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2025年6月12日 (木)

東上線沿線の街歩き

 2025年6月8日(日)、東武東上線「和光市駅」から「成増駅」までの新緑の中の街歩き。
  
 
 陸上自衛隊広報センター「りっくんランド」は、朝霞駐屯地にある自衛隊の博物館・広報施設で、戦車・ヘリコプターなどの装備品が展示されている。見学後、「和光樹林公園」「大泉さくら運動公園」「大泉町もみじやま公園」「光が丘公園」などの都市公園を徒歩で巡る。

 8:54、東武東上線「和光市駅」(Googleマップ)着。

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 「和光市駅」は、埼玉県和光市本町にある東武東上線と東京メトロの駅。東武鉄道「和光市駅」の1日平均乗降人員は、およそ167千人(2024年度)、東武の駅の中では、「池袋駅」、「北千住駅」に次いで第3位。東京メトロ「和光市駅」は、1日平均およそ169千人(2023年度)が乗降する。

 「西友」和光市駅前店で、昼食用の弁当と飲みもの購入。
 
 9:10、ウォーキングをスタート。

 本町通りと本田通りの交差点から、「本田技術研究所」が見える。

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 大規模マンション「シーアイハイツ和光」の前を通る。1982年3月築、14階建て。総戸数1616戸。

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 9:35、国道254号線(川越街道)に面した「陸上自衛隊・広報センター」(陸上自衛隊朝霞駐屯地 )に到着。

 愛称「りっくんランド」は陸上自衛隊の広報施設で、陸自の組織・編成、任務・役割、活動状況を学び、戦車等の大型装備品や各種装備品を間近で見学、また疑似乗車体験などができる。陸軍予科士官学校や旧軍に係る資料を展示する「振武臺(しんぶだい)記念館」も公開。休館日:月・火曜。開館時間: 9:30〜11:45 、13:15〜16:45。入館料無料。

 装備品マネキン。左から、第1空挺団(習志野駐屯地)の隊員が落下傘と背嚢を装着、空挺隊員が上空から落下している状態、有毒ガスの防護装備、一般的な作戦での服装・装備。

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 対戦車ヘリコプターAH-1S(通称コブラ)。20mm機関砲、対戦車ミサイルTOW、70mmロケット弾を装備。

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 左奥から、94式水際地雷敷設装置、87式自走高射機関砲、89式装甲戦闘車、74式戦車、90式戦車、10式戦車。
 
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 左奥から、多用途ヘリUH-1H、75式と74式自走155mmりゅう弾砲、中距離多目的誘導弾。

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 左から、87式自走高射機関砲、89式装甲戦闘車、74式戦車。

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 水陸両用車AAV7(愛称アムトラック)は、乗員3名+兵員25名、または貨物4.5tを収容。
 
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 広報センターの裏から見る広報センターの建物と屋外展示(イベント広場)。

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 (クリックすると拡大表示)

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  屋外展示場(イベント広場)と第2駐車場を抜けると「振武臺記念館」の建物がある。

 「振武臺記念館」は、陸軍予科士官学校にまつわる数々の展示品や旧軍ゆかりの資料、朝霞駐屯地や郷土の歴史の資料が紹介されている。残念ながら、館内撮影は禁止。

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 戦前の朝霞には、旧陸軍の予科士官学校があった。陸軍士官学校は明治時代から市ヶ谷(東京)にあったが、昭和の時代になって手狭となり本科が1937年(昭和12年)に座間(神奈川)へ、予科は1941年(昭和16年)10月に朝霞に移転した。なお予科の修業期間は2年、本科は1年10カ月であった。

 この「振武臺記念館」は、1978年(昭和53年)3月に座間にあった陸軍士官学校の皇族舎を解体し、移設した歴史的建造物。皇族舎は、皇族男子が陸軍士官学校や海軍兵学校で将校教育を受ける際に用意された特別の宿舎。市ヶ谷から朝霞に移転した、陸軍予科士官学校に関する資料等を中心に展示されている。「振武臺」の由来は、1943年(昭和18年)12月、昭和天皇が当校に行幸された際、学生達に対し「将来益々武を振るえ」という思いから名付けられたという。

 九九式十糎山砲(99しき10せんちさんぽう)の展示:旧陸軍が1939年(昭和15年)に制式化した口径105mmの山砲。

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 11:00自衛隊広報センターを出て、国道254号線を西へ。朝霞警察署前で左折して県道108号(東京朝霞線、南大通り)を南下。

 11:35左折し、480mの「新座緑道」を通って埼玉県営「和光樹林公園」へ向かう。

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 480mの「新座緑道」は、災害時には住民の避難路となる緑道として、1993年(平成5年)4月に開設された。周辺の緑地をつなぐ快適な憩いの小道。

 緑道の途中、自衛隊正門前信号の左手に朝霞駐屯地の正門がある。

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 左の門には「東部方面総監部」と「朝霞駐屯地」、右の門には「陸上総隊司令部」の大きな表札。

 12:00、埼玉県営「和光樹林公園」に到着。

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 公園は、 米軍「朝霞キャンプ」の跡地の一部で、芝生広場や遊具、樹林地などが整備されている。2019年(平成元年)3月オープン。隣接して同様な公園計画の都立「大泉中央公園」がある。さらに当公園から新座防災基地までの緑道が、都・県共同で整備されている。

 公園を散策、あずま家で昼食。

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 南側に隣接する都立「大泉中央公園」を通り抜けようとしたが、練馬区立「大泉さくら運動公園」の方に行ってしまった。

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 「大泉さくら運動公園」は練馬区と埼玉県和光市の都県境にあり、東京都立「大泉中央公園」と埼玉県営「和光樹林公園」に隣接している。どちらも米軍が、旧陸軍士官学校の敷地の一部を接収して「朝霞キャンプ」として利用していた土地が返還されてできた公園。「大泉さくら運動公園」も同様であるが、こちらは米軍基地内ゴルフ練習場の跡地だった。

 「大泉さくら運動公園」内の一部に、無料でデイキャンプやバーベキューが可能な野外炊事広場が設置されてて、家族連で賑わっていた。東京23区内で、数少ない無料で焚き火ができる貴重なエリアだという。

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 行けなかった東京都と埼玉県の都県境に位置する都立「大泉中央公園」は、米軍から返還後、計画面積約10haの公園として造成、1990年(平成2年)6月にオープンした。噴水池・武蔵野の自然林・芝生広場・アスレチック遊具・広い砂場など。また陸上競技場・野球場の施設もある。

 13:15、練馬区立「大泉町もみじやま公園」

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 練馬区と埼玉県和光市の都県境にある練馬区立「大泉町もみじやま公園」は、「もみじやま憩いの森」があった保護樹林の傾斜地と、外環自動車道上部の平坦な広場(V字型の左半分)を合わせて整備してできた。公園内に生えているもみじの種類は130本。秋には多くの紅葉するもみじは迫力があるが、緑のもみじも生き生きとしていて綺麗。

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 13:25、「大泉町もみじやま公園」を出る。

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 「らんとう坂下」交差点を経て、住宅街を流れる白子川(荒川水系新河岸川支流)に沿って東の方向へ歩く。白子川の遊歩道には、歩き始めてしばらくは桜並木が続いていた、桜の青葉がちょうど日差しを避けるには良かったが、途中から並木はなくなった。

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 下中里橋で、右(南)に折れ、急坂を登る。

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 坂を登り切る手間で、13:40「稲荷山憩いの森」。

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 13:50「稲荷山憩いの森」を抜けると住宅街。やがて都道68号線(練馬川口線、土支田通り)に出て、東へ「光が丘公園」に向かう。

 コメダ珈琲練馬土支田店付近。

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 14:10、都立「光が丘公園」の光が丘高校口から入園。公園内は多くの樹木が茂り、まるで森林公園のようだ。

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 戦後米軍住宅地「グラントハイツ」として米軍の管理下にあったが、1973年(昭和48年)に返還が完了し、総面積の約1/3が都立の都市公園として確保された。1981年(昭和56)年から一斉に周辺の整備が開始され、小、中、高校が15校、公団、公社、都営住宅が12,000戸、都内有数の大団地となった。

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 公園内を散策、「観賞池」近くの売店で休憩。ここから公園内を北に向かって、15:05北口から退場。赤塚高台通りを通って、国道254号線(川越街道)を歩く。

 「りそな銀行」成増支店の手前で右折、「なりますスキップ村」商店街へ。

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 「なりますスキップ村」商店街からは、成増駅南口へ。

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 15:25、東武東上線の成増駅南口に到着。

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 「成増駅」は、板橋区成増にある東武東上線の駅。東京メトロ有楽町線、副都心線の成増駅が近接する。

 都市公園の通り抜けだけだと歩程は10Kmくらいの予定は、公園内の散策も含めて13Kmになった。雨が降りそうな曇り空だったが、午後からしばらく日が射すこともあった。汗ばむこともなく、目にも優しい新緑の中で、良いウォーキング日和だった。

2025年6月 9日 (月)

大宮盆栽村

 2025年4月29日(火)、さいたま市の「大宮盆栽村」から県立「歴史と民俗博物館」、武蔵一之宮「氷川神社」を巡る。
 
 JR宇都宮線土呂駅から大宮駅まで7Kmのウォーキング。
 
 9:40、大宮駅の次の駅、JR東北線(宇都宮線)土呂駅に到着。大宮観光ガイドと合流。

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 土呂駅は、設置を求める運動が大正時代から行われ、1983年昭和58年) に開業した新しい駅。土呂駅東口の駅前広場には、赤松3本 松の木に景石などを加えた盆栽をイメージした大きな植え込みがある。

 「盆栽村」は、関東大震災で被災した東京の植木職人や盆栽師が集団で移住、大正14年(1925)に誕生した。さいたま市北区盆栽町にある。現在は5軒の盆栽園があり、「盆栽四季のみち」(かえで通り)を中心に閑静で美しい町並みを保っている。2025年は、大宮盆栽村開村100周年という記念すべき年である。
 
 9:55「さいたま市大宮盆栽博物館」着。写真の出典:ウキメディア・コモンズ

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 「大宮盆栽美術館」の入館料は、310円。エントランスに置かれた楓「ハウチワカエデ」(羽団扇楓)が、出迎え。エントランス以外の展示室は撮影禁止。

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 盆栽美術館は、日本で唯一の盆栽に特化した公立美術館。2010年3月開館。日本を代表する名品盆栽120点以上。盆器、水石(天然の石)、卓(しょく=盆栽の台 )といった盆栽関連の美術品、絵画資料や歴史・民俗資料等が展示されている。

 2階の盆栽テラスから盆栽庭園を見下ろす。盆栽庭園には常に約60点の盆栽が展示されている。

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 唐松「巌」(いわお)推定樹齢180年  黒松「羽衣の舞」 推定樹齢200年

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 蝦夷松 推定樹齢100年  五葉松 推定樹齢200年

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 蝦夷松「轟」(とどろき)推定樹齢1000年  黒松 推定樹齢250年
    
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 真柏(しんぱく)推定樹齢300年  真柏「武甲」 推定樹齢350年                

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 五葉松「千代の松」 推定樹齢500年  ぶな「白神の里」 推定樹齢80年

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 五葉松「明光」 推定樹齢150年

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 右端の盆栽:五葉松「青龍」 推定樹齢350年
 
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 野梅 推定樹齢200年
 
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 11:00「大宮盆栽美術館」を出て、盆栽村を散策する。
 
 盆栽村には、現在「芙蓉園」「九霞園」「清香園」「蔓青園」「藤樹園」の盆栽園が点在し、さいたま市の伝統産業事業所に指定されている。
 
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 11:15、5代に渡る盆栽の老舗「蔓青園」に入園(Googleマップ)。園内の撮影は禁止。
 
撮影日時 2025-06-09 17:49:57 
 
 11:20、「もみじ通り」の「盆栽四季の家」で休憩。ここは、市民や盆栽村を訪れた人々のくつろぎの場。
 
撮影日時 2012-02-21 14:47:45
 
 11:25、江戸時代末期創業の「青香園」に入園。園内は、撮影禁止で残念。盆栽販売だけでなく、盆栽教室もある。
  
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 11:40、さいたま市立「漫画会館」に入館。入場無料。
 
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 近代漫画の先駆者、北澤楽天(1876-1955)の晩年の居宅跡に1966年11月開館した。ここも館内撮影禁止。
 
 11:45「芙蓉園」入園。園内撮影禁止。
  
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 「芙蓉園」は、1939年大宮盆栽村にて盆栽園を開園。二代目園主竹山浩氏は、雑木盆栽のレジェンド。盆栽協会理事長やNHK趣味の園芸の講師などを勤め、現在盆栽協会顧問。
 
 11:50「芙蓉園」を出て、「大宮公園」へ向かう。
 
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 街には、「大盆栽まつり」の幟が並ぶ。ゴールデンウィークの5月3日~5日は、国内外から注目されている大宮盆栽村で開催される盆栽の祭典。市民盆栽展、盆栽・盆器の即売会などが開催され、多くの愛好家でにぎわうという。
  
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 11:55、東武アーバンパークライン(野田線)の大宮公園駅の踏切を渡り、県立「歴史と民俗の博物館」へ。
 
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 この後は、本ブログ記事「埼玉歴民と氷川神社」に続く。

2025年3月16日 (日)

天覧山・高麗峠・巾着田

 2025年3月14日(金)、天覧山・高麗峠・巾着田ハイキング。

 

 JR東飯能駅(埼玉県飯能市)から飯能市街地を経て、「能仁寺」、「天覧山」の山頂、奥武蔵自然歩道の「高麗峠」を越えて「巾着田」を訪ね、西武鉄道高麗駅(日高市)まで、およそ12Kmのハイキング。

 県立奥武蔵自然公園の玄関が、飯能市。市街地から少し足をのばし、自然を求め、歴史を訪ねるのんびりハイキング。

 本州付近は、緩やかに高気圧に覆われていて、埼玉県の日中は晴れ。飯能市の最高気温は19℃。北の風は強くなく、絶好のハイキング日和。しかし、今日の花粉は極めて多い。

 10:14東飯能駅着。駅近くのコンビニで、昼食を購入、10:30スタート。

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 飯能市の商店街を抜ける。

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 途中、ひな人形が飾ってある「店蔵絹甚」(みせぐらきぬじん、飯能市指定有形文化財)に立ち寄り、入間川の「飯能河原」(親水広場)を見下ろす。「飯能市市民会館」前を通って「中央広場」を抜ける。

●能仁寺と天覧山

  11:15「能仁寺」の山門に到着。この寺院は、「天覧山」の南麓にある曹洞宗の古刹。山号は武陽山、本尊は毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)。

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 「能仁寺」は1501年(文亀元年)、武蔵国高麗郡加治(現在の飯能)の豪族・中山家勝が創建した。小庵であったが家勝の没後、1573年(天正元年)、中山家範が父の菩提を弔うため本格的な寺とし、中山家勝、家範、照守および、その後の中山家・黒田家の菩提寺となる。

 1705年(宝永2年)当時、常陸下館藩の大名となった黒田直邦は老朽化した寺を改築し、雲水50人、七堂伽藍を構える禅寺として栄華を誇ったという。

 「能仁寺」の本堂。

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 1868年7月(旧暦5月)、彰義隊と袂を分けた渋沢成一郎(旧名・喜作)が率いる振武軍が「能仁寺」を本営として飯能の6つの寺に駐屯。これを追討する新政府軍と戦闘(飯能戦争)となった。半日ほどで新政府軍が勝利したが、飯能では民家200軒、4か寺が焼失する被害を受けた。この戦いで、渋沢成一郎と尾高惇忠は伊香保へ逃れた。参謀の渋沢平九郎(尾高惇忠の弟で渋沢栄一の養子)は別の道を逃げ、黒山村(現埼玉県越生町)で官軍に囲まれ自刃した。

 「能仁寺」を通り抜けて、11:25桜や紅葉の名所「天覧山」に向かう。

 緩やかな山道を登り、11:40あずま家のある「天覧山中段」で休憩。山腹には、五代将軍綱吉の生母・桂昌院が奉じたという「十六羅漢」がある。

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 「十六羅漢」を過ぎると、頂上直下の岩場の急登があり、鎖を使って登る。

 11:50「天覧山」の山頂(195m)着。山頂標識の右は、明治天皇の行幸記念の石碑。

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 低山だが、山頂からは飯能市内や秩父連山が一望できる。あいにく富士山は望めなかった。

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 新宿のビル群や、池袋のビル群と東京スカイツリーが、遠くに霞む。

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 12:00「天覧山」の南斜面を下る。12:10「多峯主山」(とうのすやま)との分岐を右に、奥武蔵自然歩道を「巾着田・宮沢湖」方面に向かって進む。

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 山道を下ると、12:15車が通る舗装道路に出る。西武線のガード下をくぐる。

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●高麗峠

 ガードのすぐ先に国道299号線の中山(西)交差点。すぐ左手の山道を12:20「高麗峠」へ向かって登る。

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 ここから「高麗峠」までが「飯能・西武の森」になる。 

 12:30「青梻の森」には、アオダモ(青梻)の木が植栽されていた。

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 西武グループは、飯能市に所有する約130haの森林を「飯能・西武の森」として、自然環境保全の事業を行っている。2015、2016年度には、埼玉西武ライオンズ、西武造園と連携し、西武グループ社員・家族向けに「健康・エコハイキングと植樹祭」を開催、野球のバットの材料として活用されており現在資源の枯渇が危惧されている「アオダモの木」を植樹した。

 「ほほえみの丘」は、奥武蔵自然歩道の「高麗峠」に向かう途中の「飯能・西武の森」にある。ベンチがあり、12:35~13:10ここで昼食。

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 奥武蔵自然歩道の左手(西の方角)の樹木の間から、奥多摩「大岳山」(おおたけさん)1,266mが顔を出す。

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 13:25「高麗峠」着。天覧山から巾着田をつなぐ奥武蔵自然歩道の飯能市と日高市の市境にある。温度計が設置してあり、見ると気温20℃。

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 平坦な山道だったので峠らしくない。武蔵野の面影を残す雑木林が今も残る。

 麓の日高市の住宅街に下り、「高麗小学校」「高麗郷民俗資料館」の傍を通って県道15号線(日高川越線)へ。高麗川に架かる「天神橋」を渡る。

●高麗郷古民家と民俗資料館

 14:00「高麗郷古民家」着。「高麗郷古民家」は、江戸時代末期から明治時代に建設され、「旧新井家住宅」とも呼称される古民家。高麗郡本郷村の名主を努めていた。明治になってから新井家は、戸長、村長も務めた。国の登録有形文化財となっている。

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 母屋の土間といろり端、茶の間の入口。

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 母屋とつながった2階建ての建物である客殿の中央玄関には、式台が設けられている。ほかに土蔵、納屋、作業場などの建物がある。 

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 県道15号線に戻って、高麗川に架かる「天神橋」を再び渡る。橋の左手が巾着田。

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 14:20「高麗郷民俗資料館」に入館。建物は、昭和37年に建築された旧高麗公民館。

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 民俗資料を市の歴史を物語る貴重な財産として保管。この中から日常生活、農業、林業そして漁労に関する資料を展示。ほかに古代高麗郡集落ジオラマの展示や企画展を開催。

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●巾着田

 14:40「あいあい橋」を渡り、「巾着田」に入る。橋は、橋長91.2m。日本最長級の木製トラス橋とされており、「巾着田」観光のシンボル。

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 日高市内を流れる高麗川の蛇行により長い年月をかけてつくられ、その形がきんちゃくの形に似ていることから、「巾着田」と呼ばれるようになった。

 直径約500m、面積約22haの川に囲まれた平地には、菜の花、コスモスなどの花々が咲き、 秋には、約500万本の彼岸花(曼珠沙華)が咲き誇る。見頃は、9月中旬~10月上旬。

 近くの日高のシンボル「日和田山」より望む「巾着田」。出典:ウキメディア・コモンズ

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 群生する秋の彼岸花と日和田山 出典:ウキメディア・コモンズ

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 巾着田に広がる青い葉を異様に思ったが、これは彼岸花の葉だという。今の時期は赤い花は枯れ、一面に彼岸花の青い葉が茂る。

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 「巾着田」をほぼ一周近く回って県道15号線に戻り、15:15高麗川に架かる「鹿台橋」を渡って、西武線の高麗駅に向かう。

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 15:25、ゴールの高麗駅に到着。

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 「高麗の里山」2015/09/10投稿  
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/post-b75c.html

 

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●天覧山と黒田直邦

 天覧山は、山麓にある「能仁寺」愛宕権現を祀っていたので、もとは「愛宕山」と呼ばれた。江戸時代、5代将軍・綱吉の病気平癒のお礼に、生母の桂昌院が親しかった黒田直邦の助言により十六羅漢」の石仏を奉納したので、「羅漢山」と呼ばれるようになった。それが1883年4月、山麓で行なわれた近衛兵の春季小演習を明治天皇がこの山頂から統監されたことにより、「天覧山」と呼ばれるようになり山頂には「行幸記念碑」が建てられた。

 なお、黒田直邦の墓が、「能仁寺」と「多峯主山(とうのすやま)」山頂の近くにある。黒田直邦は、1666年(寛文6年)に中山直張(なおはる)の三男として生まれ、外祖父の黒田直相(なおすけ)に養育されたことから黒田氏を称した。

 5代将軍綱吉に仕え30人扶持を拝したのが出世の始まり。その後、常陸国の下館城主、また奏者番に就任し寺社奉行を兼任する。 晩年は、上州の沼田城主(3万石)となった。直邦は、宝永年間には飯能地方を領し、菩提寺の「能仁寺」を中興するなど当地の発展に貢献した。

●愛宕山

 天覧山が、かつて「愛宕山」と呼ばれたように、日本各地にある「愛宕山」の多くは山頂に「愛宕神社」が祀られていることにちなんで名付けられている。「愛宕神社」は、火の神や防火の神として知られる「愛宕権現」が祭神。特に江戸時代以降、火事を防ぐ祈りの場として信仰を集め、全国各地に「愛宕神社」が建てられるようになった。そのため、これらの神社のある山が、「愛宕山」と呼ばれるようになったという。

 「愛宕神社」の総本宮は、京都市の左京区にある。その他、東京の港区と福岡の西区にある「愛宕神社」の三社を総称して「日本三大愛宕神社」と呼んでいる。京都市内で一番高い山に鎮座している総本宮に習ってか、東京、福岡の支社やそのほかの「愛宕神社」もその土地の周辺で一番の高台や山にあるが「愛宕神社」だともいう。

●巾着田

 「巾着田」は、日高市の高麗本郷に位置し、高麗川が南向きに大きく蛇行することで形成された巾着のような形状の平地地元では「川原田」と呼ばれているそうだ。「高麗」の地名は、716年(霊亀2年)朝廷駿河など7ヶ国に居住していた旧高句麗からの渡来系移民1,799人を武蔵国の一部に移し、高麗郡を設置したとされる

 昔は文字通り水田が広がり、その面積は約17ha(17万平方m)に及んでいた。昭和40年代に当時の日高町が巾着田を取得し、昭和50年代~60年代ごろに竹藪やアシに覆われていた休耕田を整地したところ、大規模な彼岸花の群生が見られるようになった。河川の蛇行や氾濫により上流部から土砂とともに球根が流れ着いたものと考えられている。1996年には日本一の木製トラス橋「あいあい橋」が完成。グラウンドや駐車場など観光地として整備された。

 河原では季節を問わずキャンプやバーベキューを楽しむ人が多く見られる。特に夏場は、弧を描く川の内側は流れが緩やかであるためか、小さな子ども連れの家族の川遊びなどで賑わっている。開花中の曼珠沙華群生地内へ入場は有料(500円)となっており、またキャンプやバーベキーも有料。2017年(平成29年)9月、天皇皇后両陛下が「曼珠沙華公園」を私的な旅行で訪れ、満開の彼岸花を観賞された。

●彼岸花

 彼岸花の名は秋の彼岸ごろ、突然に花茎を伸ばして鮮やかな紅色の花が開花する事に由来。別名の曼珠沙華は、梵語(サンスクリット語)で「赤い花」「葉に先立って赤花を咲かせる」という意味から名付けられたと言われ、『法華経』などの仏典に由来する。日本では各地方のみで通じた異名が派生し、葬式花、墓花、死人花、地獄花、幽霊花など不吉な名前が多く見られる。

 彼岸花は球根から花が出てきて、その花が枯れた後に葉が成長する。花と葉を同時に見ることができない事から「葉見ず花見ず」と言われ、昔の人は恐れをなしたという。多くの植物は春に芽を出し、夏に葉を繁らせ秋に枯れるが、彼岸花はその逆。冬から春にはちゃんと葉が繁り、花をつけない寒い季節にしっかり栄養を球根に貯えているそうだ。

2025年3月13日 (木)

森林公園2025年の梅園

 2025年3月11日(火)、武蔵丘陵森林公園(埼玉県滑川町)の梅園へ2年振りに行く。

 この日の埼玉県の天気は、曇り。ところどころで小雨の予報だったが、結局降らずに午後から晴れ間もあった。風もなく比較的暖かい、最高気温14℃。春の花を求めて、「梅園(花木園)」に行ってみる。

 9:00、森林公園駅の北口を出発。約3Kmの遊歩道を森林公園南口に向かって歩く。

 10:00、森林公園の南口から入園。10:10、「梅園(花木園)」着。梅の開花は、最盛期。

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 白梅や紅梅など約120品種、400本が南斜面に植栽されている。

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 梅林の足元には、黄色い水仙や福寿草が咲く。

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 福寿草も満開。

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 サンシュユの木も満開。黄色い花が梅に彩りを添える。何本かあったロウバイやマンサクは、すでに見頃を過ぎていた。

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 ロウバイとサンシュユ、マンサクは、冬から早春にかけて黄色い花を咲かせる。咲く時期は、ロウバイが最も早く、次いでマンサク、最後にサンシュ。その特徴は、ロウバイは蝋細工のような丸みのある花で香りを楽しむ。サンシュは小さい花の塊、その実は薬用や果実酒に利用されるそうだ。マンサクは、リボン状の花びらで観賞用としての形が独特。

 11時頃「運動広場」まで行って休憩、再び梅林に戻る。

 1つだけ開き始めたハクモクレンのつぼみを見つけた。

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 梅林で時間を過ごし、13:20ごろ南口から退園、森林公園駅付のバスで帰路へ。

 

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2025年2月 9日 (日)

吉見百穴と武州松山城趾

 2025年2月4日(火)吉見百穴と武州松山城趾(埼玉県比企郡吉見町)に行く。

 ガイドボランティアが案内。 (写真をクリックすると、拡大表示します)
 

●吉見百穴

 9:00~「吉見百穴(よしみひゃくあな)」に入園。観覧料300円。

 「百穴」のある丘陵は、切削に適した凝灰質砂岩。古墳時代後期~終末期に造られた。横穴墓の数は、現在219基がある。

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 1887年(明治20)に東大大学院生だった坪井正五郎氏らが、横穴237基を発掘。当時は、住居か墳墓かの論争があった。1923年(大正12年)に国の史跡に指定。

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 玄室の右手に棺座、入口には緑泥石片岩で蓋がされていた。

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 太平洋戦争末期、中島飛行機の地下軍需工場が全国から集められた3000~3500人の朝鮮人労働者によって建設されたが、本格生産する前に終戦となり閉鎖された。建設により20基近くの横穴墓は破壊されたそうだ。以前は内部を見学できたが、現在は立入り禁止となっていた。

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 本来、傍を流れる市野川は蛇行し「百穴」に近い位置を流れていたそうだ。工場を造るにあたって前面に広い土地が必要になり、 川を真っ直ぐに改め、現在では堤の手前までは広い駐車場になっている。また、地下から掘り出した土を手前に埋め立てたため、園内はその駐車場よりも高くなっているという。

 「かぶと塚古墳」の横穴墓の石材が、屋外に展示してあった。

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 鉄製手斧の加工痕のある玄室の凝灰質砂岩の一部。

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 「かぶと塚古墳」は、吉見町久米田にあった円墳で、1973年(昭和48年)の調査の後に墳丘は破壊され、失われている。

 石室に用いられた石材の緑泥石片岩。

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 「吉見百穴」の2.5Km北の吉見町黒岩にも、百穴と同様の遺跡「黒岩横穴墓群」がある。

 9:40、園内の「吉見町埋蔵文化財センター」に入館。町内で発掘された縄文時代からの出土品などが展示。

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 2001年(平成13年)年度の西吉見条里遺跡の発掘調査で、道幅9~12mの古代の「東山道武蔵路」の道路跡が発見された。展示してあった地図は、撮影禁止のため吉見町ホームページより転載。

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 「東山道(とうさんどう)」は、都を基点に信濃、上野(群馬県)をへて、東北に向かう五畿七道の一つ。そのうち「武蔵路(むさしみち)」は、上野から分岐して武蔵国府(現・府中市 に至った。吉見は当時、重要な交通の要所だったようだ。江戸時代になると、江戸を中心とする五街道が整備され、幹線道路としての「東山道」は、中山道日光例幣使街道奥州街道などに再編された。

 10:10、「百穴」の丘陵の上からの東松山市街を展望。

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 左手後方に冠雪の富士山。

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 正岡子規の句碑。1901年(明治24)11月、当地を訪れた。「神の代は かくやありけん 冬籠」 

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 子規が訪れた明治時代は「住居説」だったので、冬の「百穴」を神の住居に例えたのだろうか。

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●岩室観音堂

 「百穴」を出て、10:45「岩室観音堂」を拝観。この堂は、ここから北東へ徒歩10分程度にある「龍性院」の境外仏堂。

 岩をうがって観音像を祀った。代々の松山城主が、信仰し護持した。

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 観音堂2階の天井の構造材。建物・屋根を支えるために多数の材が使われている。千社札も多数貼られており、額も様々飾られている。

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 2階の鉄格子扉の岩窟の奥に御尊像(観音様)が安置されているが、よく見えない。

 室観音は、「比企西国三十三所観音札所」の第三番洞窟内に88体の石仏が安置。「四国八十八ヵ所」の参拝と同じ巧徳が得られるという。

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 観音堂の裏にある「胎内くぐり」のハート型のトンネル。

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 ここをくぐると、諸難を除き、安産、その他の願いが叶うとのこと。

 以上3枚の写真は、2015年12月12日撮影。
 

●武州松山城趾

 城の周囲は市野川が天然の堀として利用して、丘陵上に建てられた平山城。その天然の要害から不落城とも言われた。西側の市野川をはさんで対岸にあたる比企郡の松山本郷(現在の東松山市)は平地になっており、城下町が形成された。大正14年(1926年)に「松山城址」として県の史跡に指定。

 南西方向からの「松山城跡」 出展:Google Earth Pro

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 11:00、「松山城趾」の「曲輪4」の入口から入場。 「三ノ曲輪」を経て「二ノ曲輪」。

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 「二ノ曲輪」から「松山城趾」最大の高低差(9m)の「空堀」を渡ると「本曲輪」へ至る。

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 「本曲輪」には昭和初期、お堂があった。

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 築城技術の高さ、良好な保存状態などから「松山城」「菅谷館」「杉山城」「小倉(おぐら)城」の4城趾が、「比企城館跡群」として国の指定史跡となっている。

 城の北側、「虎口」付近で発掘調査。 11:35、城趾を出る。

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 北側城外には根古屋(城主の館や城兵の屋敷)があった。

 11:45~12:40、「洋麺屋 五右衛門」東松山店でランチ。

 本ブログの関連記事

 「菅谷城跡 ー 比企城館跡群」 2024年3月16日投稿
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2024/03/post-5b2bff.html

 「比企西国札所巡り-その2」 2015年12月13日投稿
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/12/post-cf25.html

 ★ ★ ★

 室町幕府時代、足利尊氏が関東に鎌倉府を設置し、関東管領として上杉氏が統治した。やがて室町幕府の要職にあった公方足利氏、扇谷上杉氏、山内上杉氏らの確執によって争乱・内紛が起こるようになり、関東の動乱を背景に「松山城」は扇谷上杉氏側の拠点の城として15世紀後半に築城されたと推定されている。15世紀後半から16世紀前半に比企地域に城館跡が多く残るのは、これら三つの勢力が交差する地域だからだという。

 その後、扇谷と山内の上杉氏、小田原北条氏、甲斐武田氏、越後上杉氏らの「松山城」をめぐる攻防は大変激しく、ここが北武蔵地域の要所であったことが伺える。特に1537年(天文6年)に北条氏綱が「江戸城」と「川越城」を落とし、「松山城」を攻めたことで有名。その後も小田原北条と越後上杉などによる度重なる合戦によって支配者が頻繁に変わったが、北条勢力下の上田氏の支配下にあることが多かった。

 1590年(天正18年)、豊臣秀吉による関東攻略の際、前田利家・上杉景勝などの軍勢により「松山城」は落城し、小田原の北条氏は滅亡した。その後徳川家康の支配下に入り、松平家広が1万石の松山藩(のちに3万石に加増)として城主となった。2代目の弟・忠頼のときに5万石の浜松藩に移封され、1601年(慶長6年)に「松山城」は廃城、この地域は川越藩領となった。

 徳川家広の入城から廃城までの時期には交通の便が優先され、城下町(松山本郷方面)と城域を隔てていた市野川に橋が架けられたという。本来ここは「松山城」防衛の要となる方角だったので、争奪戦が激しかった北条氏が支配した時代までは橋が存在しなかったそうだ。

2025年1月16日 (木)

寅さんの柴又を巡るウォーク

 2025年1月12日(日)寅さんの柴又を巡る新春ウォーク。京成電鉄柴又駅からJR金町駅まで歩く。

 この日、日本列島を強い寒気が覆い、この冬一番の寒さ。九州各地で初雪のが見られたようだが、東京は終日曇り。最高気温は9℃程度だった。3連休のせいか、正月の初詣がまだ続いているのか、帝釈天とその参道は、混雑していてビックリ。この日の歩程は、12,800歩、7.6Kmだった。

 JR日暮里駅から、10:58京成日暮里駅発の京成本線快速特急に乗車、京成高砂駅11:10着。11:22京成金町線に乗換え、柴又駅11:25到着。
 
●京成柴又駅 11:25~
 
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 柴又駅前には、映画『男はつらいよ』 でお馴染みの寅さん(渥美清)と妹・さくら(倍賞千恵子)の像が建っている。第40作目の「寅次郎サラダ記念日」の旅立ちのシーンをモチーフとしているという。 像の前で記念写真を撮る人が多くて、自分なりの写真がなかなか撮れない。
 
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 駅から柴又観光案内所の前の十字路で、参道の方を進まず左折して、まず「柴又八幡神社」に向かう。
  
●柴又八幡神社 11:30~
 
 「柴又八幡神社」の創建年代は不明。柴又村の鎮守だった。10月の例祭になると「柴又の三匹獅子舞」(葛飾区の無形民俗文化財)と呼ばれる神事が行われる。

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 境内全体が「柴又八幡神社古墳」の上にあり、社殿の下に石室がある。この古墳からは、『男はつらいよ』の車寅次郎の帽子のようなものを被った、通称「寅さん埴輪」として知られる埴輪が出土している。本ブログ「国立東京博物館「はにわ展」(その2)」を参照。

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 江戸川と中川にはさまれた低地にある柴又は、721年(養老5)の『正倉院文書 』に載る「嶋俣」を当てる説が有力だという。戦国時代は「柴俣」、江戸時代中期以後は「柴又」と書かれるようになった。
 
 古くから人が暮らしていたことを物語る「柴又八幡神社古墳」。直径20~30mの円墳。墳丘は失われているが、神社はこの上に鎮座している。 石室は葛飾区指定史跡、出土埴輪は東京都指定有形文化財。境内には、古墳から出土した人骨を納めた半球の「嶋俣塚」。
 
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●帝釈天参道 11:40~
 
 京成電鉄柴又駅から「柴又帝釈天」へと至る200mほどの参道は、どこか懐かしい雰囲気が漂い、木造建築の古い店舗などが軒を連ねる。
 
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 商店街の手前に並んだ屋台の裏に隠れていたが、「映画の碑」があった。
 
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 参道の両側には名物の草だんごや塩せんべい、くず餅、木彫り、民芸品などを売る店、老舗の川魚(うなぎ、鯉、どじょう)料理店などが軒を連ねている。国の重要文化的景観に選定された古き良き下町風情を楽しみながら、「帝釈天」までの参道を歩く。 
 
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 寅さんの実家「くるまや」のモデルとなった「高木屋老舗(ろうほ)」。
 
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 この日は、日曜日とあって観光客や初詣の参拝客か、参道は混み合っていて、ゆっく覗いて見る余裕がない。
  
●柴又帝釈天題経寺 11:50~
 
 「柴又帝釈天」または「帝釈天題経寺」(だいきょうじ)。正式には「経栄山題経寺」。庚申参りや木彫で有名な日蓮宗寺院。映画では、笠智衆が演ずる、門前の人々から「御前様」と呼ばれる住職がいて、寅さんを「兄貴ぃ」と呼ぶ佐藤蛾次郎演ずる庭男の「源公」が庭を掃いていた。

 江戸時代初期の寛永6年(1629年)に、禅那院日忠および題経院日栄という2人の僧によって開創された。
「帝釈天」とは、仏教の守護神である天部の一つを指すが、地元では「題経寺」の略称となっている。境内はさほど広くなく、建物は大部分が明治以降の建築。「二天門」、「帝釈堂」などは彩色を施さない素木造のため地味に見えるが、細部には精巧な装飾彫刻が施されている。
 
 参道の突き当たりに、2階建ての立派な「二天門」が建つ。

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 「二天門」を入った境内正面に位置する「帝釈堂」。手前の拝殿と奥の内殿から成り、内殿には「帝釈天の板本尊」を安置する。大勢の参拝客で、拝殿前には行列が出来ていたし、境内も混み合っている。
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 宗祖・日蓮が自ら刻んだという伝承のある「帝釈天の板本尊」が長年行方不明になっていた。18世紀末、中興の祖とされている9世住職の亨貞院日敬(にっきょう)の時代の安永8年(1779)の「庚申の日」に、本堂の修理を行ったところ棟木の上から発見されたという。このことから、60日ごとの「庚申の日」が縁日となった。

 それから4年ほど経った天明3年(1783年)、日敬は自ら板本尊を背負って江戸の町を歩き、天明の大飢饉に苦しむ人々に拝ませたところ、不思議な御利益があったため、「柴又帝釈天」への信仰が広まっていったという。
 
 「帝釈堂」の右に「祖師堂」(こちらが日蓮宗寺院としての本堂。ご本尊は大曼荼羅 )、その右手前に「釈迦堂」(開山堂)、本堂裏手に「大客殿」などが建つ。「帝釈堂」内殿の外部は東・北・西の全面が装飾彫刻で覆われている。出典:ウキメディア・コモンズ。
 
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 これらの彫刻を保護するため、内殿は建物ごとガラスの壁で覆われ、見学者用の通路を設け一般公開している。この「彫刻ギャラリー」と大客殿、庭園の見学は、有料(400円)で拝観出来るが、時間の都合で割愛。
 
 参道商店街へもどり、12:00~そば処「やぶ忠」で昼食を摂る。鴨南蛮1,300円。お土産屋の「門前とらや」で草だんご16粒入りで700円。
 
●真勝院 12:45~
 
 真言宗豊山派の寺院。「新四国四箇領八十八箇所霊場」の第28番札所。806年(大同元年)創建の古刹。柴又界隈で最も古い。近くの「柴又八幡神社」の旧別当寺(神仏習合が行われていた江戸時代以前、神社を管理する寺)でもあった。
 
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 「新四国四箇領八十八箇所霊場」とは、中川の両岸沿いの4つの領(葛飾郡葛西領、葛飾郡二郷半領、 足立郡淵江領、埼玉郡八条領)に札所を持つ弘法大師の霊場。柴又七福神の一つで、弁財天を祀る。境内には、1660年(万治3年)に柴又村の名主らによって建立された「五智如来」の石仏がある。
  
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 「五智如来」は、密教で五つの知恵を五つの如来にあてはめたもの。右から阿閦如来、宝生如来、中央が大日如来、阿弥陀如来、不空成就如来となっている。
 
●寅さん記念館/山田洋次ミュージアム 13:00~
  
 日本庭園のある「山本亭」の敷地を抜けて、「柴又公園」の小高い丘の頂上へ階段を登る。
 
 柴又地区で、江戸川のスーパー堤防の整備事業が行われ、河川敷と法面が一体で整備され「柴又公園」が設立された。公園は、「山本亭」や「寅さん記念館」を含み、江戸川河川敷の広場はレクリエーション・スポーツの場としても利用されている。「寅さん記念館」は、スーパー堤防と一体となったユニークな建物で、1997年11月開館。その公園頂上の真下に作られ、記念館の内部とエレベータで結ばれている。
 
 公園の頂上付近から、北東の方角、スカイツリー方面を望む。
 
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 江戸川の堤防、南東の方角を望む。川の向こうは千葉県。
 
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 13:10、「寅さん記念館」に入館(シニア400円)。記念館は、『男はつらいよ』の世界をコーナー別に分けて展示しており、「松竹大船撮影所」(鎌倉市、2000年閉鎖)から移設した「くるまや」や「朝日印刷所」のセット、ミニチュアで再現された商店街、映画の名場面を紹介した映像コーナー、実物の革カバンなどの展示コーナーなどがある。
 
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 2012年には『男はつらいよ』の原作者で監督も務めた山田洋次を顕彰する「山田洋次ミュージアム」が開設された。「松竹大船撮影所」のジオラマも置かれている。
 
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 しばし映画の世界に浸ったあと、先ほど通り抜けた「山本亭」に入館。
 
●山本亭 14:10~
 
 もともとこの土地は庄屋の鈴木家の土地で、1923年(大正12年)の関東大震災まで鈴木家はこの場所で瓦工場を営んでいた。山本栄之助は、浅草でカメラの部品を製造する工場の経営者で、浅草小島町に住んでいたが、関東大震災で浅草が被害を受けたため、鈴木家の瓦工場跡を取得して移転し、現在の「山本亭」を構えたという。
 
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 大正末期から昭和初期にかけて造られ、山本家4代がここで暮らしたという。書院造りと洋風建築を合わせた和洋折衷建築で、築山と池が広がる日本庭園は、アメリカの日本庭園専門誌で三年連続全国3位に選ばれた。
 
 1988年3月に葛飾区の所有となり、1991年4月から一般公開。現在では伝統行事の披露や、琴の演奏などが開催されている。2003年7月東京都選定歴史的建造物。2018年には「葛飾柴又の文化的景観」が重要文化的景観に選定され、「山本亭」は景観の一翼を担う。入館料100円(寅さん記念館とのセット料金で50円引き)。喫茶(抹茶、コーヒーなど)の利用可。ぜんざい700円を注文して休憩。 
 
●矢切の渡し 15:00~
 
 江戸川の堤防を越え、河川敷の「柴又公園」から「矢切(やきり)の渡し」柴又側の渡船場に行く。
 
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 葛飾柴又と松戸市の矢切を結ぶ「矢切の渡し」は、江戸時代の初期に江戸川の両側に田んぼを持つ農民が、関所を通らずに江戸と往来したこ とから渡し船が始まった。伊藤左千夫の小説『野菊の墓』、映画『男はつらいよ』や演歌『矢切の渡し』の舞台で、全国的にも有名になった。対岸までは数分、ゆったりとした気分で船旅を楽しむ。料金は200円、往復400円。
 
 乗船して、上流方向を望む。右手は松戸市側のゴルフ場。
  
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 左手に東京都水道局「金町浄水場」が立地し、丸い屋根とトンガリ帽子の屋根のある2つの取水塔。 

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 3月中旬から11月は毎日、12月から3月上旬は、土日祝日のみ、1月1日から7日は運航。荒天の場合は運休。現在は、昔のような手漕ぎでなくエンジン付小舟の運航。松戸側の渡し場から歩いて20分程のところの「西蓮寺」に、小説『野菊の墓』の一節を刻んだ文学碑があるそうだ。
 
●江戸川の土手 15:20~
 
 江戸川は、関東地方を流れる一級河川。利根川水系で利根川の分流(派川)である。流路延長は本流(江戸川放水路)河口より約55km、旧江戸川河口より約60km、流域は、茨城県、埼玉県、千葉県、東京都の1都3県におよぶ。

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 左手に東京都水道局の「金町浄水場」が立地し、丸い屋根とトンガリ帽子の屋根のある2つの取水塔を右に見ながら、の堤防の上の「江戸川堤サイクリング道路」を北に向かって歩く。国道6号(水戸街道)の手前で堤防を降り、西に向かって住宅街、市街地を歩く。疲れてきたせいか、なかなかゴールに着かない。
  
●ウォーク終点 JR金町駅 15:50
 
 「矢切の渡し」からおよそ2Km、30分ほど歩いて、JR金町駅に15:50過ぎに到着。
 
 JR金町駅を15:55発、常磐線で西日暮里駅下車。山手線に乗り換えて池袋駅へ。16:40頃から2時間、池袋駅西口の居酒屋「楽蔵」で新年会。

  
 
 ★ ★ ★
 
●寅さんの生い立ち
 
 寅さんの生い立ちや少年時代は、『少年寅次郎』と題してNHK総合TV土曜ドラマで2019年10月から連続5回で放送された。主演は、寅次郎の育ての母・光子役の井上真央で、好演だった。このドラマは興味深くて、熱心に視聴したが、5年経ってストーリーをすっかり忘れていた。今回「寅さん記念館」を見学して、少し思い出したので、この際いろいろ調べてみた。
 
 寅次郎は、子供の頃から父親からは疎まれ、周囲からは芸者の子や捨て子といじめられる。短気な性格で口が悪く、少し乱暴者。しかし、人を騙したり傷をつけたり、女性に暴力を振るうといったことは決してない。情にもろくて、困っている人を見ると放っておけない、優しい一面があった。学校の勉強は出来ないが、なぜか文才があり、詩的な表現を使った情景描写が巧み。成人になった寅さんとそっくり。そんな寅次郎を、光子は実の子のように育てる。
  
 このNHKドラマの原作は『悪童(ワルガキ)小説 寅次郎の告白』で、やはり山田洋次による長編小説で、講談社より2018年9月に刊行された。『男はつらいよ』シリーズの中で描かれなかった主人公「車寅次郎」の生い立ちを、寅さん自身が語る一人称形式で描いてある。この小説は読んでいないが、NHKドラマのストーリーとネットで仕入れた情報で、寅さんの生い立ちを書いてみた。
 
 寅次郎は、遊び人だった「車平造」と、当時柴又の売れっ子芸者だった「お菊」との間の子として生まれた。平造はすでに光子(さくらの実母)と結婚していたため、寅次郎は不倫の子だった。お菊は京都で身売りをするために、寒い冬の真夜中に産まれたばかりの寅次郎を「とらや」の軒先に置いて去ってしまう。光子はそれを知っていたのか、御前様に報告しに行ったところ、御前様は「寅次郎」と命名してくれた。
 
 平造と光子の間には、秀才だった長男「昭一郎」がいたが、旧制中学のころに伝染病で死んでしまう。寅次郎が小学校に上がる前には、光子の実子で妹の「さくら」が生れた。だんご屋「とらや」は実質的には、平造の父親で、無口な「正吉」と嫁の光子で切り盛りしていた。やがて平造は招集される。復員後「とらや」に帰って来るが、ますますおかしくなって、寅次郎とはうまくいかない。
 
 寅次郎が13歳のころ、育ての母・光子の体調が悪くなる。平造の弟夫婦が、「おいちゃん」(竜造、寅次郎の叔父)と、「おばちゃん」(つね、叔母)。おいちゃんとおばちゃんは、病にかかった光子の面倒を看るために「とらや」に移り住むようになり、光子の死後に「とらや」の店と寅次郎とさくらの面倒をみるようになった。
  
 寅次郎は15歳の時、道楽者で自分を疎ましく思っている父親に対し、日頃の不満が爆発して大喧嘩し家出する。政吉親分に香具師(やし)としての素質を買われて、テキ屋稼業に足を踏み入れた。その後、父親の平造は他界した。1人「とらや」に残されてしまった「さくら」(9歳か10歳頃)は、おいちゃんとおばちゃんに育てられることになる。
 
 寅次郎が35歳の時に、20年ぶりに「とらや」に帰郷する。おいちゃんとおばちゃん、さくらは、彼を家族として歓迎する。

 
●帝釈天参道の「とらや」と「くるまや」
 
 「寅さん記念館」に行って、寅さんの生い立ちのほか、もう一つ大きな疑問があった。
  
 帝釈天に参拝したあとの参道で、時間が無くて店名を確認せずに、急いでお土産の名物「草だんご」を買った。帰ってから、包装紙を見たら「門前とらや」と書いてあった。「柴又屋」の文字もある。
 
 寅さんの生い立ちと少年時代について調べていたら、寅さんの実家の店の名は「とらや」だった。帝釈天の参道にはいくつか、だんご屋がある。「柴又 とらや」でネットで検索すると、「柴又屋」というだんご屋が、実際に「門前とらや」という店名に変えたようだ。『男はつらいよ』の「とらや」の名前に便乗したのは、容易に想像できる。
 
 「門前とらや」は、柴又帝釈天参道で明治20年に「柴又屋」として創業。当時から、参拝者の食事処、草だんごのお土産として、参拝客、観光客の多くに利用されていた。実際に「柴又屋」は、昭和44年の第1作目『男はつらいよ』の映画に使用され、第4作目まで寅さんの実家として撮影が行われたという。ちなみに、第5作から第48作(最後)までの映画のモデルは「高木屋老舗(ろうほ)」という店。
 
 最初「高木屋」がモデルと聞いていたので、「高木屋」の店の写真を撮った。「高木屋」は、参道を挟んで左右2軒あり、写真は帝釈天に向かって右側の店、映画はどちらの店が使われたのか分からない。ところが「寅さん記念館」に行くと、寅さんの実家は「くるまや菓子舗」の幟(のぼり)が立っている。第40作目の『男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日』(1988年)から、何の説明もなく「とらや」の名前が、映画の中で「くるまや菓子舗」(通称くるまや)に変わったという。
 
 はっきりしたことは分からないが、商標権の問題だと思われる。もともと帝釈天参道には「とらや」という店はなかった。当然、映画制作サイドの「松竹」も、「柴又屋」に「とらや」という名前を使わないで欲しいと再三伝えていたようだ。しかし、「柴又屋」は「とらや」という名称を使い続け、それで仕方なく映画側が「とらや」を「くるまや」に変えたというのが、大方の見方だと思われる。

2024年12月26日 (木)

再び渋沢栄一ゆかりの地を巡る

 2024年12月18日(水)、再び埼玉県深谷市 の「渋沢栄一ゆかりの地」をめぐる。

  財務省印刷局と日本銀行は、2024年7月3日新紙幣を発行した。新一万円札に「近代日本経済の父」と呼ばれる渋沢栄一の肖像がデザインされている。 紙幣のデザインが変わるのは2004年以来、20年ぶりとなった。2年ぶりに「渋沢栄一ゆかりの地」を車でめぐる。


■渋沢栄一記念館
 10:35~12:00

 「渋沢栄一記念館」は、栄一の出身地である深谷市が設立・運営する渋沢栄一に関する市立博物館。

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 深谷市北部・血洗島(ちあらいじま)にある渋沢栄一の生家から、東に500 mほどの清水川のほとりにある「八基(やつもと)公民館」に併設され、渋沢栄一に関する展示を行っている。1階の資料室の入口に栄一の等身大パネル(栄一の身長は、150㎝ちょっとだったとか)と、記念館北側に建つ銅像がある。

 資料室には、栄一が書き残した書画や写真など、多数の資料を展示。撮影禁止(渋沢栄一記念館/深谷市ホームページより引用)。

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 2020年7月からは、2階展示室で「アンドロイド渋沢栄一」の公開を開始されている(要予約)。なお、東京都北区西ケ原にある「渋沢史料館」は、「渋沢栄一記念財団」の施設。

 資料室の見学後、11:30~12:00ガイドの案内で渋沢栄一のアンドロイドからの講義「道徳経済合一説について」を聴く。

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■麺屋忠兵衛煮ぼうとう店 12:15~13:05

 「渋沢栄一記念館」から、車で西の方へ3分(1.0 km)ほど、12:10旧渋沢邸「中の家」(なかんち)の駐車場着。

 「中の家」の前には、大型バスが駐車できるほど大きな駐車場が整備されて、駐車場の先に見える「中の家」の立派な正門と塀は、いかにも豪農といった雰囲気。

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 「中の家」の正門から入るが、主屋に入らずに東門から一旦出て、隣接する麺屋忠兵衛「煮ぼうとう店」に入店し、先に昼食。

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 古民家の「煮ぼうとう店」は、元は渋沢家の大番頭の家だったという。落ち着いた雰囲気で、テーブル席が50席もあり、思ったより広い。渋沢栄一が帰郷の際に、好んで食べたといわれるのが、この郷土料理「煮ぼうとう」だったそうだ。

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 煮ぼうとう(850円)とホットコーヒー(200円)を注文。

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 野菜がたくさん入った煮ぼうとうは、ボリュームがある。もちもちの麺とスープが絡んで美味しい。

 店内の床の間には、渋沢栄一が書いたとされる「天意重夕陽 人間貴晩晴」の書が飾られている。

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 渋沢栄一が座右の銘にした名言の中の一つ、「てんい、せきようをおもんじ にんげん、ばんせいをとうとぶ」と読む。正確な出典は分からないが、古人の詩の一節とされている。意味は、「一日の中で最も大事なの夕刻で、日中いかに快晴であっても、夕刻に雨でも降れば、その日一日が雨だったと感じてしまうように、人間も晩年が晴れ晴れと立派でないと、つまらない人生になってしまう」。

 若いうちに多少の欠点があっても、世間はこれを許してもくれる。立派な晩年の生活によって、若いうちの欠点失策は、帳消しにすることができるが、いかに若いうちが立派であっても、晩年がよくなければ、その人はついに芳しくない人で終わってしまうものである。晩晴(ばんせい)とは、「夕方になって空が晴れること」。つまり、「人生ってのは、終わり良ければすべて良し」ということか。

 お土産に、秘伝のたれ付の「煮ぼうとう」(干しひらめん)4食入(690円)と長芋の旨味昆布漬け(300円)を購入して店を出る。

■旧渋沢邸「中の家」(なかんち) 13:10~13:50 入館無料

 「中の家」の庭に建つ「若き日の栄一」の銅像は、1867年パリでの姿らしい

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  渋沢栄一が23歳まで過ごした血洗島村にあった「中の家」は、茅葺屋根の主屋だった。明治時代になって家業の中心が養蚕になると建て替えられたが、明治25(1892)年に火災で焼失。家を継いだ妹夫婦(てい・一郎)によって明治28(1895)年に上棟されたのが、現在の主屋。栄一が帰郷の際には、ここに寝泊まりした。主屋を囲むように副屋(藍玉の店、のちに農協の事務所)、4つの土蔵、正門、東門が建ち、屋根に天窓の「煙出し」がある典型的な養蚕農家の形。

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 「中の家」に入室し、栄一のアンドロイドから、スクリーンの映像を見ながら栄一の経歴を聴く。

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 裏庭には、栄一の義弟の渋沢平九郎を追悼した石碑が建っている。

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 この石碑は、東京・谷中の渋沢家墓所内にあったものを、この地に移設したもの。平九郎は栄一の義弟で、栄一が渡欧する際に養子となった。しかし幕府側として「飯能戦争」で新政府軍と戦い、自刃。享年22歳だった。

■尾高惇忠(じゅんちゅう)生家 <見学省略> 入館無料

 「中の家」から東に4分(1.5Km)ほどで、尾高惇忠の生家。車を停めて社内から建物を見るだけで、見学はスキップ。

 惇忠は名主の子で、幼い頃から学問に優れ、17歳頃から自宅に「尾高塾」を開き近郷の子弟に学問を教えた。渋沢栄一も7歳から数年間、惇忠の教えを受けた。栄一の父の姉が惇忠の母で、惇忠と栄一はいとこの関係だった。また、栄一の最初の妻は、惇忠の妹・千代。栄一が渡仏するのを機会に、栄一夫婦の養子として惇忠の弟・平九郎が迎えられた。

 生家の屋号は「油屋」、農業の他、藍玉・菜種湯・塩・雑貨などを販売した。2階には、栄一らと高崎城の乗っ取りの謀議をした部屋が残されている。「戊辰戦争」の際、惇忠は平九郎らと共に「彰義隊」に参加。その後、平九郎らと共に脱退し「振武隊」を結成、「飯能戦争」で官軍と交戦するが敗退し、平九郎は自決、 淳忠は逃げ延びた。維新後は、「富岡製糸場」の建設に尽力して所長、また「第一国立銀行」仙台支店支配人などを勤め、のちに養蚕・製糸業の振興にも努めた。

 

誠之堂(せいしどう)と清風亭 14:00~14:40 入館無料

 「尾高惇忠生家」からは、車で3分(950m)ほど、 誠之堂」と「清風亭」は、県道14号沿いの「大寄(おおより)公民館」の敷地にある。ともに建築史上、重要な建物で、元は東京・世田谷にあった「第一国立銀行」(のちに「第一勧業銀行」、現「みずほ銀行」)の保養・スポーツ施設「清和園」の敷地内に並んで建てられていた。

 「第一国立銀行」は、栄一が初代頭取を務めた民間の銀行。「誠之堂」は大正5(1916)年、初代頭取・栄一の喜寿祝に「清風亭」は大正15(1926)年に2代目頭取・佐々木勇之助の古希祝を記念して、いずれも行員たちの出資で建設された。

 昭和46(1971)年に、「清和園」の敷地の半分を聖マリア学園に売却。しかし、学園の施設拡充計画により、「誠之堂」と「清風亭」の取り壊しが検討されたが、平成11(1999)年に深谷市が譲り受け、移築・復元された。その後「誠之堂」は平成15(2003)年に国の重要文化財に、「清風亭」は平成16(2004)年に埼玉県指定有形文化財に指定されている。

 ガイドの案内で、両施設を見学。「誠之堂」の外観は、英国の農家風で、和風、東洋風のデザインが随所に見らる

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 煉瓦造平屋建で、焼き色の異なる3色の色むらのある煉瓦を積む「フランス積み」という方法。煉瓦は、深谷市に存在した「日本煉瓦製造株式会社」で製造された。暖炉の背面の外壁には、3色のレンガで「喜寿」という漢字に積まれた部分もある。

 暖炉脇の窓のステンドグラスのモチーフは、中国・漢時代の宮殿、祠堂、墳墓の壁面に彫りつけたもの。格子状のガラスは、日本の障子をイメージ。貴人と従者らによる宴会を、渋沢栄一の喜寿を祝う様子に見立て描かれている。

 ステンドグラスを建物の外から見たのと、室内から見たのでは色の鮮やかさが全く違う。

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 暖炉の上部には、正面を向いた栄一の肖像レリーフ。

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 「清風亭」は、当時流行っていたスペインの南欧風建築。屋根は南欧風のスパニッシュ瓦、ベランダの5連アーチ、出窓のステンドグラス、円柱装飾などが特徴的。

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 1923年(大正12年)の関東大震災をきっかけに耐震性への関心が高まった。「清風亭」は、鉄筋コンクリート造平屋建の初期の建築物、建築史上でも貴重。その後、日本の洋風建築は煉瓦から、丈夫な鉄筋コンクリートへ代わっていった。

 2017年(平成29年)9月21日には、当時の天皇・皇后陛下が私的な行幸啓で、ここ「誠之堂」「清風園」のほか、「渋沢栄一記念館」や生家の「中の家」を来訪されていて、それぞれの施設で当時の写真が掲示されていた。

 14:40「大寄公民館」を後にして、帰路へ。

 ★ ★ ★

 2年前に来た時は、「渋沢栄一記念館」で栄一のアンドロイドが見られなかったのと、耐震工事中で旧渋沢邸「中の家」の内部を見学できなかったのが残念だった。両施設で、それぞれにアンドロイドから解説を聞いて有意義だった。「誠之堂」と「清風亭」では、ガイドの説明を聞けたのも収穫だった。

 アンドロイドは、人間に似た外見や動作を持つロボットのことだが、人間と同じように動いたり話したり、顔の表情ができるが、昔よりも技術が進歩していて、自然に近い動きをするようになっているのに驚いた。皮膚の見た目も人間に近い。渋沢栄一アンドロイドは、深谷市出身で株式会社ドトールコーヒーの名誉会長・鳥羽博道氏の寄付により制作とあったが、いったいどのくらいの値段がするものか気になる。

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 2年前の20221030日(日)には、「渋沢栄一ゆかりの地」をウォーキングでめぐった。

 「渋沢栄一ゆかりの地を巡るウォーキング」 2022/11/11投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2022/11/post-a56a44.html

 

 ★ ★ ★

■渋沢栄一について

 渋沢栄一は豪農の長男で、明冶・大正期の実業家。一橋慶喜(のちに将軍・徳川慶喜)の家臣に取り立てられ、慶応3(1867)年「パリ万国博覧会」に出席する徳川昭武(慶喜の異母弟、のちに水戸藩主)に随行し、欧州の産業や社会制度を大いに見聞した。

 明治2(1869)年新政府に勤め、明治5(1872)年大蔵大丞(大蔵省の大臣に続く第4位の高官)となるが、翌年退官して実業界に入る。「第一国立銀行」(現みずほ銀行)の頭取となった他、多くの銀行、「王子製紙」、「大阪紡績」、「東京瓦斯」、「東京海上保険会社」、「日本鉄道会社」など約500社の近代的企業のほか、経済団体、教育機関などの創立と発展に尽力した。

 幼少期に学んだ孔子の教え『論語』を徳育の規範として『論語と算盤(そろばん)』を著し、「道徳経済合一説」を唱えた。大正5(1916)年実業界から引退するが、その後も福祉や医療、教育、国際親善に力を注いだ。昭和6(1931)年、老衰のため死去。享年92。

 左から、渋沢栄一、恩師・尾高惇忠、義弟・渋沢平九郎、主君・徳川慶喜。出典:ウキメディア・コモンズ

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2024年12月25日 (水)

再び新宿御苑と神宮外苑

 2024年12月3日(火)、紅葉の「新宿御苑」と黄葉の「神宮外苑」のイチョウ並木に行く。

 天気は晴れ、最高気温は17.5℃で、12月にしては暖かい。

 9:45新宿駅を出て、10:00「新宿御苑」の新宿門から入場。入園料250円。

 園内を東に向かうとカエデの林。

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 温室の手前付近、メタセコイヤとイチョウ。

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 ツワブキの群生。

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 サクラの紅葉。

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 プラタナス並木。

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 バラ花壇から西の方角、ドコモタワーが顔を出す。秋バラは、もう終り。

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 「中の池」と紅葉。

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 「下の池」に映る紅葉。

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 11:30頃、千駄ヶ谷門から新宿御苑を退園。11:55、神宮外苑の「国立競技場」前を通過。

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 12:00頃、「聖徳記念絵画館」前から「イチョウ並木」の方角を望む。総合球技場では、何やらイベントが開催中で「イチョウ並木」へ通り抜けが出来ない。

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 回り道して、12:25神宮外苑の「イチョウ並木」へ。平日だが、すごい混雑。皆、スマホでイチョウを撮っている。

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 「イチョウ並木」に隣接の権田原会場で「全国工芸職人展」が、11/21(木)~12/8(日)で開催中。入場無料。

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 イチョウ並木が黄葉する頃に開催される物産フェア。多彩な工芸品が展示販売。 昼食は、屋台の「広島焼き」700円。ちょっと高い。

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 イチョウ並木と「聖徳記念絵画館」の間の総合球技場では、「東京クリスマスマーケット2024 in 神宮外苑」が11/19日(火)〜12月25(水)で開催中だった。中央に、シンボルのタワー「クリスマスピラミッド」が見える。

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 正面に絵画館が見えるが、こちらからもチケットを買わないと通り抜けが出来ない。

 再び絵画館前に戻り、13:35絵画館の裏に明治天皇の葬場殿跡。記念に植えられた大楠。

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 都道319号線の信濃町歩道橋を渡って、JR信濃町駅へ。歩道橋から青山1丁目方面を望む。

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 14:10JR信濃駅発、新宿駅経由して、14:30JR巣鴨駅着。

 14:35「巣鴨地蔵通り商店街」のアーチ。

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 商店街を散策。巣鴨名物は、赤いパンツと塩大福。

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 元祖「塩大福」と謳っている和菓子屋「みずの」で、少し行列が出来ていたが塩大福(豆大福)をすぐに購入できた。塩大福は、昭和38年にここで誕生したとか。1つ 160円で、5個入り800円。数年前、同じ店で650円だったので、やはり物価高。甘さを抑えた優しい味の大福。

 とげ抜き地蔵の「髙岩寺」に参拝。

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 15:30頃、JR巣鴨駅に戻り、帰路へ。

 

 ★ ★ ★

●神宮外苑いちょう祭り

 2012年12月2日投稿の本ブログ記事「新宿御苑と神宮外苑」を見ると、軟式野球場前の噴水池周辺で「神宮外苑いちょう祭り」が、11/17(土)~12/9(日)で開催されていた。多くの屋台が並んで、ちょうど昼食をとるのに良かった。また、「聖徳記念絵画館」の前では、トヨタ博物館がトヨタ創立75周年記念の「クラシックカーフェスタ」を開催、いずれも入場は無料だった。

 「神宮外苑いちょう祭り」は、2020年から新型コロナウイルスの影響で、開催が中止になっていたが、2023年に噴水周辺で再開されたようだ。今年は、噴水周辺が工事中のため利用出来ず、イベントは中止されたようだ。東京都では他の公共施設と同様、神宮外苑の都道のイチョウ並木を11/23(土)~12/1(日)の期間、ライトアップしているとのこと。
 

●クリスマスマーケット

 今回、神宮外苑で「クリスマスマーケット」という初めて聞くイベントをやっているとは、知らなかった。

 「クリスマスマーケット」は、ドイツやオーストリアが発祥で中世から続く伝統的なお祭り。ヨーロッパ全体に広がり、どこの町でも中心部の広場では飾り付けやイルミネーションのクリスマスの雰囲気の中で、仲間とグリューワイン(ホットワイン)を飲み交わしながら、クリスマス用のお菓子や飾り、プレゼントを選んだりするのが「クリスマスマーケット」の楽しみだそうだ。11月末頃~12月25日のクリスマス・シーズンには欠かせない風物詩となっている。

 ドイツ・ドレスデンのクリスマスマーケット。出典:ウキメディア・コモンズ

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 のちにはドイツ系の移民たちがこの習慣を、イギリスやアメリカへもたらしたという。ドイツ語では、Weihnachtsmarkt(ヴァイナハツ・マルクト、聖夜のマーケット)というらしいが、町によって異なるそうだ。日本では親しみやすい英語の「クリスマスマーケット」がよく用いられる。最近では、全国の各都市でも開催されるようになている。

 「東京クリスマスマーケット」は、本場のドイツ・ザイフェン村からやってきた高さ14mの「クリスマスピラミッド」をシンボルとし、グリューワインやクリスマス・スイーツ、ヨーロッパ風のクリスマス装飾の店舗が並ぶ本場の雰囲気さながらの屋外イベントとして、日比谷公園で2015年12月に初開催された。ドイツ・ドレスデンのクリスマスマーケットをモチーフに今年で9回目、10周年を迎える。

 日比谷公園のリニューアルに伴い、2023年、2024年は神宮外苑の絵画館前、総合球技場で開催されている。「東京クリスマスマーケット2024 in 神宮外苑」(下のチラシ)は、日本を代表するクリスマスマーケットとして、57の雑貨店や飲食店が出店しているという。チケットは平日1,000円、土日祝1,500円、初日(11/19)と12/21~25は2,000円だそうだ。

 主催:東京クリスマスマーケット実行委員会
 後援:ドイツ観光局/バイエルン州駐日代表部/ザクセン州観光局/ザイフェン村/
    東京都/新宿区/新宿観光振興協会
 協力:Trip.com/SKWイーストアジア/ファミリーマート

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2024年12月 8日 (日)

再び紅葉の平林寺

 2024年11月30日(土)、「平林寺」(埼玉県新座市)の紅葉。

 

 東武東上線志木駅の南口から、9時48分発の西武バスひばりヶ丘駅北口行きに乗車。約14分で平林寺バス停下車。

 「総門」は、県指定有形文化財(建造物) 。左手に受付があって、入山料500円。パンフには、入山料は国指定天然記念物「平林寺境内林」の整備に使われていますと書いてある。

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 「総門」からすぐに「山門」。こちらも県指定有形文化財(建造物)。

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 「山門」の先に見える「仏殿」の前で、立ち入り禁止。昔はその先の「本堂」まで拝観できたと思ったが、今は行けなくなった。

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 「半僧坊感応殿」の建物の傍にある「放生池」。かつては仏教の「放生」の儀式に使用されていたのだろうか。「放生」とは、生き物を解き放つことで、慈悲の心を示す行為。水面に映る紅葉に赤い鯉が映える。

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 「平林寺境内林」は、武蔵野の面影を残す雑木林として、国の天然記念物に指定。2009年(平成21年)11月、天皇明仁・皇后美智子夫妻(現上皇后夫妻)が訪問したと説明板にある。皇太子時代の1977年(昭和52年)以来の再訪だという。

 「野火止用水」の「平林寺堀」が、境内を通る。

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 川越藩主で幕府老中だった松平伊豆守信綱夫妻の墓(県指定史跡)。

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 約三千坪の墓域に配された墓石は、すべて大河内松平家一族歴代のもの。一大名一族の墓が、一箇所にこれほどまでに残っているのは、国内であまり例がないという。

 信綱布佐の墓所の近くに、「寛永年中 肥州島原対死亡霊等」と刻まれた島原の乱戦没者供養塔がある。

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 供養塔の左手にある説明板には、

 『寛永十四年から十五年(1637~38)にかけて肥後国天草の農民が、キリシタン信者と結合して起こした大反乱(島原・天草の一揆)を、大河内松平家の祖である松平伊豆守信綱が収めたことに由来する供養塔です。
 この戦いによって亡くなった人たちの霊をなぐさめるためと、先祖の松平伊豆守信綱の足跡を知らしめるために、三河国吉田藩松平伊豆守家の家臣である大鳴左源太が、文久元年(1861)に大河内松平家の菩提寺である平林寺に建立したものです。』

 とある。

 この供養塔について、島原の乱で亡くなった人々を悼みその霊を慰めるためのもので、「対死」すなわち敵味方双方の慰霊のため塔だと解釈する向きもあるようだが、平林寺のホームページの「山内散策」ページには、あくまでも「幕府側の犠牲者を弔う供養塔」と書いてある。

 12時過ぎに平林寺を退場。先月、紅葉前に来た「睡足軒の森」に入場。

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 平林寺バス停12時23分発の志木駅南口行きの西武バスに乗り、志木駅ビルEQUiA(エキア)の2階「すし三崎丸」でランチし、帰路へ。

 

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 「野火止用水を歩く」 2024/10/27投稿
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 「紅葉の平林寺」 2014/11/28投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-55bd.html

 

 ★★★

 この日は、紅葉の時期の土曜日で、天気も良く、境内は家族連れなどで賑わっていた。外国人も多かった。今年の紅葉は全国的に遅れていて、「平林寺」でも全山紅葉とまでには至っていないが、それなりに楽しめた。「平林寺」の紅葉期間中の人出は6万人ともいわれ、埼玉県内第1位の紅葉人気スポットだそうだ。

 近年、国内の観光地に過剰な観光客が訪れることで、「オーバーツーリズム」が問題になっている。観光地のインフラや地域社会に悪影響を及ぼし、地元住民の生活が妨げられたり、自然環境が破壊されたりする。この問題に対処するために、観光地や管轄の自治体では、訪問者数の制限や各種の規制、ルールの厳格化などの対策を講じているところもある。

 臨済宗「金鳳山 平林寺」は、「禅の修行の場であり、参拝や散策は静粛に」と平林寺のパンフやホームページに書いてある。以前は、本堂の拝観も出来たし、自由に境内を散策できたようだったが、いまは散策コースが定められていて、立入り禁止の柵があちこちに設けられ、散策する範囲が狭まっていて残念だ。

 注意事項・禁止事項として、写真・動画は個人で楽しむ限りスマホやカメラ等で手軽に撮影するもののみ。撮影用の機材(一脚・三脚、自撮り棒、レフ板、ライト、踏み台)の使用やモデル撮影、撮影会の開催は禁止。写生やスケッチ、総門・山門・仏殿の前での集合写真も禁止。飲食(弁当、軽食、酒類)、喫煙は禁止。敷物類や折り畳み椅子、スポーツ用トレッキングポールの使用禁止。ガイドや案内説明の行為、ペット(ケージに入っていても)の入山、動植物の採取も禁止。ゴミは持ち帰り、御朱印帳の記帳はない等々・・・とけっこう細かい。

2024年12月 7日 (土)

秋の矢作川上流域

 2024年11月21日(木)、秋の矢作川上流域。長野県、岐阜県と愛知県を巡る。

 5:40上信越自動車道を佐久ICで降りて、県道44号、国道142号を経由し岡谷ICからへ中央自動車道へ。7:05辰野PAで休憩。飯田市の飯田山本ICで高速を降りて、国道153号線を南下する。阿智村を経て、8:20平谷村の道の駅「信州平谷」で休憩。

 赤坂峠を越えると最初の目的地の長野県根羽(ねば)村に入る。根羽村を走る国道153号線沿いに「信玄塚」の標識があった。諸説あるようだが、ここは戦国武将・武田信玄が絶命したと伝わる場所。信玄は、三河国に侵攻して家康を敗退させたが持病が悪化、甲斐国に撤退する途中でこの地で没した。

 矢作川支流の小川川沿いに国道153号線を更に南下し、 根羽村の役場を過ぎてから左折、8:45黒地集落に到着。棚田が広がるこの辺りの標高は、610m。

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●黒地の柿の木
 長野県下伊那郡根羽村黒地(8:45~9:25)

 樹齢150年の柿の木は、今年は「成り年」だそうで柿は実っているが、青い葉が残っていて秋の柿の木の風景とはどこか違う。

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 早朝、雨が降ったようで、地面から蒸気霧が上がっている。

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 根羽村の「黒地の柿の木」は、写真愛好家たちの撮影スポット。葉が落ち赤い実が残った木と根元にある苔むした物置小屋が調和し、昔話の一コマのような写真が撮れると評判だそうだ。今年は、青葉が茂って主役の柿の実が目立たない。

 近くのドウダンツツジは、真っ赤に染まっていた。

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 矢作川に沿って国道153号を走り、いったん愛知県豊田市の国道257号を経て、矢作川に架かる「出合橋」を渡ると岐阜県恵那市。「奥矢作さくら街道」(県道20号)を矢作川を左に見て走ると、「奥矢作湖」の湖畔に「大野公園」がある。
 

●大野公園 岐阜県恵那市串原 大野公園 10:00~10:30

 カエデが紅葉。ここは標高305m。

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 ツタの葉は紅葉しているが、モミジは青い。

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 岐阜県の南東部の恵那郡にあった串原村は、2004年10月に周辺自治体との合併で消滅。合併後は恵那市の大字として串原が旧村域に設定されている。

 「奥矢作湖」の下流(右手方向)に「矢作ダム」がある。

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 「矢作ダム」は、愛知県豊田市と岐阜県恵那市にまたがる、一級河川・矢作川本流最上流部に建設されたダム。「矢作第一ダム」とも呼ばれる。国土交通省直轄のダムで、高さ100mのアーチ式コンクリートダム。矢作川の治水と愛知県西三河地域への利水、水力発電を行う多目的ダム。矢作川水系では最大規模。「矢作ダム」による人造湖は「奥矢作湖」。

 「矢作ダム」 出典:ウキメディア・コモンズ

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 公園内にある「恵那市串原郷土館」は、串原地区の文化財の収集保存、公開する施設。1968年(昭和43)、恵那郡串原村の「串原村郷土館」として開館。2004年(平成16)に合併で恵那市となると、「串原郷土館」に改称した。建物は「奥矢作湖」に水没した久木地区の農家(江戸時代末期建築。茅葺屋根の木造平屋建)であり、串原村が建物の寄贈を受け、移築した。1979年(昭和54)に串原村指定文化財(2004年に恵那市指定文化財に再指定)となっている。

 ここには、当時の村の生活文化を現代に伝える民具が600点以上も展示されているそうだ。 10:00を過ぎた時刻だが、建物は閉まっている。後で知ったが、利用する際は事前予約が必要だという。

 「恵那市串原郷土館」 恵那市観光協会串原支部のホームページから転載。

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 建物は、2016年(平成28)にリノベーションが行われ、「サトノエキカフェ」がオープンした。カフェの「フェースブック」を見ると、11月のカレンダーでは営業日は土日を中心に1カ月の1/3程度。12月1日~桜の頃まで冬期休業だとか。

 前庭には、水没集落から移築した「三十三体仏」が「奥矢作湖」を向いて立っている。岐阜県内には、一石三十三観音が多数存在しているようだ。この恵那市指定文化財「彫刻石造三十三一石観音」は、 1846 年(弘化3)の作で彫りも深く、保存状態も良い。

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 矢作川に沿って西進し、県道11号から、右折して矢作川に架かる「有平橋」を渡って国道354号線。恵那市の「大野公園」から35分ほど、11:10豊田市も「小原ふれあい公園」着。

 

●小原ふれあい公園 愛知県豊田市小原町  11:10~12:30

 公園では、「四季桜まつり」が開催中。

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 「小原ふれあい公園」と隣接する豊田市役所小原支所の周辺には約300本もの四季桜が植えられており、春は3月中旬~4月上旬、秋は10月下旬~12月上旬に花を咲かせるという。春に比べて秋の方がより満開になるので、ピンクの桜と紅葉のコラボを楽しむことができる

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 「小原ふれあい公園」に隣接する豊田市市役所の小原支所。標高280m。

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 愛知県西加茂郡小原村は、2005年(平成17)4月豊田市に編入合併され、小原村は廃止された。

 「小原ふれあい公園」を出て、国道419号線を北へ。「小原和紙のふるさと」(小原和紙美術館)を経て5分ほどで「川見四季桜の里」。
 

●川見(せんみ)四季桜の里 愛知県豊田市川見町  12:35~13:30

 川見町は、旧小原村の大字川見。川に沿った山全体に1200本の四季桜と紅葉のコントラストが広がる。標高360m。

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 川見の「四季桜の里」にある「川見薬師寺」は、真言宗高野山派の古刹。

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 本堂は、急勾配の石段を88段、33段、42段と登った上にある。

 真言宗「瑠璃光山薬師寺」の本堂。本堂の標高495m。

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 開山は不明だが、現在の伽藍は江戸末期から明治初期にかけて建立。本尊の木造薬師如来像は室町時代末期の作と伝わる。灯籠と如来像は、豊田市の指定文化財。

 四季桜は、小原地区の各地で咲いていて、「四季桜まつり」はあちこちで開かれている。

 13:30「川見四季桜の里」を後にして、往路と逆順で帰路へ。
 

 15:40中央自動車道の駒ヶ岳SAで休憩。山頂が雲に隠れた「仙丈ヶ岳」(中央)と冠雪の「甲斐駒ヶ岳」(左手)を展望。

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 16:25岡谷ICで高速を降り、佐久ICから関越自動車道。18:15横川SAで休憩。横川SAでは、いつも「峠の釜めし」を購入するが、値段が高いのでやめた。米などの食材、燃料や物流費の高騰で、10月15日から 「峠の釜めし」は、1,400円(税込み)に値上がりしていた。

 「峠の釜めし」は、過去1,000円の時もあって買いやすかった。 2020年1月には1,100円に、2022年4月より1,200円、2023年7月に1,300円と値上がりしていた。また、「益子焼の器が重い」というの声を受け、誕生したパルプモールド素材の白い容器がある。原料はサトウキビの搾りかす等を使用した環境にやさしく、値段も陶器より100円安かったが、今回陶器と同じ価格になっていた。

 

 ★ ★ ★

●今年の遅い紅葉

 今年9月の気温はかなり高く推移し、特に中旬の最低気温は平年より5℃程度高くなった。10月~11月も平年より高めの傾向は続き、12月も平年並み、または高めの気温が予想されている。日本気象株式会社の11月26日の予想では、紅葉の色づきは各地で平年より遅く進むとのこと。東日本の山間部では10月下旬から12月中旬にかけて、平野部では11月下旬から12月下旬にかけて見頃となる見込みだそうだ。

●一級水系矢作川

 矢作川または矢矧川(やはぎがわ)は、長野県・岐阜県・愛知県を流れて三河湾に注ぐ河川。一級水系矢作川の本川。最上流部は「根羽(ねば)川」とも呼ばれる。矢作川は、その源を中央アルプス南端の長野県下伊那郡大川入山(標高 1,908m)に発する。大川入山付近を境として北西側は木曽川水系、東側は天竜川水系へと分かれている。

 矢作川は、飯田洞川、名倉川などの支川を合わせて愛知、岐阜県境の山岳地帯を貫流し、平野部で巴川、乙川を合わせて、その後、矢作古川を分派して三河湾に注ぐ。「小原ふれあい公園」の近くを流れる「犬伏川」(いぬぶせがわ)や「川見四季桜の里」の中を流れている「田代川」も矢作川の支川。

三十三観音と二十二夜塔

 恵那地方では、江戸時代の中・後期に観音信仰が盛んになり、西国、坂東、秩父の霊場巡拝が行なわれたそうだ。当時としてはこれらの霊場を巡礼参拝することは、時間的、経済的にも大変なことであった。大野公園の「石造三十三観音」は、西国三十三霊場を巡拝に行けない個人が、自分の屋敷内に建立して祭ったいたものを移築した。(恵那市教育委員会の説明板から抜粋)

 「石造三十三観音」の右手に「二十二夜神」の石塔がある。「三十三体仏」とは関係なさそうだが、月待行事を行った供養の記念として建てた月待塔(つきまちとう)の一つのようだ。月待行事は、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜など、「講中」と称する信者たちが月の出を待って集まり、ともに飲食したあと経などを唱え、月を拝み、悪霊を払うという行事だった。

 一般的に「二十二夜」の塔は、旧暦22日の月待ちを記念して建立され、ほとんどは女人講(安産祈願やおしゃべり)や念仏講(高齢者が念仏を唱える)だったそうだ。「二十二夜」と刻まれた文字塔のほか如意輪観音が彫られた塔もある。群馬と埼玉を中心に、東日本に多く分布するという。ここには「二十二夜神」と彫られているので、当時「神」も「仏」も同じ祈りの対象だったのだろうか。

●小原の四季桜

 シキザクラ(四季桜)は、バラ目バラ科サクラ属のサクラ。エドヒガン系の中のコヒガン系の栽培品種で、マメザクラとエドヒガンが交雑した種間雑種で、春と秋から冬にかけての二度開花する二季咲きが最大の特徴だそうだ。最大の特徴は、ジュウガツザクラ、コバザクラ(フユザクラ)、コブクザクラ等の品種と同じく、春と秋から冬にかけて咲く二季咲きであり、広義の冬桜の一つ。

 新芽の時期には葉と一緒に花をつけ、紅葉の時期には葉が落ちるころに花をつける品種で、花は春のほうが大きく、秋は小さめの花を咲かせるという。豊田市小原地区には、約10,000本の四季桜が植えられている。秋の開花の時期には、「小原四季桜まつり」が開催されることで有名。見ごろは10月下旬~12月上旬、最盛期は11月上旬~11月下旬頃。地区内に数カ所あるまつり会場では、出店やイベントも楽しめる。

 この小原のほかの「四季桜」の名所に、朱塗りの鳥居とともに四季桜を観賞できる宮城県塩竈市の志波彦神社と塩竈神社がある。初詣の時期などに開花をしている場合もあるという。京都府立植物園(京都市左京区)では、園内の半木(なからぎ)神社近くに寒咲きの桜を集めたコーナーがあるそうだ。

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