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2025年2月 9日 (日)

吉見百穴と武州松山城趾

 2025年2月4日(火)吉見百穴と武州松山城趾(埼玉県比企郡吉見町)に行く。

 ガイドボランティアが案内。 (写真をクリックすると、拡大表示します)
 

●吉見百穴

 9:00~「吉見百穴(よしみひゃくあな)」に入園。観覧料300円。

 「百穴」のある丘陵は、切削に適した凝灰質砂岩。古墳時代後期~終末期に造られた。横穴墓の数は、現在219基。

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 1887年(明治20)に東大大学院生だった坪井正五郎氏らが、横穴237基を発掘。当時は、住居か墳墓かの論争があった。1923年(大正12年)に国の史跡に指定。

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 玄室の右手に棺座、入口には緑泥石片岩で蓋がされていた。

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 太平洋戦争末期、中島飛行機の地下軍需工場が全国から集められた3000~3500人の朝鮮人労働者によって建設されが、本格生産する前に終戦となり閉鎖された。建設により20基近くの横穴墓は破壊された。以前は内部を見学できたようだが、現在は立入り禁止となっていた。

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 本来、傍を流れる市野川は蛇行し「百穴」に近い位置を流れていたそうだ。工場を造るにあたって前面に広い土地が必要になり、 川を真っ直ぐに改め、現在では堤の手前までは広い駐車場になっている。また、地下から掘り出した土を手前に埋め立てたため、園内はその駐車場よりも高くなっているという。

 「かぶと塚古墳」の横穴墓の石材が、屋外に展示してあった。

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 鉄製手斧の加工痕のある玄室の凝灰質砂岩の一部。

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 「かぶと塚古墳」は、吉見町久米田にあった円墳で、1973年(昭和48年)の調査の後に墳丘は破壊され、失われている。

 石室に用いられた石材の緑泥石片岩。

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 「吉見百穴」の2.5Km北の吉見町黒岩にも、百穴と同様の遺跡「黒岩横穴墓群」がある。

 9:40、園内の「吉見町埋蔵文化財センター」に入館。町内で発掘された縄文時代からの出土品などが展示。

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 2001年(平成13年)年度の西吉見条里遺跡の発掘調査で、道幅9~12mの古代の「東山道武蔵路」の道路跡が発見された。展示してあった地図は、撮影禁止のため吉見町ホームページより転載。

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 「東山道(とうさんどう)」は、都を基点に信濃、上野(群馬県)をへて、東北に向かう五畿七道の一つ。そのうち「武蔵路(むさしみち)」は、上野から分岐して武蔵国府(現・府中市 に至った。吉見は当時、重要な交通の要所だったようだ。江戸時代になると、江戸を中心とする五街道が整備され、幹線道路としての「東山道」は、中山道日光例幣使街道奥州街道などに再編された。

 10:10、「百穴」の丘陵の上からの東松山市街を展望。

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 左手後方に冠雪の富士山。

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 正岡子規の句碑。1901年(明治24)11月、当地を訪れた。「神の代は かくやありけん 冬籠」 

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 子規が訪れた明治時代は「住居説」だったので、冬の「百穴」を神の住居に例えたのだろうか。

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●岩室観音堂

 「百穴」を出て、10:45「岩室観音堂」を拝観。この堂は、ここから北東へ徒歩10分程度にある「龍性院」の境外仏堂。

 岩をうがって観音像を祀った。代々の松山城主が、信仰し護持した。

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 観音堂2階の天井の構造材。建物・屋根を支えるために多数の材が使われている。千社札も多数貼られており、額も様々飾られている。

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 2階の鉄格子扉の岩窟の奥に御尊像(観音様)が安置されているが、よく見えない。

 室観音は、「比企西国三十三所観音札所」の第三番洞窟内に88体の石仏が安置。「四国八十八ヵ所」の参拝と同じ巧徳が得られるという。

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 観音堂の裏にある「胎内くぐり」のハート型のトンネル。

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 ここをくぐると、諸難を除き、安産、その他の願いが叶うとのこと。

 以上3枚の写真は、2015年12月12日撮影。
 

●武州松山城趾

 城の周囲は市野川が天然の堀として利用して、丘陵上に建てられた平山城。その天然の要害から不落城とも言われた。西側の市野川をはさんで対岸にあたる比企郡の松山本郷(現在の東松山市)は平地になっており、城下町が形成された。大正14年(1926年)に「松山城址」として県の史跡に指定。

 南西方向からの「松山城跡」 出展:Google Earth Pro

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 11:00、「松山城趾」の「曲輪4」の入口から入場。 「三ノ曲輪」を経て「二ノ曲輪」。

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 「二ノ曲輪」から「松山城趾」最大の高低差(9m)の「空堀」を渡ると「本曲輪」へ至る。

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 「本曲輪」には昭和初期、お堂があった。

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 築城技術の高さ、良好な保存状態などから「松山城」「菅谷館」「杉山城」「小倉(おぐら)城」の4城趾が、「比企城館跡群」として国の指定史跡となっている。

 城の北側、「虎口」付近で発掘調査。 11:35、城趾を出る。

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 北側城外には根古屋(城主の館や城兵の屋敷)があった。

 11:45~12:40、「洋麺屋 五右衛門」東松山店でランチ。

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 「菅谷城跡 ー 比企城館跡群」 2024年3月16日投稿
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2024/03/post-5b2bff.html

 「比企西国札所巡り-その2」 2015年12月13日投稿
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/12/post-cf25.html

 ★ ★ ★

 室町幕府時代、足利尊氏が関東に鎌倉府を設置し、関東管領として上杉氏が統治した。やがて室町幕府の要職にあった公方足利氏、扇谷上杉氏、山内上杉氏らの確執によって争乱・内紛が起こるようになり、関東の動乱を背景に「松山城」は扇谷上杉氏側の拠点の城として15世紀後半に築城されたと推定されている。15世紀後半から16世紀前半に比企地域に城館跡が多く残るのは、これら三つの勢力が交差する地域だからだという。

 その後、扇谷と山内の上杉氏、小田原北条氏、甲斐武田氏、越後上杉氏らの「松山城」をめぐる攻防は大変激しく、ここが北武蔵地域の要所であったことが伺える。特に1537年(天文6年)に北条氏綱が「江戸城」と「川越城」を落とし、「松山城」を攻めたことで有名。その後も小田原北条と越後上杉などによる度重なる合戦によって支配者が頻繁に変わったが、北条勢力下の上田氏の支配下にあることが多かった。

 1590年(天正18年)、豊臣秀吉による関東攻略の際、前田利家・上杉景勝などの軍勢により「松山城」は落城し、小田原の北条氏は滅亡した。その後徳川家康の支配下に入り、松平家広が1万石の松山藩(のちに3万石に加増)として城主となった。2代目の弟・忠頼のときに5万石の浜松藩に移封され、1601年(慶長6年)に「松山城」は廃城、この地域は川越藩領となった。

 徳川家広の入城から廃城までの時期には交通の便が優先され、城下町(松山本郷方面)と城域を隔てていた市野川に橋が架けられたという。本来ここは「松山城」防衛の要となる方角だったので、争奪戦が激しかった北条氏が支配した時代までは橋が存在しなかったそうだ。

2025年1月16日 (木)

寅さんの柴又を巡るウォーク

 2025年1月12日(日)寅さんの柴又を巡る新春ウォーク。京成電鉄柴又駅からJR金町駅まで歩く。

 この日、日本列島を強い寒気が覆い、この冬一番の寒さ。九州各地で初雪のが見られたようだが、東京は終日曇り。最高気温は9℃程度だった。3連休のせいか、正月の初詣がまだ続いているのか、帝釈天とその参道は、混雑していてビックリ。この日の歩程は、12,800歩、7.6Kmだった。

 JR日暮里駅から、10:58京成日暮里駅発の京成本線快速特急に乗車、京成高砂駅11:10着。11:22京成金町線に乗換え、柴又駅11:25到着。
 
●京成柴又駅 11:25~
 
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 柴又駅前には、映画『男はつらいよ』 でお馴染みの寅さん(渥美清)と妹・さくら(倍賞千恵子)の像が建っている。第40作目の「寅次郎サラダ記念日」の旅立ちのシーンをモチーフとしているという。 像の前で記念写真を撮る人が多くて、自分なりの写真がなかなか撮れない。
 
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 駅から柴又観光案内所の前の十字路で、参道の方を進まず左折して、まず「柴又八幡神社」に向かう。
  
●柴又八幡神社 11:30~
 
 「柴又八幡神社」の創建年代は不明。柴又村の鎮守だった。10月の例祭になると「柴又の三匹獅子舞」(葛飾区の無形民俗文化財)と呼ばれる神事が行われる。

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 境内全体が「柴又八幡神社古墳」の上にあり、社殿の下に石室がある。この古墳からは、『男はつらいよ』の車寅次郎の帽子のようなものを被った、通称「寅さん埴輪」として知られる埴輪が出土している。本ブログ「国立東京博物館「はにわ展」(その2)」を参照。

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 江戸川と中川にはさまれた低地にある柴又は、721年(養老5)の『正倉院文書 』に載る「嶋俣」を当てる説が有力だという。戦国時代は「柴俣」、江戸時代中期以後は「柴又」と書かれるようになった。
 
 古くから人が暮らしていたことを物語る「柴又八幡神社古墳」。直径20~30mの円墳。墳丘は失われているが、神社はこの上に鎮座している。 石室は葛飾区指定史跡、出土埴輪は東京都指定有形文化財。境内には、古墳から出土した人骨を納めた半球の「嶋俣塚」。
 
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●帝釈天参道 11:40~
 
 京成電鉄柴又駅から「柴又帝釈天」へと至る200mほどの参道は、どこか懐かしい雰囲気が漂い、木造建築の古い店舗などが軒を連ねる。
 
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 商店街の手前に並んだ屋台の裏に隠れていたが、「映画の碑」があった。
 
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 参道の両側には名物の草だんごや塩せんべい、くず餅、木彫り、民芸品などを売る店、老舗の川魚(うなぎ、鯉、どじょう)料理店などが軒を連ねている。国の重要文化的景観に選定された古き良き下町風情を楽しみながら、「帝釈天」までの参道を歩く。 
 
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 寅さんの実家「くるまや」のモデルとなった「高木屋老舗(ろうほ)」。
 
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 この日は、日曜日とあって観光客や初詣の参拝客か、参道は混み合っていて、ゆっく覗いて見る余裕がない。
  
●柴又帝釈天題経寺 11:50~
 
 「柴又帝釈天」または「帝釈天題経寺」(だいきょうじ)。正式には「経栄山題経寺」。庚申参りや木彫で有名な日蓮宗寺院。映画では、笠智衆が演ずる、門前の人々から「御前様」と呼ばれる住職がいて、寅さんを「兄貴ぃ」と呼ぶ佐藤蛾次郎演ずる庭男の「源公」が庭を掃いていた。

 江戸時代初期の寛永6年(1629年)に、禅那院日忠および題経院日栄という2人の僧によって開創された。
「帝釈天」とは、仏教の守護神である天部の一つを指すが、地元では「題経寺」の略称となっている。境内はさほど広くなく、建物は大部分が明治以降の建築。「二天門」、「帝釈堂」などは彩色を施さない素木造のため地味に見えるが、細部には精巧な装飾彫刻が施されている。
 
 参道の突き当たりに、2階建ての立派な「二天門」が建つ。

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 「二天門」を入った境内正面に位置する「帝釈堂」。手前の拝殿と奥の内殿から成り、内殿には「帝釈天の板本尊」を安置する。大勢の参拝客で、拝殿前には行列が出来ていたし、境内も混み合っている。
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 宗祖・日蓮が自ら刻んだという伝承のある「帝釈天の板本尊」が長年行方不明になっていた。18世紀末、中興の祖とされている9世住職の亨貞院日敬(にっきょう)の時代の安永8年(1779)の「庚申の日」に、本堂の修理を行ったところ棟木の上から発見されたという。このことから、60日ごとの「庚申の日」が縁日となった。

 それから4年ほど経った天明3年(1783年)、日敬は自ら板本尊を背負って江戸の町を歩き、天明の大飢饉に苦しむ人々に拝ませたところ、不思議な御利益があったため、「柴又帝釈天」への信仰が広まっていったという。
 
 「帝釈堂」の右に「祖師堂」(こちらが日蓮宗寺院としての本堂。ご本尊は大曼荼羅 )、その右手前に「釈迦堂」(開山堂)、本堂裏手に「大客殿」などが建つ。「帝釈堂」内殿の外部は東・北・西の全面が装飾彫刻で覆われている。出典:ウキメディア・コモンズ。
 
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 これらの彫刻を保護するため、内殿は建物ごとガラスの壁で覆われ、見学者用の通路を設け一般公開している。この「彫刻ギャラリー」と大客殿、庭園の見学は、有料(400円)で拝観出来るが、時間の都合で割愛。
 
 参道商店街へもどり、12:00~そば処「やぶ忠」で昼食を摂る。鴨南蛮1,300円。お土産屋の「門前とらや」で草だんご16粒入りで700円。
 
●真勝院 12:45~
 
 真言宗豊山派の寺院。「新四国四箇領八十八箇所霊場」の第28番札所。806年(大同元年)創建の古刹。柴又界隈で最も古い。近くの「柴又八幡神社」の旧別当寺(神仏習合が行われていた江戸時代以前、神社を管理する寺)でもあった。
 
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 「新四国四箇領八十八箇所霊場」とは、中川の両岸沿いの4つの領(葛飾郡葛西領、葛飾郡二郷半領、 足立郡淵江領、埼玉郡八条領)に札所を持つ弘法大師の霊場。柴又七福神の一つで、弁財天を祀る。境内には、1660年(万治3年)に柴又村の名主らによって建立された「五智如来」の石仏がある。
  
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 「五智如来」は、密教で五つの知恵を五つの如来にあてはめたもの。右から阿閦如来、宝生如来、中央が大日如来、阿弥陀如来、不空成就如来となっている。
 
●寅さん記念館/山田洋次ミュージアム 13:00~
  
 日本庭園のある「山本亭」の敷地を抜けて、「柴又公園」の小高い丘の頂上へ階段を登る。
 
 柴又地区で、江戸川のスーパー堤防の整備事業が行われ、河川敷と法面が一体で整備され「柴又公園」が設立された。公園は、「山本亭」や「寅さん記念館」を含み、江戸川河川敷の広場はレクリエーション・スポーツの場としても利用されている。「寅さん記念館」は、スーパー堤防と一体となったユニークな建物で、1997年11月開館。その公園頂上の真下に作られ、記念館の内部とエレベータで結ばれている。
 
 公園の頂上付近から、北東の方角、スカイツリー方面を望む。
 
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 江戸川の堤防、南東の方角を望む。川の向こうは千葉県。
 
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 13:10、「寅さん記念館」に入館(シニア400円)。記念館は、『男はつらいよ』の世界をコーナー別に分けて展示しており、「松竹大船撮影所」(鎌倉市、2000年閉鎖)から移設した「くるまや」や「朝日印刷所」のセット、ミニチュアで再現された商店街、映画の名場面を紹介した映像コーナー、実物の革カバンなどの展示コーナーなどがある。
 
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 2012年には『男はつらいよ』の原作者で監督も務めた山田洋次を顕彰する「山田洋次ミュージアム」が開設された。「松竹大船撮影所」のジオラマも置かれている。
 
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 しばし映画の世界に浸ったあと、先ほど通り抜けた「山本亭」に入館。
 
●山本亭 14:10~
 
 もともとこの土地は庄屋の鈴木家の土地で、1923年(大正12年)の関東大震災まで鈴木家はこの場所で瓦工場を営んでいた。山本栄之助は、浅草でカメラの部品を製造する工場の経営者で、浅草小島町に住んでいたが、関東大震災で浅草が被害を受けたため、鈴木家の瓦工場跡を取得して移転し、現在の「山本亭」を構えたという。
 
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 大正末期から昭和初期にかけて造られ、山本家4代がここで暮らしたという。書院造りと洋風建築を合わせた和洋折衷建築で、築山と池が広がる日本庭園は、アメリカの日本庭園専門誌で三年連続全国3位に選ばれた。
 
 1988年3月に葛飾区の所有となり、1991年4月から一般公開。現在では伝統行事の披露や、琴の演奏などが開催されている。2003年7月東京都選定歴史的建造物。2018年には「葛飾柴又の文化的景観」が重要文化的景観に選定され、「山本亭」は景観の一翼を担う。入館料100円(寅さん記念館とのセット料金で50円引き)。喫茶(抹茶、コーヒーなど)の利用可。ぜんざい700円を注文して休憩。 
 
●矢切の渡し 15:00~
 
 江戸川の堤防を越え、河川敷の「柴又公園」から「矢切(やきり)の渡し」柴又側の渡船場に行く。
 
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 葛飾柴又と松戸市の矢切を結ぶ「矢切の渡し」は、江戸時代の初期に江戸川の両側に田んぼを持つ農民が、関所を通らずに江戸と往来したこ とから渡し船が始まった。伊藤左千夫の小説『野菊の墓』、映画『男はつらいよ』や演歌『矢切の渡し』の舞台で、全国的にも有名になった。対岸までは数分、ゆったりとした気分で船旅を楽しむ。料金は200円、往復400円。
 
 乗船して、上流方向を望む。右手は松戸市側のゴルフ場。
  
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 左手に東京都水道局「金町浄水場」が立地し、丸い屋根とトンガリ帽子の屋根のある2つの取水塔。 

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 3月中旬から11月は毎日、12月から3月上旬は、土日祝日のみ、1月1日から7日は運航。荒天の場合は運休。現在は、昔のような手漕ぎでなくエンジン付小舟の運航。松戸側の渡し場から歩いて20分程のところの「西蓮寺」に、小説『野菊の墓』の一節を刻んだ文学碑があるそうだ。
 
●江戸川の土手 15:20~
 
 江戸川は、関東地方を流れる一級河川。利根川水系で利根川の分流(派川)である。流路延長は本流(江戸川放水路)河口より約55km、旧江戸川河口より約60km、流域は、茨城県、埼玉県、千葉県、東京都の1都3県におよぶ。

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 左手に東京都水道局の「金町浄水場」が立地し、丸い屋根とトンガリ帽子の屋根のある2つの取水塔を右に見ながら、の堤防の上の「江戸川堤サイクリング道路」を北に向かって歩く。国道6号(水戸街道)の手前で堤防を降り、西に向かって住宅街、市街地を歩く。疲れてきたせいか、なかなかゴールに着かない。
  
●ウォーク終点 JR金町駅 15:50
 
 「矢切の渡し」からおよそ2Km、30分ほど歩いて、JR金町駅に15:50過ぎに到着。
 
 JR金町駅を15:55発、常磐線で西日暮里駅下車。山手線に乗り換えて池袋駅へ。16:40頃から2時間、池袋駅西口の居酒屋「楽蔵」で新年会。

  
 
 ★ ★ ★
 
●寅さんの生い立ち
 
 寅さんの生い立ちや少年時代は、『少年寅次郎』と題してNHK総合TV土曜ドラマで2019年10月から連続5回で放送された。主演は、寅次郎の育ての母・光子役の井上真央で、好演だった。このドラマは興味深くて、熱心に視聴したが、5年経ってストーリーをすっかり忘れていた。今回「寅さん記念館」を見学して、少し思い出したので、この際いろいろ調べてみた。
 
 寅次郎は、子供の頃から父親からは疎まれ、周囲からは芸者の子や捨て子といじめられる。短気な性格で口が悪く、少し乱暴者。しかし、人を騙したり傷をつけたり、女性に暴力を振るうといったことは決してない。情にもろくて、困っている人を見ると放っておけない、優しい一面があった。学校の勉強は出来ないが、なぜか文才があり、詩的な表現を使った情景描写が巧み。成人になった寅さんとそっくり。そんな寅次郎を、光子は実の子のように育てる。
  
 このNHKドラマの原作は『悪童(ワルガキ)小説 寅次郎の告白』で、やはり山田洋次による長編小説で、講談社より2018年9月に刊行された。『男はつらいよ』シリーズの中で描かれなかった主人公「車寅次郎」の生い立ちを、寅さん自身が語る一人称形式で描いてある。この小説は読んでいないが、NHKドラマのストーリーとネットで仕入れた情報で、寅さんの生い立ちを書いてみた。
 
 寅次郎は、遊び人だった「車平造」と、当時柴又の売れっ子芸者だった「お菊」との間の子として生まれた。平造はすでに光子(さくらの実母)と結婚していたため、寅次郎は不倫の子だった。お菊は京都で身売りをするために、寒い冬の真夜中に産まれたばかりの寅次郎を「とらや」の軒先に置いて去ってしまう。光子はそれを知っていたのか、御前様に報告しに行ったところ、御前様は「寅次郎」と命名してくれた。
 
 平造と光子の間には、秀才だった長男「昭一郎」がいたが、旧制中学のころに伝染病で死んでしまう。寅次郎が小学校に上がる前には、光子の実子で妹の「さくら」が生れた。だんご屋「とらや」は実質的には、平造の父親で、無口な「正吉」と嫁の光子で切り盛りしていた。やがて平造は招集される。復員後「とらや」に帰って来るが、ますますおかしくなって、寅次郎とはうまくいかない。
 
 寅次郎が13歳のころ、育ての母・光子の体調が悪くなる。平造の弟夫婦が、「おいちゃん」(竜造、寅次郎の叔父)と、「おばちゃん」(つね、叔母)。おいちゃんとおばちゃんは、病にかかった光子の面倒を看るために「とらや」に移り住むようになり、光子の死後に「とらや」の店と寅次郎とさくらの面倒をみるようになった。
  
 寅次郎は15歳の時、道楽者で自分を疎ましく思っている父親に対し、日頃の不満が爆発して大喧嘩し家出する。政吉親分に香具師(やし)としての素質を買われて、テキ屋稼業に足を踏み入れた。その後、父親の平造は他界した。1人「とらや」に残されてしまった「さくら」(9歳か10歳頃)は、おいちゃんとおばちゃんに育てられることになる。
 
 寅次郎が35歳の時に、20年ぶりに「とらや」に帰郷する。おいちゃんとおばちゃん、さくらは、彼を家族として歓迎する。

 
●帝釈天参道の「とらや」と「くるまや」
 
 「寅さん記念館」に行って、寅さんの生い立ちのほか、もう一つ大きな疑問があった。
  
 帝釈天に参拝したあとの参道で、時間が無くて店名を確認せずに、急いでお土産の名物「草だんご」を買った。帰ってから、包装紙を見たら「門前とらや」と書いてあった。「柴又屋」の文字もある。
 
 寅さんの生い立ちと少年時代について調べていたら、寅さんの実家の店の名は「とらや」だった。帝釈天の参道にはいくつか、だんご屋がある。「柴又 とらや」でネットで検索すると、「柴又屋」というだんご屋が、実際に「門前とらや」という店名に変えたようだ。『男はつらいよ』の「とらや」の名前に便乗したのは、容易に想像できる。
 
 「門前とらや」は、柴又帝釈天参道で明治20年に「柴又屋」として創業。当時から、参拝者の食事処、草だんごのお土産として、参拝客、観光客の多くに利用されていた。実際に「柴又屋」は、昭和44年の第1作目『男はつらいよ』の映画に使用され、第4作目まで寅さんの実家として撮影が行われたという。ちなみに、第5作から第48作(最後)までの映画のモデルは「高木屋老舗(ろうほ)」という店。
 
 最初「高木屋」がモデルと聞いていたので、「高木屋」の店の写真を撮った。「高木屋」は、参道を挟んで左右2軒あり、写真は帝釈天に向かって右側の店、映画はどちらの店が使われたのか分からない。ところが「寅さん記念館」に行くと、寅さんの実家は「くるまや菓子舗」の幟(のぼり)が立っている。第40作目の『男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日』(1988年)から、何の説明もなく「とらや」の名前が、映画の中で「くるまや菓子舗」(通称くるまや)に変わったという。
 
 はっきりしたことは分からないが、商標権の問題だと思われる。もともと帝釈天参道には「とらや」という店はなかった。当然、映画制作サイドの「松竹」も、「柴又屋」に「とらや」という名前を使わないで欲しいと再三伝えていたようだ。しかし、「柴又屋」は「とらや」という名称を使い続け、それで仕方なく映画側が「とらや」を「くるまや」に変えたというのが、大方の見方だと思われる。

2024年12月26日 (木)

再び渋沢栄一ゆかりの地を巡る

 2024年12月18日(水)、再び埼玉県深谷市 の「渋沢栄一ゆかりの地」をめぐる。

  財務省印刷局と日本銀行は、2024年7月3日新紙幣を発行した。新一万円札に「近代日本経済の父」と呼ばれる渋沢栄一の肖像がデザインされている。 紙幣のデザインが変わるのは2004年以来、20年ぶりとなった。2年ぶりに「渋沢栄一ゆかりの地」を車でめぐる。


■渋沢栄一記念館
 10:35~12:00

 「渋沢栄一記念館」は、栄一の出身地である深谷市が設立・運営する渋沢栄一に関する市立博物館。

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 深谷市北部・血洗島(ちあらいじま)にある渋沢栄一の生家から、東に500 mほどの清水川のほとりにある「八基(やつもと)公民館」に併設され、渋沢栄一に関する展示を行っている。1階の資料室の入口に栄一の等身大パネル(栄一の身長は、150㎝ちょっとだったとか)と、記念館北側に建つ銅像がある。

 資料室には、栄一が書き残した書画や写真など、多数の資料を展示。撮影禁止(渋沢栄一記念館/深谷市ホームページより引用)。

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 2020年7月からは、2階展示室で「アンドロイド渋沢栄一」の公開を開始されている(要予約)。なお、東京都北区西ケ原にある「渋沢史料館」は、「渋沢栄一記念財団」の施設。

 資料室の見学後、11:30~12:00ガイドの案内で渋沢栄一のアンドロイドからの講義「道徳経済合一説について」を聴く。

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■麺屋忠兵衛煮ぼうとう店 12:15~13:05

 「渋沢栄一記念館」から、車で西の方へ3分(1.0 km)ほど、12:10旧渋沢邸「中の家」(なかんち)の駐車場着。

 「中の家」の前には、大型バスが駐車できるほど大きな駐車場が整備されて、駐車場の先に見える「中の家」の立派な正門と塀は、いかにも豪農といった雰囲気。

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 「中の家」の正門から入るが、主屋に入らずに東門から一旦出て、隣接する麺屋忠兵衛「煮ぼうとう店」に入店し、先に昼食。

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 古民家の「煮ぼうとう店」は、元は渋沢家の大番頭の家だったという。落ち着いた雰囲気で、テーブル席が50席もあり、思ったより広い。渋沢栄一が帰郷の際に、好んで食べたといわれるのが、この郷土料理「煮ぼうとう」だったそうだ。

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 煮ぼうとう(850円)とホットコーヒー(200円)を注文。

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 野菜がたくさん入った煮ぼうとうは、ボリュームがある。もちもちの麺とスープが絡んで美味しい。

 店内の床の間には、渋沢栄一が書いたとされる「天意重夕陽 人間貴晩晴」の書が飾られている。

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 渋沢栄一が座右の銘にした名言の中の一つ、「てんい、せきようをおもんじ にんげん、ばんせいをとうとぶ」と読む。正確な出典は分からないが、古人の詩の一節とされている。意味は、「一日の中で最も大事なの夕刻で、日中いかに快晴であっても、夕刻に雨でも降れば、その日一日が雨だったと感じてしまうように、人間も晩年が晴れ晴れと立派でないと、つまらない人生になってしまう」。

 若いうちに多少の欠点があっても、世間はこれを許してもくれる。立派な晩年の生活によって、若いうちの欠点失策は、帳消しにすることができるが、いかに若いうちが立派であっても、晩年がよくなければ、その人はついに芳しくない人で終わってしまうものである。晩晴(ばんせい)とは、「夕方になって空が晴れること」。つまり、「人生ってのは、終わり良ければすべて良し」ということか。

 お土産に、秘伝のたれ付の「煮ぼうとう」(干しひらめん)4食入(690円)と長芋の旨味昆布漬け(300円)を購入して店を出る。

■旧渋沢邸「中の家」(なかんち) 13:10~13:50 入館無料

 「中の家」の庭に建つ「若き日の栄一」の銅像は、1867年パリでの姿らしい

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  渋沢栄一が23歳まで過ごした血洗島村にあった「中の家」は、茅葺屋根の主屋だった。明治時代になって家業の中心が養蚕になると建て替えられたが、明治25(1892)年に火災で焼失。家を継いだ妹夫婦(てい・一郎)によって明治28(1895)年に上棟されたのが、現在の主屋。栄一が帰郷の際には、ここに寝泊まりした。主屋を囲むように副屋(藍玉の店、のちに農協の事務所)、4つの土蔵、正門、東門が建ち、屋根に天窓の「煙出し」がある典型的な養蚕農家の形。

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 「中の家」に入室し、栄一のアンドロイドから、スクリーンの映像を見ながら栄一の経歴を聴く。

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 裏庭には、栄一の義弟の渋沢平九郎を追悼した石碑が建っている。

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 この石碑は、東京・谷中の渋沢家墓所内にあったものを、この地に移設したもの。平九郎は栄一の義弟で、栄一が渡欧する際に養子となった。しかし幕府側として「飯能戦争」で新政府軍と戦い、自刃。享年22歳だった。

■尾高惇忠(じゅんちゅう)生家 <見学省略> 入館無料

 「中の家」から東に4分(1.5Km)ほどで、尾高惇忠の生家。車を停めて社内から建物を見るだけで、見学はスキップ。

 惇忠は名主の子で、幼い頃から学問に優れ、17歳頃から自宅に「尾高塾」を開き近郷の子弟に学問を教えた。渋沢栄一も7歳から数年間、惇忠の教えを受けた。栄一の父の姉が惇忠の母で、惇忠と栄一はいとこの関係だった。また、栄一の最初の妻は、惇忠の妹・千代。栄一が渡仏するのを機会に、栄一夫婦の養子として惇忠の弟・平九郎が迎えられた。

 生家の屋号は「油屋」、農業の他、藍玉・菜種湯・塩・雑貨などを販売した。2階には、栄一らと高崎城の乗っ取りの謀議をした部屋が残されている。「戊辰戦争」の際、惇忠は平九郎らと共に「彰義隊」に参加。その後、平九郎らと共に脱退し「振武隊」を結成、「飯能戦争」で官軍と交戦するが敗退し、平九郎は自決、 淳忠は逃げ延びた。維新後は、「富岡製糸場」の建設に尽力して所長、また「第一国立銀行」仙台支店支配人などを勤め、のちに養蚕・製糸業の振興にも努めた。

 

誠之堂(せいしどう)と清風亭 14:00~14:40 入館無料

 「尾高惇忠生家」からは、車で3分(950m)ほど、 誠之堂」と「清風亭」は、県道14号沿いの「大寄(おおより)公民館」の敷地にある。ともに建築史上、重要な建物で、元は東京・世田谷にあった「第一国立銀行」(のちに「第一勧業銀行」、現「みずほ銀行」)の保養・スポーツ施設「清和園」の敷地内に並んで建てられていた。

 「第一国立銀行」は、栄一が初代頭取を務めた民間の銀行。「誠之堂」は大正5(1916)年、初代頭取・栄一の喜寿祝に「清風亭」は大正15(1926)年に2代目頭取・佐々木勇之助の古希祝を記念して、いずれも行員たちの出資で建設された。

 昭和46(1971)年に、「清和園」の敷地の半分を聖マリア学園に売却。しかし、学園の施設拡充計画により、「誠之堂」と「清風亭」の取り壊しが検討されたが、平成11(1999)年に深谷市が譲り受け、移築・復元された。その後「誠之堂」は平成15(2003)年に国の重要文化財に、「清風亭」は平成16(2004)年に埼玉県指定有形文化財に指定されている。

 ガイドの案内で、両施設を見学。「誠之堂」の外観は、英国の農家風で、和風、東洋風のデザインが随所に見らる

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 煉瓦造平屋建で、焼き色の異なる3色の色むらのある煉瓦を積む「フランス積み」という方法。煉瓦は、深谷市に存在した「日本煉瓦製造株式会社」で製造された。暖炉の背面の外壁には、3色のレンガで「喜寿」という漢字に積まれた部分もある。

 暖炉脇の窓のステンドグラスのモチーフは、中国・漢時代の宮殿、祠堂、墳墓の壁面に彫りつけたもの。格子状のガラスは、日本の障子をイメージ。貴人と従者らによる宴会を、渋沢栄一の喜寿を祝う様子に見立て描かれている。

 ステンドグラスを建物の外から見たのと、室内から見たのでは色の鮮やかさが全く違う。

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 暖炉の上部には、正面を向いた栄一の肖像レリーフ。

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 「清風亭」は、当時流行っていたスペインの南欧風建築。屋根は南欧風のスパニッシュ瓦、ベランダの5連アーチ、出窓のステンドグラス、円柱装飾などが特徴的。

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 1923年(大正12年)の関東大震災をきっかけに耐震性への関心が高まった。「清風亭」は、鉄筋コンクリート造平屋建の初期の建築物、建築史上でも貴重。その後、日本の洋風建築は煉瓦から、丈夫な鉄筋コンクリートへ代わっていった。

 2017年(平成29年)9月21日には、当時の天皇・皇后陛下が私的な行幸啓で、ここ「誠之堂」「清風園」のほか、「渋沢栄一記念館」や生家の「中の家」を来訪されていて、それぞれの施設で当時の写真が掲示されていた。

 14:40「大寄公民館」を後にして、帰路へ。

 ★ ★ ★

 2年前に来た時は、「渋沢栄一記念館」で栄一のアンドロイドが見られなかったのと、耐震工事中で旧渋沢邸「中の家」の内部を見学できなかったのが残念だった。両施設で、それぞれにアンドロイドから解説を聞いて有意義だった。「誠之堂」と「清風亭」では、ガイドの説明を聞けたのも収穫だった。

 アンドロイドは、人間に似た外見や動作を持つロボットのことだが、人間と同じように動いたり話したり、顔の表情ができるが、昔よりも技術が進歩していて、自然に近い動きをするようになっているのに驚いた。皮膚の見た目も人間に近い。渋沢栄一アンドロイドは、深谷市出身で株式会社ドトールコーヒーの名誉会長・鳥羽博道氏の寄付により制作とあったが、いったいどのくらいの値段がするものか気になる。

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 2年前の20221030日(日)には、「渋沢栄一ゆかりの地」をウォーキングでめぐった。

 「渋沢栄一ゆかりの地を巡るウォーキング」 2022/11/11投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2022/11/post-a56a44.html

 

 ★ ★ ★

■渋沢栄一について

 渋沢栄一は豪農の長男で、明冶・大正期の実業家。一橋慶喜(のちに将軍・徳川慶喜)の家臣に取り立てられ、慶応3(1867)年「パリ万国博覧会」に出席する徳川昭武(慶喜の異母弟、のちに水戸藩主)に随行し、欧州の産業や社会制度を大いに見聞した。

 明治2(1869)年新政府に勤め、明治5(1872)年大蔵大丞(大蔵省の大臣に続く第4位の高官)となるが、翌年退官して実業界に入る。「第一国立銀行」(現みずほ銀行)の頭取となった他、多くの銀行、「王子製紙」、「大阪紡績」、「東京瓦斯」、「東京海上保険会社」、「日本鉄道会社」など約500社の近代的企業のほか、経済団体、教育機関などの創立と発展に尽力した。

 幼少期に学んだ孔子の教え『論語』を徳育の規範として『論語と算盤(そろばん)』を著し、「道徳経済合一説」を唱えた。大正5(1916)年実業界から引退するが、その後も福祉や医療、教育、国際親善に力を注いだ。昭和6(1931)年、老衰のため死去。享年92。

 左から、渋沢栄一、恩師・尾高惇忠、義弟・渋沢平九郎、主君・徳川慶喜。出典:ウキメディア・コモンズ

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2024年12月25日 (水)

再び新宿御苑と神宮外苑

 2024年12月3日(火)、紅葉の「新宿御苑」と黄葉の「神宮外苑」のイチョウ並木に行く。

 天気は晴れ、最高気温は17.5℃で、12月にしては暖かい。

 9:45新宿駅を出て、10:00「新宿御苑」の新宿門から入場。入園料250円。

 園内を東に向かうとカエデの林。

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 温室の手前付近、メタセコイヤとイチョウ。

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 ツワブキの群生。

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 サクラの紅葉。

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 プラタナス並木。

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 バラ花壇から西の方角、ドコモタワーが顔を出す。秋バラは、もう終り。

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 「中の池」と紅葉。

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 「下の池」に映る紅葉。

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 11:30頃、千駄ヶ谷門から新宿御苑を退園。11:55、神宮外苑の「国立競技場」前を通過。

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 12:00頃、「聖徳記念絵画館」前から「イチョウ並木」の方角を望む。総合球技場では、何やらイベントが開催中で「イチョウ並木」へ通り抜けが出来ない。

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 回り道して、12:25神宮外苑の「イチョウ並木」へ。平日だが、すごい混雑。皆、スマホでイチョウを撮っている。

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 「イチョウ並木」に隣接の権田原会場で「全国工芸職人展」が、11/21(木)~12/8(日)で開催中。入場無料。

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 イチョウ並木が黄葉する頃に開催される物産フェア。多彩な工芸品が展示販売。 昼食は、屋台の「広島焼き」700円。ちょっと高い。

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 イチョウ並木と「聖徳記念絵画館」の間の総合球技場では、「東京クリスマスマーケット2024 in 神宮外苑」が11/19日(火)〜12月25(水)で開催中だった。中央に、シンボルのタワー「クリスマスピラミッド」が見える。

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 正面に絵画館が見えるが、こちらからもチケットを買わないと通り抜けが出来ない。

 再び絵画館前に戻り、13:35絵画館の裏に明治天皇の葬場殿跡。記念に植えられた大楠。

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 都道319号線の信濃町歩道橋を渡って、JR信濃町駅へ。歩道橋から青山1丁目方面を望む。

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 14:10JR信濃駅発、新宿駅経由して、14:30JR巣鴨駅着。

 14:35「巣鴨地蔵通り商店街」のアーチ。

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 商店街を散策。巣鴨名物は、赤いパンツと塩大福。

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 元祖「塩大福」と謳っている和菓子屋「みずの」で、少し行列が出来ていたが塩大福(豆大福)をすぐに購入できた。塩大福は、昭和38年にここで誕生したとか。1つ 160円で、5個入り800円。数年前、同じ店で650円だったので、やはり物価高。甘さを抑えた優しい味の大福。

 とげ抜き地蔵の「髙岩寺」に参拝。

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 15:30頃、JR巣鴨駅に戻り、帰路へ。

 

 ★ ★ ★

●神宮外苑いちょう祭り

 2012年12月2日投稿の本ブログ記事「新宿御苑と神宮外苑」を見ると、軟式野球場前の噴水池周辺で「神宮外苑いちょう祭り」が、11/17(土)~12/9(日)で開催されていた。多くの屋台が並んで、ちょうど昼食をとるのに良かった。また、「聖徳記念絵画館」の前では、トヨタ博物館がトヨタ創立75周年記念の「クラシックカーフェスタ」を開催、いずれも入場は無料だった。

 「神宮外苑いちょう祭り」は、2020年から新型コロナウイルスの影響で、開催が中止になっていたが、2023年に噴水周辺で再開されたようだ。今年は、噴水周辺が工事中のため利用出来ず、イベントは中止されたようだ。東京都では他の公共施設と同様、神宮外苑の都道のイチョウ並木を11/23(土)~12/1(日)の期間、ライトアップしているとのこと。
 

●クリスマスマーケット

 今回、神宮外苑で「クリスマスマーケット」という初めて聞くイベントをやっているとは、知らなかった。

 「クリスマスマーケット」は、ドイツやオーストリアが発祥で中世から続く伝統的なお祭り。ヨーロッパ全体に広がり、どこの町でも中心部の広場では飾り付けやイルミネーションのクリスマスの雰囲気の中で、仲間とグリューワイン(ホットワイン)を飲み交わしながら、クリスマス用のお菓子や飾り、プレゼントを選んだりするのが「クリスマスマーケット」の楽しみだそうだ。11月末頃~12月25日のクリスマス・シーズンには欠かせない風物詩となっている。

 ドイツ・ドレスデンのクリスマスマーケット。出典:ウキメディア・コモンズ

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 のちにはドイツ系の移民たちがこの習慣を、イギリスやアメリカへもたらしたという。ドイツ語では、Weihnachtsmarkt(ヴァイナハツ・マルクト、聖夜のマーケット)というらしいが、町によって異なるそうだ。日本では親しみやすい英語の「クリスマスマーケット」がよく用いられる。最近では、全国の各都市でも開催されるようになている。

 「東京クリスマスマーケット」は、本場のドイツ・ザイフェン村からやってきた高さ14mの「クリスマスピラミッド」をシンボルとし、グリューワインやクリスマス・スイーツ、ヨーロッパ風のクリスマス装飾の店舗が並ぶ本場の雰囲気さながらの屋外イベントとして、日比谷公園で2015年12月に初開催された。ドイツ・ドレスデンのクリスマスマーケットをモチーフに今年で9回目、10周年を迎える。

 日比谷公園のリニューアルに伴い、2023年、2024年は神宮外苑の絵画館前、総合球技場で開催されている。「東京クリスマスマーケット2024 in 神宮外苑」(下のチラシ)は、日本を代表するクリスマスマーケットとして、57の雑貨店や飲食店が出店しているという。チケットは平日1,000円、土日祝1,500円、初日(11/19)と12/21~25は2,000円だそうだ。

 主催:東京クリスマスマーケット実行委員会
 後援:ドイツ観光局/バイエルン州駐日代表部/ザクセン州観光局/ザイフェン村/
    東京都/新宿区/新宿観光振興協会
 協力:Trip.com/SKWイーストアジア/ファミリーマート

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2024年12月 8日 (日)

再び紅葉の平林寺

 2024年11月30日(土)、「平林寺」(埼玉県新座市)の紅葉。

 

 東武東上線志木駅の南口から、9時48分発の西武バスひばりヶ丘駅北口行きに乗車。約14分で平林寺バス停下車。

 「総門」は、県指定有形文化財(建造物) 。左手に受付があって、入山料500円。パンフには、入山料は国指定天然記念物「平林寺境内林」の整備に使われていますと書いてある。

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 「総門」からすぐに「山門」。こちらも県指定有形文化財(建造物)。

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 「山門」の先に見える「仏殿」の前で、立ち入り禁止。昔はその先の「本堂」まで拝観できたと思ったが、今は行けなくなった。

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 「半僧坊感応殿」の建物の傍にある「放生池」。かつては仏教の「放生」の儀式に使用されていたのだろうか。「放生」とは、生き物を解き放つことで、慈悲の心を示す行為。水面に映る紅葉に赤い鯉が映える。

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 「平林寺境内林」は、武蔵野の面影を残す雑木林として、国の天然記念物に指定。2009年(平成21年)11月、天皇明仁・皇后美智子夫妻(現上皇后夫妻)が訪問したと説明板にある。皇太子時代の1977年(昭和52年)以来の再訪だという。

 「野火止用水」の「平林寺堀」が、境内を通る。

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 川越藩主で幕府老中だった松平伊豆守信綱夫妻の墓(県指定史跡)。

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 約三千坪の墓域に配された墓石は、すべて大河内松平家一族歴代のもの。一大名一族の墓が、一箇所にこれほどまでに残っているのは、国内であまり例がないという。

 信綱布佐の墓所の近くに、「寛永年中 肥州島原対死亡霊等」と刻まれた島原の乱戦没者供養塔がある。

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 供養塔の左手にある説明板には、

 『寛永十四年から十五年(1637~38)にかけて肥後国天草の農民が、キリシタン信者と結合して起こした大反乱(島原・天草の一揆)を、大河内松平家の祖である松平伊豆守信綱が収めたことに由来する供養塔です。
 この戦いによって亡くなった人たちの霊をなぐさめるためと、先祖の松平伊豆守信綱の足跡を知らしめるために、三河国吉田藩松平伊豆守家の家臣である大鳴左源太が、文久元年(1861)に大河内松平家の菩提寺である平林寺に建立したものです。』

 とある。

 この供養塔について、島原の乱で亡くなった人々を悼みその霊を慰めるためのもので、「対死」すなわち敵味方双方の慰霊のため塔だと解釈する向きもあるようだが、平林寺のホームページの「山内散策」ページには、あくまでも「幕府側の犠牲者を弔う供養塔」と書いてある。

 12時過ぎに平林寺を退場。先月、紅葉前に来た「睡足軒の森」に入場。

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 平林寺バス停12時23分発の志木駅南口行きの西武バスに乗り、志木駅ビルEQUiA(エキア)の2階「すし三崎丸」でランチし、帰路へ。

 

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 「野火止用水を歩く」 2024/10/27投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2024/10/post-6b33d1.html

 「紅葉の平林寺」 2014/11/28投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-55bd.html

 

 ★★★

 この日は、紅葉の時期の土曜日で、天気も良く、境内は家族連れなどで賑わっていた。外国人も多かった。今年の紅葉は全国的に遅れていて、「平林寺」でも全山紅葉とまでには至っていないが、それなりに楽しめた。「平林寺」の紅葉期間中の人出は6万人ともいわれ、埼玉県内第1位の紅葉人気スポットだそうだ。

 近年、国内の観光地に過剰な観光客が訪れることで、「オーバーツーリズム」が問題になっている。観光地のインフラや地域社会に悪影響を及ぼし、地元住民の生活が妨げられたり、自然環境が破壊されたりする。この問題に対処するために、観光地や管轄の自治体では、訪問者数の制限や各種の規制、ルールの厳格化などの対策を講じているところもある。

 臨済宗「金鳳山 平林寺」は、「禅の修行の場であり、参拝や散策は静粛に」と平林寺のパンフやホームページに書いてある。以前は、本堂の拝観も出来たし、自由に境内を散策できたようだったが、いまは散策コースが定められていて、立入り禁止の柵があちこちに設けられ、散策する範囲が狭まっていて残念だ。

 注意事項・禁止事項として、写真・動画は個人で楽しむ限りスマホやカメラ等で手軽に撮影するもののみ。撮影用の機材(一脚・三脚、自撮り棒、レフ板、ライト、踏み台)の使用やモデル撮影、撮影会の開催は禁止。写生やスケッチ、総門・山門・仏殿の前での集合写真も禁止。飲食(弁当、軽食、酒類)、喫煙は禁止。敷物類や折り畳み椅子、スポーツ用トレッキングポールの使用禁止。ガイドや案内説明の行為、ペット(ケージに入っていても)の入山、動植物の採取も禁止。ゴミは持ち帰り、御朱印帳の記帳はない等々・・・とけっこう細かい。

2024年12月 7日 (土)

秋の矢作川上流域

 2024年11月21日(木)、秋の矢作川上流域。長野県、岐阜県と愛知県を巡る。

 5:40上信越自動車道を佐久ICで降りて、県道44号、国道142号を経由し岡谷ICからへ中央自動車道へ。7:05辰野PAで休憩。飯田市の飯田山本ICで高速を降りて、国道153号線を南下する。阿智村を経て、8:20平谷村の道の駅「信州平谷」で休憩。

 赤坂峠を越えると最初の目的地の長野県根羽(ねば)村に入る。根羽村を走る国道153号線沿いに「信玄塚」の標識があった。諸説あるようだが、ここは戦国武将・武田信玄が絶命したと伝わる場所。信玄は、三河国に侵攻して家康を敗退させたが持病が悪化、甲斐国に撤退する途中でこの地で没した。

 矢作川支流の小川川沿いに国道153号線を更に南下し、 根羽村の役場を過ぎてから左折、8:45黒地集落に到着。棚田が広がるこの辺りの標高は、610m。

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●黒地の柿の木
 長野県下伊那郡根羽村黒地(8:45~9:25)

 樹齢150年の柿の木は、今年は「成り年」だそうで柿は実っているが、青い葉が残っていて秋の柿の木の風景とはどこか違う。

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 早朝、雨が降ったようで、地面から蒸気霧が上がっている。

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 根羽村の「黒地の柿の木」は、写真愛好家たちの撮影スポット。葉が落ち赤い実が残った木と根元にある苔むした物置小屋が調和し、昔話の一コマのような写真が撮れると評判だそうだ。今年は、青葉が茂って主役の柿の実が目立たない。

 近くのドウダンツツジは、真っ赤に染まっていた。

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 矢作川に沿って国道153号を走り、いったん愛知県豊田市の国道257号を経て、矢作川に架かる「出合橋」を渡ると岐阜県恵那市。「奥矢作さくら街道」(県道20号)を矢作川を左に見て走ると、「奥矢作湖」の湖畔に「大野公園」がある。
 

●大野公園 岐阜県恵那市串原 大野公園 10:00~10:30

 カエデが紅葉。ここは標高305m。

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 ツタの葉は紅葉しているが、モミジは青い。

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 岐阜県の南東部の恵那郡にあった串原村は、2004年10月に周辺自治体との合併で消滅。合併後は恵那市の大字として串原が旧村域に設定されている。

 「奥矢作湖」の下流(右手方向)に「矢作ダム」がある。

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 「矢作ダム」は、愛知県豊田市と岐阜県恵那市にまたがる、一級河川・矢作川本流最上流部に建設されたダム。「矢作第一ダム」とも呼ばれる。国土交通省直轄のダムで、高さ100mのアーチ式コンクリートダム。矢作川の治水と愛知県西三河地域への利水、水力発電を行う多目的ダム。矢作川水系では最大規模。「矢作ダム」による人造湖は「奥矢作湖」。

 「矢作ダム」 出典:ウキメディア・コモンズ

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 公園内にある「恵那市串原郷土館」は、串原地区の文化財の収集保存、公開する施設。1968年(昭和43)、恵那郡串原村の「串原村郷土館」として開館。2004年(平成16)に合併で恵那市となると、「串原郷土館」に改称した。建物は「奥矢作湖」に水没した久木地区の農家(江戸時代末期建築。茅葺屋根の木造平屋建)であり、串原村が建物の寄贈を受け、移築した。1979年(昭和54)に串原村指定文化財(2004年に恵那市指定文化財に再指定)となっている。

 ここには、当時の村の生活文化を現代に伝える民具が600点以上も展示されているそうだ。 10:00を過ぎた時刻だが、建物は閉まっている。後で知ったが、利用する際は事前予約が必要だという。

 「恵那市串原郷土館」 恵那市観光協会串原支部のホームページから転載。

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 建物は、2016年(平成28)にリノベーションが行われ、「サトノエキカフェ」がオープンした。カフェの「フェースブック」を見ると、11月のカレンダーでは営業日は土日を中心に1カ月の1/3程度。12月1日~桜の頃まで冬期休業だとか。

 前庭には、水没集落から移築した「三十三体仏」が「奥矢作湖」を向いて立っている。岐阜県内には、一石三十三観音が多数存在しているようだ。この恵那市指定文化財「彫刻石造三十三一石観音」は、 1846 年(弘化3)の作で彫りも深く、保存状態も良い。

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 矢作川に沿って西進し、県道11号から、右折して矢作川に架かる「有平橋」を渡って国道354号線。恵那市の「大野公園」から35分ほど、11:10豊田市も「小原ふれあい公園」着。

 

●小原ふれあい公園 愛知県豊田市小原町  11:10~12:30

 公園では、「四季桜まつり」が開催中。

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 「小原ふれあい公園」と隣接する豊田市役所小原支所の周辺には約300本もの四季桜が植えられており、春は3月中旬~4月上旬、秋は10月下旬~12月上旬に花を咲かせるという。春に比べて秋の方がより満開になるので、ピンクの桜と紅葉のコラボを楽しむことができる

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 「小原ふれあい公園」に隣接する豊田市市役所の小原支所。標高280m。

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 愛知県西加茂郡小原村は、2005年(平成17)4月豊田市に編入合併され、小原村は廃止された。

 「小原ふれあい公園」を出て、国道419号線を北へ。「小原和紙のふるさと」(小原和紙美術館)を経て5分ほどで「川見四季桜の里」。
 

●川見(せんみ)四季桜の里 愛知県豊田市川見町  12:35~13:30

 川見町は、旧小原村の大字川見。川に沿った山全体に1200本の四季桜と紅葉のコントラストが広がる。標高360m。

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 川見の「四季桜の里」にある「川見薬師寺」は、真言宗高野山派の古刹。

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 本堂は、急勾配の石段を88段、33段、42段と登った上にある。

 真言宗「瑠璃光山薬師寺」の本堂。本堂の標高495m。

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 開山は不明だが、現在の伽藍は江戸末期から明治初期にかけて建立。本尊の木造薬師如来像は室町時代末期の作と伝わる。灯籠と如来像は、豊田市の指定文化財。

 四季桜は、小原地区の各地で咲いていて、「四季桜まつり」はあちこちで開かれている。

 13:30「川見四季桜の里」を後にして、往路と逆順で帰路へ。
 

 15:40中央自動車道の駒ヶ岳SAで休憩。山頂が雲に隠れた「仙丈ヶ岳」(中央)と冠雪の「甲斐駒ヶ岳」(左手)を展望。

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 16:25岡谷ICで高速を降り、佐久ICから関越自動車道。18:15横川SAで休憩。横川SAでは、いつも「峠の釜めし」を購入するが、値段が高いのでやめた。米などの食材、燃料や物流費の高騰で、10月15日から 「峠の釜めし」は、1,400円(税込み)に値上がりしていた。

 「峠の釜めし」は、過去1,000円の時もあって買いやすかった。 2020年1月には1,100円に、2022年4月より1,200円、2023年7月に1,300円と値上がりしていた。また、「益子焼の器が重い」というの声を受け、誕生したパルプモールド素材の白い容器がある。原料はサトウキビの搾りかす等を使用した環境にやさしく、値段も陶器より100円安かったが、今回陶器と同じ価格になっていた。

 

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●今年の遅い紅葉

 今年9月の気温はかなり高く推移し、特に中旬の最低気温は平年より5℃程度高くなった。10月~11月も平年より高めの傾向は続き、12月も平年並み、または高めの気温が予想されている。日本気象株式会社の11月26日の予想では、紅葉の色づきは各地で平年より遅く進むとのこと。東日本の山間部では10月下旬から12月中旬にかけて、平野部では11月下旬から12月下旬にかけて見頃となる見込みだそうだ。

●一級水系矢作川

 矢作川または矢矧川(やはぎがわ)は、長野県・岐阜県・愛知県を流れて三河湾に注ぐ河川。一級水系矢作川の本川。最上流部は「根羽(ねば)川」とも呼ばれる。矢作川は、その源を中央アルプス南端の長野県下伊那郡大川入山(標高 1,908m)に発する。大川入山付近を境として北西側は木曽川水系、東側は天竜川水系へと分かれている。

 矢作川は、飯田洞川、名倉川などの支川を合わせて愛知、岐阜県境の山岳地帯を貫流し、平野部で巴川、乙川を合わせて、その後、矢作古川を分派して三河湾に注ぐ。「小原ふれあい公園」の近くを流れる「犬伏川」(いぬぶせがわ)や「川見四季桜の里」の中を流れている「田代川」も矢作川の支川。

三十三観音と二十二夜塔

 恵那地方では、江戸時代の中・後期に観音信仰が盛んになり、西国、坂東、秩父の霊場巡拝が行なわれたそうだ。当時としてはこれらの霊場を巡礼参拝することは、時間的、経済的にも大変なことであった。大野公園の「石造三十三観音」は、西国三十三霊場を巡拝に行けない個人が、自分の屋敷内に建立して祭ったいたものを移築した。(恵那市教育委員会の説明板から抜粋)

 「石造三十三観音」の右手に「二十二夜神」の石塔がある。「三十三体仏」とは関係なさそうだが、月待行事を行った供養の記念として建てた月待塔(つきまちとう)の一つのようだ。月待行事は、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜など、「講中」と称する信者たちが月の出を待って集まり、ともに飲食したあと経などを唱え、月を拝み、悪霊を払うという行事だった。

 一般的に「二十二夜」の塔は、旧暦22日の月待ちを記念して建立され、ほとんどは女人講(安産祈願やおしゃべり)や念仏講(高齢者が念仏を唱える)だったそうだ。「二十二夜」と刻まれた文字塔のほか如意輪観音が彫られた塔もある。群馬と埼玉を中心に、東日本に多く分布するという。ここには「二十二夜神」と彫られているので、当時「神」も「仏」も同じ祈りの対象だったのだろうか。

●小原の四季桜

 シキザクラ(四季桜)は、バラ目バラ科サクラ属のサクラ。エドヒガン系の中のコヒガン系の栽培品種で、マメザクラとエドヒガンが交雑した種間雑種で、春と秋から冬にかけての二度開花する二季咲きが最大の特徴だそうだ。最大の特徴は、ジュウガツザクラ、コバザクラ(フユザクラ)、コブクザクラ等の品種と同じく、春と秋から冬にかけて咲く二季咲きであり、広義の冬桜の一つ。

 新芽の時期には葉と一緒に花をつけ、紅葉の時期には葉が落ちるころに花をつける品種で、花は春のほうが大きく、秋は小さめの花を咲かせるという。豊田市小原地区には、約10,000本の四季桜が植えられている。秋の開花の時期には、「小原四季桜まつり」が開催されることで有名。見ごろは10月下旬~12月上旬、最盛期は11月上旬~11月下旬頃。地区内に数カ所あるまつり会場では、出店やイベントも楽しめる。

 この小原のほかの「四季桜」の名所に、朱塗りの鳥居とともに四季桜を観賞できる宮城県塩竈市の志波彦神社と塩竈神社がある。初詣の時期などに開花をしている場合もあるという。京都府立植物園(京都市左京区)では、園内の半木(なからぎ)神社近くに寒咲きの桜を集めたコーナーがあるそうだ。

2024年10月27日 (日)

野火止用水を歩く

 2024年10月24日(木)、埼玉県新座市の「野火止用水」に沿って約10Kmのコースを歩く。


 東武東上線「志木駅」南口を10:30出発。

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 鉄腕アトムがコースを案内。

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 駅から住宅街を通る「野火止用水」は、暗渠(あんきょ)。

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 やがて用水路が現れるが、水量は少ない。

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 用水路に架かる小橋を渡ると、そこは「野火止用水公園」。

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 「野火止用水公園」を通り抜け、川越街道(国道254号線)に架かる歩道橋(野火止用水緑道橋)を渡る。

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 歩道橋を渡るとすぐに「野火止公園」。公園の前に立つ「埼玉県指定史跡 野火止用水」の石碑には冒頭、次のような内容の和歌がある。

 「聞かでしも 其の名はしるし 玉河の 流れの末の いとど澄めれば」

 1811年(文化8)、吉田藩主・松平信順(のぶより、松平信綱の嫡流で8代目)は信綱の150回忌に墓所のある「平林寺」を訪ね、著作「野火止紀行」の中に、「野火止用水」の清らかな流れを詠んでいる。「玉河」は「玉川」、つまり「多摩川」のこと。

 

 

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 吉田藩(愛知県豊橋市)は7万石を領する三河最大の藩であった。東海道の要衝にあったため、譜代大名が配置された。江戸時代後期の約140年間は、大河内松平家が7万石で治めた。同家は松平信綱を祖とする譜代大名で、代々の藩主は伊豆守を名乗った。信綱をはじめ、信祝(のぶとき)、信明(のぶあきら)、信順の四人が老中を務め、最後の藩主信古(のぶひさ)も幕末の混乱期に大阪城代を務めるなど、譜代大名としての重責を担った。 

 子どもの遊具がある「野火止公園」で、11:50~12:25休憩・昼食。

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 「野火止公園」の脇を流れる「野火止用水」。

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 「野火止用水」に沿って「野火止用水緑道」を歩く。

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 「野火止緑道」は、左手の広大な「平林寺」の境内林と「野火止用水」が一体となっている武蔵野の風情を色濃く残す遊歩道として、多くの市民やハイカーに親しまれている。

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 「平林寺」の広大な境内林が終わり「陣屋通り」に架かる「伊豆殿橋」。

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 やがて「野火止用水」は、フェンスの下を走る関越自動車道の上をまたぐ「掛樋(かけひ、かけとい)」と呼ばれる水道橋を流れる。

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 ここから「本多緑道」。「野火止用水」の清流に沿って春には数多くの桜が咲き乱れるという。

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 「本多緑道」のあたりの「野火止用水」は、昔ながらの素掘りで築かれ、春になると山桜やソメイヨシノなどの桜の名所としても知られている。また緑道の右手一帯には「本多の森」が広がる。その一角の「本多の森お花畑」には、夏にはヒマワリ、春には菜の花が咲き、自然を満喫できる遊歩道となっている。更に森の先には、スポーツ施設の「新座市総合運動公園」がある。森の中のマレットゴルフ場で休憩。

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 13:35「野火止用水」分岐点。左は本流、右の「平林寺堀」の方向に折り返す。

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 「平林寺」の境内に向かって流れる「平林寺堀」に沿って、「野火止史跡公園」の細い道を歩く。

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 史跡公園の石碑には「平林寺林泉二ソソグ野火止用水…史跡景観保存地域ニ依り大切…管理スベキ事 昭和十九年二月 埼玉縣」とある 。よく読めないが、太平洋戦争中の1944年(昭和19)に埼玉県が建てたもの。

 「西屋敷通り」を歩くと、右手の歩道と用水は道路よりも高い所を流れている。地形の高低差の関係で「築樋(つきどい)」と呼ばれる土手を築いて、その上に水路を開削するという工事が約800m続いている。写真は、Googleマップより転載。

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 このあたりは、用水路を道路が横切るたびに水は道路の下をくぐって、また高い位置に続く。また水路が道路右側から左側に、道路をくぐって移動する。このようなサイフォンの原理で水を通しているのは、明治以降の工事による。

 関越道を越えた用水は、バス通りから離れて「平林寺」に向かう。

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 用水からしばし離れて 「新座市保健センター」の建物の中にある「新座市立歴史民俗資料館」(愛称:れきしてらす)に寄る 。14:00~14:30、見学・休憩。

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 「歴史民俗資料館」は、新座市の歴史、民俗、考古などに関する資料の収集や保存、展示する施設。片山一丁目にあった旧資料館は閉館し、2023年(令和5年)4月に「保健センター」との複合施設として野火止二丁目に開館した。

 ワンフロアーに原始時代の石器・土器から始まり、古代・中世を経て、近世・江戸時代に開削された「野火止用水」に関わる新田開発関連資料などの各種資料や、昭和30年代まで新座の中心産業であった農業に関連した生産・生活用品、伝統芸能の「中野の獅子舞」の資料などの民俗資料が展示。

 臨済宗「平林寺」の総門前を歩く。入山せず。

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 「平林寺」は、南北朝時代の1375年(永和元)、現在のさいたま市岩槻区大字平林寺に創建。1663年(寛文3) 川越藩主・松平信綱の遺志をうけて、子の輝綱が菩提寺として野火止台地に移転した。約40haの広大な境内を有し、武蔵野の面影を残す雑木林として、1968年(昭和43)に国の天然記念物に指定。松平信綱夫妻墓(埼玉県指定史跡)がある。

 「平林寺境内林」の国の天然記念物のほか、「睡足軒(すいそくけん) 」(国の登録有形文化財)、1,000坪の広さを有する池泉廻遊式庭園 の「平林寺林泉境内」(県指定名勝)、総門、山門、仏殿、中門などが県指定有形文化財に指定されている。「平林寺」の紅葉は有名で、赤、黄、緑の彩りの美しさが特徴。「平林寺」の総門前から「平林寺大門通り」を北へ60m程先、道路の対面に「睡足軒の森」がある。

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 「睡足軒の森」は「平林寺境内林」の一画で、武蔵野の雑木林の面影を残す。2002年(平成14)「平林寺」から新座市へ無償貸与され、一般に開放されている。 園内には、「睡足軒」(下の写真)がある。松永安左エ門(松永耳庵)が、もともと飛騨高山周辺に建てられていた江戸後期の民家を1938年(昭和13)に当地へ移築し草庵とした。

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 安左エ門は、長崎県壱岐出身。明治末期から昭和にかけて長く電力業界で活動した実業家で、茶人としても著名。「睡足軒」に親しい友人を招き、「田舎家の茶」を楽しんでいた。

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 新座市役所前の信号を左折、「こもれび通り」「川越街道」を経て、JR武蔵野線「新座駅」南口に15:35到着。

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●野火止用水

 「野火止」という地名は、その昔、焼き畑が行われた頃にその火が人家に及ばないように、塚や堤を築いて止めた「野火止塚」に由来し、「のびどめ」または「のびとめ」と読む。

 「野火止用水」は、1655年(承応4年)に川越藩主・松平伊豆守信綱が、江戸の上水道である「玉川上水」を完成させた功績により許可を得て、家臣の安松金右衛門に命じて武蔵野開発の一環として「玉川上水」(東京都小平市)に7分、「野火止用水」3分の割合で分水した。用水の開削は、野火止台地を経て新河岸川に至るまで全長24Km。工期40日、費用は3000両。野火止の開拓民や移転してきた「平林寺」や「陣屋」等の貴重な飲料水・生活水として使われた。

 開削に前後して川越藩では農民や家臣を多数入植させ、灌漑用水として大規模な新田開発も行った。「野火止用水」の開削によって人々の生活が豊かになったことを信綱に感謝し、信綱の官位である「伊豆守」にあやかって「伊豆殿堀」と呼ぶようになったという。

 なお、松平信綱の孫・松平信輝が下総古河に移り、替わって川越城に入った柳沢吉保がその後甲府城へ移ると、信綱の弟で高崎城主松平輝貞が、周辺の知行と近くの菩提寺「平林寺」を守るために、1704年(宝永元年)が「陣屋」を構え、家臣を住まわせたという。「陣屋堀」跡は「平林寺堀」と同様、「野火止史跡公園」から分水し現在の「水道道路」を通って「陣屋バス停」付近に達していた。

 太平洋戦争中の1944(昭和19)年には、「史蹟名勝天然記念物法」に基づき埼玉県指定史跡となっている。しかし、戦後の1949(昭和24)年頃から生活様式が変化すると、生活排水が用水に入って汚染が始まり、飲料水や生活用水としての利用が問題になった。特に1963(昭和38)年頃から宅地化が進み、水質汚染が激しくなる。さらに1964年(昭和39)関東は大干ばつに見舞われ、東京が水不足で「野火止用水」への分水が中止された。

 写真は、新座市教育委員会のパンフ「のびどめ用水を歩く」から転載。

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 1966(昭和41)年、再度通水されるようになるが水量が制限、水質汚染は改善されず、1973(昭和48)年には東京都の水事情の悪化によりついに玉川上水からの取水が停止。次第に用水路には蓋がされ、暗渠化されていくようになる。

 しかし、歴史的にも貴重な「野火止用水」をよみがえらせようとの住民の機運が高まり、東京都は1974(昭和49)年には都内の「野火止用水」とその周辺の緑地が「東京都における自然の保護と回復に関する条例」に基づき「野火止用水歴史環境保全地域」に指定、保護されることとなった。下水処理水をさらに浄化した高度処理水を流水に活用する「清流復活事業」を実施した。

 埼玉県と新座市は、文化的業績の大きい「野火止用水」を滅ぼしてはならないと「野火止用水復原対策基本計画」を策定して、用水路の浚渫(しゅんせつ)や氾濫防止のための流末処理対策を実施。1984(昭和59)年には「野火止用水」に流水がよみがえり、現在に至っている。新座市では「野火止用水クリーンキャンペーン」として、例年8月に学校、市民や団体による清掃活動を行い、「野火止用水」への愛護啓発・世代間交流・ボランティアのネットワーク拡大を図る活動も行っているという。

 「野火止用水」は、「野火止用水史跡公園」(新座市本多1丁目)で本流と「平林寺」へ分岐する「平林寺堀」と「陣屋堀」(現在は廃止)に分かれる。また現在は、関越自動車道を「掛樋(かけひ)」で越えている。新座市野火止付近から志木駅周辺は、暗渠となっている。
 

●松平信綱

 源氏の流れを引くという三河国大河内郷の大河内氏は、大河内信貞のとき徳川家康に仕えた。その子は秀綱。孫の正綱(秀綱の次男)は、家康の命で徳川氏一族の長沢松平家(松平氏の庶流)の養子となって松平姓を与えられ、以後は大河内松平家となった。

 信綱は、大河内秀綱の長男で家康の家臣・大河内久綱の長男として、1596(慶長元)年に武蔵国に生まれた。6歳にて自ら望んで叔父(久綱の弟)・松平正綱の養子となり、江戸幕府第3代将軍となる家光の小姓として出仕、そのまま老中まで登り詰めた。家光亡き後も第4代将軍家綱の老中として留任、幕藩体制の完成に大きく貢献した。幕政下では「島原の乱」鎮圧、「明暦の大火」処理、また第5代川越藩主として「玉川上水」「野火止用水」の掘削等を行い、数々の優れた手腕は「知恵伊豆」と称えられた。

 信綱の遺言により、岩槻にあった「平林寺」は野火止の地に移され、信綱の興した大河内松平家の祖廟となった。廟所は約3,000坪。信綱夫妻の墓(埼玉県指定史跡)を含む160基余りの一族の墓石が、この地を見守るように並んでいる。写真は、2014年11月26日に筆者撮影の松平信綱夫妻の墓。

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 信綱は、「島原の乱」の幕府軍総大将として鎮圧の勲功を賞され、1639年(寛永16)1月には3万石加増の6万石で、川越藩に移封された。更に信綱は、城下町川越の整備、江戸とを結ぶ新河岸川や川越街道の改修整備、「玉川上水」や「野火止用水」の開削、農政の振興などにより藩政の基礎を固めた。また、キリシタン取締りの強化や武家諸法度の改正、ポルトガル人の追放を行い、オランダ人を長崎の出島に隔離して鎖国制を完成させた。

 1638年(寛永15)11月に土井利勝と酒井忠勝が名誉職である大老に就任すると、信綱は老中首座になって幕政を統括した。1639年(寛永16)8月に江戸城本丸が焼失すると、その再建の惣奉行を務めた。1651年(慶安4年)4月の家光没後はその息子で第4代将軍となった徳川家綱の補佐に当たり、1657年(明暦3)1月の明暦の大火などを対応。1662年(寛文2)3月に老中在職のまま死去した。享年67(満65歳没)。

 松平信綱とその子孫は代々「松平伊豆守」を名乗り、下総古河藩・三河吉田藩と移りながら老中を何人か輩出した。信綱の五男・信興は下総土浦藩に封ぜられ、養子輝貞からは上野高崎藩主として幕末に至った

 

●鉄腕アトム

 手塚治虫の「手塚プロダクション」は1988年(昭和63)、新座市にアニメ制作「新座スタジオ」を建て、本社の高田馬場から制作部門が 引っ越して来た。手塚の自宅は東久留米市だが、距離が近くて環境の良い新座は、「平林寺境内林」や近郊の雑木林を大変気に入っていたという。スタジオを建てた翌年の1989年(平成元)、手塚は60歳で早世した。

 新座市は2003年(平成15)、鉄腕アトムを特別住民に登録している。また、JR武蔵野線「新座駅」の発車メロディは、山手線「高田馬場駅」と同様に音色は異なるが、テレビアニメ『鉄腕アトム』の主題歌が使われている。

2024年8月13日 (火)

夏の赤城自然園

 1924年8月9日(金)、群馬県の赤城山中腹にある「赤城自然園」(渋川市)のほか、「丹生ひまわり畑」(富岡市)と「こんにゃくパーク」(甘楽町)に行く。

 

 このところ天候不順で、数日前から雨の予報で心配したが、夜のうちは雨だったが朝には止んで曇りから晴れ。

 小型バスに9人が同乗し、8:00出発。関越道の赤城ICを下りて、渋川市赤城町の「赤城自然園」には9:05着。

 

●赤城自然園 9:05~11:15

 入園料1,000円(セゾンカードの提示で500円)。標高600~700mにある夏の「赤城自然園」は、木漏れ日や吹き抜ける風が爽やか。

 「赤城自然園」には過去数度ほど訪れているが、 今回は「自然生態園」の北東の端にある「レンゲショウマの苑」に初めて向かう。

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 標高675mを示す「三角点」を通過。

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 「ミズスマシの池」は、周囲の木々の緑を移す湖面が涼しげ。

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 「レンゲショウマの苑」へ向かう遊歩道の途中でも、レンゲショウマがチラホラ咲いている。

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 「レンゲショウマの苑」は 園内でも最も標高の高い場所に位置し、約100mにわたって遊歩道沿いに森の妖精・レンゲショウマが群生、ちょうど満開。

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 11:15「赤城自然園」を出発、伊香保(渋川市伊香保町)に移動。

●山一屋 11:50~12:45

 予約してあった県道15号線沿いの手打うどん店「山一屋」(北群馬郡吉岡町)で昼食。

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 はちみつを練りこんだオリジナル麺の「山一屋」。水沢観音の「水沢うどん街道」からは、南に2.5Kmほど離れたところにあり、「水沢うどん」を名乗っていないが、オリジナルのツヤツヤ、ツルツル麺のうどん店。もりうどんと舞茸天盛り合わせを注文。麺も天ぷらもボリューム満点。食べきれず持ち帰る人も。


丹生ひまわり畑 14:05~14:25

 伊香保町から安中市を経て、富岡市丹生(にゅう)地区の「丹生湖」を見下ろす小高い丘(およそ2.5ヘクタール) にある「丹生ひまわり畑」へ。入園料、駐車料は無料。

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 例年7月下旬から8月中旬まで、約11万本を超えるひまわりが咲き誇る。 

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こんにゃくパーク 14:55~15:40

 「こんやくパーク」(甘楽郡甘楽町)で、こんにゃくの無料バイキング、買い物や工場見学を楽しむ。入場無料。

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 こんにゃくを様々なアレンジ料理で楽しめる無料バイキング。スイーツバイキングコーナーもある。

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 おみやげゾーンもすごく混み合っている。「こんにゃく詰め放題」、「ゼリー詰め放題」が毎日開催。

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 工場見学では、「板こんにゃく製造ライン」、「しらたき製造ライン」、「ゼリー製造ライン」の3つの工程を2階から見学できる。

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 予定通りのスケジュールで、16:40出発地に帰着。

 良い天気だったが、到着間近になって雨が降りそうな雲行き。出発地に到着直後に雨が降り出し、自宅への帰りの路線バスの中では豪雨。

 バス停から自宅まで、傘を差してもビショ濡れになった。

 

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 「秋の赤城自然」 2022/11/27投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2022/11/post-5adad6.html

 「初夏の赤城自然園」 2019/06/21投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2019/06/post-7a81a6.html

 

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●水沢うどん

 水沢うどんは、渋川市伊香保町の水沢付近で名物料理とされるうどん。一説にによれば、「讃岐うどん」(香川県)、「稲庭うどん」(秋田県)と並んで、「日本三大うどん」の一つとされる。「水沢うどん」は、400年余り前に、「水沢観音」(水沢寺)付近で参詣客向けに手打ちうどんが振る舞われたのが起源で、今でも小麦粉、塩、水沢の水だけを使い、こね、踏み、寝かしの後、麺に切って干す、といった伝統手法で作られる。

 麺は若干細めで、コシと弾力があり、ところどころ透き通るツルツルした白い麺。冷たいざるうどんで提供される場合が多い。つけ汁は、しょうゆだれやゴマだれなど、店によって異なる。麺は、お土産用として販売されている。また、パック詰めの冷蔵生麺が、群馬や関東一帯の一般的なスーパーでも販売されているそうだ。

 「水沢うどん商標登録店組合」に、水沢寺近くの「水沢うどん街道」周辺の13軒の店が加盟している。

2024年7月25日 (木)

八島湿原と車山肩

 2024年7月22日(月)、長野県下諏訪町、諏訪市の「八島湿原」を散策し「車山肩」に寄る。

 「八島湿原」は、長野県のほぼ中央に位置する「八ヶ岳中信高原国定公園」中部の「霧ヶ峰」高原の北西部に位置する標高約1632mの高層湿原。湿原の所在地は諏訪市及び下諏訪町にまたがる。苔や湿地の生き物の宝庫で、総面積43.2ヘクタールの高層湿原。国の天然記念物・文化財に指定されている。

 

 上信越道から中部横断道の佐久南ICを9:45に下り、国道142号線(一部国道254号と重複)を西に向かって走る。

 10:05、立科町の道の駅「女神の里たてしな」で休憩。販売所「農ん喜村(のんきむら)」は、新鮮なトウモロコシなど地元産の野菜、立科町産の加工食品、オリジナル商品も並ぶ。

 道の駅を出て35分後、国道142号線(旧中山道)を南西に進むと「通行止め」の看板あり。長和町の大和橋Y字路を左に曲がり、「大門街道」(国道152号線)の諏訪・白樺湖方面に迂回。大門峠で右折して 霧ケ峰の表示のある「ビーナスライン」(県道40号線)に入る。「ビーナスライン」のドライブルートは、高度を上げながら開放感あふれる高原のすばらしい絶景が広がる。

 11:15、「白樺湖展望台駐車場」で休憩。展望台から「白樺湖」と「蓼科山」を望む。

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 「蓼科山」は、八ヶ岳連峰の北端に位置する標高2,531m火山。コニーデと呼ばれる台地状の火山に、美しい円錐型のトロイデを重ねた複式火山。別名「女の神山(めのかみやま) 」や「諏訪富士」の別名を持つ

 「八ヶ岳連峰」の全容を身近に展望。

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 県道194号線の「ビーナスライン」を経て、11:40「八島湿原」の駐車場(普通乗用車約100台、無料)に到着。平日だが混んでいて、3、4台の車列に並んで何とか駐車できた。

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 左手の建物が、下諏訪町立の「八島ビジターセンターあざみ館」。右手は、みやげ・宿泊・食事の「八島山荘」。

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 12:05、ビジネスセンターを見学。「八島湿原」のジオラマ、断面模型による形成の成り立ち、高原に生きる動物や鳥たちや亜高山植物を紹介。「霧ヶ峰高原」一帯には、人が居住していたとされいて旧石器時代の遺跡が多く、黒曜石の石器が大量出土する国内有数の黒曜石の産地。また2階では四季折々の自然の姿をビデオで放映。

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 12:15、ビジターセンターを出て、「ビーナスライン」(県道194号線)の下をくぐり、「八島湿原」の入口「八島湿原展望台」広場へ。

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 広場の端の木陰で昼食。

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 広場には、『あざみの歌』の歌碑があった。「山には山の愁いあり 海には海のかなしみや」の『あざみの歌』は、1949年(昭和24年)にNHKラジオ歌謡で発表。作曲は『さくら貝の歌』で知られる八洲秀章。作詞は『さよならはダンスのあとに』、『下町の太陽』などを手掛けた横井弘。

 横井は、戦後に転居した長野県下諏訪で、自然散策をしながら15編余りの詩をしたためた。野に咲くアザミの花にみずから思い抱く理想の女性の姿をだぶらせて綴った、最も気に入った一編が「八島湿原」で書かれた『あざみの歌』だったという。

 広場から「八島湿原」を展望。

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 12:45、「八島湿原展望台」広場を出発、木道を歩く。1周約3.7㎞。高低差もあまりなく、2/3は木道。途中には休憩所もあり、90分くらいで散策が楽しめる。

 時計廻りで木道を歩き始めてすぐの「八島ヶ池」。

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 正面の山は「車山」、気象レーダーが小さく見える。

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 13:05、「鬼ケ泉水(おにがせんすい)」の近くで、休憩。

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 ニッコウキスゲ、アヤメ、ノアザミ、シシウド、コバイケイソウの花もチラホラ咲いている。 ここのニッコウキスゲは、盛りを過ぎた感じ。

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 「八島湿原」の中で一番大きい「鎌ケ池」。

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 この木道の先は、現在休止中の「奥霧小屋」と「奥霧キャンプ場」、トイレの建物がある。

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 13:15、トイレ休憩。トイレはバイオトイレで、チップ制。

 近くに『山小舎の灯』の歌碑(1988年建立)があった。この歌は戦後まもない1947年(昭和22年)に発表された。作詩、作曲したのは米山正夫。歌ったのは近江俊郎。ラジオから流れたその曲は、たちまち知れ渡りヒットした。

 『山小舎の灯』の歌詞では、「暮れゆくは白馬か穂高は茜(あかね)よ」のように、北アルプスの山々と山小屋の情景が歌いこまれている。しかし「八島湿原」には歌の舞台ではなく、モデルになった山小屋もない。どのような経緯でこの地に歌碑が設置されたのか不明だそうだ。

 遊歩道には「鹿よけのネット」が張られえており、その出入口が2個所ほどある。

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 しばらく林の中の木道を歩く。

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 再び視界が開け、湿原を一望。

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 14:00、ハート型の湿原を一周して、広場に戻る。14:15、駐車場を出発。

 「ビーナスライン」(県道192号線)を北上して和田峠の方へ向かおうとしたが、「通行止め」の看板、来た道を戻る。和田峠トンルのある国道142号の旧道区間で道路路肩の崩落が確認されたため、この旧道区間が全面通行止めとなっているらしい。 

 二度の迂回のたため1時間近くのロス。次に予定していた「権現の湯」(立科町)で汗を流すのは、割愛。

 14:45、「ビーナスライン」沿いの「車山肩」の駐車場(180台、無料、一部有料)に車を駐める。ちょうどニッコウキスゲが満開。

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 「車山」の山頂に設置された「車山気象レーダー観測所」が見える。

 ここはニッコウキスゲが群生しているが、ロープが張られ、電気柵が設置されていて近づいて撮影できないのが残念。

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 「車山」は、長野県茅野市と諏訪市の市境に位置する「霧ヶ峰」の最高峰、標高は1925mで、日本百名山。諏訪市にある「車山肩」は、「車山」への登山口で標高1,800m。バス停や駐車場がある。ここから「車山」山頂までゆっくり歩いて45分ほど。13年前に登ったことがある。

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 丘の上から、車山と反対方向(西の方角)を望む。

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 車山肩の売店のソフトクリームは人気があるそうで、買って食べたがちょと高い(460円)。

 15:25、「車山肩」を出発、中部横断道へ。途中上信越道の横川サービスエリア夕食用の「峠の釜めし」(1,300円)を購入。釜飯は、買うたびに値上がりしている。

 18:15、出発地に帰着。18:30帰宅。

 天気に恵まれ、快適な高原のドライブと涼しい湿原の散策、ニッコウキスゲを楽しめた。

  

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 「八ヶ岳北横岳・霧ヶ峰車山高原」  2011年9月26日 (月)投稿

  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/20110723-24-5f5.html

 

 ★ ★ ★

●ビーナスライン

 「ビーナスライン」は、茅野市街から蓼科湖、白樺湖、車山高原を経由して美ヶ原に至る観光道路。戦時中は国鉄茅野駅から郊外の花蒔(はなまき)という駅まで鉄道が敷かれていて、花蒔よりさらに山奥の鉄山から鉄鉱石を掘り出して、茅野駅を経由して神奈川県川崎にある製鉄所に運ばれていた。その鉄道は、1944年(昭和19)年に運用を始めたものの翌年の終戦と共に廃止されたそうだ。

 その線路跡に作った道路が「ビーナスライン」で、まず1963年(昭和38年)に茅野市街から蓼科湖までの道路が開通、その後順次路線が延びて、1981年(昭和56年)に「美ヶ原」まで全線が開通。開通当初は建設費用を賄うため有料道路で、7~8ヶ所の料金所があった。「ビーナスライン」の名前の由来は1968年(昭和43)年、有料道路が大門から強清水まで開通した際に「美ヶ原」までの有料道路全線の愛称を募集、その中から「ビーナスライン」が選ばれた。

 「ビーナスライン」から望める「蓼科山」を、歌人・伊藤左千夫が「信濃には八十の群山ありといへど女の神山の蓼科われは」とうたっている女の神を「ビーナス」と呼びかえ、「美ヶ原」の「美」も「ビーナス」に通じるものとして命名者の理由にあったそうだ。

 なお、立科町のあった道の駅「女神の里たてしな」は、町のシンボルである「蓼科山」が円錐形で優雅な山容から「女の神山」と呼ばれ、水面に映す高原の湖で神秘的な「女神湖」があることから名付けられたという。

●八島湿原と八島ヶ原湿原

 「八島ヶ原湿原」と「八島湿原」は、同じ場所を指している。正式名称は「八島ヶ原湿原」、一般的には「八島湿原」とも呼ばれている。湿原は面積が43.2ha、泥炭層の厚さは約8.05m。12,000年前に誕生した高層湿原であり、日本の高層湿原の南限にあたる。

 「霧ヶ峰」には、「八島ヶ原湿原」、「車山湿原」、「踊場湿原(池のくるみ)」の3つの湿原があり、それらは1939年(昭和14年)に国の天然記念物として個別に指定された。1960年(昭和35年)に「八島湿原」の西半分の旧御料地を加え、個別に指定されていた3つの天然記念物は1件にまとめられ、指定名称が「霧ヶ峰湿原植物群落」となった。

 高層湿原の始まりは、湖沼。周囲から土砂の流入、水生植物の繁茂などが起き次第に埋められていく。標高1,000m以上の場所や高緯度地方では寒冷な気候のため、植物は腐敗・分解がしにくく泥炭となって堆積。堆積物の溜まった湖沼に植物が侵入し、湖沼はやがて湿原に変わる。この段階の湿原を低層湿原という。低層湿原は、湿原の表面まで冠水。湿原の水は地下水と雨水などにより供給され比較的富栄養性である。

 しかし、長い年月がたつにつれて湿原は泥炭が蓄積され周囲よりも高くなる。そのため、湿原は地下水からの供給が行われず雨水のみで維持されるようになり貧栄養。高層湿原に生育している植物は、主にミズゴケ。これが、湿原全体を時計皿をふせたように盛り上げていく。このようにしてできた湿原を高層湿原と呼ぶ。

 1年に約1㎜ずつ成長している「八島ヶ原湿原」。12,000年の歴史を持つ湿原の主役ともいえる18種ものミズゴケをはじめ、シュレーゲルアオガエルなどの湿地の生き物や各種の亜高山植物が多く生息していている。湿原の主役ともいえるミズゴケの種類は18種にのぼり、「八島ヶ原湿原」の約490倍もある日本最大級の「釧路湿原」とほぼ肩を並べているという。

●旧御射山(もとみさやま)遺跡

 「八島湿原」を時計回りに2/3ほど回った南東の湿原の外れに、鎌倉時代の「旧御射山遺跡」(南北370m、東西270m)がある。この地は諏訪信仰の要地で、ここ「旧御射山遺跡」は江戸初期まで「諏訪大社下社」の狩猟神事「御射山(みさやま)祭」が行われた。「旧御射山(もとみさやま)神社」は、「諏訪大社」下社の奥宮。

 遺跡では、鎌倉時代の素焼き土器(かわらけ=神事等に用いる使い捨ての土器)や、陶器・古銭等が多数出土している。「諏訪大明神」(軍神)を祀る「御射山祭」では、諏訪・甲斐を中心に関東一円から武将や幕府重臣が集い、流鏑馬(やぶさめ)、草鹿(くさじし)、 武者競馬や相撲などの奉納試合を盛大に行ったそうだ。(草鹿=鹿の形をした的に離れたところから弓を引いて腕前を競う)

 諏訪大社の最古の縁起絵巻『諏訪大明神画詞』にあるように、中央の祭場と競技場を取り囲んで丘を削った階段状の桟敷が設けられており、10万人とも言われる人数が見物に集まったとされる。鎌倉・室町時代には、神官や武将たちがここに小屋を建てて5日間籠り、農作物の豊作を祈願したという。

2024年7月 3日 (水)

八王子城跡ー居館地区

 2024年6月28日(金)八王子博物館と八王子城跡に行く。

 

 本ブログ記事「八王子博物館」の続き。

 「八王子博物館」を出て、道の駅「八王子滝山」で昼食。予定していた「滝山城趾」の散策は、雨が強くなってきたため中止。

 12:30道の駅を出て、13:00「八王子城跡ガイダンス施設」の駐車場へ入る。

 

●八王子城跡ガイダンス施設 13:05~15:30

 「八王子城」の歴史や城主・北条氏照について、映像やパネルで紹介。

 13:05施設に入館(無料)し、ボランティアガイドと合流。施設内の展示物を案内してもらう。

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 発掘調査で「御主殿跡」から出土したベネチア産のレースガラス瓶(複製)。どのように持ち込まれたか分からないが、氏照が愛用した物か?

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 「御主殿」の入口「虎口」とその周辺で多数見つかった土製の玉。近年の研究で「まきびし」であることが分かった。

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 「八王子城跡」から出土した中国・明からの輸入磁器と国産陶器。

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 「滝山城」のジオラマ。

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 「八王子城」のジオラマ。

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 13:25~15:05、屋外に出て、雨の中の「八王子城跡」をガイドの案内で散策。

 駐車場から一段上がった所に「屋外模型広場」。東屋の下に「八王子城」の地形模型がある。

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 中央の赤い札が、現在地。

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 右上に「本丸」などのある山頂付近。下の谷の部分に城主の居館「御主殿」がある。

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 「屋外模型広場」を出て、この道を直進し、急な山道を登ると「金子曲輪」を経由して山頂付近にある「本丸」に至る。

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 本日は雨ののため「本丸」のある「要害地区」へは中止し、「御主殿」跡がある道路左手の「居館地区」に向かう。

 「アシダ曲輪」跡は、私有地につき出入り禁止。ボランティアガイドと一緒でなければ見学できない。

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 城山(しろやま)川に沿って、細い山道を進む。

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 城山川を渡る。

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 「大手門前広場」。発掘調査で、この右手の階段の先に「大手門」があったことが確認されている。

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 当時、「御主殿」へ入る道として使われていた「古道」(大手道)の堀切に架かる木橋が見える。

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 「古道」を登ると復元した大きな「曳橋」(ひきばし)が見えてくる。

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 「曳橋」の下に見える山道は、江戸時代に作られた林道らしい。

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 「曳橋」の先には、何段かの石積みがあり「御主殿」至る「虎口」が見える。しかし当時こんな大きな「曳橋」が実際あったのだったのだろうか、疑問が残る。

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 「御主殿」の入口である「虎口」(こぐち)の石垣や石畳は、当時のものをそのまま利用し復元されている。石段の高さが高く、奥行きが広くて、とても登りずらい。

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 階段の踊り場の部分には、「櫓門」があったという。

 「虎口」は鉤型に曲がって、「冠木門」がある。出典:ウキメディア・コモンズ

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 「冠木門」をくぐると、広い曲輪に「御主殿」跡のレプリカの礎石。発掘された実際の礎石は、保存のため埋め戻されているという。

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 「御主殿」は、城主の北条氏照が居住した館。落城後は幕府直轄領や明治以降は国有林だったので、当時のままの状態で残っていたという。発掘調査の結果、多数の遺物が出土した。この曲輪から、茶道具や当時珍しかったベネチア産のレースガラス器の破片が見つかっている。

 要人の接待、宴会などを行った「会所」跡の床を復元。

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 「会所」から右上に入口の「冠木門」が見える。

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 「御主殿」の西側、「会所」の南側にある池や枯山水のある庭園の跡。

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 会所の南側にあるスペースは能舞台の跡か? 手前は敷石の通路。

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 「御主殿」跡を出て、城山川の「御主殿の滝」は、雨天のためすごい水量。

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 1590年、豊臣秀吉方の攻撃により「八王子城」は落城した。その際に「御主殿」にいた女、子供達が滝の上で自刃したと伝わっている。滝の水は三日三晩赤く染まったといわれている。

 15:05管理棟のある「八王子城」の入口に戻る。ガイド終了。

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 「ガイダンス施設」で休憩、ビデオを鑑賞。

 15:30「ガイダンス施設」を出発、帰路へ。

 

 ★ ★ ★

●八王子城の築城

 「滝山城」は、北条氏の三代目・氏康(うじやす)の三男・北条氏照(うじてる)の居城として知られており、多摩川や秋川を堀に利用した天然の要害で、関東随一の規模を誇った。「滝山城」は、木曽義仲の末裔で山内上杉氏の重臣である武蔵国守護代・大石定重が、1521年(永正18年)に築いたとされ、「高月城」(八王子市高月町)から移転して来たと伝えられている。

 1546年(天文15年)、関東管領・上杉憲政氏康に「河越城の戦い」で大敗し没落すると、氏康は武蔵一帯の支配を進め、定重の子・定久は氏照を娘婿に迎えて事実上、大石氏は北条氏の軍門に下った。

 1569年(永禄12年)の「滝山城の合戦」では、小田原攻撃に向かう武田信玄がおよそ2万に対し北条勢はわずか2千程と戦力差は歴然、武田勢に二の丸門まで肉迫、落城寸前にまで追い込まれた。たが、「滝山城」を最後まで打ち崩すことはできず、見事に北条勢が「滝山城」を守り抜いた。その後、天下統一を目差す豊臣秀吉に対抗するため1582年(天正10年)頃、氏照は「八王子城」の築城を開始し、1587年(天正15年)頃に「滝山城」から拠点を移した。

 標高445mの深沢山(現在の城山)に築城された山城「八王子城」は、北条氏の本城である「小田原城」支城であり、関東の西に位置する軍事上の拠点となった。平安時代、深沢山の麓、華厳ヶ谷に庵を結んだ僧・妙行(称号:華厳菩薩)が、山頂で修行中に「牛頭(ごず)天王」と8人の王子が現れたとして916年(延喜16年)に「八王子権現」を祀ったことから、「八王子城」と名付けられた。

 氏照が構想していた「八王子城」の城郭は壮大で、落城時はまだ未完成の状態であったと考えられている。城は大まかに、家臣団の屋敷や寺院など城下町に当たる「根小屋地区」(ガイダンス施設の付近から城山東側の麓)、城主氏照の館のあった「御主殿跡」などの「居館地区」、戦闘時に要塞となる本丸がある「要害地区」に分かれている。

●八王子城の落城

 小田原征伐の一環として1590年(天正18年)、「八王子城」は天下統一を進める豊臣秀吉の軍勢に加わった上杉景勝、前田利家、真田昌幸らの部隊1万5千に攻められた。当時、城主の氏照以下家臣は小田原本城に駆けつけており、八王子城内には城代・横地吉信や家臣らわずかの将兵の他、領内から動員した農民と婦女子を主とする領民を加えた約3千が立て籠った。激しい戦闘の末、城は1日にして陥落した。

 城代の横地吉信は落城前に檜原村に脱出したが、小河内村付近にて切腹している。氏照正室の比左を初めとする城内の婦女子は自刃、あるいは「御主殿の滝」に身を投げ、滝は三日三晩、血に染まったと言い伝えられている。麓の村では、城山川の水で米を炊けば赤く米が染まるほどであったと伝えられる。現代でも受け継がれている風習として、先祖供養に小豆の汁で赤飯を炊くことは、この逸話がもとになっているといわれている。

 この「八王子城の攻防戦」を含む小田原征伐において北条氏は敗北し、城主の北条氏照は兄・氏政とともに切腹した。のちに新領主となった徳川家康によって「八王子城」は廃城となった。

 2004年(平成16年)に、城山要害部の西端直下を通る圏央道の「八王子城跡トンネル」が竣工。2006年(平成18年)、「日本100名城」(22番)に選定された。

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