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2023年3月22日 (水)

鴻巣の「びっくりひな祭り」

 2023年2月26日(日)と3月3日(金)、埼玉県鴻巣市のひな祭り会場をめぐる。

 

 埼玉県は、ひな人形の出荷額が日本一。岩槻、鴻巣、越谷、所沢が主な生産地。

 2月26日(日)、さいたま市岩槻区の「まちかど雛めぐり」 のあと鴻巣市に移動し、15:00~15:40「花久の里(かきゅうのさと)」を観覧。また、3月3日(金)10:50~12:00、再び、鴻巣市の「花久の里」を訪ねる。

●花久の里

 花と音楽の館かわさと「花久の里」、ここは、「鴻巣ビックリひな祭り」のサテライト会場。「花久の里」の長屋門をくぐる。

 「花久の里」は、旧家・青木家より寄贈された家屋を改装。約1,000本のバラを中心とする庭園のほか、コンサートやそば打ち体験などの催しが行われている。食事処では手打ちうどんや季節の天ぷら、コーヒーやケーキを味わうことができるという。

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 長屋門や母屋、離れなど地方の旧家の佇まいを残していて、母屋のサロンではグランドピアノ常設のコンサート、長屋門には2つの会議室を有し、 離れの和室の食事処「花音里」、茶室(和室)では色々な催しを行える。

 多目的広場には、ひな祭りをモチーフにした関東工業自動車大学校と鴻巣市のコラボレーション『ひなカー』。

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 長屋門を利用した会議室に飾られた吊るし雛。

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 母屋の天井から吊るし雛

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 かぐや雛

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 サロンの雛飾り

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 竹林のコンサート 花久の里交響楽団

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 ひな祭り花火大会

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 六角錐17段のひな壇

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 茶室の吊るし雛

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 2月26日(日)この後、出発地に戻る。また3月3日(金)には、「花久の里」から鴻巣駅前のショッピングモール「エルミこうのす」に移動。


●エルミこうのす

 3月3日(金)12:20~13:45、日本一高いピラミッドひな壇を見物。

 ここは、「鴻巣びっくりひな祭り」のメイン会場。1階、セントラルコートの吹抜けにある、31段、高さ約7mのピラミッドひな壇。「花久の里」のピラミッドひな壇よりはるかに高い。「鴻巣びっくりひな祭り」は、鴻巣市が約380年の伝統を持つひな人形の生産地であることをPRするために2005年から始まり、今年で19回目だという。

 1階から見上げるピラミッドひな壇。

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 1回から19回の「鴻巣びっくりひな祭り」のポスターとピラミッドひな壇に飾りきれないひな人形が並ぶ。

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 2階から眺めるピラミッドひな壇。

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 3階から見下ろす。

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 こんな大きなひな壇をどうやって組み立てて人形を並べるのかと思っていたら、テレビでその作業映像を流していた。跳び箱を積み重ねるようにしてピラミッド形の丈夫なひな壇を組み立てて、大勢の人が登って上から下へと人形を並べていた。もちろん上部の高いところで作業する人は、ヘルメットを被って命綱をつけている。

 「花久の里」にもあったが、鴻巣市内の何ヶ所かのサテライト会場に、こういうピラミッド型のひな壇がいくつかあるようだ。

 「エルミこうのす」は、鴻巣駅東口周辺の再開発における中核ビル。A1街区のビル(商業棟・マンション棟)は、2007年(平成19)10月にに開業、2階で鴻巣駅に直結している。A2街区のビルは2009年(平成21)7月 シネマックス鴻巣」が開業したが、2011年(平成23)12月閉館。その後鴻巣市が映画館を取得、2013年(平成25)7月に日本初の市民ホールと融合した「こうのすシネマ」として再開した。

 モール1階のレストランで昼食後、産業観光館「ひなの里」へ移動する。
 

●ひなの里

 産業観光館「ひなの里」は、「鴻巣びっくりひな祭り」のサテライト会場。3月3日、14:10~15:20まで観覧。

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 「ひなの里」は、ひな人形や「赤物」など鴻巣の歴史を今に伝える展示や、中庭には季節の花などが咲き、市内の観光案内や特産品の販売も行っている。「ひなの里」の蔵は、明治後期に段階的に増築された人形店の蔵を鴻巣市が改装したもの。2013年(平成25)10月に埼玉県の「景観重要建造物」に指定された。

 一般的なひな人形の七段飾り 

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 昭和20年頃

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 御殿飾り 昭和30年代

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 御殿飾り 昭和30年代

 古今雛 九番親王 九番は人形のサイズを表す。

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 享保雛

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 三五芥子15人飾り 三五(さんご)や芥子(けし)は、人形のサイズ

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  (おきな)と媼(おうな)、鶴亀は長寿の縁起物。

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 頭が出来るまでの工程

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 「赤物」(だるま)が出来るまでの工程

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 干支人形、獅子頭、だるま、招き猫などの縁起物、魔除けのお守りを「赤物」と呼んでいる。鴻巣の人形職人が昔ながらの手法で一点一点手作りしている伝統工芸。原材料が紙ではなく、桐の木粉を糊で固めた練り物なのは、鴻巣の赤物ならではの特徴だそうだ。

 格子と五人囃子

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 平安御所庭 武政作

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 等身大の享保雛(復刻)

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 日本一大きい御殿飾り。

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 傘福(かさふく)?。山形県酒田市周辺で飾られるつるし飾り。笠福ともいう。

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 福岡柳川のさげもん、伊豆稲取雛のつるし飾りと、傘福は「三大つるし飾り」と呼ばれるそうだ。

2023年3月20日 (月)

岩槻の「まちかど雛めぐり」

 2023年2月26日(日)、埼玉県さいたま市岩槻区のひな祭り会場をめぐる。

 

 埼玉県は、ひな人形の出荷額が日本一。岩槻、鴻巣、越谷、所沢が主な生産地。3年前にコロナで中止した「岩槻&鴻巣ひな祭りめぐり」の企画を実現。良い天気だったが、風が強くて寒かった。参加者は14名。最寄りの駅前をマイクロバスで出発。

 9:45、「岩槻城趾公園」に到着。

 
●流しびな

 例年、3月3日直前の日曜日に「岩槻城址公園」内の菖蒲池周辺で「流しびな」のイベントが開催。「流しびな」は、子どもたちの無病息災をひな人形の原型とも伝わる「さん俵」(桟俵、米俵の丸い蓋を模したもの)に託して池に流す春の行事で、ひな祭りのルーツともされている。新型コロナウイルス感染防止のため、例年のイベント内容を変更して開催。 

 主催者の挨拶や宮司のお祓いの後、さいたま市の観光大使「さいたま小町」の流し初め。

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 来場者が並んでいて、順に「流しび」なを菖蒲池に流していく。

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 流しびなの「さん俵」は、1個600円で会場で販売されていた。

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 コロナ前は、十二単衣着付実演、琴&鼓笛隊演奏、甘酒&飲み物サービス、模擬店、人形相談、流しびなの無料進呈(先着順)、岩槻特産品の販売もあったそうだが、会場もこじんまりして、やや寂しい。

 1時間ほど見学。岩槻駅前までマイクロバスで移動して、11:00~市街地のひな祭りの見学。
 

●東玉・人形博物館

 駅前にある「東玉(とうぎょく)」岩槻総本店の店内を覗く。「東玉」は人形の町・岩槻で170年続くという人形専門店。多彩な収蔵品は、ひな人形、御所人形、羽子板、五月人形、さらに現代作家名匠の逸品にまで及ぶという。

 「東玉」の店の向かい、東玉総本店ビル4階にある「東玉・人形の博物館」に入館。入館料100円。

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 巻藁(まきわら)に挿した人形の顔。

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●愛宕神社

 東武野田線の岩槻駅東口から徒歩5分の場所にある「愛宕神社」に「大ひな壇飾り」。27段の石段に、約300体の雛人形が展示されている。

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 愛宕神社は、北条氏が豊臣秀吉の小田原攻めに備えて築いた周囲8Kmにわたる土塁と堀に囲まれた大構(おおがまえ)の遺構が唯一残っている場所。愛宕神社は、その土塁の上に建っているという。

●料亭「ほてい家」

 12:00~12:40、老舗料亭「ほてい家」に入店。2階にある御殿飾りと「裃(かみしも)びな」が勢揃い。和菓子店の菓子も供えられている。

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 「裃びな」は、裃を着て童顔で両手を袴のところに行儀良く組んでいる。岩槻でつくられ、明治から大正にかけて関東で流行した。通常のひな人形に比べ作りが簡素で衣装は綿繻珍(めんしゅちん)でつくられているため安価で求めやすいそうだ。 

 予約していた「ほてい家」で、豪華な「ひなまつり膳」をいただく。これに天ぷらと赤だしがプラス。税込み1,870円、全国旅行割りの対象。

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 午後からは、再び市街地のひな祭りをめぐる。

●東玉大正館

 中井銀行岩槻支店として大正後期に建築された、煉瓦造2階建ての洋館建築。2007年、国登録有形文化財(建造物)。

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 ひな祭りの期間、江戸から昭和の人形展が開催されている。

 写真は、江戸時代後期に町人文化が反映したという豪華な「古今びな」。

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 「古今びな」は、女びなは五衣(いつつぎ)・唐衣(からぎ)・裳(も)、いわゆる十二単(じゅうにひとえ)。男びなは束帯と上級公家の正装を模すが、必ずしも古来の礼式に則さず華麗に仕立てている。女びなが単の袖を長く出し、垂髪に宝冠を被るのが特徴。目には水晶やガラスを入れ、人間的な面相でリアルになり豪華な衣裳で人気になった。現代のひな人形の素になったという。

●藩校「遷喬館」(せんきょうかん)

 「岩槻藩遷喬館」は、1799年(寛政11)に、岩槻藩に仕えていた儒者・児玉南柯(こだま・なんか)が開いた私塾。後に藩校となり、岩槻藩の武士の子弟が勉学や武芸の稽古に励んだという。

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 1871年(明治4)に藩校が廃止になった後は、民家として使用されていたが、1939年(昭和14)に埼玉県の史跡に指定。2003年(平成15)から2006年にかけて解体修理・復原工事を行い、公開。埼玉県内では唯一現存する藩校の建物。

 昭和20年代の壇飾り。

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●時の鐘 

 藩校「遷喬館」から「岩槻人形博物館」に行く途中、行き過ぎて岩槻区本町、渋江交差点近くの住宅地にあった「時の鐘」。

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 岩槻城の鐘楼で、1671年(寛文11)当時の岩槻城主阿部正春が領内の人々に時刻を知らせるため渋江口に設置した。以来、1720年(享保5年)の改鋳を経て、現在に至るまで、毎日、朝夕の6時と正午の3回、時を告げる。さいたま市指定の有形文化財。

 10カ所以上あったと言われる幕府公認の江戸の鐘を含め、現在も一日に複数回の時を知らせ続けているのは、上野の「寛永寺の時の鐘」、「川越の時の鐘」、「岩槻の時の鐘」の3カ所だけだそうだ。この中で現存する鐘としては岩槻の鐘が一番古いという。
 

●岩槻人形博物館

 13:30~14:10「岩槻人形博物館」を観覧。

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 「御所人形」 立子(たちご)男子 江戸時代

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 「御所人形」は、観賞用の人形として江戸時代中期に大成され、宮中の慶事や出産、あるいは結婚など、様々な祝事の際に飾られてきた人形。

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 「古今びな」、十七人揃え。

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 「享保びな」は、将軍徳川吉宗の時代(江戸時代中期頃)に京都で生まれた。各地で作られるようになり、明治時代まで広く作り続けられていた。

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 面長の顔に、女びなは唐衣、五衣に似せた意匠で袴は、綿で膨らませてある。男びなは束帯に似た衣装で、袖が横に張っているのが特徴。

 「次郎左衛門びな」。江戸時代。「第20回人形のまち岩槻 まちかど雛めぐり」パンフから転載。

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 「次郎左衛門びな」は、江戸時代中期に雛屋次郎左衛門という人形師が創始したことからこの名があり、団子のような丸顔に引目鉤鼻という、源氏物語絵巻に描かれるような面貌が特徴的。本流として流行に左右されず、公家や大名家に好まれたという。

 「次郎左衛門頭(じろうえもんがしら)」が付けられた「立雛(たちびな)」。

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 「立雛」は、最も古い形式のひな人形とされ、紙で作られた「ひとがた」や形代が変化したものといわれている。江戸時代に描かれたものをみると、屏風などに立て掛けて飾っていたようだ。

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 企画展「描かれた雛祭り」のパンフ。

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 当館が所蔵する人形が描かれた絵画(浮世絵)コレクションの中から特に、ひな祭り、ひな人形が描かれたものを「企画展」として展示されていた。

 

 14:10、「岩槻人形博物館」を出発。このあと鴻巣市に移動して、15:00~15:40「花久の里」の吊しびなを見学。この記事は、本ブログの「鴻巣にひな祭り」に続く。

 当初の交通手段は自家用車の予定だったが、参加者多数によりマイクロバスにして参加費を変更した。今回の旅行費は、3月末迄の「全国旅行割り」が適用できて、マイクロバス代、食事代、入館料が2割引となり、1000円の電子クーポンが付いた。

2023年3月 4日 (土)

比企氏ゆかりの地-岩殿観音

 2023年2月19日(日)午前中、埼玉県東松山市大岡地区の「比企氏ゆかりの地」をめぐった後、午後から高坂地区へ車で移動し「岩殿観音」を拝観。比企氏は、2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に登場した。

 なお写真で「2019年撮影」とあるのは、同年12月6日(金)に撮影したもので、その他の写真は当日撮影のもの。

 「岩殿観音」(いわどのかんのん)で親しまれる「正法寺」(しょうぼうじ)は、東松山市にある真言宗智山派の寺院。山号は「巌殿山」(いわどのさん)で、坂東三十三観音の10番札所。創建は718年(養老2年)、逸海上人が千手観音像を刻み庵を結んだのが始まりとされている。鎌倉時代に比企能員(よしかず)が中興し、観音堂建設や北条政子の守り仏「千手観音」を安置した。 

●大東文化大学

 13:00、物見山の駐車場着、観光ガイドと合流。

 ガイドの案内で、駐車場から坂を下って大東文化大学東松山キャンパスに向かう。比企能員(よしかず)の菩提を弔う「判官塚」が、昔大東文化大学の敷地内にあったそうだ。また、大岡地区「城ヶ谷」の比企の館跡と同様に、この岩殿山一帯のどこかにも比企の館があったという説がある。

 構内の目的地を聞きそびれたが、大学の守衛所で予約なしの学外者の入構を断られた。以前は構内に自由に出入りできたそうだが、新型コロナによる入構制限か、最近起きた都立大学内での教授襲撃事件の影響か。駐車場に戻り、門前通りに向かう。

●丁子屋

 門前通りの仁王門のすぐ下にある、昔の面影を残る「丁子屋」を見る。宿屋や茶屋を営んでいたそうだ。

 岩殿山の麓の家並みは、岩殿観音へ向かう門前町だった。今や、この門前町の代表的存在だった「丁字屋」(数年前に閉店)だけが当時の面影を残している。参道には家が並び参拝客で賑わっていた。観音堂の裏に大きな道(大東文化大学やこども動物自然公園の通り)が出来てからは、皆なそちらから参拝に行ってしまい、門前町並みにはほとんど人が来なくなっている。

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●仁王門

 仁王門は、表参道の「丁子屋」からすぐの石段を少し登った所にある。門の左右には仁王像。右横手に本堂がある。

 仁王像が、ガラスで囲われているのは珍しいし、よく見える。

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 仁王像は運慶の作といわれていたが、平成4年の解体修理の折りに棟札がでて、運慶作のものは江戸時代に焼失、現在の仁王像は文化年間(1808~1814年)に再建されたものだという。現在の仁王像は、平成の解体修理時に漆を塗りなおされ、漆の保護のため紫外線カットのガラスに覆われている。 

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 仁王門の右横手にある本堂の本尊は、三尺ほどの阿弥陀如来立像。室町時代作の木製で、平成になって箔の押し直しがおこなわれた。(写真なし)。

 観音堂は、この仁王門から急な石段を登ったところにある。(2019年撮影)

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 振り返ると門前町の町並みが続く。

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 境内は、岩殿丘陵の最東端に位置し、物見山のすぐ隣にあるため、寺は急傾斜地を切り崩したような場所(昔は石切場だったという)にあり、東方面にだけ開けている。また、多くの樹木に囲まれているので山寺の雰囲気がある。(2019年撮影)

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鐘楼と銅鐘

 鐘楼は1702年(元禄15年)に比企郡野本村(現在の東松山市野本)の大檀家・山田茂兵衛の寄進で建立されたと伝えられる。鎌倉末期の様式を今に伝える。屋根は萱葺きの寄棟作りで、 斗栱 (ときょう、軒を支える組み木)や天井の装飾なども、往時には朱が塗られていたらしく、ところどころにその痕跡が残っているそうだ。東松山市内で最も古い木造建築で、市有形文化財に指定。

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 銅鐘(梵鐘)は、1322年(元亨2年)に鋳造されたもので、外面に無数の傷がある。これは1590年(天正18年)に豊臣秀吉による関東征伐の際に、山中を引き回して打ち鳴らし、 軍勢の士気を鼓舞したといわれ、その時についた傷が残っている。

●石仏

 境内をかこむ石崖には石仏が安置されている。百観音(西国+坂東+秩父札所)、四国八十八ヶ所の写本尊であり、百観音と四国八十八ヶ所を参拝したのと同じ御利益が得られると言われている。(2019年撮影)

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●岩殿観音堂

 養老年間(717年~724年) の創建と伝える。16世紀中頃(永禄年間)松山城合戦の兵火で全山焼失した。その後、何回かの火災の後、寛永、天明、明治と3回再建された。現在の建物は、1871年(明治11年)の火災により観音堂が焼失した為、翌年高麗村白子(現飯能市)の「長念寺」から移築されたもの。江戸後期の建造と推測されており、ところどころに当時の彩色がみられるそうだ。

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 岩殿観音の本尊は、千手観音。全身金色の千手観音は「前立本尊(まえだちほんぞん) 」であり、奥の厨子に秘仏本尊の千手観音菩薩坐像が収められいる。秘仏本尊は、室町時代作の青銅製。12年に一度、午年(うまどし)に「ご開帳」されるという。

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 観音堂の濡れ縁に木像の「おびんずる(賓頭盧)様」が安置。釈迦の弟子の十六羅漢の一人で、病を治す神通力がとても強い。自分の体の悪いところを撫でて、「おびんずる様」の同じところを撫でると除病の功徳があるという。観音堂の切妻装飾の邪鬼の表情もおもしろい。

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●大銀杏

 推定樹齢は700年を越える。周囲は11m、埼玉県内でも最大級の大きさ。江戸時代には健康長寿のご利益がある「養老木」と呼ばれ、多くの女性に安産・子育守護の対象として信仰された。紅葉の見頃は11月下旬から12月。東松山市指定文化財。(2枚とも2019年撮影)

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 14:00、物見山駐車場に戻り解散。

 ★ ★ ★

●比企氏による中興

 源頼朝は観音信仰に篤い人物だった。坂東三十三観音霊場の制定にも深く関わっている。当時札所を制定するにあたり、比企氏のお膝元であり、比企能員自身も深く帰依していた「岩殿観音」が第10番の札所として選ばれた。坂東第9番「慈光寺」(ときがわ町)、第11番「安楽寺」(吉見町)とともに、比企郡では三十三の札所のうち3つが札所、頼朝が厚い信頼を寄せる比企能員の領地から有力寺院が推挙された。

 岩殿観音は開山から300年以上が経ち、諸堂の痛みも激しいものがあった。そこで頼朝の庇護のもと、頼朝の妻政子の守り本尊として比企能員が岩殿観音を復興する。寺伝では比企能員を中興の祖としており、比企能員の深い帰依のもと復興された。頼朝の没後の1200年(正治2年)には、亡き頼朝の意志を継いだ政子によって、堂宇の再建がなされたそうだ。

●判官塚と供養碑

 岩殿観音の表参道を進み、しばらく行った先の細い小路を左手に曲がった先には、「判官塚」(比企明神)がある。比企能員(よしかず)の孫である員茂(かずしげ)が1218年(健保6年)頃岩殿山に居て、能員の菩提を弔うために岩殿観音の南東の地である南新井に塚を築いたという。判官とは比企能員の役職名で、律令制における司法警察の役を担った官職。もとは現在の大東文化大学の敷地内にあったが、キャンパス拡張工事に伴い、現在地に移転した。

 岩殿観音に伝わる江戸時代の古地図には、表参道の入口にある現「鳴かずの池」裏手の丘陵地帯に「比企判官旧地」とあり、比企能員の館があったとも伝わる。現在は、その旧地のほとんどがゴルフ場となってしまい、かつての面影はわずかな土塁と堀跡を残すのみという。

 気がつかなかったが、仁王門から石段を少し登った左側に石碑が残されている。この石碑は、江戸時代の旅行記である『坂東観音霊場記』に記録が残っていて、岩殿別当であった入道覚西が入滅後に追善の石碑を建てた、とある。この入道覚西は能員であり、その菩提を弔うために建立された「比企能員供養碑」と伝わる。しかし近年の調査により、覚西は比企能員ではないとも推定されているが、比企氏と岩殿観音のゆかりを示す史跡となっている。

●松山城合戦で全山焼失

 坂東札所の成立当初は、鎌倉幕府に関係する上級武士や僧侶などの限られた者が参拝していたが、室町時代になると一般の庶民も巡礼に出るようになった。室町末期には西国、秩父と合わせて百観音札所として巡礼が盛んになり、岩殿観音の門前も一段と賑わいを増した。 戦国時代の後期には岩殿観音の本坊の他、66の僧坊を有し、7堂あった伽藍はすべて瓦葺きであったと記録に残るほど隆盛を誇った。

 岩殿観音から10kmほどのところに位置する松山城は、武州のほぼ中央に位置し、北武蔵支配の重要拠点であった。比企丘陵の先端に建てられた松山城は、ふもとを流れる市野川を堀とし、その天然の要害から不落城ともいわれ、戦国時代には上杉謙信、武田信玄、小田原北条氏などが激しい攻防を繰り広げた。

 1561年(永禄4年)、北条氏康(北条氏政の父)が抑えていた松山城は、扇谷上杉氏の家臣・太田資正(すけまさ)に攻め取られ、上杉憲勝(扇谷上杉家当主)を城主とした。これに対して、北条氏康は岩殿観音の隣村である高坂村に陣を敷き、松山城を激しく攻めた。しかし、松山城の堅固な守りで、落城することはなかった。業を煮やした北条は、岩殿観音を始めとする付近の寺社をことごとく焼き払った。この「松山城合戦」の戦火で、7堂あった伽藍は焼失した。

●再興、廃仏毀釈から現代へ

 しかし7年後の1574年(天正2年)、戦火を免れた本尊千手観音とともに、僧・栄俊によって再建。その後、松山城主の上田朝直(ともなお)の庇護を受け、1577年(天正5年)には7堂伽藍をはじめとして復興を果たした。1591年(天正19年)には徳川家康により25石の朱印地を賜り、江戸期には隆盛を極め、観音巡礼も盛んになったので岩殿山の門前町も大いに賑わいをみせた。

 明治維新の後、廃仏毀釈によって岩殿観音も多くの山内社寺が廃され、また寺領であり山岳修行の場であった山林を召し上げられるなど弱体化した。この影響は、観音巡礼にもおよび、参拝者は減少し門前町も急激にに衰退していった。戦後、岩殿山や物見山一帯は観光、大学や住宅として開発が進み、時代とともにその姿を変えて賑わいを取り戻している。

2023年3月 1日 (水)

比企氏ゆかりの地-宗悟寺

  2023年2月19日(日)、埼玉県東松山市の大岡地区の「比企氏ゆかりの地」をめぐる。比企氏は、2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に登場した。

 なお写真で、「2022年撮影」は同年6月13日(月)に撮影、「2015年撮影」は11月1日に撮影したもので、その他の写真は当日撮影。

 

●大岡市民活動センター 10:00~10:30

 東松山市の大岡地区にある「大岡市民活動センター」に10:00集合。大きな風車とオランダ風建物は、オランダ王国ナイメーへン市と東松山市が姉妹都市提携を結んでいることから、オランダの古い町並みをイメージして作られた。(2枚の写真は、2022年撮影)

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 活動センターのコミュニティホールに「比企氏紹介コーナー」を設置、2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に登場する比企氏についてパネル展示されている。10:00集合して、観光ガイドから、比企氏の概要を説明を受ける

 周辺の散策ルート「比企氏ゆかりの地 大岡マップ」。

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●城ヶ谷(じょうがやつ)10:40

 「雷電山古墳」の真南にある奥深い谷が、「城ヶ谷」と呼ばれ、この谷の奥に「城ヶ谷沼」がある。「城ヶ谷」には比企能員(よしかず)の館があったと伝えてられている。残念ながら館の痕跡は、これまで発見されていない。

 この地は、鎌倉の比企が谷(ひきがやつ) によく似た地形で、このあたりは「比企の乱」後、若狭の局に従って落ちて来たと伝える頼家の側近の子孫が住み、谷の西の丘には鎌倉の八幡宮を祀っ ていたと伝わる。(城が谷の説明板は、2022年撮影)

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 鎌倉を囲む丘陵の南東、比企ヶ谷は、鎌倉でも比較的奥行きのある谷(やつ)で、谷の最奥部から尾根を伝えば鎌倉随一の見晴らし、戦略的に重要な場所。鎌倉時代、幕府で重職を担った比企氏がこの地を与えられ、現在も比企氏ゆかりの「妙本寺」が建立されている。


●雷電神社 10:45

 東松山市には多くの古墳があり、大岡地区に三千塚古墳群がある。なかでも「雷電山古墳」は一番大きく、帆立貝型前方後円墳で埼玉県最古の埴輪が出土。古墳の上に「大雷神社」が祀られている。写真右の一対の石灯籠の間に昔の参道があった。(2022年撮影)

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●扇谷山宗悟寺(せんこくさんそうごじ) 10:50~11:10

 「宗悟寺」の参道と案内板(2022年撮影)、山門(2015年撮影)。

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 鎌倉時代初期、若狭局は鎌倉幕府第2代将軍源頼家の妻妾であったが、「比企の乱」による比企氏の滅亡後、夫・頼家の殺害により、修善寺より比企氏の根拠地であった武蔵国大谷村に逃げてきた。若狭の局は、村の名と頼家の法号「寿昌」を用いた「大谷山寿昌寺」(たいこくさんじゅしょうじ)を建立、頼家や自分が産んだ一幡、比企一族の菩提を弔う寺を創建したとされる。

 戦国時代、豊臣秀吉の命により、徳川家康は関東地方に転封され、家康の家臣の森川金右衛門氏俊(うじとし)は当地、大谷村や山田村を所領として与えられた。1592年(天正20年)、氏俊は「比丘尼山(びくにやま)」にあった「大谷山寿昌寺」を現在の扇谷に移し、寺の名を「扇谷山宗悟寺」と変えた。森川金右衛門氏俊の法号は「桐蔭宗悟居士」という。その後、森川氏の嫡流は旗本となった。

 「宗悟寺」の本殿(東松山観光協会のホームページより)

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 「宗悟寺」の祭壇。若狭の局が持ち帰ったと伝わる「頼家公ご位牌」(右手の燭台の後方)、若狭の局が夫頼家を失った苦しみから逃れるために祀った「蛇苦止(じゃくし)観音」(左手燭台の右下)が見える。(2022年撮影)

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 境内に立つ比企氏伝承の品(「頼家公ご位牌」と「蛇苦止観音」)の説明板。

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 森川氏の陣羽織等が、本殿に展示されている。徳川幕府より森川金右衛門氏俊が天下統一の武勲により徳川幕府より賜ったとされ、森川氏の末裔から「宗悟寺」に寄贈された。(2022年撮影)

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 境内には、地元の有志による「比企一族顕彰碑」が設置されている。

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 本殿裏の墓地には、市指定文化財の森川氏の墓地がある(2022年撮影)。

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●梅が谷(うめがやつ)・須加谷(すかやつ)

 宗悟寺の山門から南の方角を望む。

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 中央の小高い森は、火伏の神様の「秋葉神社」。1658年に旗本・森川氏が歓進した。森川氏は江戸森川町(現文京区本郷)の屋敷に分祀し、守り神としていた。江戸の大火から森川氏の屋敷だけは火の難を逃れたことから火伏の神として有名になったとされる。その後は広く周辺の人々からも信仰され、特に例祭(4月18日)や酉の日には賑わい、松山宿からこの神社への経路は「秋葉道」と呼ばれたという。

 「秋葉神社」を中心として西側(右手の谷)を「梅が谷」、東側(左手の谷)を「須加谷」という。「梅が谷」は年老いた若狭の局が隠棲して余生を送ったといわれる場所で、「須加谷」はかつて「菅谷堂」という観音堂があり、若狭の局が作ったとされる「蛇苦止観音」が祀られていたという。現在は「宗悟寺」に祀られている。

●武蔵逍遥乗馬会 11:15

 「宗悟寺」の裏山には、外乗りを主とする乗馬クラブがある(2022年撮影)。完全予約制で、乗馬トレッキング60分コースが8,500円、120分コースで13,000円。

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●串引沼(くしびきぬま)11:30

 「串引沼」には、次のような伝説が伝わっているという。

 その昔、夫頼家を殺された若狭の局は、大谷村に逃れ比丘尼山の草庵に住み、夫頼家の菩提を弔っていましたが、いつまで も夫を殺された悲しみから逃れられず苦しんでいました。それを見かねた祖母比企の尼は、若狭の局に、心の迷いを去らせる為に、鎌倉より持参し肌身離さず持っていた夫頼家から贈られた鎌倉彫の櫛を捨てさせようと心に誓いました。

 夜の明けはじめた早朝、朝の勤行を済ませ、祖母の比企の尼と二人連れだってこの沼に行き、頼家形見の櫛を沼に投げ入れました。櫛はかすかな水音を残して沼底深く沈み、その姿が見えなくなりました。その時若狭の局はもちろん、比企の尼の両眼からも涙がとめどなく流れ落ちていました。時は1205年7月半ば、丁度、夫頼家の命日に当たる日であったと云います。

 「串引沼」は、川越カントリークラブの一部になっている。 

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 土手に並ぶ桜は、修善寺から寄贈された山桜で、真っ白の小さな花が咲く「頼家桜」。

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● 比丘尼山(びくにやま)11:35

 「比丘尼山」は、比企郡司・比企遠宗(とおむね) の妻、比企の尼が遠宗の没後、禅尼となって草庵を営んだところと伝えられている。

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 「比丘尼山」から南は、伊豆の修善寺と同じに、主膳寺と呼ばれている。比企地区には、鎌倉と同じ呼称の土地が多くある。その他にも扇谷、梅が谷、菅谷、滑川、腰越、大蔵などの地名がある。

 「比丘尼山」の南面には横穴墓が造られており、市指定史跡となっている。三千塚古墳群の一部、「比丘尼山」の南斜面に3 、4 段に配列して築造され、40~50基余りの横穴墓が分布していると思われる。うち 3 基が開口しているそうだ。「吉見百穴」と同様の7 世紀頃に造られたものであると思われる。横穴墓群は「吉見百穴」を中心に西に広がっており、この地方に移住した渡来系氏族とのかかわりあいのある墓制とも考えられている。

 12:00、大岡市民活動センター着。

 

 ★ ★ ★

 平安時代末期、比企遠宗(とおむね)は、清和源氏の棟梁・源義朝の家人だった 。義朝は、1147年(久安3)三男・頼朝が生まれると、頼朝の乳母に比企遠宗の妻を任命した。1159年(平治元年)頼朝13歳の時、平清盛と源義朝の源平の戦い「平治の乱」が起った。しかし、源氏は敗れ、頼朝の父・義朝や二人の兄は戦死。初陣の頼朝も平氏に捕らえられ殺されるところ、平清盛の継母・池禅尼(いけのぜんに)の助命により、伊豆の蛭ケ小島に流されてしまった。

 頼朝の監視役には、平氏北条時政と伊東に本拠を置く平氏伊東祐親(すけちか)がなった。頼朝が伊豆に移ると、比企夫婦も頼朝の世話をするために、京都から請所とされた武蔵国比企郡に移る。そして夫・遠宗亡き後、妻の乳母は比企の尼として、伊豆の頼朝を物心両面で支援していく。伊豆の伝承では、月に一度、比企氏からの物資が届いたという。

 比企氏の支援は、 20年に及んだ。頼朝の旗上げ後、比企氏は一族をあげて頼朝の武士政権「鎌倉幕府」に貢献する。頼朝も比企の尼の恩に報いるため、比企家の当主・比企能員(よしかず)を上野や信濃の目代にした。1182年(寿永元年)頼朝の長男・頼家が産まれると能員は頼家の乳母父になり、比企氏の女性達が乳母になる。しかし、次男・実朝が産まれると、政子の妹・阿波の局など北条氏の女性達が乳母になった。

 その後、比企能員の娘・若狭の局は、頼家に嫁ぎ、1198年(建久9年)に頼家の長男・一幡を産む。1199年(建久10年)1月に頼朝が亡くなる。18 歳の長男・頼家が、二代将軍となり、比企氏が将軍の外戚として勢力を付ける事になる。1203年(建仁3年)頼家が病にかかると、同年9月、比企氏を北条邸で薬師如来の法要があると偽り、比企能員を自分の屋敷に招き殺害。北条氏の軍は、鎌倉・比企が谷の比企の館も襲い、比企一族は滅亡した。

 北条時政は、頼家の将軍職を解き修善寺に幽閉、北条氏が乳母をした実朝を三代将軍にし、後見人として権力を握る。翌年7月、頼家は北条氏により殺される。この時、頼家の側にいた妻の若狭の局は、頼家の位牌(遺骨説もあり)を持ち、武蔵国大谷村に逃げてきたと伝えられている。この争いは「比企の乱」と呼ばれているが、京都の公家や僧侶の日記などから、比企氏から権力を奪取するための北条氏の謀略とされている。

 能員の末子・比企能本(よしもと)は、比企一族滅亡時に2歳だったが助命され、長じて出家し日学上人となった。鎌倉に戻った能本は、1253年(建長5年)日蓮に帰依する。比企一族の菩提を弔うためは、鎌倉の比企氏館跡にあった自らの屋敷を日蓮聖人に献上した。日蓮聖人は、1260年(文応元年)比企能本の父・能員と母に「長興」、「妙本」の法号をそれぞれ授与、この寺を「長興山妙本寺」と名付けたという。

2023年2月 2日 (木)

古墳群と足袋蔵のまち行田

 2023年1年22日(日)、古墳群と足袋蔵のまち行田市の名所をめぐる。

 

 行田市は、埼玉県の北部に位置する人口約8万人の都市。足袋産地(行田足袋)として知られ、「和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田」が「日本遺産」に認定されている。全国有数の大型古墳群である「埼玉(さきたま)古墳群」は国の特別史跡に指定されている。

 

 集合場所を出発する頃は零下1℃。この日の天気は晴れ、最高気温は9℃と10℃に満たないが、風がないので比較的温かい。8:55、埼玉県行田市大字埼玉(さきたま)の「さきたま古墳公園」駐車場に到着。

 

■さきたま史跡の博物館

 9:05、国宝「金錯鉄剣」のある県立「さきたま史跡の博物館」に入館。観覧料200円。

 国宝展示室と企画展示室「ほるたま展『埴輪男子』」を見学。

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  展示室中央に展示されている国宝「金錯銘(きんさくめい)鉄剣」を鑑賞。近づいての撮影は禁止。右の写真は「行田市郷土博物館」観覧券を転載。

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 鉄剣が発見された「稲荷山古墳」の埋葬施設(木棺)の想定図。

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 発掘によって「稲荷山古墳」の埋葬施設から出土したヒスイの勾玉や鏡などの副葬品も、すべて一括で国宝に指定されている。

 企画展示室「ほるたま展『埴輪男子』」に展示された「被りものをする男子」。

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 10:05 博物館を出て、幸手市から移築したという江戸時代末期の稲作農家の建物「遠藤家住宅」を見学(写真省略)。

■埼玉(さきたま)古墳群

 古墳群のエリアに歩いて向かう途中にある「埼玉県名発祥の碑」。この地、行田市大字埼玉(さきたま)が、埼玉県名発祥の地とされている。

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 「埼玉」が県の名称とされたのは、当初の県の管理区域の中で、最も広いのが、埼玉郡であったことによると、説明板に記されている。「埼玉古墳群」に接する「浅間塚」と呼ばれる古墳上に「前玉神社」が、建てられているそうだ。「前玉(さきたま)」が転じて「埼玉(さきたま)」へと漢字が変化し、現在の「埼玉県」になったと云われている。

 「将軍山古墳」へ向かう。墳丘へは、立ち入り禁止。

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 10:25、「将軍山古墳展示館」に入館。実物の横穴式石室を建物の中から見学できる我が国初の施設。埋葬された人物、副葬品等が展示されている。

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 「将軍山古墳」は、1894年(明治27)地元の人々により発掘され。横穴式の石室を発見した。官庁の許可を得て発掘を進めた結果、縦1.5m、横0.8m、厚さ30cmの秩父青石(緑泥片岩)の天井板、側壁は房総半島の富津市付近で産出される房州石が用いられていた。また多数の馬具や武器、武具、須恵器などが出土したという。古墳の全長は90m、高さ8m(推定)。

 騎馬武者を再現。

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 横穴式石室の実物大のレプリカ。

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 10:45、鉄剣が発見された「稲荷山古墳」に登る。写真は、ウィキメディア・コモンズ

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 「稲荷山古墳」は、埼玉県第2位の規模の大型前方後円墳。全長120m、高さ10m。国の特別史跡に指定され、帯金具、まが玉、鏡等多数の出土品は「国宝」に指定されている。金錯銘を有する鉄剣(稲荷山古墳出土鉄剣)が発見されたことで知られる。造営年代は、古墳時代後期の5世紀後半と考えられ、さきたま古墳群中では最初に築造された。

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 鉄剣は1968年(昭和43)の発掘調査の際に出土し、10年後(昭和53年)の保存処理作業の折、X線撮影をしたところ、115文字の銘文を発見。1983年(昭和58)に国宝に指定された。

 「稲荷山古墳」からは、墳丘表面を覆っていた葺石や、円筒埴輪、人物埴輪などの埴輪類が出土しており、これらの出土遺物の型式から築造年代は6世紀の前半と考えられている。1985年(昭和60)~1987年にかけ墳頂部と墳丘東側を中心に整備が行われた。また、周濠の一部が復元されている。

 「稲荷山古墳」の墳頂から東の方角に見える「古代蓮の里」の展望塔。

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 「稲荷山古墳」から見る北の方角。左につならる「白根山」方面、右は「男体山」。

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 「稲荷山古墳」から見る日本最大級の「丸墓山古墳」。

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 11:10「丸墓山古墳」に登る。6世紀前半の国内最大級の円墳。全長105m、高さ17m。出土した埴輪から6世紀前半に造られたと考えられる。

 「丸墓山古墳」から見る北北西の方角に「赤城山」。

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 「丸墓山古墳」から見る北西の方角に「浅間山」、右手前に「忍城趾」が見える。

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 丸墓山古墳から西の方角に「両神山」。

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 1590年(天正18年)小田原征伐に際して、秀吉から忍(おし)城攻略の命を受けた石田三成がこの「丸墓山古墳」の頂上に陣を張った。三成は忍城を水攻めにするため、「丸墓山」を含む半円形の「石田堤」を28 kmほど築いたという。「丸墓山古墳」から南にまっすぐ伸びている道路は、この堤の名残だそうだ。

 なお、埼玉古墳群の中には、武蔵国で最も大きな前方後円墳の「二子山古墳」(全長132m、高さ14m)がある。造られた時期は6世紀前半とされる。

 11:35「さきたま古墳公園」駐車場を出て、「行田市バスターミナル観光案内所」に立ち寄り、12:00「忍城趾・行田市郷土博物館」駐車場に車を駐める。

 

■ゼリーフライ

 駐車場から歩いて県道128号線を横断、「忍東照宮」の西側にある行田名物「ゼリーフライ」の旗が立つ食事処「かねつき堂」に入る。

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 行田のB級グルメ「ゼリーフライ」は、”おからコロッケ”。おからに小麦粉を加え、つぶしたジャガイモのほかタマネギやニンジンなどの刻み野菜を混ぜあわたタネを小判の形に整えて揚げ、ウースターソースにくぐらせる。通常のコロッケと異なり小麦粉・卵・パン粉をつけない。

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 ゼリーフライは、2個セットで220円だが、1個だけ注文。ボリュームのある焼きそば(小) 400円と合わせて合計510円の昼食。

 形が小判(銭)の形をしていて、揚げものという意味で「銭フライ」が訛ったという。また別に、「フライ」という食べものもあるそうだ。溶いた小麦粉にネギや肉などを加え、卵をのせて焼いた薄焼きの”お好み焼き”。これらは、足袋屋の女工さん、家内工業の主婦、子どものおやつや軽食として食べられたという。

 12:30、「かねつき堂」を出て、「忍(おし)東照宮」(忍諏訪神社)で参拝。

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 「忍諏訪神社」は、後鳥羽天皇の建久(1190年頃)年間、忍一族が当郷へ居住した頃に創建されたとも、戦国時代の1491年(延徳3)成田親泰が忍城を構築した際に持田村鎮守諏訪社(持田諏訪神社)を遷座したとも伝えられる。その後、成田氏代々の崇敬があり、江戸時代の1639年(寛永16)城主となった阿部忠秋は城郭を修築、併せて1645年(正保2)本殿を造営、1672年(寛文12)拝殿を新たに建立した。

 1823年(文政6)、松平忠義は伊勢桑名から移封するに当たり、城内字下荒井の地へ「東照宮」を勧請したが、1873年(明治6)城郭取り壊しの際に城内各所にあった他の社もあわせて当社境内に遷座したという。

 

■忍(おし)城趾

 12:50、忍城趾駐車場に戻り、観光ガイドと合流。13:00 駐車場を出発。

 当時の「大手御門」は、忍城内の升形城門から大手橋を渡った先に南面して立っていた。

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 忍城趾のシンボル「御三階櫓」(御三重櫓)。

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 当時の「御三階櫓」は、現在の「水城公園」(当時は忍城の外堀の沼)付近に建っていたが、明治時代の忍城解体にともない破却されたという。現在の「御三階櫓」は、「行田市郷土博物館」の開館に合わせて昭和63年(1988年)、当時を模して鉄筋コンクリート構造により造られたというが、規模も位置も史実とは異なるという。一見して天守閣に見えるが、「行田市郷土博物館」とつながっていて、展示物および展望台となっている内部を見学できる。

 「忍城」は室町時代にあたる15世紀後半に成田氏により築城された城郭。戦国時代の終わりに豊臣秀吉の関東平定に際し、石田三成らによる近くを流れる利根川を利用した水攻めを受ける中、小田原城の降伏後に開城した。のことが、「忍の浮き城」という別名の由来となった。忍城の水攻めを描いた歴史小説『のぼうの城』(和田竜の作)は、2012年に映画化(野村萬斎主演)された。

 家康の関東入部後は、四男の松平忠吉が忍城に配置され、以後、忍藩10万石の政庁となった。1639年(寛永16年)に老中・阿部忠秋が入ると城の拡張整備が行われた。阿部氏の時代には「御三階櫓」が新たに建設されるなど、往事の縄張りは1702年(元禄15年)ごろに完成したと考えられている。

 1823年(文政6年)に阿部氏が白河に移り、桑名から松平忠堯(ただたか、奥平松平氏)が入った。忍城の城下町は、中山道の裏街道宿場町としての機能や、付近を流れる利根川の水運を利用した物流路としての機能を兼ね備えて繁栄。また江戸時代後期からは、足袋の産地として名をはせるようになる。

 

■足袋蔵(たびくら)のまち

 ガイドの案内で「足袋蔵のまち」をめぐる。

 「足袋蔵」は、足袋産業にかかわる蔵造りの建物。古くはおもに足袋の保管庫であった。江戸時代から1957年昭和32年)にかけて建築され、土蔵だけでなく、石蔵、煉瓦蔵、木蔵、コンクリート蔵、モルタル蔵など、年代により様々な建築技術による多種多様な蔵が、行田の町に点在している。

 13:15、「足袋とくらしの博物館」着。ここは「力弥たび」の商標を用いた「牧野本店」の元工場。大正11年に建設された洋風の工場建物。現在は、かつての職人たちが裁断機やミシンを動かし、足袋づくりを実演している様子の見学できる博物館。入館料200円。

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 2005年10月オープン。足袋を作っている現場を見学。

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 13:35「足袋とくらしの博物館」を出て、さらに「足袋蔵のまち」を散策。

 「牧野本店」の店蔵と主屋は1924年(大正13年)棟上、土蔵は1899年(明治32年)棟上の蔵と建築年代不明のものの2棟が現存し、足袋工場は1922年(大正11年)の棟上。 写真は、「牧野本店」の店蔵で工場につながっている。

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 「時田蔵」は、1903年(明治36年)建築と大正初期建築の2棟の土蔵。奥にも土蔵が並んでいる。時田家が明治時代に建設。行田では珍しい袖蔵式で板張りの足袋蔵。

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 「忠次郎蔵」(国登録有形文化財)は、旧小川忠治郎商店の店舗及び主屋。足袋原料問屋の昭和初期の店蔵。1925年(大正14年)棟上の土蔵。現在、蔵を再活用した本格手打ち蕎麦の店。 

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 「牧禎舎」は、昭和初期の旧足袋・被服工場と事務所兼住宅を改装した施設。一日から借りられるレンタルスペースや、中長期的に利用出来るアーティストシェア工房があり、藍染体験工房が併設されているそうだ。

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 13:50「足袋蔵まちづくりミュージアム(栗代蔵)」に入館(無料)。「栗代(くりだい)蔵」は、1906年(明治39年)建築。

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 1階は案内所、2階は「栗代蔵」の歴史を展示(写真)。2009年2月オープン。

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 「保泉蔵」は、1916年(大正5年)建築の土蔵、1932年(昭和7年)棟上の石蔵、昭和戦前期建築のモルタル蔵。

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 「十万石ふくさや行田本店」(国登録有形文化財)は、銘菓「十万石饅頭」で知られる本店。1883年(明治16年)建設の行田を代表する店蔵。

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 「イサミコーポレーションスクール工場」は、1907年3月(明治40)にメーカー「イサミ足袋」として創業。

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 行田最大のノコギリ屋根の足袋工場。現在は、学校企業制服体操着足袋の製造を手がける。2017年のTVドラマ『陸王』(役所広司主演)でこの工場が、劇中で老舗足袋を扱う「こはぜ屋」の外観としてロケに使われた。

 

 「行田八幡神社」は、「封じの宮」と称され、子供の夜泣きやかんの虫を封じる「虫封じ」をはじめ、癌の病、諸病、難病や悪癖の封じ、お年寄りのぼけ封じ等の封じ祈願が秘法として継承されているそうだ。参拝客でにぎわっていた。

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 煉瓦作りの「大澤蔵」(登録有形文化財)は、1926年(大正15年)建築。煉瓦造の足袋蔵は行田市唯一。

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 「足袋蔵ギャラリー門」と「クチキ建築設計事務所」は、1916年(大正5年)建築。ギャラリーは足袋蔵を利用し、絵画展などを不定期で開催。敷地内にあるカフェは、初代行田市長の元住居を「カフェ閑居」として運営。「パン工房KURA」は1910年(明治43年)建築。2017年(平成29)4月にこれらの敷地内建物すべてが、日本遺産構成建物に認定されている。

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 「孝子蔵」は、1951年(昭和26年)棟上の石蔵(大谷石)。

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 升形城門跡、大手門跡などを見て、忍城趾に戻る。

 

■行田市郷土博物館

 観光ガイドと別れ、15:00~「行田市郷土博物館」に入館。観覧料200円。

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 「行田市郷土博物館」は、多くの実物資料が4つのテーマで展示されており、古代から現代にいたる行田の歴史と文化を学ぶことができる。残念ながら、ここの館内は撮影禁止だった。

  1. 古代の行田 ー行田で花開いた古墳文化
  2. 中世の行田 ー北武蔵の武将成田氏の居城
  3. 近世の行田 ー徳川家ゆかりの城郭と城主
  4. 足袋と行田 ー近代の行田を支えた足袋産業

 以下4枚の写真は、「行田市郷土博物館」パンフより転載。

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 15:50、忍城駐車場にもどり、解散。

 

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 ★ ★ ★

 前から見たいと思っていた足袋工場の作業風景を見られたのは収穫だった。県立の「さきたま史跡の博物館」では、国宝の金錯銘鉄剣も実物を初めて見た。後で調べると、ケースの中は腐食が進まないように窒素ガスが封入されているという。「金錯」とは、初めて聞く言葉だが金象嵌(きんぞうがん)のこと。昔、新聞などでは「金象嵌」という用語を使っていたと思う。

 各地に郷土博物館があるが、この博物館も立派だった。だが撮影禁止とは残念だ。市内をけっこう歩いた。帰ってから久し振りの歩き疲れで、ぐったり。歩数計では1300歩以上だったので、89Kmほど歩いたことになる。

2022年11月29日 (火)

嵐山渓谷の秋2022

 2022年11月25日(金)、埼玉県を代表する景勝地のひとつ、嵐山町(らんざんまち)の「武蔵嵐山渓谷」へ紅葉狩りに行く。

 

 8:40嵐山渓谷駐車場に車を駐め、8:50嵐山渓谷の展望台着。

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 荒川水系、都幾川の支流の槻川(つきがわ)。

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 大平山(標高179m)

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 12:00、終了。

 

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  「武蔵嵐山渓谷の秋」 2020年12月 6日投稿

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2022年11月28日 (月)

三渓園と三浦半島

 2022年11月21日(月)、神奈川県の三渓園(横浜市)、三崎漁港(三浦市)、荒崎海岸(横須賀市)を巡るバス旅行。

 前日の関東は雨で、最高気温は14℃の肌寒い日。当日は、朝から昼頃まで弱雨、午後くもり、夕方になって晴れとの天気予報。12人を乗せたマイクロバスは、9:50出発。

 

●三渓園(横浜市中区本牧)

 11:25、「三渓園」に到着する頃は、雨はすっかりやんで曇り空。昼近くなって、青空。この日の神奈川県の最高気温は18℃、秋らしい良い天気。

 「三溪園」は生糸貿易などにより財を成した茶人で実業家・原三溪(本名・原富太郎) によって、1906年(明治39)に外苑が一般公開された。17万5千平米に及ぶ園内には京都や鎌倉などから移築された歴史的価値の高い建造物が配置されている。一般公開の「外苑」と、原家が私庭して使用していた「内苑」のエリアに分かれる。現在は公益財団法人三溪園保勝会が運営している。 

 「三渓園」の正門を入り、「大池」と丘の上の「旧燈明寺三重塔」を望む。

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 「旧燈明寺三重塔」は、室町時代の1457年に建てられた、園内の建造物の中でも 最も古い建物。「三溪園」へは1914年(大正3)に、現在の京都・木津川市の「燈明寺」から移築されて小高い丘に建てられ、「三溪園」のシンボルとなっている。

 三渓が住居として建てた「鶴翔閣」(写真なし)の前にある「睡蓮池」。

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 内苑エリアの「臨春閣」と左手に黄葉した大銀杏。

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 「臨春閣」は、江戸時代初期1649年(慶安2)に、現在の和歌山県岩出市の紀ノ川沿いに建てられた紀州徳川家の別荘「巌出御殿」と考えられている。大阪市此花区に移されていたものを1906年(明治39)に譲り受け、11年をかけて1917年(大正6)に移築が完了した。移築の際には、屋根の形と3棟からなる建物の配置が変更されたが、狩野派を中心とする障壁画と優美な数寄屋風書院造りの意匠が残されているそうだ。重要文化財。

 大銀杏とその後は「旧天瑞寺寿塔覆堂」 (てんずいじじゅとうおおいどう)。

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 「寿塔覆堂」は、1591年(天正19)豊臣秀吉が、病気から快復した母・大政所の長寿を祈って建てた生前墓の寿塔を覆っていた建物。桃山時代らしい豪壮な彫刻や、柱とその上の組物などにはかつて鮮やかな彩色が施されていたが、現在は風化して一部に痕跡を残すのみ。この覆堂があった「天瑞寺」は「大徳寺」内の寺院の一つだったが、明治時代のはじめに廃寺となり現在は存在しない。「三溪園」への移築は1915年(明治38)。重要文化財。

 内苑エリアの沢と紅葉。

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 内苑エリアの「月華殿」 (げっかでん)、「金毛窟」 (きんもくつ)、「天授院」 (てんじゅいん)に向かう小径。

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 南から「大池」を望む。気がつくと青空。

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 「旧矢箆原家(やのはらけ) 住宅」 は、立派な茅葺きやね。大きすぎてカメラに入らない。

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 飛騨白川郷にあった江戸時代後期の入母屋合掌造りの民家。ダム建設の水没地域にあったため、1960年(昭和35)に「三溪園」に移築された。農家ながら、式台玄関や書院造の座敷など立派な接客の空間を備え、寺社で見られる火灯(かとう)窓が付けられるなど、飛騨の三長者の一人といわれた矢箆原家の格式の高さを伝える。現存する合掌造りでは、最大級の建物だそうだ。この建物だけが、内部公開されている。重要文化財。

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 「大池」の東側から望む。近景は「涵花亭」(かんかてい)、遠くは「三渓記念館」。

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 園の中央付近にある「三溪記念館」では、「三溪園」の創設者・原三溪に関する資料、三溪自筆の書画、 ゆかりの作家作品や美術工芸品、臨春閣の障壁画などを展示しているそうだが、入館せず。「三渓園」には、他にも移築された重要文化財が多い。移築によって本来の価値を失うとの意見もあるが、現地で荒廃していた建築物を修復して移築し、保存した意義は大きいと思う。

 13:05、退園。移動中のバスの中で、崎陽軒のシュウマイ弁当の昼食。

 

●三崎漁港(神奈川県三浦市)
  
 14:00、三崎港着。周辺を散策。

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 花暮岸壁に停泊中の遠洋マグロ漁船「第31岬洋丸」(439トン、全長51.2m、住吉漁業株式会社)。遠くの赤い橋は、「城ヶ崎大橋」。

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 港にある産直センター「うらりマルシェ」で買い物。旅行会社から、神奈川県内の観光施設や土産物店で利用できる全国旅行支援のいざ、神奈川! 」の地域クーポン3,000ポイントを入手。金目鯛、アジやカレイの干物、3,000円分を購入。

 15:00、三崎漁港を出発。

●荒崎海岸(神奈川県横須賀市)

 15:30、「荒崎公園」に到着。

 駐車場の北の方から回って西側の岩場に向かい、日が沈むのを待つ。

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 日が沈みかかると、富士山のシルエット。日没は、14:25。

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 このあたりの海岸の岩石は、数千万年前、まだ三浦半島が海底であったころに堆積した黒くて硬い凝灰岩と、白くて軟らかい砂岩・泥岩の2種類の岩石の層で形成され、洗濯岩のような凸凹をした特殊な地形となっている。

 荒崎海岸を17:00出発。19:45出発地に到着。20:10自宅着。

 

 本ブログの関連記事

  「早春の三浦半島めぐり」 2017年3月14日投稿

   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-744e.html

 

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 東京湾を望む横浜の東南部・本牧に広がる広大な土地は、原富太郎の義祖父である原善三郎が1868年(明治元年)頃に購入した。富太郎は岐阜県出身で、横浜の原商店に養子として入り、生糸貿易で財を成した。事業のかたわら仏画、茶道具などの古美術に関心を持って収集、国宝級の美術品を多数所蔵し、日本有数の美術コレクターでもあった。彼は古美術品のみならず、室町時代の「燈明寺三重塔」をはじめ各地の古建築を購入して移築していった。

 1906年(明治39)に市民へ公開し、1914年(大正3)に外苑、1922年(大正11)に内苑が完成するに至った。単に各地の建物を寄せ集めただけではなく、広大な敷地の起伏を生かし、庭園との調和を考慮した配置になっている。戦災により大きな被害をうけ、1953年(昭和28)、原家から横浜市に譲渡・寄贈され、財団法人「三溪園保勝会」が設立され、復旧工事を実施し現在に至っている。国の重要文化財建造物10件12棟、横浜市指定有形文化財が3棟。

 

 戦後、三崎漁港は日本最大のマグロ漁港だった。1960年代の日本の主要マグロ漁港は焼津漁港、清水漁港、三崎漁港で、内地のマグロ総水揚量の78%がこの3港に集中していた。しかしその後、三崎漁港は水揚げ量で他の漁港を下回ることになる。所属漁船が著しく大型化、遠洋化、外国市場が拡大化したことで、三崎漁港に水揚げすることなく大西洋沿岸諸国に水揚げするようになったためだという。

 現在、都道府県別のマグロの漁獲量(水揚げ量)の第1位は、静岡県。焼津、沼津、清水など、水揚げ量トップクラスの漁港がある。2位以下は年によって変るようだが、高知県、宮崎県、鹿児島県、宮城県などが並ぶ。今では、三崎漁港周辺にはマグロ料理、土産屋などの店が並び、東京から気軽に訪れられる日帰り観光地として人気があるようだ。

2022年11月27日 (日)

秋の赤城自然園

 2022年11月9日(水)、「赤城自然園」(群馬県渋川市赤城町)の紅葉狩り。

 

 この日、渋川市の最高気温は19.6℃、天気は晴れ。

 関越道赤城ICから10分。写真は、出入口の総合案内所。

 10:00入園。入園料は1,00円(セゾン、UCカード提示で500円)

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 「セゾンガーデン」から「四季の森」のカエデ。

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 「ナナフシ橋」を通って「自然生態園」を歩くと、まだツツジがあちこちで咲いている。

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 「自然生態園」のカエデ。

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 「ミズスマシの池」は水量も少なく、落ち葉で半分埋まっている。

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 「昆虫館」「トンボ池」付近のベンチで昼食。

 「カタクリの林」「野草のはらっぱ」を経て「四季の森」に戻る。

 「四季の森」の奥の方「アカマツ広場」に進む。

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 「アカマツ広場」を過ぎ、「お花畑」には枯れた紫陽花が物悲しい。

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 再び「セゾンガーデン」に入り、「ツツジの小径」の先に赤い鳥居。

 「十二様」と呼ばれる山の神。狩猟、山仕事や百姓の神様。

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 「シャクナゲの谷」できれいに黄葉する樹木。

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 「シャクナゲ園」の池の鯉。人が来ると鯉たちが集まる。

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 立ち枯れのヤマユリは、あちこちで見かける。

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 「シャクナゲ園」の沢に掛かる小さな橋で、落ち葉の「福笑い」。

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 出入口(総合案内所)前の紅葉。

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 14:10退園。

 帰りの関越道「上里サービスエリア」で、久し振りに懐かしい「峠の釜めし」を購入。

 1,200円に値上がりしていた。(「荻野屋」のホームページから転載)。

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 「赤城自然園」とは (ホームページから転載)

 赤城自然園は、赤城山西麓の標高600~700mに位置し、花々が咲き誇る春、生命力にあふれる夏、木々が実り色づく秋、野鳥の声が響き渡る冬と、日本の豊かな四季を織りなす美しい自然を感じることができる森です。「人間と自然との共生」の実現を目指し、元はマツやスギの雑木林を、長い年月をかけて植生を入れ替え、植物がいきいきと育ち昆虫や小動物が棲みやすい環境づくりを続けています。

 もとは1980年代に、西武セゾングループの堤清二氏が主導となって、21世紀の課題「人間活動と自然の平和的共存」に挑戦し、自然の存在形態を発見、創出して広く市民活動の発展に寄与することを目的として開発された森で、株式会社クレディセゾンは、「次世代を担うこども達に豊かな自然を引き継ぐ」ため、社会貢献活動のひとつとして赤城自然園を2010年より運営しております。 

 

 本ブログの赤城自然園関連の記事

  「初夏の赤城自然園」 2019年6月21日投稿

   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2019/06/post-7a81a6.html

日本スリーデーマーチ2022

 2022年11月6日(日)、「第45回日本スリーデーマーチ」に参加。


 国内最大のウォーキングイベント「日本スリーデーマーチ」の第45回記念大会は、11月4日、開幕した。

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 2019年は台風の影響で中止、2020年はコロナ禍で中止、2021年は人数制限を余儀なくされ、通常開催は4年ぶり。

 

 11月5日(土)の2日目、吉見百穴・森林公園の20Kmコースに参加予定だった。しかし朝から、1週間前からの腰痛の違和感。

 出発後に不安があって、すぐにリタイア。大事を取ってその日は休養。

 

 11月6日(日)の3日目、唐子中央公園を回る10Kmコースを歩く。

 9:10頃、集合場所の東松山市立松山中学校前を出発。

 市内石橋の住宅街を歩く。

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 関越道の架橋を越え、畑や林が広がる石橋から唐子中央公園へ向かう。

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 第休憩所の唐子中央公園に11時過ぎに到着、昼食後出発。

 下唐子から折り返し、石橋へ。

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 石橋の田園風景。

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 第2休憩所の東松山市立南中学校(東松山石橋)で休憩。ノーベル物理学賞を受賞した東大の宇宙線研究所長・梶田教授は、この中学校の出身者。

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 13:00ころ、市内パレード出発地に到着。10Kmを完歩。

 休憩後、14:00頃~パレードに参加。ぼたん通り。

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 大会会場の松山第一小学校に14:20到着。

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 腰痛の支障はなく、1日大丈夫だった。

 秋晴れの良い天気、最高気温は19℃だった。

 

 「ものみ・ゆさん」の日本スリーデーマーチ関連のブログ記事

  「台風19号と日本スリーデーマーチ」 2019年11月2日投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2019/11/post-42b73b.html

  「日本スリーデーマーチ2018」 2018/11/8日投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2018/11/2018-0edb.html

  「日本スリーデーマーチ2017」 2017/11/12投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/2017-24a0.html

  「日本スリーデーマーチ2016」 2016/11/11投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-89c3.html

  「日本スリーデーマーチ2015」 2015/11/12投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/2015-3fcc.html

  「日本スリーデーマーチ2014」 2014/11/10 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-ba9a.html

  「日本スリーデーマーチ」 2012/11/17 投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-ba9a.html

2022年11月11日 (金)

渋沢栄一ゆかりの地ウォーク

 2022年10月30日(日)、埼玉県深谷市の渋沢栄一ゆかりの地を巡るウォーキング。

 10:20、JR深谷駅の市営南駐車場に乗用車2台で到着。

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 深谷駅舎は、「関東の駅舎百選」にも選ばれている東京駅の赤レンガ駅舎をモチーフにしたデザイン。大正時代に竣工した東京駅・丸の内口駅舎の建築時、深谷にあった「日本煉瓦製造」で製造された煉瓦が70km以上離れた東京駅まで鉄道輸送されて使われたことに因み、1996年(平成8)に改装された。ただしこの深谷駅は、コンクリート壁面の一面にレンガ風のタイルを貼ることによって東京駅に似せているという。

 深谷駅北口から、渋沢栄一記念館行のコミニティバス「くるりん」に乗車、10:55出発。料金は200円。

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 11:20 、終点の「渋沢栄一記念館」着。バスを降り、「青淵(せいえん)公園」を通って旧渋沢邸「中の家」(なかんち)に向かう。

●青淵公園・青淵由来之跡の碑 11:30~11:35

 深谷の血洗島にあった渋沢栄一の生家の近くの「青淵公園」は、清水川の調整池も兼ねた清水川沿いに広がる9.8haの細長い公園。芝生やこども広場などがあり、市民の憩いの場になっている。11月3日からイルミネーションが点灯するという。

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 旧渋沢家「中の家」のすぐ裏手に、清水川の伏流水が湧く大きな淵があり、1937(昭和12)年、栄一の雅号「青淵」の由来を記念する記念碑が建つ。この碑は皇太子明仁親王の生誕奉祝記念事業として、埼玉県大里郡八基村(やつもとむら)青年団により発起・建設された。

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●旧渋沢邸 「中の家」(なかんち)11:35~12:00

 旧渋沢邸の立派な正門。門をくぐると正面に主屋がある。

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 旧渋沢邸「中の家」主屋は、渋沢栄一生誕地に建ち、栄一の妹の夫・市郎によって1895年(明治28)上棟された。梁間5間、桁行9間の切妻造の2階建、西側に3間×3間の平屋部分等を持つ。また、主屋を囲むように副屋、土蔵、正門、東門が建ち、屋根に「煙出し」と呼ばれる天窓のある典型的な養蚕農家の形を残している。

 栄一は、多忙の合間も時間をつくりたびたびこの家に帰郷した。東京飛鳥山の栄一の私邸は、空襲によって焼失したため、この家は現在残る栄一が親しく立ち寄った数少ない場所という。渋沢家の住宅として使われていたが、1985年(昭和60)より「学校法人青淵塾渋沢国際学園」の学校施設として、多くの外国人留学生が学んだ。2000年(平成12)の同法人解散に伴い深谷市に帰属。県指定旧跡、市指定史跡。

  主屋は、今年1月から~2023年(令和5)4月末予定で改修工事中、外観がネットで覆われて見られない。

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 主屋の写真の出典は、ウィキメディア・コモンズ。

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 藍玉(あいだま)取引の店として使われた副屋。また八基村農業協同組合が設立された折には、事務所として使われた。副屋の左手には東門と土蔵が並ぶ。

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 12:00~12:25、「青淵公園」に戻り、東屋で昼食。清水川の堤防を「渋沢栄一記念館」に向かって歩く。

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 赤城山と榛名山 浅間山、日光連山、秩父連山などの展望が広がる。

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●渋沢栄一記念館 12:40~13:20

 渋沢栄一の生家(血洗島)から東に500mほどの清水川のほとりにあり、渋沢栄一に関する展示を行っている。

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 1995年(平成7)11月11日、栄一の命日に開館した記念館。ガイドの案内で館内の渋沢栄一資料室(撮影禁止)に入る。

 資料室の入口にある栄一の等身大パネルと記念館の北側に建つ銅像。身長は150cmちょっとだったとか。

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最初に、栄一の年譜が掲示。青春時代~尊攘派志士、一橋慶喜の家臣へ。幕臣となり欧州訪問。大蔵省、実業家の時代。引退後の教育・医療・福祉活動などと分かれている。また栄一の遺墨や写真などが展示されていた。体育室では渋沢栄一に関する映像を見ることができ、2階の講義室ではアンドロイド渋沢栄一の講義を聞くことができるが時間の関係でパス。

●尾高惇忠生家 13:40~14:00

 尾高惇忠(じゅんちゅう)は渋沢栄一の従兄であり、栄一はこの尾高家に通い惇忠に論語をはじめ多くの学問を師事した。惇忠は、明治維新後は富岡製糸場の初代場長や第一国立銀行の森岡支店庁舎先代支店長などを務め、幅広く活躍した。

 尾高惇忠と渋沢栄一 出典:ウキメディア・コモンズ

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 この生家は、江戸時代後期に惇忠の曽祖父が建てたといわれ、当時は「油屋」の屋号で呼ばれ、この地方の商家建物の趣を残している。尾高家は 、農業のほかに菜種油、藍玉製造 、販売、 塩、雑貨等を販売しており、使用人も雇っていた。

 尾高惇忠生家 出典:ウキメディア・コモンズ

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 惇忠や栄一らが、高崎城乗っ取り計画を謀議したと伝わる部屋が二階にあるという。市の指定史跡。主屋敷の裏には、煉瓦倉庫も残る。

 惇忠の弟で、渋沢栄一の養子・渋沢平九郎や、惇忠の長女で富岡製糸場伝習工女第一号となるゆう(勇)もここで生まれた。平九郎は、幕臣のとして彰義隊・振武軍に参加して飯能戦争を戦ったが、敗北し自害した。旧渋沢邸「中の家」の裏には、栄一が作らせた平九郎の石碑があった。

 尾高淳忠生家を出て、深谷ネギ畑の農道を歩く。

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 利根川支流の小山川の堤防を右手橋の向こうに見える大寄(おおより)公民館に向かって歩く。

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●誠之堂・清風亭 14:25~14:40

 大寄(おおより)公民館の敷地内にある「誠乃堂」(せいしどう)と「清風亭」に入る。

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 「誠之堂」は1916年(大正5)、「清風亭」は1926年(大正15)の建設。東京都世田谷区にあった「第一銀行」の保養・スポーツ施設「清和園」に建てられていたもので、平成に入り深谷市に移築・復元された。いずれも建築史上、大正時代を代表する重要な建物。

 「誠之堂」は、渋沢栄一の喜寿(77歳)を祝って「第一銀行」(現在みずほ銀行)の行員たちの出資により建築された。外観は英国農家風、室内装飾に東洋的な意匠。栄一は、日本の近代経済社会の基礎を築いた。その拠点が「第一国立銀行」で、1896年(明治29)「第一銀行」となり、栄一は、その初代頭取を務め、喜寿を機に辞任した。2003年(平成15)、国の重要文化財に指定された。

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 「清風亭」は、当時「第一銀行」2代目頭取であった佐々木勇之助の古希(70歳)を記念して、「清和園」内に「誠之堂」と並べて建てられたスペイン風様式鉄筋コンクリート造り。建築資金は、「誠之堂」と同じく行員たちの出資によるもの。 佐々木も栄一と同じく、行員たちから強く慕われていたそうだ。2004年(平成16)、埼玉県指定有形文化財に指定された。

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 小山川の堤防を旧煉瓦製造施設に向かって進む。

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●旧煉瓦製造施設 15:15~15:45

 日本煉瓦製造株式会社の旧事務所(煉瓦資料館)に入る。旧事務所は、ドイツ人煉瓦製造技師チーゼの居宅兼事務所として建築され、当時の西洋建築の様式を残し、現在は資料館として利用されている。当初は別の敷地にあったが、3回の曳家移転がなされた。

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 日本煉瓦製造は、渋沢栄一らによって設立。煉瓦技師チーゼを雇い入れて、1888年(明治21)に操業を開始、当地で製造された煉瓦は、東京駅丸ノ内本屋や旧東宮御所(現迎賓館赤坂離宮)などに使用されており、日本の近代化に大きく寄与した。しかし時代とともに煉瓦需要が減少、安価な外国産の市場拡大で2006年(平成18)、約120年の歴史に幕を閉じた。

 煉瓦資料館 工場の全体模型

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 明治40年に建設された「ホフマン輪窯」の建物が6棟ある。右上の隅、川のほとりに旧事務所が見える。

 工場の一部として「ホフマン輪窯6号窯」「旧事務所」「旧変電室」が残り、専用線であった「備前渠鉄橋」とともに1997年(平成9)年5月、国の重要文化財に指定され、2007年(平成19)度に深谷市に寄贈された。ホフマン輪窯は、この旧煉瓦製造施設の他には、栃木県、京都府、滋賀県にそれぞれ1基が現存するのみで、全国では4基しか残されていないという。

 煉瓦資料館 明治40年建設のホフマン輪窯(6号窯)の模型。

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 「ホフマン輪窯6号窯」は、保存修理工事のため、2019年(平成31)2月から見学休止中。再開は2024年(令和6)頃の予定。 

 旧日本煉瓦製造のホフマン窯とその内部 出典:ウキメディア・コモンズ

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あかね通り(遊歩道) 15:50~16:30

 日本煉瓦製造が製造した煉瓦の当初の輸送手段は、利根川舟運であった。しかし安定性に欠けるため輸送力向上を目的として、1895年(明治28)に深谷駅から工場までの約4.2kmにわたって、日本初の専用鉄道が敷かれた。やがて煉瓦の出荷量の減少により、1972年(昭和47)から運用休止となり、1975年(昭和50)3月に全線の廃止届が提出され、翌年の3月に線路用地が深谷市に譲渡された。

 廃線跡は、線路が撤去され、歩行者と自転車が通れる遊歩道「あかね通り」となっている。

 15:50、国の重要文化財「備前渠鉄橋」を通過。ここから遊歩道「あかね通リ」を歩き始める。

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 下を流れる「備前渠」(びぜんきょ)は、1604年(慶長9年)に関東郡代の伊奈備前守が江戸幕府の命で開削した埼玉県最古の農業用水路。鉄橋は、「プレートガーター橋」(鋼板の橋桁の意)が採用されている。

 専用鉄道には3ヶ所の鉄道橋(備前渠鉄橋、唐沢川鉄橋、福川鉄橋) が架けられていた、そのひとつが県内最古の農業用水路でもある備前渠用水に設置された「備前渠鉄橋」。1スパンで、全長15.7mと3つの鉄橋でも最長の橋桁。イギリス人の鉄道技師ポーナルが設計。またすぐ脇には、備前渠用水から分水する新井用水の上に架けられた長さ2mの「煉瓦アーチ橋」も遊歩道となっている。 

 何故か廃線跡の遊歩道中央に大きな樹木がある。

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 福川を渡った先にある公園「ブリッジパーク」には、この路線で使用されていた「福川橋梁」やその脇に架けられていた「福川避溢(ひいつ)橋」が移築、保存されている。また「唐沢川鉄橋」は深谷駅の北口から東へ300mの地点に位置し、深谷市へ譲渡されたさいに橋の名は、「つばき橋」に変えられている。

深谷城址公園 16:40~16:45

 深谷城は、1456年(康正2 )に深谷上杉氏の上杉憲房(のりふさ) が古河公方(関東足利氏)の侵攻に備えて築城。1590年(天正18)、秀吉の小田原征伐まで、深谷上杉氏の居城だった。家康の関東入部に伴い、松平康直が1万石で入城し深谷藩となった。その後、藩主が何代か代って酒井忠勝(後の老中・大老)が1万石で入封したが、1627年(寛永4)に川越へ移封となり、深谷藩は廃藩、1634年(寛永11)に廃城となった。

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 ちなみに、武蔵国岡部(旧大里郡岡部町、現深谷市)を本拠としていた安部家の岡部藩領から、豪農から幕末に渋沢栄一、渋沢成一郎(喜作)、尾高惇忠などが輩出した。渋沢栄一と成一郎は一橋家慶喜の下で士分に取り立てられ、慶喜の将軍就任後は直参旗本となった。

 深谷城の城跡一帯が、深谷城址公園として整備されている。 外堀に沿って桜が植えられており、市民の憩いの公園。城跡は埼玉県指定旧跡、また外堀(外濠)の一部が深谷市指定史跡。周辺には深谷市文化会館、県立深谷高校、深谷第一高校、深谷商業高校や深谷市役所などが集まる市の中心街となっている。

 16:40、「深谷城址公園」の中を通過し、深谷駅に17:05着。

 この日の歩数は、22,500歩、距離13.5Km。渋沢ゆかりの地を学び、秋晴れの気持ちの良い、久し振りのウォーキング日和だった。

 

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●韮崎直次郎の富岡製糸工場建設

 「尾高惇忠生家」のガイドの話では、富岡製糸工場ゆかりの深谷出身の偉人として、渋沢栄一、尾高惇忠とともに、あまり知られてない韮崎直次郎がいる。直次郎は、尾高家の住み込みの使用人・久保田熊次郎と同じく使用人であった母・銀の長男で、尾高家の離れで生れた。やがて韮塚家の養子となり、苦労して農業、養蚕、藍玉作り、菜種油の製造・販売に力を注いだ。尾高家の物心両面の力添があったと思われるが、 幕末には豪農としての地位を築いた。

 この直次郎のひたむきに努力する姿を尾高惇忠が見ていて、直次郎に対して深い信頼を寄せたようだ。富岡製糸工場の建設において西洋式建物の資材調達のまとめ役を任された。主な建築資材であった西洋の煉瓦は、製造方法もわかっていない中、地元の瓦職人を束ね、試行錯誤のうえ煉瓦を焼き上げることに成功したという。

●諸井恒平の秩父セメント設立

 諸井恒平は、武蔵国児玉郡本庄宿(埼玉県本庄市)出身の実業家。1878年(明治11)わずか16歳で本庄生糸改所頭取に推され、1886年(明治19)には児玉郡外二郡蚕糸組合の副頭取、同年24歳で本庄郵便局長になった。若い頃から事業家としての才覚があった。遠戚である渋沢栄一の勧めで、1887年(明治20)に日本煉瓦製造(株)に入社。支配人、取締役を経て、1907年(明治40)には専務取締役に昇進。その間、日本工業協会理事、東京毛織(株)専務取締役にも就任する。

 恒平の名を不動にしたのは、秩父鉄道の取締役となった1910年(明治43年)に武甲山の石灰岩に注目し、セメント製造事業の開拓を手掛けたこと。セメントの需要拡大を見込み、栄一の資金援助のゴーサインが出て、日本煉瓦社内に秩父セメント発起準備室が設けられた。1923年(大正12)に秩父セメント会社を設立、1925年(大正14)には秩父鉄道の社長も兼ねた。密接な関係にあったため両会社の発展に寄与した。この他にも大正、昭和を通して次々と要職に就いた。

 近代の諸井家は3家あり、北諸井、南諸井、東諸井と呼ばれた。恒平を世に出した東諸井家は、その他にも多くの逸材を育て、日本の近代化に深く貢献した。恒平の長男である諸井貫一は「経済団体連合会」「経済同友会」の創始者である。また、恒平の弟に当たる諸井六郎は、外交官として条約改正に尽力。他の弟たちも実業家として日本の近代化に貢献している。三男の諸井三郎とその次男諸井誠は、作曲家・音楽評論家として業績を挙げている。

●渋沢栄一の強運

 「近代日本経済の父」、新1万円札の顔ともなる渋沢栄一は、幼少の頃からとても頭が良かったという。また父親の藍玉売りに同行したりして、商才に長けていた。岩崎弥太郎と違い、財閥を作らず戦争に協力しなかった。「渋沢栄一記念館」のガイドは、彼は「強運」の持ち主だったと言う。

 江戸末期から明治へと、日本が近代化をめざして変革しようとする激動の時代においては、井伊直弼、吉田松陰、坂本龍馬、中岡慎太郎、近藤勇土方歳三、西郷隆盛、大久保利通、伊藤博文・・・といったすぐれた人物が、悲運にも次々と倒れた。確かに、栄一もひとつ間違えれば、そういう生涯を送ったかもしれない。確かに彼は、歴史の流れに乗った4つの「強運」を持っていた。しかも長寿で1931年(昭和6)11月11日、老衰のため91歳で逝去した。

➊尊皇攘夷の青年期

 藍の商いをおこなう農家の子として生まれた渋沢栄一は、日本の将来を憂いて過激な尊王攘夷派となった。討幕をめざして武具を買い整え、従兄弟の渋沢喜作ら69人の同志を募り、攘夷蜂起を目的とする同志を組織。1863年(文久3 )年11月に、高崎城を乗っ取って武器・弾薬を奪い、鎌倉街道を南下して横浜を焼き討ち、外国人を切り捨てる、長州藩と連携して幕府を倒すという計画を立た。

 同志との会合の席上で、栄一の従兄弟であり妻の兄である尾高長七郎が、天誅組の失敗を例に挙げて計画の実行を反対した。栄一は決行を主張し議論は平行線。しかし幕府がこの計画を察知し動き出していたため、計画は実行されず栄一と喜作は連れだって京都へ逃れた。血気に走る一歩手前で、反逆者として処刑される危機を切り抜けた。これが1番目の「幸運」だった。

➋幕府側への転身

 一橋家の重臣、開国派の平岡円四郎に出会い、「世界を知らずに、攘夷を論じている自分」を知らされ、眼を開かされる。渋沢栄一と喜作はまさに180度の転身をして、平岡の推挙により喜作と共にかつて敵であった幕府側、一橋家の家臣となった。これが2番目の「幸運」となった。

➌西洋で学ぶ

 幕府の最後の将軍・徳川慶喜の家臣となった栄一は、慶喜の弟、民部公子(徳川昭武)の随行して、中国、シンガポール、エジプトを経由して、パリ万国博覧会が開催されるフランスへ渡る。そこで、渋沢は西洋の文化、社会にじかに触れ、日本より遥かに進んだ鉄道や兵器、科学技術などに驚く。とりわけ、彼の心を揺り動かしたのは、銀行を中心とした経済構造であり、株式会社による近代資本主義だった。3番目の「幸運」は、異国で学ぶ機会を得たこと。

 そして、日本に帰ってきた時には幕府が倒され、明治維新によって江戸幕府は消滅していた。時代の大きな激変の時に、渋沢栄一が外国にいたため、それに巻き込まれなかったことも「強運」であった。、栄一の見立養子(相続人)の渋沢平九郎は、彰義隊に参加して敗北し自害している。

 「近代国家は強力な軍隊だけではなく、自由な取引による商工業によって支えられている。日本も遅れてはならない」。栄一はそのことを痛感し、日本に戻ってきたあと、慶喜が身を寄せていた静岡藩で、商法会所(株式会社)を始め、順調に発展する。栄一は慶喜に「私はこれからもあなたをお支えしたい」と伝えるが、慶喜からは「私に仕えなくていい。自分の人生を生きなさい」と諭される。明治政府に呼ばれ、大隈重信に説き伏せられて、大蔵省の役人となった。

➍自分を生かす道は実業家

 大蔵省の役人となった栄一は、日本の近代化をめざして、財政、地方行政、殖産興業等を精力的に進めた。しかし障害が多く、「自分の生きる道は、ここではない」と悟り、自力で切り開く決意を固めたことも第四の「幸運」となった。自分をもっとも生かす道、実業家となった栄一は、少年期に学んだ孔子の『論語』の精神を生かして、「私利私欲を追求し、ひたすら営利をむさぼる実業家ではなく、たくさんの人に利益をもたらす、仁愛の精神を持った実業家」になろうとした。

 国家や社会のための「公益」を大切にするという考えのもと、栄一は第一国立銀行や東京商法会議所を設立、王子製紙、日本郵船、帝国ホテル、札幌ビール、東京電力、東京ガスなど500社におよぶ株式会社を立ち上げ、会社の経営に携わった。さらに「経済活動だけでなく、社会公共事業が大切」と医療や教育を支援し、東京慈恵会、日本赤十字社、聖路加病院、理化学研究所等の設立に関わり、一橋大学や同志社大学、二松学舎、早稲田大学、日本女子大学等の設立を助けた。

 特に力を注いだのは、養育院。明治維新により社会体制が大きく変わり、職を失う人、孤児や老人、障害者など多くの生活困窮者がいた。養育院は1892年(明治5)、明治政府が生活困窮者の保護施設として設立。渋沢は1874年(明治7)から事業に関わり、1879年(明治12)初代養育院長となって運営に携わり、死ぬまでの50年余り院長を務めた。「怠け者など税金で養うべきではない」との議論に、栄一は「政治は仁愛に基いて行なうのは当然」と、公的支援を訴えた。

●論語と算盤

 渋沢栄一は、「なによりも良心と思いやりを大切にしなければ」と、労働組合を助け、貧しい人のための「生活保護法」をつくり、社会福祉にも尽力した。その信念を、『論語と算盤』という著書にまとめている。栄一は経済人・実業家であるだけでなく、確固とした哲学をもった思想家でもあった。

 道徳と経済とは、孔子の教えである論語から、「道徳なくして経済なし 経済なくして道徳なし 」という考え方。「徳で収める儒教の考え方を経済に取り入よう」と考えた。そして、ただお金儲けをするのではなく、世のため、人のため、または日本の繁栄のために『徳』を積むようなビジネスを、相反する働き方と融合しようと「道徳経済合一主義」を試みた。この考え方は、道徳に欠け、金儲け主義や自己中心的な働き方が多い現代社会にも必要だ。

 岩崎弥太郎は三菱財閥の創始者で同時代に活躍したが、事業を独占しすることで、富も独占しようと考えた。栄一は自ら財閥を立ち上げるという、出世欲や名誉欲というものは全くなかった。 事業を大きくして得た利益は社会に還元し、「公益」を追求することで日本を豊かにしようと考えた。道徳的に正しいことを続けることが公益になり、やがて自分にも返ってきて豊かになると考えた。このような論語思想から、教育・福祉事業への投資・寄付を惜しまなかったという。

 ところで、後にキリスト教の洗礼を受けた大原孫三郎は、倉敷紡績、倉敷絹織、倉敷毛織、銀行、電力会社などの社長を務め、大原財閥を築き上げた。孫三郎は、石井十次の社会福祉事業の影響もあり、工員の教育や環境改善、農業改善のほか、社会・文化事業にも熱心に取り組んだ。倉紡中央病院、大原美術館、大原奨農会農業研究所、倉敷労働科学研究所、大原社会問題研究所、私立倉敷商業補習学校を設立した。孫三郎と渋沢栄一が、社会へ還元する経済の考え方が共通することを知って、改めて当時の実業家の偉大さを思う。

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