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カテゴリー「映画・テレビ」の33件の投稿

2023年9月10日 (日)

映画「こんにちは、母さん」

 2023年9月8日、映画『こんにちは、母さん』を観る。

 2023年9月1日公開。9月13日で満92歳を迎え、これが監督作90本目という山田洋次監督の最新作。ヒロインは、吉永小百合。『男はつらいよ柴又慕情』(1972)をはじめ、『母べえ』(2008)、『おとうと』(2010)、『母と暮せば』(2015)など、約50年間に渡って数々の山田監督作品に出演する日本映画の国民的大女優は、本作で映画出演123本目だそうだ。下町に暮らす母・福江を演じる。

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 福江の一人息子・昭夫を演じるのは、昨年2022年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも好演した人気俳優・大泉洋。山田監督映画への出演、吉永小百合との共演はともに初めてだという。原作は、劇作家・永井愛の同名の戯曲、2001年と2004年に新国立劇場で上演された。2007年5月26日~6月16日、NHK総合テレビ「土曜ドラマ」(主演:加藤治子、共演:平田満)でも放送されている。今回の映画化の脚色は、山田監督と朝原雄三。

 舞台は東京・向島。隅田川沿いの下町。主人公は、亡夫の後を継いで一人で足袋店を営む福江(吉永小百合)。一人息子で大会社の人事部長として日々神経をすり減らす神崎昭夫(大泉洋)に、学生時代からの親友で同期入社の木部(宮藤官九郎)が、会社からリストラされそうになってからんくる。家庭では妻と別居し離婚問題、大学生になった娘の舞(永野芽郁)のわがままに頭を悩ませる。

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 ある日、昭夫は久しぶりに母・福江(吉永小百合)が暮らす東京下町の実家を訪れる。

 しかし、迎えてくれた母の様子が、おかしいことに気づく。いつも割烹着を着ていたはずの母親が、髪を染めたりして若作り、艶やかな装いでいきいきと暮らしている様子。福江はホームレスの支援活動をしていて、仲間の牧師・荻生(寺尾聰)に恋愛感情を抱いていることを知り、昭夫は戸惑ってしまう。娘は、大学も母も嫌って家出し、福江のところに転がり込んできた。

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 ほかの共演者は、昭夫の部下に加藤ローサ、ホームレスのイノさん役の田中泯(みん)、福江のボランティア仲間のタレントYOUや枝元萌ら。

 久々の実家にも自分の居場所がなくなってしまう昭夫。下町の住民たちの温かさや、今までとは違う母との出会いを通し、次第に見失っていた大事なことに気付かされてゆく。

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 やがて福江と昭夫に、思いがけない結末がやって来る。そしてエンディングでは、「母と息子」が一緒に新しい生活を始めることになるのであった。

 

 ★ ★ ★

 吉永小百合の乙女のようなかわいらしい演技を通じて、老いらくの恋が描かれている。まるで「寅さん」のような実らぬ恋。それは決してベタベタとしたものではなく、心に秘めたまま。プラトニックで安易に好きだと口にせず、そのせつなさがこの映画の恋愛を美しく、深いものにしている。

 いかにも軽い感じの宮藤官九郎は、リストラ寸前の社員の木部役を演じる。木部のキャラクターはダメ男で、しばしばコミカルな要素を持ちながらも、そのリストラに困り抜いた昭夫は、彼を見放すことなく現実の世界では信じられないほどの友情を見せる。会社のリストラという重くて生々しさは、この映画のぬくもりや笑いと感動で打ち消された。

 福江が、昭夫の子どもの頃のことを語るシーンがある。親子の役作りのため吉永は大泉の実際の子ども時代の写真を借りて、イメージを膨らませたという。鍵もかけずに近所の人たちが勝手に上がってきて茶の間でお茶を飲むという下町の、また古き良き時代への郷愁が見る人に爽やかに心を和ませ、温かい気持ちにさせる。

2023年7月 4日 (火)

映画「大名倒産」

 2023年6月30日(金)、映画『大名倒産』を観る。
 

  江戸時代を舞台に、鮭役人の子・小四郎は、思いがけず大名家の家督を継いで藩主となるが、藩が抱える莫大な借金を背負わされた運命を描いた浅田次郎による同名の時代小説を映画化したエンターテイメント。2023年6月23日より全国公開。

 巨額の借金を背負わされる主人公を、現在放映中のNHK連続ドラマ『らんまん』で主人公・槙野万太郎役の神木隆之介が演じ、2020年度後期のNHK連続テレビ小説おちょやん』で、浪花千栄子をモデルにしたヒロインを演じた杉咲花のほか、松山ケンイチ佐藤浩市、キムラ緑子らが共演する。監督は前田哲。

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 江戸時代の越後・丹生山藩(にぶやまはん) 。鮭役人・間垣作兵衛 (小日向文世)と平和に暮らしていたその息子・小四郎(神木隆之介)は、突然大勢の役人が家に現れ、自分が徳川家康の血を引く丹生山藩主の跡継ぎ・松平小四郎であることを知る。家督を継ぐはずの長兄が急逝し、次兄は正室の子(松山ケンイチ)だがうつけ者で江戸屋敷に住み、三兄は側室の子(桜田通)で賢いが生まれつき病弱、国元を離れたことがない。

 庶子である小四郎は、農家から下屋敷に奉公にあがっていた村娘・なつ(宮崎あおい)と、先代藩主の間に産まれた四男坊。間垣作兵衛となつの子として育てられたが、十三代目松平和泉守を継ぐことになった。実父である一狐斎(佐藤浩市)は、小四郎を藩主にしてさっさと隠居。

 庶民から殿様になって幸運をつかんだかのように見えたが、実は丹生山藩は25万両(現在の約100億円)もの借金を抱えていた。困惑する小四郎に一狐斎は、返済日に藩の倒産を宣言する「大名倒産」を命じる。借金を踏み倒してしまえば、武士も領民の皆が救われるというのだった。しかし、実は計画倒産を成し遂げた暁に、小四郎にすべての責任を押しつけ、切腹してもらうというムチャクチャな理由で家督を譲ったのだ。

 以下8枚の写真は、映画『大名倒産』のパンフレットから転載。

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 大名家や幕府役人への贈答品、莫大な費用が掛かる大名行列と、次から次へと難題が降りかかる。一国の大名になった小四郎は、丹生山藩を潰すまい、領民を苦しませることはさせまいと、幼なじみの町娘・さよ(杉咲花)、家臣の平八郎(浅野忠信)、勘定方の佐平次(小手伸也)らの協力を得て奮闘する。やがて、江戸幕府老中(勝村政信、石橋蓮司)に計画倒産を疑われてしまう。

 映画では、ハッピーエンドとなるが、エンドロールの後に「どんでん返し」が待っている。

 

 ★ ★ ★

●殿の節約プロジェクト

 藩の財政を把握しようと、さよと小四郎は算盤を弾いて膨大な帳簿を調べあげる。そして「殿の節約プロジェクト」が始まった。

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➊.使用頻度の少ない武具や家具などは、綺麗さっぱり売払う。武具の鉄は、農具などにリサイクルされた。

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➋.あちこちの藩からもらった贈答品は、入れ替えてお返しにする。意味のない昔からのしきたりは中止。

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➌.来客用の豪華な布団は、必要になった時に借りるという「サブスクリプション」。長屋の町人は、季節の着物や冠婚葬祭の羽織袴、鍋釜、布団など、何でもレンタル。

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➍.近郊の農村の肥料不足に目を付けたさよは、小四郎の排泄物を売る。

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➎.地主から借りていた中屋敷と下屋敷を手放し、小四郎の住む上屋敷に兄たちとシェアハウス。江戸時代の大多数の職人や商人は、長屋のシェアハウス暮らしだった。

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➏.参勤交代では、キャンプ(野宿)で宿代をコストカット。大人数での参勤交代は、藩の財政を大きく圧迫した。いろいろコストカットを検討したが、思い切って「野宿」にした。キャンプのようで楽しい。

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 こういった知恵や工夫を凝らしながら、小四郎らは節約プロジェクトに奮闘する。しかし節約だけで25万両の借金は返せない。物語は、丹⽣⼭藩に⼤⾦を貸す金貸業、大坂の豪商・天元屋のタツ(キムラ緑子)ら一味の悪事を暴くことだ。

●SDGs(持続可能な開発目標)と江戸時代

 「殿の節約プロジェクト」のアイデアは、現代にも通じる節約術でもある。SDGsは、2015年に国際連合によって採択された17の目標。日本では、すでに江戸時代の社会でSDGsのいくつかの概念や実践が存在していた。

 ▼農村社会では「地域の自給自足の経済」が重要な考え方。農民たちは、食料や日用品を自家生産し、地域の需要を満たすことを目指した。▼資源の節約や再利用が重要視された。例えば、木材や布、紙の再利用など「循環型の資源利用」が行われていた。▼「地域の共同体意識」が強く、互助の精神が重んじられ、地域の人々は共同で農作業や災害対策を行い、持続可能な地域社会を築いていた。▼山林の保護や水質管理など、「環境保護」に関する取り組みが行われていた。

 これらの要素は、現代のSDGsと直接的に結びついているわけではないが、持続可能な開発に関する基本的な考え方や実践の一部を見ることができるという。SDGsは、現代の課題や国際的な目標を反映したものだが、我々の先人の経験や知恵からも学ぶことができる。

●歴史劇と時代劇

 映画『大名倒産』のパンフレットの中で歴史学者の磯田道史は、「史伝」、「歴史劇」と「時代劇」に分けて考えるという。史実そのものを追及する「史伝」、その時代がどいうものであったか理解しようとするのが「歴史劇」。ある時代を舞台に人間の悲喜こもごもを描き、それに共感したりするのが「時代劇」だとする。

 『大名倒産』というタイトルに引かれて映画を観覧したが、浅田次郎の時代劇小説を映画化したものだった。財政改革と言えば米沢藩の第9代藩主・上杉鷹山が有名だが、あまり関係はなさそう。 現在のSDGsに通じる話は勉強になった。セリフは現代調、着物も明るくポップ、ストーリー的にもまったく「時代劇コメディ」だった。

 たとえば『武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新』は、2003年に発刊された磯田道史の著書。ノンフィクションであるが、2010年にこれを原作として映画『武士の家計簿』が製作された。この映画は、江戸時代の下級武士の実際の節約術で、おもしろかった。主演は、堺雅人。

 『決算!忠臣蔵』は、東京大学史料編纂所教授・故山本博文の著書。2012年に新潮社から新書として刊行され、2019年に『決算!忠臣蔵』のタイトルで映画化されている。大阪弁や現代風セリフのコメディで、限られた予算の中で仇討を果たそうとする赤穂浪士たちの奮闘を描いていた。

 一方で、映画『超高速!参勤交代』はフィクション。実際に映画は見なかったがテレビの放映を見た。江戸時代の参勤交代を題材にした土橋章宏の脚本。土橋自身により小説化され2013年に発刊、2014年に映画化された。2015年に続編小説『超高速!参勤交代 老中の逆襲』が刊行され、2016年には映画『超高速!参勤交代 リターンズ』が公開された。時代劇としてはおもしろかった。主演は、佐々木蔵之介。

 映画を見てないが、映画『殿、利息でござる!』は2016年に公開。原作は磯田道史の評伝「穀田屋十三郎」で、仙台藩の吉岡宿場の窮状を救った町人達の記録『国恩記』を元にしている。主演は阿部サダヲ。また映画『引っ越し大名!』は、2019年公開。生涯に7回もの国替えをさせられ、”引っ越し大名”とあだ名された実在の大名・松平直矩をモデルにした土橋章宏の小説『引っ越し大名三千里』の映画化で、土橋が脚本も担当した。主演は星野源。

2022年5月25日 (水)

映画「大河への道」

 2022年5月23日(月)、映画『大河への道』を観る。

 映画『大河への道』は、落語家・立川志の輔による新作落語『大河への道~伊能忠敬物語』を原作として、映画化。2022年5月20日に公開された。主演の中井貴一をはじめ、松山ケンイチ、北川景子らキャストが、現代を舞台に繰り広げられる大河ドラマ制作の行方と、200年前の日本地図完成に隠された感動秘話を1人2役でコミカルに演じる。

 監督は『花のあと』の中西健二が務め、脚本は森下佳子(よしこ)。森下は、民放の『JIN~仁』『天皇の料理番』やNHKの大河ドラマ『女城主直虎』、朝ドラ『ごちそうさん』など数々の人気ドラマの脚本を手がけている。

 映画『大河への道』のポスター

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 舞台は、令和の時代の千葉県香取市役所。総務課の池本主任(中井貴一)と木下課員(松山ケンキチ)は、市の観光振興策を検討する会議に参加する。観光課の小林課長(北川景子)にたまたま意見を求められた北本は、思いつきで大河ドラマ誘致を提案する。幸か不幸かその企画が通ってしまい、日本地図を作った郷土の偉人・伊能忠敬を主人公にした大河ドラマで観光促進しようと、池本がリーダーに据えられプロジェクトが立ち上がる。

 以下の6枚の写真は、映画『大河への道』のパンフから引用

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 脚本は千葉県知事(草刈正雄)の直々の指名により、人気絶頂期に引退した大物脚本家の加藤(橋爪功)に依頼することになった。乗り気でなかった加藤も「伊能忠敬記念館」を訪れるなどの池本の接待により、正確無比な日本地図と伊能の人生に興味を持ち引き受けることになり、資料を調べ始める。そこで加藤は、伊能は『大日本沿海輿地全図』を完成させる3年前に死去したという事実を知る。「伊能は、日本地図を完成させてない。だから大河ドラマにならない」と言い放つ。

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 一方、江戸時代1818年の下町へ物語は移る。伊能忠敬は日本地図の完成を見ることなく他界する。弟子たちは悲しみと途方に暮れる中、師匠のその遺志を引き継ぎ、日本地図を無事に完成させるために、動き出す。幕府に仕える天文方の高橋景保(かげやす)(中井貴一の1人2役)は、伊能の弟子たち(伊能隊)から師匠の死を偽装したうえで地図作りを続けさせてほしいと懇願され、困惑する。

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 ただでさえ幕府から金食い虫とみなされている地図作りに、幕府をだまして公金を拠出続けさせていることが露見すれば死罪は免れない。景保は、断り続けるが、忠敬の元妻・エイ(北川景子の1人2役)の仕掛けた罠にだまされ、また伊能隊の地図作りの熱意にほだされる。かくして運命をともにすることになった景保は、伊能隊とともに伊能の死を偽装しながら、お上からの追及をのらりくらりかわしてゆくのだった。忠敬の意志を継いだ大日本地図は、いつになったら完成するのか、完成したとしても隠していた忠敬の死をどう公表するのか・・・。

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 忠敬の死から3年後、いよいよ地図は完成する。荷車に積んだ『大日本沿海輿地全図』は、将軍・家斉(草刈正雄の1人2役)の待つ江戸城へと向かう。一方で脚本制作を拒否された現代の大河ドラマプロジェクトは、果たして成功するのだろうか・・・。現代と江戸時代のキャストは、以下の通り。

中井貴一 総務課主任・池本保治 幕府の天文方・高橋景保
松山ケンイチ 総務課員・木下浩章 高橋景保の助手・又吉
北川景子  観光課課長・小林永美   伊藤忠敬の元妻・エイ
岸井ゆきの 総務課員・安野富海 伊藤忠敬の下女・トヨ
平田満  総務課長・和田善久  伊藤忠敬の測量隊員・綿貫善右衛門
和田正人 総務課員・各務修     伊藤忠敬の測量隊員・修武格之進
西村まさ彦 勘定方の家臣・山神三太郎 そば屋の客・神田三郎
立川志の輔     DJの梅さん 町医者・梅安
草刈正雄 千葉県知事  将軍・徳川家斉
橋爪功  大物脚本家・加藤浩造 源空寺の和尚

 『大河への道~伊能忠敬物語』は、立川志の輔が「伊能忠敬記念館」を偶然訪れ、恐るべき正確さの日本地図を観て驚き、この感動を落語仕立てにした。「伊能忠敬が一切出てこない伊能忠敬物語」として2011年の初演以来、絶賛を浴びているという。また、これを鑑賞した中井貴一は、「私が主演でなくとも、プロデューサーやスタッフとしてでも」と自ら映画化に動いた。中井の熱意のもと、結局は「自分が出なきゃダメ!」と、周りに押し切られたそうだ。

 江戸城の大広間いっぱいに、忠敬と弟子らが完成させた日本地図が広げられ、天井から鳥瞰するラストシーンは圧巻。撮影前、スタッフが集まった香取市体育館に、忠敬と弟子らが完成させた日本地図の複製パネルが、市職員20人超の手で広げられた(60m×40m)そうだ。これを使って、CGで制作したのだろうか。忠敬のすごさが良く実感できる。下の写真は、大広間の畳の上に広げられた地図の一部。右上の人物は、将軍の家斉。

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 考えたことはなかったが、なるほど伊能忠敬はNHKの大河ドラマにふさわしい。忠敬のテレビドラマはいくつかあるようだが、映画では『伊能忠敬 子午線の夢』(2001年東映、主演:加藤剛)が制作されている。以前、筆者が香取市佐原を3度ほど訪れ、「伊能忠敬旧宅」やすぐ近くにある「伊能忠敬記念館」を見学した。これらについては、本ブログの以下の記事で紹介している。

 「佐原の町並みと香取神宮」 2020年07月18日投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2020/07/post-fa0a3b.html

 「あやめの潮来と小江戸佐原」 2016年07月01日投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-32d9.html

 「水郷の佐原と潮来」 2015年06月16日投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-b018.html
 

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 NHKの大河ドラマでは、動乱の世の英雄やそれに関わる女性の物語が多い。江戸時代の平和な時代だったが、忠敬の生涯や偉大な業績は、大河になり得ると筆者も思う。また伊能が亡くなったことを3年間も秘匿して日本地図を完成した弟子たちの志と労苦、そして200年後の現代の大河ドラマプロジェクトの物語を落語にした立川志の輔は発想はおもしろい。

 戦国大名の武田信玄は、自身の死を3年間秘匿せよと生前に言ったという。その理由の一つは信長らの勢力を恐れ、3年間も経てば息子の勝頼も成長し信長らに対抗しうると考えたのだろう。また、江戸時代の藩主が跡継ぎを幕府に届けないまま死ぬと、お取り潰しになることを恐れ、次の跡継ぎを決めるまで死を隠した話はよく聞く。伊能忠敬が、日本地図の完成前に死んだこと、それを3年間も隠して地図作りを続行したことは、筆者もよく知っていた。

 忠敬の死を伊能隊は何故隠したのか、あまり深く考えたことがなかった。映画では、幕府から貰っている給金が途絶え、地図作りが未完成で終わることを恐れたという理由は納得できる。それまで忠敬の私財で行っていた測量は、1802年(伊能58歳)の第3次測量から費用のほとんどが幕府から支給され、1805年(忠敬61歳)の第5次測量からは、幕府直轄事業となっていたのだ。

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 さらに映画では、令和と江戸の時代で繰り広げられる物語を一人二役で演じるキャストの設定が、更に面白さを増した。映画の中では、どうやって地図を作ったかの説明も織り交ぜてあって、分かり易かった。

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 忠敬は1794年、49歳で家業を長男・景敬(かげたか)に譲り隠居する。翌年1795年江戸深川黒江町(現・門前仲町)で暮らし、19歳年下の幕府天文方・高橋至時(よしとき)に弟子入りして、念願の暦学・天文学を学び、熱心に勉学に励んだ。

 忠敬は、佐原で3度妻を持ったが、いずれも死別している。江戸で、4人目の妻がいた。内縁のエイは、彼の研究を助けたことが伝えられている。才女とされ「四書五経」を素読したり算術や絵図も出来、測量データをまとめたり、天体観測を手伝った。エイは第一次測量のときは佐原に預けられたが、その後は忠敬の元を離れて文人(女流漢詩人の大崎栄)として生き、忠敬と同じ1818年にこの世を去ったという。

 忠敬は、緯度1度に相当する子午線弧長を求めることに興味を持つ。それは師・高橋至時の大きな関心事でもあった。至時は、当時ロシアと北方での緊張を踏まえ、蝦夷地の正確な地図を作る計画を立て、幕府に願い出た。蝦夷地を測量することで、地図を作成するかたわら、子午線一度の距離も求めてしまおうという狙いがあった。

 忠敬は1800年、自宅の深川から蝦夷地へ向けて出発した。当時55歳、一行は忠敬の次男・秀蔵を含む内弟子3人、下男2人。その後、幕府の要請により第2次時以降も測量が続き、至時は忠敬を支援した。幕府から測量の手当を受け取るが、費用のほとんどは忠敬の私財の持ち出しだった。1804年高橋至時は、享年41歳で亡くなる。幕府は至時の天文方の跡継ぎとして、息子の高橋景保を登用した。

 測量に参加していた次男・秀蔵は、素行が悪く測量にも不向き、1815年に勘当された。忠敬は持病の「痰咳の病」(慢性気管支炎)で、冬になると痰に悩まされていたという。1818年(文政元年)になると急に体が衰え、4月13日弟子たちに見守られながら74歳で生涯を終えた。死因は、慢性気管支炎が悪化して起こる急性肺炎(老人性肺炎)とみられている。

 忠敬は死の直前、「私がここまでくることができたのは高橋至時先生のおかげ。死んだあとは先生のそばで眠りたい」と語った。そのため墓地は、高橋至時・景保父子と同じく上野の「源空寺」にある。一方、佐原で家督を相続していた長男・景敬は、1813年父に先立ち病死した。享年48歳。忠敬の娘は、忠敬に心配をかけまいとこのことを伏せた。景敬の子に、伊能忠誨(ただのり)と銕之助(てつのすけ)がいたが、銕之助は忠敬の死の翌年に亡くなっている。

 1821年(文政4年)、『大日本沿海輿地全図』と名付けられた地図はようやく完成。7月10日、高橋景保と、伊能忠敬の孫の忠誨らが登城し、地図を広げて献上した。そして2ヶ月後の9月4日、忠敬の喪が発表された。忠誨はその年、15歳で幕府から五人扶持と85坪の江戸屋敷が与えられ、帯刀を許されたという。

 伊能忠誨は佐原と江戸を行き来しながら景保らの指導も受け、佐原の伊能家の跡継ぎとしても期待されていたが、1827年弱冠21歳で病死した。忠誨に子がなかったため、忠敬直系の血筋は途絶えることになった。高橋景保は、後にシーボルが国禁の日本地図を持ち出そうとして発覚した「シーボルト事件」に関与して、1828年伝馬町牢屋敷に投獄され、翌年1829年に獄死している。享年45歳。

2021年11月 2日 (火)

映画「ONODA 一万夜を越えて」

 2021年10月28日(木)、映画『ONODA 一万夜を越えて』を観る。

 太平洋戦争の終戦後もフィリピン・ルバング島のジャングルで約30年潜伏し、上官からの命令をかたくなに守って秘密戦の任務を遂行し続け、1974年に日本に帰還した「最後の日本兵」。実在の人物・小野田寛郎(ひろお)元陸軍少尉を題材にした人間ドラマ。フランス人の監督が描く映画『ONODA 一万夜を越えて』は、日本で2021年10月8日に公開。

 

 フランス映画界で今、最も注目されているという新鋭の監督、アルチュール・アラリ。脚本も手掛けた。フランス、ドイツ、ベルギー、イタリア、日本の国際共同製作映画でありながら、最初から最後までが日本語セリフの作品は、第74回カンヌ国際映画祭2021の「ある視点」部門オープニング作品に選ばれ、フランスでは2021年7月21日に公開された。


 小野田の30年間を描いたベルナール・サンドロンの原作『ONODA 30 ans seul en guerre』を元に着想、映画化された。ほとんどの日本人キャストはオーディションにより選考、カンボジアで約4ヶ月間にわたって撮影され、臨場感あるシーンとなっている。

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 小野田寛郎が、挫折し自暴自棄になった青年として映画は始まる。彼を救ったのは、スパイ養成学校として知られる陸軍中野学校の教官・谷口義美少佐。ゲリラ戦の特殊訓練を受け、秘密の任務を負う士官として、彼は自分の存在意義を見いだす。終戦間近の1944年、小野田少尉は劣勢のフィリピン・ルバング島で、援軍が到着するまでゲリラ戦を指揮するよう命令を受ける。出発前、「君たちには、死ぬ権利はない」と上官の谷口からと言い渡された最重要任務は、「何が起きても必ず生き延びること」。

 作戦を決行するためルバング島に上陸するも、指揮権も与えられないまま敵に襲撃される。しかし彼を待ち構えていたのは、ルバング島の過酷なジャングルだった。食べ物もままならず、仲間たちは飢えやマラリアで次々と倒れていく。必ず援軍が来ると信じ、小野田は自分に従う数人の部下を連れ、任務を遂行する。生きるために、島民の食料略奪などあらゆる手段で飢えと戦い、雨風をしのぎ、仲間を奮い起こす。やがて届いた終戦の知らせも否定、ジャングルの奥地で生き続けるのだった。

 過酷な状況で、伍長・島田庄一は武装した島民に撃たれ、一等兵・赤津勇一は小野田の任務に反して離脱。仲間を一人ずつ失いながら小野田と一緒に最後まで生き残り、25年以上も共にジャングルを生き抜いた唯一の友である一等兵・小塚金七。二人は、幾度となく衝突ながらも相手を思いやり、二人三脚で生死をさまよいながら潜伏していた。

 住民から奪ったトランジスタ・ラジオで海外放送などを聴取して独自に世界情勢を分析、友軍の来援に備えた。後に捜索隊が残した日本の新聞や雑誌で、当時の日本の情勢についても情報を得た。小野田は、日本はアメリカの傀儡政権となっていて、満州国に亡命政権があると考えていた。しかしある日突然、小野田と小塚は島民たちからの復讐を受け、小塚は小野田の目の前で帰らぬ人となってしまう。

 そこからは小野田一人きり、孤独の中で夜が明けていく日々を数えながら、疲労を深めていく。ルパング島に旧日本兵が残留との情報で、何度か政府と小野田の家族、戦友らがルバング島に赴き捜索する。ある日小野田は、捜索に触発され一人でジャングルにやって来た「旅行者」と名乗る鈴木紀夫と出会う。この青年との出会いによって、ようやく戦いは終わりを迎える。来島した元上官の谷口の命令により、任務を解除。ルパング島に上陸から約30年、一万夜を迎える1974年3月、51歳で日本に帰還する。


 主人公・小野田役の青年期をドラマ・映画と活躍中の遠藤雄弥、小野田の壮年期を約1年かけて減量し撮影に臨んだ津田寛治が演じる。小野田にゲリラ戦を決行するよう命じた上官の谷口役には、一人芝居で有名なイッセー尾形。小野田が帰国するきっかけになった旅人・鈴木紀夫には、ドラマ・映画の出演オファーが絶えないという仲野太賀が抜擢。

 左から、遠藤雄弥、津田寛治、イッセー尾形、仲野太賀。以下8枚とも映画『ONODA 一万夜を越えて』HPから転載。

Yuya-endo Kanji-tsuda Issey-ogata Taiga-nakano

 小野田の部下の小塚の青年期は松浦祐也、壮年期は朝ドラ『おかえりモネ』にも出演の千葉哲也。同じく部下の島田に大河ドラマ『青天を衝け』に出演したカトウシンスケ。同じく赤津は、大河ドラマ『いだてん』にも出演した井之脇海。キャストは、ほとんどは日本人俳優で、外国人はルパング島の島民、フィリピン軍将校のみだった。

 左から、松浦祐也、千葉哲也、カトウシンスケ、井之脇海。

Yuya-matsuural Tetsuya-chiba Shinsuke-kato Kai-inowaki


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 映画館で、いつものように本作のパンフレットを購入しようと窓口に聞くと、もともと作られてないと言う、残念。そもそも映画のパンフがあるのは日本だけだそうだが、映画鑑賞後の楽しみが半減する。このブログを書くのも、パンフがないと苦労する。

 全編、日本人俳優が日本語のセリフを話すので、つい日本映画かと思ってしまうが、時々スクリーンにフランス語で年月が表示されたり、エンドロールを見ると、フランス映画だと認識する。昔のアメリカ映画で、よく日本人役がアジア系のアメリカ人で、服装や言葉や所作にとても違和感があった。フランス人が、戦前の日本人の事をどこまで描けているのか、イマイチ不安だったが、心配しすぎだった。上映時間は、174分(2時間54分)。これまで3時間に近い映画を見たのは、ちょっと思いつかない。

 映画の導入部分で中野学校時代、学生たちが「佐渡おけさ」を歌いながら、だれの歌の歌詞が正しいかを議論していた。そこに、谷口教官が現れる。小野田が思わず冗談で歌うと、教官は「俺と同じように歌って見ろ」と言う。小野田は教官の歌詞に合わせて歌うが、「そうじゃない。よく聞け、俺と同じように歌え」と強く促す。答えは、自己流の歌詞で歌うことだった。歌詞が少し変わってもその歌の本質は変わらない。戦況は常に変わる。その戦況に合わせて、自分の考えで戦術を変えるが、秘密戦の本質は変わらないことを、教官は教える。この場面は最初、何のことかよく理解できなかったが、その後の小野田の生き方を描いていた。

 ジャングルの兵士たちのサバイバル、現代人の日常からみると、それは人間の本性か狂気か。壮絶な日々と戦った一人の男の人間ドラマ。彼は何を信じ、誰と戦い、どう生き抜いたのか。なぜ他の兵士が気付いたり、疑問視する場面(逃亡した赤津がそれを代弁している)があったにもかかわらず、小野田は本当に敗戦を信じなかったのか、なぜ肉親の呼びかけに応じなかったのか。小野田にとって秘密戦への忠誠は、信仰のようなもの。終戦を認めてしまうと神を失ってしまう。ジャングルから垣間見える外側の世界を、陰謀だと解釈、日本は負けていないという独自の世界観を築きあげた。

 小野田は仲間を連れ、島の奥地に潜伏。谷口から引き継いだ物語を部下に語り、信じさせる。本土に帰ることなく見えない敵と戦い、亡くなった島田と小塚は気の毒でならない。島田の遺体を埋めたポイントに花を添える。28年一緒に暮らした小塚が殺されたポイントには、「小塚の川岸」と名付けた。孤独になった小野田は、故郷ではなく戦友の夢をよく見る。長年信仰してきた秘密戦という宗教を手放すには、上官の命令という儀式が必要だった。アラリ監督は、日本人が描く戦争映画とも異なるフランス人の感覚で、このドラマを表現した。

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 そして突然、小野の前に現代っ子らしい青年・鈴木が現れる。小野はひどく警戒し、映画を見る側も緊張が走る。鈴木は、小野田にタバコを勧め、一緒に食べようと小豆の缶詰を取り出し、酒を飲もうと言う。用心深く語らず、酒も飲まない小野田に対し、鈴木は酔っ払って彼に会えたことを楽しそうに語る。やがて小野田の心が溶け、鈴木の顔に上官の顔が重なって浮かぶ。既に30年近く、信じていたものを突然放棄することはできない。その複雑な感情のやり場のなさを模索する中、この場面がクライマックス。

 映画では、牛を盗もうとして島田が武装島民に射殺される。次に赤津が離脱する。それから、小野田と小塚が20数年一緒に暮らした後、島民の奇襲で小塚はモリで殺される、と脚色されている。しかし実際は、先に赤津が離脱しその後に島田、最後に小塚がそれぞれ、フィリピン軍やフィリピン警察軍との銃撃戦で射殺されている。

 資料で小野田の著作や史実を調べると次の通り。

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 1944年12月、小野田が比島派遣軍司令部参謀部付としてルバング島に派遣される。

 1945年8月、終戦。10月中旬、小野田らは投降勧告のビラを見る。12月には、山下奉文陸軍大将名による降伏命令と参謀長指示のビラ。小野田らは敵の謀略と断定して無視する。

 1946年2月、拡声器での投降呼びかけに、潜伏していた兵士2人が投降。この2人の協力で3月下旬まで計41名の日本兵がジャングルを出た。

 1949年9月、最後まで残っていた小野田グループの4人のうち、赤津が耐えきれず逃亡。1950年6月フィリピン軍に投降する。

 1950年、フィリピンに日本の敗残兵が生存という情報が日本政府にもたらされ、赤津の帰国により小野田、島田、小塚の存在が明らかになる。フィリピンの政情が不安定なため、救出活動は行えず。

 1954年5月、フィリピン軍山岳部隊との銃撃戦で島田が、撃たれ即死(享年41歳)。その後、島田の遺体確認に厚生省と小野田と小塚の家族、戦友らが現地に入り、その後数回にわたり呼びかけやビラ撒きを行ったが、二人は、にせものとして出て行かなかった。

 1972年1月、一方グアム島で元日本兵の横井庄一が発見され、日本中が大騒ぎとなる。

 1972年10月、フィリピン警察軍が日本人らしき2人組を発見、そのうちの小塚を射殺(享年51歳)。日本政府は、これを受け再度小野田の大規模な捜索隊を派遣。小野田の親族、メディア、政府関係者が島に入り、ビラ配布や呼びかけを行うが、小野田は無視する。

 1974年2月、鈴木紀夫がルバング島にて小野田との接触に成功。小野田の写真が日本で発表、家族によって小野田本人と確認される。小野田の帰還の条件は、上司だった元上官・谷口による直接の戦闘解除の命令を受けること。

 1974年3月10日早朝、入島した谷口からの命令により、小野田は任務を解除し、帰国する意思を固める。同日夜、フィリピン軍の前に小野田(当時、51歳)が現れ身柄を拘束、日本政府に引き渡される。1974年3月12日、小野田は政府が用意した日航特別機で羽田空港に帰還し、大歓迎を受ける。

 1975年、次兄の住むブラジルに移住。現代の日本社会に馴染めなかったからだそうだ。約1200haの牧場を経営、一時は約1800頭の肉牛を飼育した。

 1984年、ブラジルから帰国。ルバング島での経験を生かし、キャンプを通して「祖国のため健全な日本人を育成したい」 と『小野田自然塾』を開く。晩年は右翼系の活動家として日本会議の代表委員などいくつかの役員を歴任、慰安婦問題を否定、田母神論文の支持や講演活動などを行った。

 2014年1月16日、肺炎のため東京都の病院で死去。享年91歳。

 1974年10月に読んだ小野田寛郎の著作『わがルパング島の30年戦争』(講談社1974年9月発行)の表紙。同左著書の見開き頁、小野田陸軍少尉(52歳)の写真。右下はルパング島赴任前の見習士官姿(22歳)。

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 鈴木紀夫は、1949年4月生まれ。主にヒッチハイクでアジア各国を巡ったのち、中近東・ヨーロッパ・アフリカ大陸に至るバック・パッカーの旅に出る。1974年2月、小野田との接触に成功。かつて「パンダ、小野田さん、雪男に会うのが夢だ」と話していたというが、映画でもそのことを小野田に語る。残った「雪男発見」に情熱を注ぎ、1975年7月にヒマラヤで「5頭の類人物を望遠観察した」と主張。1986年11月、ヒマラヤ・ダウラギリIV峰ベースキャンプ付近で遭難。1987年10月遺体発見(享年37歳)。

 エンドロールで、大きく「吉武美知子に捧ぐ」という日本語字幕の謝辞が出た。調べると、パリを拠点に活動した映画プロデューサーのこと。東京都出身で1980年代、フランスに渡った。キネマ旬報など映画評論だけでなく制作にも関わり、2009年映画製作会社FILM-IN-EVOLUTIONを設立。手がけた作品に『TOKYO!』、『ユキとニナ』、『ダゲレオタイプの女』など。アラリ監督の才能を一早く見抜き、監督と日本との架け橋となったひとり。今回のキャストを推薦した。本作の公開を待たず、2019年6月にパリの病院で永眠(享年不明)。

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 映画で、島民を脅し、食料を略奪、あるいは殺す場面がある。小野田は実際、潜伏中にフィリピン兵士、警察官、民間人、在比アメリカ軍の兵士を30人以上を殺害したと証言した。しかし米軍兵士に関しては、米軍側にはそのような記録はなく、実際に殺傷したのは武器を持たない現地住民が大半だったようだ。島民には、小野田たちはまさに「山賊」であり、「鬼」だった。投降した小野田は、窃盗・強盗・殺人などで、本来なら死刑だった。小野田は任務解除後に一旦フィリピン政府に拘束された後、恩赦を受けている。日本政府はフィリピン政府に、世論を納得させるためと、見舞金3億円を拠出している。マルコス政権下では、このお金は被害島民には届くことはなかったようだ。

 小野田の著作『わがルバン島の30年戦争』のゴーストライターは、作家の津田信氏。津田氏は1974年4月から約3ヶ月間、伊豆で小野田と寝食を共にして聞き取りを行い、手記にまとめた。しかし氏は、3年後の1977年6月、代筆の真相を暴露した書下ろし『幻想の英雄-小野田少尉との三ヵ月』(図書出版社)を刊行。明らかに事実とちがうことを知りながら、書くことができなかった箇所がいくつかあり、読者に間違った小野田像を抱かせてしまったことを反省、小野田の「嘘」を告発し強く批判している。

 この津田氏の本は読んでないが、▼小野田が島民を蔑視し、物資を略奪、殺傷していたが、その中には正当化できない殺人があった。▼小野田は戦争終結を早い時期に知っており、残置任務など存在しない。▼密林を出なかったのは、頑固な性格に加え「現地人の復讐」を恐れたことが原因、出ていくには自分が無罪になる確証が必要だった、と津田氏は主張している。

 武装解除された後、マルコス大統領は小野田を「立派な軍人」と評し、帰還した際に「英雄」と称えられた 。一方で、帰国に際し「天皇陛下万歳」と叫んだことなどに対し、一部のマスコミは「軍国主義の亡霊」などとバッシングした。小野田を描いたこの映画は、カンヌで熱烈なスタンディングオベーションで迎えられた。戦争の愚かさと残虐さと、信念を持つ者の人間ドラマの側面が評価されているというが、映画はどこまで真相に迫まれたのだろうか、疑問は残る。

2021年10月12日 (火)

映画「MINAMATA -ミナマター」

 2021年10月7日(木)、映画『MINAMATA -ミナマター』 を観る。

 
 水俣病は、日本における「四大公害病」のひとつ。チッソ水俣工場(熊本県水俣市)による工業排水を原因とし、現在まで補償や救済をめ ぐる問題が続く。その存在を世界に知らしめた写真家ユージン・スミス(1918 - 1978) と妻のアイリーン・美緒子・スミス(1950 ー)が、 1975 年に発表した写真集『MINAMATA』。彼の遺作ともなったこの写真集を基に、映画化が実現。2021年9月23日 公開された。
 
 「四大公害病」は、高度成長期に発生した負の遺産、イタイイタイ病 (カドミウム)、水俣病(メチル水銀)、四日市ぜんそく(亜硫酸ガス)、新潟水俣病(第二水俣病)を指す。
  
 映画『MINAMATA -ミナマター』のポスター。

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 アメリカの写真家W・ユージン・スミスは、『ライフ』誌に掲載されるなど報道写真家として過去には功績を評価されながらも、酒に溺れ、すさんだ生活を過ごしていた。ユージンのCM撮影に同行して来た魅力的な日本人翻訳者のアイリーンから、水俣を訪れて水俣病を撮影し記録するよう促される。

 ユージンは、年の離れた妻となったアイリーンとともに水銀中毒と水俣病による沿岸地域の被害を記録するために、水俣を訪れた。1971年から1974年の3年間現地で暮らし、ミノルタSR-T101のカメラを持って水俣病におかされた患者たちや家族の日常、チッソに対する抗議運動、補償を求め活動する様子を何百枚もの写真に収めていく日々がドラマチックに描かれる。そしてスミスは現地で厳しい報復を受けることになるが、真実を写真で捉えることに没頭していく中で、1枚の傑作が世界を呼び覚ます。

 主人公のユージンは、映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズで海賊役のジョニー・デップ、妻のアイリーンは女優・モデルの美波が演じる。共演はビル・ナイ(ライフ誌の編集長)、真田広之(被害者救済運動のリーダー)、國村隼(チッソの社長)、加瀬亮(自身が水俣病、震える手を押さえながら撮影するカメラマン)、浅野忠信と岩瀬晶子(胎児性水俣病の長女の両親)など。音楽を手掛け たのは坂本龍一。

 ジョニー・デップ 美波 以下、8枚の写真は映画『MINAMATA』のパンフより転載

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 ビル・ナイ 真田広之 國村隼

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 加瀬亮 浅野忠信 岩瀬晶子

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 登場人物は、実在の患者らがモデルになっている。アンドリュー・レビタス監督らは2018年9月に水俣を訪れ、胎児性患者らに会って制作の意向を伝えた。主な撮影は何故かセルビア、モンテネグロで行われたという。

 映画のエンドロールでは、各国で同じ環境被害に多くに人々が苦しむ「人為的な事件」の数々を紹介する。インドネシアの金採掘による水銀汚染、チェルノブイリ原発事故、サリドマイド薬害、ハンガリーのアルミナ工場の有害廃棄物流、アメリカの坦懐原油流出、福島の原発事故、ブラジルの尾鉱ダム決壊・・・・などなど。

 ★ ★ ★

 ユージン・スミスが水俣で取材していた時期からもう50年、半世紀が経つ。この機会に、当時の社会状況を思い出す。漁協が操業停止や排出の停止を訴えて抗議、工場に乱入するが、垂れ流しは続く。企業城下町で大多数の市民が、チッソで生活の糧を得ている。会社に抗議するのは難しい。周囲の水俣病に対する偏見や差別もある。

 多くの患者やその家族はわずかな見舞金と引き換えに、泣き寝入りを強いられた。そして補償金や救済を要求して抗議や団体交渉、一株株主運動、裁判に訴える人々などと、市民は分断される。一方、国はいかに無策であったか、企業を指導できなかったのか。遅まきながら1971年7月、国は縦割り行政を廃して環境庁を発足させた。フクシマもしかり。企業、政府、社会が、弱者である被害者らにどう手を差し伸べるか、寄り添えるか、国の民主主義が問われる。

■ユージンとユージンをめぐる人々

 ユージンは、1918年米国カンザス洲生れ。子どもの頃、母親からカメラを与えられ写真に熱中する。写真に関する奨学金を獲得、ノートルダム大学に入学するが18歳のときに退学、ニューヨークへ。1937年9月、週刊誌『ニューズウィーク』の仕事を始めた。第2次世界大戦には写真家として従軍し、サイパン、沖縄、硫黄島などへ派遣されて戦場の生々しい写真を撮影、雑誌『ライフ』などに写真を提供。

 沖縄戦では重症を負い、生涯その後遺症に悩んだ。戦後も『ライフ』の仕事を続けるが、1954年編集部と対立して決裂。ユージンは1959年に「世界の十大写真家」の一人の選ばれ、水俣に来る前から有名な写真家だった。

 アイリーンは、米国人の父親と日本人の母親を持ち、スタンフォード大学で学ぶ。1970年の20歳の時に、ニューヨークで通訳者として富士フイルムのコマーシャル制作の仕事に携わり、ユージン(当時51歳)と出会った。史実では、彼らが出会ってわずか1週間後、ユージンがアイリーンに自分のアシスタントになり、ニューヨークで同居するよう頼んだという。アイリーンは承諾。そのまま大学を中退し、カリフォルニアには戻らずユージンと暮らしはじめた。

 二人は、翌1971年8月16日にユージンの写真展『真実こそわが友』開催のため来日すると、8月28日に婚姻届けを提出。結婚後すぐの9月から熊本県水俣市に移り住み、1974年10月まで3年間ほどの期間、水俣病とその患者、家族たちを撮影し続けた。水俣の撮影を提案したのはアイリーンではなく、実際はユージンと親交のあった元村和彦氏(1933 - 2014)。写真集の出版を手がけた写真編集者で、出版社「邑元舎」を主宰。1970年秋に渡米し、ニューヨークでユージンらに来日して取材を提案したという。

 水俣病におかされた患者たちや家族の日常、原因企業チッソと闘う彼らの姿を写した写真集『MINAMATA』を1975年、ユージン夫妻はアメリカで出版(日本では1980年出版)。水俣病を世界に知らしめたユージンは、フォトジャーナリズムの象徴となる。しかしユージンは、アイリーンと離婚まもない1978年、2度目の脳溢血の発作を起こしそのまま亡くなった。享年59歳。

 石川武志氏(1950 ー )は、写真学校を卒業したばかりの1971年、東京・原宿で来日中のユージンと偶然出会い、アシスタントとなり、水俣に同行して自身も水俣病に苦しむ人々を撮影した。1975年に渡米し、ユージンのアパートに住みながら、写真集『MINAMATA』の出版などにも立ち会った。2012年、自身の『MINAMATA-NOTE 私とユージン・スミスと水俣』(千倉書房)を出版した。ユージンの水俣病の写真は、苦しむ患者の顔や姿をとらえて被害を訴えるのではなく、病を背負いながら暮らす姿を寄り添うようにして収めた、と石川氏は回想する。

 地元で撮影を続けていた写真家の塩田武史氏(1945~2014)は、水俣にやってきたユージン夫妻を水俣病第1次訴訟(1969~73年)の原告たちの家へ案内した。塩田氏は1967年、胎児性患者の存在を知り、大学卒業後の1970年に水俣市に移住して患者家族の撮影を続けていた。ユージンらが患者家族から借りて住んでいた家も近かった。ユージンとアイリーンは塩田氏の案内で、精力的に患者を撮影した。写真集『僕が写した愛しい水俣』(岩波書店)や『水俣な人 水俣病を支援した人びとの軌跡』(未来社)を出している。

 川本輝夫氏(1931 - 1999)は、水俣病の患者の救済運動「チッソ水俣病患者連盟」の委員長、水俣市議会議員(3期)を務めた。土木、炭鉱労働者、とび職、新日本窒素肥料の臨時労働者などを遍歴。1965年にチッソの工場で働いていた父が死亡。1969年水俣病認定促進の会を結成、以後、未認定患者救済の闘争の先頭に立つ。1971年に自らも熊本県より患者に認定され、同年11月より補償をめぐって、チッソと自主交渉に入る。映画で真田広之が演じる患者運動体のリーダーは、川本氏らをモデルにしてその闘争を描いている。

 アイリーンは水俣以降、環境活動家として市民運動に関わる。1983年、コロンビア大学で環境科学の修士号取得。1991年、NGO「グリーン・アクション」を設立し代表。1994年、「アイリーン・アーカイブ」設立。京都を拠点に約30年間にわたり、反原発を訴え続けている。水俣病の公式確認から65年。患者認定をめぐる訴訟は今も続き、多くの被害者は救済されず、水俣病問題はまだ解決していない。そしてミナマタは、フクシマにも続いているのだ。

 ユージン・スミスと妻のアイリーン(1974年)  出典:ウキメディア・コモンズ

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■写真は魂を奪う

 ユージンは、映画の中でアイリーンに次のように語る。「昔、アメリカ先住民は写真を撮られると、魂を奪わると忌み嫌った。しかし写真は撮る者の魂の一部を奪う。だから覚悟をもって撮れ」。実際、ユージンの母方の祖母は、インディアンの血筋もひく。ユージンを尊敬し、演じるジョニー・デップも先住民の血を引いているという。

 一方映画で、「写真を撮っても良いか」と患者に撮影許可を求めるが、拒否されて不満な顔をするユージンに、アイリーンは「共感してよ!」と患者の心に寄り添うことを訴える。やがて、水俣病と日本に身を投げ出す外国人に、患者や家族たちは心を開いてゆく。厳しい現実をアートに変えたユージンの作品は、後日、アイリーンの作品とともに写真集として出版され、今もなお人々に真実を伝えている。

■「入浴する智子と母」

 本映画のハイライトは、ユージンが撮影した「ピエタ像」のような世界に発信する母娘の写真を撮影するところにある。「ピエタ像」とは、死んで十字架から降ろされたキリストを抱く聖母マリアの彫刻や絵の事を指す。ユージンの作品「入浴する智子と母(Tomoko and Mother in the Bath)」は、その構図から「ピエタ像」を思わせるものとして、世界中の人々の心を揺さぶり、高い評価を受けている。

 ミケランジェロ作の『サン・ピエトロのピエタ』 出典:ウキメディア・コモンズ

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 『サン・ピエトロのピエタ』像は、ミケランジェロの彫刻の中でも『ダビデ像』と並ぶ最高傑作。

 被写体の娘の本名は「上村智子」ではなく、映画では「マツムラアキコ」となっている。胎児性水俣病患者である智子を抱いて母が、一緒にお風呂に入っている写真「入浴する智子と母」は、写真家ユージン・スミスの代表的な作品。この写真はユージンが水俣を訪れた最初の年、1971年12月に撮影された。映画では実際にユージンが撮影した写真でなく、女優の岩瀬晶子と娘役の入浴シーンが撮影された。ただ、映画ではその映像とユージンの実際の作品とが一瞬、二重写しされたのに気がついた。

 ユージンの代表作となった写真「入浴する智子と母」は、智子が21歳で亡くなった後も脚光を浴び続けた。1996年9月、東京・品川で大規模な水俣展が開催された。入浴する母子像を載せた大きなポスターが品川駅から会場までの至るところに貼られ、チラシやチケットにも使われた。雨が降っていて、濡れたポスターが剥げ落ち、ポスターやチラシが歩行者に踏みつけられたという。上村夫妻は、この光景に心を痛めた。

 1997年7月、フランスのテレビ局から番組で使うため、水俣病の悲惨さを象徴するこの1枚を提供してほしいという依頼が上村夫妻にあった。しかし、夫妻は「公害を世界に伝える」というそれまでの意思とは変わり、写真の使用とインタビューのいずれも断った。「亡き智子をゆっくりと休ませてあげたい」というのが、夫妻の本音だった。

 それから2年近く後の1998年6月にアイリーンは上村夫妻と話し合い、母子像写真の新たな展示や出版を行わないことを約束した。このようないきさつで現在、水俣病の象徴となった「入浴する智子と母」は封印されているままである。このブログにもこの写真が掲載できなくて、残念。

■史実と脚色

 2021年6月に地元有志の実行委員会が、本映画の先行上映会の後援を水俣市に依頼した。市は、映画が史実に即しているかや、被害者への差別や偏見の解消に貢献するかが不明、水俣病を忘れたいと考えている市民もいる、などの理由で後援を拒否した。一方で熊本県は「世界的に発信されることに意義がある」として上映会の後援を承諾している。

 9月18日に水俣市で先行上映が行われた。2回の上映で市民や胎児性患者などのおよそ1000人が鑑賞。会場ではジョニー・デップのビデオメッセージも紹介され、アイリーンは上映後の舞台挨拶に立ち、劇中でチッソ社長がユージンにネガの買収を持ち掛けたり、仕事小屋が放火される脚色について、「史実と違う部分はあるにしても、著名な役者が演じた映画を通して、水俣病の根底にある問題を広く世界に知って貰うことの意義は大きい」と語った。

■ユージンの取材前から原因と水銀と判明

 1950年代から水俣湾周辺の漁村地区などで、奇妙な病気が数多く報告されていた。1956年、中毒性中枢神経系の病気「水俣病」が公式確認。原因究明の研究も行われ、1959年には熊本大学水俣病研究班が水俣病の原因は有機水銀であると発表。1960年に入るとさらに、チッソの工場から排出された水銀が原因であるという論文がいくつも発表された。1968年には厚生省は、水俣病を公害病と認定、「チッソ水俣工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀化合物が原因」と発表した。

 映画の中では、ユージンとアイリーンらがチッソの附属病院に侵入して、水俣病の原因が水銀であることを会社が知っていて隠していた、という事実が判明する。探偵映画じゃあるまいし、演出として違和感ある。

■チッソ株式会社は現在、補償を専業

 チッソは明治後期に創業し、第二次世界大戦をはさみ発展した日本の化学工業メーカー。1932年からチッソ水俣工場が触媒として使用した無機水銀の副生成物であるメチル水銀を含んだ廃液を海に無処理で排出していたため、水俣市を中心とした八代海沿岸地域で発生した水俣病の原因を作った。

 1975年3月、水俣病患者と遺族らが、チッソ関係者を殺人罪、傷害罪で熊本県警に告訴した。1976年5月、熊本地検は元社長の吉岡喜一氏と水俣工場長の西田栄一氏を業務上過失致死傷で起訴した。1979年3月、熊本地裁は吉岡氏と西田氏に禁固2年、執行猶予3年の有罪判決を下し、1988年3月の最高裁上告審で有罪が確定した

 1960年代からチッソは経営状態が悪化した上に、水俣病裁判での敗訴後は被害者への賠償金支払い、第一次オイルショックなどにより経営がさらに悪化、1978年に上場を廃止した。同社は現在では実質上、国の管理下にあり、現在は水俣病の補償業務を専業とする。なお、水俣工場は現在も操業を継続している。

 チッソ株式会社のロゴ 出典:ウキメディア・コモンズ

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■チッソからユージンが暴行を受けた

 映画では、ユージンがチッソ工場と抗議者との間で起こった混乱に巻き込まれ、暴行を受けて大けがを受けるシーンがあった。この事件は実際にユージンが被害を受けたものだが、時期や場所は全く異なっていて映画の演出として大幅変更されている。実際にユージンが暴行を受けたのは、1972年1月7日。場所は、千葉県市原市にあるチッソ五井工場を訪問した際に起こった。

 チッソ五井工場に水俣市からの患者を含む交渉団と新聞記者たち約20名に訪れたが、ここで従業員約200名から強制排除を受けた。ユージンはこの「五井事件」の暴行で、実際に脊髄骨折と片目失明という重傷を負った。暴行を受けた後に「入浴する智子と母」を撮影したのは、映画の演出。この時の傷がもとで後遺症を患い、いくつもの医療機関で治療するも完治せず、晩年は神経障害と視力低下にも悩まされ、結果的に死期を早めたと思われる。

●雅子皇后の母方の祖父・江頭豊はチッソ社長

 江頭豊氏は東京府出身で、父は海軍中将の江頭安太郎氏。1933年東京帝国大学法科を卒業後、日本興業銀行へ入行。興業銀行をメインバンクとし、水俣病問題と労働争議による経営不振に陥っていた新日本窒素肥料の立て直しのため、中山素平頭取の意向で1962年、同社の専務取締役として派遣された。

 1964年12月、社長に就任。1965年1月、同社は「チッソ」に社名変更。1970年11月と1971年5月に開かれたチッソ定時株主総会は、一株株主運動との対決で大混乱となった。江頭社長は混乱の責任を取り、1971年7月の取締役会で社長を退任するが、会長に就任して経営にかかわった。後任の社長は、島田賢一氏(1971年7月~1977年6月)。1973年5月、江頭氏は会長を退任、相談役に就任。2006年9月、98歳で死去。

 江頭氏の前任の吉岡社長は、刑事追訴され水俣病の業務上過失致死傷 で有罪となった。江頭氏は外部から派遣され、水俣病の原因を作った社長ではない。しかし社長・会長の時代、水俣病被害者や家族への対応はどうだったのか。ユージンらが、水俣に滞在していた時期と重なる。江頭氏の孫・小和田雅子さんには、当然ながら責任はない。しかし祖父にチッソ社長の経歴があったことが、宮内庁から慎重論が出て皇太子妃候補から一時外された、という話もあった。1993年6月、結婚の儀が執り行われ、雅子さまは皇太子妃となった。

2019年12月17日 (火)

映画「決算!忠臣蔵」

 2019年12月11日(水)、映画『決算!忠臣蔵』 を観る。

 
 東京大学史料編纂所教授・山本博文の著書『「忠臣蔵」の決算書』 は、2012年11月16日に新潮新書として刊行された。
 
 2019年11月22日 、『決算!忠臣蔵』のタイトルで劇場公開。年の瀬の国民的ドラマ「忠臣蔵」を題材に、限られた予算の中で仇討を果たそうとする赤穂浪士たちの奮闘を描いた時代劇コメディ。中村義洋監督、主演は堤真一と岡村隆史。
 
 映画『決算!忠臣蔵』のポスター。

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 時は元禄14年(1701年)3月14日。清廉・潔白な播州赤穂藩主・浅野内匠頭(阿部サダヲ)は、かねてから賄賂まみれで横柄な高家筆頭の吉良上野介の態度に据えかね、江戸城・松之廊下で斬りかかる。通常であれば喧嘩両成敗となるはずが、吉良にはお咎めなし。即日、浅野家お取り潰しと内匠頭の切腹が決まり、突然にも赤穂藩士たちは路頭に迷うこととなる。今で言えば、優良企業の倒産事件。威勢のいい者たちは、裏方の地味な仕事を軽んじるが、実際の仕事には役に立たず右往左往する。
 
 筆頭家老・大石内蔵助(堤真一) は、勘定方・矢頭長助(岡村隆史) の地道な力を借りて、財源の確保と残務整理に努める。やがて幕府への取次も虚しく、お家再興の思いは絶たれてしまう。浪人となった赤穂藩士の一部や、江戸庶民たちは、吉良への仇討ちを熱望する。しかし、討入りするにも多額の予算が必要。しかも討ち入りのチャンスは、1回だけだ。

 勘定方は、軍資金およそ800両(現代に換算して9,500万円)を溜め込んでいた。討入りか、討入らないのか、迷っているうちに予算はどんどん減っていく。果たして赤穂の浪士たちは「予算内」で、「仇討ち」という大プロジェクトを無事に「決算」することができるのだろうか。
 
 
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 元禄時代の「赤穂事件」を題材とした人形浄瑠璃(文楽)や歌舞伎を始め、近代・現代でも講談、浪曲、演劇、映画、テレビドラマ、小説など、色々な解釈や視点、脚色を入れた多くの「忠臣蔵」が創られてきた。しかし、本作品のように「予算」をテーマにして描いたものは、かつてなかったと思う。

 原作は、小説ではなく「元禄赤穂事件」の一級史料を読み解いた『「忠臣蔵」の決算書』。実際に大石内蔵助が残した決算書を基に、「討ち入り」のための金の動きと人の動きを解説したものだが、映画はそれをコメディとしてドラマ化した。
 
 原作の山本博文著『「忠臣蔵」の決算書』の表紙。(映画鑑賞の同日購入)

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 中村義洋監督が時代劇を撮るのは、『殿、利息でござる!』(2016年)、『忍びの国』(2017年)に続き今回で3作目、コメディ時代劇に定評があるという。出演は、堤真一、岡村隆史、阿部サダヲのほか、濱田岳、横山裕、妻夫木聡、荒川良々、竹内結子、石原さとみ、西川きよし、大地康雄、木村祐一、西村まさ彦、橋本良亮、寺脇康文、上島竜兵、堀部圭亮、山口良一、鈴木福、千葉雄大、滝藤賢一、笹野高史と豪華キャスト。

 最近の松竹の時代劇映画は、『武士の家計簿』(2010年)、『武士の献立』(2013年)、 『超高速!参勤交代』(2014年)、 『殿!利息でござる』(2016年)、 『引っ越し大名!』(2019年)など、史料データを基にした作品が出てきて面白い。

 新潮新書『「忠臣蔵」の」決算書』の帯。

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 映画のエンディングロールで、企画・配給は「松竹」だが制作幹事として「松竹」と「吉本興業」の名前が並んで出て来る。なるほど、吉本興業の芸人が何人かが出演している。 

 コメディで、ボケ・つっこみの漫才調だ。 台詞は、すべて現代語の関西弁というか大阪弁。内蔵助の奥方・りく(竹内結子)は良いとしても、 江戸詰め赤穂の侍も、そして江戸から出たことのないはずの浅野内匠頭の正室・瑶泉院(石原さとみ)も関西弁なのはおかしい。赤穂といえば兵庫県の西部、関西には違いないが、この地域には播州弁というのがあるらしいが・・・。

 討ち入りのイメージのシーンは出てくるが、実際の討ち入りの場面がない忠臣蔵。しかも松の廊下も浅野内匠頭だけで、吉良上野介はスクリーンには出てこない。

 城の明け渡しに「籠城だ!」、主君の仇に「討ち入りだ!」と声高に叫び、戦う事しか脳がない「番方」(武官系)たち。それでいて元禄の時代、彼らは実戦経験などはない。ふだんは彼らから下に見られている「役方」(文官系)の勘定方(財務担当)が言い返す。
 
 「銭の勘定できん侍は、何をさしても”でくの坊”」

 勘定方の矢頭長助の息子は、矢頭右衛門七(えもしち、朝ドラ「なつぞら」の鈴鹿央士)。討ち入りした中で、大石内蔵助の息子・主税(ちから、子役で有名な鈴木福)の次に若い。父親が亡くなった後、母妹の世話に苦難したことで知られる。右衛門七は、主税と仲が良い。父親同士の長助と内蔵助は、同年齢で幼なじみという設定。二人の身分や石高は、月とすっぽん。しかし幼なじみのせいか、長助は家老の内蔵助にズケズケものを言う。

 矢頭長助は史実でも、赤穂城の明け渡し後も大石内蔵助のもとで藩政の残務処理にあたった。残務処理が終わった後、矢頭一家は大坂の堂島へ移ったが、この頃から父は病に冒され寝たきりになった。その後は17歳の右衛門七が、父親の代理として同志グループに加わる。長助は元禄15年(1702年)8月、討ち入りを待たずに病気で亡くなっている。しかし映画では、討ち入りに反対する浅野家親戚筋の刺客に、内蔵助と間違われて駕籠の中で殺されてしまう。

 昔から日本人は「滅びの美学」、「忍耐のドラマ」、「アンハッピー・エンド」が好きだ。日本人のDNAなのか、そんなドラマに心に響き、共感を得る。「源義経」、「楠木正成」、「赤穂浪士」、「真田幸村」、「白虎隊」・・・。外国人には、理解しにくいストーリーだ。 しかしイギリスには、「フランダースの犬」という悲しい物語がある。
 
 吉良邸討ち入りを明日未明に控えた日(元禄15年12月14日)、大石内蔵助は降りしきる雪の中、赤坂の南部坂上にある亡き主君の正室・瑶泉院が居る三次浅野家邸を訪れる。「討ち入りの日時の定まりしことか?」と問われて答えず、瑶泉院を怒らせてしまう。この「南部坂雪の別れ」の場面は、創作だ。

 実際は、内蔵助は討ち入り費用の使途明細帳である11月29日締めの『預置候金銀請払帳(あずけおきそうろうきんぎんうけはらいちょう)』 と手形(領収書)を12月14日に使いの者が届けているが、その宛名は用人の落合与左衛門殿となっていてる。

 また内蔵助が討ち入りのため、立花左近(または垣見五郎兵衛)になりすまして江戸に下る「大石東下り」の場面も、創作だそうだ。これらの場面は、この映画『決算!忠臣蔵』には出て来ない。



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 史料『預置候金銀請払帳』 (箱根神社所蔵)の表紙。映画『決算!忠臣蔵』のパンフレットから転載。
 
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     元禄十五年 
   預置候金銀請払帳 
        大石内蔵助
     午 十一月

 討ち入り費用総額は、映画では800両、現代の価値に換算して9,500万円。しかし新書『「忠臣蔵」の決算書』では700両、(約8,400万円)とある。映画が100両多いが、何故だろうか。映画では大石が討ち入りの前、瑶泉院のもとに決算書を持って行くが、お目通りはかなわず、用人の落合与左衛門にこの決算書を渡す。しかし内蔵助が帰った後、決算書の入っていた小箱の中から100両の現金が出て来る。それは浪士の子供たちの助命嘆願のための資金という「落ち」だ。瑶泉院の働きもあって、島流しとなった子供たちは、わずか3年で帰宅が許されたという。

 新潮新書『「忠臣蔵」の」決算書』によると、預り金(収入)総額は金貨に換算して691両。支出総額は、697両1分2朱。不足分約7両1分は、内蔵助が私費で支払いをしたと書かれている。江戸時代の貨幣制度は、金(小判=一両、一分金、二朱金)、銀(丁銀、豆板銀)、および銭(寛永通宝の銅貨)という基本通貨が流通した。それらの換算がややこしくて、現代人にはピンと来ない。

 金貨、銀貨と銭貨の間には両替商により、互いに変動相場で取引された。ほかに藩札などの紙幣も地方で流通していたが、全国で通用しなかった。金貨の通貨単位は両、小判1両=4分=16朱。重さ不定の丁銀と豆板銀は、天秤で目方を定めて通用する通貨で、通貨単位は重さの単位である貫(かん)、匁(もんめ)および分(ふん)が用いられたが、500匁毎に和紙で包んだ包銀として用いられることが多かったそうだ。

 銀1貫は銀1000匁、銀1匁は銀10分。金貨と銀貨の換算率は日々変動していたが、元禄時代のこの請払帳では、1両=銀56匁としている。銭は、百文として麻紐に通した96文=銀15匁。
 
 決算書に書かれているの入金(軍資金)の内訳は、複雑なので省略するが、大まかには次の2つである。

 ①化粧料・・・ 瑶泉院の嫁入りの時の持参金(化粧料)を赤穂の塩問屋に貸し付けていたが、お家取り潰しのため元金を引き上げ、瑶泉院に返金した残りを拝領した。
 ②藩の余り金・・・ 藩の財産をすべて処分し、藩士への割賦金(退職金)を払った残り。
  
 一方、支出の内訳(金に換算)は、割合の高い順に並べると次の通り。

 ①旅費・江戸逗留費・・・・・ 248両(35.6%)
  上方~江戸の宿泊費他の旅費総額は、1人片道3両(30万円)ほど。
 ②生活補助費・・・・・・・・・・ 132両1分(19.0%)
  生活に困窮した同志たち(主に下級武士)への生活補助費。 
 ③仏事費・・・・・・・・・・・・・・ 127両3分(18.4%)
  京都瑞光に内匠頭の墓を建立し山を寄付した100両の他、法事費用。 
 ④江戸屋敷の購入費・・・・・・ 70両(10.1%)
  同志の宿舎(アジト)にするため古屋敷を購入、後に火事で焼失。
 ⑤御家再興の工作費・・・・・・ 65両1分( 9.4%)
 ⑥討入り装備費・・・・・・・・・・・ 12両( 1.7%)
 ⑦会議通信費・・・・・・・・・・・・・ 11両( 1.6%)
 ⑧その他・・・・・・・・・・・・・・・・・ 31両1分2朱( 4.2%)

 旅費・滞在費と生活費補助の①と②を合わせ、50%を超える。米価換算で1両は、現代で約12万円。支出総額は8,400万円ほどになる。
 
 映画では赤穂の火事装束が、ある場所に保管されていて人数分の討ち入り装束の購入経費が助かったとある。忠臣蔵の討ち入り時の火事装束は、歌舞伎の世界で創作されたものだそうだ。実際は、黒い小袖を着用し、股引・脚絆・草鞋(わらじ)という出で立ちとする申し合わせだったようだ。装束は赤穂浪士のそれぞれ個人によって異なっていたが、全体的には薄黒い色で、火事装束に似ていたものだったらしい。
 
 先立つお金がなければ、忠義だけでは討ち入りは達成できなかった。『決算!忠臣蔵』では、コメディとはいえ内蔵助や勘定方が、いかにお金に苦労したかがよくわかる映画だった。

2019年11月20日 (水)

映画「一粒の麦 荻野吟子の生涯」

 2019年11月18日(月)、映画『一粒の麦 荻野吟子の生涯』を観る。

 

 明治時代、近代日本で初めての女性医師・荻野吟子の苦悩と愛、闘いの生涯を描いた伝記映画。主演は若村麻由美、共演に山本耕史。ほかに賀来千香子、佐野史郎、柄本明らが出演。メガホンをとったのは、『石井のおとうさんありがとう 岡山孤児院石井十次の生涯』、『筆子・その愛 天使のピアノ』、『母 小林多喜二の母の物語』など、87歳の山田火砂子(ひさこ)監督。「現代ぷろだくしょん」制作。劇場公開は、2019年10月26日から。

 株式会社「現代ぷろだくしょん」は、俳優集団からスタートした独立系の映画製作会社。五社協定がなくなった後も独自の製作・配給活動を続けてきた小規模の映画会社。社会派の作品が多い。山田典吾(てんご)が1951年に創設し、代表取締役、監督。舞台女優だった妻の火砂子は、映画プロデューサ、監督、山田典吾の没後、代表取締役を兼任。

 「一粒の麦」とは、新約聖書「ヨハネ伝」第12章で、地に落ちることによって数多(あまた)の実を結ぶと説いたキリストの言葉から、人を幸福にするためにみずからを犠牲にする人、またその行為をいう。

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 1851年(嘉永4年)、武蔵国幡羅郡俵瀬村(はらぐんたわらせむら、現在の埼玉県熊谷市俵瀬)の名主の五女として生まれた荻野吟子は、幼いころから聡明で、勉強好きだった。しかし、女に学問はいらないと隣村(上川上村)の名主・稲村家の長男・貫一郎と17歳(1868年、慶応3年)で結婚。そこで夫から性病(淋病)をうつされると、今度は子どもの産めない嫁はいらないと実家に帰されてしまう。

 地元の医師の紹介で、大学東校(後の東京大学医学部)の付属病院に入院。生死をさまようほどの病状だった。入院中、この無情な現実に泣いた吟子は、女医の必要性を痛感し、自分自身が女医となる決意をする。 19歳(明治3年)で離婚、故郷に戻って本格的に学問を始める。

 儒学者・寺門静軒が妻沼村(熊谷市妻沼)に開塾した「両宜塾」を継承した松本萬年に師事、22歳で上京して国学者・井上頼圀の私塾「神習舎」に入る。その翌年には女性私塾の助教として甲府に赴くが、休校となり東京に戻る。明治7年(24歳)、女性の教育養成を目的とした「女子高等師範学校」(後の「東京女子師範学校」、「お茶の水女子大」の前身)に一期生として入学。明治12年(28歳)同校を首席で卒業、女医を目指すため医学校への入学を希望した。

 医学校は、当時は女人禁制とされ断られたが、男装して私立医学校「好寿院」で医術を学ぶ。男子学生の女性差別やいじめに耐え、31歳で優秀な成績で卒業する。医術開業試験の願書を幾度となく提出するも、女医は前例がないとことごとく却下される。決して諦めずに支援者の協力を得て、内務省衛生局長・長与専斎を紹介され面会。日本の古代にも女医がいた文献があることを資料にし、紹介状に添えたともいう。ようやく、女性の受験が認められた。

 明治18年(1885)34歳の時、医術開業試験に合格、女性として初めて医籍に登録された。同年、東京本郷で「荻野医院」を開業。この頃、キリスト教婦人矯風会に参加する。婦人参政権、廃娼運動など女性解放のための運動に熱心に取り組んだ。

 明治23年(1890)、同志社の学生で新島襄から洗礼を受けた13歳年下の敬虔なキリスト教徒・志方之善(しかたよしゆき)と、周囲の反対を押し切り再婚する。明治24年(1891)、岐阜県の濃尾大地震では、娼婦として売られる女子の孤児たちを保護するために立ち上がった石井亮一(日本の知的障害児福祉の創始者、石井筆子の夫)に賛同し、「荻野医院」を子供たちのために開放、自らも孤児たちの世話を行った。

 写真は、映画『一粒の麦』のパンフから転載。

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 志方は、理想郷インマヌエル(北海道今金町)開拓のため吟子を残し、単身で北海道に渡る。明治27年(1894)、吟子は医院を閉めて志方のいる未開地インマヌエルに入植して同居、夫とともにキリスト教の理想郷を目指す。この頃、夫の姉夫婦が乳児のトミを残して死去したため、吟子はトミを養女にする。

 しかし理想郷建設は、困難を極め様々な事情で撤退を余儀なくされた。吟子は瀬棚(函館市せたな町)で医院を開業するが、志方は同志社に再入学して神学を学び、北海道に戻って 浦河教会の牧師になるなど、吟子とは別居の生活が続いた。しかし明治38年、志方が41歳で病死する。この時、吟子54歳。

 吟子は、夫の死後しばらく北海道に留まっていたが、熊谷の9 つ年上の姉・友子のすすめで、明治41年57歳で帰京。東京・本所で再び医院を経営、友子と養女トミと晩年を過ごした。大正2年(1913年)、脳溢血で死去。友子やトミ、親戚に看取られて波乱多き一生を閉じた。62歳だった。葬儀は本郷教会で行われ、親戚・友人や吟子を尊敬する若き女医たちが見送った。墓は、東京・雑司ヶ谷霊園に建てられている。

 

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 「池袋周辺の史跡めぐり-その1」 2012年01月29日
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-e97a.html

 

 荻野吟子の肖像写真。ウィキメディア・コモンズから転載。

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●埼玉県の三偉人

 荻野吟子は、塙保己一、渋沢栄一とともに、埼玉ゆかりの三偉人として知られている。塙保己一(はなわほきいち、本庄市児玉町)は、江戸時代の国学者で、『群書類従』『続群書類従』を編纂した。全盲で鍼灸を習ったが不器用で実家に戻され、国文学の分野を学んだという。渋沢栄一(深谷市)は、日本資本主義の父と呼ばれ、多くの企業設立や教育に貢献。2021年に放送されるNHK大河ドラマ「青天を衝(つ)け」の主人公に、また新一万円券の肖像に決まった。

 

●小説・テレビ・舞台

 荻野吟子の生涯を題材にした渡辺淳一の小説『花埋み(はなうずみ)』が1970年に発表された。1971年に大空真弓主演のテレビドラマが制作され、ポーラ名作劇場(ANN系列)で放送された。山本陽子が1980年、舞台『花埋み』を主演。三田佳子が1998年、舞台『命燃えて』で主演した。

 その以前の1964年4月~1965年9月、NHK総合でオムニバスのテレビドラマ「風雪(ふうせつ)」が放送されたが、その第29話「女医記」が1964年10月29日、小山明子の主演で荻野吟子が取り上げられている。また、NHK歴史秘話ヒストリア「あなたを助けたい~女医第1号 荻野吟子の恋~」が 2013年11月20日放送された。

 

●山田火砂子監督

 最高齢の女性監督としても知られる山田火砂子監督は2007年(平成19年)、江戸末期から昭和初期にかけて女性教育や障害児教育に尽力した石井筆子を描いた映画『筆子 その愛-天使のピアノ』を制作する際、筆子と親交があった吟子の偉業に触れ、強く興味を持って荻野吟子の映画化構想を温めていたとのこと。本映画では、筆子の夫で知的障害教育の石井亮一や内務省衛生局長の長与専斎も描かれている。

 山田監督は、「荻野吟子が、みんなに反対された志方との恋がなかったら、女子医大の3つや4つ作っていただろう。でも志方がいなかったら、吟子の人生はあまりにもかわいそうな人生だったろう。」と語っている。また「世の女性に対して、女性としての生き方を考えるきっかけにしてもらいたい。荻野さんの志に触れて何か感じてもらえれば」と話している。

 吟子が、夫に病気をうつされず、離縁されずに幸せな結婚生活を送っていれば、女医1号の誕生はもっと後の時代になっていただろう。吟子が、東京で医療活動や社会運動を続けたなら、社会はもっと進んでいたかもしれないと思う。2 度も結婚した荻野吟子の生涯は、実に波瀾に満ちたものであった。

 

●女性医師

 江戸時代末期から明治にかけて、西洋医学を学んだ初めての女医(産科医)として、シーボルトの娘・楠本イネがいた。医術開業試験がなかった頃には、女性の医師がほかにも何人か開業していたそうだ。荻野吟子は初の国家資格を持つ女医である。彼女が医術開業試験に合格した頃、イネはすでに57歳。イネは受験を諦め、産婆として活躍したという。

 現在、6万7千人の女性医師がいるが、全医師で女子の割合はおよそ2割。先進国の中では、非常に少ない方だという。昨年、東京医科大学が女子受験生の入試結果を減点して、女子の合格者数を3割以下に抑えようとしていたことが、明らかになった。同大学では、2010年の一般入試合格者数で女子が約4割となったことから、女子受け入れの総量規制が始まったと言われている。現在でも、根深く女性差別の問題は残っている。

 日本女医会は、荻野吟子の偉業を称えて、1984年(昭和59年)に、「荻野吟子賞」を設置したという。
 

●順天堂医院

 夫から病気をうつされた吟子は、上京して診察を受け入院する。映画の中では、「順天堂医院」の看板が掛かった赤煉瓦の病院だった。「順天堂医院」に入院という資料もがあるが誤りで、正しくは「大学東校」(現在に東大医学部)だそうだ。「順天堂医院」が東京神田に開院したのは、1973年(明治6年)、湯島に移転したのが1875年(明治8年)。吟子が入院した時期とは合わない。

 

●文部科学省選定

 本映画は、「文部科学省」選定、「カトリック中央協議会広報」推薦とある。後援には、日本赤十字社、日本医師会、日本女医会、日本看護協会、キリスト教団体、労働団体、社会福祉団体、埼玉県熊谷市、群馬県千代田町、北海道せたな町などなど数多くの団体名が並ぶ。

 そうか、子供も見られるような映画に仕立ててあって、物語や台詞がどこか小中学校の学芸会的、いや舞台演劇のような感じがする。ストーリーがやや平板で、山場や感動シーンが無かったのが残念。しかし、荻野吟子の波瀾万丈の生涯を知るには、とても良かった。

2019年4月 9日 (火)

映画「ダンボ」

 2019年4月5日(金)、ディズニー映画「ダンボ」<2D吹き替え版>を観る。


 笑いものにされた“大きすぎる耳”が、翼になって子象「ダンボ」が空を飛ぶ。1941年製作のディズニー・アニメの古典的な名作映画『ダンボ』をティム・バートン監督のメガホンをとって実写とCGで映画化。母を助けるため大空を舞うダンボのファンタジー・アドベンチャー。そして、ダンボを取り巻く人間物語。2019年3月29日(金)より全国公開。上映時間112分。

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 舞台は、1919年のおんぼろサーカス団。団長のメディチ(ダニー・デヴィート、吹き替え: 浦山迅)が買った象の「ジャンボ」に、かわいい赤ちゃん象が誕生した。“大きすぎる耳”をもった子象は「ダンボ」と呼ばれ、ショーに出演すると観客から笑いものに。

 サーカス団の乗馬ショーで元看板スターだったホルト(コリン・ファレル、西島秀俊)は、第1次世界大戦で片腕を失って帰還し、ダンボの世話係を任された。ある日、コリンの子供ミリーとジョーが、悲しむダンボを元気づけるため遊んでいると、ダンボがその“大きな耳”で飛べることを発見する。
 
 “空を飛ぶ子象”の噂は瞬く間に広がる。ダンボを利用し金儲けをたくらむ大物興行師・ヴァンデバー(マイケル・キートン、井上和彦)は、メディチのさびれたサーカス団を彼の遊園地「ドリームランド」に吸収。そしてダンボは母親のジャンボと引き離されてしまう。母を想うダンボに心を動かされたホルトの家族とサーカス団の仲間たちは、ダンボの母を救い出す作戦をはじめる・・・。

 映画「ダンボ」のパンフの表紙

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 最初は耳(翼)をバタバタさせて飛び上がるが、そのうちに不器用ながらもなんとか飛翔する。しかし着地が難しい。次第に羽ばたいたり滑空したり、減速して着地したり出来るようになる。子象ながら、まるで雛鳥の巣立ちのようだ。

 サーカス団の空中ブランコの曲芸師・コレット(エヴァ・グリーン、沢城みゆき)がダンボに乗る。このスクリーンでダンボが飛ぶ躍動感は、まるで自分が目前で体感しているようだ。オリジナルのアニメのダンボの飛翔シーンを、今回は現代のVFX(視覚効果)を使ってメインの見せ場にしているという。それはダンボのコンプレックスから解放される自由と喜びを表現している。

 ニューヨークにあるという未来をテーマにした大規模な遊園地「ドリームランド」は、1930年代の建築をイメージして、実際にスケール感あふれるセットが作られたそうだ。どこか現代のテーマパーク「ディズニーランド」を想像してしまったが、実際はニューヨークのコニ―アイランドにある遊園地がモデルらしい。当時コニ―アイランドは、現在のラスベガスのような場所だったという。映画では、メディッチのサーカス団は家族的で温かく、ドリームランドは未来的だが冷たいというイメージで対比させてあるらしい。

 オリジナル映画では、ダンボはサーカスの花形スターとなって、母親と再会するという設定。しかし今回の映画の最後は、驚くような意外で壮大なラストシーン。こんな結末が待っていたとは・・・。

 挿入歌「ベイビー・マイン」(Baby Mine、私の赤ちゃん)は、オリジナルにもあるバラードの曲。日本版エンドソング「ベビーマイン」を歌うのは、聞いたことのある声だと思ったら、竹内まりやだった。

 映画のエンディングロールには、キャストのほか製作側のVFXスタッフの名前が延々と続く。いったい何人のスタッフが働いていたのだろうか。こういった映画の製作には、多くのVFXアーティストの人材が欠かせないようだ。
 

 オリジナルの『ダンボ』(原題:Dumbo)は、ウォルトディズニー製作のアニメーション映画作品(上映時間64分)。アメリカでは、欧州で第二次大戦が始まっていた1941(昭和16年)年10月に公開された。日本では『空飛ぶゾウ ダンボ』という題名で、戦後の1954年(昭和29年)3月に公開されている。

 1941年のアニメ映画(オリジナル予告編動画より)出典:ウィキメディア・コモンズ 

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 2018年のミュージカル・ファンタジー映画『メリー・ポピンズ リターンズ』(原題:Mary Poppins Returns、主演エミリー・ブラント)は、1964年のディズニー映画『メリー・ポピンズ』(主演:ジュリー・アンドリュース)の続編。日本では2019年2月1日に公開された。見たいと思っていたが、見逃してしまった。気がついた時は、次の映画「ジャンボ」が公開されていた。
 

 最近の映画はCGやVFXが多用され、現実ではあり得ないがリアリティのある映像を作り出すことができるようになった。

 SFX、CG、VFXについて述べる。

ーSFXは、特殊効果(Special Effects)を意味し、特殊撮影(特撮)とも呼ばれる。古くは〝活動写真”の時代から"トリック撮影”とも呼ばれた。フィルム、ビデオ映像に対して特殊な視覚効果を施す。

 SFXは、美術や舞台の"装置”によるものと、撮影技術や光学処理による"技術”に分けられる。具体的な"装置”は、ミニチュア・着ぐるみ・スーツアクター・特殊メイク・火薬・ワイヤーアクションなどが、具体的な"技術”には以下のようなものがある。

 ・バレットタイム(タイムスライス)撮影は、被写体の周りに複数台のカメラを並べて撮影する技法。
 ・ブルーバック撮影は、合成に用いる映像素材を撮影する際に、青い布などの背景を用いる技術。
 ・スクリーンプロセスは、半透明のスクリーンに裏側から映写し、これを背景としてスクリーンの前の演技を撮影する。

 1980年代以降は、CGなどで映像を後から加工する技術が生まれ、それらはSFXに対してVFXと呼ばれている。

-CGとはコンピュータグラフィックス(Computer Grphics)のことで、コンピュータ(デジタル)によって制作された映像のこと。アニメ映画やゲームなどに用いられる3D-CGアニメーションのことを特にCGと呼ぶことが多い。

-VFXは、視覚効果(Visual Effects)という意味。CG(コンピュータグラフィックス)または合成処理によって、違和感のないように実写映像を加工すること。撮影現場での効果を特殊効果(SFX)と呼ぶのに対し、撮影後の作業段階に付け加えられる効果をVFXと呼ぶ。

 映画業界ではSFXとVFXは別々のものとしてはっきりと区別するが、一般には混同されることが多いそうだ。

2018年12月 1日 (土)

映画「日日是好日」

 2018年11月20日(火)、映画『日日是好日(にちにちこれこうじつ)』を観る。

 茶道教室に通った約25年について書いた、森下典子のエッセイを映画化。2018年10月13日公開。

 母親の勧めで茶道教室へ通うことになった大学生が、茶道の奥深さに触れ、成長していく。監督は、大森立嗣。主人公の典子を黒木華、彼女と一緒に茶道を学ぶ従姉・美智子を多部未華子、茶道の武田先生を樹木希林が演じる。(映画『日日是好日』のポスターから転載。)

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 原作は、森下典子『日日是好日―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ』。飛鳥新社から2002年1月に単行本が出版。

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 やりたいことを見つけられずにいた大学生の典子(黒木華)は、ひょんなことから母親に茶道を勧められる。気が進まないまま、積極的な従姉の美智子(多部未華子)と一緒に、タダモノではないと噂の武田のおばさん(樹木希林)の茶道教室に通うことになる。

 以下3枚の写真は、映画『日日是好日』のパンフから転載。

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 意味も理由も分からない「お茶の世界」の決まりごとや、初めての作法に四苦八苦しながらも奮闘する。一生をかけられるような何かを見つけたいという典子は、見つけられないまま就職に失敗。そして失恋、父の死という悲しみのなかで、いつも不安で自分の居場所を探し続けた。

 大学卒業と同時に貿易会社に就職、二年後には会社もお茶も辞めて開業医と結婚、子供も授かって、どんどん前を進んでいく美智子を羨ましく思う。そして一人でお茶を続けて10年、お点前の正確さや知識で後輩にも抜かれて、不器用な典子は限界を感じて来る。

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 やがてその向こうに、見えてきた自由。通い続けた茶道教室は、「ここにいるだけで良い」という心の安息。いつしか雨が匂うこと、雨の一粒一粒が聴こえること、季節を五感で味わう歓びと感動を知る。お茶を習い始めて二十五年、気がつけば自分のそばに「お茶」があった。

 雨の日には雨を聴く。雪の日は雪を見る。夏には暑さを、冬には身の切れるような寒さを味わう。……どんな日もその日を思う存分味わう。修行は死ぬまで続く。道は終わることはない。頭で覚えたものは忘れやすいが、体で覚えたものは一生ものだ。

 失恋した時、美智子が結婚した時、父を亡くした時も、映画・原作では詳しく表現することもなく、淡々と日常が続く。大きな変化もなく、波瀾万丈やドラマティックでもない物語。お茶の所作、茶道具、茶碗、茶花、和菓子、掛け軸など、お茶を知らない人も知っている人も、その世界に引き込まれる。
 

 森下典子は、1956(昭和31)年横浜市生れ。日本女子大学文学部国文学科卒業。

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 大学時代からアルバイトの取材記者として活躍。筆者は、1978年から始まった「週刊朝日」連載の人気コラム「デキゴトロジー」を毎週笑いながら愛読した。京都の舞子さん修行の体験をまとめた『典奴(のりやっこ)どすえ』(角川書店)を、1987年に出版。女一人で中東へ往くタンカーに乗り込んだ『典奴ペルシャ湾を往く』(1988年、文芸春秋)のノンフィクションは、面白かった。

 ルポライター、エッセイストとして、数々の著書がある。しばらくその活躍ぶりを忘れていたが、茶道を続けていたとは知らなかった。『日日是好日』の映画の評判を聞き、森下典子のことを久しぶりに思い出した。

 森下典子が舞子さんの踊りを皆の前で披露した時、「踊る姿がウルトラマンかロボットが、指をピュッと出しているように感じて・・・」と、「デキゴトロジー」で一緒に仕事をした当時漫画家の夏目房之介が対談で語っている。映画では、武田先生から茶の作法で「手がごつく見えるわよ」と指摘され、典子が落ち込むところがある。どこか彼女の不器用さが、目に浮かぶ。

 今では表千家教授の資格を得て、茶道の魅力を伝える講演も行っているらしい。今回の映画製作では、お茶のシーンのアドバイスや指導をしたという。お父さんを亡くして、お母さんと二人暮らし、猫を飼っている。

 『日日是好日―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ』は、10年前の2008年11月に新潮文庫からも文庫版が発売された。今でもロングセラーを続けているという。

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 筆者は、映画を観る前日の11月19日この文庫版を購入、映画を観たしばらくした25日に頁をめくった。映画は、原作に忠実に制作してあって、映画のシーンを思い出しながら読了。全く茶の知識も経験の無い者にも、いくらかでも「茶の世界」のことがボンヤリ分かったような気がする。

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 ★ ★ ★

 この映画・原作の中には、お茶の先生と原作者の名言がいくつかある。

・世の中には、すぐわかるものと、すぐわからないものの二種類がある。‥‥すぐにわからないものは、長い時間をかけて、少しずつ気づいて、わかってくる。

・意味なんかわからなくていいの。お茶はまず形から。先に形を作っておいて、後から心が入るものなの。

・頭で考えないで、自分の手を信じなさい。

・苦手だった掛け軸は、文字を頭で読むのではない。絵のように眺めればいいんだ。

・柄杓を握る込む時の手が、ごつく見えるのよ。そろそろ工夫というものをしなさい。

・お湯の”とろとろ”という音と、”キラキラ”と流れる水音が分かるようになった。

・正月の「初釜」で先生が、「毎年同じことが出来る幸せ。」

・先生が本当に教えていることは、目に見えるお点前の外にある。

・「一期一会」は、千利休の言葉。何度も亭主と客が集って茶事を開いたとしても、一生に一度だと思ってやるという意味。利休が生きた信長・秀吉の時代、昨日元気だった友達が今日殺されたなんてことがいっぱいあって、この人に会うのも今日が最後になるかもしれないという切迫感がいつもあった。

 ・「日日是好日」は、禅語の一つ。「毎日毎日が素晴らしい日だ」という意味。そして、「毎日が良い日となるよう努めるべきだ」、または「日々の良し悪しを考えるのではなく、常にこの日が大切なのだ」とする解釈があるそうだ。典子は、「人間は、どんな日でも楽しむことが出来る」という意味だと気付く。

 

 森下典子『日日是好日―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ』の続編となる『好日日記―季節のように生きる』の単行本が、出版社・ パルコから2018年10月7日に発売されたようだ。

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 この映画の公開前の2018年9月15日、樹木希林は全身癌のため75歳没。2018年公開の映画では、沖田修一監督『モリのいる場所』、是枝裕和監督『万引き家族』(カンヌ国際映画祭最高賞受賞)、そして本作品『日日是好日』の3本に出演した。2019年公開予定の『エリカ38』が、彼女の遺作となる。

2018年6月28日 (木)

映画「空飛ぶタイヤ」

 2018年6月20日(金)、映画『空飛ぶタイヤ』を観る。
 

 『空飛ぶタイヤ』は、三菱自動車の「リコール(欠陥製品の回収・無償修理)隠し」事件をモデルとした池井戸潤のベストセラー小説。

 TOKIOの長瀬智也の主演で、12年前の小説を映画化。2018年6月15日に公開。池井戸にとっては、初の映画化作品。

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 小説は、『月刊J-novel』(実業之日本社)に2005年4月号から2006年9月号まで連載。実業之日本社より2006年9月に単行本、2008年8月に新書版が刊行された。第28回吉川英治文学新人賞、第136回直木賞候補作。

 2009年9月に講談社文庫版(上下巻、写真下)、2016年1月実業之日本社の文庫版が刊行。累計発行部数は、180万部。

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 2009年には、WOWOWの『ドラマW』でTVドラマ化されたという。

 なお池井戸潤は、2011年に『下町ロケット』で第145回直木賞を受賞している。

 配役は、「赤松運送」の社長・赤松:長瀬智也、専務:笹野高史、赤松の妻:深田恭子。「ホープ自動車」の狩野常務:岸田一徳、販売部の沢田課長:ディーン・フジオカ。「ホープ銀行」本店営業本部の井崎融資担当:高橋一生。週刊誌の榎本記者:小池栄子。神奈川県警の高幡刑事:寺脇康文、ほか豪華キャストが多数。

 

 ある日、トラックの事故により1人の主婦が亡くなった。事故を起こした運送会社の二代目社長・赤松徳郎(長瀬智也)が警察から聞かされたのは、走行中のトラックが緩いカーブにさしかかった時、突然タイヤが脱落して空を飛んで歩行者を直撃、即死させたという信じられない事実だった。事故原因を一方的に整備不良にされ、「容疑者」と決め付けられた赤松は、警察から執拗な追及を受ける。さらには会社も信用を失い、倒産寸前の状態に追い込まれてしまう。

 世間のバッシングを受け、次々と退職者が出る中、赤松はトラック製造元である「ホープ自動車」に再調査の要求を続ける。しかし、のらりくらりとした対応に苛立った赤松は、自ら調査を開始する。

 顧客の再調査要求を拒み続けていた「ホープ自動車」販売部顧客窓口の沢田課長(ディーン・フジオカ)は、社内の秘密会議の存在を知り、動き出す。またグループ会社「ホープ銀行」の井崎融資担当(高橋一生)は、グループ内でも信用できない会社には融資できないとし、旧知の週刊誌記者(小池栄子)からトラック事故の情報を得る。

 そして赤松は、その週刊誌記者の協力もあって、事故原因は整備不良ではなく事故を起こした車両の構造自体に欠陥があったのではないかと気づく。

 中小企業の運送会社が、泣き寝入りをせずに、正義の旗を掲げて戦う社長は、小説だけどすごい。一方、「ホープ自動車」や「ホープ銀行」の大企業内部にも、小さな正義を社内で伝え広げて行く姿に、観客の心は救われる。

 無実を信じる赤松は、家族や社員たち、被害者の家族のために、トラックの製造元である巨大企業に潜む闇に戦いを挑む。そこで赤松は、大企業による「リコール隠し」という社会に対する重大な罪を知ることとなる。

 赤松運送の倒産ギリギリで、ホープ自動車に警察の家宅捜査が入る最後のシーンは、痛快であり感動する。

 監督は、『超高速!参勤交代』シリーズの本木克英。

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 関連ブログ記事

  「信州・佐久と軽井沢の旅」 2018年6月24日投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2018/06/post-f7cd.html

 

 ★ ★ ★

 

 実際のタイヤ脱落母子死傷事故は、2002年1月、横浜市瀬谷区で三菱製大型トラックの140kgものタイヤが脱落、ベビーカーを押して歩道を歩いていた母親と子どもを直撃。母親(当時29歳)が死亡するという痛ましい事故だった。ベビーカーにいた二男(1歳)と手を引いていた長男(4歳)は軽傷だった。

 三菱自動車はタイヤが外れた原因を整備不良と主張、運送会社は「人殺し」の中傷ビラを家の壁に貼られ、無言電話の嫌がらせなど、犯罪者の汚名を着せられた。最後は経営が立ち行かなくなり、小説・映画の「赤松運送」とは異なり、廃業に追い込まれたと聞く。

 また2002年10月にも山口県でクラッチ系統の破損でブレーキが利かなくなった冷蔵車が暴走し大破、運転手が死亡する事故があった。これも三菱側は、トラック運転手側の整備不良だと主張した。

 同社は、重大欠陥を隠ぺいするという不祥事を2000年にも起こしている。社員の内部告発によって、リコールにつながるような不具合を20年にわたって隠し続けていたことが明らかになったのだ。本社や岡崎工場などに、運輸省立ち入り検査や警察の家宅捜査が行われた。最終的には、宇佐美元副社長らと法人としての三菱自動車は、道路運送車両法違反の罪で略式起訴されている。河添社長は、引責辞任した。

 同社は再発防止策を発表、これ以上の不祥事には終止符が打たれるかに思えた。しかしこの時の調査対象を過去2年間としたため、それ以前の欠陥問題に手が付けられることは無かった。そして、この事件で三菱の販売台数が激減、経営不振に陥るが三菱グループ会社各社により救済された。2003年1月、三菱自動車工業(株)は分社して、大型車(トラックとバス)部門を三菱ふそうトラック・バス(株)に事業を移管している。

 2003年10月、母子死傷事故で神奈川県警が、業務上過失致死傷容疑で三菱自動車本社などを家宅捜査。2004年1月にも再捜査が行われた。2004年3月、2000年のリコール発表を上回る「リコール隠し」が発覚したのだった。横浜でタイヤが外れた原因を、一転して設計上のミスによる強度不足を認め、国土交通省にリコールを届け出た。母子死傷事故以前にも39件もの同じ原因の事故があったという。

 同年4月、筆頭株主のダイムラー・クライスラーが財政支援の打ち切りを発表。5月、横浜区検と横浜地検は、三菱ふそうの宇佐美前会長ら幹部5人と法人としての三菱自動車を起訴した。前会長らを被告とする道路運送車両法違反(虚偽報告)、業務上過失致死傷事件の刑事裁判が始まったが、遺族へ謝罪しつつ裁判では「無罪」を主張。遺族の怒りはおさまらない。

 また山口県でクラッチ系統の欠陥によって運転手の死亡事故について、2004年7月河添元社長は元役員3人とともに業務上過失致死罪で逮捕・起訴された。

 

 濡れ衣は晴れたものの、実際の運送会社社長と従業員、その家族が過ごした2年間の苦しみは、いかばかりだったのであろうか。そして、最終的には三菱が罪を問われたものの、被害者の遺族にとっては死亡事故の割には「罪が軽すぎる」(執行猶予付きの禁固刑)と無念の思いだったそうだ。主婦の母親が、同社と国を相手に損害賠償訴訟を起こしたが、2007年9月同社に550万円の支払いを命じる判決が最高裁で確定している。

 現実の事件では、罪を押し付けられた会社や大切な家族を失った遺族にとっては、いたたまれない、悲しい結末であったことを、決して忘れてはならない。

 2016年4月、軽自動車の共同開発先の日産自動車の指摘により、三菱自動車は燃費データを改ざんしていた事実が明らかになった。こういった同社の懲りない体質は、古くからの根深い組織的問題だと筆者も感じていたが、これから誠実な会社に変われるのであろうか。

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