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2023年10月31日 (火)

川の博物館と鉢形城公園

  2023年10月22日(日)、東武東上線の鉢形駅から寄居駅まで歩く。

 途中、「川の博物館」と「鉢形城園」を見学。

 
 10:01、東武東上線の鉢形駅に到着。2015年(平成27年)3月に駅舎のリニューアルしたそうだ。近隣の埼玉県立「川の博物館」の水車小屋をイメージしたものだという。10:07、鉢形駅を出発、静かな住宅街を抜ける。

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 坂を下り、右手の寄居町保健福祉総合福祉センターと寄居町総合社会福祉センターの大きな建物を過ぎる。

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 左手に、荒川の「かわせみ河原」が賑わっている。

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 10:30、埼玉県立「川の博物館」(かわはく)着。入場料は、一般410円。

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 65歳以上の入場料は無料だったが、県の条例改正により、2013年(平成25)7月から一般と同じになっている。

 展示室などがある本館。

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 本館前から「荒川大模型」、「レストハウス」と「大水車」。

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 「大水車」は1997(平成9)年8月、「かわはく」の開館に合わせて作られた。埼玉県産のヒノキで作くられ直径は23m、日本一の大きさを誇ったが、2004(平成16)年に岐阜県で直径24mの大水車が完成し、日本第2位となった。2015(平成27)年、木部に老朽化により回転を停止。2017(平成29)年、改修工事が行われ、2019(令和元)年7月に直径24.2mの日本一の「大水車」が完成した。

 11:00~事前に依頼した学芸員による「荒川大模型」の説明を40分ほど受ける。

 荒川の源流(甲武信岳)から河口(東京湾)までの長さ173kmの流れと本流沿いの地形を1000分の1に縮小た大パノラマ。

 秩父山地、甲武信岳(標高2,475m)の山麓、奥秩父の赤い丸が「荒川源流点」とされる。

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 深い谷を刻む荒川は、秩父盆地内を曲流し数段の非対称の河成段丘をつくっている。

 右手前が浦山ダム、その先に秩父市街。

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 2019年(令和元年)の台風19号の当時の「かわはく」の被害状況などの説明があったが、本館の写真やパネルでも紹介されていた。

 11:38、途中、大小の水車を見ながら、レストハウスへ移動。

 園内には荒川流域で使われていた精米水車(上の写真)とコンニャク水車(写真なし)が移築復元されている。

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 11:40、レストハウス2階、レストラン「ウォーターミル」で昼食。かわはくラーメン650円。

 12:00~本館展示室を見学。「鉄砲堰(てっぽうぜき)」の1/4模型。

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 12:20~、大型パノラマスクリーンで実際の「鉄砲堰」を復元する過程と放水が解説、上映され、同時に「鉄砲堰」模型での放水実演が行われた。

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 「鉄砲堰」は、木材運搬のために使われた木製の堰(ダム)。丸太を組んで水を貯めた後、堰を切って伐採した木材を水と一緒に一気に下流へと押し流すもの。 幕末から明治初期にかけて作られるようになり、秩父の中津川などでそう呼ばれていたが、堰を使った木材の流送手段は、全国各地に存在した。林道の建設が進み、トラックの普及により、戦後に「鉄砲堰」は全国から姿を消したという。

 「船車(ふなぐるま)」の実物大模型では、船車の歴史と役割について解説。以下2枚の写真は、「かわはく」のホームページより引用。

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 「船車」は船に水車が付いていて、船の中で小麦などを粉にすることができる船。中には囲炉裏があり休憩や寝泊まりもできるようになっていた。荒川の水の増減にも影響を受けず、船のまま避難もできた。

 本館外壁に、川合玉堂の筆になる重要文化財「行く春」(六曲一双屏風)を、長さ21.6m、高さ5.04mの大陶板画(信楽焼)にして展示してある。「行く春」は、1916(大正5)年に長瀞・寄居方面を訪れた玉堂が、荒川に浮かぶ「船車」をモチーフに描いた傑作で第10回文展出品作。現在は東京国立近代美術館が所蔵、重要文化財に指定されている。

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 「荷船(にぶね)」の実物大模型。「荷船」は荷物の運搬に使われ、年貢米や特産物などの物資の大量輸送を担っていた船。

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 荒川本流や、その支流の新河岸川、入間川、高麗川などにおいて、河川輸送の主役だった。荒川本流では、荷船が辿り着ける最上流の熊谷と、最下流の東京との間の水運を担った。荷船には世辞(せじ)という部屋があり、炊事ができて2~3人が寝泊まりできるようになっていたという。 

 周辺の農村から河岸場に集められた米・麦・さつまいも・しょう油などの農産物は、荷船に積んで東京に運ばれた。秩父山地の木材・炭、川口の鋳物も重要な積荷だった。 東京からは、塩・酒・海産物の干物などの食料品や下肥(しもごえ)が主な荷物。肥船で運ばれた下肥は、貴重な肥料として農産物 の生産向上に役立ったという。


 12:33、「川の博物館」を出発。13:10、浄土宗「浄福寺」で10分ほど休憩。

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 県道30号線を西へ進む。荒川に架かる「正喜橋」の手前の三叉路で、左の坂道へ少し進むと、13:35「鉢形城公園」の北端にある笹曲輪(ささくるわ)。

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 「鉢形城」は、深沢川荒川に合流する付近の両河川が谷を刻む断崖絶壁上の天然の要害に立地する。

 公園の中を通る一般道を南に進み、坂道がゆるくなったあたり、Y字路の手前で左の小径を下る。

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 深沢川に降りて、再び上がると13:45「鉢形城歴史館」に到着。

 2階が受付。入館料は、一般200円。70歳以上、無料。

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 14:00~、ボランティアガイドによる説明を受ける。

 館内1階へ降りると、再現した櫓門が展示室の入口。館内撮影禁止。

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 まず、展示室の鉢形城ワープステージ(鉢形城のジオラマ)で、鉢形城の歴史、城の構造を映像を交えて学ぶ。

 次に、館外へ出て、ボランティア・ガイドの案内で鉢形城趾を巡る。

・外曲輪(そとくるわ)
 「鉢形城歴史館」は、この外曲輪の一角に建てられている。この広い曲輪は、整備される前は民間の畑だったという。奥に土塁が見える。

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・深沢川

 天然の堀、深沢川にかかる橋を渡る。

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・土塁(どるい)

 左右に土塁が現れる。左の土塁には「カタクリ群生地」の看板がある。

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 この先に、町指定の天然記念物で樹高18m、樹齢150年の大きなエドヒガンサクラ(愛称:氏邦桜)があった。

・本曲輪

 公園内を通る一般道に出て少し下った公園西側の本曲輪に進み、寄居の市街を望む。この下の荒川とは断崖絶壁。「正喜橋」のある北東方面を望む。

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 北から北西方面。

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・二の曲輪

 本曲輪の南側には、ニの曲輪がある。

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 二の曲輪から北の方向、日光の男体山がよく見える。

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・堀と畝(うね)<写真なし>

 二の曲輪と三の曲輪を隔てる巨大な空堀と土塁がある。堀は、発掘調査の結果、最大上幅約24m、深さ約12mの大規模な堀であることが判明。堀と土塁は屏風状に折れ曲がり、先が見通しづらい形状。堀底からは、「畝(うね)」と呼ばれる直線状の盛土がある「障子堀」の跡も発見されている。この「畝」は、敵兵が堀底で動き回るのを防ぐためという説と、堀底の水を一定に保つためという説がある。

・石積み土塁、四阿(あずまや)、池、四脚門

 三の曲輪では戦国時代の築城技術を今に伝える石積み土塁、四阿(あずまや)と池や四脚門などが復元されている。以下3枚の写真は、寄居町のホームページから引用。

 復元された石積み土塁。

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 河原の石を使用した全長約100m、高さは約4m。いわゆる江戸時代の城の石垣とはその規模・技法等において見劣りするが、関東地方の石積技術の有様や石積を専門とする技術者の存在を示す重要な発見だという。

 復元された四阿と池。庭園跡とみられ、ここからは茶道具なども出土しているそうだ。

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 復元四脚門。四脚門の前には虎口(こぐち)周辺の状況が復元整備されている。

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・馬出(うまだし)<写真なし>

 城の出入り口である虎口を守る小さな曲輪を意味し、城兵の出入りを安全に行う施設。堀で四方を囲み、土塁は敵兵に面する箇所に設置されている。北条氏系の城郭は、四角い形の「角馬出(かくうまだし)」と呼ばれている。真田幸村が築いた「真田丸」の様な馬出とは異なる。鉢形城内には6箇所の馬出が推定されているという。

・鉢形城復元地形模型

 笹曲輪にもどり、鉢形城復元地形模型を確認。1/250スケールで鉢形城の全貌を模型にしてある。

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 二の曲輪、三の曲輪、笹曲輪は、1997(平成9)年度から2001(平成13)年度にかけて発掘調査が行われ、それをもとに馬出や堀・土塁の復元整備が進められた。また、園内の遊歩道は、深沢川の渓谷やカタクリ群生地、エドヒガン(寄居町指定天然記念物)など四季折々の景観が楽しめる。

 15:15、「鉢形城公園」を後にする。

 新しくなった寄居駅南口前の中央通り線(県道190号)。

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 寄居駅前の再開発事業が、2018年に基本計画が国に認定されてから本格化。町が約25億円を投じ、交流広場や駅前道路などの整備を進めていた。

 15:35、寄居駅南口駅前拠点「Yotteco」(ヨッテコ)に立ち寄り、コーヒータイム。2023年4月に開館したばかり。

 写真は、ウィキメディア・コモンズより引用。

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 16:05 「Yotteco」発、16:19寄居駅発の東上線小川町行きの電車に乗車。

 開業以来約120年ぶりにリニューアルした寄居駅南口。

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 およそ11km、19,000歩。約2万歩を歩いた。秋晴れのさわやかな空気の中、上着を脱いで歩く気持ちの良いウォーキングだった。
 

 ★ ★ ★

 「鉢形城」は、1476年(文明8年)関東管領であった山内上杉氏(上杉氏の諸家のひとつ )の家臣・長尾景春が築城したと伝えられる。その後、この地域の豪族・藤田泰邦に入婿した、小田原の北条氏康の四男・氏邦が整備拡充し、現在の規模となった。関東地方において有数の規模を誇る鉢形城は、北条氏の北関東支配の拠点として、さらに甲斐・信濃からの侵攻への備えとして重要な役割を担った。

 1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、北条氏の重要な支城として、前田利家・上杉景勝等の北国軍に包囲され、攻防戦を展開。氏邦は3千の兵とともに1ヶ月余りにおよぶ籠城の後に、城兵の助命を条件に開城した。開城後は城は廃城となり、徳川氏の関東入国に伴い、家康配下の成瀬正一や日下部定好が代官となり、この地を統治した。

 なお、「鉢形城跡」は、1932年(昭和7)に国指定史跡となった。2000年(平成12年)「21世紀に残したい埼玉ふるさと自慢100選」(埼玉新聞社)、2006年(平成18年)「日本100名城」(日本城郭協会)。2007年(平成19年)には、「日本の歴史公園100選」(都市公園法施行50周年等記念事業実行委員会)と「日本の史跡101選」(日本経済新聞社)に選ばれている。
 

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 「川の博物館」 2019/8/11投稿
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 「武州寄居七福神めぐり-後半編」 2012/4/10投稿
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2023年9月25日 (月)

古賀志山

 2023年9月23日(土)、宇都宮市の「古賀志山」に登る。

 
 古賀志山(こがしやま)は栃木県宇都宮市の北西にある山で、標高は582.8m。「日本百低山」、「関東百名山」に選定されている。低山ながらも北関東屈指の名山とされる。

 昨夜からの雨が今朝も続くが、現地に着く頃には曇りの予報。

 7:00、車2台に分乗して出発。東北道の鹿沼ICから、9:15「宇都宮市森林公園」駐車場に到着(写真はGoogleマップ)。

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 ここでは、毎年10月に森林公園周回コースで「ジャパンカップ・サイクルロードレース」(Japan Cup Cycle Road Race)が開催される。

 9:30、「宇都宮市森林公園」駐車場を出発。

 森林公園内にある「赤川ダム湖」。公園内には、休憩所、食堂、キャンプ場、バーベキュー場、魚釣り場、サイクリングコースなどが整備されており、市民の憩いの場となっている。

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 細野ため池として建設され、当初「細野ダム」とも呼ばれていたようだ。「赤川ダム」より赤川に沿って約800mほど北には、「細野ダム」という名の砂防ダムがあるので紛らわしい。 

 森林公園通りを歩くと、「古賀志山」が顔を出す。手前にダム湖の湖畔に「少年自然の家」の建物が見える。

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 森林公園の奥、左手にオートキャンプサイトの「ロッキーズ」(The Rockys)。子どもたちと遊べるアウトドア施設。

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 道路脇に立つ「古賀志山周辺地図」。(写真をクリックすると拡大表示されます)

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 「ロッキーズ」の入口付近で、森林公園通りは左へ折れて芝山林道(古賀志林道)へ。

 9:55、車両通行禁止の「北登山道」(北コース)入口に直進する。

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 沢沿いに上流に向かって林道を進む。

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 10:00、細野ダムの手前で「古賀志山」への北登山道(北コース)と「中尾根」の分岐。

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 杉林の中の砂利道の林道を歩く。

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 沢に架かる木橋を渡る。

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 10:10、コップが置いてある水場。

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 再び木橋を渡る。

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 10:35、丸太のベンチがある広場に到着。10分ほど休憩。

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 広場からは、勾配が急になる。

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 「富士見峠」直下は、岩ゴロゴロ。息が切れそうな急登。最後は丸太の階段。

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 11:15、ベンチのある「冨士見峠」に到着し、尾根に出る。ここで5分ほど休憩。

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 この先も急登が続き、ロープや鎖も設置されている。

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 11:50、「古賀志山」の山頂に到着。ベンチで昼食、休憩。

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 周囲には樹木が茂っていて、見晴らしは良くない。携帯電話の電波塔がある。

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 12:20山頂を離れて、「富士見峠」に戻る途中、「東陵見晴台」への分岐。

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 12:30、狭い岩棚の「東陵見晴台」に到着。

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 「東陵見晴台」からの眺望。写真ではわかりにくいが、眼下の左端に赤川ダムや森林公園。その先に広がる宇都宮市街。中央の木陰に「多気山」(たげさん、377m)、中央より右手に「筑波山」(877m)が遠くに霞む。

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 見晴台には、寒暖計が木にくくりつけられていて、20℃を指している。

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 東陵分岐まで戻り、「富士見峠」から往路を下る。

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 14:05、往路で通り過ぎた「ロッキーズ」(The Rockys)に入場。

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 「ロッキーズ」は、車が乗り入れられるオートキャンプサイト。BBQ、電動バイクや電動アシスト付きのマウンテンバイク(自転車)の貸し出し、​森林公園の周辺のサイクリング、遊具やプールの水遊び場などがある。アイスクリーム(400円)を食べながら休憩。

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 14:20、森林公園駐車場着。14:50出発、帰路へ。

 17:10、出発地着。

 朝から雨だったが現地に着く頃は雨が上がり、青空も見え始めて時々薄日が射す。しかし、結局夕方まで曇り。少し蒸し暑さはあったが、気温は20℃と最近の残暑と違って低くかった。標高600mも満たない低山と軽く見ていたが、久し振りの本格的な登山になった。

 下山時には、小雨か霧雨が降り始めたがすぐに止み、無事下山。トレイルランニングの男女をたくさん見かけ、健康のために週に2,3回は登っている単独の高齢の女性、犬の散歩と思われる軽装の男性などに遭遇。標識があんまり無くてよそ者にはわかりにくい山だが、やはり宇都宮市の「市民の山」、「日本百低山」にふさわしい山だった。

 

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 「大谷石とカルビー」 2019年06月18日投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2019/06/post-a364de.html

 「宇都宮と大谷石」 2018年10月22日投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-46a2.html

 

 ★ ★ ★ 

 「古賀志山」(標高582.8m)のほか、「御岳」(御嶽山、546m)、「赤岩岳」(536m)は一体の山塊として、これらをまとめて「古賀志山」と呼ぶこともあるそうだ。「御岳」山頂には石の祠(ほこら)があり、御嶽神社が祀られている。「古賀志山」の東側ピークにある「東稜見晴台」や西側ピーク「御岳」からは北西から北東にかけて日光連山、那須連山、東に多気山と宇都宮市街、遠くに筑波山。南に鹿沼市街、秋から冬にかけては富士山を遠望出来るという。

 「古賀志山」は低山ながら、辺り一帯は岩山が多く、切り立った岩場も多い。鎖場や岩場が連続するコースもある刺激的な山で、初級者から上級者まで楽しめる。もともと「古賀志山」は「初心者コース」と言われていたが、近年、滑落や転落などの山岳遭難が相次いで発生しているという。これは、登山道が多いため道に迷ってしまったり、上級者向けの危険なコースを未経験者が通ってしまうことなどから、栃木県山岳遭難防止対策協議会では「中級者コース」に指定した。

 一帯の数あるコースの中でも、広い駐車場のある森林公園側から出発する2つのコース(北登山道コースと南登山道コース)がお勧めだという。「古賀志山」周辺はレジャー施設として利用されており、「御岳」には切り立った奇岩を利用したロッククライミングのゲレンデとして知られ、「赤岩山」山頂にはパラグライダーの出発場となっている。

 また山麓東南側の森林公園周辺には、日本で唯一、国際自転車競技連合(UCI)よりワールドツアーに次ぐ「プロシリーズ」に認定された、アジア最高位のワンデイロードレースが開催される。大会は3日間、初日には全出場チームが顔をそろえる「チームプレゼンテーション」。2日目は宇都宮市中心部の大通りを周回するハイスピードレース「ジャパンカップクリテリウム」。最終日が、標高差185mの古賀志林道を疾走する「ジャパンカップ・サイクルロードレース」。

 2016年ジャパンカップサイクルロードレース(赤川ダム周辺) 出典:ウキメディア・コモンズ

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 森林公園駐車場に戻る途中、ジュニアクラブと思われる競技用のユニフォームを着た子どもたちが、ロードバイクに乗って森林公園周辺の坂道でタイムトライアルをやっていた。宇都宮は、渡辺貞夫を輩出した「ジャズのまち」、市民のソウルフード「餃子のまち」、そして宇都宮競輪やジャパンカップの「自転車のまち」だ。

2023年8月24日 (木)

白駒の池周辺の山歩き

 2023年8月20日(日)、「白駒の池」周辺(長野県佐久穂町)の山歩き。
 

 上信越自動車道の佐久小諸JCTから、無料区間の中部横断自動車道(長野区間)を車で南下し、終点の八千穂高原ICで降りる。佐久地域と諏訪地域とを結ぶ国道299号(メルヘン街道)を走り、「麦草峠」から少し手前の林の中に「白駒の池」がある。池の入口には、有料駐車場(180台、普通車600円)。バス停、有料トイレ(協力金50円)があり、案内所併設の売店(おみやげ屋)が営業している。

 

 9:10駐車場着。登山装備で「白駒の池」入口の案内所・売店に寄って、9:30出発。

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 「白駒の池」遊歩道の入口。数年前に来た時は、木道は無かった。

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 コメツガ、トウヒやシラビソなど樹木が生い天然林。林床には一面に広がる苔の大群落、神秘の「苔の森」。

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 15分ほどで白駒池分岐。直進は白駒池・高見石方面、右は高見石・丸山方面。左は、白駒池キャンプ場方面。

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 左手の「白駒池キャンプ場」(青苔荘)方面に向かい、池を周遊する木道を歩く。

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 9:50「青苔荘」着、休憩。ここにはキャンプ場(テント場)もある。

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 「青苔荘」の前から「白駒池」を見渡す。写真にはないが、対岸に「白駒荘」が見える。

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 9:55「青苔荘」を出て、再び池を周遊する木道を歩き、10:20「白駒荘」着。

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 白駒池周辺には、セイタカスギゴケ(下の写真)など 485種類もの苔が生息しており、日本蘚苔類学会より「日本の貴重なコケの森」に選定されている。

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 「白駒の森」「カモシカの森」「もののけの森」など名前が付いた 苔の森が10か所あり、それぞれの森で特徴が違っていて、苔の種類も変わっているという。

 11:35「白駒荘」前を出発、池を一周した最初の白駒池分岐に戻り、1時間ばかりかけて「高見石小屋」を目指し、緩やかな登山道を登る。

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 登山道は昨日の雨で、所々でぬかるんでいる。

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 11:45、丸山・麦草峠方面と高見石・中山方面への分岐。

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 11:50「高見石小屋」に到着。

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 「高見石小屋」のすぐ先に、大きな岩が積み重なった小高い岩山の「高見石」。ザックを小屋に預け、ストックを持たず素手で登る。

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 「高見石」の展望台(標高2,225m)から見る「白駒の池」の全貌。遠くは霞んでいる。

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 青空も少し出ているが、遠雷が聞こえ始める。降雨が心配になってくる。

 「丸山」(標高2,330m)へ登り「麦草峠」への下山ルートを中止し、12:25「高見石」を出発。「白駒荘」に向かって大石がゴロゴロした急勾配の登山道を下る。

 昨日の雨で、水たまりやぬかるみ、石の上は滑りやすく、大きな石は段差がきつく、下山は神経も体力も消耗する。

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 13:20、1時間ほどで池を周遊する遊歩道に出る。

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 前に通った「白駒荘」は、分岐からすぐ。

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 しばし休憩、やがてパラパラと小雨が降り出す。レインウエアを着るほどでもないので、13:30傘を差して「白駒荘」前を出発。

 13:45白駒池入口の駐車場着。いつのまにか、雨が止んでいた。
 

 14:05駐車場を出発。もと来たメルヘン街道(国道299号)を北上し、佐久・佐久穂方面へ向かう。途中、Y字路を右へ韮崎・南牧方面(県道480号、八ヶ岳ビューロード)を走る。

 14:30「松原湖」の手前にある「八峰の湯」(ヤッホーのゆ、小海町大字豊里 )に到着。ここは標高約1270mとはいえ、涼しかった2,115mの「白駒湖」に比べれば、夏の暑さを感じる。入館料700円。

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 天然源泉かけ流しの炭酸水素塩泉。ちょっとヌルヌルするが、皮膚をなめらかにする泉質から「美肌の湯」。山の上り・下りでかいた汗を流しサッパリする。露天風呂からは、八ヶ岳連峰を望めるが、あいにく山頂付近は雲隠れ。

 「白駒の池」で雨の場合は早めに切り上げて、この施設に隣接した「小海町高原美術館」(500円)に次に入館する計画もあったが、日曜日で関越道が混みそうなので、省略して早めに帰ることにする。15:25「八峰の湯」を出発。中部横断自動車道(長野区間)の八千穂高原ICから、帰路へ。

 途中、横川SA(上り線)で休憩、夕飯に荻野屋の「峠の釜めし」をテイクアウト。数年前まで1個1,000円だったが、1,300円に値上がりしていた。

 

 ★ ★ ★

 「白駒の池」は、八ヶ岳連峰の長野県佐久穂町と小海町にまたがる北八ヶ岳を構成する山々のうち、「丸山」(標高2,330m)と「白駒峰」(位置、標高不明)に挟まれた標高2,115mに位置する。昔、白駒峰の噴火により大石川(信濃川水系)がせき止められてできた堰止湖で、「池」というが「湖」。八ヶ岳火山湖沼の中では一番大きく、2,000m以上の高地にある湖としては日本最大。周囲長は1,350m、最大深度は8.6m。

 「白駒の池」は、紅葉の名所としても人気の高いスポット。美しい湖面の周辺に赤や黄色の美しい紅葉が彩られ、見ごろは9月下旬から10月下旬 まで。約1.8Kmの遊歩道を徒歩約40分ほどで一周できる。

 往復の途中で通ってきた「八千穂高原」の一角200haに50万本の白樺林があり、近くには28haの「八千穂高原自然園」、「八千穂レイク」がある。八千穂高原の白樺林は「日本一の白樺群生地」。初夏にはヤマツツジ、ミツバツツジ、レンゲツツジ、ドウダンツツジが咲く。

 この日、下界は35℃を越す猛暑。標高2,000m以上の高原は20℃前後で涼しい中のハイキング。下山で濡れた岩道や木道で滑りやすく、だいぶ難儀だったが、何とか無事降りられた。曇り空で、午後から小雨の予報が出ていて、下山時は雷鳴が轟いた。しかし、たいした降雨もなく幸いだった。

 本ブログの関連記事 「八ヶ岳高原の新緑」 2014年6月2日投稿

   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-36fc.html

2023年8月 5日 (土)

富士見高原リゾート花の里

   2023年7月26日(水)、八ヶ岳山麓の富士見高原リゾート花の里(長野県富士見町)から高原周遊の旅。

 

 関東甲信越地方は7月22日が、梅雨明け。13名の日帰りバス旅行。

 8:00、集合場所の最寄り駅前をバスで出発。関越道から圏央道、中央道を走り、長野県富士見町の富士見高原へ向かう。

 小淵沢インターで降りて、10:45バスは「富士見高原リゾート花の里」駐車場に到着。

 「富士見高原リゾート」は、スキー場、ゴルフ場、花の里やハイキング、温泉のあるホテル旅館、合宿所のあるスポーツ&レクリエーション施設 、貸別荘など、オールシーズン楽しめる天空のリゾート 。

 「天空カート」の駐車場。

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 自動運転の「天空カート」(4人乗り)に分乗、標高1420mの「創造の森」までの約25分のドライブ。

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 「天空カート」はハンドルを握る必要はない。スタートボタンを押すだけで走り出し、道路に埋められた電磁誘導線をセンサーが感知しながら進む。カーブも自分で回り、指定場所で自動的に停止する。1人1,000円、「白樺エリア」入場券と合わせて1,400円。

 「創造の森」の「望郷の丘」展望台

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 展望台からの大パノラマを満喫。左手(南東)に富士山は霞んでいる。毛無山と櫛形山が見える。

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  南の方角。あいにく鳳凰三山、北岳、甲斐駒ヶ岳、鋸岳 は、雲隠れ。雨乞岳が顔を出す。

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 南西の方角は、白岩岳。

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 西の方角は、入笠山、御嶽山が見える。北西の方角には遠く乗鞍岳、諏訪盆地とその奥に奥穂高などの北アルプスが続くらしい。

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 岩石に囲まれた 「ロックガーデン」のお花畑。八ヶ岳連峰の西岳(左、標高2398m)と編笠山(右、2524m)を背景に、色とりどりの花が咲き誇る。

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 再びカートに乗って下山、アジサイや高原キスゲなと色とりどりの夏の花が群生する「白樺エリア」へ。

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 12:55、花の里を後にして清里高原(山梨県北杜市)に移動。

 13:35頃~「釜めしまこと」(北杜市高根町清里)で遅い昼食。

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 客のテーブルで蓋をしないで炊き上げる釜飯。約20分くらい待つと食べられる。一番安い「五目釜飯」、味噌汁お新香が付いて1,080円。

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 午後は長野県南牧村の直売所に立ち寄って新鮮な桃の買い物の後、北八ヶ岳の東麓に広がる佐久穂町の八千穂高原へ。

 16:00から白樺群生地で20分ほど散策。

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 帰りは、八千穂高原インターから、中部横断道、上信越道、関越道を経て、18:20に出発地に帰着した。

 この日の下界は、最高気温40℃に近い猛暑日。陽ざしは強いものの、30℃以下の涼しい八ヶ岳山麓周遊のバス旅を楽しんだ。

2023年7月 9日 (日)

再び妻沼聖天山

 2023年6月15日(木)、「妻沼聖天山」(埼玉県熊谷市)に行き、10年ぶりに本殿彫刻を観覧する。

 

 妻沼聖天山の本殿「歓喜院聖天堂」 は、「日光東照宮」のような装飾建築で「埼玉日光」と称され、国宝に指定されている。ボランティアガイドの案内で、境内をめぐる。

 

 「聖天山」は「平家物語」、「源平盛衰記」や謡曲「実盛」、歌舞伎「実盛物語」などに、武勇に優れた義理人情に厚い人柄が称えられている斎藤別当実盛が、当地・長井庄(熊谷市妻沼)を本拠とした庄司(荘官、荘園の管理人)として、本尊・聖天様を1179年(治承3年)に祀る「聖天宮」を建立したのが始まりとされる。源頼朝が参拝したほか、中世には忍(おし)城主の庇護を受け、近世初頭には徳川家康によって再興されたが、1670年(寛文10年)の妻沼の大火で焼失した。

 「歓喜院聖天堂」 は、1735年(享保20年)から1760年(宝暦10年)にわたり、20数年をかけて再建された。設計・総棟梁の妻沼の名工・林兵庫正清のもと、その子の正信の代まで、東照宮の修復の参加経験を持つ彫刻師らの優れた技術がつぎ込まれた。彩色は狩野派の絵師によるものだという。建造物の各壁面は華麗な色彩の彫刻で装飾されており、装飾建築成熟期である江戸後期の代表例で、「日光東照宮をしのぐ」ともいわれている。

 2003年(平成15年)から2011年(平成23年)までの修復工事により、当初の極彩色の彫刻が蘇り、2012年(平成24年)国宝に指定された。多くの国宝建築が、権力側によって造られたのに対し、庶民の浄財によって造られたことは、極めて希な事と評価されたという。

●境内にある「斎藤実盛の像」

 右手に筆、左手に鏡を持っているのは、実盛が老兵と悟られないように髪を墨で黒く染めて出陣したという史実にもとづいているという。

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●妻沼聖天山の境内にある「千代桝(ちよます)」

 明治期創業の老舗料亭。『蒲団』、『田舎教師』で有名な田山花袋による小説『残雪』の舞台となった店だそうだ。

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●「貴惣門」(国指定重要文化財)

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 参道の1番目の門。3つの屋根の破風よりなっている。この様式は日本には4棟しか現存しない。規模の大きさでは全国に例がないという。

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 「貴惣門」の精緻に施された立派な彫刻。

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●「仁王門」(国登録有形文化財)

 1658年(万治元年)創立と伝えられる。明治24年台風によって倒壊、明治27年に再建。

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●本殿「歓喜院聖天堂」(国宝)

 本殿は、「奥殿」・「中殿」・「拝殿」よりなる権現造り。

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●拝殿・唐破風下の「琴棋書画」【写真をクリックすると博大表示】

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 「琴棋書画」は、左から「絵を見る子ども」「碁を打つ人々」「琴を弾く男」「読み書きする子ども」の順で配されており、 中国古来の文人の必須の教養や風流事の四芸のこと。日本では室町時代以降、屏風絵や工芸品の図柄などのモチーフとして多く見ることができるという。

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 上の写真の龍の彫刻の左右には、下のような虎とユー モラスな邪鬼がいる。

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 拝観料1人700円を払って、透塀(すかしべい、玉垣)に中に入場。拝殿、中殿、奥殿の外観を参観する。

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●「中殿」金箔貼りの豪華な花頭窓

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 「拝殿」は地味で装飾は少ないが、「中殿」は「奥殿」をつなげ、彫刻・彩色が次第に増え始め、観る人を徐々に高揚させるといった権現造りの特性がよく表現されているという。「奥殿」に接する位置にある花頭窓(かとうまど)は、肉彫彫刻の双龍が互いに尾を絡め、頭を下にして水を吐く迫力溢れる構図。背板の地紋彫りが黒漆仕上げのため、双龍の金箔を浮き上がらせている。

 花頭窓の上部、軒下小壁には、写真では見えないが、狩野派の絵師による牡丹と獅子など絵画が描かれている。

●「鷲に猿」の肉彫り彫刻(奥殿南側)

 「奥殿」の極彩色の豪華な彫刻は、中央部の大羽目彫刻を中心に、軒下・屋根下の上下にも展開されている。

 右側は、激流に落ちた猿を鷲が助けている場面が描かれている。猿は人間の煩悩を表し、鷲は神様に例えられるため、「歓喜天」の慈悲深さを表現しているとされる。左甚五郎作との説もあるが、実際は石原吟八と関口文治郎の両棟梁である。

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●「福禄寿と長寿」(奥殿南側)

 七福神の福禄寿のほか、鶴、亀、竹、梅もがあるが、松が描かれていない。松は木材としても一切使われていないそうだ。これに関しては、妻沼の聖天様に「待つのが嫌い」になった理由があり、その際「松」も嫌いになったというエピソードが伝えられている。

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●「布袋・恵比寿・碁打ち大黒」(奥殿西側)

 中央の彫刻は七福神が酒を飲みながら囲碁に興じており、左の布袋が恵比寿の一手を見守り、傍らで大黒天が観戦している。神様たちがのんびり遊びに興じられる程、平和である世の中を象徴しているそうだ。修復で、棋譜も見事に描き直された。

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 その右の大羽目彫刻では、大黒天の俵で遊ぶ子供たち。

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 左の大羽目彫刻では、布袋の袋で遊ぶ子どもたちが描かれている。

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●「毘沙門天・吉祥天・弁財天の双六」(奥殿北側)

 こちらも神様が遊びに興じている彫刻。左の吉祥天と右の弁財天が双六(すごろく)に興じており、毘沙門天が見つめている。

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 右手にいる赤鬼は、右隣の大羽目彫刻(次の写真)に立つ2人の女性を見て手招きしている。

 琵琶を持つ西王母と仙桃を持つ侍女。西王母は、中国で古くから信仰された女仙、女神。

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●「唐子遊び」:南西北の三面の縁下腰羽目彫刻にある9枚の彫刻。

 いきいきした子供たちが遊ぶ姿により、平和な世が表現されている。見物者の腰の高さに嵌め込まれた彫刻で、子どもでも間近で見やすい位置にある。

・「竹馬遊三人と桜、蘇鉄」(南側右):江戸時代の竹馬は、竹の先端に馬の頭部を付けて、馬に乗る真似をした。

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・「小間取遊び七人と梅」(南側中央):小間取遊びは、日本の手つなぎ遊びの元祖。親は鬼から守り、鬼は子を触るか、列が切れると勝ち。

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・「鶏持三人と牡丹、竹」(南側左):闘鶏のようだ。

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・「凧揚げとツツジ、アヤメ」(西側右):凧の糸も彫刻されている。

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・「魚獲六人と桃」(西側中央):全員が川でフルチンになっいる。

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・「盆踊りと蔦」(西側左)

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・「獅子舞五人と芙蓉」(北側右):右から2番目の子どもは、アカンベをしている。

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・「雪転がしと梅竹」(北側中央)

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・「子ども相撲と椿」(北側左)

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●「高欄を支える猿」

 奥殿周囲の高欄の下に、まるで高欄を支えているような感じに施されている猿はユーモラス。建物を支える斗供(ときょう)に乗る形で、周囲に13頭が巡らされており可愛らしいと人気がある。

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●「瑞雲に鳳凰」(奥殿北側の「鷲と滝」の上):奥殿南側の「鷲に猿」(前掲)とその上にある「瑞雲に鳳凰」(写真なし)と対をなしている。

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 聖天堂の彫刻は、上州花輪村(現在の群馬県みどり市)の彫刻師であった石原吟八郎を中心に制作された。吟八郎は、日光東照宮の修復に参加したほか、北関東を中心とした多くの社寺建築に彫刻を残している。装飾性を含んだ彫刻技術を高めた吟八郎やその弟子たちによって、数多くの聖天堂の彫刻が作られていったという。
 
 その中で、精緻を極めた彫刻の最たる例が、奥殿の外部における南側と北側に施された一対の「鳳凰」。この彫刻は吟八郎の次の世代である名工二人によって彫られたもので、南側を小沢常信が、北側を後藤正綱が手掛けたとされる。

●唐破風下の瓶の彫刻(奥殿南西北側の上部)

・「三聖吸酸(さんせいきゅうさん)」(奥殿南側の上部) 出典:ウキメディア・コモンズ

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 三人の聖人(孔子、釈迦、老子)が酢をなめて、その酸っぱさを共感している様子を表現したもの。中国の故事に由来している。酢が酸っぱいという事実は皆同じであり、儒教、仏教、道教など、宗教や思想が異なっても、真理は一つであるという「三教一致」を意味する。

・「司馬温公の瓶割り」(奥殿西側の上部) 出典:ウキメディア・コモンズ

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 司馬温公が子ども頃、大きくてとても高価な水瓶のあたりで友達と遊んでいたところ、友達の一人がその水瓶の中に落ちておぼれそうになった。温公は、父親からしかられるのを覚悟して石で瓶を割り、友達の命を救った。それを聞いた父親は、温公を褒め称え、命はどのような高価なものよりも尊いものだということを教えた。

・猩猩酒遊図(奥殿北側の上部)

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 親孝行な男が、揚子江のほとりで酒を用意して待っていると、猩猩(しょうじょう、オラウータンに似た海に棲む想像上の動物)が現れ、酒を飲み、踊りを舞って、飲めども飲めども、尽きることのない酒壺を与えて帰ったという縁起の良い話。

 

 本ブログの「妻沼聖天山」の関連記事

 「秩父・熊谷のアジサイ名所」  2019年06月26日投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2019/06/post-5514ab.html
 

 「妻沼聖天山」 2012年12月13日投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-8470.htm
 

 ★ ★ ★

●大聖歓喜天(だいしょうかんぎてん)

 「聖天」(仏教では、しょうでんと読む)は、正しくは「大聖歓喜天」。または「歓喜天」ともいって、象頭人身の仏法守護神で、四天王、帝釈天、吉祥天、弁財天、鬼子母神、大黒天などと同様の天部の一つ。男天・女天2体の立像が向き合って抱擁(結合)しているものが通例だという。「秘仏」として扱われており、一般に公開されることは少ないという。

 「妻沼聖天山」の本尊は、国指定重要文化財。1197年(建久8年)の作で、「秘仏」。錫杖の頭で、中心に歓喜天と二童子の像を表す。小さくて良く見えないが、拡大して見ると右図の「双身歓喜天」(高野山真別所円通寺本『図像抄』)のように、象頭人身の男天と女天が抱き合っているように見える。なお錫杖(しゃくじょう)とは、遊僧が携帯する杖。歩くとシャクシャク(錫々)という音が出る。

 妻沼聖天山の本尊「銅錫杖頭」と「双身歓喜天」の図 出典は、ウィキメディア・コモンズ

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 「妻沼聖天山」は、「日本三大聖天さま」の一つとして知られ、特に縁結び、夫婦の縁、家内安全・商売繁盛・厄除け開運・交通安全・学業進学などのあらゆる良縁を結ぶそうだ。

●庶民の浄財で再建

 「日光東照宮」では、荘厳な彫刻で飾られているが、本殿「聖天堂」の彫刻には特徴がある。つまり、龍などの威厳ある大きな彫刻ではなく、親しみやすい中国故事や七福神、唐子などモチーフにした彫刻は、聖天堂と庶民とのつながりの深さを示す。この社殿の再建には庶民たちの手で行われた。幕府・大名・豪商といった富裕層の手を借りずに、各地を回って金を募り、職人を集め、長い年月をかけて少しずつ造営されていったという。

 七福神が囲碁をしたり、子どもたちが凧揚げをしたり、相撲を取ったりと、登場人物が嬉々として遊戯に興じる場面が多く、盆と正月が一緒に来た様な賑やかさが感じられるという。こういった庶民階層の活力は、村の「お祭り」に似ていて、この「歓喜院聖天堂」が信仰だけでなく、近世庶民の娯楽施設やテーマパークとして機能していたのだろう。

●聖天様の「松」嫌い

 妻沼の聖天様は「松」(待つ)嫌いで知られている。その昔、聖天様は松の葉で目をつつかれたとか、松葉の燻(いぶし)にあったという理由で、とても毛嫌いしている。ゆえに、妻沼の人たちは松を忌(い)んでいるという。正月に門松を立てることはないし、松の木を植えない家もある。また、「松」の名のある人と結婚するとき、わざわざ改名するという。聖天様は、「待つことなく」願いをかなえてくださるそうだ。

 聖天様の「松」嫌いの理由の一つに、太田市「大光院」の呑龍(どんりゅう)様との喧嘩が伝えられている。すなわち、呑龍様との喧嘩中に、聖天様は松葉で目をつつかれたという。よって呑龍様を詣でたあとに聖天様へ行っても、ご利益はないと信じられている。「松が嫌い」という事が、この建物を建てられた江戸中期には確定していて、建築材に松の木や絵画彫刻のモチーフに松は使われていないというのは、おもしろい。

2023年6月24日 (土)

佐野厄除大師

 2023年6月11日(日)、雨の降る中を「唐沢城趾」に行った後、午後、栃木県佐野市の「佐野厄除大師」などを巡る。

 本ブログ記事「唐沢山城趾」の続き。
  
  
●佐野市観光物産会館 佐野市金井町 12:30~
 12:30、「観光物産会館」駐車場に車を駐める。「佐野厄除大師」の入口正面にある佐野市最大級の品揃えを誇る物産館。お土産用佐野らーめん、そば、耳うどん、お菓子、地酒、天明鋳物・桐製品などの伝統工芸品、厄よけ土産、さのまるグッズ、地元で採れた新鮮野菜など。
  
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●佐野らーめん 12:50~
 「観光物産会館」や「佐野厄除大師」の周辺にらーめん店が密集している。テーブル席と座敷あわせて50席の「大師庵」(物産館の左隣)に入店。「佐野厄除らーめん」(1,050円)を注文した。一度、東北自動車道の佐野サービスエリアで「佐野らーめん」を食べたことがあったが、その味をすっかり忘れていた。あっさりとした醤油味で、美味しい。
 
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 大師庵の「佐野厄除らーめん」 出典: 佐野らーめん会 公式ホームページ 
 
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 中国の料理人が「青竹打ち」を伝授したのが「佐野らーめん」のルーツといわれている。市内には100年以上の歴史を持つ老舗をはじめ、150店舗以上のらーめん店がそれぞれの味を競っているという。醤油ベースの澄んだスープにコシのあるちぢれ麺を提供している店が多い。太さは中太から細麺、平打ちなど、店によって異なるという
 
 「青竹打ち」が特徴ではあるが、竹打ちを再現出来る製麺機も登場しており、必ずしも全ての佐野らーめん店が手打ちの「竹打ち」というわけではない。飽きの来ないさっぱりとした味が特徴。トッピングで異なるが、650円~1,000円前後。佐野名物イモフライ(130円)も出す店もある。
 
  
●佐野厄除大師 佐野市金井上町 13:10~
 
 「観光物産会館」の道路を挟んだ対面に、「厄除大師」の入口(山門)がある。

 「惣宗寺」(そうしゅうじ) は、天台宗寺院で、山号は「春日岡山」。一般には「佐野厄除大師」の通称で知られる。藤原秀郷が944年に奈良の僧・宥尊(ゆうそん)上人を招いて開いたという。厄除元三慈恵大師を安置し、厄除け、方位除け祈願。正月になると大祭を開催し、厄除けをはじめ、身体安全や心願成就などのご利益があるという。
 
 青柳大師(前橋市・龍蔵寺)、川越大師(川越市・喜多院)と共に「関東の三大師」の一つに数えられることが多く、毎年の年末年始には関東地方を中心にテレビCMが多く放送されるため広く知られており、初詣の参拝客で賑わう。弘法大師を祀った真言宗の「関東厄除三大師」(西新井大師・川崎大師・ 観福寺大師堂)とは全く別だという。
 
 惣宗寺山門(佐野市指定文化財)は、佐野城の移築門といわれている。屋根には金箔の葵のご紋。
 
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 厄除元三慈恵大師一千年御遠忌を記念して建立された「金銅(きんづくり)大梵鐘」は、 人間国宝の鋳金工芸作家・香取正彦氏によって謹製され、日本一大きな金の梵鐘(つりがね)で、 直径 1.15m、重量約2トン。
 
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 金銅は、銅製鋳物(いもの)に金箔ではなく金めっき(純金を水銀で溶かして塗る鍍金(ときん))を施したもので、仏像などはあるが、鐘は始めて見た
 
 「パゴダ供養塔」は、4mの方形基壇に6つの相輪と1つの塔身水煙(すいえん)をつけた 宝珠からなり、高さ8mを有する。三界萬霊有縁無縁の霊、戦争災害死者、事故横難(おうなん)死者、水子霊などを供養する為に造られた塔。製作者は、彫刻家の田村了一氏。パゴダは、ビルマ様式の仏塔。
 
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 「佐野厄除大師」本堂。ここにも屋根に金箔の装飾。
 
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 「惣宗寺」には水子地蔵尊もあり、供養に訪れる人も多いそうだ。
 
 徳川家康の遺骨を久能山から還葬の際、この寺に一泊するなど徳川幕府との縁も深いという。江戸時代には、上野の寛永寺の末寺であったという。その縁で寺側から願い出て、1828年(文政11年)に東照宮本殿(県指定文化財)が、造営されたそうだ。
 
 しかし境内を探したが、そういった建物や説明板は見当たらなかった。後で調べると、現在はちょうど補修工事中(令和2年6月5日~令和10年2月28日)だったようだ。社殿は日光東照宮を模しており、精巧な彫刻に極彩色で彩られているという。
 
 佐野市は、足尾銅山鉱毒事件の田中正造のゆかりの地であり、境内には墓所(分骨の碑)がある。
 
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 墓は、他にも農民たちの希望で渡良瀬川沿岸の5カ所に分骨され、記念碑的な墓が数々あるそうだ。その中で「惣宗寺」にある墓が第一号だという。
 
 「佐野厄除大師」後にして、「佐野観光物産会館」に土産の買い物で再び立ち寄り、駐車場に戻る。
 
 14:00駐車場を出発、隣接する足利市の「栗田美術館」に向かう。
 
  
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 田中正造は、下野国安蘇郡小中村(現・佐野市小中町)の出身。足尾銅山鉱毒事件の被害者でもあり、苦しんでいる渡良瀬川沿岸の農民の救済を政府に訴え、最後は明治天皇に直訴しようとしたことで知られている。衆議院議員選挙に当選6回。
 
 田中正造 出典:ウキメディア・コモンズ
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 正造は、死の直前まで精力的に活動し、河川調査の帰途の1913年(大正2年)8月2日 足利郡吾妻村下羽田(現・佐野市下羽田町)の支援者の一人、庭田清四郎家で倒れた。正造はそのまま1か月間病に臥し、9月4日その庭田家で生涯を閉じた。71歳没。死因は胃ガンなどとされる。財産は全て鉱毒反対運動などに使い果たし、自宅の建物や田畑は既に地元に寄贈していたため、死去したときは無一文だった。庭田家近くの県道沿いに、「田中正造翁終焉の地」碑があるという。

 足尾銅山鉱毒事件で公害闘争の拠点としていた、群馬県邑楽郡渡瀬村早川田(現・館林市下早川田町)にある曹洞宗「雲龍寺」にて9月6日に密葬が行われ、10月12日に「惣宗寺」で本葬が行われた。本葬の参列者は一説に30万人ともいわれる。ちなみに「雲龍寺」は群馬県の飛び地で渡良瀬川の左岸にあり、佐野の「惣宗寺」とは、5Km弱しか離れていない。

 田中の遺骨は、栃木・群馬・埼玉県の鉱毒被害地計6カ所に分骨された。このため、墓は6カ所にある。被害地では現代でも偉人として尊崇されており、「佐野市郷土博物館」が関連資料を保存・展示しているそうだ。

 

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2023年6月23日 (金)

出流原弁天池と唐沢山城趾

 2023年6月11日(日)、雨の降る中を唐沢山城趾のほか、栃木県佐野市と足利市をめぐる。

 

 佐野市は、栃木県の南西部に位置し人口11万人。北は中山間地域、南は市街地と農業地域が広がる。
 
 日本名水百選の「出流原(いずるはら)弁天池」、万葉集にも詠まれ、カタクリの群生する「三毳山(みかもやま)」、平将門の討伐やムカデ退治伝説で有名な藤原秀郷(ひでさと)が築いたとされる「唐沢山城」、一千余年の歴史を持つ「天明鋳物(てんみょういもの)」など、自然・歴史・文化的な財産を有する。また足尾鉱毒事件の田中正造ゆかりの地としても有名。
 
 この日は「出流原弁天池」と「唐沢山城趾」、午後から「佐野らーめん」「佐野厄除け大師」、隣接する足利市の「栗田美術館」を巡る。
 
  
●出流原弁天池 佐野市出流原町 9:15~9:25

 「唐沢山城趾」の観光ガイドは、10時からの予定。その前に「出流原(いずるはら)弁天池」に寄ってみる。9:15、5台分しかない磯山公園駐車場に車を駐める(満車の場合はフィッシングセンターに駐車可)。「出流原弁天池」は、「磯山弁財天」(磯山公園)の麓にある。
 
 周囲138mの「出流原弁天池」(県の天然記念物、日本名水百選)は、樹木に覆われ湧き出す水は日量約2,400t、水温は四季を通して16℃。鯉が泳ぎ、池水は底が見えるほど清澄。一帯は秩父古生層の石灰岩で形成されており鍾乳洞を通る水はカルシウムを含むミネラルウォーター。
 
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 「磯山弁財天」は、「弁天池」から100mほど先、200段の石段を登った岩山の中腹にある。約千年前に唐沢山城主である藤原秀郷の勧進により弘法大師が相州「江ノ島弁天」にて護摩修行時の灰で建立されたと伝えられている。当時は一帯に七宝伽藍が林立して、隆盛を極めていたそうだ。 現在の本殿は鎌倉時代に再建、神社建築でも大変珍しい釘を使わない独特な「懸造り (かけつくり)」で作られている。
 
 弁財天からの見晴らしが良く、佐野平野を一望できるが、雨が降っていることもあり時間の関係で登拝は割愛。
 
 
●唐沢城趾 佐野市富士町 9:45~12:00
 
 「唐沢城趾」は、「続・日本百名城」、「関東七名城」のひとつで、国指定史跡の山城跡。唐沢山山頂に本丸を有し、400年以上前に築かれた貴重な「高石垣」がこの山城の目玉。本丸周辺では関東平野を一望できる眺めと、春は桜やツツジが咲き誇り、秋には紅葉の中の散策を楽しむことができる。
 
 平安時代、藤原秀郷関東に下向し唐沢山に城を築いたのが始まりとされる。戦国時代に秀郷の子孫である佐野氏が居城し、交通要衝の地にあるため、本城をめぐって上杉氏などと何度も戦いがあった。そのため、攻撃に備えるいろいろな工夫が随所に見られる。平らに削平された曲輪(くるわ)。土を盛り上げた土塁。堅牢な「高石垣」、侵入を防ぐ堀など、現在でも「唐澤山神社」本殿がある本丸を中心にその城跡が広がる。
 山内案内図 出典:唐澤山神社ホームページ 【画像をクリックすると拡大表示】

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 「出流原弁天池」から車で15分ほど、9:45「唐沢山レストハウス」駐車場に車を駐める。予約していた佐野市観光ガイドと合流。ガイドの案内で、城内を巡る。
 
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 「くい違い虎口(こぐち)」は、北の「避来矢(ひらいし)山」、南の「天狗岩」の間にある防備を固めた出入口。土塁をくい違いにして直線的に進入できないようにするなどの工夫がされている。当時は土塁だったのか、現在は石垣で作られている。東側は、「升形」になっている。
 
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 「くい違い虎口」の突き当たりに「天狗岩」がある。険しい岩山で、山頂から南方や東方への視界は良好。眺望の良さを活かし、周囲を見張る役割を果たしたものと考えら、かつては物見櫓があったとも、大筒が掛けられていたともされる。樹木に覆われ、雨に煙っていて全貌はよく見えなかった。
 
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 武者詰めがあったとされる「枡形」、この先にも城内への出入口である「虎口」がある。

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 「枡形」を過ぎたところにある「大炊(おおい)の井」。「避来矢山」と「西城」の間にある口径9m、深さ8m以上の大きな井戸。山城における水の確保は重要だが、現在まで涸れることなく豊かな水を蓄えているという。
 
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 「四つ目堀」は、この先の東側への進路を分断する大きな堀切。現在「唐沢山神社」の「神橋」が架かっているが、かつては曳橋(ひきばし)であったとされている。曳橋は、いざという時に橋を引き払い、通行を遮断することができた。この先は、神社の参道として舗装され、石段が設けられている。
 
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 当時の「大手の道」筋が残されている。「くい違い虎口」から続く神社へ向かう手前(西側)で、「二の丸」「本丸」方面に折れて狭い坂道を上るルート。現在の神社の舗装された参道の方を進む。
 
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 「唐沢山神社」(昔の本丸)に向かう参道の石段。
 
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 神社への石段を登らず左に折れて「二の丸」向かう。途中、「本丸」南西の石垣は高さ8m、約40m延びる「高石垣」。小田原合戦以降、佐野氏が豊臣秀吉と深い関係にあったため、西日本を中心とする技術の導入によって築かれたものとされる。関東では極めて珍しい貴重なもの。
 
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 「二の丸」の周囲には石塁のような石垣が巡る。「本丸」の「奥御殿」直番の詰所があったとされている。現在「本丸」への通路は直線的にアプローチしているが、かつて鉤(かぎ)形に折れていたそうだ。
 
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 「本丸」に向かう階段。鳥居のあたりに門があった4本柱の礎石が残っている。
 
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 「本丸」にある藤原秀郷を祀った「唐沢山神社」。かつてはここに「奥御殿」があった。
 
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 「本丸」(神社)から南側へ、参道の石段を降りる
 
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 今は社務所となっている蔵屋敷、武者詰めがあった「南城」跡からの見晴らし。天気が良ければ、東京スカイツリーや富士山を望むことができる。左手の山は、万葉集にも詠まれた「三毳山(みかもやま)」。
 
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 「南城」跡には、万葉集の東歌が刻んである古びた木柱が立っていた。
 
 「下毛野(の)美可母(みかも)の山の小楢(こなら)のす ま麗(ぐは)し兒(こ)ろは 誰(た)が笥(け)か持たむ」

 栃木市と佐野市の市境にある三毳山(みかもやま)を詠み、「コナラの葉のようにみずみずしく、麗しい乙女は誰の食器を持つのだろう」との意味で、食器を持つとは妻になることを意味する。
 

 「南城」の周囲は石垣が巡るが、ガイドの説明では特に南東側の石垣は、見応えがあるという。石垣の角(すみ)の部分に使われる「算木積み」の技法は、石垣が崩れないように強度をアップさせている。 

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 「南城」から東へ、曲輪(くるわ)の一つ「長門丸」に向かう途中の「車井戸」。深さ25mとも言われ、「本丸」のすぐ下にあるため、城内の重要な水源であった。「車」とは、つるべの滑車のことか。
 
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 周囲を土塁が巡る「長門丸」。城で使用する薬草などを作っていたことから「お花畑」とも呼ばれた。現在は弓道の練習場になっている。更に東側の「金の丸」との間には堀切があった。この先に東側にも曲輪が続く。
 
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 「杉曲輪(すぎくるわ)」から見る曲輪の「金の丸」(「平城」ともいう)。お宝蔵があった「金の丸」は土塁も残り、ロッジとして利用されている。「杉曲輪」は御仏殿があったとされ、西側の「金の丸」と東側の曲輪「北城」(北の丸)との間はそれぞれ大きな堀切があった。
 
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 「杉曲輪」には「唐沢山青年自然の家」があったそうだが、2007年(平成19年)3月に閉館し更地になっている。
 
 この先の「北城」の間の堀切は深い。階段を下り登り切った「北城」には、キャンプファイヤーの施設が残されていた。
 
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 「北城」から北側に下り、「杉曲輪」「金の丸」「長門丸」の下の細い道を西に向かい、「本丸」の北側の「武者詰」を抜けると「三の丸」。
 
 現在は、「帯由輪」(おびくるわ)と「二の丸」の間を「三の丸」としている。本城では大きな曲輪で、かつては賓客の応接間があったとされる。周囲は高く急な切岸が巡るが、部分的な石垣等が複数箇所で認められるという。
 
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 「三の丸」から「神橋」を見下ろす。今は土砂で埋まっているが、深い「四つめ堀」がはっきりわかる。
 
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 坂道を下って、「神橋」から出発地の駐車場に戻る。12:00、ガイド終了。「唐沢城趾」を後にして、佐野市街地の「佐野厄除け大師」へ向かう。
 
 これ以降は、本ブログ記事「佐野厄除け大師と栗田美術館」に続く。
 
 
 ★ ★ ★
 
●唐沢城趾
 
 「唐沢山城」は、平安時代の927年、藤原秀郷が従五位下・下野国の押領使(警察・軍事的な官職)を叙任、関東に下向し唐沢山に城を築いたのが始まりと伝えられる。940年、平将門による「平将門の乱」が起こったが、秀郷らの活躍で乱を鎮圧。この功績により秀郷は従四位、武蔵・下野両国鎮守府将軍を拝領した。
 
 戦国時代に秀郷の子孫である佐野氏が居城し、交通要衝の地にあるため、本城をめぐって上杉謙信らと何度も戦いがあった。関ヶ原の戦いでは徳川方に付き3万5千石の旧領を安堵され、「佐野藩」が成立。1602年(慶長7)麓に「佐野城」が築かれ、平安時代より続いた「唐沢山城」はその歴史に幕を閉じた。
 
 廃城に至った説として、江戸に火災があったとき、山上にある唐沢山城よりこれを発見し早馬で江戸に駆け参じたが、江戸を見下ろせる所に城を構えるは何たることかと家康の不興を買ったという言い伝えがある。実際は、平和な時代になって、山よりも平地の方が藩の政治・経済、生活に便利だったからだろう。

 1883年(明治16年)、有志により本丸跡に「唐沢山神社」を建立。1965年(昭和30)「栃木県立自然公園」開設。1963年(昭和38年)「栃木県唐沢青年自然の家」が開所。2014年(平成26)、城跡が「国の史跡」に指定された。

2023年6月 2日 (金)

桐生のまち並み(重伝建)

 2023年5月7日(日) 雨の中、桐生新町のまち並み(重要伝統的建造物群保存地区、群馬県桐生市)を歩く。
 
 桐生市は、群馬県南東部に位置し、太田市、館林市とともに東毛地方の拠点都市であり、東毛北部の中心都市。古くから絹織物を産する機業(きぎょう)都市で、桐生織は京都・西陣の西陣織と並び称された。市内に多くの産業遺産があり、桐生織物会館旧館を含む6件の「日本遺産」や、130件以上の「国登録有形文化財」が残されている。桐生新町は、関東地方で5番目、県内で2番目に選定された国の「重要伝統的建造物群保存地区」(重伝建地区)。
 
 9:35、桐生市観光バス駐車場に到着。9:55、徒歩で「有鄰館」(ゆうりんかん)着。
 
 10:00、「有鄰館」の敷地奥にあるビール蔵跡の「からくり人形芝居」の芝居小屋に入場(無料)。
 
●からくり人形芝居 10:00~
 
 ボランティア団体「桐生からくり人形芝居保存会」の方から、からくり人形芝居の歴史や関連資料の説明を聞く。
 
 桐生からくり人形芝居は江戸初期、1662年(寛文2年)に始まった竹田出雲のからくり芝居の系譜をひく。1894年(明治27年)「天満宮」御開帳に江戸浅草奥山の竹田縫之助の「活き人形からくり人形芝居」が興行された。東京では無くなりつつある江戸風情の名残りを受け入れたのが桐生だったという。
 
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 各町会が1961年(昭和36年)までに6回、「天満宮」の御開帳時に上演していた「からくり人形芝居」を、1999年(平成11年)に復元・復活させて、現在「桐生からくり人形芝居保存会」が上演している。機織り機の技を活かした「からくり人形芝居」が毎月第1、3土曜日、1日5回(午前10時~午後4時)に上演。「曽我兄弟夜討」「助六由縁江戸桜」「羽衣」「巌流島」「八百屋お七」「巌流島」など季節によって演題が変わる。
 
 10:15~歌舞伎十八番の一つ「助六由縁(ゆかり)江戸櫻」の上演(事前予約済み)。
 
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 芝居観覧後、舞台裏の手作り「からくり」を見学。
 
 10:40、予約してあった観光ガイド「織都(しょくと)桐生」案内人の会と合流。基本ガイド料2時間2,000円。
  
●有隣館 市指定の重要文化財 10:40~
 
 「有鄰館」は、桐生新町の重伝建区内である本町二丁目の南端にある。江戸時代に桐生に定着した近江商人・矢野家が営んでいた醸造業の11棟の蔵群。江戸時代から昭和時代にかけて、酒・味噌・醤油をなどを醸造し、保管するために使用されていた。
 
 蔵群は、1994年(平成6年)矢野商店から桐生市に寄付され、その後改修整備が行われ、1997年(平成9)年4月より、舞台や展示、演劇、コンサートなど多目的イベントスペースとして活用されている。周辺に残る歴史的建造物や近代化遺産などと一体となった町並み保存の拠点にもなっている。なお、「有鄰」とは、孔子の「徳孤ならず必ず鄰あり」という故事から引用した言葉。
  
 本町通りから見る「有鄰館」の煉瓦蔵は、市内最大。
  
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 「矢野商店」の店舗と店蔵は、「有鄰館」の敷地で本町通りに面する。
 
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●花のにしはら (旧書上商店)
 
 明治・大正期の書上(かきあげ)文左衛門の店舗「旧書上商店」は桐生で最大の織物買継商。この一帯に店舗や蔵、居宅が連なっており、その離れには作家・坂口安吾(1906年-1955年)が晩年を過ごした。
 
 花のにしはら 出典:Googleマップ
 
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 「旧書上商店」は、3代文左衛門の時、買継商として店を構え発展。11代文左衛門の時(明治期)、横浜へ支店をつくり織物輸出業を開始、さらに上海へも出店。当時「関東織物買継王」とも称された。12 代文左衛門の時、店員は 100 人を超え、繁盛をなし、戦後まで営業を続けた。旧店舗は、現在花屋さんになっている。
  
●旧曽我織物工場 国登録有形文化財
  
 1922年(大正11年)建築、栃木県で産出した大谷石造りのノコギリ屋根工場。出典:文化遺産オンライン(文化庁)
 
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 内部は木造、屋根には排気塔が立ち、通風用の丸窓飾りが特徴。屋根の北西方向に採光面を設けることで、一日中一定の明るさが得られることから、織物の生地を点検するのに適していた。工場は貸倉庫として活用されていたが、現在は使われなくなり活用を検討中。
 
● 平田家住宅 国登録有形文化財
 
 1914年(大正3年)、袖蔵は1900年(明治33年)建築。江戸時代、現在地で雑貨商を始めたが、その後染料、生糸などを扱うようになった。戦時中商品の仕入れが困難になり廃業した。この地域にはめずらしい漆喰仕上げの壁に重厚な扉の蔵作り店舗。
 
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●中村弥一商店 国登録有形文化財
 
 本町通りの東側で、幅約12m、奥行き約82mの敷地に、北寄りに建つ。雑貨店の店舗で、建設当時の店構えを良く残し、織物産業の興隆を伝え貴重。1957年(昭和32年)からは塗装店になった。
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 1922年(大正11年)建築の店舗は、北風による火災の延焼を防ぐ北側の外壁、灰墨を混ぜた鼠漆喰仕上。そのほか文庫蔵、新座敷、奥座敷が直列し、南辺に浴場、石蔵が建ち並ぶ。この短冊状の屋敷地は、桐生新町の町立て当時の規模をそのまま伝えている。
 
●森合資会社 国登録有形文化財
 大正3年建築、屋根は銅板葺きで、外壁には珍しい白磁タイルを使用した洋風の事務所。隣には、白漆喰の土蔵造2階建ての店蔵。会社は、桐生の発展に大きく貢献した。

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●一の湯
 
 ノスタルジックな銭湯で、明治時代に隣接する織物工場で働く女性労働者が利用する浴場として建築された。1912年(大正元)年には公衆浴場として営業していたが、後継者難で2018年末に廃業した。4月15日、約4年半ぶりに復活した。
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●桐生天満宮 県指定の重要文化財 11:35~
 
 本町通りの突き当たりが「桐生天満宮」。本町通りを振り返ると、広い道幅の古い町並み。
 
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 「桐生天満宮」は、桐生のメインストリート「本町通り」の起点として、「桐生新町」の町立て以来桐生を見守ってきた。

 神門(桐生門)と水舎 以下、からくり水車、拝殿、神楽殿、本殿。

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 水車の横に説明板がある。

「この水車は高須孝重氏により寄贈されたもので、桐生からくり人形保存会の有志の方々の協力で完成しました。水車動力での使用目的で作られたもので、宮本武蔵のからくり人形芝居の舞台を設置して上演する予定です。平成十二年十二月 桐生天満宮」
 
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 「桐生天満宮」は1591年(天正19年)、桐生新町創設にあたり下久方村梅原(現在の桐生市梅田町1丁目)より現在地に遷座されたと伝えられる。社殿は江戸時代に多い権現造り、本殿と幣殿の外壁には美しい彩の彫刻が施されている。この彫刻は、黒保根村(現在の桐生市黒保根町)出身で、「上州の左甚五郎」と呼ばれた彫物師・ 関口文次郎の作。完成までに15年を要したという。
 
 本殿後方の「末社春日社本殿」は一間社流造、銅板葺きで彫刻の特徴から室町時代後期のものと推定。市内最古の建物で市指定重要文化財。
 
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●群馬大学理工学部同窓記念会館 国登録有形文化財 11:55~
  
 休館だったので、大学構外の歩道橋の上から、外観を見学。
  
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 この建物は、当初「桐生高等染織学校」として創設されたもの。その後、1949年(昭和24年)、学制改革により「群馬大学工学部」(2013年(平成25年)「理工学部」)になった。1972年(昭和47年)、校舎新築に伴い、講堂及び正面玄関の一部を敷地中央より現在地に移築、同窓記念会館として活用されている。
  
 木造2階建て瓦葺き、デザインは中世西ヨーロッパの教会堂に用いられたゴシック式、2階吹き抜けの大空間を支える為、「ハンマービーム」と呼ばれる独特の屋根構造になっている。土台はレンガ積み、外壁は下見板張りのペイント塗り。
 
 守衛所と同窓記念会館の建物 出典:同窓会館パンフレット
 
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●工房「風花」 12:05~
 
 「ベーカリーカフェレンガ」に付設の絹遊塾・工房「風花(かざはな)」に入室。工房「風花」は、絹の糸製造から染め、織りまで行う工房。主に初心者向け織り教室、この工房から生まれたシルク製品(マスク・ストール・ウォーマー・靴下等)の販売している。
 
 繭から糸を紡ぐ実演。
 
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 国内での使用されなくなった「ガラ紡機」の実演を見学。「ガラ紡機」は、綿の塊から直接糸を紡ぐ独特のしくみを持つ紡績機。操作中に機械が「ガラガラ」と音を出すことから、「ガラ紡」と呼ばれ、手回しから水車で回すガラ紡績が始まった。
 
●ベーカリーカフェレンガ(旧金谷レース工業) 国登録有形文化財 12:35~
 
 1920(大正9年)に建てられた桐生で唯一のレンガ造りのノコギリ屋根工場。煉瓦は深谷市の日本煉瓦製で、イギリス積み。隣接する事務所棟は、1931年(昭和6年)建築。木造2階建てスクラッチタイル貼り、窓や細部に昭和初期の洋風建築の特徴が見られる。建物2つを比較してみると大正・昭和各時代の流行の違いがよくわかるという。
 
 レンガ工場内部は改装され、2008年(平成20年)4月からパン工場&カフェとして活用、焼きたてパンが評判だそうだ。ノコギリ屋根工場に入場し、内部を見学。
 
 ベーカリーカフェレンガの工場(右)と事務棟(左)。「四辻の齋嘉」から撮影。
 
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●四辻の齋嘉 12:40~
 
 「桐生天満宮」界隈の十字路に風情のある木造建築。明治から大正時代築の斎藤家(旧斎藤織物)の旧宅を再生した。4つの町に面した十字路に建つ事から、斎藤織物の創業者、斎藤嘉吉に因んで以前から「四辻の斎嘉」と呼ばれていたという。1923年(大正12)年建築の母屋は、千本格子の京町屋の風格を備える。
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 NPO法人として立ち上がり、桐生市の産業観光の町ガイドとして誕生した株式会社「桐生再生」が買い取り、補修工事を施し観光拠点として生まれ変わった。低速電動コミニュティバス「MAYU」の実証実験にも参加し、その発着基地にもなっている。この古民家と明治時代の蔵をレンタルスペースとして貸し出している。また土日のランチ限定の食事処としても営業。
 
 群馬の郷土料理「おっきりこみうどん」(稲荷寿司とのセット)をこの古民家の落ち着いた和室で食べられる。「おっきりこみうどん」は、幅広のうどんを野菜と一緒に煮込み麺料理「おきりこみ」「煮ぼうとう」と呼ばれることもあり、山梨の「ほうとう」に似ている。一方で、特に桐生市辺りで食べられている 「ひもかわうどん」は、幅の広い平打ち麺。「おっきりこみ」のうどんには塩は使われていないが、「ひもかわ」には塩が使われているそうだ。
 
 蔵と母屋はつながっていて、外に出ないでも蔵の中に入ることができます。開けっぱなしの重厚な扉の厚みで、蔵だとわかる。
 
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 2階建ての蔵の1階部分は、洋室に改装してある。
 
 12:55、ガイド終了。12:55~「四辻の斎嘉」の庭の東屋で、持参した弁当で昼食。
 
●桐生歴史文化資料館 13:40~
 
 「桐生歴史文化資料館」は、桐生市民の歴史と文化についての知識普及・教養の向上と、重伝建地区を訪れる人へのサービス拠点。
 
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 桐生織物の歴史資料として、展示の中心に「生人形白瀧姫」像と日本織物会社に関わる資料を据えていて、その他に桐生の歴史・文化に関わる資料が展示されている。以下2枚の写真は、「桐生歴史文化資料館」のパンフより転載。
 
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 「生人形白瀧姫」について、「桐生歴史文化資料館」のパンフより以下に転載する。
 明治26(1893)年、初代安本亀八によって制作された生人形を日本織物会社が買い取ったと考えられています、日本織物倒産後は、会社施設などは様々な企業に引き継がれましたが、明治28年に会社構外に落成した織姫神社が改築を経ながら存在を続け、平成元(1989)年改築の際に社殿の中からこの像が発見され、その際に白瀧姫と名付けられました。この生人形については、日本織物に引き取られた際に撮影された写真以外に記録は無く、謎を秘めています。
 13:50、「桐生歴史文化資料館」を出て、14:00桐生市観光バス駐車場を出発。次の目的地の「富弘美術館」へ向かう。
 
 以下、本ブログ記事「富弘美術館」に続く。
 
  
 ★ ★ ★
 
 上州名物の三つの「か」は、「かかあ天下」と「空っ風」と「雷」。「かかあ天下」とは、女が働き者ということ。上州では養蚕が盛んであった。この仕事は女性が行うため、一家の経済の主導権が女性にあることが多く、発言力も大きかった。きめ細かな蚕の飼育は、女性の繊細な感覚と勤勉さにあった。上州女性は、春から夏にかけては養蚕、秋の収穫を終えると糸挽きと織物に専念。品質の優れた繭や生糸、織物を生産できる女性は高く評価され、収入は男性よりもはるかに高額だったそうだ。
 
 桐生市は、1921年(大正10年)、山田郡桐生町が群馬県内3番目、県東部で初めて市制施行。2023年4月末現在の人口は、103,823人。上毛かるたで「桐生は日本の機どころ」と詠まれるなど、奈良時代から絹織物の産地として知られる。市内川内町は古くから「仁田山紬」の産地として知られた。川内町にある「白滝神社」には、この地に機織りを伝えたとされる白滝姫が祀られており、上毛かるたの絵札には、白滝姫が機織りをする姿が描かれている。
 
 桐生新町は、1591年(天正19年)に徳川家康の命を受け、代官・大久保長安の手代・大野八右衛門により町立てされて発展した。町立て当初からの敷地割りが残り、当時から織物の生産が行われ、絹織物業を中心に発展した町の特徴をあらわしている。江戸後期から昭和初期にかけて建てられた近代の桐生を代表する産業である絹織物業に係わる様々な建造物が一体として残され、多様な主屋や土蔵、ノコギリ屋根の工場など、製織町として特色ある歴史的な環境を今日に伝えている。
 
 製糸・撚糸・染織・縫製・刺繍など、繊維に関する様々な技術を持つ事業所が集積する総合産地であることから「織都(しょくと)」という風雅な呼び名がある。昭和中期は群馬県で人口最多の市であった。
 
 
 ★★★
 
国の重要文化財に桐生天満宮を新たに答申 社殿など2棟 群馬・桐生市





 2003年6月23日「群馬テレビ」配信のYahooニュースによると、「桐生天満宮」が国の重文に答申された。以下にその記事を転載。 
 国の文化審議会が23日に開かれ、群馬県桐生市の天満宮を新たに国の重要文化財に指定することが答申されました。国の重要文化財に指定するよう答申されたのは桐生市天神町の天満宮の本殿・幣殿・拝殿と末社春日社本殿のあわせて2棟です。本殿が幣殿と拝殿につながっている、いわゆる「権現造り」でこちらは1992年に県の重要文化財に指定されています。本殿・幣殿は壁面の精緻な彫刻などによる壁面の装飾が特徴である一方、拝殿は比較的簡素な造りとなっていて、江戸時代後期の北関東を代表する神社建築の一つとされています。1991年に市の重要文化財に指定されている末社春日社本殿は本殿後方にある比較的小型の建物です。17世紀初期の建築とみられ、市内で最も古い木造建築物です。
 県や天満宮は、2019年度から実施した県内の寺や神社を対象にした調査で、価値が高いという結果が出たことが今回の指定へとつながったとしています。
 今回の答申を経て官報に告示されると県内の国宝や重要文化財はあわせて27件、82棟となります。

2023年5月21日 (日)

行く春の信州桜めぐり

 2023年4月17日(月)、見頃の桜を探して信州をめぐる旅。

 今年の桜は東京で3月14日に開花前線がスタートし(平年より10日早い)、3月22日に同じく東京で全国最初の満開が観測された。平年より9日早い。全国的に、観測史上かなり早い開花・満開を記録している。関東甲信地方での満開は、東京を除く関東の主な都市では3月24日~30日、甲府が3月24日、 長野では4月3日。

 行く春の見頃の桜を探して、信州をめぐる。この日は、パラパラの小雨と曇り空。4月中旬にしては、この日の朝方で7℃、昼でも10℃前後、ダウンコートが欲しい寒い日だった。

 

 早朝3:35自宅発、4:50マイクロバスに乗車して出発。

 

●水中(みずなか)のしだれ桜(高山村) 7:05~7:45

 長野県の北部、小布施町を経て高山村へ。車から降り、しばらくすると身体が冷えて寒い。

 説明板

景観重要樹木
指定番号 第4号 「水中のしだれ桜」

 高山村黒部集落の南の水田地帯の一画にあり、孤高の気高さを漂わせている。
 幹周約7m、樹高約13m、樹冠約15m。黒みのある主幹が2本あり、1本は垂直で他は斜めに伸びて枝がはうように広がっている。花の赤みが濃く、多くの写真愛好家が訪れます。村指定の天然記念物で、樹齢は推定500年余り。
 村の五大桜の1つといわれている。 高山村

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 残炎ながら葉桜。手前のピンク色の小さい枝垂れ桜が満開。

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●黒部のエドヒガンザクラ(高山村) 8:00~

 「水中のしだれ桜」からクルマで東へ10分のところ、やはり山間の水田地帯。駐車場の八重桜は、満開。

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 説明板

景観重要樹木
指定番号第3号 「黒部のエドヒガン桜」

 黒部集落の南の水田地帯の一画にあり、孤高の気高さを漂わせている。
 幹周約7メートル、樹高約13m、樹冠約15m。黒みのある主幹が2本あり、1本は垂直で他は斜めに伸びて枝がはうように広がっている。
 花の赤みが濃く、多くの写真愛好家が訪れます。村指定の天然記念物で、樹齢は推定500年余り。村の五大桜の1つといわれている。 高山村

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 雨が上がり、高山村の村里に虹が架かる。

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●弁天さんのしだれ桜(須坂市) 9:15~10:05

 高山村から須坂市に移動。豊丘の地域を一望できる高台にある一本桜。

 信州須坂観光協会ホームページ

須坂市指定天然記念物の桜「弁天さんのしだれ桜」

 奈良山(なろうやま)の山ふところに位置する高台に湧水池「弁天池」があり、池のほとりに樹齢推定250年のしだれ桜がある。地元では弁天さんの大桜と呼ばれ、見事な花をつける。標高730mの高地にあるため開花が平地より一週間ほど遅い。池の前には川中島合戦ゆかりの「謙信道」に沿って林道「月生線」が通り、戦国武士の隠れ里の伝承が今も残る。北アルプスを望み須坂市を一望できる景勝地である。
 幹周約4.2m、樹高約13m
 中灰野と梅ノ木在住者により「弁天さんの桜と梅を守る会」を発足。桜を地域の文化財として守り、地区の歴史について調べ案内看板を作成するなど地域づくりにつながる保存活動が始まっている。 須坂市教育委員会

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 桜の傍らには蚕神(さんじん)の石碑。 その手前には、写真には写ってないが、湧水の「弁天池」と池の中には水神を祀る小さな石祠がある

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●立屋・番所の桜(小川村) 11:30~12:10

 長野市と白馬村の中間にある小川村には、通称「オリンピック道路」が通っている。オリンピック道路から山の上の方まで細い道をかなり登ったところに「立屋・番所の桜」駐車場がある。「桜山」 に登り、「番所の桜」から「立屋の桜」へと回り、番所(関所)跡を見て駐車場に戻る。

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 小川村観光協会ホームページ

~番所の桜~
 立屋口留め番所跡の近くにあり、「立屋の桜」の実生の台木に接木された桜を育て、移植。色濃いベニシダザクラとして成長し、美しい花を咲かせます。

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~立屋の桜
 墓の守り桜とし、鎮魂と真夏の暑さをさける為に植栽されたと伝えられています。昭和54年に村天然記念物に指定されたエドヒガンザクラ。
 樹高15m伝承350年。小川村は桜の里、春には民家のまわりや山々に雄大に咲き誇り、多くの写真愛好家で賑わいます。

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 小川村観光協会ホームページ

立屋口留番所(たてやくちどめばんしょ)跡

 松代藩主真田信之は「人改め」と「物資改め」のため藩内20箇所に口留番所を設置しました。当時立屋は、善光寺に通じる大町街道と戸隠〜麻積宿を結ぶ道が交差する要衝の地であり、1649(慶安2)年、椿峰村に立屋口留番所が設けられました。
 番役人として、松代藩家老・鈴木右近の子、八右衛門が派遣され、以降7代目八右衛門まで続きました。1872(明治5)年、番所制度が廃止されましたが、今もなおその面影を残しています。

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 この辺りから、残雪の北アルプスの眺望が素晴らしとのことだが、この日のは曇っていてまったく見えず。

●貞麟寺のしだれ桜(白馬村) 12:50~13:20

 広大な境内の中の樹林の奥に「貞麟寺」の庫裏(くり)、その左先に本堂が見える。お寺の背後には天狗岳から延びる尾根が迫る。

 貞麟寺の重厚な本堂

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 白馬村ホームページ

貞麟寺の枝垂れ桜(エドヒガンザクラ) 村指定 天然記念物 指定年月日 昭和49年10月1日

 この桜は、エドヒガン(バラ科サクラ属)を母種とする枝垂れ系品種の落葉高木で「糸桜」とも呼ばれ、かつて国の天然記念物に指定されていました。この枝垂れ桜は寺の歴史を語っており、樹齢は推定400年、樹囲5m、樹高16m、花が大きくて色も紅に濃く稀にみる名木です。貞麟寺開山の手植樹と伝えられ、この桜の満開期が麻を蒔く時期と目されてきたため、古来から「麻蒔(おまき)糸桜」とも呼ばれています。

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 貞麟寺の庭園

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 庭園には、他にも大きい枝垂れ桜がある。

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 境内にはカタクリの群生地があるが、咲いているのは僅かだった。

●道の駅「白馬」(白馬村) 14:05~13:30

 道の駅で休憩、昼食。

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 昼食、かきあげ蕎麦(1,000円)。土産のおやき4個960円。


●長谷寺(ちょうこくじ)(白馬村)
 14:25

 白馬村飯森地区にある「長谷寺」は「塩の道」の名刹として知られ、境内にある枝垂桜が満開になる頃には、多くの観光客で賑わうそうだ。残念ながら見頃をとうに過ぎていて、引き返す。なお、境内には白馬村指定の天然記念物の樹齢500年を超えた老杉群もある。

●四十九院のコブシ(白馬村) 14:40~15:10

 モクレンの一種のコブシが 、白くて大きな花びらの花をつけて満開。田んぼや畑が広がる広々したところに、北アルプスを背景に2本のこぶしぽつんと静かにがたたずむ。白馬に春の訪れを知らせてくれる「こぶし」は、桜よりも早く咲き、白馬村の村木に指定されている。

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 白馬連峰は、雲隠れ。

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 信州の桜はすでに満開を過ぎ、葉桜になっていた。その中でも見栄えの良い桜を掲載したが、天気も悪く鮮やかな桜の風景が撮れなかったのは残念だった。

 国道148号線を北上し、日本海側の北陸自動車道「能生I.C.」で降り、 国道8号線沿いの道の駅「マリンドリーム能生」(新潟県糸魚川市)に立ち寄り休憩。19:30、出発地に帰着。20:10、自宅着。

 

 本ブログの関連記事

  「信州高山村の桜めぐり」 2016年5月1日投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-dfa8.html

  「信州桜めぐり」 2014年4月23日投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/04/post-e697.html

2023年5月 2日 (火)

身延山の枝垂れ桜と神代桜

 2023年3月30日(木)、山梨県の枝垂れ桜と桃の花めぐり。

 早朝4:30自宅を出て、5:25マイクロバスに乗車し出発。中央自動車道の甲府南ICを出て国道358号、笛吹ライン/国道140号を西進。富士川大橋を渡り、増穂ICから中部横断自動車を南下。8:17中富ICを出て、富士川街道/国道52号県道805号を南下。8:45、「久遠寺」の駐車場着。

 

●身延山久遠寺 8:45~10:40

 「久遠寺」の枝垂れ桜。今年は平年に比べて桜の開花・満開が非常に早く、昨年の同じ日の2022年3月30日に比べて、見頃を過ぎている。

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 「祖師堂」の妻側破風の装飾が素晴らしい。鬼の彫刻は、「屋根を支える力神」で、「邪鬼(じゃき)」または「天の邪鬼(あまのじゃく)」とも呼ばれる。

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 大工の棟梁が大きな梁のある家を建てていた所に「天の邪鬼」が遊びに来た。棟梁が「お前はたいそう力持ちらしいが、いくら力持ちでもこの大きな屋根は支えられないだろう?」と問う。元来、人と変わった事がしたいヘソ曲りの「天の邪鬼」は、反発して「そんな事、朝飯前さ!」と言うや否や梁と屋根の間にすっぽりと納まった。

 すると、すかさず棟梁が梁を支えていた柱を外してしまったという。それ以来「天の邪鬼」は、人に反発する力で大きな屋根を支えているという。そんな逸話から、身延山の「祖師堂」の虹梁(こうりょう)の間には、「天の邪鬼」の彫刻が施されているという。

 久遠寺「祖師堂」を斜めから見る妻側破風に掛かる枝垂れ桜。右の1年前の3月30日に撮影したもの比べ、左の今回の枝垂れ桜は、盛りを過ぎている。

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 2008年11月に竣工した五重塔に掛かる枝垂れ桜。

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 五重塔は、高さ39mで、国指定文化財の木造五重塔と比較すると国内4番目の高さ。江戸時代初期に創建され、明治の大火で焼失。133年ぶりに再建されたという。

 久遠寺の本堂裏から駐車場まで急坂を下り、「西谷の坂」の行き止まりにある「本行坊」へ。

 「本行坊」(2022年3月30日撮影)は、久遠寺の宿坊として最古級の坊。日蓮が開眼し、比企能本(ひきよしもと)に与えたと伝わる帝釈天像を祀る 。

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 本堂左手に「帝釈堂」があり、昨年写真を撮らなかったので、改めて撮影。帝釈天像は、建物の中には入れず、撮影できなかった。

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 比企能本は、比企能員(よしかず)の末子比企大学三郎能本。日蓮に帰依、1260年(文応元年)鎌倉の比企一族の屋敷跡に「妙本寺」を建立した。「本行坊」は、1286年(弘安9年)能本の開基により創建。1858年(安政5年)、現在地に移転したという。

 川沿いの「西の谷」を下ると、道路沿いの枝垂れ桜は、ちょうど見頃。

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 久遠寺の「三門」前に集合し、回送したマイクロバスに乗車、10:40出発。県道804号~国道52号、大城川沿いの県道808号を南下する。

●大城のミツマタ群生地 11:05~11:15

 富士川水系の大城川砂防ダム(身延町大城)周辺のミツマタの群生地。

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 国道52号を北上、「西嶋和紙の里」(なかとみ和紙の里)は、身延町(旧中富町)西嶋地区にある。和紙の里とあって山にはミツマタが多かった。

 

●西嶋和紙の里 11:50~12:35

 和紙の里にある食事処「味菜庵」に入店。

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 店の名物の「おざら」は、山梨の郷土料理の一つ、ほうとうと冷や麦の間ぐらいの太さの冷やした麺を、温かいつゆにつけて食べる。

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 彩り(いろどり)セットは、「ミニおざら」に「生ゆば」、角煮、小鉢、ご飯、香物、デザートで、1,700円(税込)。

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 「おざら」は、富士川流域に伝わる郷土料理で、手打ち麺を人参やゴボウなどの野菜やひき肉などの具が入った醤油味のつけ汁に付けて食べるうどん。地元では、寒い冬は、温かい「ほうとう」、暑い夏はさっぱりと冷たい「おざら」を食する。「おざら」は、モチモチの食感。

 「生ゆば」は、身延の天然水と厳選した国産大豆のみを使用。口の中でとろけるよう、引き上げたゆばに豆乳をたっぷりと含ませてあるそうだ。ご飯が多いが、そのほかボリュームもなく、これで1,700円は高すぎる?

 12:45増穂ICから中部横断道を北上、13:08須玉ICを出て、神代桜のある北杜市武川町の「実相寺」の駐車場に到着。

●山高神代桜 13:35~14:25

 3月25日から「実相寺」を中心とする「神代桜まつり」が開催されていて、ちょうど満開で平日だが観光客が多い。

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 「実相寺」の境内にたたずむ「山高神代桜(やまたかじんだいざくら)」は満開。福島県の「三春滝桜」、岐阜県の「淡墨桜」と並ぶ 「日本三大桜」の一つ。境内には桜がたくさんあって、一見目立たないが、推定樹齢1,800年とも2,000年とも言われるエドヒガンザクラの老木で、悠久の時を超えて咲き続けるさまは、神々しい。

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 樹高10.3m、根元・幹周り11.8mもあり、日本で最古・最大級の巨木として、1922年(大正11)に国指定天然記念物第1号となった。1990年(平成2)には「新日本名木百選」にも選定されている。

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 伝説では、神話の武将ヤマトタケルノミコトが東征の折に植えたされていて、名前の由来になっている。また鎌倉時代、日蓮聖人がこの木の衰えを見て回復を祈ったところ再生したため、「妙法桜」とも言われている。

 日蓮宗の寺院 「大津山実相寺」の本堂。

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 桜と同じ頃におよそ8万本のラッパ水仙も咲き、足元の黄色と頭上の薄紅色のコントラスト、雲で隠れているが冠雪の南アルプスが見える。

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 「実相寺」の境内には、2008年(平成20年)に宇宙文化事業により国際宇宙ステーションの日本実験棟「きぼう」 に神代桜の種が宇宙へ行き、約8ヶ月間無重力空間に滞在し地球へ戻って発芽したという「地涌(じゆ)の桜」(=宇宙ザクラ)が植えられている。

 他にも、日本三大桜の一つ福島県三春町の「滝桜」(推定樹齢1000年超)の子桜。同じく三大桜の一つ岐阜県本巣市の「淡墨桜(うすずみざくら)」(推定樹齢は1500余年)の子桜。身延山久遠寺の名木しだれ桜(樹齢400年)の子桜。岐阜県高山市の臥龍桜(推定樹齢1100年)の子桜がある。

 須玉ICから中央自動車道/西宮線に入り、笛吹八代スマートICを出て、県道313号~県道36号、笛吹市御坂町の「花鳥の里」へ。

 

●花鳥の里 15:25~16:05

 「花鳥の里スポーツ公園」から桃の花の散策Aコース(3km)、Bコース(2Km)などがある。時間の都合で菜の花の咲くポイントまで(850m)を往復する。

 ブドウ畑を経て、10分ほどで満開の桃の花と菜の花が咲く桃畑へ。

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 桃の畑の向こうに甲府盆地。曇っていて、南アルプスは見えず。

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 今回の旅行は、政府の観光需要喚起策「全国旅行支援キャンペーン旅行割り」でマイクロバス代と食事代が2割引対象で、地域クーポン券2000円分が旅行社から付与された。

 19:20、出発地に帰着。20:00、自宅着。

 

 本ブログの関連記事

 「身延山とその周辺の枝垂れ桜」 2022年4月25日投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2022/04/index.html

 「甲州桜の名木と桃源郷」 2014年4月14日投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/04/post-27af.html

 

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●山高神代桜

 「山高神代桜」の最盛期は幕末から明治初期と考えられている。高さ30mもあったとされる。天然記念物に指定された大正時代から、1935年(昭和10)頃までは、樹勢は比較的安定していたが、徐々に主要な枝が枯れ始めた。天然記念物指定後にコンクリートの囲い柵や根元近くに石積みの囲いを設置し、盛土したことなどが、成育環境に大きな変化をもたらしたのだった。1959年(昭和34)には台風により主幹が折れるという大きな被害を受け、その後も樹勢は著しく衰退した。

 2001年(平成13)に文化庁、山梨県と武川村(当時)教育委員会、学識経験者や樹木医などからなる「山高神代ザクラ樹勢回復調査検討委員会」が組織され、調査が進められた。盛土は一時的な樹勢回復に効果があったようだが、酸素供給が乏しくなり地中深い所では根は枯れていたことがわかった。さらに盛土した土層に伸びた古い根には、土壌にいる線虫「ネコブセンチュウ」が蔓延し、瀕死の状態を招いていた。

 樹勢回復工事は2003年(平成15年)から始まり、根元周りに毎年少しずつ土壌改良材を混ぜた土に入れ替えていった。工事は3年を経て新枝が伸び、葉の枚数も増え、根の発根量も目に見えて増えるなどの樹勢回復が見られるようになった。発根は1年で1m以上になるものもあった。 しかしながら樹冠上部の枝の枯損、葉の矮小化など症状が改善されない部位もあり、予断を許さない状況が続いているという。

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