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2022年11月11日 (金)

渋沢栄一ゆかりの地ウォーク

 2022年10月30日(日)、埼玉県深谷市の渋沢栄一ゆかりの地を巡るウォーキング。

 10:20、JR深谷駅の市営南駐車場に乗用車2台で到着。

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 深谷駅舎は、「関東の駅舎百選」にも選ばれている東京駅の赤レンガ駅舎をモチーフにしたデザイン。大正時代に竣工した東京駅・丸の内口駅舎の建築時、深谷にあった「日本煉瓦製造」で製造された煉瓦が70km以上離れた東京駅まで鉄道輸送されて使われたことに因み、1996年(平成8)に改装された。ただしこの深谷駅は、コンクリート壁面の一面にレンガ風のタイルを貼ることによって東京駅に似せているという。

 深谷駅北口から、渋沢栄一記念館行のコミニティバス「くるりん」に乗車、10:55出発。料金は200円。

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 11:20 、終点の「渋沢栄一記念館」着。バスを降り、「青淵(せいえん)公園」を通って旧渋沢邸「中の家」(なかんち)に向かう。

●青淵公園・青淵由来之跡の碑 11:30~11:35

 深谷の血洗島にあった渋沢栄一の生家の近くの「青淵公園」は、清水川の調整池も兼ねた清水川沿いに広がる9.8haの細長い公園。芝生やこども広場などがあり、市民の憩いの場になっている。11月3日からイルミネーションが点灯するという。

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 旧渋沢家「中の家」のすぐ裏手に、清水川の伏流水が湧く大きな淵があり、1937(昭和12)年、栄一の雅号「青淵」の由来を記念する記念碑が建つ。この碑は皇太子明仁親王の生誕奉祝記念事業として、埼玉県大里郡八基村(やつもとむら)青年団により発起・建設された。

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●旧渋沢邸 「中の家」(なかんち)11:35~12:00

 旧渋沢邸の立派な正門。門をくぐると正面に主屋がある。

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 旧渋沢邸「中の家」主屋は、渋沢栄一生誕地に建ち、栄一の妹の夫・市郎によって1895年(明治28)上棟された。梁間5間、桁行9間の切妻造の2階建、西側に3間×3間の平屋部分等を持つ。また、主屋を囲むように副屋、土蔵、正門、東門が建ち、屋根に「煙出し」と呼ばれる天窓のある典型的な養蚕農家の形を残している。

 栄一は、多忙の合間も時間をつくりたびたびこの家に帰郷した。東京飛鳥山の栄一の私邸は、空襲によって焼失したため、この家は現在残る栄一が親しく立ち寄った数少ない場所という。渋沢家の住宅として使われていたが、1985年(昭和60)より「学校法人青淵塾渋沢国際学園」の学校施設として、多くの外国人留学生が学んだ。2000年(平成12)の同法人解散に伴い深谷市に帰属。県指定旧跡、市指定史跡。

  主屋は、今年1月から~2023年(令和5)4月末予定で改修工事中、外観がネットで覆われて見られない。

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 主屋の写真の出典は、ウィキメディア・コモンズ。

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 藍玉(あいだま)取引の店として使われた副屋。また八基村農業協同組合が設立された折には、事務所として使われた。副屋の左手には東門と土蔵が並ぶ。

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 12:00~12:25、「青淵公園」に戻り、東屋で昼食。清水川の堤防を「渋沢栄一記念館」に向かって歩く。

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 赤城山と榛名山 浅間山、日光連山、秩父連山などの展望が広がる。

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●渋沢栄一記念館 12:40~13:20

 渋沢栄一の生家(血洗島)から東に500mほどの清水川のほとりにあり、渋沢栄一に関する展示を行っている。

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 1995年(平成7)11月11日、栄一の命日に開館した記念館。ガイドの案内で館内の渋沢栄一資料室(撮影禁止)に入る。

 資料室の入口にある栄一の等身大パネルと記念館の北側に建つ銅像。身長は150cmちょっとだったとか。

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最初に、栄一の年譜が掲示。青春時代~尊攘派志士、一橋慶喜の家臣へ。幕臣となり欧州訪問。大蔵省、実業家の時代。引退後の教育・医療・福祉活動などと分かれている。また栄一の遺墨や写真などが展示されていた。体育室では渋沢栄一に関する映像を見ることができ、2階の講義室ではアンドロイド渋沢栄一講義を聞くことができるが時間の関係でパス。

●尾高惇忠生家 13:40~14:00

 尾高惇忠(じゅんちゅう)は渋沢栄一の従兄であり、栄一はこの尾高家に通い惇忠に論語をはじめ多くの学問を師事した。惇忠は、明治維新後は富岡製糸場の初代場長や第一国立銀行の森岡支店庁舎先代支店長などを務め、幅広く活躍した。

 尾高惇忠と渋沢栄一 出典:ウキメディア・コモンズ

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 この生家は、江戸時代後期に惇忠の曽祖父が建てたといわれ、当時は「油屋」の屋号で呼ばれ、この地方の商家建物の趣を残している。尾高家は 、農業のほかに菜種油、藍玉製造 、販売、 塩、雑貨等を販売しており、使用人も雇っていた。

 尾高惇忠生家 出典:ウキメディア・コモンズ

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 惇忠や栄一らが、高崎城乗っ取り計画を謀議したと伝わる部屋が二階にあるという。市の指定史跡。主屋敷の裏には、煉瓦倉庫も残る。

 惇忠の弟で、渋沢栄一の養子・渋沢平九郎や、惇忠の長女で富岡製糸場伝習工女第一号となるゆう(勇)もここで生まれた。平九郎は、幕臣のとして彰義隊・振武軍に参加して飯能戦争を戦ったが、敗北し自害した。旧渋沢邸「中の家」の裏には、栄一が作らせた平九郎の石碑があった。

 尾高淳忠生家を出て、深谷ネギ畑の農道を歩く。

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 利根川支流の小山川の堤防を右手橋の向こうに見える大寄(おおより)公民館に向かって歩く。

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●誠之堂・清風亭 14:25~14:40

 大寄(おおより)公民館の敷地内にある「誠乃堂」(せいしどう)と「清風亭」に入る。

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 「誠乃堂」は1916年(大正5)、「清風亭」は1926年(大正15)の建設。東京都世田谷区にあった「第一銀行」の保養・スポーツ施設「清和園」に建てられていたもので、平成に入り深谷市に移築・復元された。いずれも建築史上、大正時代を代表する重要な建物。

 「誠之堂」は、渋沢栄一の喜寿(77歳)を祝って「第一銀行」(現在みずほ銀行)の行員たちの出資により建築された。外観は英国農家風、室内装飾に東洋的な意匠。栄一は、日本の近代経済社会の基礎を築いた。その拠点が「第一国立銀行」で、1896年(明治29)「第一銀行」となり、栄一は、その初代頭取を務め、喜寿を機に辞任した。2003年(平成15)、国の重要文化財に指定された。

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 「清風亭」は、当時「第一銀行」2代目頭取であった佐々木勇之助の古希(70歳)を記念して、「清和園」内に「誠之堂」と並べて建てられたスペイン風様式鉄筋コンクリート造り。建築資金は、「誠之堂」と同じく行員たちの出資によるもの。 佐々木も栄一と同じく、行員たちから強く慕われていたそうだ。2004年(平成16)、埼玉県指定有形文化財に指定された。

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 小山川の堤防を旧煉瓦製造施設に向かって進む。

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●旧煉瓦製造施設 15:15~15:45

 日本煉瓦製造株式会社の旧事務所(煉瓦資料館)に入る。旧事務所は、ドイツ人煉瓦製造技師チーゼの居宅兼事務所として建築され、当時の西洋建築の様式を残し、現在は資料館として利用されている。当初は別の敷地にあったが、3回の曳家移転がなされた。

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 日本煉瓦製造は、渋沢栄一らによって設立。煉瓦技師チーゼを雇い入れて、1888年(明治21)に操業を開始、当地で製造された煉瓦は、東京駅丸ノ内本屋や旧東宮御所(現迎賓館赤坂離宮)などに使用されており、日本の近代化に大きく寄与した。しかし時代とともに煉瓦需要が減少、安価な外国産の市場拡大で2006年(平成18)、約120年の歴史に幕を閉じた。

 煉瓦資料館 工場の全体模型

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 明治40年に建設された「ホフマン輪窯」の建物が6棟ある。右上の隅、川のほとりに旧事務所が見える。

 工場の一部として「ホフマン輪窯6号窯」「旧事務所」「旧変電室」が残り、専用線であった「備前渠鉄橋」とともに1997年(平成9)年5月、国の重要文化財に指定され、2007年(平成19)度に深谷市に寄贈された。ホフマン輪窯は、この旧煉瓦製造施設の他には、栃木県、京都府、滋賀県にそれぞれ1基が現存するのみで、全国では4基しか残されていないという。

 煉瓦資料館 明治40年建設のホフマン輪窯(6号窯)の模型。

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 「ホフマン輪窯6号窯」は、保存修理工事のため、2019年(平成31)2月から見学休止中。再開は2024年(令和6)頃の予定。 

 旧日本煉瓦製造のホフマン窯とその内部 出典:ウキメディア・コモンズ

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あかね通り(遊歩道) 15:50~16:30

 日本煉瓦製造が製造した煉瓦の当初の輸送手段は、利根川舟運であった。しかし安定性に欠けるため輸送力向上を目的として、1895年(明治28)に深谷駅から工場までの約4.2kmにわたって、日本初の専用鉄道が敷かれた。やがて煉瓦の出荷量の減少により、1972年(昭和47)から運用休止となり、1975年(昭和50)3月に全線の廃止届が提出され、翌年の3月に線路用地が深谷市に譲渡された。

 廃線跡は、線路が撤去され、歩行者と自転車が通れる遊歩道「あかね通り」となっている。

 15:50、国の重要文化財「備前渠鉄橋」を通過。ここから遊歩道「あかね通リ」を歩き始める。

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 下を流れる「備前渠」(びぜんきょ)は、1604年(慶長9年)に関東郡代の伊奈備前守が江戸幕府の命で開削した埼玉県最古の農業用水路。鉄橋は、「プレートガーター橋」(鋼板の橋桁の意)が採用されている。

 専用鉄道には3ヶ所の鉄道橋(備前渠鉄橋、唐沢川鉄橋、福川鉄橋) が架けられていた、そのひとつが県内最古の農業用水路でもある備前渠用水に設置された「備前渠鉄橋」。1スパンで、全長15.7mと3つの鉄橋でも最長の橋桁。イギリス人の鉄道技師ポーナルが設計。またすぐ脇には、備前渠用水から分水する新井用水の上に架けられた長さ2mの「煉瓦アーチ橋」も遊歩道となっている。 

 何故か廃線跡の遊歩道中央に大きな樹木がある。

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 福川を渡った先にある公園「ブリッジパーク」には、この路線で使用されていた「福川橋梁」やその脇に架けられていた「福川避溢(ひいつ)橋」が移築、保存されている。また「唐沢川鉄橋」は深谷駅の北口から東へ300mの地点に位置し、深谷市へ譲渡されたさいに橋の名は、「つばき橋」に変えられている。

深谷城址公園 16:40~16:45

 深谷城は、1456年(康正2 )に深谷上杉氏の上杉憲房(のりふさ) が古河公方(関東足利氏)の侵攻に備えて築城。1590年(天正18)、秀吉の小田原征伐まで、深谷上杉氏の居城だった。家康の関東入部に伴い、松平康直が1万石で入城し深谷藩となった。その後、藩主が何代か代って酒井忠勝(後の老中・大老)が1万石で入封したが、1627年(寛永4)に川越へ移封となり、深谷藩は廃藩、1634年(寛永11)に廃城となった。

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 ちなみに、武蔵国岡部(旧大里郡岡部町、現深谷市)を本拠としていた安部家の岡部藩領から、豪農から幕末に渋沢栄一、渋沢成一郎(喜作)、尾高惇忠などが輩出した。渋沢栄一と成一郎は一橋家慶喜の下で士分に取り立てられ、慶喜の将軍就任後は直参旗本となった。

 深谷城の城跡一帯が、深谷城址公園として整備されている。 外堀に沿って桜が植えられており、市民の憩いの公園。城跡は埼玉県指定旧跡、また外堀(外濠)の一部が深谷市指定史跡。周辺には深谷市文化会館、県立深谷高校、深谷第一高校、深谷商業高校や深谷市役所などが集まる市の中心街となっている。

 16:40、「深谷城址公園」の中を通過し、深谷駅に17:05着。

 この日の歩数は、22,500歩、距離13.5Km。渋沢ゆかりの地を学び、秋晴れの気持ちの良い、久し振りのウォーキング日和だった。

 

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●韮崎直次郎の富岡製糸工場建設

 「尾高惇忠生家」のガイドの話では、富岡製糸工場ゆかりの深谷出身の偉人として、渋沢栄一、尾高惇忠とともに、あまり知られてない韮崎直次郎がいる。直次郎は、尾高家の住み込みの使用人・久保田熊次郎と同じく使用人であった母・銀の長男で、尾高家の離れで生れた。やがて韮塚家の養子となり、苦労して農業、養蚕、藍玉作り、菜種油の製造・販売に力を注いだ。尾高家の物心両面の力添があったと思われるが、 幕末には豪農としての地位を築いた。

 この直次郎のひたむきに努力する姿を尾高惇忠が見ていて、直次郎に対して深い信頼を寄せたようだ。富岡製糸工場の建設において西洋式建物の資材調達のまとめ役を任された。主な建築資材であった西洋の煉瓦は、製造方法もわかっていない中、地元の瓦職人を束ね、試行錯誤のうえ煉瓦を焼き上げることに成功したという。

●諸井恒平の秩父セメント設立

 諸井恒平は、武蔵国児玉郡本庄宿(埼玉県本庄市)出身の実業家。1878年(明治11)わずか16歳で本庄生糸改所頭取に推され、1886年(明治19)には児玉郡外二郡蚕糸組合の副頭取、同年24歳で本庄郵便局長になった。若い頃から事業家としての才覚があった。遠戚である渋沢栄一の勧めで、1887年(明治20)に日本煉瓦製造(株)に入社。支配人、取締役を経て、1907年(明治40)には専務取締役に昇進。その間、日本工業協会理事、東京毛織(株)専務取締役にも就任する。

 恒平の名を不動にしたのは、秩父鉄道の取締役となった1910年(明治43年)に武甲山の石灰岩に注目し、セメント製造事業の開拓を手掛けたこと。セメントの需要拡大を見込み、栄一の資金援助のゴーサインが出て、日本煉瓦社内に秩父セメント発起準備室が設けられた。1923年(大正12)に秩父セメント会社を設立、1925年(大正14)には秩父鉄道の社長も兼ねた。密接な関係にあったため両会社の発展に寄与した。この他にも大正、昭和を通して次々と要職に就いた。

 近代の諸井家は3家あり、北諸井、南諸井、東諸井と呼ばれた。恒平を世に出した東諸井家は、その他にも多くの逸材を育て、日本の近代化に深く貢献した。恒平の長男である諸井貫一は「経済団体連合会」「経済同友会」の創始者である。また、恒平の弟に当たる諸井六郎は、外交官として条約改正に尽力。他の弟たちも実業家として日本の近代化に貢献している。三男の諸井三郎とその次男諸井誠は、作曲家・音楽評論家として業績を挙げている。

●渋沢栄一の強運

 「近代日本経済の父」、新1万円札の顔ともなる渋沢栄一は、幼少の頃からとても頭が良かったという。また父親の藍玉売りに同行したりして、商才に長けていた。岩崎弥太郎と違い、財閥を作らず戦争に協力しなかった。「渋沢栄一記念館」のガイドは、彼は「強運」の持ち主だったと言う。

 江戸末期から明治へと、日本が近代化をめざして変革しようとする激動の時代においては、井伊直弼、吉田松陰、坂本龍馬、中岡慎太郎、近藤勇土方歳三、西郷隆盛、大久保利通、伊藤博文・・・といったすぐれた人物が、悲運にも次々と倒れた。確かに、栄一もひとつ間違えれば、そういう生涯を送ったかもしれない。確かに彼は、歴史の流れに乗った4つの「強運」を持っていた。しかも長寿で1931年(昭和6)11月11日、老衰のため91歳で逝去した。

➊尊皇攘夷の青年期

 藍の商いをおこなう農家の子として生まれた渋沢栄一は、日本の将来を憂いて過激な尊王攘夷派となった。討幕をめざして武具を買い整え、従兄弟の渋沢喜作ら69人の同志を募り、攘夷蜂起を目的とする同志を組織。1863年(文久3 )年11月に、高崎城を乗っ取って武器・弾薬を奪い、鎌倉街道を南下して横浜を焼き討ち、外国人を切り捨てる、長州藩と連携して幕府を倒すという計画を立た。

 同志との会合の席上で、栄一の従兄弟であり妻の兄である尾高長七郎が、天誅組の失敗を例に挙げて計画の実行を反対した。栄一は決行を主張し議論は平行線。しかし幕府がこの計画を察知し動き出していたため、計画は実行されず栄一と喜作は連れだって京都へ逃れた。血気に走る一歩手前で、反逆者として処刑される危機を切り抜けた。これが1番目の「幸運」だった。

➋幕府側への転身

 一橋家の重臣、開国派の平岡円四郎に出会い、「世界を知らずに、攘夷を論じている自分」を知らされ、眼を開かされる。渋沢栄一と喜作はまさに180度の転身をして、平岡の推挙により喜作と共にかつて敵であった幕府側、一橋家の家臣となった。これが2番目の「幸運」となった。

➌西洋で学ぶ

 幕府の最後の将軍・徳川慶喜の家臣となった栄一は、慶喜の弟、民部公子(徳川昭武)の随行して、中国、シンガポール、エジプトを経由して、パリ万国博覧会が開催されるフランスへ渡る。そこで、渋沢は西洋の文化、社会にじかに触れ、日本より遥かに進んだ鉄道や兵器、科学技術などに驚く。とりわけ、彼の心を揺り動かしたのは、銀行を中心とした経済構造であり、株式会社による近代資本主義だった。3番目の「幸運」は、異国で学ぶ機会を得たこと。

 そして、日本に帰ってきた時には幕府が倒され、明治維新によって江戸幕府は消滅していた。時代の大きな激変の時に、渋沢栄一が外国にいたため、それに巻き込まれなかったことも「強運」であった。、栄一の見立養子(相続人)の渋沢平九郎は、彰義隊に参加して敗北し自害している。

 「近代国家は強力な軍隊だけではなく、自由な取引による商工業によって支えられている。日本も遅れてはならない」。栄一はそのことを痛感し、日本に戻ってきたあと、慶喜が身を寄せていた静岡藩で、商法会所(株式会社)を始め、順調に発展する。栄一は慶喜に「私はこれからもあなたをお支えしたい」と伝えるが、慶喜からは「私に仕えなくていい。自分の人生を生きなさい」と諭される。明治政府に呼ばれ、大隈重信に説き伏せられて、大蔵省の役人となった。

➍自分を生かす道は実業家

 大蔵省の役人となった栄一は、日本の近代化をめざして、財政、地方行政、殖産興業等を精力的に進めた。しかし障害が多く、「自分の生きる道は、ここではない」と悟り、自力で切り開く決意を固めたことも第四の「幸運」となった。自分をもっとも生かす道、実業家となった栄一は、少年期に学んだ孔子の『論語』の精神を生かして、「私利私欲を追求し、ひたすら営利をむさぼる実業家ではなく、たくさんの人に利益をもたらす、仁愛の精神を持った実業家」になろうとした。

 国家や社会のための「公益」を大切にするという考えのもと、栄一は第一国立銀行や東京商法会議所を設立、王子製紙、日本郵船、帝国ホテル、札幌ビール、東京電力、東京ガスなど500社におよぶ株式会社を立ち上げ、会社の経営に携わった。さらに「経済活動だけでなく、社会公共事業が大切」と医療や教育を支援し、東京慈恵会、日本赤十字社、聖路加病院、理化学研究所等の設立に関わり、一橋大学や同志社大学、二松学舎、早稲田大学、日本女子大学等の設立を助けた。

 特に力を注いだのは、養育院。明治維新により社会体制が大きく変わり、職を失う人、孤児や老人、障害者など多くの生活困窮者がいた。養育院は1892年(明治5)、明治政府が生活困窮者の保護施設として設立。渋沢は1874年(明治7)から事業に関わり、1879年(明治12)初代養育院長となって運営に携わり、死ぬまでの50年余り院長を務めた。「怠け者など税金で養うべきではない」との議論に、栄一は「政治は仁愛に基いて行なうのは当然」と、公的支援を訴えた。

●論語と算盤

 渋沢栄一は、「なによりも良心と思いやりを大切にしなければ」と、労働組合を助け、貧しい人のための「生活保護法」をつくり、社会福祉にも尽力した。その信念を、『論語と算盤』という著書にまとめている。栄一は経済人・実業家であるだけでなく、確固とした哲学をもった思想家でもあった。

 道徳と経済とは、孔子の教えである論語から、「道徳なくして経済なし 経済なくして道徳なし 」という考え方。「徳で収める儒教の考え方を経済に取り入よう」と考えた。そして、ただお金儲けをするのではなく、世のため、人のため、または日本の繁栄のために『徳』を積むようなビジネスを、相反する働き方と融合しようと「道徳経済合一主義」を試みた。この考え方は、道徳に欠け、金儲け主義や自己中心的な働き方が多い現代社会にも必要だ。

 岩崎弥太郎は三菱財閥の創始者で同時代に活躍したが、事業を独占しすることで、富も独占しようと考えた。栄一は自ら財閥を立ち上げるという、出世欲や名誉欲というものは全くなかった。 事業を大きくして得た利益は社会に還元し、「公益」を追求することで日本を豊かにしようと考えた。道徳的に正しいことを続けることが公益になり、やがて自分にも返ってきて豊かになると考えた。このような論語思想から、教育・福祉事業への投資・寄付を惜しまなかったという。

 ところで、後にキリスト教の洗礼を受けた大原孫三郎は、倉敷紡績、倉敷絹織、倉敷毛織、銀行、電力会社などの社長を務め、大原財閥を築き上げた。孫三郎は、石井十次の社会福祉事業の影響もあり、工員の教育や環境改善、農業改善のほか、社会・文化事業にも熱心に取り組んだ。倉紡中央病院、大原美術館、大原奨農会農業研究所、倉敷労働科学研究所、大原社会問題研究所、私立倉敷商業補習学校を設立した。孫三郎と渋沢栄一が、社会へ還元する経済の考え方が共通することを知って、改めて当時の実業家の偉大さを思う。

2022年6月23日 (木)

那須の国探訪の旅

 2022年6月12日(日)、栃木県・那須地方の古代を中心に歴史と文化を学ぶ旅。

 

 「那須の国」つまり「那須国」は、那珂川上流地域である太田原市を中心とする那須郡一帯がその領域で、多くの古墳や古代遺跡が存在する。2019年の宮崎県・西都原古墳群、2020年の群馬県・上毛野の古墳群に引き続き、2021年コロナ禍で延期した栃木県・那須地方の古代史を中心に歴史と文化を学ぶ日帰りの旅。

 前日の太田原地方の予報(11日8:00発表)は、降水確率は午前70%(小雨)、午後40%(小雨)、最高気温21℃と、梅雨時期で天気が危うい。小雨決行、しかし当日は最高気温25.1℃の夏日で、小雨の予報が外れ、曇りで予定通リコースを回ることができた。


●那珂川町風土記の丘資料館(9:35~10:40)那珂川町

 東北道を矢板ICで降り、県道161号を東へ20分ほど走る。資料館は田園風景の中にある。このあたりで、国史跡の「那須小川古墳群」(国史跡)や「那須官衙(かんが)遺跡」(国史跡)などなど。多くの史跡が発見されているという。

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 2015年4月より「栃木県立なす風土記の丘資料館」は那珂川町に移管され、「那珂川町なす風土記の丘資料館」となった。常設展示テーマを「よみがえる那須古代文化の軌跡」として、縄文時代から奈良・平安時代にわたり5つのテーマを取り上げ、全体として那須の古代文化を紹介する。学芸員に分かりやすく説明してもらう。

 ロビーに展示されている地形模型。資料館周辺の地形や文化遺産の分布を概観。

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 那珂川やその支流によって出来た河岸段丘上の狭い地域に、遺跡が集中しているのがよくわかる。

 資料室に入ると、いきなり那須縄文人の竪穴式住居の模型。縄文人の食生活や東北地方に見られる「複式炉」を知る。

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 この地域の取っ手のある縄文式土器は、新潟の火炎土器の影響を受けているという。

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 前方後方墳の駒形大塚古墳(全長60.5m)の模型。

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 前方後方墳は、特に東日本の前期古墳に多く存在する。中国・四国にも多いそうだ。前方後円墳と前方後方墳は、被葬者の階層の違いとの説明があるが、他の資料によるといまだ十分解明されてないという。

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 古墳造り模型。

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 那須八幡古墳の鉄製工具類、右側は土器と中国産の鏡「夔鳳鏡」(きほうきょう、複製)。

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 駒形大塚古墳の土器群と右下は中国産の「画文帯四獣鏡」(複製)。

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 川崎古墳の横穴式石室の実物大模型。長さ約8.2m、最大幅約3m、高さ2mで、県内最大の大きさ。

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 「那須官衙(なすかんが)遺跡」は、役所の跡。国の指定史跡。官衙遺跡は、主に古代の政庁である国衙(こくが)や郡衙(ぐんが)の跡を指す。南東上空から見た復元図。

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 「那須官衙」には政庁としての様々な建物があったが、大部分の建物は税としての稲などを収蔵する倉庫「正倉」が数多く立ち並んでいた。手前の「那須官衙正倉」の模型は、高床で朱塗り瓦葺きの大型の正倉と考えられている。古代の那須郡は「租庸調」の調として納税されたカラムシ(麻の仲間)製の古代布の産地で、奈良の大仏に使われた砂金も採れるなど、豊かな土地だったという。

 「那須官衙遺跡」は、那珂川箒川(ほうきがわ)の合流地点の近くの、箒川の形成した段丘上に位置する。昭和の初期より古瓦が散布することから寺院跡だと考えられていたが、発掘により郡衙跡であることが分かった。

 那珂川町の資料館のすぐ近くにある「那須官衙遺跡」。後方に資料館が見える。出典:ウキメディア・コモンズ

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 那須国(なすのくに)は、鬼怒川上流部の東部、那珂川上流地域である那須郡一帯(現在の大田原市を中心とする地域)がその領域であったと考えられている。鬼怒川の西部は下毛野国(しもつけののくに)と呼ばれていたが、那須国は下毛野国 、下野国(しもつけのくに)に編入され那須郡となった。那須統合の時期は明らかではないという。


●上侍塚古墳(10:55~11:10)太田原市

 那珂川町の資料館から2Kmほど先、那珂川水系の箒川(ほうきがわ)に架かる国道294号の長い橋を渡ると、太田原市。そこから「上侍塚古墳」まで3Km。道路左手に立つ「冨士ぼたん園」の看板前で、右手に松林の小山が見える。T字路を右折、狭い道を左手の「上侍塚古墳」の墳丘に沿って進み、古墳を40mほど過ぎたところに、駐車スペースがある。

 車を駐め、右手の小径から墳丘に登る。古墳時代前期の前方後方墳。前も後も方形になっている。長さは、114mある。

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 「侍塚古墳」は、那珂川右岸河岸段丘上に位置する前方後方墳。「上侍塚古墳」から800m北にある「下侍塚古墳」とからなる。1951年、国の史跡に指定。ここの「上侍塚古墳」は、足利市の「藤本観音山古墳」(116.5m)に次ぎ、県内では2番目に大きい。2基とも葺石、墳丘周囲に周濠痕跡、築造は4世紀後半。徳川光圀の命により、「那須国造の碑」の碑主を求めて日本初の学術発掘調査が行われたが、明らかに出来なかった。

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太田原市風土記の丘湯津上資料館(11:20~12:00)太田原市

 「上侍塚古墳」から、更に国道294号を北へおよそ1Kmほど、「太田原市風土記の丘湯津上資料館」に着く。

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 国宝に指定されている「那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)の建立とその発見」をテーマに展示を行う。すぐ近くに、国指定史跡「下侍塚古墳」がある。2012年4月より県から移管、名称変更。入館料は100円だが、この日は栃木県の「県民の日」の無料開放日だった。

 碑が建立された時代背景や江戸時代の徳川光圀による「侍塚古墳」発掘の業績、さらに周辺の遺跡や出土品も紹介。館長から直接、説明を受ける。

 「上・下侍塚古墳」の発掘と国造碑の保存についての展示。

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 水戸光圀は、出土品を絵師に描かせてから松材の木箱に入れて埋め戻させ、盛土の崩落を防ぐため墳丘には松を植えさせた。

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 「那須国造碑」の拓本(右)とレプリカ。

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 碑文は、19字8行、全152字からなる。7世紀末ころに活躍したとされる那須値(なすのあたい)韋提(いで)の業績をたたえた内容。水戸光圀の日本初の発掘調査のきっかけとともなり、現在は「笠石神社」のご神体となっている。高さ148cm、硬い花崗岩(御影石)に彫られている。この石材は、那珂川対岸の八溝(やみぞ)山地で産出するもの。

 碑文の内容から最初、那須の国造(くにのみやつこ=朝廷の地方長官)であったのが評督(こおりのかみ=郡長)になっており、那須国が下毛野国(しもつけぬのくに)、後に下野国(しもつけのくに)に組み入れられたことがわかるという。また、唐の則天武后の時代に使用された年号「永昌」が用いられ、碑の文字が六朝(りくちょう)の書風、中でも北魏の書風に近い。この当時新羅人を下野国に居住させたということが、「日本書紀」に記されていることなどから、渡来人と非常に密接な関係のある資料として注目されるどうだ。

 左から「金井沢碑」(726年建立)、「山ノ上碑」(681年)、「多胡碑」(711年頃)、「多賀城碑」(762年)の古碑の展示。

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 「金井沢碑」、「山ノ上碑」、「多胡碑」の3つの古碑は群馬県高崎市にあり、「上野三碑」(こうづけさんぴ)と呼ばれる。日本各地に点在する古代碑のうち、書道史の上から極めて重要とされている碑(金石文)の「多湖碑」と右端の宮城県多賀城市「多賀城碑」、太田原市の「那須野国造碑」の3つあわせて「日本三古碑」と呼ぶ。

 隣接する「太田原市歴史民俗資料館」(入館無料)は、昭和30年代までの地域の民俗資料を収集・展示する資料館だが、見学は割愛。


●下侍塚古墳
(12:10~12:25)太田原市

 「太田原市歴史民俗資料館」から、国道294号を北へ100mほど先の右手に「下侍塚古墳」がある。

 古墳時代前期の前方後方墳。1951年、国の指定史跡。全長は84mで、「上侍塚古墳」(全長114m)に比べて小ぶり。こちらも松が植えられている。墳丘に登る。

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 侍塚古墳は、「侍塚古墳松守会」という地元のボランティア団体によって、日常的な手入れが行われ、保護されているそうだ。会の名は、「黄門さまが植えた松を守る」という思いから名づけられた。「松守会」による毎年の松のこも巻き・こも外しは、地域に冬や春の訪れを告げる風物詩として定着。また、定期的な下草刈りや枯れ枝の除去も行われているという。地元住民の古墳に対する思い入れと、それによって美観が保たれているは凄い。

 「下侍塚古墳」の北に前方後円墳1、円墳6、方墳1の計8基の古墳群があり、周囲には遊歩道が整備され周遊できる。

 国道294号線を北へ130m先、「下侍塚古墳」の道路を挟んだ反対側に、駐車場、トイレや東屋がある。12:30~駐車場の東屋で、コンビニで買ったランチの昼食。
 

●笠石神社(12:55~13:45)太田原市

 国道294号線を北へ650m先の信号を左折し、すぐに「笠石神社」がある。

 国宝「那須国造碑」(なすのくにのみやつこのひ)は、「笠石神社」にご神体として安置。鳥居の前には、「日本考古学発祥の地」の石碑が建つ。題字は水戸徳川家15代当主が筆を執った。

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 アメリカの動物学者・モースが、大森貝塚を発見したのは、1877年(明治10年)。大森貝塚はこれまで「日本考古学発祥の地」とされていた。徳川光圀の命により、侍塚古墳で行われた日本考古学史上初の学術的発掘調査の事績を顕彰するため、「笠石神社」にあらたに「日本考古学発祥の地」記念碑を建立し、2021年3月28日に除幕式が行われたという。  

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 社務所で拝観料500円を払い、宮司の詳しい解説のあとご神体(石碑)を拝観できる。透塀(すきべい)の奥に、ご神体「那須国造碑」が鎮座する本殿がある。

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 宮司の案内で、狭い本殿の中(内部の撮影は禁止)のご神体を拝観させていただく。

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●那須乃木神社(14:15~15:05)那須塩原市

 国道461号、ライスライン(大田原広域農道)経由して「那須乃木神社」へ。
 
 日露戦争における旅順攻囲戦の指揮で有名な将軍・乃木希典(まれすけ)は、那須野に自ら設計して農家風の質素な別邸を建てた。明治天皇を慕いあとを追って殉死した後、敷地の一部に神社が建立された。

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 乃木希典夫妻の葬儀にあたり、乃木別邸中庭に於て遥拝式が行われた。終了後、神社創立の声がおこり、地元の石林住民を中心にして、1916年(大正5)4月に神社が建立。ちなみに「乃木神社」は、那須(別邸の敷地)のほか東京・赤坂(自刃した邸宅の隣地)、京都市(明治天皇陵の麓)、下関市(幼少時代の旧家跡に隣接)、飯能市(秩父御嶽神社内)など、全国に大小10社ほどある。

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 希典とともに殉死した静子夫人にちなんで名づけられた「静沼」。乃木別邸のそばの水田跡地に造られた灌漑(かんがい)用の池で、神社境内を流れる蟇沼(ひきぬま)用水から水を引いている。 

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 1892年(明治25年)に自ら設計した建坪53坪の木造瓦葺の乃木希典別邸。

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 乃木将軍は、石林のこの地をこよなく愛し、通算4年間静子夫人と過ごした。自ら鍬や鋤を握って農作業にいそしみ、晴耕雨読の生活を送り、村人とも親しく交わったという。「我が国は瑞穂の国、農は国の大本なり」と、自ら勧農の範を示した将軍は、「農事日記」に日常の出来事や農作物の経過、質素な献立、買い物など詳細に記していたとそうだ。

 別邸前庭の乃木将軍像。その後の建物は納屋。

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 乃木希典は、長州藩の支藩長府藩出身の陸軍大将。後に学習院長も務めたた。日露戦争における旅順攻囲戦の指揮や明治天皇の大喪の際の殉死は国際的にも有名。裕仁親王(昭和天皇)の教育係も務めた。明治24年(1891年)、ここ石林の地に約14haの土地と農家造りの家屋を求め、農家風の質素な別邸を建てた。1966年に栃木県の史跡に指定。内部公開は、なし。所有者は、乃木神社。

 右手は湯沸かし所、中央が井戸、左手は風呂場。

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 愛馬殿号愛育厩舎。大正天皇が皇太子の時、乃木将軍が賜った白馬は、殿(しんがり)号と名付けて愛育した。

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 石蔵庫(現石林文庫)

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 乃木神社の宝物館に入館。料金300円だが、この日は「県民の日」で無料。

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 乃木別邸で夫妻が使用された日用品をはじめ遺品や将軍に関係した資料を展示。

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●那須野が原博物館
(15:15~15:45) 那須塩原市

 県道317号(塩原街道)経由して、「那須野が原博物館」へ。

 那須塩原市域と那須野が原周辺を対象に、地学・植物・昆虫・動物の自然系4分野と、歴史・考古・民俗・美術・文学の人文系5分野を扱う総合博物館。「那須野が原の開拓と自然・文化のいとなみ」をテーマに、活動を展開している。

 道の駅と一体化した「那須野が原博物館」は、地域情報の発信と人々の交流を目的とした文化交流型の「道の駅」。観覧料は300円であるが、「県民の日」のため無料だった。

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 1977年(昭和52年)、前身の「西那須野町郷土資料館」が開館。1993年(平成5年)に焼失した後、2004年(平成16年)「那須野が原博物館」が開館。そして、2005年(平成17)の黒磯市・西那須野町・塩原町の合併により那須塩原市が誕生し、博物館は「那須塩原市那須野が原博物館」として再出発した。

 旧青木家周蔵那須別邸、松方正義別邸、大山巌別邸、山県有朋記念館などの展示。明治の元勲らは大農場方式の入植・開拓を行った。

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 那須野が原開拓地の家の模型。

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 那須野が原は扇状地のため、水が地下に浸透してしまい、江戸時代以前は人があまり住んでない不毛の原野だった。那珂川の水を取水する「那須疎水」の開削は、国の直轄事業としての大プロジェクト。それにより開拓が進み、緑豊かな大地となった。福島県の安積疎水、京都府の琵琶湖疎水とともに「日本三大疎水」と言われている。

 那須疏水取水施設1/2模型(高さ4.5m) 

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 「那須塩原の自然」の展示。地学・植物・昆虫・動物のほか、発掘された化石など。

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 博物館を後にして、県道317号(塩原街道)、国道400号経由、15:50西那須野塩原ICから東北道、帰路へ。

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 梅雨の時期で雨の心配もあったが、天気に恵まれ、快適な歴史探訪ツアーとなった。6月15日が栃木県の「県民の日」。県や市町村、民間施設で、ちょうど12日が無料開放・一部割引の対象の日に当たったところがあって、ラッキーだった。2個所の「なす風土記の丘資料館」で、学芸員や館長から直接の説明をいただき、理解を深めたのは良かった。

 

 ★ ★ ★

 1692年(元禄5)、上侍塚・下侍塚という二つの古墳を水戸藩2代藩主・徳川光圀(1628~1701)が発掘した。2021年(令和3年)、栃木県が進める「いにしえのとちぎ発見どき土器わく湧くプロジェクト」は、「栃木県文化財保存活用大綱」の重点テーマの一つで、光圀が掘ったこの二つの古墳を、現代の技術で再調査しようという。今後、5年程度かけて調査と報告書の作成が行われることになっている。上・下侍塚古墳はいずれも国の史跡に指定されており、文化庁と相談しながら進めるという。

 物語は、水戸藩領の那須郡小口村(現在は栃木県那珂川町)の庄屋だった大金重貞(おおがねしげさだ)が、1676年(延宝4年)旅の僧・円順から「湯津上に高さ4尺あまりの古い碑がある」という話を聞いたことに始まる。重貞は現地を訪れ、草むらに倒れ苔にまみれた碑に刻まれた文章を読み、『那須記』という書物にまとめた。重貞は、古くは佐竹氏の家臣であったが、佐竹氏の秋田転封に際し小口村へ帰農土着したと伝えられる。

 重貞は諸学に精通しており、特に史書・仏典に詳しく『那須記』16巻のほか、多くの文書を残している。1683年(天和3年)、水戸光圀は当時水戸領であった那須郡武茂郷(むものさと、現在の那珂川町馬頭)を訪れた際、大金重貞から自著『那須記』を献上された。光圀は、その『那須記』に記された古碑「那須国造碑」に興味を持つ。

 碑文の内容は、689年に那須評督(なすのこおりのかみ)という官職を授かり、700年に亡くなった、元・那須国造(なすのくみのみやつこ)の那須直韋提(なすのあたいいで)という人物を顕彰したものだった。そこで「碑は那須国造の墓碑ではないか」と考えた光圀は1687年、家臣の佐々宗淳(さっさむねきよ=通称・介三郎、水戸黄門の助さんのモデル)に韋提の墓を見つけるよう命じる。

 碑の下を掘っても何も出土しなかったため、1692年(元禄5年)地元で国造の墓との伝承がある近くの「侍塚古墳」の発掘に取りかかる。しかし銅鏡などの遺物の他、古墳の被葬者の名を記した墓誌は見つからず、なお、これら出土品は、光圀の意向で絵師に命じて記録図を描かせた後、松材の箱に納め、それぞれの古墳に再び埋め戻された。また墳丘保護のため、松を植樹させた。こうした一連の光圀による活動は、今日の文化財調査・文化財保護に通じるものといわれている

 このときの調査の所見は大金重貞が『湯津上村車塚御修理』という書名に記録している。上侍塚の後方部中央を5尺(約1.5m)ほど掘り下げると、石釧、鉄鏃、管玉などが出土したとあり、これらの下には「へな土」(泥土)を塗り、その中には「墨・漆の練り土」「朱少々」があったという。これは、粘土郭の中に木棺を収めた埋葬施設とみられる。下侍塚についても同様に後方部中央を5尺ほど掘り下げると遺物が出土したというが、『湯津上村車塚御修理』は下侍塚の埋葬施設については言及していない。両古墳からの出土品は以下のとおり。

  • 上侍塚 - 銅鏡、石釧(いしくしろ=石製の腕輪)、管玉、鉄鏃、鉄鉾身、鎧破片、鉄刀身破片、高坏
  • 下侍塚 - 銅鏡、鉄斧、大刀柄頭、鉄刀身破片、鎧破片、高坏、壺

 重貞は、「那須国造碑」の保存のため、光圀の命により碑の堂宇を建設する。そしてその功績により銀若干を賜った。この一連の作業は大金重貞が現地指揮をとり、光圀の命は佐々を通じて行われた。重貞は事の経緯を『笠石御建立起』に記している。一方、この堂宇の周囲は水戸藩の飛び地として旗本から買い上げ、管理人の僧(別当)を配置し、碑堂が完成するとすぐに参詣した。なお前述のとおり、「那須国造碑」は、下侍塚古墳の北650mにある「笠石神社」の御神体となり、国宝に指定されている

 下侍塚については、1975年に周濠を主とする調査が実施され、葺石が確認されたほか、発掘記録にあるものと似た土師器壺などが出土している古代の那須郡はカラムシ製の布の産地で、奈良の大仏に使われた砂金も採れるなど、豊かな土地だったという。河川交通の要衝である那珂川のほとりに葬られた下侍塚と上侍塚の主は、一帯を治めた首長だったのだろうか。

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2022年6月14日 (火)

新田氏ゆかりの地・太田市

 5月29日(日)、新田氏ゆかりの新田荘(にったのしょう)、太田市(群馬県)の史跡をめぐる。

●大光院

 9:10、「大光院」駐車場に到着。「大光院」は、徳川家康が始祖・新田義重(よししげ)の菩提寺として、金山(かなやま)南麓に1613年に建立した浄土宗の寺院。

 「開山堂」に参拝。鉄筋コンクリート造りとしては古く、1934年(昭和9年)の再建。

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 こちらが本堂。境内中央には(写真右手)、上人の手植と伝えられる「臥龍の松」がある。

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 本堂の前にある「臥龍の松」は、半分枯れていた。

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 徳川家康は一族の繁栄と天下泰平、さらにご先祖の新田義重(よししげ)の追善供養のため菩提寺を建立計画を立て、芝「増上寺」の観智(かんち)国師に相談した。国師の門弟で四哲の一人といわれた呑龍(どんりゅう)上人が迎えられ、1613年(慶長18年)に創建された。「大光院」に入山した上人は、読経・講義・説法などに力を尽くしす。上人の徳を慕う学僧が「大光院」に多数集まり、周辺農民も上人の教えを守ったので、寺は栄えた。

 当時、太平の世になっても人心は乱れ、天災等で生活は貧しく、多くの捨て子や間引きなどが横行していた。上人は、これらの子どもを弟子という名目で寺に受け入れ、寺の費用で養育した。このため、後世の人々から「子育て呑龍」や「呑龍様」と慕われ、篤い信仰を集めているという。今日も、乳児を連れた母親が、何組も参拝していた。

●金山(かなやま)

 戦国時代の山城「史跡金山(かなやま)城跡」の金山(標高239m)に登る。金山は、太田のシンボルの山。昭和9年(1934)に国の史跡指定。

 9:35 「大光院」を出発。子ども連れのハイキング集団が、別のコースに山に向かって山道を歩く。

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 途中、2個所の東屋で小休憩しながら、10:30駐車場のある展望台に着く。

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 展望台から、現在はSUBARU(スバル)の城下町の太田市街、遠くに関東平野を一望。

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 10:40展望台を出て、「金山城跡」へ向かう。

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●金山城趾

 10:45、「史跡金山城跡」着。

 「金山城」は戦国時代、新田一族の岩松家純によって1469年(文明元年)に築城され、下克上によって城主となった重臣の横瀬氏(のちに由良氏に改姓)の時代に全盛を迎えた。越後の上杉氏や甲斐の武田氏などの有力武将たちに攻められたが、強固な城は落城することはなかったという。その後北条氏の支配となり、豊臣秀吉による小田原攻めによる北条氏の敗北によって、金山城も1590年(天正18年)に廃城となった。

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 「金山城」は、山全体の自然地形を利用して造られた山城。堀切や土塁・石垣などの土木工事を中心とした遺構がよく残されている。金山の山頂を中心として全山にその縄張り(=城の設計)が及ぶ金山城跡は、1934年(昭和9年)に国の史跡指定を受けた。太田市と太田市教育委員会では、1992年(平成4年)から発掘調査を開始し、金山城時代の通路形態の復元を中心とした遺構の保存整備事業を実施。また、2006年(平成18年)には日本城郭協会により、「日本100名城」に選定されている。

・堀切:山城に使われている空堀で、尾根を断ち切って敵の侵入防ぐ曲輪を守る施設。

 西矢倉西堀切と物見台堀切(写真がうまく撮れず、太田市教育委員会のパンフを転載)

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・物見台:金山の周囲の敵の動きを見張る施設。10:30着。

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 物見台から北西の方角:榛名山(1449m)と赤城山(1828m)

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 北の方角:日光白根山(2578m)と男体山(2486m)

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・馬場曲輪(ばばくるわ):大手虎口を守る兵が待機したという曲輪。石垣、石段、建物や柵列があった。

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・月の池:大手虎口の脇にあり、訪れた者に水の豊富さを見せつけるという。

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・大手虎口(おおてこぐち):本丸への侵入を防ぐ一大防御拠点。高く積まれた石垣は、敵を威圧し、城の威厳を示す。11:20着。

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・大手虎口南上段曲輪:手前の井戸跡と石敷建物跡。武器庫や兵の詰め所だったと思われる。

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・大ケヤキ(欅):この先の「新田神社」の参道にも大ケヤキがある。

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・日の池:戦いで勝利や雨乞いなどの儀式が行われたと思われる神聖な池。

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・南曲輪(中島記念公園):休憩所などが整備されて、眺望も良い。空気の澄んだ日には秩父山地の上に顔を出す富士山を望むことができる。

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 広場には、中島飛行機(現在のSUBARU)の創設者である中島知久平の胸像が建てられている。子供たちが大勢いるが、登山開始の時にいたハイキングの集団だろうか。

●新田神社

・金山のシンボル「金山の大ケヤキ」は、樹齢800年ほど。金山の山頂近く、「新田神社」の参道にある。

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 樹高17m、目通り6.79m、枝張りは40mを超え、樹勢良好。石段を登ると、11:40「新田神社」に到着。金山城の本丸跡に鎮座し、新田義貞を祀る。

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 拝殿の右横の説明板「新田神社御鎮座壱百年記念事業 修復奉賛会発足 趣意書」 には、

 「新田神社の創始につきましては、新田公の支族江田行義の十代の孫森下大膳が旧領江田の館(現在の新田町大字上江田)の本丸跡に、藁宮を建てて公及び祖先の遺徳を偲んだのが始めと傅えられて居ます・・・」とあるが、いつの頃の話だろうか。

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 明治になり、義貞の末裔と地元有志らの出願により、1973年(明治6年)神社創立の許可を得て、 1875年(明治8年)社殿を建築、「新田神社」の社号を賜ったという。1934年(昭和9年)、国の史跡に指定。

 社殿の右側には天皇家が腰掛けた腰掛石がある。右から大正天皇、秩父宮殿下、昭和天皇(以上、明治42年)、高松宮殿下(大正4年)、三笠宮殿下(大正14年)。参拝時に腰掛けられたそうだ。

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 境内には、他にも1979年(昭和54年)の高松宮宣仁親王の参拝記念植樹の松がある。

 境内で昼食後、12:05新田神社を出発、登りとは別の南側のジグザグの急坂を下る。

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●史跡金山城跡ガイダンス施設

 12:35、「史跡金山城跡ガイダンス施設」に入館(入場料無料)。金山城跡の歴史を紹介する歴史学習の場、金山来訪者の憩いの場でもある。建物は、隈研吾氏の設計。側面の壁は、金山城の石垣を模したという。

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 金山城の歴史解説、出土遺物などが展示されている。

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●金龍寺

 13:20 金龍寺着。「金龍寺」は、1417年(応永24年) 横瀬貞氏が祖父・新田義貞の菩提寺として建立した。

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 本堂に義貞の木像が安置されている。

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●天神山古墳

 「大光院」駐車場に戻り、3Km、車で7分ほどの「天神山古墳」駐車場に13:45に着く。

 墳丘の長さ210m、東日本最大(全国26位、近畿を除けば3位)の前方後円墳の「天神山古墳」。国指定の史跡。

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 「男体山(なんたいさん)古墳」とも呼ばれ、墳丘の周りには二重に堀が巡らされ、北東には付属する陪塚(=ばいちょう、親族や臣下を埋葬した小古墳)や北東に帆立貝型の「女体山古墳」も造られている。円筒埴輪のほか、家、楯、鶏や水鳥(白鳥)の埴輪が発見されていて、古墳が造られた時期は5世紀前半と推定。大型の長持形石棺が使われたことや埴輪の特徴から、古墳に埋葬された人はヤマト王権と強いつながりを持っていた毛野(けぬ)国の大首長とされている。墳丘に登る。

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●世良田東照宮

 天神山古墳から西へ15Km、車で25分ほどで、14:45 「世良田東照宮」の駐車場に着く。

 「世良田東照宮」は、徳川氏発祥の地の東照宮として知られている。国指定史跡、重要文化財。三代将軍家光により、元和年間(1615~1623) に造営された「日光東照宮」の元社殿や宝物などを1640年~1642年(寛永17年~19年)に徳川氏発祥の地である当地・世良田へ移築された。

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 次の写真は、ウキメディア・コモンズより転載した「拝殿」。国の重要文化財。

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 唐門(国の重文)に付随し透塀が本殿を一周している。この奥の本殿(国の重文)は、工事中か。

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 境内の「宝物保管陳列所」(撮影禁止)には、東照宮所蔵の宝物を陳列。展示されている「新田・徳川氏略系図」には、源義家ー源義国-新田義重-新田義季(よしすえ、新田義重の4男)ー世良田頼氏-・・・-松平親氏(松平家へ婿養子)-・・・徳川家康(徳川に復姓)-・・・つながるという。新田義季から数えて家康は、実に17代目となるとしている。拝観料300円。

 今日の学界では、家康によって粉飾された系譜というのが通説になっている。徳川家の系図詐称については、本ブログの次の記事を参照されたい。

 「尾島ねぷたまつり」 2014年8月18日投稿

   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/post-b26c.html
 

●長楽寺

 「世良田東照宮」に隣接した「長楽寺」に15:20着。

 「長楽寺」は、徳川氏の祖と言われる新田義季が1221年(承久3年)、臨済宗の開祖・栄西の高弟・栄朝を招いて開基した、東国における禅文化発祥の寺。室町時代には関東十刹の一つにも数えられた。

 栄朝は名僧の誉れ高く、徳を慕って集まった全国の僧侶の中からは多くの高僧・名僧が輩出した。かれらは各地に寺院を開いて禅を広め、世良田は全国の僧侶の憧れの地となったという。広大な境内には小寺院が軒を並べ、常時500人もの学僧が研学・修行につとめるなど、関東の優良な寺院として栄えたそうだ。

 徳川家康が関東に入ると、徳川氏祖先の寺として「長楽寺」を重視し、天海大僧正を住職に任じた。さらに三代将軍家光の命を受けて天海は天台宗に改宗し、日光東照宮の社殿を移すなど、「長楽寺」は末寺700余寺を擁する大寺院として再興した。

・三仏堂:1651年(慶安4年)に三代将軍家光によって再建された。現在の建物は、1985年(昭和60年)に改修されたもの。三仏堂の中には、釈迦如来(高さ3m)、阿弥陀如来(3.3m)、弥勒菩薩(2.7m)の三体の木造仏が並んで安置されているという。県の重文。

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 新田義季は、得川(徳川)氏また世良田氏の祖。父・義重からは新田郡(新田荘)の世良田郷を譲られ、世良田郷の地頭となった。これにより世良田と称した。また得川郷をも領有して、得川を称したともされる。

 義季の後は、長子・頼有が得川郷を継承し、次子・頼氏が世良田郷を継承した。のちに家康が清和源氏を詐称する際、新田義季(得川義季)を先祖として、自身は松平から徳川に復姓した。

・忠霊塔:「長楽寺」の三仏堂の左手には、忠霊塔が建っている。

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 忠霊塔は、1877年(明治10年)の西南戦争から太平洋戦争まで245名余りの英霊が祀られ、昭和21年世良田村によって建てられた。

・蓮池と渡月橋:「心」の字を型どっていることから、「心字池」とも呼ばれる蓮池は、鎌倉時代にはすでに存在していたという。この池のほぼ中央には、石造りの太鼓橋「渡月橋」が架けられている。

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・太鼓門:時報や行事の合図のため、楼上に太鼓を置いていたことからこの名があるという。現在、太鼓はなく、明治9年に旧鐘楼から移された鐘も戦時中に供出されてしまっている。1982年(昭和57年)に重要文化財に指定。

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 ほかにも、鎌倉時代の優れた石造美術品として知られ国の重文に指定の「宝塔」、県の重文「勅使門」、本堂(大師堂)、新田一族供養塔 などがあるが、広い境内を回りきれず割愛した。

●新田荘歴史資料館

 「新田荘歴史資料館」(旧・東毛歴史資料館)は歴史公園の中にあり、「長楽寺」、「東照宮」の貴重な文化財をはじめ、新田荘域を中心とする様々な歴史資料を展示。入館料200円。時間の関係で入館は割愛。

 新田の「長楽寺」、徳川の「世良田東照宮」そして「新田荘歴史資料館」の一帯は、「大田市歴史公園」と呼ばれている。歴史公園の西側には芝生広場があり、古くから新田氏一族・世良田氏の館跡(推定)と伝えられているという。


●総持寺

 総持寺は、2町四方(一辺200m)の鎌倉時代の新田氏の惣領(=跡取り)の館がここにあったとされることから、別名を「館の坊」とも呼ばれる。この新田館跡は、西の早川を背にして、三方を堀にした館跡で、東と西の一部に堀の跡が残っている。拝観料なし。時間の関係で割愛する。

 「世良田東照宮」の駐車場を15:30出発、帰路へ。


 ★ ★ ★

 新田荘(にったのしょう)は、上野国(こうずけのくに)新田郡を中心とした地域(現在の群馬県太田市と周辺の桐生市・伊勢崎市・みどり市などの一部)にあった荘園、おもに大間々扇状地の上に立地している。1108年(天仁元年)、浅間山の爆発によって荒廃した新田郡南西部の地を源義重(源義国の子、義家の孫)が開発。1157年(保元2)にこの19郷を鳥羽上皇建立の寺院「金剛心院」に寄進、ここに金剛心院を本家、藤原忠雅を領家、義重を下司職(げししき)とする新田荘が成立した。

 下司(げし)とは、中世日本の荘園や公領において、現地で実務を取っていた荘官のこと。京にいる荘官の上司(じょうし)に対していう。

 新田荘は、1170年までには新たに39郷を荘域に加えて大荘園へと発展。義重の子息らは諸郷の地頭職を分割・譲渡されて世良田氏・額戸氏・山名氏などに分立、それぞれがさらに分立して庶子家(分家)は各郷に根を下ろし、自らの郷名を名字とした。

 新田義貞は、新田氏の惣領(=嫡子、跡取り)であったが、官職すらもたないほど鎌倉幕府からは冷遇されていた。元弘の変(1331)には、初め幕府軍の一員として楠木正成の千早城攻撃に加わったが、その途中帰国。1333年(元弘3・正慶2)、護良(もりよし)親王の令旨(りょうじ)を得て北条氏に背き挙兵する。関東各地で反幕府勢力を結集し、鎌倉に進撃して陥落させ、北条高時らは自害、鎌倉幕府は滅亡した。


 義貞はその功により、後醍醐天皇の「建武の新政」で重用され、越後、播磨守などの国司、武者所頭人、さらに左近衛中将などに任ぜられたが、やがて勲功第一位として優遇された足利尊氏と激しく対立するようになる。建武政権に反旗を翻し、武家政権を再興しようとする足利尊氏に、新田義貞は天皇方の大将として抗争を繰り返す。一時は尊氏を九州に追い落とすが、後醍醐天皇方は楠木正成らを失い、京都を放棄した。

 義貞は、天皇方勢力の再結集を図るため北陸に赴いていた延元3年(1338)、足利氏一門の斯波(しば)氏の軍の流れ矢に当たり、越前藤島(福井県福井市)で38歳の生涯を閉じた。義貞は、鎌倉攻めのため新田荘で兵を挙げたあと、ついに一度も新田の地を踏むことはなかった。

 尊氏とその弟・直義(ただよし)を中心に一族がまとまって行動した足利氏に比べ、新田氏は家格の低さももちろん、山名・岩松氏ら有力な一族が当初から義貞と別行動をとり、わずかに本宗系の庶子家しか動員しえなかったので、すでに義貞の非力さがあった。にもかかわらず義貞は後醍醐天皇によって尊氏の対抗馬に仕立て上げられ、悲劇の末路をたどることになった。


 新田義貞の時代に南朝軍の中核になり、新田氏一族もこれに従うが南朝の敗退とともに没落。その中で、北朝に下った岩松氏が事実上の宗家の地位を占めて新田荘を支配した。だが、戦国時代に入ると岩松氏も家臣の由良氏の下克上によって取って代わられると荘園の実態を失い、やがて豊臣政権の「小田原の役」に由良氏が巻き込まれて所領を失い、新田荘も解体に追い込まれた。


 明治維新の後、新田義貞や楠木正成らの南朝側の武将らは、朝廷のために最後まで尽した「忠臣」「英雄」として再評価されるようになった。義貞が亡くなって540年以上経った1882年(明治15年)、義貞は正一位を贈位された。新田義貞を祀る「新田神社」に天皇家が何故参拝されたのかという理由が分かった。

2022年4月25日 (月)

身延山とその周辺の枝垂れ桜

 2022年3月30日(水)、身延山久遠寺とその周辺、身延町、南部町の桜をめぐる日帰りの旅。

 

 午前2:20、起床。4:15、自宅発。この日は、曇り。

 関越道から圏央道を経て、中央道を東へ山梨県へ。中央道釈迦堂PAで休憩。双葉JCT経由せず中部横断道へショートカットするため、6:42甲府南ICを降りる。国道358、国道140号を経由して中部横断道の増穂ICへ向かう。国道140号の車窓から右手に八ヶ岳連峰、進行方向に冠雪の北岳が朝日に輝く。

 ちなみに国道140号は、埼玉県熊谷市から秩父地方を経由して甲府、富士川町に向かう一般国道。秩父往還道や彩甲斐街道(埼玉県側)、雁坂みち(山梨県側)などの通称がある。

 7:05、増穂ICから富士川に沿った中部横断道を南下、7:23身延山ICを降りる。富士川に架かる身延橋を渡り、国道52号(富士川街道)を南下、県道804号(身延線)を北上。


●身延山久遠寺の枝垂れ桜

 県道804号線は、久遠寺「総門」を抜けて「三門」前を通り、7:46「久遠寺」境内下の「せいしん駐車場」に到着。

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 駐車場から「久遠寺」境内へ向かう斜行エレベータ。

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 「久遠寺」は、日蓮宗の総本山。1500人が入れるという荘厳な「大本堂」。本堂での朝のお勤めは、午前5時30分 (4月~9月)。

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 1985年(昭和60年)落慶。本尊は日蓮聖人真筆の大曼荼羅本尊を木造形式にした立体曼荼羅。釈迦如来像、多宝如来像、四菩薩像、不動明王像、愛染明王像、四天王像、普賢菩薩像、文殊師利菩薩像、そして日蓮大聖人坐像などからなるという。

 本堂内陣 出典:ウキメディア・コモンズ

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 本堂の天井に描かれている巨大な天井画「墨龍」(撮影禁止)は、加山又造画伯の力作という。また地下には、久遠寺所有の書物、掛け軸、法要道具などの国宝・重要文化財・指定文化財などが多く展示されている「宝物殿」(有料)があるそうだ。

 「大本堂」の右隣りに建つ極彩色の「祖師堂」。

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 「祖師堂」は、宗祖・日蓮聖人像を安置する堂。11代将軍德川家斉が1836年(天保7年)に江戸・雑司ヶ谷に建立し、天保の改革の一環として5年後に廃寺となった鼠山(ねずみやま)感応寺の堂宇の一部を、1881年(明治14年)に移築し、同年宗祖第600年遠忌をここで奉行した。昭和天皇より下賜された「立正」の勅額がある。

 「祖師堂」の日蓮聖人像 出典:ウキメディア・コモンズ

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 「祖師堂」と樹齢400年といわれる枝垂れ桜。「全国しだれ桜10選」に数えられる。

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 朝早いが、すでに観光客や信者がチラホラ。五重塔は、2009年に復元。

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 斜行エレベータを使わず本堂裏から駐車場まで急坂を下り、「西谷の坂」の行き止まりにある「本行坊」へ。

 「本行坊」は、久遠寺の宿坊として最古級の坊。日蓮が開眼し、比企能本(ひきよしもと)に与えたと伝わる帝釈天像を祀る 。本堂左手に「帝釈堂」がある。

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 能本は、比企能員(よしかず)の末子比企大学三郎能本。法名は日学妙本。鎌倉時代、「比企の乱」で北条氏に一族が滅ぼされるが、2歳の能本は助命され、和田義盛に預けられたのちに安房国へ配流となった。京で学問に励み、順徳天皇に仕えた。鎌倉に戻った後、1253年(建長5年)に日蓮に帰依、1260年(文応元年)鎌倉の比企一族の屋敷跡に「妙本寺」を建立した。「本行坊」は、1286年(弘安9年)能本の開基により創建。1858年(安政5年)、現在地に移転した。

 いくつかの坊の枝垂れ桜を見ながら「西谷の坂」を「三門」へ下る。

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 領主・南部実長が開創した「北之坊」。1297年創建。

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 「北之坊」の三門。境内には多数樹齢400年以上の枝垂れ桜がある。

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 久遠寺の「三門」。銅板葺きで、五間三戸の二階二重門。

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 「三門」は、三解脱門(さんげだつもん)の略で、仏教の摂理に基づき「空」「無想」「無願」の三境地を経て悟りの道に至る門をいう。また「山門」ともいうが、正面と左右に門があるので「三門」という説もある。「久遠寺」のこの門は、日本三大門の一つとされる。

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 「山門」付近の枝垂れ桜。

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 「三門」から、一直線で天にも昇るような287段(高低差140m)の石段「菩提梯(ぼだいてい)」を上ると、「久遠寺」大本堂の正面に至る。「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えながら登ると、41回目で頂上に辿り着けるようになっているという。境内に至るには、近くに男坂、女坂のルートもある。

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 参道を少しばかり下ってみると、土産屋は仏具が多くて菓子類の土産が少ない。「三門」から坂道の参道を1.2Kmほど下ったところに、「総門」がある。ここからが聖域に入るという。

 10:00、「三門」を後にして、県道804号~国道52号から、大城川沿いの県道808号を南下する。

●大城のミツマタ群生地と枝垂れ桜

 10:24、富士川水系の大城川砂防ダム(身延町大城)周辺のミツマタの群生地に到着。

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 和紙の原料になるミツマタは、ちょうど黄色い花が満開。

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 11:25、ミツマタの群生地を後にして、県道808号をもどる。

 11:36、県道808号線を下り、左手に枝垂れの一本桜。

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 更に808号線を下り、11:50町有相又団地付近(身延町相又、門野の湯から下り1.3Km)の左手に枝垂れ桜が数本並ぶ。 

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 12:10~13:25、国道52号沿いの道の駅「なんぶ」(南部町中野)と道の駅「とみざわ」(南部町福士)に寄り昼食。

●原間のイトザクラと本郷の千本桜

 国道52号をもどり、新船山川橋北詰を左へ、中部横断道の下をくぐったら右折。13:33、「原間のイトザクラ」(南部町本郷)に到着。

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 原間地内の旧法眼寺境内にある町内一のイトザクラの巨木。町の天然記念物、樹齢150~200年。

 ここから更に4、5分ほど北上し、14:12「本郷の千本桜」(南部町本郷)に着く。

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 県指定天然記念物のエドヒガンザクラは、旧妙善寺境内に咲く。樹齢500~600年。「植物形態学上興味深いのは、地上約5mの位置で樹幹の空洞中に根をおろしている不思議な形状の桜」だそうだ。


●鏡円坊の枝垂れ桜

 国道52号に戻り、北上。15:00、国道沿にある身延山「鏡円坊」(身延町梅平)に到着。

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 本堂裏の急斜面に立つ枝垂れ桜。県の天然記念物指定。樹齢500年とも言われる。

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 南部氏は、甲斐源氏の一族である加賀美遠光の子・光行が、この地の所領を得て南部を名乗ったことに始まる。1189年(文治5年)、光行父子は源頼朝に従い奥州藤原氏征伐に参加、戦功を立て奥州に所領を与えられた。これを機に光行は奥州に下向、甲斐南部氏は、子の実長が継ぐ。実長はこの梅平に館を構え、治政に当たった。その後実長は日蓮聖人に深く帰依、1274年(文永11年)所領を寄進して日蓮を招き、庇護に努めた。

 南部氏館は、身延山久遠寺の南の台地にあったとされ、現在は「鏡円坊」。実長の次男・日台が、晩年に館から日蓮宗の寺院に改めたのが始まり。身延山久遠寺の支院の一つ。
 

 15:27「鏡円坊」を出て、富士川を渡り身延山ICへ。往路を逆順に中部横断道の身延山ICから増穂IC、国道140号へ。16:10頃、中央市から雄大な八ヶ岳の全容を望む。

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 16:20、甲府南ICから中央道へ。談合坂SAで休憩し、圏央道、関越道。19:15、帰宅。

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 ★ ★ ★

 「身延山」は、山梨県南巨摩郡身延町早川町の町境にある標高1153m。日蓮宗の総本山「久遠寺」山号でもあり、最澄の「比叡山」(天台宗)、空海の「高野山」(真言宗)と並んで、「日本仏教三大霊山」の一つとされる。身延山の山麓、標高400m付近に「久遠寺」があり、山頂には日蓮が父母を偲んで建立したと「奥之院思親閣」が建つ。身延山周辺には鷹取山(1036m)、七面山(1982m)など、日蓮宗の修行の場となっている。

 JR身延駅から門前町の身延山までは路線バス、また新宿や甲府からは高速バスも運行。久遠寺の本堂裏から参道を2時間半(下りは1時間半)かかるという山頂の奥の院へは、身延山ロープウェイ(大人往復1,500円)が片道7分で結ぶ。学校法人身延山学園として、身延山高校、身延山大学を身延山内に開学している。
 

 鎌倉時代、疫病や天災が相次ぐ末法の世、「法華経」をもってすべての人々を救おうとした日蓮は、三度にわたり幕府に諫言(かんげん)を行ったが、いずれも受け入れられることはなかった。浄土宗など諸宗の信仰を捨てて「法華経」の信仰になりきることによってのみ、現実の世界は仏国土になることができるというのが、その主張。法然の説く浄土教を禁圧して『法華経』に帰依しないならば、国内に内乱が起こり、他国から侵略を被るであろうと、『立正安国論』を著した。

 鎌倉での宗教活動を理由に、北条時宗によって佐渡に流される1274(文永11)、信者であった甲斐国の波木井(はきい)郷の地頭・南部実長(波木井実長)は、佐渡での流罪が赦免後に鎌倉に戻った日蓮をこの地に招いた。日蓮は、鷹取山のふもとの西谷に構えた草庵を住処とした。これ以来、法華経の読誦(どくじゅ)と広宣流布、弟子信徒の指導に終始し、更には日本に迫る蒙古軍の退散、国土安穏を祈念した。

 1281(弘安4)年には本格的な堂宇を建築し、自ら「身延山妙法華院久遠寺」と名付けた。翌1282(弘安5)年、日蓮は病身の湯治のため常陸(茨城県)加倉井の温泉と小湊の両親の墓参りに向かうため、身延山を下った。当地では足かけ9ヵ年の生活であった。その旅の途中、信徒であった武蔵国の池上宗仲邸(東京都大田区本行寺)にて病状が悪化したため逗留、同地においてその61年の生涯を閉じた。そして遺言のとおり、遺骨は身延山に祀られた。

 その後、「身延山久遠寺」は6人の本弟子「六老僧」の一人、日向(にこう)上人とその門流によって継承され、約200年後の1475(文明7)年、第11世日朝上人により、西谷から現在の地へと移転し、伽藍(がらん)の整備が進められた。のちに、武田氏や徳川家の崇拝、保護を受けて栄え、1706(宝永3)年には、皇室勅願所ともなっている。皇室からは、日蓮大菩薩(後光厳天皇、1358年)と立正大師(大正天皇、1922年)の諡号(しごう、おくりな)を追贈された。

 日蓮聖人の入滅以来、実に700有余年。身延山久遠寺は、総本山として門下の厚い信仰を集め、広く日蓮聖人を仰ぐ人々の心の聖地として、日々参詣が絶えることがない。

2022年4月12日 (火)

森林公園2022の春

 2022年3月27日(日)、武蔵丘陵森林公園(埼玉県滑川町)の春。


 北の風が強いが、気温は20℃を越す暖かさ。

 中央口の開門と同時の9:30入園。植物園に向かう。

 植物展示棟前の「パンジー」と「チューリップ」。

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  初めて見た黒い「パンジー」。ハーブガーデンにて。

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 ボーダー花壇付近の「コブシ」の花。コブシは花期、花の付け根部分に葉が1枚あるのが特徴だそうだが良く確認できない。

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 公園・庭園樹園のこもれび花畑。早咲きの「チュリップ」畑は人気があって、日曜とあって家族連れが大勢来てにぎやか。

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 公園・庭園樹園の「モクレン」。コブシとモクレンは見た目がよく似ているため混同しやすい。

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 最盛期の「クリスマスローズ」畑。公園・庭園樹園にて。

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 「クリスマスローズ」。花びらに見えるのは、実はガク。

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 見頃を過ぎた「クロッカス」の群生、その中で鮮やかな三輪を見つけた。白に薄紫の筋模様の花びらは、どこか着物を身につけた清楚な女性のよう。渓流広場にて。

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 「熊谷桜」は、淡紅紫八重咲きで小さい。めしべは2個。キンキマメザクラの園芸品種。山田大沼の中央西岸にて。

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 12:50、退園。

 

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  「森林公園2022の福寿草」
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  「森林公園2021梅林と椿園」 2021年2月15日 投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2021/02/post-737b07.html

  「森林公園の早春ウォーク」2019年3月15日投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2019/03/post-d5b0.html

  「森林公園の観梅ウォーク」 2018年3月19日投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2018/03/post-ff07.html

  「森林公園の早春の花」 2017年3月15日投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-0609.html

 

 ★ ★ ★

 コブシ(辛夷)と(ハク)モクレン(白木蓮)は、同じ時期に花を咲かせ、見た目がよく似ているため混同しやすい。コブシとモクレンはどちらもモクレン科モクレン属。モクレンの原産地は中国南西部、コブシは朝鮮半島と日本。

 モクレンは花期には葉がついていない。 花が終わってから葉を出す。ハクモクレンの花の大きさは8~10cmでコブシに比べ肉厚。上を向いて開花し、開花の際に花弁がふわっと膨らむ程度で、完全に開き切らないのがモクレンの花の特徴。一方コブシの花は、モクレンと比べると小ぶりで4~5cm。コブシの花弁は横やあちこちに広がって開花し、完全に開き切る。

 モクレンの花びら(に見えるもの)が9枚あるのに比べ、コブシの花びらは6枚。これは、花びらの下に出る3枚の「がく片」が、コブシの場合は緑色なので花びらと区別できるのに対して、ハクモクレンの「がく片」は花弁と同じ白色であるため9枚あるように見えるのだという。

 コブシのツボミには毛が生えているのが特徴。モクレンのツボミにも毛が生えているが、ツボミ期間が長いのが特徴だそうだ。

東秩父村の早春

 2022年3月24日、埼玉県東秩父村の早春。花桃の名所、大沢地区の「花桃の郷」に行く。

 12:30ころ到着。残念ながら「花桃」は、まだ3分咲き程度。観光客はチラホラ。

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 早咲きの桜(白い花)が先に咲いていた。

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 展望台への階段を登る。

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 休耕畑に植えられた一部の「花桃」は満開か。

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 あちこちに見かけた「サンシュ」の大木。黄色い花が満開。

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 春の花のレンギョウやボケの花、菜の花も花桃と一緒に咲くが、開花はまだだった。

 「ボケ」の花は、またつぼみ。

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 たいした写真も撮れず、14:30頃、道の駅「和紙の里」に寄る。東秩父村と隣接する小川町は、古来から「細川紙」と呼ばれる和紙の産地として有名で、世界遺産に登録。

 「JA東秩父農産物直売所」と「和紙特産品直売所」で買い物、「ふるさと文化伝修館」を見学。(写真なし)

 「ふるさと文化伝修館」の東秩父村の伝統産業である和紙作り用具や工程の展示は興味深い。昭和2年(1927年)アメリカから日本の子どもたちへ贈られた「青い目の人形」もこの村で保存されていたのか、展示してあった。

 細川紙の紙漉(すき)家屋(江原家住宅を移築)。15:00過ぎていて、閉館していた。

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 何のつぼみか、柔らかいうぶ毛で覆われている 。「コブシ」か? 園内の茶屋付近で。

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 和紙の原料、「ミツマタ」の花が満開。和紙の里文化財収蔵庫の付近。

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 15:30ころ、「和紙の里」を後にする。

 

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  「春の秩父路花めぐり」
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2021/04/post-97a24b.html

  「春の秩父路」2019年4月7日投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2019/04/post-3438.html

2022年2月25日 (金)

森林公園2022の福寿草

 2022年2月22日(火)、武蔵丘陵森林公園(埼玉県滑川町)の梅林へ行く。

 日本周辺での冬の西高東低の気圧配置によって吹く季節風は、山を越えて「からっ風」と呼ばれる。山の名前を付けて「赤城おろし」とか「秩父おろし」と呼ばれる場合もある。関東地方では冬の風物。コロナ禍の中だが、天気予報を見て風の弱い日に出かける。

 

 この日の滑川町の天気は晴れ。北西の風だが、午前から昼頃までは風がない。最高気温9℃、比較的暖かい。

 梅の開花は遅れ気味で、残念。早咲きの紅梅が一部だけ見頃。

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 真紅の紅梅の「鹿児島紅」が開花していたが、見頃を過ぎていた。

 「八重冬至」という品種の白梅が満開。

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 明るい黄色の福寿草が満開。梅の木の足元に、2万5千本が群生。

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 福寿草は、早春の陽光を受けて温かみを感じる。夜や低温時は閉じ、気温があがる日中に開くという。

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 蝋梅の植栽は少ないが満開。

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 滑川町の天気予報では、午前中は平均風速が1~2m毎秒だが15:00頃から5m毎秒前後になりそう。関東北部ではやや強い風が吹くところもあり、次第に南部に広がるそうだ。風速5m毎秒は、早めに自転車を走らせて当たるくらいの風。この後、椿園に寄ってみるが、開花はまだ少ない。北風が強くなる前の14時ころ退園。

 

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  「森林公園の早春の花」 2017年3月15日投稿
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 ★ ★ ★

 九州や北海道ではあまり馴染みがないが、「からっ風 」は冬の関東で北西の方向、日本海側から山を越えて太平洋側に吹き下ろす強風のこと。冷たくて、乾燥している。晴れていてポカポカの天気でも、風に当たると体感温度は急激に下がる。群馬県の名物は「上州のからっ風」や「赤城おろし」、栃木県那須地方は「那須おろし」、茨城県南部から千葉県北部「筑波おろし」、静岡県西部は「遠州のからっ風」とか呼ばれている。

 群馬県では、自転車通学の高校生は向かい風で自転車をこいでもなかなか前に進まず遅刻者が続出、向かい風で歩く小学生は後向きに歩く、畑の土ぼこりが巻き上がり洗濯物が外で干せない、布団を干したら竿ごと飛ばされた、群馬の女性は寒風で肌荒れに悩まされるなどという話を聞く。

 一方、「木枯らしは」は秋から冬にかけて吹く風速8m以上の冷たく乾燥した北風で、全国各地で吹く風。「からっ風」とは違うのだそうだ。この時期に、最初に吹く「木枯らし」を「木枯らし一号」と言い、 冬の到来を告げる。気象庁が発表する。

 反対に「春一番」は、晩冬から初春にかけて吹く風速8m以上の南風のことで、これも気象庁が発表する。しかし、気温が上がる「春一番」が吹いた翌日は、気温が下がって荒れることが多く、実際にすぐに春がやってくるわけではないそうだ。「春一番」は、元は長崎県壱岐島で起きた安政6年2月(1859年3月)の漁船の転覆事故が起源とされている。この事故で53人の漁師の命が奪われ、以後同じ時期に吹く強い南風に注意を払うという意味で、地元の漁師たちが「春一番」と名付けたという。

2022年2月23日 (水)

宝登山ロウバイ園

 2022年2月18日(金)、埼玉県長瀞町の「宝登山(ほどさん)ロウバイ園」に行く。

 

 標高497mの宝登山山頂付近の南斜面に広がるロウバイ園は、約15,000平方mの敷地に3,000本の臘梅が咲き乱れる関東有数の規模。

 この日の長瀞の天気は、晴れ。西北西の風だが、風は比較的弱く、最高気温10℃だが暖かい。

 宝登山ロープウェイの山麓駅10:00発。山頂駅まで、全長m所要時間5分。大人片道490円。

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 東ろうばい園、 蝋梅が見頃。

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 山頂付近から真南の方角、秩父の山々に、石灰岩の採掘が行われている日本二百名山「武甲山」(1304m)を望む。

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 眼下に荒川と皆野町、秩父のシンボル「武甲山」の麓が秩父市街地。

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 左手に「美の山公園」のある秩父市と皆野町にまたがる標高581.5m 蓑山(みのやま)の稜線が見える。

 梅林の「梅百花園」は、約170種、約470本の梅の木があるという。まだ2~3分咲きというところか、写真を撮るには絵にならない。

 第十二代景行天皇の皇子・日本武尊を祀る「宝登山神社」奥宮。林の中には雪が残る。

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 宝登山神社奥宮の前にある小さな茶屋。

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 くるみ味噌のおでん、甘酒、干し柿など、素朴な軽食や飲み物、おみやげ。左隣には社務所があり、奥宮の御朱印も販売。

 山頂、標高497.1m。平日だがハイキング客も多い。

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 南西の方向は、奥秩父山地の北部に位置する鋸上の山容の「両神山」(標高1743m)。日本百名山。

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 福寿草は、ロープウェイ山頂駅付近を探したが、見つけられなかった。まだ開化してなかったようだ。

 下山は、ロープウェイでなく登山道を下る。

 所々に雪が残ったり、雪が溶けてぬかるんだりしていて、滑りやすい。山頂を目指すハイキング客のとすれ違いながら、1時間ほどかけてロープウェイ山麓駅前の駐車場に13:30ころ戻る。
 

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 「長瀞・宝登山のロウバイ園」  2013/3/7投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-6267.html

 「宝登山神社」 2013/3/8投稿
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 「長瀞アルプスと宝登山」 2019/01/20投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2019/01/post-cd2c.html

2021年10月27日 (水)

信越県境-紅葉の湖畔めぐり

 2021年10月20日(水)信越県境、紅葉の湖畔ツアー。

 長野県小谷(おたり)村の小谷温泉周辺の「鎌池」、新潟県糸魚川市の蓮華温泉周辺の「白池(しらいけ)」の紅葉の2つの池をめぐる。

 

 3:35、自宅発。4:35、集合場所着。天気は、満月に近い月が出て晴れ。予報では関東は晴れだが、日本海側はあいにくの雨。4:55、集合場所をツアーバスで出発。関越道を経て、6:30上信越道の更埴ICを降り、長野県白馬村方面へ。

 天気は、いつのまにか曇りから雨が降り出す。バスの中で、昨日買っておいたおにぎりで朝食。白馬村から流れる「姫川」に沿って北上する「国道148号」を走る。8:00、国道沿いのセブンイレブン白馬岩岳店で、昼食用のホットドックを購入。

●鎌池(小谷村)

 大糸線を右手に見ながら役場がある小谷村の中心部を通過し、宿泊施設「サンテインおたり」を過ぎると長いトンネル。トンネル途中にある小谷温泉口の十字路を県道114号線へ右折する。「中谷川」に沿って広がる標高500mの田園風景の中を走り、小谷温泉に向かう。里山を抜けると谷深い山岳風景に変化する。ループ橋で標高を上げへ、標高900mの「小谷温泉」を過ぎると「雨飾(あまかざり)高原」。

 9:00、小谷温泉口から約15Km、「鎌池」駐車場に到着。猛烈な雨の中、雨具を着て、食事処の「ぶな林亭」前を通り池へ。

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 雨と思いきや、みぞれの中の「鎌池」の紅葉。

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 そのうちに雨は少し小降りになるが止まず。

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 「雨飾高原」の新緑や紅葉の名所「鎌池」の標高は、1190m。一周2kmの遊歩道に囲まれ、春や秋には多くの人が訪れるという。ブナ林が池を包み、その鮮やかな紅葉がブルーの水面に映り込みは見られるはずだが、この天気では残念。「鎌池」は、草を刈る鎌の形に似ていることから名づけられたという。すぐ南側には、小さい「鉈(なた)池」がある。

 雨に濡れた遊歩道を歩くと、紅葉にはまだ早いのか、染まってなく緑が多い。

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●つぶれ池(小谷村)

 10:40、「鎌池」駐車場を出発。県道114号線を約1kmほど下った所、雨飾高原キャンプ場分岐に水枯れした「つぶれ池」に10:50着。一面、アシの草もみじ。

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 分岐にある雨飾高原キャンプ場方面の標識。ここから雨飾山登山口まで600m。

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 分岐から北東の方角に積雪を望む。

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 11:00 、「つぶれ池」を出発。県道114号線を下り、再び国道148号線を北上。

●白池(糸魚川市)

 姫川沿いに糸魚川市平岩まで国道148号線を北上し、JR平岩駅前から左へ県道505号線を西進、ひたすら山を走る。木地屋の集落を過ぎたところで道は林道になり、しばらく上ると、平岩から約11Kmの地点、「白池」に到着。

 「白池(しらいけ)」は、新潟県糸魚川市と長野県小谷村の県境に近く。白馬岳方面の登山口ともなっている秘湯「蓮華温泉」に向かう途中の「白池森林公園」内にあり、国道148号から車で約30分程の所。標高1090m、周囲約1km。すぐ南側には小さな「五月池」がある。

 12:00、「白池」駐車場に到着。 相変わらず雨。

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 この「白池」は、標高1090m、周囲約1km。風の穏やかな早朝には鏡のような水面に空の模様が映り、神秘的な佇まい。池の周囲が遊歩道になっており、春は水芭蕉、秋は紅葉が楽しめるそうだ。

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 13:20、「白池」駐車場を出発。国道148号線に戻る。バスの中で昼食。

●道の駅・能生(糸魚川市)

 更に国道148号線を北上し日本海へ。糸魚川市の横町交差点を右折、国道8号線を走る。

 14:20、道の駅「マリンドリーム能生(のう)」駐車場に到着。糸魚川市能生にある、豊かな海の恵みをつめこんだという「日本海の道の駅」で買い物。雨は止んでいた。

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 日本海側最大級のベニズワイガニ直売所「かにや横町」と「鮮魚センター」が併設。

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 15:25、道の駅発。国道8号線を北上。15:40、上越市の名立谷浜ICから、北陸自動車道に入る。長岡JCTより関越道を南下。17:40、集合場所に到着。18:40、自宅着。

 秋晴れの青空と鮮やかな紅葉を水面に映す絶景を期待したが、あいにくの雨の紅葉狩りツアー。それに今年の紅葉の色づきは、全国的に平年並みの所が多いとの予想だったが、見頃にはまだ早かったようだ。

 
 ★ ★ ★

 百名山「雨飾山」は、標高1963m。「つぶれ池」前の分岐から600mほどの登山口から、徒歩3時間45分ほど。なお雨飾山の南方、小谷温泉の西方にある「大渚山(おおなぎやま)」は、標高1566m。「鎌池」から1.8Kmほど過ぎた湯峠から1時間20分ほどで登ることができる。

 糸魚川市の雨飾山麓「しろ池の森」に、もう一つの「白池」がある。こちらの読みは「しろいけ」。そのため「白池(しらいけ)」は「蓮華白池」とも呼ばれる。

 蓮華温泉は、「白池」から10Kmほど先。ちなみに白馬連峰(白馬岳は、標高2932m)への入山は、大雪渓、栂池(つがいけ)、蓮華温泉からの3つのアプローチがある。蓮華温泉の登山口にある駐車場(70台/無料)は、標高1470m。シーズン中の土日は、ほぼ満車になるという。蓮華温泉への林道終点で「ヒワ平展望台」すぐ先にあるゲートは、今年10月18日から降雪により閉鎖された。

2021年10月24日 (日)

森林公園2021ダリア花園

 2021年10月8日(金)と24日(日)、国営武蔵丘陵森林公園(埼玉県滑川町)の「ダリア花園」に行く。2020年10月14日(水)の撮影分も、追加掲載。

 

 国営武蔵丘陵森林公園は、1974年7月22日に開園した全国で初めての国営公園。3年前の2018年、明治150年を記念して「ダリア花園」がオープン。

 武蔵丘陵森林公園の中央口

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 植物園の展示棟前。展示棟から北に少し進んだ生垣見本園の中に「ダリア園」がある。

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 中央口から徒歩約20分。「ダリア花園」には、65品種220株が植えられているという。

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 サツマイモの名前と間違えそうな赤い花の「あずま紅」。

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 「新(あらた)」は、明るい桃紫色。花弁は微妙な色の変化がある。

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 「凜(りん)」? 詳細不明。

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  典型的なポンポン咲き の「珠玉(しゅぎょく)」。

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 ミカンの名前にもある赤い花の「はるみ」。

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 黒色に近い深いボルドーの「黒蝶」。

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 「インフォーマルファイヤー」は中輪のセミカクタス咲き。

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 カクタス咲きは、花びらが管状に細く巻く八重咲き。花びらが外側に巻いてまっすぐの「ストレートカクタス」、花びらが内側に巻く「インカーブドカクタス」、きっちりと巻かずにやや幅広の「セミカクタス」に分けられる。

 コラレット咲きの「アンブリュッケンフェルダー」。

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 コラレット咲きは、シングル咲き(一重咲き)の花と同じ並び方をした花びらの中に、小さい短い花びら(副花びら)が数枚ずつ重なってついている。中央の花びらと外側の花びらの色が違うので、基本的には一重咲きだが、全体として華やか。

 ダークピンクの「レベッカリン」。

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 クリームホワイトの「マルコムズホワイト」。それとも「銀婚式」か?

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 赤と白の見栄えが美しい「祝花」 。

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 鮮美な赤色とクリームがかった黄色の色彩が美しい 「アメリカンレモネード 」。

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 「球宴」は、ボール状で真紅の花弁が外側に向かってカールする。

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●「ダリア花園」の近くボーダー花壇の「イヌサフラン」。2020/10/14撮影。

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●植物園のから200mほど西、公園・庭園樹園「こもれび花畑」のユリウス畑。

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 「コリウス」は、シソ科の観葉植物。鮮やかなピンク、緑、黄色、えんじ色で埋め尽くされた花壇。

 以下6枚の写真は、2020/10/14撮影。

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 黄色のコリウスが一段と目立つ。

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●運動広場の花畑には、「羽毛(うもう)ケイトウ」。

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 運動広場の花畑の横の丘の斜面に赤と黄色いのヒガンバナが咲く。すでに赤いヒガンバナは終わっていたが、黄色はまだ残っていた。

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 黄色いヒガンバナ「リコリス オーレア」は、ヒガンバナ科ヒガンバナ属(リコリス属)。ヒガンバナと同じように花の時期には葉がない。有毒植物。

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●中央口の花壇の「コリウス」と「ショウリョウバッタ」(精霊蝗虫)。

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 ショウリョウバッタは、斜め上に尖った頭部が特徴。

 「キタテハ」(黄立羽)とジニア(百日草)の「プロフュージョン」という品種の黄色花。

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 キタテハは、翅(はね)の表側は黄色で褐色の縁取りと黒い斑点がある。裏は赤褐色で、枯葉にまぎれる保護色。

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 「森林公園のダリア花園」 2018/10/19公開
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-d5b0.html

 「森林公園の夏と秋の花」 2016/12/03公開
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/index.html

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