチスではなく日本であり、自身の予想を超える悲惨な結果を目の当たりにし、強い罪悪感にさいなまれる。彼は戦後、さらなる強力な核兵器「水爆」開発を制限するよう訴えるなど、大きく考え方を変える。

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 「水爆」開発に反対し、協力しないオッペンハイマーは、冷戦下に吹き荒れた「赤狩り」を背景にソ連のスパイ容疑をかけられる。「機密保持許可」(セキュリティ・クリアランス、国の機密情報にアクセスできる許可や資格)を問う「聴聞会」で連日取り調べられる。オッペンハイマーの妻、かつての恋人、弟、友人らが共産党とつながりがあり、過去に彼自身も共産党の集会に参加していたからだった。アメリカの核兵器開発を否定することは、ソ連の核兵器開発を利するともみなされた。

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 オッペンハイマーは「原子力委員会」に顧問として参加していたが、「聴聞会」での追及で「機密保持許可」は、1954年に取り消されることになり、政府公職からの追放が決定した。危険人物と断定され、研究も続けられないため事実上のキャリアは終了、没落の人生を歩む。1967年2月18日、62歳で死去した。映画では、この「聴聞会」のシーンが多く出てきて、テンポも速く、理解するのに疲れてくる。

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 主神ゼウスの火を盗んで、人に与えて鎖でつながれたギリシャ神話の神・プロメテウスの話が出てくる。プロメテウスは、神々の意志に反して人間に火を与え、その結果、人類の文明発展に貢献したが、ゼウスによって厳しい罰を受けた。この物語は、オッペンハイマーとプロメテウスを重ね合わせているのだ。このことは、「科学が果たす、創造・恩恵と危険・破壊」を意味している。本作の原作書籍のタイトルには、オッペンハイマーを「American Prometheus」と表現されている。

 米エネルギー省は2022年12月16日、核兵器を開発する「マンハッタン計画」を率いて「原爆の父」と呼ばれた物理学者ロバート・オッペンハイマー博士を公職から追放することになった1954年の処分を撤回したと発表した。理由について「処分の経過で偏見と不公正さを示す証拠が明らかになった」とした。同省のグランホルム長官は68年ぶりの処分撤回について、「歴史の記録を正し、オッペンハイマー氏の国防と科学事業への貢献をたたえる責任がある」と述べた。

2024年3月19日 (火)

映画「ゴジラ-1.0」

 2024年3月16日(土)、映画『ゴジラ-1.0』(ゴジラ マイナス・ワン)を観る。

 第96回米アカデミー賞の授賞式が3月10日(日本時間11日午前)、ロサンゼルスで開かれ、山崎貴監督(59)の『ゴジラ-1.0』が日本映画として初めて「視覚効果賞」を受賞した。2023年12月にはアメリカでも公開され、全米歴代邦画実写作品の興行収入1位を記録するなど、大ヒットを記録していた。また、宮崎駿監督(83)の『君たちはどう生きるか』は、同賞の「長編アニメーション賞」を受賞、日本勢がダブル受賞を果たした。

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 『ゴジラ-1.0』公開は2023年11月3日、この映画を観るのをすっかり忘れていた。米アカデミー賞の「視覚効果賞」としてノミネートされているニュースを見て、まだ上映していることに気がついた。さっそく最寄りの映画館の上映スケジュールを見ると、夜の21:00~23:17で厳しい。諦めかけていたが、アカデミー賞受賞のニュース。そのせいか15日(金)からは、午後の13:40からと夜21:00からの1日2回の上映になった。

 日本が生んだ特撮怪獣映画のレガシー「ゴジラ」の70周年記念作品で、日本で製作された実写のゴジラ映画としては通算30作目だそうだ。『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズをはじめ『永遠の0』などの山崎貴が、監督・脚本・VFXを手がけた。第47回日本アカデミー賞の授賞式も38日に東京・高輪で開催され、『ゴジラ-1.0』は「最優秀作品賞」ほか、同年度最多の8部門の「最優秀賞」を受賞している。

 神木隆之介が主人公の敷島浩一、浜辺美波がヒロインの大石典子を演じる。そのほかのキャストに山田裕貴、青木崇高、吉岡秀隆、安藤サクラ、 佐々木蔵之介。神木隆之介と浜辺美波は、2023年4月から放送のNHK連続テレビ小説『らんまん』でも夫婦役を演じている。

 以下7枚の写真は、『ゴジラ-1.0』のパンフレット(東宝株式会社)から引用。

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 タイトルに付けられた「-1.0」の読みは、「マイナスワン」。戦争によって何もかもを失い、「戦後、無(ゼロ)になった日本へ追い打ちをかけるように現れたゴジラが、この国を負(マイナス)に叩き落とす」という意味だそうだ

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 舞台は戦後の日本。東京は焦土と化して両親を失った敷島浩一(神木隆之介)は、元特攻隊員の生き残り。焼け野原の中で赤ん坊を抱え一人強く生きる女性、大石典子(浜辺美波)に出会う。戦争を生き延びた人々が復興を目指すなか、体高15mの伝説恐竜「呉爾羅(ゴジラ)」は、米軍による核実験で被爆して50mに巨大化、怪獣ゴジラとなって東京に向かう。

 圧倒的な力を持つゴジラに、米軍はソ連を刺激するとして軍事行動を控える。終戦後の政府はうまく機能していなく、軍隊を持たないために為す術(すべ)もない。戦争を経験した名もなき民間の有志たちは、ゴジラに対して「生きて抗う(あらがう)」ための策を探っていく。映画の中でゴジラに立ち向かったのは民間人だけ。でも、政治家、官僚、科学者といった人たちが、ストーリーに出てこないのでやや不自然。

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 ★ ★ ★

 3月16日は、土曜日とあって映画館は混雑していた。上映の10分前くらいに窓口に行くと、『ゴジラ-1.0』の座席はほとんど満席に近い。やはりアカデミー賞受賞の影響か。最前列目の席しかチケットが残っていなかったが、なんとか2列目の1席が空いていて入場した。

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 宮崎駿監督のアニメ映画『君たちはどう生きるか』は、太平洋戦争の空襲で母親を失った少年が、疎開先で不思議な世界に迷い込む物語。米アカデミー賞で日本の「長編アニメ賞」受賞は、同じく宮崎監督の『千と千尋の神隠し』が2003年に受賞して以来、2作目。一方、クリストファー・ノーラン監督(53)が「原爆の父」と呼ばれる物理学者の苦悩を描いた『オッペンハイマー』は、「作品賞」や「監督賞」、「主演男優賞」など7部門で受賞した。

 2022年のロシアのウクライナ侵攻直後の現地を撮影した『実録 マリウポリの20日間』が「長編ドキュメンタリー賞」。ナチス・ドイツの強制収容所の所長の暮らしを描いた『関心領域』が「国際長編映画賞」と「音響賞」を受賞。今年は、現在の社会情勢を反映した「戦争」をモチーフにした作品の受賞が目立ったという。

 『ゴジラ-1.0』は、70年前の1954年のシリーズ第1作目と同様で、水爆実験の影響で生まれた怪獣。今回受賞した山崎貴監督は、授賞式後の会見で「日本人としては『オッペンハイマー』に対するアンサーの映画を作らないといけないと思っています」と述べたという。

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 映画の舞台が現代ではなく、終戦直後の日本だったことに驚いた。戦争で焼け野原の東京、そしてゴジラが破壊した瓦礫の山は、阪神淡路大震災、東日本大震災、そして最近の能登半島地震の被災地、更にはウクライナやパレスチナの戦災の風景を想起させられる。もっと驚いたのは、銀座をゴジラが破壊するシーンは、広島・長崎に投下された原爆の閃光、爆風、キノコ雲の様なモノを描かれていることだ。

 昔のハリウッド映画のように、日本では「戦争」は娯楽映画にはならない。水爆実験で巨大怪獣になったゴジラの襲来は、日本における反戦、反核の映画、疑似戦争の娯楽映画として定着したのだと思う。

 岩のような皮膚、天を刺すような鋭い背ビレ。猛禽類を思わせる鋭利な爪先。太い脚と長い尻尾を持つゴジラのビジュアルは、これまでにない怖さ、リアルさを表現している。そして歩くときや、海を泳ぐときの筋肉の動きがリアル。円谷監督時代のぬいぐるみやミニチュア模型で撮影した頃とは、比べものにならない。そして建物がバラバラに破壊される様子、波や飛沫(しぶき)、燃焼や爆発の煙、土煙(つちけむり)のVFX(視覚効果)は見ごたえがあった。

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 コンピュータ・グラフィックス(CG)などの視覚効果(VFX)を駆使する国内外の映画では、監督のほかにVFX専門の監督がいる。山崎監督は両方を統括し、今回のゴジラでは脚本も書いた。つまり山崎監督は「三刀流」なのだ。過去のハリウッド大作と比べて、「人数の少なさ、期間の短さ、予算の少なさ。自分でやるから、この金額とこの時間で頭の中にあるものをそのままストレートに映像化できる」と山崎監督は語っている。

 ゴジラが銀座の街を襲撃し逃げ惑う群衆の中の典子を敷島が見つけて救い出すシーンは、現実離れしている。何故か、戦後に旧軍の戦車や駆逐艦「雪風」など数隻が出てくるのは飛躍しすぎ。旧海軍が試作飛行の段階で、終戦となった幻の戦闘機「震電」が見つかったという設定。先尾翼型の独特な機体を持つこの戦闘機を修復して、敷島が操縦してゴジラと戦うところは、ストーリーとして面白い。

 連合国軍の命令により外観のみ修復した震電 出典:ウキメディア・コモンズ

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 戦時中は技術士官として武器の開発に携わった野田(吉岡秀隆)は、死にきれなかった元特攻隊員の敷島に「私も戦争の頃を思うと、眠れなくなる時があります」と亡くなった人たちへの想いがある。また最後の方で、「この国は、命を粗末にし過ぎてきました」と言う野田は、敷島も含めて戦争で生き残ってきた人々が、ゴジラと自ら進んで戦うこと対する言葉だ。この映画が、エンタメだけではなく、根底には人間ドラマが描いてある。

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2023年9月10日 (日)

映画「こんにちは、母さん」

 2023年9月8日、映画『こんにちは、母さん』を観る。

 2023年9月1日公開。9月13日で満92歳を迎え、これが監督作90本目という山田洋次監督の最新作。ヒロインは、吉永小百合。『男はつらいよ柴又慕情』(1972)をはじめ、『母べえ』(2008)、『おとうと』(2010)、『母と暮せば』(2015)など、約50年間に渡って数々の山田監督作品に出演する日本映画の国民的大女優は、本作で映画出演123本目だそうだ。下町に暮らす母・福江を演じる。

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 福江の一人息子・昭夫を演じるのは、昨年2022年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも好演した人気俳優・大泉洋。山田監督映画への出演、吉永小百合との共演はともに初めてだという。原作は、劇作家・永井愛の同名の戯曲、2001年と2004年に新国立劇場で上演された。2007年5月26日~6月16日、NHK総合テレビ「土曜ドラマ」(主演:加藤治子、共演:平田満)でも放送されている。今回の映画化の脚色は、山田監督と朝原雄三。

 舞台は東京・向島。隅田川沿いの下町。主人公は、亡夫の後を継いで一人で足袋店を営む福江(吉永小百合)。一人息子で大会社の人事部長として日々神経をすり減らす神崎昭夫(大泉洋)に、学生時代からの親友で同期入社の木部(宮藤官九郎)が、会社からリストラされそうになってからんくる。家庭では妻と別居し離婚問題、大学生になった娘の舞(永野芽郁)のわがままに頭を悩ませる。

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 ある日、昭夫は久しぶりに母・福江(吉永小百合)が暮らす東京下町の実家を訪れる。

 しかし、迎えてくれた母の様子が、おかしいことに気づく。いつも割烹着を着ていたはずの母親が、髪を染めたりして若作り、艶やかな装いでいきいきと暮らしている様子。福江はホームレスの支援活動をしていて、仲間の牧師・荻生(寺尾聰)に恋愛感情を抱いていることを知り、昭夫は戸惑ってしまう。娘は、大学も母も嫌って家出し、福江のところに転がり込んできた。

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 ほかの共演者は、昭夫の部下に加藤ローサ、ホームレスのイノさん役の田中泯(みん)、福江のボランティア仲間のタレントYOUや枝元萌ら。

 久々の実家にも自分の居場所がなくなってしまう昭夫。下町の住民たちの温かさや、今までとは違う母との出会いを通し、次第に見失っていた大事なことに気付かされてゆく。

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 やがて福江と昭夫に、思いがけない結末がやって来る。そしてエンディングでは、「母と息子」が一緒に新しい生活を始めることになるのであった。

 

 ★ ★ ★

 吉永小百合の乙女のようなかわいらしい演技を通じて、老いらくの恋が描かれている。まるで「寅さん」のような実らぬ恋。それは決してベタベタとしたものではなく、心に秘めたまま。プラトニックで安易に好きだと口にせず、そのせつなさがこの映画の恋愛を美しく、深いものにしている。

 いかにも軽い感じの宮藤官九郎は、リストラ寸前の社員の木部役を演じる。木部のキャラクターはダメ男で、しばしばコミカルな要素を持ちながらも、そのリストラに困り抜いた昭夫は、彼を見放すことなく現実の世界では信じられないほどの友情を見せる。会社のリストラという重くて生々しさは、この映画のぬくもりや笑いと感動で打ち消された。

 福江が、昭夫の子どもの頃のことを語るシーンがある。親子の役作りのため吉永は大泉の実際の子ども時代の写真を借りて、イメージを膨らませたという。鍵もかけずに近所の人たちが勝手に上がってきて茶の間でお茶を飲むという下町の、また古き良き時代への郷愁が見る人に爽やかに心を和ませ、温かい気持ちにさせる。

2023年7月 4日 (火)

映画「大名倒産」

 2023年6月30日(金)、映画『大名倒産』を観る。
 

  江戸時代を舞台に、鮭役人の子・小四郎は、思いがけず大名家の家督を継いで藩主となるが、藩が抱える莫大な借金を背負わされた運命を描いた浅田次郎による同名の時代小説を映画化したエンターテイメント。2023年6月23日より全国公開。

 巨額の借金を背負わされる主人公を、現在放映中のNHK連続ドラマ『らんまん』で主人公・槙野万太郎役の神木隆之介が演じ、2020年度後期のNHK連続テレビ小説おちょやん』で、浪花千栄子をモデルにしたヒロインを演じた杉咲花のほか、松山ケンイチ佐藤浩市、キムラ緑子らが共演する。監督は前田哲。

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 江戸時代の越後・丹生山藩(にぶやまはん) 。鮭役人・間垣作兵衛 (小日向文世)と平和に暮らしていたその息子・小四郎(神木隆之介)は、突然大勢の役人が家に現れ、自分が徳川家康の血を引く丹生山藩主の跡継ぎ・松平小四郎であることを知る。家督を継ぐはずの長兄が急逝し、次兄は正室の子(松山ケンイチ)だがうつけ者で江戸屋敷に住み、三兄は側室の子(桜田通)で賢いが生まれつき病弱、国元を離れたことがない。

 庶子である小四郎は、農家から下屋敷に奉公にあがっていた村娘・なつ(宮崎あおい)と、先代藩主の間に産まれた四男坊。間垣作兵衛となつの子として育てられたが、十三代目松平和泉守を継ぐことになった。実父である一狐斎(佐藤浩市)は、小四郎を藩主にしてさっさと隠居。

 庶民から殿様になって幸運をつかんだかのように見えたが、実は丹生山藩は25万両(現在の約100億円)もの借金を抱えていた。困惑する小四郎に一狐斎は、返済日に藩の倒産を宣言する「大名倒産」を命じる。借金を踏み倒してしまえば、武士も領民の皆が救われるというのだった。しかし、実は計画倒産を成し遂げた暁に、小四郎にすべての責任を押しつけ、切腹してもらうというムチャクチャな理由で家督を譲ったのだ。

 以下8枚の写真は、映画『大名倒産』のパンフレットから転載。

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 大名家や幕府役人への贈答品、莫大な費用が掛かる大名行列と、次から次へと難題が降りかかる。一国の大名になった小四郎は、丹生山藩を潰すまい、領民を苦しませることはさせまいと、幼なじみの町娘・さよ(杉咲花)、家臣の平八郎(浅野忠信)、勘定方の佐平次(小手伸也)らの協力を得て奮闘する。やがて、江戸幕府老中(勝村政信、石橋蓮司)に計画倒産を疑われてしまう。

 映画では、ハッピーエンドとなるが、エンドロールの後に「どんでん返し」が待っている。

 

 ★ ★ ★

●殿の節約プロジェクト

 藩の財政を把握しようと、さよと小四郎は算盤を弾いて膨大な帳簿を調べあげる。そして「殿の節約プロジェクト」が始まった。

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➊.使用頻度の少ない武具や家具などは、綺麗さっぱり売払う。武具の鉄は、農具などにリサイクルされた。

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➋.あちこちの藩からもらった贈答品は、入れ替えてお返しにする。意味のない昔からのしきたりは中止。

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➌.来客用の豪華な布団は、必要になった時に借りるという「サブスクリプション」。長屋の町人は、季節の着物や冠婚葬祭の羽織袴、鍋釜、布団など、何でもレンタル。

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➍.近郊の農村の肥料不足に目を付けたさよは、小四郎の排泄物を売る。

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➎.地主から借りていた中屋敷と下屋敷を手放し、小四郎の住む上屋敷に兄たちとシェアハウス。江戸時代の大多数の職人や商人は、長屋のシェアハウス暮らしだった。

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➏.参勤交代では、キャンプ(野宿)で宿代をコストカット。大人数での参勤交代は、藩の財政を大きく圧迫した。いろいろコストカットを検討したが、思い切って「野宿」にした。キャンプのようで楽しい。

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 こういった知恵や工夫を凝らしながら、小四郎らは節約プロジェクトに奮闘する。しかし節約だけで25万両の借金は返せない。物語は、丹⽣⼭藩に⼤⾦を貸す金貸業、大坂の豪商・天元屋のタツ(キムラ緑子)ら一味の悪事を暴くことだ。

●SDGs(持続可能な開発目標)と江戸時代

 「殿の節約プロジェクト」のアイデアは、現代にも通じる節約術でもある。SDGsは、2015年に国際連合によって採択された17の目標。日本では、すでに江戸時代の社会でSDGsのいくつかの概念や実践が存在していた。

 ▼農村社会では「地域の自給自足の経済」が重要な考え方。農民たちは、食料や日用品を自家生産し、地域の需要を満たすことを目指した。▼資源の節約や再利用が重要視された。例えば、木材や布、紙の再利用など「循環型の資源利用」が行われていた。▼「地域の共同体意識」が強く、互助の精神が重んじられ、地域の人々は共同で農作業や災害対策を行い、持続可能な地域社会を築いていた。▼山林の保護や水質管理など、「環境保護」に関する取り組みが行われていた。

 これらの要素は、現代のSDGsと直接的に結びついているわけではないが、持続可能な開発に関する基本的な考え方や実践の一部を見ることができるという。SDGsは、現代の課題や国際的な目標を反映したものだが、我々の先人の経験や知恵からも学ぶことができる。

●歴史劇と時代劇

 映画『大名倒産』のパンフレットの中で歴史学者の磯田道史は、「史伝」、「歴史劇」と「時代劇」に分けて考えるという。史実そのものを追及する「史伝」、その時代がどいうものであったか理解しようとするのが「歴史劇」。ある時代を舞台に人間の悲喜こもごもを描き、それに共感したりするのが「時代劇」だとする。

 『大名倒産』というタイトルに引かれて映画を観覧したが、浅田次郎の時代劇小説を映画化したものだった。財政改革と言えば米沢藩の第9代藩主・上杉鷹山が有名だが、あまり関係はなさそう。 現在のSDGsに通じる話は勉強になった。セリフは現代調、着物も明るくポップ、ストーリー的にもまったく「時代劇コメディ」だった。

 たとえば『武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新』は、2003年に発刊された磯田道史の著書。ノンフィクションであるが、2010年にこれを原作として映画『武士の家計簿』が製作された。この映画は、江戸時代の下級武士の実際の節約術で、おもしろかった。主演は、堺雅人。

 『決算!忠臣蔵』は、東京大学史料編纂所教授・故山本博文の著書。2012年に新潮社から新書として刊行され、2019年に『決算!忠臣蔵』のタイトルで映画化されている。大阪弁や現代風セリフのコメディで、限られた予算の中で仇討を果たそうとする赤穂浪士たちの奮闘を描いていた。

 一方で、映画『超高速!参勤交代』はフィクション。実際に映画は見なかったがテレビの放映を見た。江戸時代の参勤交代を題材にした土橋章宏の脚本。土橋自身により小説化され2013年に発刊、2014年に映画化された。2015年に続編小説『超高速!参勤交代 老中の逆襲』が刊行され、2016年には映画『超高速!参勤交代 リターンズ』が公開された。時代劇としてはおもしろかった。主演は、佐々木蔵之介。

 映画を見てないが、映画『殿、利息でござる!』は2016年に公開。原作は磯田道史の評伝「穀田屋十三郎」で、仙台藩の吉岡宿場の窮状を救った町人達の記録『国恩記』を元にしている。主演は阿部サダヲ。また映画『引っ越し大名!』は、2019年公開。生涯に7回もの国替えをさせられ、”引っ越し大名”とあだ名された実在の大名・松平直矩をモデルにした土橋章宏の小説『引っ越し大名三千里』の映画化で、土橋が脚本も担当した。主演は星野源。

2022年5月25日 (水)

映画「大河への道」

 2022年5月23日(月)、映画『大河への道』を観る。

 映画『大河への道』は、落語家・立川志の輔による新作落語『大河への道~伊能忠敬物語』を原作として、映画化。2022年5月20日に公開された。主演の中井貴一をはじめ、松山ケンイチ、北川景子らキャストが、現代を舞台に繰り広げられる大河ドラマ制作の行方と、200年前の日本地図完成に隠された感動秘話を1人2役でコミカルに演じる。

 監督は『花のあと』の中西健二が務め、脚本は森下佳子(よしこ)。森下は、民放の『JIN~仁』『天皇の料理番』やNHKの大河ドラマ『女城主直虎』、朝ドラ『ごちそうさん』など数々の人気ドラマの脚本を手がけている。

 映画『大河への道』のポスター

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 舞台は、令和の時代の千葉県香取市役所。総務課の池本主任(中井貴一)と木下課員(松山ケンキチ)は、市の観光振興策を検討する会議に参加する。観光課の小林課長(北川景子)にたまたま意見を求められた北本は、思いつきで大河ドラマ誘致を提案する。幸か不幸かその企画が通ってしまい、日本地図を作った郷土の偉人・伊能忠敬を主人公にした大河ドラマで観光促進しようと、池本がリーダーに据えられプロジェクトが立ち上がる。

 以下の6枚の写真は、映画『大河への道』のパンフから引用

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 脚本は千葉県知事(草刈正雄)の直々の指名により、人気絶頂期に引退した大物脚本家の加藤(橋爪功)に依頼することになった。乗り気でなかった加藤も「伊能忠敬記念館」を訪れるなどの池本の接待により、正確無比な日本地図と伊能の人生に興味を持ち引き受けることになり、資料を調べ始める。そこで加藤は、伊能は『大日本沿海輿地全図』を完成させる3年前に死去したという事実を知る。「伊能は、日本地図を完成させてない。だから大河ドラマにならない」と言い放つ。

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 一方、江戸時代1818年の下町へ物語は移る。伊能忠敬は日本地図の完成を見ることなく他界する。弟子たちは悲しみと途方に暮れる中、師匠のその遺志を引き継ぎ、日本地図を無事に完成させるために、動き出す。幕府に仕える天文方の高橋景保(かげやす)(中井貴一の1人2役)は、伊能の弟子たち(伊能隊)から師匠の死を偽装したうえで地図作りを続けさせてほしいと懇願され、困惑する。

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 ただでさえ幕府から金食い虫とみなされている地図作りに、幕府をだまして公金を拠出続けさせていることが露見すれば死罪は免れない。景保は、断り続けるが、忠敬の元妻・エイ(北川景子の1人2役)の仕掛けた罠にだまされ、また伊能隊の地図作りの熱意にほだされる。かくして運命をともにすることになった景保は、伊能隊とともに伊能の死を偽装しながら、お上からの追及をのらりくらりかわしてゆくのだった。忠敬の意志を継いだ大日本地図は、いつになったら完成するのか、完成したとしても隠していた忠敬の死をどう公表するのか・・・。

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 忠敬の死から3年後、いよいよ地図は完成する。荷車に積んだ『大日本沿海輿地全図』は、将軍・家斉(草刈正雄の1人2役)の待つ江戸城へと向かう。一方で脚本制作を拒否された現代の大河ドラマプロジェクトは、果たして成功するのだろうか・・・。現代と江戸時代のキャストは、以下の通り。

中井貴一 総務課主任・池本保治 幕府の天文方・高橋景保
松山ケンイチ 総務課員・木下浩章 高橋景保の助手・又吉
北川景子  観光課課長・小林永美   伊藤忠敬の元妻・エイ
岸井ゆきの 総務課員・安野富海 伊藤忠敬の下女・トヨ
平田満  総務課長・和田善久  伊藤忠敬の測量隊員・綿貫善右衛門
和田正人 総務課員・各務修     伊藤忠敬の測量隊員・修武格之進
西村まさ彦 勘定方の家臣・山神三太郎 そば屋の客・神田三郎
立川志の輔     DJの梅さん 町医者・梅安
草刈正雄 千葉県知事  将軍・徳川家斉
橋爪功  大物脚本家・加藤浩造 源空寺の和尚

 『大河への道~伊能忠敬物語』は、立川志の輔が「伊能忠敬記念館」を偶然訪れ、恐るべき正確さの日本地図を観て驚き、この感動を落語仕立てにした。「伊能忠敬が一切出てこない伊能忠敬物語」として2011年の初演以来、絶賛を浴びているという。また、これを鑑賞した中井貴一は、「私が主演でなくとも、プロデューサーやスタッフとしてでも」と自ら映画化に動いた。中井の熱意のもと、結局は「自分が出なきゃダメ!」と、周りに押し切られたそうだ。

 江戸城の大広間いっぱいに、忠敬と弟子らが完成させた日本地図が広げられ、天井から鳥瞰するラストシーンは圧巻。撮影前、スタッフが集まった香取市体育館に、忠敬と弟子らが完成させた日本地図の複製パネルが、市職員20人超の手で広げられた(60m×40m)そうだ。これを使って、CGで制作したのだろうか。忠敬のすごさが良く実感できる。下の写真は、大広間の畳の上に広げられた地図の一部。右上の人物は、将軍の家斉。

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 考えたことはなかったが、なるほど伊能忠敬はNHKの大河ドラマにふさわしい。忠敬のテレビドラマはいくつかあるようだが、映画では『伊能忠敬 子午線の夢』(2001年東映、主演:加藤剛)が制作されている。以前、筆者が香取市佐原を3度ほど訪れ、「伊能忠敬旧宅」やすぐ近くにある「伊能忠敬記念館」を見学した。これらについては、本ブログの以下の記事で紹介している。

 「佐原の町並みと香取神宮」 2020年07月18日投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2020/07/post-fa0a3b.html

 「あやめの潮来と小江戸佐原」 2016年07月01日投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-32d9.html

 「水郷の佐原と潮来」 2015年06月16日投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-b018.html
 

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 NHKの大河ドラマでは、動乱の世の英雄やそれに関わる女性の物語が多い。江戸時代の平和な時代だったが、忠敬の生涯や偉大な業績は、大河になり得ると筆者も思う。また伊能が亡くなったことを3年間も秘匿して日本地図を完成した弟子たちの志と労苦、そして200年後の現代の大河ドラマプロジェクトの物語を落語にした立川志の輔は発想はおもしろい。

 戦国大名の武田信玄は、自身の死を3年間秘匿せよと生前に言ったという。その理由の一つは信長らの勢力を恐れ、3年間も経てば息子の勝頼も成長し信長らに対抗しうると考えたのだろう。また、江戸時代の藩主が跡継ぎを幕府に届けないまま死ぬと、お取り潰しになることを恐れ、次の跡継ぎを決めるまで死を隠した話はよく聞く。伊能忠敬が、日本地図の完成前に死んだこと、それを3年間も隠して地図作りを続行したことは、筆者もよく知っていた。

 忠敬の死を伊能隊は何故隠したのか、あまり深く考えたことがなかった。映画では、幕府から貰っている給金が途絶え、地図作りが未完成で終わることを恐れたという理由は納得できる。それまで忠敬の私財で行っていた測量は、1802年(伊能58歳)の第3次測量から費用のほとんどが幕府から支給され、1805年(忠敬61歳)の第5次測量からは、幕府直轄事業となっていたのだ。

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 さらに映画では、令和と江戸の時代で繰り広げられる物語を一人二役で演じるキャストの設定が、更に面白さを増した。映画の中では、どうやって地図を作ったかの説明も織り交ぜてあって、分かり易かった。

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 忠敬は1794年、49歳で家業を長男・景敬(かげたか)に譲り隠居する。翌年1795年江戸深川黒江町(現・門前仲町)で暮らし、19歳年下の幕府天文方・高橋至時(よしとき)に弟子入りして、念願の暦学・天文学を学び、熱心に勉学に励んだ。

 忠敬は、佐原で3度妻を持ったが、いずれも死別している。江戸で、4人目の妻がいた。内縁のエイは、彼の研究を助けたことが伝えられている。才女とされ「四書五経」を素読したり算術や絵図も出来、測量データをまとめたり、天体観測を手伝った。エイは第一次測量のときは佐原に預けられたが、その後は忠敬の元を離れて文人(女流漢詩人の大崎栄)として生き、忠敬と同じ1818年にこの世を去ったという。

 忠敬は、緯度1度に相当する子午線弧長を求めることに興味を持つ。それは師・高橋至時の大きな関心事でもあった。至時は、当時ロシアと北方での緊張を踏まえ、蝦夷地の正確な地図を作る計画を立て、幕府に願い出た。蝦夷地を測量することで、地図を作成するかたわら、子午線一度の距離も求めてしまおうという狙いがあった。

 忠敬は1800年、自宅の深川から蝦夷地へ向けて出発した。当時55歳、一行は忠敬の次男・秀蔵を含む内弟子3人、下男2人。その後、幕府の要請により第2次時以降も測量が続き、至時は忠敬を支援した。幕府から測量の手当を受け取るが、費用のほとんどは忠敬の私財の持ち出しだった。1804年高橋至時は、享年41歳で亡くなる。幕府は至時の天文方の跡継ぎとして、息子の高橋景保を登用した。

 測量に参加していた次男・秀蔵は、素行が悪く測量にも不向き、1815年に勘当された。忠敬は持病の「痰咳の病」(慢性気管支炎)で、冬になると痰に悩まされていたという。1818年(文政元年)になると急に体が衰え、4月13日弟子たちに見守られながら74歳で生涯を終えた。死因は、慢性気管支炎が悪化して起こる急性肺炎(老人性肺炎)とみられている。

 忠敬は死の直前、「私がここまでくることができたのは高橋至時先生のおかげ。死んだあとは先生のそばで眠りたい」と語った。そのため墓地は、高橋至時・景保父子と同じく上野の「源空寺」にある。一方、佐原で家督を相続していた長男・景敬は、1813年父に先立ち病死した。享年48歳。忠敬の娘は、忠敬に心配をかけまいとこのことを伏せた。景敬の子に、伊能忠誨(ただのり)と銕之助(てつのすけ)がいたが、銕之助は忠敬の死の翌年に亡くなっている。

 1821年(文政4年)、『大日本沿海輿地全図』と名付けられた地図はようやく完成。7月10日、高橋景保と、伊能忠敬の孫の忠誨らが登城し、地図を広げて献上した。そして2ヶ月後の9月4日、忠敬の喪が発表された。忠誨はその年、15歳で幕府から五人扶持と85坪の江戸屋敷が与えられ、帯刀を許されたという。

 伊能忠誨は佐原と江戸を行き来しながら景保らの指導も受け、佐原の伊能家の跡継ぎとしても期待されていたが、1827年弱冠21歳で病死した。忠誨に子がなかったため、忠敬直系の血筋は途絶えることになった。高橋景保は、後にシーボルが国禁の日本地図を持ち出そうとして発覚した「シーボルト事件」に関与して、1828年伝馬町牢屋敷に投獄され、翌年1829年に獄死している。享年45歳。

2021年11月 2日 (火)

映画「ONODA 一万夜を越えて」

 2021年10月28日(木)、映画『ONODA 一万夜を越えて』を観る。

 太平洋戦争の終戦後もフィリピン・ルバング島のジャングルで約30年潜伏し、上官からの命令をかたくなに守って秘密戦の任務を遂行し続け、1974年に日本に帰還した「最後の日本兵」。実在の人物・小野田寛郎(ひろお)元陸軍少尉を題材にした人間ドラマ。フランス人の監督が描く映画『ONODA 一万夜を越えて』は、日本で2021年10月8日に公開。

 

 フランス映画界で今、最も注目されているという新鋭の監督、アルチュール・アラリ。脚本も手掛けた。フランス、ドイツ、ベルギー、イタリア、日本の国際共同製作映画でありながら、最初から最後までが日本語セリフの作品は、第74回カンヌ国際映画祭2021の「ある視点」部門オープニング作品に選ばれ、フランスでは2021年7月21日に公開された。


 小野田の30年間を描いたベルナール・サンドロンの原作『ONODA 30 ans seul en guerre』を元に着想、映画化された。ほとんどの日本人キャストはオーディションにより選考、カンボジアで約4ヶ月間にわたって撮影され、臨場感あるシーンとなっている。

Onoda

 小野田寛郎が、挫折し自暴自棄になった青年として映画は始まる。彼を救ったのは、スパイ養成学校として知られる陸軍中野学校の教官・谷口義美少佐。ゲリラ戦の特殊訓練を受け、秘密の任務を負う士官として、彼は自分の存在意義を見いだす。終戦間近の1944年、小野田少尉は劣勢のフィリピン・ルバング島で、援軍が到着するまでゲリラ戦を指揮するよう命令を受ける。出発前、「君たちには、死ぬ権利はない」と上官の谷口からと言い渡された最重要任務は、「何が起きても必ず生き延びること」。

 作戦を決行するためルバング島に上陸するも、指揮権も与えられないまま敵に襲撃される。しかし彼を待ち構えていたのは、ルバング島の過酷なジャングルだった。食べ物もままならず、仲間たちは飢えやマラリアで次々と倒れていく。必ず援軍が来ると信じ、小野田は自分に従う数人の部下を連れ、任務を遂行する。生きるために、島民の食料略奪などあらゆる手段で飢えと戦い、雨風をしのぎ、仲間を奮い起こす。やがて届いた終戦の知らせも否定、ジャングルの奥地で生き続けるのだった。

 過酷な状況で、伍長・島田庄一は武装した島民に撃たれ、一等兵・赤津勇一は小野田の任務に反して離脱。仲間を一人ずつ失いながら小野田と一緒に最後まで生き残り、25年以上も共にジャングルを生き抜いた唯一の友である一等兵・小塚金七。二人は、幾度となく衝突ながらも相手を思いやり、二人三脚で生死をさまよいながら潜伏していた。

 住民から奪ったトランジスタ・ラジオで海外放送などを聴取して独自に世界情勢を分析、友軍の来援に備えた。後に捜索隊が残した日本の新聞や雑誌で、当時の日本の情勢についても情報を得た。小野田は、日本はアメリカの傀儡政権となっていて、満州国に亡命政権があると考えていた。しかしある日突然、小野田と小塚は島民たちからの復讐を受け、小塚は小野田の目の前で帰らぬ人となってしまう。

 そこからは小野田一人きり、孤独の中で夜が明けていく日々を数えながら、疲労を深めていく。ルパング島に旧日本兵が残留との情報で、何度か政府と小野田の家族、戦友らがルバング島に赴き捜索する。ある日小野田は、捜索に触発され一人でジャングルにやって来た「旅行者」と名乗る鈴木紀夫と出会う。この青年との出会いによって、ようやく戦いは終わりを迎える。来島した元上官の谷口の命令により、任務を解除。ルパング島に上陸から約30年、一万夜を迎える1974年3月、51歳で日本に帰還する。


 主人公・小野田役の青年期をドラマ・映画と活躍中の遠藤雄弥、小野田の壮年期を約1年かけて減量し撮影に臨んだ津田寛治が演じる。小野田にゲリラ戦を決行するよう命じた上官の谷口役には、一人芝居で有名なイッセー尾形。小野田が帰国するきっかけになった旅人・鈴木紀夫には、ドラマ・映画の出演オファーが絶えないという仲野太賀が抜擢。

 左から、遠藤雄弥、津田寛治、イッセー尾形、仲野太賀。以下8枚とも映画『ONODA 一万夜を越えて』HPから転載。

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 小野田の部下の小塚の青年期は松浦祐也、壮年期は朝ドラ『おかえりモネ』にも出演の千葉哲也。同じく部下の島田に大河ドラマ『青天を衝け』に出演したカトウシンスケ。同じく赤津は、大河ドラマ『いだてん』にも出演した井之脇海。キャストは、ほとんどは日本人俳優で、外国人はルパング島の島民、フィリピン軍将校のみだった。

 左から、松浦祐也、千葉哲也、カトウシンスケ、井之脇海。

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 映画館で、いつものように本作のパンフレットを購入しようと窓口に聞くと、もともと作られてないと言う、残念。そもそも映画のパンフがあるのは日本だけだそうだが、映画鑑賞後の楽しみが半減する。このブログを書くのも、パンフがないと苦労する。

 全編、日本人俳優が日本語のセリフを話すので、つい日本映画かと思ってしまうが、時々スクリーンにフランス語で年月が表示されたり、エンドロールを見ると、フランス映画だと認識する。昔のアメリカ映画で、よく日本人役がアジア系のアメリカ人で、服装や言葉や所作にとても違和感があった。フランス人が、戦前の日本人の事をどこまで描けているのか、イマイチ不安だったが、心配しすぎだった。上映時間は、174分(2時間54分)。これまで3時間に近い映画を見たのは、ちょっと思いつかない。

 映画の導入部分で中野学校時代、学生たちが「佐渡おけさ」を歌いながら、だれの歌の歌詞が正しいかを議論していた。そこに、谷口教官が現れる。小野田が思わず冗談で歌うと、教官は「俺と同じように歌って見ろ」と言う。小野田は教官の歌詞に合わせて歌うが、「そうじゃない。よく聞け、俺と同じように歌え」と強く促す。答えは、自己流の歌詞で歌うことだった。歌詞が少し変わってもその歌の本質は変わらない。戦況は常に変わる。その戦況に合わせて、自分の考えで戦術を変えるが、秘密戦の本質は変わらないことを、教官は教える。この場面は最初、何のことかよく理解できなかったが、その後の小野田の生き方を描いていた。

 ジャングルの兵士たちのサバイバル、現代人の日常からみると、それは人間の本性か狂気か。壮絶な日々と戦った一人の男の人間ドラマ。彼は何を信じ、誰と戦い、どう生き抜いたのか。なぜ他の兵士が気付いたり、疑問視する場面(逃亡した赤津がそれを代弁している)があったにもかかわらず、小野田は本当に敗戦を信じなかったのか、なぜ肉親の呼びかけに応じなかったのか。小野田にとって秘密戦への忠誠は、信仰のようなもの。終戦を認めてしまうと神を失ってしまう。ジャングルから垣間見える外側の世界を、陰謀だと解釈、日本は負けていないという独自の世界観を築きあげた。

 小野田は仲間を連れ、島の奥地に潜伏。谷口から引き継いだ物語を部下に語り、信じさせる。本土に帰ることなく見えない敵と戦い、亡くなった島田と小塚は気の毒でならない。島田の遺体を埋めたポイントに花を添える。28年一緒に暮らした小塚が殺されたポイントには、「小塚の川岸」と名付けた。孤独になった小野田は、故郷ではなく戦友の夢をよく見る。長年信仰してきた秘密戦という宗教を手放すには、上官の命令という儀式が必要だった。アラリ監督は、日本人が描く戦争映画とも異なるフランス人の感覚で、このドラマを表現した。

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 そして突然、小野の前に現代っ子らしい青年・鈴木が現れる。小野はひどく警戒し、映画を見る側も緊張が走る。鈴木は、小野田にタバコを勧め、一緒に食べようと小豆の缶詰を取り出し、酒を飲もうと言う。用心深く語らず、酒も飲まない小野田に対し、鈴木は酔っ払って彼に会えたことを楽しそうに語る。やがて小野田の心が溶け、鈴木の顔に上官の顔が重なって浮かぶ。既に30年近く、信じていたものを突然放棄することはできない。その複雑な感情のやり場のなさを模索する中、この場面がクライマックス。

 映画では、牛を盗もうとして島田が武装島民に射殺される。次に赤津が離脱する。それから、小野田と小塚が20数年一緒に暮らした後、島民の奇襲で小塚はモリで殺される、と脚色されている。しかし実際は、先に赤津が離脱しその後に島田、最後に小塚がそれぞれ、フィリピン軍やフィリピン警察軍との銃撃戦で射殺されている。

 資料で小野田の著作や史実を調べると次の通り。

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 1944年12月、小野田が比島派遣軍司令部参謀部付としてルバング島に派遣される。

 1945年8月、終戦。10月中旬、小野田らは投降勧告のビラを見る。12月には、山下奉文陸軍大将名による降伏命令と参謀長指示のビラ。小野田らは敵の謀略と断定して無視する。

 1946年2月、拡声器での投降呼びかけに、潜伏していた兵士2人が投降。この2人の協力で3月下旬まで計41名の日本兵がジャングルを出た。

 1949年9月、最後まで残っていた小野田グループの4人のうち、赤津が耐えきれず逃亡。1950年6月フィリピン軍に投降する。

 1950年、フィリピンに日本の敗残兵が生存という情報が日本政府にもたらされ、赤津の帰国により小野田、島田、小塚の存在が明らかになる。フィリピンの政情が不安定なため、救出活動は行えず。

 1954年5月、フィリピン軍山岳部隊との銃撃戦で島田が、撃たれ即死(享年41歳)。その後、島田の遺体確認に厚生省と小野田と小塚の家族、戦友らが現地に入り、その後数回にわたり呼びかけやビラ撒きを行ったが、二人は、にせものとして出て行かなかった。

 1972年1月、一方グアム島で元日本兵の横井庄一が発見され、日本中が大騒ぎとなる。

 1972年10月、フィリピン警察軍が日本人らしき2人組を発見、そのうちの小塚を射殺(享年51歳)。日本政府は、これを受け再度小野田の大規模な捜索隊を派遣。小野田の親族、メディア、政府関係者が島に入り、ビラ配布や呼びかけを行うが、小野田は無視する。

 1974年2月、鈴木紀夫がルバング島にて小野田との接触に成功。小野田の写真が日本で発表、家族によって小野田本人と確認される。小野田の帰還の条件は、上司だった元上官・谷口による直接の戦闘解除の命令を受けること。

 1974年3月10日早朝、入島した谷口からの命令により、小野田は任務を解除し、帰国する意思を固める。同日夜、フィリピン軍の前に小野田(当時、51歳)が現れ身柄を拘束、日本政府に引き渡される。1974年3月12日、小野田は政府が用意した日航特別機で羽田空港に帰還し、大歓迎を受ける。

 1975年、次兄の住むブラジルに移住。現代の日本社会に馴染めなかったからだそうだ。約1200haの牧場を経営、一時は約1800頭の肉牛を飼育した。

 1984年、ブラジルから帰国。ルバング島での経験を生かし、キャンプを通して「祖国のため健全な日本人を育成したい」 と『小野田自然塾』を開く。晩年は右翼系の活動家として日本会議の代表委員などいくつかの役員を歴任、慰安婦問題を否定、田母神論文の支持や講演活動などを行った。

 2014年1月16日、肺炎のため東京都の病院で死去。享年91歳。

 1974年10月に読んだ小野田寛郎の著作『わがルパング島の30年戦争』(講談社1974年9月発行)の表紙。同左著書の見開き頁、小野田陸軍少尉(52歳)の写真。右下はルパング島赴任前の見習士官姿(22歳)。

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 鈴木紀夫は、1949年4月生まれ。主にヒッチハイクでアジア各国を巡ったのち、中近東・ヨーロッパ・アフリカ大陸に至るバック・パッカーの旅に出る。1974年2月、小野田との接触に成功。かつて「パンダ、小野田さん、雪男に会うのが夢だ」と話していたというが、映画でもそのことを小野田に語る。残った「雪男発見」に情熱を注ぎ、1975年7月にヒマラヤで「5頭の類人物を望遠観察した」と主張。1986年11月、ヒマラヤ・ダウラギリIV峰ベースキャンプ付近で遭難。1987年10月遺体発見(享年37歳)。

 エンドロールで、大きく「吉武美知子に捧ぐ」という日本語字幕の謝辞が出た。調べると、パリを拠点に活動した映画プロデューサーのこと。東京都出身で1980年代、フランスに渡った。キネマ旬報など映画評論だけでなく制作にも関わり、2009年映画製作会社FILM-IN-EVOLUTIONを設立。手がけた作品に『TOKYO!』、『ユキとニナ』、『ダゲレオタイプの女』など。アラリ監督の才能を一早く見抜き、監督と日本との架け橋となったひとり。今回のキャストを推薦した。本作の公開を待たず、2019年6月にパリの病院で永眠(享年不明)。

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 映画で、島民を脅し、食料を略奪、あるいは殺す場面がある。小野田は実際、潜伏中にフィリピン兵士、警察官、民間人、在比アメリカ軍の兵士を30人以上を殺害したと証言した。しかし米軍兵士に関しては、米軍側にはそのような記録はなく、実際に殺傷したのは武器を持たない現地住民が大半だったようだ。島民には、小野田たちはまさに「山賊」であり、「鬼」だった。投降した小野田は、窃盗・強盗・殺人などで、本来なら死刑だった。小野田は任務解除後に一旦フィリピン政府に拘束された後、恩赦を受けている。日本政府はフィリピン政府に、世論を納得させるためと、見舞金3億円を拠出している。マルコス政権下では、このお金は被害島民には届くことはなかったようだ。

 小野田の著作『わがルバン島の30年戦争』のゴーストライターは、作家の津田信氏。津田氏は1974年4月から約3ヶ月間、伊豆で小野田と寝食を共にして聞き取りを行い、手記にまとめた。しかし氏は、3年後の1977年6月、代筆の真相を暴露した書下ろし『幻想の英雄-小野田少尉との三ヵ月』(図書出版社)を刊行。明らかに事実とちがうことを知りながら、書くことができなかった箇所がいくつかあり、読者に間違った小野田像を抱かせてしまったことを反省、小野田の「嘘」を告発し強く批判している。

 この津田氏の本は読んでないが、▼小野田が島民を蔑視し、物資を略奪、殺傷していたが、その中には正当化できない殺人があった。▼小野田は戦争終結を早い時期に知っており、残置任務など存在しない。▼密林を出なかったのは、頑固な性格に加え「現地人の復讐」を恐れたことが原因、出ていくには自分が無罪になる確証が必要だった、と津田氏は主張している。

 武装解除された後、マルコス大統領は小野田を「立派な軍人」と評し、帰還した際に「英雄」と称えられた 。一方で、帰国に際し「天皇陛下万歳」と叫んだことなどに対し、一部のマスコミは「軍国主義の亡霊」などとバッシングした。小野田を描いたこの映画は、カンヌで熱烈なスタンディングオベーションで迎えられた。戦争の愚かさと残虐さと、信念を持つ者の人間ドラマの側面が評価されているというが、映画はどこまで真相に迫まれたのだろうか、疑問は残る。

2021年10月12日 (火)

映画「MINAMATA -ミナマター」

 2021年10月7日(木)、映画『MINAMATA -ミナマター』 を観る。

 
 水俣病は、日本における「四大公害病」のひとつ。チッソ水俣工場(熊本県水俣市)による工業排水を原因とし、現在まで補償や救済をめ ぐる問題が続く。その存在を世界に知らしめた写真家ユージン・スミス(1918 - 1978) と妻のアイリーン・美緒子・スミス(1950 ー)が、 1975 年に発表した写真集『MINAMATA』。彼の遺作ともなったこの写真集を基に、映画化が実現。2021年9月23日 公開された。
 
 「四大公害病」は、高度成長期に発生した負の遺産、イタイイタイ病 (カドミウム)、水俣病(メチル水銀)、四日市ぜんそく(亜硫酸ガス)、新潟水俣病(第二水俣病)を指す。
  
 映画『MINAMATA -ミナマター』のポスター。

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 アメリカの写真家W・ユージン・スミスは、『ライフ』誌に掲載されるなど報道写真家として過去には功績を評価されながらも、酒に溺れ、すさんだ生活を過ごしていた。ユージンのCM撮影に同行して来た魅力的な日本人翻訳者のアイリーンから、水俣を訪れて水俣病を撮影し記録するよう促される。

 ユージンは、年の離れた妻となったアイリーンとともに水銀中毒と水俣病による沿岸地域の被害を記録するために、水俣を訪れた。1971年から1974年の3年間現地で暮らし、ミノルタSR-T101のカメラを持って水俣病におかされた患者たちや家族の日常、チッソに対する抗議運動、補償を求め活動する様子を何百枚もの写真に収めていく日々がドラマチックに描かれる。そしてスミスは現地で厳しい報復を受けることになるが、真実を写真で捉えることに没頭していく中で、1枚の傑作が世界を呼び覚ます。

 主人公のユージンは、映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズで海賊役のジョニー・デップ、妻のアイリーンは女優・モデルの美波が演じる。共演はビル・ナイ(ライフ誌の編集長)、真田広之(被害者救済運動のリーダー)、國村隼(チッソの社長)、加瀬亮(自身が水俣病、震える手を押さえながら撮影するカメラマン)、浅野忠信と岩瀬晶子(胎児性水俣病の長女の両親)など。音楽を手掛け たのは坂本龍一。

 ジョニー・デップ 美波 以下、8枚の写真は映画『MINAMATA』のパンフより転載

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 ビル・ナイ 真田広之 國村隼

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 加瀬亮 浅野忠信 岩瀬晶子

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 登場人物は、実在の患者らがモデルになっている。アンドリュー・レビタス監督らは2018年9月に水俣を訪れ、胎児性患者らに会って制作の意向を伝えた。主な撮影は何故かセルビア、モンテネグロで行われたという。

 映画のエンドロールでは、各国で同じ環境被害に多くに人々が苦しむ「人為的な事件」の数々を紹介する。インドネシアの金採掘による水銀汚染、チェルノブイリ原発事故、サリドマイド薬害、ハンガリーのアルミナ工場の有害廃棄物流、アメリカの坦懐原油流出、福島の原発事故、ブラジルの尾鉱ダム決壊・・・・などなど。

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 ユージン・スミスが水俣で取材していた時期からもう50年、半世紀が経つ。この機会に、当時の社会状況を思い出す。漁協が操業停止や排出の停止を訴えて抗議、工場に乱入するが、垂れ流しは続く。企業城下町で大多数の市民が、チッソで生活の糧を得ている。会社に抗議するのは難しい。周囲の水俣病に対する偏見や差別もある。

 多くの患者やその家族はわずかな見舞金と引き換えに、泣き寝入りを強いられた。そして補償金や救済を要求して抗議や団体交渉、一株株主運動、裁判に訴える人々などと、市民は分断される。一方、国はいかに無策であったか、企業を指導できなかったのか。遅まきながら1971年7月、国は縦割り行政を廃して環境庁を発足させた。フクシマもしかり。企業、政府、社会が、弱者である被害者らにどう手を差し伸べるか、寄り添えるか、国の民主主義が問われる。

■ユージンとユージンをめぐる人々

 ユージンは、1918年米国カンザス洲生れ。子どもの頃、母親からカメラを与えられ写真に熱中する。写真に関する奨学金を獲得、ノートルダム大学に入学するが18歳のときに退学、ニューヨークへ。1937年9月、週刊誌『ニューズウィーク』の仕事を始めた。第2次世界大戦には写真家として従軍し、サイパン、沖縄、硫黄島などへ派遣されて戦場の生々しい写真を撮影、雑誌『ライフ』などに写真を提供。

 沖縄戦では重症を負い、生涯その後遺症に悩んだ。戦後も『ライフ』の仕事を続けるが、1954年編集部と対立して決裂。ユージンは1959年に「世界の十大写真家」の一人の選ばれ、水俣に来る前から有名な写真家だった。

 アイリーンは、米国人の父親と日本人の母親を持ち、スタンフォード大学で学ぶ。1970年の20歳の時に、ニューヨークで通訳者として富士フイルムのコマーシャル制作の仕事に携わり、ユージン(当時51歳)と出会った。史実では、彼らが出会ってわずか1週間後、ユージンがアイリーンに自分のアシスタントになり、ニューヨークで同居するよう頼んだという。アイリーンは承諾。そのまま大学を中退し、カリフォルニアには戻らずユージンと暮らしはじめた。

 二人は、翌1971年8月16日にユージンの写真展『真実こそわが友』開催のため来日すると、8月28日に婚姻届けを提出。結婚後すぐの9月から熊本県水俣市に移り住み、1974年10月まで3年間ほどの期間、水俣病とその患者、家族たちを撮影し続けた。水俣の撮影を提案したのはアイリーンではなく、実際はユージンと親交のあった元村和彦氏(1933 - 2014)。写真集の出版を手がけた写真編集者で、出版社「邑元舎」を主宰。1970年秋に渡米し、ニューヨークでユージンらに来日して取材を提案したという。

 水俣病におかされた患者たちや家族の日常、原因企業チッソと闘う彼らの姿を写した写真集『MINAMATA』を1975年、ユージン夫妻はアメリカで出版(日本では1980年出版)。水俣病を世界に知らしめたユージンは、フォトジャーナリズムの象徴となる。しかしユージンは、アイリーンと離婚まもない1978年、2度目の脳溢血の発作を起こしそのまま亡くなった。享年59歳。

 石川武志氏(1950 ー )は、写真学校を卒業したばかりの1971年、東京・原宿で来日中のユージンと偶然出会い、アシスタントとなり、水俣に同行して自身も水俣病に苦しむ人々を撮影した。1975年に渡米し、ユージンのアパートに住みながら、写真集『MINAMATA』の出版などにも立ち会った。2012年、自身の『MINAMATA-NOTE 私とユージン・スミスと水俣』(千倉書房)を出版した。ユージンの水俣病の写真は、苦しむ患者の顔や姿をとらえて被害を訴えるのではなく、病を背負いながら暮らす姿を寄り添うようにして収めた、と石川氏は回想する。

 地元で撮影を続けていた写真家の塩田武史氏(1945~2014)は、水俣にやってきたユージン夫妻を水俣病第1次訴訟(1969~73年)の原告たちの家へ案内した。塩田氏は1967年、胎児性患者の存在を知り、大学卒業後の1970年に水俣市に移住して患者家族の撮影を続けていた。ユージンらが患者家族から借りて住んでいた家も近かった。ユージンとアイリーンは塩田氏の案内で、精力的に患者を撮影した。写真集『僕が写した愛しい水俣』(岩波書店)や『水俣な人 水俣病を支援した人びとの軌跡』(未来社)を出している。

 川本輝夫氏(1931 - 1999)は、水俣病の患者の救済運動「チッソ水俣病患者連盟」の委員長、水俣市議会議員(3期)を務めた。土木、炭鉱労働者、とび職、新日本窒素肥料の臨時労働者などを遍歴。1965年にチッソの工場で働いていた父が死亡。1969年水俣病認定促進の会を結成、以後、未認定患者救済の闘争の先頭に立つ。1971年に自らも熊本県より患者に認定され、同年11月より補償をめぐって、チッソと自主交渉に入る。映画で真田広之が演じる患者運動体のリーダーは、川本氏らをモデルにしてその闘争を描いている。

 アイリーンは水俣以降、環境活動家として市民運動に関わる。1983年、コロンビア大学で環境科学の修士号取得。1991年、NGO「グリーン・アクション」を設立し代表。1994年、「アイリーン・アーカイブ」設立。京都を拠点に約30年間にわたり、反原発を訴え続けている。水俣病の公式確認から65年。患者認定をめぐる訴訟は今も続き、多くの被害者は救済されず、水俣病問題はまだ解決していない。そしてミナマタは、フクシマにも続いているのだ。

 ユージン・スミスと妻のアイリーン(1974年)  出典:ウキメディア・コモンズ

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■写真は魂を奪う

 ユージンは、映画の中でアイリーンに次のように語る。「昔、アメリカ先住民は写真を撮られると、魂を奪わると忌み嫌った。しかし写真は撮る者の魂の一部を奪う。だから覚悟をもって撮れ」。実際、ユージンの母方の祖母は、インディアンの血筋もひく。ユージンを尊敬し、演じるジョニー・デップも先住民の血を引いているという。

 一方映画で、「写真を撮っても良いか」と患者に撮影許可を求めるが、拒否されて不満な顔をするユージンに、アイリーンは「共感してよ!」と患者の心に寄り添うことを訴える。やがて、水俣病と日本に身を投げ出す外国人に、患者や家族たちは心を開いてゆく。厳しい現実をアートに変えたユージンの作品は、後日、アイリーンの作品とともに写真集として出版され、今もなお人々に真実を伝えている。

■「入浴する智子と母」

 本映画のハイライトは、ユージンが撮影した「ピエタ像」のような世界に発信する母娘の写真を撮影するところにある。「ピエタ像」とは、死んで十字架から降ろされたキリストを抱く聖母マリアの彫刻や絵の事を指す。ユージンの作品「入浴する智子と母(Tomoko and Mother in the Bath)」は、その構図から「ピエタ像」を思わせるものとして、世界中の人々の心を揺さぶり、高い評価を受けている。

 ミケランジェロ作の『サン・ピエトロのピエタ』 出典:ウキメディア・コモンズ

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 『サン・ピエトロのピエタ』像は、ミケランジェロの彫刻の中でも『ダビデ像』と並ぶ最高傑作。

 被写体の娘の本名は「上村智子」ではなく、映画では「マツムラアキコ」となっている。胎児性水俣病患者である智子を抱いて母が、一緒にお風呂に入っている写真「入浴する智子と母」は、写真家ユージン・スミスの代表的な作品。この写真はユージンが水俣を訪れた最初の年、1971年12月に撮影された。映画では実際にユージンが撮影した写真でなく、女優の岩瀬晶子と娘役の入浴シーンが撮影された。ただ、映画ではその映像とユージンの実際の作品とが一瞬、二重写しされたのに気がついた。

 ユージンの代表作となった写真「入浴する智子と母」は、智子が21歳で亡くなった後も脚光を浴び続けた。1996年9月、東京・品川で大規模な水俣展が開催された。入浴する母子像を載せた大きなポスターが品川駅から会場までの至るところに貼られ、チラシやチケットにも使われた。雨が降っていて、濡れたポスターが剥げ落ち、ポスターやチラシが歩行者に踏みつけられたという。上村夫妻は、この光景に心を痛めた。

 1997年7月、フランスのテレビ局から番組で使うため、水俣病の悲惨さを象徴するこの1枚を提供してほしいという依頼が上村夫妻にあった。しかし、夫妻は「公害を世界に伝える」というそれまでの意思とは変わり、写真の使用とインタビューのいずれも断った。「亡き智子をゆっくりと休ませてあげたい」というのが、夫妻の本音だった。

 それから2年近く後の1998年6月にアイリーンは上村夫妻と話し合い、母子像写真の新たな展示や出版を行わないことを約束した。このようないきさつで現在、水俣病の象徴となった「入浴する智子と母」は封印されているままである。このブログにもこの写真が掲載できなくて、残念。

■史実と脚色

 2021年6月に地元有志の実行委員会が、本映画の先行上映会の後援を水俣市に依頼した。市は、映画が史実に即しているかや、被害者への差別や偏見の解消に貢献するかが不明、水俣病を忘れたいと考えている市民もいる、などの理由で後援を拒否した。一方で熊本県は「世界的に発信されることに意義がある」として上映会の後援を承諾している。

 9月18日に水俣市で先行上映が行われた。2回の上映で市民や胎児性患者などのおよそ1000人が鑑賞。会場ではジョニー・デップのビデオメッセージも紹介され、アイリーンは上映後の舞台挨拶に立ち、劇中でチッソ社長がユージンにネガの買収を持ち掛けたり、仕事小屋が放火される脚色について、「史実と違う部分はあるにしても、著名な役者が演じた映画を通して、水俣病の根底にある問題を広く世界に知って貰うことの意義は大きい」と語った。

■ユージンの取材前から原因と水銀と判明

 1950年代から水俣湾周辺の漁村地区などで、奇妙な病気が数多く報告されていた。1956年、中毒性中枢神経系の病気「水俣病」が公式確認。原因究明の研究も行われ、1959年には熊本大学水俣病研究班が水俣病の原因は有機水銀であると発表。1960年に入るとさらに、チッソの工場から排出された水銀が原因であるという論文がいくつも発表された。1968年には厚生省は、水俣病を公害病と認定、「チッソ水俣工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀化合物が原因」と発表した。

 映画の中では、ユージンとアイリーンらがチッソの附属病院に侵入して、水俣病の原因が水銀であることを会社が知っていて隠していた、という事実が判明する。探偵映画じゃあるまいし、演出として違和感ある。

■チッソ株式会社は現在、補償を専業

 チッソは明治後期に創業し、第二次世界大戦をはさみ発展した日本の化学工業メーカー。1932年からチッソ水俣工場が触媒として使用した無機水銀の副生成物であるメチル水銀を含んだ廃液を海に無処理で排出していたため、水俣市を中心とした八代海沿岸地域で発生した水俣病の原因を作った。

 1975年3月、水俣病患者と遺族らが、チッソ関係者を殺人罪、傷害罪で熊本県警に告訴した。1976年5月、熊本地検は元社長の吉岡喜一氏と水俣工場長の西田栄一氏を業務上過失致死傷で起訴した。1979年3月、熊本地裁は吉岡氏と西田氏に禁固2年、執行猶予3年の有罪判決を下し、1988年3月の最高裁上告審で有罪が確定した

 1960年代からチッソは経営状態が悪化した上に、水俣病裁判での敗訴後は被害者への賠償金支払い、第一次オイルショックなどにより経営がさらに悪化、1978年に上場を廃止した。同社は現在では実質上、国の管理下にあり、現在は水俣病の補償業務を専業とする。なお、水俣工場は現在も操業を継続している。

 チッソ株式会社のロゴ 出典:ウキメディア・コモンズ

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■チッソからユージンが暴行を受けた

 映画では、ユージンがチッソ工場と抗議者との間で起こった混乱に巻き込まれ、暴行を受けて大けがを受けるシーンがあった。この事件は実際にユージンが被害を受けたものだが、時期や場所は全く異なっていて映画の演出として大幅変更されている。実際にユージンが暴行を受けたのは、1972年1月7日。場所は、千葉県市原市にあるチッソ五井工場を訪問した際に起こった。

 チッソ五井工場に水俣市からの患者を含む交渉団と新聞記者たち約20名に訪れたが、ここで従業員約200名から強制排除を受けた。ユージンはこの「五井事件」の暴行で、実際に脊髄骨折と片目失明という重傷を負った。暴行を受けた後に「入浴する智子と母」を撮影したのは、映画の演出。この時の傷がもとで後遺症を患い、いくつもの医療機関で治療するも完治せず、晩年は神経障害と視力低下にも悩まされ、結果的に死期を早めたと思われる。

●雅子皇后の母方の祖父・江頭豊はチッソ社長

 江頭豊氏は東京府出身で、父は海軍中将の江頭安太郎氏。1933年東京帝国大学法科を卒業後、日本興業銀行へ入行。興業銀行をメインバンクとし、水俣病問題と労働争議による経営不振に陥っていた新日本窒素肥料の立て直しのため、中山素平頭取の意向で1962年、同社の専務取締役として派遣された。

 1964年12月、社長に就任。1965年1月、同社は「チッソ」に社名変更。1970年11月と1971年5月に開かれたチッソ定時株主総会は、一株株主運動との対決で大混乱となった。江頭社長は混乱の責任を取り、1971年7月の取締役会で社長を退任するが、会長に就任して経営にかかわった。後任の社長は、島田賢一氏(1971年7月~1977年6月)。1973年5月、江頭氏は会長を退任、相談役に就任。2006年9月、98歳で死去。

 江頭氏の前任の吉岡社長は、刑事追訴され水俣病の業務上過失致死傷 で有罪となった。江頭氏は外部から派遣され、水俣病の原因を作った社長ではない。しかし社長・会長の時代、水俣病被害者や家族への対応はどうだったのか。ユージンらが、水俣に滞在していた時期と重なる。江頭氏の孫・小和田雅子さんには、当然ながら責任はない。しかし祖父にチッソ社長の経歴があったことが、宮内庁から慎重論が出て皇太子妃候補から一時外された、という話もあった。1993年6月、結婚の儀が執り行われ、雅子さまは皇太子妃となった。

2019年12月17日 (火)

映画「決算!忠臣蔵」

 2019年12月11日(水)、映画『決算!忠臣蔵』 を観る。

 
 東京大学史料編纂所教授・山本博文の著書『「忠臣蔵」の決算書』 は、2012年11月16日に新潮新書として刊行された。
 
 2019年11月22日 、『決算!忠臣蔵』のタイトルで劇場公開。年の瀬の国民的ドラマ「忠臣蔵」を題材に、限られた予算の中で仇討を果たそうとする赤穂浪士たちの奮闘を描いた時代劇コメディ。中村義洋監督、主演は堤真一と岡村隆史。
 
 映画『決算!忠臣蔵』のポスター。

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 時は元禄14年(1701年)3月14日。清廉・潔白な播州赤穂藩主・浅野内匠頭(阿部サダヲ)は、かねてから賄賂まみれで横柄な高家筆頭の吉良上野介の態度に据えかね、江戸城・松之廊下で斬りかかる。通常であれば喧嘩両成敗となるはずが、吉良にはお咎めなし。即日、浅野家お取り潰しと内匠頭の切腹が決まり、突然にも赤穂藩士たちは路頭に迷うこととなる。今で言えば、優良企業の倒産事件。威勢のいい者たちは、裏方の地味な仕事を軽んじるが、実際の仕事には役に立たず右往左往する。
 
 筆頭家老・大石内蔵助(堤真一) は、勘定方・矢頭長助(岡村隆史) の地道な力を借りて、財源の確保と残務整理に努める。やがて幕府への取次も虚しく、お家再興の思いは絶たれてしまう。浪人となった赤穂藩士の一部や、江戸庶民たちは、吉良への仇討ちを熱望する。しかし、討入りするにも多額の予算が必要。しかも討ち入りのチャンスは、1回だけだ。

 勘定方は、軍資金およそ800両(現代に換算して9,500万円)を溜め込んでいた。討入りか、討入らないのか、迷っているうちに予算はどんどん減っていく。果たして赤穂の浪士たちは「予算内」で、「仇討ち」という大プロジェクトを無事に「決算」することができるのだろうか。
 
 
 ★ ★ ★

 元禄時代の「赤穂事件」を題材とした人形浄瑠璃(文楽)や歌舞伎を始め、近代・現代でも講談、浪曲、演劇、映画、テレビドラマ、小説など、色々な解釈や視点、脚色を入れた多くの「忠臣蔵」が創られてきた。しかし、本作品のように「予算」をテーマにして描いたものは、かつてなかったと思う。

 原作は、小説ではなく「元禄赤穂事件」の一級史料を読み解いた『「忠臣蔵」の決算書』。実際に大石内蔵助が残した決算書を基に、「討ち入り」のための金の動きと人の動きを解説したものだが、映画はそれをコメディとしてドラマ化した。
 
 原作の山本博文著『「忠臣蔵」の決算書』の表紙。(映画鑑賞の同日購入)

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 中村義洋監督が時代劇を撮るのは、『殿、利息でござる!』(2016年)、『忍びの国』(2017年)に続き今回で3作目、コメディ時代劇に定評があるという。出演は、堤真一、岡村隆史、阿部サダヲのほか、濱田岳、横山裕、妻夫木聡、荒川良々、竹内結子、石原さとみ、西川きよし、大地康雄、木村祐一、西村まさ彦、橋本良亮、寺脇康文、上島竜兵、堀部圭亮、山口良一、鈴木福、千葉雄大、滝藤賢一、笹野高史と豪華キャスト。

 最近の松竹の時代劇映画は、『武士の家計簿』(2010年)、『武士の献立』(2013年)、 『超高速!参勤交代』(2014年)、 『殿!利息でござる』(2016年)、 『引っ越し大名!』(2019年)など、史料データを基にした作品が出てきて面白い。

 新潮新書『「忠臣蔵」の」決算書』の帯。

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 映画のエンディングロールで、企画・配給は「松竹」だが制作幹事として「松竹」と「吉本興業」の名前が並んで出て来る。なるほど、吉本興業の芸人が何人かが出演している。 

 コメディで、ボケ・つっこみの漫才調だ。 台詞は、すべて現代語の関西弁というか大阪弁。内蔵助の奥方・りく(竹内結子)は良いとしても、 江戸詰め赤穂の侍も、そして江戸から出たことのないはずの浅野内匠頭の正室・瑶泉院(石原さとみ)も関西弁なのはおかしい。赤穂といえば兵庫県の西部、関西には違いないが、この地域には播州弁というのがあるらしいが・・・。

 討ち入りのイメージのシーンは出てくるが、実際の討ち入りの場面がない忠臣蔵。しかも松の廊下も浅野内匠頭だけで、吉良上野介はスクリーンには出てこない。

 城の明け渡しに「籠城だ!」、主君の仇に「討ち入りだ!」と声高に叫び、戦う事しか脳がない「番方」(武官系)たち。それでいて元禄の時代、彼らは実戦経験などはない。ふだんは彼らから下に見られている「役方」(文官系)の勘定方(財務担当)が言い返す。
 
 「銭の勘定できん侍は、何をさしても”でくの坊”」

 勘定方の矢頭長助の息子は、矢頭右衛門七(えもしち、朝ドラ「なつぞら」の鈴鹿央士)。討ち入りした中で、大石内蔵助の息子・主税(ちから、子役で有名な鈴木福)の次に若い。父親が亡くなった後、母妹の世話に苦難したことで知られる。右衛門七は、主税と仲が良い。父親同士の長助と内蔵助は、同年齢で幼なじみという設定。二人の身分や石高は、月とすっぽん。しかし幼なじみのせいか、長助は家老の内蔵助にズケズケものを言う。

 矢頭長助は史実でも、赤穂城の明け渡し後も大石内蔵助のもとで藩政の残務処理にあたった。残務処理が終わった後、矢頭一家は大坂の堂島へ移ったが、この頃から父は病に冒され寝たきりになった。その後は17歳の右衛門七が、父親の代理として同志グループに加わる。長助は元禄15年(1702年)8月、討ち入りを待たずに病気で亡くなっている。しかし映画では、討ち入りに反対する浅野家親戚筋の刺客に、内蔵助と間違われて駕籠の中で殺されてしまう。

 昔から日本人は「滅びの美学」、「忍耐のドラマ」、「アンハッピー・エンド」が好きだ。日本人のDNAなのか、そんなドラマに心に響き、共感を得る。「源義経」、「楠木正成」、「赤穂浪士」、「真田幸村」、「白虎隊」・・・。外国人には、理解しにくいストーリーだ。 しかしイギリスには、「フランダースの犬」という悲しい物語がある。
 
 吉良邸討ち入りを明日未明に控えた日(元禄15年12月14日)、大石内蔵助は降りしきる雪の中、赤坂の南部坂上にある亡き主君の正室・瑶泉院が居る三次浅野家邸を訪れる。「討ち入りの日時の定まりしことか?」と問われて答えず、瑶泉院を怒らせてしまう。この「南部坂雪の別れ」の場面は、創作だ。

 実際は、内蔵助は討ち入り費用の使途明細帳である11月29日締めの『預置候金銀請払帳(あずけおきそうろうきんぎんうけはらいちょう)』 と手形(領収書)を12月14日に使いの者が届けているが、その宛名は用人の落合与左衛門殿となっていてる。

 また内蔵助が討ち入りのため、立花左近(または垣見五郎兵衛)になりすまして江戸に下る「大石東下り」の場面も、創作だそうだ。これらの場面は、この映画『決算!忠臣蔵』には出て来ない。



 ★ ★ ★

 史料『預置候金銀請払帳』 (箱根神社所蔵)の表紙。映画『決算!忠臣蔵』のパンフレットから転載。
 
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     元禄十五年 
   預置候金銀請払帳 
        大石内蔵助
     午 十一月

 討ち入り費用総額は、映画では800両、現代の価値に換算して9,500万円。しかし新書『「忠臣蔵」の決算書』では700両、(約8,400万円)とある。映画が100両多いが、何故だろうか。映画では大石が討ち入りの前、瑶泉院のもとに決算書を持って行くが、お目通りはかなわず、用人の落合与左衛門にこの決算書を渡す。しかし内蔵助が帰った後、決算書の入っていた小箱の中から100両の現金が出て来る。それは浪士の子供たちの助命嘆願のための資金という「落ち」だ。瑶泉院の働きもあって、島流しとなった子供たちは、わずか3年で帰宅が許されたという。

 新潮新書『「忠臣蔵」の」決算書』によると、預り金(収入)総額は金貨に換算して691両。支出総額は、697両1分2朱。不足分約7両1分は、内蔵助が私費で支払いをしたと書かれている。江戸時代の貨幣制度は、金(小判=一両、一分金、二朱金)、銀(丁銀、豆板銀)、および銭(寛永通宝の銅貨)という基本通貨が流通した。それらの換算がややこしくて、現代人にはピンと来ない。

 金貨、銀貨と銭貨の間には両替商により、互いに変動相場で取引された。ほかに藩札などの紙幣も地方で流通していたが、全国で通用しなかった。金貨の通貨単位は両、小判1両=4分=16朱。重さ不定の丁銀と豆板銀は、天秤で目方を定めて通用する通貨で、通貨単位は重さの単位である貫(かん)、匁(もんめ)および分(ふん)が用いられたが、500匁毎に和紙で包んだ包銀として用いられることが多かったそうだ。

 銀1貫は銀1000匁、銀1匁は銀10分。金貨と銀貨の換算率は日々変動していたが、元禄時代のこの請払帳では、1両=銀56匁としている。銭は、百文として麻紐に通した96文=銀15匁。
 
 決算書に書かれているの入金(軍資金)の内訳は、複雑なので省略するが、大まかには次の2つである。

 ①化粧料・・・ 瑶泉院の嫁入りの時の持参金(化粧料)を赤穂の塩問屋に貸し付けていたが、お家取り潰しのため元金を引き上げ、瑶泉院に返金した残りを拝領した。
 ②藩の余り金・・・ 藩の財産をすべて処分し、藩士への割賦金(退職金)を払った残り。
  
 一方、支出の内訳(金に換算)は、割合の高い順に並べると次の通り。

 ①旅費・江戸逗留費・・・・・ 248両(35.6%)
  上方~江戸の宿泊費他の旅費総額は、1人片道3両(30万円)ほど。
 ②生活補助費・・・・・・・・・・ 132両1分(19.0%)
  生活に困窮した同志たち(主に下級武士)への生活補助費。 
 ③仏事費・・・・・・・・・・・・・・ 127両3分(18.4%)
  京都瑞光に内匠頭の墓を建立し山を寄付した100両の他、法事費用。 
 ④江戸屋敷の購入費・・・・・・ 70両(10.1%)
  同志の宿舎(アジト)にするため古屋敷を購入、後に火事で焼失。
 ⑤御家再興の工作費・・・・・・ 65両1分( 9.4%)
 ⑥討入り装備費・・・・・・・・・・・ 12両( 1.7%)
 ⑦会議通信費・・・・・・・・・・・・・ 11両( 1.6%)
 ⑧その他・・・・・・・・・・・・・・・・・ 31両1分2朱( 4.2%)

 旅費・滞在費と生活費補助の①と②を合わせ、50%を超える。米価換算で1両は、現代で約12万円。支出総額は8,400万円ほどになる。
 
 映画では赤穂の火事装束が、ある場所に保管されていて人数分の討ち入り装束の購入経費が助かったとある。忠臣蔵の討ち入り時の火事装束は、歌舞伎の世界で創作されたものだそうだ。実際は、黒い小袖を着用し、股引・脚絆・草鞋(わらじ)という出で立ちとする申し合わせだったようだ。装束は赤穂浪士のそれぞれ個人によって異なっていたが、全体的には薄黒い色で、火事装束に似ていたものだったらしい。
 
 先立つお金がなければ、忠義だけでは討ち入りは達成できなかった。『決算!忠臣蔵』では、コメディとはいえ内蔵助や勘定方が、いかにお金に苦労したかがよくわかる映画だった。
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