無料ブログはココログ

カテゴリー「旅行・地域」の358件の投稿

2024年5月14日 (火)

熊谷タウン散策

 2024年4月11日(木)、埼玉県熊谷市の市街地を歩いて巡る。

 

 10:00、JR熊谷駅(筑波二丁目)の北口を出発。

Img_6785
 

●星川通り(銀座~鎌倉町) 10:05~

 別名「星川シンボルロード」を北西に向かって歩く。写真は「花園の歌」像(圓鍔勝三 作)。

Img_6786

 「星川通り」は、熊谷市鎌倉町を起点とし、星川・筑波を経て、同市の銀座へと至る市道の愛称。全区間が星川の両岸に位置する。1975年に「水と緑と彫刻のプロムナード」として、広場や彫刻像が設置されている。

 「星川」は、熊谷市街地北西部の北大通り中央を流れる大里用水から分流、暗渠を経て、鎌倉町の 「星溪園」前で星川なって姿を表す。地上に現れた地点から、星川と呼ばれる。農業用水の取水施設もある。

Img_6788_20240510080301
 

●高城神社(宮町) 10:25

 熊谷市宮町にある神社で、旧社格は県社。熊谷郷の総鎮守とされていた。「日本一長いおみくじ」で知られる。高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)、別名高木神(たかぎのかみ)と呼ばれ、生成力を神格化した神であるため万物をつくり出す神とされており、「えんむすび」「安産」の神として崇敬されている

Img_6792

 1590年(天正18年)の兵火で焼失したのを、忍城主・阿部正能が再建した。

Img_6790

 境内にある樹齢800年ともいわれる巨大なケヤキの御神木。近年洞(ウロ)が広がり、中から外の光がみえるようになった。境内には他にも樹齢600年程度のケヤキが数本あるそうだ。

Img_6791
 

●熊谷寺(仲町) 10:40

 「熊谷寺(ゆうこくじ)」は、熊谷市仲町にある浄土宗の寺院。当地(武蔵国熊谷郷)は、平安時代末から鎌倉時代初期の武将・熊谷直実の本拠地であり、出家後の直実が蓮生(れんしょう / れんせい)法師として往生した場所と伝えられている。

Img_6793_20240510080301

 この寺は珍しく、常時閉門されている。行事の開催などを除き、または特別な許可を得ない限り、参拝等境内への立ち入りはできない。
 

●星溪園(鎌倉町) 10:45~11:00

 星溪園の正門。出典:ウキメディア・コモンズ

Seikeien_entrance

 「星溪園」は、回遊式庭園、入場無料。熊谷の発展に数々の偉業を成した竹井澹如(たんじょ )によって、慶応年間から明治初年にかけてつくられた。

 澹如は、1839年(天保10年)群馬県甘楽郡南牧村、羽沢の豪族・市川五部兵衛の六男として生まれる。1865年 (慶応元年)27歳の時に熊谷宿で本陣をつとめる竹井家を継ぎ、14代当主となる。 1879年(明治12年)初代の県議会議長。政府の要職をすすめられたが、始終一貫、熊谷地方のために貢献した。

Img_6794

 竹井澹如 出典:ウキメディア・コモンズ

Tanjo_takei_ps

 1623年(元和9年)、荒川の洪水により当園の西方にあった土手(北条堤)が切れて池が生じ、その池は清らかな水が湧き出るので「玉の池」と呼ばれ、星川の水源となった。澹如が、ここに別邸を設け、「玉の池」を中心に竹木を植え、名石を集めて庭園とした。

Img_6797

Img_6799

 昭和初期、この地を訪れた前大徳牧宗禅師(京都の大徳寺僧)が、「星溪園」と命名。1950年(昭和25年)に熊谷市が譲り受け、1954年(昭和29年)に市の名勝に指定された。1990年(平成2年)から1992年(4年)にかけて園内の整備が行われ、老朽化のした建物は数奇屋感覚が取り入れた上で復元。園内には、星溪寮、松風庵、積翠閣(せきすいかく)の3つの建物があり、お茶会などに利用されている。

 中心的な最も大きい建物の星渓寮。出展:星渓寮パンフレット

Seikeien_seikeiryo_ps

 松風庵は、2室からなる庵室。星溪寮と積翠閣の間に位置して数寄屋の建物。積翠閣の2階から望む。

Img_6801

 積翠閣の2階部分。積翠閣は、松風庵の北に位置し、庭園と玉の池を眺望できる。1階のギャラリーには星渓園や澹如の資料が展示。

Img_6803

 積翠閣の2階から庭園を望む。

Img_6800

 竹井澹如は、熊谷県庁の誘致、旧熊谷堤の修築と桜の植樹、養蚕業の振興、私立中学校(セキテイ学社)の創設などの偉業を残し、1912年(大正元年)74歳で永眠した。
 

●片倉シルク記念館(本石二丁目) 11:10~11:55

 ショッピングモール「イオン熊谷店」の隣に2つの古い倉庫があり、これが「片倉シルク記念館」。


 「片倉シルク記念館」は、「片倉工業株式会社」最後の製糸工場であった熊谷工場が1994年(平成6年)に操業停止してから、 の繭倉庫を利用して創設された記念館。入館無料。同社の製糸業121年におよぶ歴史を、末永く保存継承するために、熊谷工場の操業当時に使われていた製糸機械が展示され、繭から生糸になるまでの過程を紹介。2007年(平成19年)には、経済産業省の「近代化産業遺産」に認定された。

 熊谷工場のジオラマ。


Img_6804

 記念館では、繭倉庫を利用した館内に、操業当時に使われていた製糸機械や貴重な資料が展示され、繭から生糸になるまでの当時の製造工程を見学することが出来る。

 実際に使われていた自動操糸(そうし)機。繭から引き出した繭糸を何本か合わせて目的の太さ、長さに1本の生糸にする工程。

Img_6807

 糸捻(ねじ)りの前の工程らしいが、何の機械か分からなかった。

Img_6808

 糸捻り、活(かつ)に束ねる工程の写真展示。

Img_6812

 メモリアルギャラリー。従業員の寮生活や、工場内の学校生活など、多くの写真が展示。

Img_6810

 ほかに、片倉工業の歩みの展示、御法川(みのりかわ)直三郎と今井五助との出会いについての展示、御法川式多条製糸機の実物展示(以上、写真なし)など。館内のミニシアターでは「もうひとつのシルクロード」等、製糸工場が実際に稼働していた頃の様子を約15分で放映。

 隣接する繭倉庫の「蜂の巣倉庫」。天井に、蜂の巣状の穴が105個あいている。倉庫の屋根裏部分から繭を入れ、穴の下部にあたる天井部分から古い繭を取り出せる仕組み。ここでは、繭の貯蔵方法や養蚕具、蔵出しの様子が展示されていた。

Img_6814

 12:00~12:40、レストラン「サイゼリア」(イオン熊谷店1階)で昼食。
 

●熊谷桜堤 13:00~

 イオンモールから南西に進むと、荒川沿いの桜が満開。一旦、国道407号の荒川大橋の下をくぐり、再び桜堤を歩くと花見客や屋台で賑やか。

Img_6816

 「熊谷桜堤」は、荒川左岸の堤防の内、荒川大橋から下流方向に約2kmにわたって続く。毎年3月下旬から4月上旬に開かれる「熊谷さくら祭」には、約500本のソメイヨシノが桜のトンネルをつくる。江戸時代から桜の名所として親しまれ 「日本さくら名所100選」の一つ。

Img_6817

 4月8日、熊谷地方気象台より熊谷でさくらの満開(標本木で約80%以上が開花)を観測したと発表があったそうだ。平年より5日遅く、昨年よりも13日遅い。さくら祭は、14日まで開催だという。

Img_6818

Img_6820
 

●熊谷市美術展 13:20~14:25

 熊谷市立市民体育館(桜木町二丁目)で、「第55回公募熊谷市美術展」が4月11日(木)~14日(日)の会期で開催中。多くの公募作品の中から入選した作品を展示。出品種目は、絵画、彫刻、工芸、書、写真。

Img_6822
 

●郷土資料展示室 14:30~15:00

 熊谷市立図書館(桜木町二丁目)3階では、常設の「郷土資料展示室」と企画展「市立図書館所蔵美術品展」。

 「郷土資料展示室」の原始・古代コーナーでは、市内の遺跡などから発掘された土器などの資料。中世コーナーは、熊谷直実にまつわる資料と埋蔵銭や板碑など。近世コーナーは、高札などの中山道熊谷宿にかかわる資料。近・現代コーナーは、熊谷空襲や昭和の暮らしを再現。小説家・森村誠一コーナーは、熊谷出身の森村氏と熊谷の資料を展示。熊谷の養蚕コーナーでは、近・現代の熊谷市で主要産業の一つであった養蚕関係資料を展示。

 また、当館所蔵品を中心としたミニ企画展「直実・蓮生の浮世絵展Ⅱ(芝居絵)」が令和6年6月6日(日)まで、開催中。

Img_6824

 3階の美術展示室では、4月2日(火)から 5月19(日)まで企画展「市立熊谷図書館所蔵美術品展」が開催。郷土ゆかりの作家による美術品を展示。

Img_6823

 図書館から熊谷駅南口まで徒歩5分。15:20~、熊谷駅ビル2階「ミスタードーナツ」で時間調整(コーヒータイム)。

 16:00~17:50「さくら水産」(熊谷駅ビルAZ 5階)で打ち上げ。

 18:00、熊谷駅で解散。

 

 ★ ★ ★

 「片倉工業」は、1873年(明治6)長野県諏訪郡川岸村(現岡谷市)で片倉市助が、10人取りの座繰り製糸から始まった。1878年(明治11)、家督を受け継いだ片倉兼太郎が、川岸村に垣外(かいと)製糸場を開設。32人繰りの洋式器械を備えた工場だった。1895年(明治28)「片倉組」を、1920年(大正9)「片倉組」を継承する組織「片倉製糸紡績株式会社」を設立した。蚕種の研究と繰糸機の改良に貢献し、朝鮮半島含め最大62カ所の製糸工場まで拡大し、良質な生糸を世界中に届けた。

 1939年(昭和14)に富岡製糸場を譲り受け、1943年(昭和18)「片倉工業株式会社」に改称。富岡製糸場は、1987年(昭和62)年まで操業した。富岡製糸場の歴史的価値を認識し、建物につては保全管理に努めた。1994年(平成6)熊谷工場の操業を休止し、蚕糸業から撤退する。2000年(平成12)「片倉シルク記念館」オープン。2005年(平成17)富岡工場(富岡製糸場)の建物等を富岡市に寄付。翌年、敷地を富岡市に売却した。

 発明家の御法川直三郎は、いくつも山積していた技術的な困難を解決して、1904年(明治37)に20条の多条繰糸機を完成させた御法川の研究に理解し、援助・協力を惜しまなかった片倉製糸紡績副社長の今井五郎(片倉兼太郎の実弟、後に社長)は、その後この機械を採用し、これが繰糸機の技術革新をもたらし、片倉と日本の生糸の品質を高めることになった。

 片倉工業は、1994年(平成6)に伝統事業である蚕糸事業から撤退した後、不動産資産を活かしたショッピングセンター運営・不動産賃貸事業・小売事業の他、終戦後に進出した自動車用部品製造、繊維製品の販売など、経営は多角化している。そのほか、医薬品、農業用機械、産業用機械の製造子会社や消防車製造子会社なども持つ。

2024年3月17日 (日)

越生梅林梅まつり

 2024年3月3日(日)、「越生梅林梅まつり」(埼玉県越生町)に行く。
 
  
 「越生(おごせ)梅林」は、茨城県の「水戸偕楽園」、静岡県の「熱海梅園」とともに「関東三大梅林」の一つとして知られている。今年、「越生町」は、町制施行135周年の年にも当たり、2月11日(日)~3月17日(日)で「越生梅林梅まつり」が開催されている。梅まつり期間中には越生特産物や越生の梅干しの販売や郷土芸能、さらには園内にミニSLの運行などのイベントも催される。


 園内には約1,000本もの梅の木が植えられていて、梅林周辺も含むと約20,000本の梅の花が咲き誇り、町全体が梅まつりを盛り上げているという。

 県道61号線を「黒山三滝」方面に向かい、「梅林入口」バス停のT字路で右折、「梅園橋」を渡ってすぐの「越生梅林」に車で10:00到着。入園料400円、駐車料金500円。

 暖冬の影響で、例年より1週間ほど早く先月上旬から咲き始め、早咲きの梅は見頃を過ぎ、ちょうど遅咲きが満開。

Img_9027

 足元には福寿草も咲いていた。

Img_8969

Img_8979

Img_8973

Img_8987

Img_8994

Img_9058

 雪の影響で枝が折れる被害が出たそうだが、関東で積雪のあった先月2月の5日~6日の雪だろうか、裂け目が痛々しい。

Img_9071

Img_9101

 蒸気で走るミニSLが園内を走る。

Img_8964mos

 売店や屋台で買い物を楽しむ。

Img_9109

 会場のステージでは、地元の歌や踊りなど催し物もあり、観梅客を楽しませていた。

 この日は、「越生の里(うた)を踊る会」と、「北坂戸フォークソング倶楽部」が出演。

Img_9118

 そのほか、越生陶器市、梅ジュース作り体験、突き鉄砲遊びなど。

 販売していた梅の盆栽。これら梅の方が、写真映えが良い。

Img_9005 Img_9007

Img_9011 Img_9015

  12:00前に会場を出て、車で2,3分の県道61号線沿いの「うめその梅の駅」(越生自然休養村センター)の農産物直売所に立ち寄り、買い物。手作りまんじゅう4個(480円)。

Img_9127mos

 県道61号線を引き返し、車で20分ほどの鳩山町の手打そば「楓」で昼食。鴨汁せいろ(1,500円)。13:10頃店を出る。

Img_9129

 この日の関東は、高気圧に覆われて晴れ渡り、穏やかな風と暖かい春の日差しの中の観梅だった。 

 

 本ブログの関連記事

  「武州・越生の梅林」 2021年3月 6日 (土)投稿

   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2021/03/post-b9fd9a.html

 

 ★ ★ ★

 「越生町」(おごせまち)は、埼玉県のほぼ中央付近に位置し、入間郡に属する。1889年(明治22年)4月、入間郡越生、上野、如意、黒岩、西和田、大谷、鹿下、成瀬村、比企郡古池村の9か村が合併、「越生町」となった。1955年(昭和30年)2月、梅園村を編入。人口は約1万1千人。江戸時代から越生梅林に代表されるように行楽地として知られ、梅を栽培している農家が多い。梅や柚子などの果樹生産・加工業が盛ん。

 越生の梅は、南北朝時代の1350年頃に九州の「大宰府天満宮」から武蔵国小杉村に「小杉天満宮」(現在の「梅園神社」)に分祀した際、菅原道真にちなんで梅を植栽したのが起源と伝えられている。

 町の名所として、「黒山三滝」がある。室町時代に山岳宗教修験道の拠点として開かれ、江戸時代に人気の行楽地となった。また「山吹の里歴史公園」は、「七重八重花は咲けども山吹の 実の一つだに無きぞ悲しき」という古歌で有名な太田道灌ゆかりの地とされ、毎年4月~5月にかけて、園内の約3,000株もの山吹が咲き誇る。

 旧埼玉厚生年金休暇センターの「ニューサンピア埼玉おごせ」は、東京から約1時間で温泉の大浴場や露天風呂が楽しめ、テニスコート、体育館、ゴルフ練習、キャンプ場、プールを備えたホテルとして有名。

2024年3月16日 (土)

菅谷城跡 ー 比企城館跡群

 2024年2月25日(日)、比企城館跡群の一つ「菅谷城跡」(埼玉県嵐山町)に行く。
 

 「菅谷城」(すがやじょう)は、武蔵国比企郡(埼玉県比企郡嵐山町菅谷)にあった城。「菅谷館」(すがややかた)とも呼ばれる。鎌倉幕府の有力御家人として知られ、武蔵武士の典型的人物で武将の鑑(かがみ)として尊敬されてきた畠山重忠の居館。1973年(昭和48年)、居城跡は、国の史跡に指定された。館跡には埼玉県立「嵐山史跡の博物館」が設置されている。2017年(平成29年)4月、「続日本100名城」(120番)に選定された。

 畠山氏は、重忠の父・畠山重能の代から大里郡畠山荘(現在の深谷市畠山)の荘司であり、重忠も当初は同荘内に館を置いていたが、やがて鎌倉街道の要衝にあたる菅谷の地に移って館を構えたのが始まり。

 8:59、東武東上線の武蔵嵐山駅に到着。

Img_6557

 武蔵嵐山駅でボランティアガイドと合流し、駅西口から歩いておよそ1Kmほどの「菅谷城跡」に向かう。朝から曇りだが、このあと雨の予報が心配。

 9:30、「菅谷城跡」の「搦手(からめて)門」跡に到着。

 国道254号線から見る「菅谷城跡」の土塁と搦め手門 出典:Googleマップ 

Sugaya_joshi

 「菅谷城跡」内にある県立「嵐山史跡の博物館」の入り口。

Img_6561

 9:35入館(入館料100円)。エントランスに「菅谷城跡」のほか、「杉山城跡」、「松山城跡」、「小倉(おぐら)城跡」の「比企地区の城館跡群」の立体模型や写真が展示。

 「畠山重忠」のロボット(何故か動かない?)。

Img_6562

 「重忠の参陣」の展示。

Img_6576

 源頼朝が房総半島で勢力を回復して鎌倉を目指して長井の渡し(現在の横須賀市)に達したとき、それまで平家方に属していた畠山重忠は、源氏の白旗を掲げて頼朝に参陣した。1180(治承4)年、重忠は17歳。父が平家に仕えていたため、平家軍に加わっていたが、在京中の父・重能に代わり、河越氏、江戸氏らの同族や一族郎党を率いて頼朝の傘下に入り、頼朝の忠実な御家人となった。 

 企画展「武蔵武士の食と信仰 -食べて 祈って 戦って-」1月13日~3月3日)が開催中。

Img_6575

 武蔵武士の食の風景を紹介。

Img_6567

 「第1章 掘り出された食」の展示。

 比企地域を中心とする中世の遺跡の出土物から、煮炊きに関する道具や食器、食材など、食に関するものを紹介。

Img_6568

 「2章 食を得る」の展示。

 食材を得る手段として、狩猟や農林漁業、市での購入や領内からの貢納などがあった。それぞれの場面の美術工芸品や古文書を紹介。

 犂先(すきさき)鋳型(金井遺跡B区-坂戸市) 出典:当博物館のホームページ 犂の説明図(上の右図)の出典は、「デジタル大辞泉」。

R5kikakuten_2_2Suki_setsumeizu112774

 犂とは、牛や馬に引かせ、畑や田を耕す農具。犂の先端の鉄製部分が犂先。

 「3章 食の風景」の展示。

 鎌倉時代の料理に関する記録や、武士が食事の時の行儀を記した家訓など資料を展示。また復元写真や絵画資料などで武士の食の風景を紹介。

Img_6572

 「絹本着色酒飯論絵巻模本」(群馬県立歴史博物館蔵) 出展:当博物館のホームページ

R5kikakuten_3_1

 「第4章 食と信仰」の展示。

 武士は、合戦に赴き殺生を生業としていたが、さらに食においても肉食も得ていた。鎌倉時代の武蔵武士たちが殺生をどのように贖罪していたのか、仏教や神道といった信仰を紹介。

 「銅造阿弥陀三尊像懸仏」(古尾谷神社蔵で県指定文化財)は、古尾谷神社(川越市)の神宝として秘蔵されていた懸仏(かけぼとけ)。

Img_6573

 『吾妻鏡』『今昔物語集』などの古文書。

Img_6571

 10:15、博物館を出て、城跡内をめぐる。「嵐山史跡の博物館」の建物。

Img_6592

 しばらくすると雨が降り出す。

Img_6590

Img_6591

 10:30、竹筋コンクリート製の畠山重忠の像

Img_6595

 菅谷城の二ノ郭(くるわ)の土塁上に建っている。1929年(昭和4年)に造られ、鎌倉の南の方角の空を仰いでいる。2011年度(平成23年度)に嵐山町の文化財に指定された。 

 この辺りが本郭(ほんぐるわ)跡とされている。奥まった場所で、土塁と空堀に囲まれ、南側は都幾川の絶壁。

Img_6612

 1205年(元久2年)、北条氏の策略により畠山重忠が武蔵国二俣川(現・横浜市旭区)で戦死した。その後は、畠山の名跡を継いだ足利義純の子孫に伝えられたというが、15世紀後半に至るまでの詳細は不明だという。

 

 11:05「安岡正篤記念館」の前を通過。

Img_6614

 1970年に安岡正篤氏が昭和初期に創立した「日本農士学校」の跡地に、「財団法人郷学研修所」が設立。2012年に「公益財団法人 郷学研修所・安岡正篤記念館」が正式名称となった。「日本農士学校」の精神を継承しつつ、郷学の振興を図ると共に、今の世にこそ必要とされる安岡正篤の教学・人間学を後世に伝えるために活動しているそうだ。

 広い敷地の左手の平屋の小さい建物のほうが記念館らしいが、ちょっと入りにくい。

Img_6616

 11:15、昼食のために「国立女性教育会館」に入館。

Img_6619

 「国立女性教育会館」(NWEC)は、文部科学省所管の独立行政法人が運営する研修施設。1977年に「国立婦人教育会館」として宿泊棟も備えた研修施設の運営をし、地域活動の主婦リーダーの育成を主な事業として設立されたという。広大な敷地は、元々は「日本農士学校」だった。建物も50年近くなり老朽化し、あまり利用されてないようだ。国が嵐山町に譲渡、または撤去を提示しているという。

Img_6622

 館内のエントランス。

Img_6623

 11:30、教育会館のレストランで、日替りランチ(とんかつ定食880円)。12:30、教育会館を出て、武蔵嵐山駅まで歩いて戻る。

 次の予定地、戦国期城郭の最高傑作とされる国指定史跡「杉山城跡」(嵐山町杉山)は、東口から約4.4km(徒歩で約50分)。雨のため中止となった。

 

 ★ ★ ★

●嵐山町(らんざんまち)

 埼玉県の中央、比企郡に属する。人口は約1万8千人。「武蔵の小京都」と称され、全国京都会議に加盟。昭和初期には、現在の「嵐山渓谷」が京都の嵐山(あらしやま)の風景に似ていたことから、「公園の父」といわれる本多静六(林学者、造園家、旧名;折原静六)により「武蔵嵐山」と命名され、評判になって多数の観光客が訪れた。

 平安時代末期は、武将・源義仲や畠山重忠ゆかりの地。江戸時代には江戸と上州を結ぶ川越児玉往還(川越道)の菅谷宿として栄えた。1889年(明治22年)、比企郡菅谷村が成立。1955年(昭和30年)比企郡七郷村と新設合併し、改めて菅谷村が発足。1967年(昭和42年) 町制施行で嵐山町となる。日本の国蝶・オオムラサキの生息地としても有名。

●国指定史跡「比企城館跡群」

 埼玉県比企地方には現在、69ヵ所の城館跡が確認されている。その多くが15世紀から16世紀にかけて築城された。2007年(平成19年)、文化審議会から文科大臣に答申が出され、「杉山城跡」が国指定史跡になることが決まった。指定の名称は『比企城館跡群』で、埼玉県の比企地方でで、既に国指定されている「菅谷館跡」に「杉山城跡」、「松山城跡(吉見町)」、「小倉城跡(ときがわ町・嵐山町・小川町)」が加わり、4つの城館跡の広域指定された。

 比企地方は埼玉県のほぼ中央に位置していて、東松山市、比企郡滑川町、嵐山町、小川町、川島町、吉見町、鳩山町、ときがわ町にまたがる地域。秩父山地から関東平野に突き出るように比企丘陵があり、東側は位置の側や越辺川が形成した沖積地が広がる。鎌倉〜戦国時代には、鎌倉と上野国(群馬県)を結んでいた鎌倉街道が通る交通の重要ポイントで、また河川を利用した物流でも重要な地域だった。

●安岡正篤(まさひろ)

 1898年(明治31年)大阪市生まれ、(大正11年)東京帝国大学法学部政治学科卒業。昭和2年「金鶏学院」、昭和6年「日本農士学校」を設立、陽明学を基礎とした東洋思想の研究と後進の育成に努める。昭和24年「師友会」を設立、政財界のリーダーの啓発・教化に努め、その精神的支柱となった。東洋古典の研究と人材育成に尽力する一方で、体制派「右翼」の長老としても政財官界に影響力を持ち続けた。

 安岡正篤(1971) 出典:ウキメディア・コモンズ

1971yauoka_masahiro

 佐藤栄作首相から中曽根康弘首相に至るまで、歴代首相の指南役を務め、さらには三菱グループ、東京電力、住友グループ、近鉄グループ等々、昭和を代表する多くの財界人に師と仰がれた。1983年(昭和58年)、愛人の細木数子との再婚騒動があったが、12月に逝去。死後に婚姻無効が調停されている。昭和20年8月15日、昭和天皇の「玉音放送」で発せられた「終戦の詔勅」の草案作成にかかわり、また「平成」の元号の考案者でもあったという。

●国立女性教育会館

 文部科学省所管の独立行政法人で、宿泊研修施設を運営する。広大な敷地(東京ドーム5つ分、23ha)は元々は、農村の指導的人材の養成を目的として設立された「日本農士学校」だった。1977年に「国立婦人教育会館」として宿泊棟も備えた研修施設の運営をし、地域活動の主婦リーダーの育成が主な事業として、設立された。残りの部分は「日本農士学校」設立者である安岡正篤を後世に伝える「郷学研修所・安岡正篤記念館」となった。

 1999年以降の目的は、男女共同参画社会の形成の促進。具体的には、女性教育指導者その他の女性教育関係者に対する研修、女性教育に関する専門的な調査及び研究等を行う。本館に男女共同参画および女性・家庭・家族に関する専門図書館である「女性教育情報センター」、女性教育や男女共同参画施策等に関わった女性団体や女性の史・資料の収集・整理・保存・提供を行う「女性アーカイブセンター」がある。

2024年3月12日 (火)

長崎ランタン祭り

 2024年2月15日(木)~19日(月)、4泊5日の長崎への旅。

 

 2024年2月9日(金)~2月25日(日)、中国の旧正月(春節)を祝うお祭り 「長崎ランタンフェスティバル」が開催。今回のフェスティバルは、例年の15日間に2日間延長し、17日間にわたり開催された。

 長崎の中華街の人たちが、街の振興のために中国の旧正月(春節)を祝う行事として親しまれていた「春節祭」を、1994年(平成6年)から「長崎ランタンフェスティバル」として規模を拡大した。秋の「おくんち」と並んで、長崎の冬を彩る一大風物詩となっている。

 期間中は、中国のランタン(中国提灯)を飾る風習に習い、長崎新地中華街から市内中心部は、極彩色のランタンなどで彩られる。また、中国色豊かなイベントも繰り広げられる。

 

 2月15日(木)、11:45長崎空港着。昼食後、西九州新幹線の「新大村駅」や大村市内をめぐり、長崎市内へ移動。

 西九州新幹線の「新大村駅」 出典:ウキメディア・コモンズ

Shinomura_station_west_20220924

 「新大村駅」は、西九州新幹線の開業に合わせて設置された駅で、在来線の大村線の2路線が乗入れており、乗換えが可能。

 大村市から長崎市に移動し、JR長崎駅前のホテル泊。

 

 2月16日(金)朝9:40頃の長崎駅前。

Img_1824_20240305192201

Img_8657mos

 長崎駅前広場には、長崎ランタンフェスティバルの大型オブジェ。

Img_1827

 長崎駅に停車する西九州新幹線「かもめ」。西九州新幹線は、九州新幹線西九州ルート(福岡市・長崎市間)のうち、2022年9月23日に武雄温泉・長崎間の路線が開業した。

Img_8663

 N700S「かもめ」(2023年1月 新大村駅) 出典:ウキメディア・コモンズ

N700sy4_kamome29

 駅構内のお土産「かもめ市場」。【かもめ市場©NAGASAKI CITY2022/12/14

4

 お土産と食事が楽しめる駅中の本格横丁「かもめ横丁」、地元でも人気のご当地レストランなど56店舗。2022年3月18日、JR長崎駅改札前にオープン。「五島うどん だしぽんず」で、アゴだし、鯛だし、鶏だしと出汁にこだわったのうどんで早めのランチ。

 昼頃、駅前南口11:46発のバスで深堀町へ向かう。その日も長崎駅前のホテル泊。

 

 2月17日(土)、この日は朝から車で深堀町に行く。伊王島でランチの後、長崎駅前に戻る。

 13:30~15:00、出島から出島メッセ長崎までのコースで、「皇帝パレード特別版」が開催された。清朝時代の正月に皇帝・皇后がそろって町中に出かけ、民衆と一緒に新しい年を祝う様子をイメージしたパレード。皇帝・皇后の御輿を中心に、旗隊など総勢約150名が豪華な中国衣装を身にまとってパレード。皇帝役として福山雅治、 皇后役の仲里依紗が出演した。

 沿道には観覧エリア(定員:約2万人)が設置され、入場を希望者は抽選だった。

 時間の関係で見に行けなかった。福山雅治のインスタグラム(@masaharu_fukuyama_official)より写真を引用する。

Fukuyama_insta-238

Fukuyama_insta-239

Fukuyama_insta-240

 フェスティバルの最多の人出となったのは、この『皇帝パレード特別版』が行われた17日(土)。1日の集客数として過去最多となる約18万5千人が訪れたそうだ。

 14:10ごろの大浦海岸通り。昨日まで見なかった「飛鳥Ⅱ」が、国際ターミナルに停泊中。

Img_1834_20240311001701

 「飛鳥Ⅱ」は、15日(木)17:00に横浜港を出港、ランタンフェスティバルの観光だろうか、この日の13:00頃に長崎港に入港したようだ。

 国道499号を南下してドライブ、「女神大橋」を渡る。 

 「女神大橋」 写真提供:(一社)長崎県観光連盟 鍋冠山から女神大橋

Photo_20240311014401

 14:40、稲佐山展望台。長崎駅方面を望む。

Img_8693

 稲佐山展望台から長崎港を望む。

Img_8694

 稲佐山展望台から「飛鳥Ⅱ」を望む。

Img_8700

 稲佐橋を渡って宝町から駅前へ。

 17:30過ぎ、長崎駅前から路面電車で、新地中華街下車。ランタンフェスティバルを見に行く。。

 中華街入り口の「新地橋」のオブジェ。

Img_8724

 中華街の北門(玄武)

Img_8708

 中華街の人波を撮ってみた。この人波みの先には、中華街の南門(朱雀)があり、「湊公園」のイベント会場がある。

Img_8720

 「湊公園」会場のステージでは、沖縄の伝統芸能「エイサー」、「龍(じゃ)踊り」、「二胡演奏」などがプログラムされていたがこの混雑では行くになれない。

 「浜町アーケード」も凄い人波。

Img_8730

 「眼鏡橋」まで歩き、18:30頃到着するが、ここも観光客でいっぱい。

 黄色いランタンと「眼鏡橋」が、中島川の水面に映るのがとても良い。

Img_8742

 人が多くて、なかなかイベント会場までたどり着かなかった。

 新地中華街の電停に戻り、再び路面電車で長崎駅前に帰る。ホテル泊。

Img_1837
 

 2月18日(日)、「かもめ市場」の長崎ちゃんぽんの店「蘇州林」で早めのランチ。長崎駅前から路面電車に乗車、新地中華街電停で乗り換え、大浦天主堂で下車。

 12:30頃、「長崎孔子廟」へ。入館料660円。本廟の正門となる「儀門」(ぎもん)。

Img_8836

 長崎孔子廟は、1893年(明治26年)に、清国政府と在日華僑が協力して建立した。日本で唯一の本格的中国様式の霊廟。孔子は、『論語』で知られる中国の春秋時代の思想家。

Img_8819

 孔子座像。

Img_8792_20240312222801

 「大成殿」の奥につづいている建物で、2階フロアが「中国歴代博物館」、3階フロアが「長崎孔子廟史料館」となっている。

Img_8800

Img_8808

 14:00、孔子廟大正殿前の広場で「変面ショー」が始まる。広場の左右には、72賢人たちの白い像が並ぶ。

Img_8842

 変面ショーのために大勢の人が集まっていて、後の方からでは人の頭でよく見えない。

Img_8868_20240305201401

 [変面」は、中国・四川の川劇に属する伝統芸能。音楽に合わせた演舞に、お面が瞬時に10数枚変わる、その仕掛けは中国国家級無形文化財に指定されているという。

Img_8900_20240305201401

Img_8934

 19日(土)は、長崎駅から佐世保行きの列車「シーサイドライナー」で空港のある大村市のJR大村駅へ。

Img_1857_20240326235201

Img_1859_20240326235201

  昼頃には、折り畳み傘のが折れるほどの強風と大雨となった。雨の中、県営大村バスターミナル移動して、友人と待ち合わせ。近くの食事処でランチ。大村駅も大村バスターミナルにも、コインロッカーがなかったのは想定外だった。ターミナルのお店の人に旅行バッグを預かってもらい、傘まで貸してもらって、大変親切にしていただく。

 バスターミナルからで路線バスでおおむらしないのおおむらしないの長崎空港へ。16:25発の羽田行きの便で帰路へ。

 4年ぶり通常開催の「長崎ランタンフェスティバル」は25日閉幕し、長崎市は過去最多121万の集客を発表した。

2024年1月18日 (木)

四谷から神宮外苑

 2024年1月13日(土)、四谷界隈から神宮外苑をめぐる10kmほどの新春ウォーク。
 本ブログ記事「四谷界隈の谷と坂」の続き。
 

■四谷界隈を歩いたあと、地下鉄で四ツ谷駅に移動し神宮外苑をめぐる。

 丸ノ内線の四谷三丁目駅を12:55発、四ツ谷駅12:57着。赤坂口から出る。

 ちなみに「四ッ谷」と言う表記は、江戸時代から明治中ごろまで多く、明治末からは「四谷」が多くなったそうだ。現在「四ッ谷」 を使っている主なところは、JRと東京メトロの「四ツ谷駅」くらいのようだ。

 「若葉東公園」の中を突き抜けて迎賓館へ。

●迎賓館 13:10

 正門(参観者の出口)から見る「迎賓館赤坂離宮」。参観の入口は西門(学習院初等科側)、正門からはご入場できない。

Img_6488mos

 迎賓館は、世界各国から賓客を迎える内閣府の迎賓施設で、港区元赤坂の「迎賓館赤坂離宮」と京都御苑内の「京都迎賓館」の2か所がある。非公開だったが、2016年度からは一般公開されるようになった。「迎賓館赤坂離宮」は、本館と庭園は予約なしで、和風別館は予約制で参観可能。いずれも有料。毎週水曜日が休館日で、また接遇等により公開中止になる。入場時に禁止事項、注意事項等があり、金属探知機による検査と手荷物検査がある。

 現在の迎賓館の建物は、東宮御所として1909年(明治42年)に紀州藩の屋敷跡に建てられた。しかしネオ・バロック様式の外観が華美に過ぎたことや住居としての使い勝手が良くなかったため、皇太子嘉仁親王(大正天皇)がこの御所を使用することはなく、天皇に即位した後は離宮として扱われることとなり、名称も「赤坂離宮」と改められた。戦後、「赤坂離宮」を改修し迎賓施設にすることが決定、1974年(昭和49年)に現在の迎賓館が完成した。

●学習院初等科

  四谷角筈線(都道414号線)に出ると、そこは「学習院初等科前」交差点。

Img_6492

 「学習院初等科」の正門。赤坂御用地には近い。

Img_6493

 1847年(弘化4年)に孝明天皇により公家の学習所として、京都御所前に「学習院」が創設。1877年(明治10年)神田錦町に華族学校として改めて校名を「学習院」として開業、学習院予備科(初等学科)設置した。1884年(明治17年)官立学校。1947年(昭和22年)私立学校となる。元々は神田錦町にあったが、火事で虎ノ門へ、老朽化で現在の迎賓館の場所に、その後現在の迎賓館前に移動した。現在の本館は明仁親王(現上皇)が入学する際に建設されたという。

 四谷角筈線の「鮫ヶ橋坂」を下る。「鮫ヶ橋坂」は、本ブログの前の記事「四谷界隈の谷と坂」で記載した 「みなみもと町公園」のある南元町交差点で終わる。

 「迎賓館」西門近くから「鮫が橋坂」を見下ろす。出典:Googleマップ

Todo4141

 坂下の「みなみもと町公園」辺りは、すり鉢地形のもともと低い湿地で、かつては沼から鮫川が東南の赤坂溜池に流れていたそうだ。湿地は、江戸時代に外堀工事の残土で埋め立てられ、町屋となったという。

●鮫が橋門 13:20

 赤坂御用地の「鮫が橋門」。南元町交差点辺りに位置する。

Img_6494

 ここは、「学習院初等科前」交差点から350mほど。四谷角筈線(都道414号線)のこの辺りから先は、「安鎮坂(あんちんざか )」の上り。別名「権田原坂(ごんだわらざか)」 。

 「鮫が橋門」付近から「安鎮坂」の上り。出典:ウキメディア・コモンズ

Todo4142

 「安鎮坂」の名は、かつて坂の前にあった安藤左兵ヱの屋敷内に安鎮大権現の社があったことに由来し、後に「安珍坂」と書くようになったという。別名の「権田原坂」は、付近に屋敷のあった権田氏、あるいは権田原僧都の碑など諸説ある。この坂を上り切った場所は、「権田原交差点」という。

●仙洞御所正門 13:25

 「仙洞御所(せんとうごしょ)正門」の皇宮警察の派出所。ここは、赤坂御用地の「鮫が橋門」から約350m、「安鎮坂」の途中にある。

Img_6495

 正門の写真は、撮れなかった。「仙洞御所」とは、主に退位(譲位)した天皇の御所をいう。

 2019年(平成31年)4月30日24:00をもって第125代天皇が退位して上皇となり、同時刻の令和元年5月1日0:00、今上天皇が第126代天皇に即位した。これに伴い、皇居の従来の御所が上皇の御所である「吹上仙洞御所」に、赤坂御用地の従来の「東宮御所」が天皇の御所である「赤坂御所」にそれぞれ改称された。

 その後、2020年(令和2年)3月31日に上皇と上皇后は、「赤坂御所」が正式な「仙洞御所」として改修されるまでの間の仮住まいとして、港区高輪の旧高松宮邸に転居し、これを「仙洞仮御所」と称した。一方、皇居の「吹上仙洞御所」は改修を経て、2021年(令和3年)9月6日より今上、天皇一家の正式な御所となった。そして天皇一家転居後の「赤坂御所」は改修され、2022年(令和4年)4月26日に上皇・上皇后が旧高松宮邸から再度転居し、正式な「仙洞御所」となった。

 四谷角筈線(都道414号線)の「安鎮坂」は、権田原交差点で外苑東通り(都道319号)と交差する。

●国立競技場 13:45

 権田原交差点の歩道を渡り、外苑に入る。左手に明治神宮野球場、草野球の聖地・明治神宮第二野球場を見ながら進むと、木材を使用した「国立競技場」が見える。

Img_6497

 2020年東京オリンピック・パラリンピックにおいては、「オリンピックスタジアム」の名称で、メイン会場として使用された。隈研吾によるデザインは、明治神宮外苑との調和を目指した『杜のスタジアム』のコンセプトを掲げ「自然に開かれた日本らしいスタジアム」を提案。屋根や軒庇などを鉄骨と木材のハイブリッド構造とし、最大高さを47.4mと比較的低く設定することで、水平ラインを強調した構造となっているという。

 この日は、ラグビー全国大学選手権決勝(帝京大―明大)がこの国立競技場で行われた。

 3大会連続、12度目の優勝を目指す帝京大(関東大学対抗戦1位)と、5大会ぶり14度目の優勝を目指す明大(同2位)が対戦。試合前は晴天に恵まれた国立競技場周辺だったが、15:20の試合開始ごろには厚い雲に覆われる天気に。点灯試合になると、前半5分ごろには雨が降り始め、その後はみぞれ、時折雷鳴や稲光に見舞われる天候となった。帝京大の7-0で迎えた15:45(前半22分37秒)、試合を中断、16:40分に再開した。中断時間は55分間だった。節目の60回目の大会の決勝は、帝京大34―15明大。創部100周年の明大は、及ばなかった。

 試合開始の頃には、地下鉄に乗って渋谷を経由して、池袋に向かっていた頃で、天気の急変には気がつかなかった。

●聖徳記念絵画館 13:45

 神宮外苑の中心的な建物。建築当初のままの荘厳な建物には、明治天皇のご生誕から崩御までの出来事を、年代順に前半を日本画40枚、後半を洋画40枚で展示されている

Img_6502

 明治天皇崩御後に建築計画が持ち上がり、大喪の礼が行われた「青山練兵場」の葬場殿跡地で、1926年(大正15年)10月竣工。幕末から明治時代までの明治天皇の生涯の事績を描いた歴史的・文化的にも貴重な絵画を展示している。

Img_6504ps

 施設維持協力金1人500円を納め、入館する。維持管理は、宗教法人・明治神宮の予算で賄われているそうだ。

 13:50~14:30、絵画80点を鑑賞。以下、4枚の写真の出典は、ウキメディア・コモンズ

 館内展示の様子

Meiji_memorial_-picture_gallery1

 「大政奉還」慶応3年10月13日(1867年11月8日)京都・二条城 画家;邨田丹陵 奉納者;公爵・徳川慶光 

Meiji_memorial_-picture_gallery2

 「徳川邸行幸」明治8年(1875年) 東京・徳川昭武邸 画家;木村武山 奉納者;侯爵・徳川圀順

Meiji_memorial_-picture_gallery3

 「憲法発布観兵式行幸啓」明治22年(1889年)東京・桜田門 画家;片多徳郎 奉納者;日本興業銀行

Meiji_memorial_-picture_gallery4

 絵画館を出ると、晴天だった青空は、一面曇りに変わり、傘を差さなくても良い程度の雨がパラパラ。

●外苑キャンパス 14:35

Img_6506

 「外苑キャンパス」は、「京都芸術大学」と姉妹校の「東北芸術工科大学」の東京の拠点として、2010年7月に開設された。神宮外苑の敷地の中にある2階建てのキャンパスでは、芸術を学ぶことができる多様な公開講座を開講、社会人のための新型アートカレッジ「東京藝術学舎」や年間開講数約470を超える通信教育部課程のスクーリング授業などに利用されているという。

 「京都造形芸術大学」 を運営する学校法人瓜生山学園 は、2020年4 月より「京都芸術大学」と名称変更した。これに対し「京都市立芸術大学」が抗議し、「京都芸術大学」の名称使用の差し止めを求め提訴したが、大阪地裁で敗訴し、2021年7月大阪高裁で和解した。「京都市立芸術大学」は、これまで「京都芸大」「京芸」などと通称・略称されているので、学園側は「京都芸術大学」の名称を使えるが、「京都芸大」「京芸」を使用しないなどとすることで合意したという。

●御観兵榎 14:40

 神宮外苑のいちょう並木の近くに、「御観兵榎(えのき)」と呼ばれる旧跡の石碑がある。明治天皇が帝国陸軍の視察を行う際に着座していたとされる場所。

Img_6508

 石碑は、神宮外苑が整備された1926年(大正15年)7月に建てられ、揮毫は、伯爵・東郷平八郎。

 神宮外苑は、造営前は陸軍の「青山練兵場」だった。明治天皇は、1889年(明治22年)2月11日の憲法発布観兵式や1906年(明治39年)4月30日の 日露戦役凱旋観兵式など、観兵式出席のため練兵場を訪れた際は、ここに生えていた榎の大木の西側に設けられた御座所で視察したという。その後、神宮外苑が造営されることになった際、この木を「御観兵榎」と名付け、長く保存することとなった。

 当時の榎は、1995年(平成7年)9月の台風で倒れてしまったため、現在は自然実生木(みしょうぼく、種から生えだした木、生命力が強い)を移植した木が二代目。

Img_6509

●外苑いちょう並木 14:50

 黄葉した葉が落ちたいちょう並木は殺風景で、写真を撮るのを忘れてしまった。

 以下2枚の写真は、2012年12月1日撮影。

Img_7111

Img_7118

 神宮外苑を出て、近くの地下鉄外苑前駅に向かう。

 東京メトロ銀座線の外苑前駅15:01発、渋谷駅15:06着。渋谷駅で下車して外に出ると、路面が濡れている。副都心線に乗り換え、渋谷駅15:15発、池袋駅15:25着。池袋駅西口のマック店のコーヒーで時間を潰し、16:25~18:35居酒屋「楽蔵」で新年会。

 本ブログの関連記事

  「新宿御苑と神宮外苑」2012年12月2日投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-c466.html
 
  「都内をめぐる日帰り研修旅行」 2017年6月3日投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-bf6d.html




 ★ ★ ★

 明治神宮がある内苑の造営は国費で賄われたが、外苑については「明治神宮奉賛会」が全国の国民からの寄付金を取りまとめて資金を捻出し、また献木や青年団による勤労奉仕により、スポーツ・文化施設や緑地、公園などが明治神宮に奉献された。この外苑のうち、現在66.2%を明治神宮が保有・管理している。

 明治神宮の賽銭や玉串料などの「神社としての収益」は全体の約12%程度。その他は、結婚式場などのほかスポーツ施設利用の売上など「神社事業以外の収益」から得ている。これらの売上から費用を引いた利益により、内苑や外苑の森林管理維持費を捻出している。

 明治神宮は、神宮球場や秩父宮ラグビー場は耐震問題などで建て替えや外苑の再開発を検討しているが、資金を負担できる財政状況にはない。また、宗教法人には公金の投入は禁止されている。そこで、隣接する伊藤忠商事の東京本社ビル建て替えと三井不動産の再開発事業と絡めることで、民間企業の資金で再開発することにした。

 外苑のシンボルであるいちょう並木を始めとした豊かな緑を保全・継承し、新たな樹林地の創造、老朽化したスポーツ施設を段階的に建て替え、次の100年に繋がる国際的な文化とスポーツの拠点として整備、広場や緑地などのオープンスペースの整備により、宿泊施設や商業施設、オフィス、広場などを建設し、 様々なイベント実施による賑わいの醸成や避難場所として防災に寄与するなど、大規模再開発事業「神宮外苑まちづくり」のプロジェクトに取り組んでいる。

 この神宮外苑の再開発の是非が、東京都、専門家、文化人、住民を巻き込んで大きな論争になっている。豊かな緑や風致地区は本当に保全されるのか。そもそも都心部の再開発はなぜ必要なのか・・・。事業者側の計画では、2024年に着工予定、2036年の完成を目指すという。
 

  ★ ★ ★

 気象庁は13日、強い寒気が流れ込んだ影響で東京都心で初雪を観測したと発表した。平年より10日遅く、昨冬より11日早い。都心ではこの日、14時前に11℃を超えていた気温が、17時半には2℃まで急降下。夕方、雨に雪が交じって降る「みぞれ」となった。積雪はなかった。この日、国立競技場で開催されたラグビーの全国大学選手権が雪の決勝になるなど、都内各地で降雪に見舞われた。

 都心の雪は、夜遅くにやむ見通しだとのことだったが、池袋の居酒屋から外に出た18時半過ぎには、降ってなかった。しかし昼間と違って北風が吹いて、帰路は寒かった。

 「四谷界隈の谷と坂」をめぐり、四ツ谷駅から神宮外苑の絵画館までの新春ウォーキング。計画、案内してくれたYさんに感謝。

2024年1月17日 (水)

四谷界隈の谷と坂

 2024年1月13日(土)、四谷界隈から神宮外苑をめぐる10kmほどの新春ウォーク。


■JR信濃町駅から四谷三丁目の都会の谷と坂をめぐる。

 新宿駅からJR総武線、9:55「信濃駅」着。改札口(1ヶ所)を出て、正面に見える「信濃町歩道橋」の左手「千日坂」を下る。

Img_6342ps

●千日坂と一行院 10:00

 「千日坂」を下る途中、首都高(4号新宿線)の外苑出口高架の下に、「一行院」(現・一行院千日谷会堂)がある。

Img_6344ps

 この辺りは、徳川家の家臣で大名の永井直勝の下屋敷があった。「一行院」は、僧侶になった直勝の部下のために、下屋敷の一部を与えて庵を建立したのがその始まりとされる。ちなみに「信濃町」という地名は、ここに屋敷を有していた永井家宗家が代々「信濃守」を称していたことに由来する。 

 「千日坂」は、「一行院」の正式名称「一行院千日寺」に由来する。直勝の死後、回向(えこう)のため千日回向を行った。このことから正式名称が「一行院千日寺」となったと言われている。直勝の子孫に、作家の永井荷風三島由紀夫、狂言師の野村萬斎などがいるそうだ。

 「みなみ児童遊園」を左折し、狭い道を東に進むと、「みなみもと町公園」にぶつかる。

●鮫河橋地名発祥所 10:10

 「みなみもと町公園」 出入口の左手に、小さな赤い鳥居と祠の「鮫ヶ橋せきとめ稲荷」、その中に「鮫河橋地名発祥所」の碑がある。

Img_6346

 「鮫河橋」は、「鮫ヶ橋」とも表記される。かつてこの辺りは 低湿地帯で「鮫河」という川が流れており、 そこに「鮫河橋」が 架かっていたとされるが、今はその痕跡はない。江戸時代までこの碑のある場所は、周囲から下ってくる谷の合流点、いったん雨が降ると小さな川は濁流となった。急な崖で隔てられた台地上には大名や旗本の屋敷があったが、谷筋の低湿地は町人地で、台地と低地の境には四谷南寺町という寺院密集地帯があったという。

●みなみもと町公園 10:15

 「みなみもと町公園」の東側出入口付近から見る「ちびっ子広場」。

Img_6348

 天皇皇后両陛下の長女・愛子さまが、公園デビューしたところ。近くには、東宮御所(現在は仙洞御所)がある。

 園内を散策。「鮫河橋坂」に面する公園の北側出入口の方にある「森の広場」から、左の「多目的広場」、右の「ちびっ子広場」を望む。

Img_6350

 明治時代は、公園の敷地を含む地域は御料地となり、その後は学習院の所有地となったりいくつかの変遷を経て、東京都が買収、1964年(昭和39年)に都立公園として開園、1967年(昭和42年)に新宿区に移管後、1996年(平成8年)に全面改修され現在に至っている。

●出羽坂 10:25

 中央線・総武線・首都高のガード下をくぐってすぐ左手に、「出羽坂」。(出典:Googleマップ)

Dewasakashinjukuminamimotomachi

 「出羽坂」は、明治維新後にこの坂上に旧松江藩主であった松平伯爵(徳川時代は松平出羽守)の屋敷が移転してきたため、この坂名になった。現在は大きなマンションを含む高級住宅街になっている。「出羽坂」には上らず直進する。ここから「須賀神社」方面に向かう住宅街を通る道幅は狭い。ファミリーマートで左の道を進むと、突き当たりが新宿区立「若葉公園」。

●若葉公園と闇坂 10:30

 「若葉公園」入り口の右手が「闇(くらやみ)坂」(出典:Googleマップ)。

Kurayamisakashinjukusagacho

 この坂の左右にある「松厳寺」と「永心寺」の樹木が繁り、 薄暗い坂であったためこう呼ばれたという。

 住宅街の中にある「若葉公園」は、すり鉢状の谷に位置し、三方を擁壁で囲まれている。遊具の他、湧水を利用した水路と池が設置されている。

●鉄砲坂 10:35

 再び元の「須賀神社」に向かう道に戻り、更に進むと右手の丸正若葉ハイツ(若葉町2丁目)から登る「鉄砲坂」。江戸時代、坂の崖下に幕府の鉄砲練習場があったことからこの名がついた。
Img_6358
 
●戒行寺坂

 更に元の道を進み左手に「戒行寺坂」がある。

Img_6366

 若葉二丁目から左手に須賀町9番の日蓮宗「戒行寺」の南脇に登る坂道。坂道の坂下はかつて「戒行寺谷」と呼ばれていた。
  
●観音寺坂 10:40
 
 「観音坂」は、若葉二丁目の「西念寺」と「真成(しんじょう)院」との間の坂。「西念寺坂」などとも呼ばれる。若葉二丁目から北東、新宿通り(国道20号)方面に通じる。
 
Img_6370
 
 坂名は、「真成院」の「塩踏観音」またの名「汐干観音」にちなむ。「真成院」は米軍の空襲受けて全焼。戦後に再建され、1971年(昭和46年)に現在の寺院に生まれ変わった。東京の土地事情を鑑み、当時としては珍しい室内墓地「四谷霊廟」を全国に先駆けて建立した。
 
Img_6383ps
 
●西念寺と服部半蔵 10:45

 
 「西念寺」(浄土宗)は、服部半蔵が創建、服部氏の菩提寺である。この界隈は寺社が多い。

Img_6376

 境内にある服部半蔵の墓。半蔵は、徳川家康の旧臣で伊賀者の頭領、槍の名手だった。

Img_6377

●須賀神社 10:55

 「須賀神社」の男坂を上る。

Img_6391

 「須賀神社」は、江戸時代には四谷十八ヵ町の総鎮守の天王様として信仰を集めた。アニメ映画『君の名は。』の聖地、モデルとなった男坂の石段が有名。

Img_6396

 神社には、新宿区指定有形文化財(絵画)に指定の「三十六歌仙絵」がある。境内にレプリカが展示してある。

Img_6405

 「三十六歌仙」は、平安時代中期の公卿・藤原公任(きんとう)が、優れた歌人36人を選定したもの。万葉歌人から柿本人麿・山部赤人・大伴家持の3名、平安時代前期の『古今集』『後撰集』頃の歌人から紀貫之・在原業平・小野小町ら33名が選ばれている。

 「須賀神社の三十六歌仙絵」は、三十六歌仙を一人一枚の絵に仕立て、縦55cm×横37cmの絹地に彩色、額装の上社殿内に掲げてある。当時画家として高名な四谷の旗本・大岡雲峰の絵と、和歌や書画で人気を博した公卿・千種有功の書により、1836年(天保7年)に完成・奉納された。

 「須賀神社」の境内から「女坂」を下る。

Img_6409

●東福院(天王)坂と愛染院 11:10
 
 「東福院(天王)坂」は、「須賀神社」男坂の反対側(北側)にある。坂名は、坂の途中にある「東福院」に因む。また「天王坂」とも呼ばれ、明治以前の「須賀神社」が「牛頭天王社」、周辺が「天王横町」と呼ばれていたことに由来している。
Img_6416
 
 「愛染院(真言宗豊山派)」は坂の途中、上り右手にある(写真なし)。墓地に、『群書類従』の編者の塙保己一の墓がある。残念ながら墓地には一般の者は出入りは不可。

●円通寺坂

 「円通寺坂」は、若葉二丁目と須賀町の境界から北へ上り、新宿通りに至る坂道。坂名の由来となった「円通寺」が上り左手にある。新宿通りまで行って、戻る。
   
Img_6421mos
    
●於岩(おいわ)稲荷 11:20
 
 四谷警察署が建つ外苑東通り(都道319号)から東に一本入った路地に、二つの「於岩稲荷」がある。「於岩稲荷田宮神社」は、『東海道四谷怪談』の主人公・お岩の伝承をもつ神社。
 
Img_6430

 東京都指定旧跡「於岩稲荷田宮神社」に立てられた、以下のような都教育委員会の案内板がある。

 「田宮稲荷神社は、於岩稲荷と呼ばれ四谷左門町の御先手組同心田宮家の邸内にあった社です。初代田宮又左衛門の娘お岩(寛永13年没)が信仰し、養子伊右衛門とともに家勢を再興したことから「お岩さんの稲荷」として次第に人々の信仰を集めたようです。鶴屋南北の戯曲「東海道四谷怪談」が文政8年(1825年)に初演されるとさらに多くの信仰を集めるようになります。戯曲は実在の人物からは200年後の作品で、お岩夫婦も怪談話とは大きく異なり円満でした。(…後略)」

 もう一つは、道路の反対側にある「於岩稲荷陽運寺」。こちらもお岩さんを祀る。

Img_6440

 両者とも「於岩稲荷」と名乗って、本家争いをしているらしい。どうも歴史的な背景を辿れば、田宮神社の方が本家のようだ。陽運寺は、戦後にこの四谷に移転してきた日蓮宗の寺院。「於岩稲荷田宮神社」の人気にあやかり、建立されたお寺だという。

●そば処「稜花」 11:30~12:20
 
 「於岩稲荷」の前の道を北上し、T字路で右折して緩やかな坂道を下って左の角地にある店に入店。夫婦で営む落ち着いた店で、ランチに鳥せいろ(1,300円)を注文。

Img_6452ps

●女夫坂 (めおとざか)

 店を出て前の道路が「女夫坂」(上の写真)、別名「夫婦坂(めおとざか)」。「円通寺坂」の西側に平行する。昔はもっと勾配があって、両方からの上り下りの坂で、これを「夫婦坂」と呼んだ。この辺りの火事で改修され勾配は緩やかになり、歩いていて坂とは気がつかない。この坂を北上し、新宿通り(国道20号線)の四谷三丁目交差点と津之守坂入口交差点の中間に出る。
 
●津之守(つのかみ)坂

 新宿通りの「津之守坂入口」交差点。写真右側のビルの間が、「津之守坂通り」。
 
Img_6458

 四谷二丁目付近の新宿通りから、靖国通り(都道302号線)までを南北に結ぶ通り。三栄町交差点から合羽坂下交差点までの通りの北半分が「津の守坂」と呼ばれる坂であるため、この通称が付けられた。

●車力(しゃりき)門通りと金丸神社 12:25
 
 津之守坂入口交差点の横断歩道を渡り、新宿通りを50mほど西に歩いた右手が「車力門通り」の入口。江戸時代、通りは荒木町エリアへ向かう。荒木町が松平摂津守の屋敷だった頃、「車力門横町」と呼ばれ、物資が屋敷へ荷車で持ち込まれていた。この辺りは、花街と呼ばれた場所で賑わった。

Img_6459

 荒木町の花街は、すり鉢状に窪んだ谷地の底に溜まる「策(むち)の池」を中心に料亭や茶屋が並んでいた。今も飲食店が多く、隠れ家的な酒場が大勢を占めていて、花街の名残を残す。周囲はオフィス街、丘の上には高級住宅街、谷底に下町のような長屋がまだらに広がっている場所で、すぐ近くの喧騒の新宿の歓楽街とは違った雰囲気の街だという。

 「金丸稲荷神社」は、「車力門通り」に面する小さな神社。美濃国高須藩主・松平摂津守上屋敷の守護神として1683年(天和3年)創建した

Img_6468

 美濃国高須藩・松平家3万石は、御三家・尾張徳川家の分家で、尾張藩の支藩として荒木町に江戸上屋敷を、西新宿に下屋敷を有していた。幕末の第10代藩主松平義建(よしたつ)の子・慶勝(よしかつ)、茂栄(もちはる)、容保(かたもり)、定敬(さだあき)の4人は、この荒木町の上屋敷に生まれ、各々他家に養子に出された。

 本家尾張藩を継ぎ、明治新政府に味方した徳川慶勝。維新時、徳川家を代表して明治政府と交渉する立場に立った御三卿の一橋茂栄。新政府軍に徹底抗戦した会津藩主・松平容保と桑名藩主・松平定敬。「高須四兄弟」は、それぞれの立場で、激動の幕末・維新を生きた。

●千葉坂、策の池と津の守弁財天 12:30

 「金丸稲荷神社」から、北へ5、600m進むと、趣のある石畳のS字の「千葉坂」。石段を下っていくと、谷底に突如現れるのが「策の池」。
 
Img_6476
 
 荒木町の最深部の谷底に残る「策の池」と「津の守弁財天」。
 
Img_6472

 松平義行の屋敷には4mに及ぶ滝を伴った大きな池があり、家康が鷹狩りの際に乗馬用の策(むち)をここで洗ったことから「策の池」と呼ばれている。廃藩置県でこの地は、荒木町となり池が開放された。現在では湧き水は減って池も埋まり、この滝つぼ跡に昔の痕跡をわずかに残す。池のほとりにあった弁天祠を1956年(昭和31年)崇敬者によって現在地に遷座し、町民の守り神「津之守弁財天」として祀った。学問や音楽の神様としても親しまれている弁財天は、芸妓の多かったこの花街で親しまれた。

 「策の池」から北東に進むと、急階段の「仲坂」。

Img_6481

 「仲坂」を上り切って左に折れ、外苑東通りを南下。「金丸稲荷神社」を経て新宿通りへ。12:55、丸の内線「四谷三丁目駅」から一駅移動、12:57「四ツ谷駅」で下車。
 
 本ブログ記事「神宮外苑」に続く。

2023年12月23日 (土)

宮崎市青島と児湯郡木城町

 2023年11月23日(木)、宮崎市青島と児湯郡木城町に行く。

 

 11月24日(水)、羽田空港12:00発のソラシドエア57便、宮崎空港に13:50到着。夕方からコロナ禍で中止していた団体OB会の懇親会に5年ぶりに参加した。

 翌23日にJR宮崎駅から、9:10発の日南線油津行きの列車で青島観光に行く。

●青島駅

 9:39、無人駅のJR日南線青島駅に到着。

Img_8302

 昔、この駅を利用したことがあったが、車での移動が多くなってきて、ここで下車するのは何十年かぶり。

 1992年(平成4年)12月に無人駅となった。2020年(令和2年)4月、外観を現在の「海外のビーチハウス」風にリニューアルしたという。近年、2018年(平成30年)度の1日平均の乗降客数は172人だそうだ。

Img_8304_20231221180201
 

●青島亜熱帯植物園

 10:00、青島の西岸に位置する「県立青島亜熱帯植物園」に入園。写真は、ウィキメディア・コモンズより転載。

Aoshima_-botanic_-garden

 愛称は、「宮交ボタニックガーデン青島」。入館料無料。外苑には青島に自生するビロウをはじめ、フェニックス、女王ヤシ、ナツメヤシの他、ブーゲンビリアやハイビスカスなどの色鮮やかな南国の木や花々。

 「大温室」には、真っ赤なアンスリウム(大紅団扇、おおべにうちわ)。さといも科アンスリウム属で、原産は南米のコロンビア

Img_8335_20231221180301

 ブーゲンビリアは、オシロイバナ科ブーゲンビリア属に属する熱帯性の低木。原産地は中央アメリカ及び南アメリカの熱帯雨林。ちなみに宮﨑空港の愛称は、「ブーゲンビリア空港」。

Img_8323

 黄色いブーゲンビリアもあるが、白は珍しい。

Img_8322

 「大温室」は2016年(平成28)年3月にリニューアルオープン。床面積610㎡、高さ14.7mの屋内には、186種類、1,600本の植物。階段を上がって2階の回廊からは、花を間近に見たり、鮮やかな風景を見下ろしたりできる。 

 16品種のブーゲンビリアや世界三大花木のカエンボク・ホウオウボクなどが植栽。旧温室から移植したマンゴ-(国内最大級)、リュウビンタイ、ビヨウタコノキ等の他に新たに植栽した美しい亜熱帯花木があり、年間通して彩り鮮やかなエキゾチックなガーデンとなっている。温室の西側には「シンガポール植物園」との姉妹植物園50周年を記念たマーライオンの像が設置されている。

 「大温室」の北側には「熱帯果樹温室」(入場せず)があり、2019年(平成31年)3月にリニューアルオープン。26種類、83本の植物53品種を集めており、マンゴーやパパイアなどの果樹。パイナップル、パパイヤ、スターフルーツなどの果樹が植栽されており、一年を通してトロピカルな雰囲気を味わうことができるという。身近な果樹であるバナナ、パイナップル、パパイアについては4~15品種を揃え、コレクション展示をしているそうだ。 

Img_8336

 同園は、1967年(昭和42年)6月に開園。 東対岸にある青島亜熱帯性植物群落は北半球最北のヤシ科植物の群生地があり、設立当初はこれらのビロウの群落や亜熱帯植物の保護対策や学術研究の場とすることを目的としていたという。 開設から半年後の1965年10月、シンガポール植物園と姉妹植物園の締結を行い、半世紀以上に渡って技術者の派遣や植物の交換などを行っている。

 園内では青島に自生する植物だけでなく、シンガポール植物園やブラジル、アルゼンチンなどから譲り受けた様々な亜熱帯植物が植栽されている。開園から50年が経過し、2016年(平成28年)3月に施設を大幅にリニューアル。宮﨑交通が県から買い取ったのかと思ったが、命名権を採用して同年4月より愛称が「宮交ボタニックガーデン青島」となった。管理運営は、みやざき公園協会。

 「ロータリー花壇」。高さ4m、幅7mの華やかなブーゲンビリアのブーゲンマウンテンが大変好評で人気の写真スポット。

Img_8338
 

●青島と青島神社

 10:30、植物園から青島海岸の沖に浮かぶ周囲1.5㎞ほどの青島へ、浜から弥生橋を渡る。島は、陸繋島になりつつあるそうだ。

Img_8340

 青島は、全島が熱帯・亜熱帯植物の群生地として、国の特別天然記念物に指定されている。島では200種類以上の植物が確認され、そのうち熱帯性及び亜熱帯性の植物が27種あり、北半球最北のヤシ科植物の群生地と知られている。

 この島は、宮崎神話の「海幸彦・山幸彦伝説」の舞台となったと言われており、パワースポットの「青島神社」がある。

Img_8356mos

 神話ので知られる「山彦」、つまりヒコホホデミノミコト(彦火火出見尊)を祭神とし、縁結びの社として広く知られていて全国から恋人たちや女性参拝者が多く訪れるという。縁結びだけでなく、安産・航海・交通安全の神として信仰されているそうだ。

Img_8346

 亜熱帯植物群落の中をくぐって、島の中央付近の元宮に向かう。

Img_8351

 元宮跡から、弥生式土器、獣骨等が出土し、古い時代から小祠があり、祭祀が行われたものと推定されるという。

Img_8352mos

 青島周辺には、新しいグルメレストランがたくさんある。

 11:00~昼食。青島フィッシャーマンズ ビーチサイド ホステル&スパ(青島温泉郷)の海鮮料理「魚益」に入店。青島刺身御膳2,480円。

Img_8305

 11月下旬とはいえ、この日の東京の最高気温21℃に対し、宮崎は夏日の25℃だった。

 14:25青島駅発、南宮崎駅乗換で15:02宮崎駅着。宿泊した宮﨑市内のホテルから、部屋にセーターの忘れ物があるとの連絡があり、取りに戻る。忘れていたのに気がつかなかった。ホテルの親切な対応に感謝。

 この後、宮崎市より北へ30Km、県の中央部で日向灘に面する児湯郡高鍋町(人口約2万人)に移動して宿泊。

 11月24日(金)、高鍋町から更に北西へ5Kmほどの児湯郡木城町へ移動。木城町は、日向灘には面していない山間部の町(人口約5千人)。
 
●木城えほんの郷
 木城町に「えほんの郷 」という珍しい施設があるというので、行ってみる。「木城えほんの郷 」は、豊かな森の中にある「絵本」をテーマにした21世紀を生きる子どもたちの感性を育む木城町の文化施設。1996年(平成8年)3月開設した。

 森の斜面に位置する24,000平方mの敷地には、日本や海外の絵本約16,000冊と絵本原画を蒐集・展示している美術館と図書館の要素をあわせもった「森のえほん館」。児童書の専門店と軽食・喫茶店がある「きこり館」。毎夏北欧など海外からの劇団公演などが行われる「森の芝居小屋」、秋の新月か満月の夜年に一度コンサートが行われる「水のステージ」と『森のステージ」、また宿泊施設の「森のコテージ」が、点在していて、コテージでは宿泊も可能。

Img_8380_20231221180301

 森の受付棟に行く。来場者の入場受付、コテージ入室受付、各種の案内など行っているそうだ。

Img_8383

 受付け棟の対面には、「森のきこり館」。中には、絵本と児童書の専門店の「森のほんやさん」と、軽食やコーヒーの「森のコーヒーやさん」がある。「ほんやさん」にはブックアドバイザーがいて、本についての相談に応じてくれるという。

Img_8384

 受付で話を聞いて、どんな施設か概略わかった。ゆっくり見て回る時間も無いので、パンフレットをもらって帰る。


●日向新しき村

 「えほんの郷」の近くにある石河内展望台から、川原ダムと新納石城(にいろいしのじょう)の城趾にある「日向新しき村」を望む。

Img_8386

 「日向新しき村」は、小丸川の蛇行部分、ダム湖(川原ダム)に突き出した突出した丘陵上で、戦国時代の新納石城の城跡でもある半島状の場所。新納石城または石城(いしのじょう)は、伊東四十八城の1つであり石城合戦の舞台となった

Img_8388

 「新しき村」は、作家の武者小路実篤らにより創設された木城町にある村落共同体。実篤とその同志により、理想郷を目指して1918年(大正7年)開村された。ところが1938年(昭和13年)にダムの建設により農地が水没することになったため、1939年(昭和14年)に一部が埼玉県入間郡毛呂山町(一部は坂戸市)に移転し、残りは「日向新しき村」として存続しているという。現在は一般財団法人。

 近年、高齢化や農業収入の減少などもあって、村の運営が困難になってきているという。2013年時点の村内生活者数は13人。2018年時点では宮崎で3人、埼玉で8人が暮らしていたが、2021年春に70~80代の5人が離村し、2023年2月時点では3人へと減ったという。

   

 宮崎空港14:25発のソラシドエア60便、15:55羽田空港15:55着は、飛行機が20分ほど遅延して、14:45発、16:15頃着。羽田空港からのリムジンバスは首都高速などの渋滞で1時間も遅れて、自宅に帰り着いたのは、20:30頃だった。

 

 本ブログの関連記事

  「神話のふるさと日向の国-その3」 2019/06/11投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2019/06/post-6e0090.html

  「宮崎タウン」 2015/10/08投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-36e7.html

  「宮崎県木城町」 2012/10/08投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-4589.html

  「宮崎市青島」 2012/10/03投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-c716.html

2023年12月22日 (金)

紅葉の奥久慈めぐり

 2023年11月20日(月)紅葉の奥久慈、茨城県大子(だいご)町をめぐる。

 大子町は久慈川上流の奥久慈地域の中心で、観光と農業が中心の町。奥久慈しゃも(軍鶏)、奥久慈りんごが名産。日本三大名瀑」の一つで国名勝の「袋田の滝」、信仰の地として親しまれている「月待の滝」のほか、奥久慈温泉郷や鮎釣りなどの観光でも知られる。町中心部には久慈川が流れ、平行してJR水郡線が走る。町北部には、茨城県の最高峰「八溝山」(標高1,022m)や「高笹山」(922m)。これらは、筑波山(877m)より高い。 町南部には、「男体山」(654m) や「生瀬富士」(406m)がある。

 5:00時起床。6:00過ぎに自宅を出る。

 集合場所で17名を乗せたマイクロバスは、6:50出発。関越道から北関東道を経て、常磐道の那珂インターで高速を降り、国道118号線を北上する。

 10:30、JR常陸大子駅(大子町大字大子)の駅前でバスを下車。徒歩で「もみじ寺」として有名な「永源寺」へ向かう。

Img_7508

 

●「永源寺」(大子町大字大子)

 駅前から15分ほどで「永源寺」に到着。やはり紅葉狩りの観光客が多いが、紅葉はすでに終盤を迎えている。

Img_7411

 それ色づきが悪く、枯れた葉が枝に付いているようで、きれいな赤でない。

Img_7460

 「永源寺」の本堂。芸能の神である弁財天を祀り、大子七福神巡りの七番寺。

Img_7438

 1446年(文安3年)に創建されたという曹洞宗の寺で、御本尊は釈迦如来。

 「永源寺」から大子駅方面を望む。

Img_7455

 11:30「永源寺」を後にして、昼食のため大子駅前の温泉旅館「玉屋旅館」。11:45到着。

 ホームページには、源泉は「大子温泉」とあるが、現在工事中の為、お風呂はわかし湯らしい。

Img_7506

 老舗の旅館で、元祖しゃも弁当の宿。しゃも料理が名物らしい。2階のノスタルジックな客室で、しゃも弁当(1,300円)をいただく。

 しゃも弁当 「玉屋旅館」ホームページから引用

Lead_img01

 ちょっとパサついた感じだが、自然環境で飼育したしゃもは低脂肪で歯ごたえもあって、おいしい。

 12:30「玉屋旅館」発、国道118号を更に北上、12:50「月待ちの滝」駐車場に到着。

 

●「月待の滝」(別名「裏見の滝」、大子町川山

 この辺りは、残念ながらほとんど紅葉していない。

Img_7510

 駐車場から久慈川の支流大生瀬川に向かって下ると、高さ17m、幅12mの「月待ちの滝」が現れる。滝へと向かう道にはたくさんのモミジが植えられ、紅葉の季節の美しさは格別らしいが、今回は残念。

Img_7519

 滝の右手にはカエデの木があるが、葉は緑のまま。

 「月待ちの滝」は、滝の裏に入ることができることから、別名「裏見の滝」または「くぐり滝」ともいわれる。

 普段は二筋の「夫婦滝」だが、水が増すと中段の受皿から子滝が現れて「親子滝」になるという。古くから二十三夜の月の出を待って婦女子が集い、安産、子育て、開運を祈る「二十三夜講」の場とされたところから「月待の滝」と呼ばれ、胎内観音が祀られているという。

Img_7544

 「二十三夜講」とは、陰暦で二三日の夜。また、その夜の月待行事のこと。二十三夜の月は、真夜中になってのぼる下弦の月。講単位で宿などに集まり、念仏を唱えたり飲食したりしながら月の出を待ち、月を拝んで解散する。

Img_7578

Img_7561

 13:25、「月待ちの滝」駐車場発。県道461号線を西に向かい、13:50「法龍寺」着。

●「法龍寺」大子町上金沢

 この寺は、真言宗大谷派。如信(にょしん)上人終焉の地。親鸞上人を祖父にもつ如信上人が、関東・奥州への布教に下った際、陸奥の国の上金沢(大子町)に招かれ、1300年(正安2年)年1月、この地で66歳の生涯を閉じた。その後、徳川光圀が領内を巡視した際に如信の墓を訪ね、堂を建立して「法龍寺」と名付けたとされる。

Img_7615

 如信上人終焉の地として大子町史跡に指定されている。如信上人の墓所、如信上人お手植えとされる榧(カヤ)の大木と本願寺第三世の覚如(かくにょ)上人お手植えされたとされるイチョウの大木がそびえ、どちらも県内最大の大きさ。大子町天然記念物に指定されている。

 
また、本堂には水戸光圀由来の如信上人座像(大子町指定有形文化財)、聖徳太子立像(大子町指定有形文化財)が安置されているそうだ。

Img_7647

 イチョウは、樹齢約700年、樹高32.5m、幹周り11.1m(目通り)。

Img_7618

Img_7627

 黄色い絨毯のように、境内いっぱいに黄色い落葉が降り積もっているが、木には緑の葉がいっぱい。何か変だ。

Img_7625

 14:30「法龍寺」発。県道461号線を東に戻り、更に国道118号を経て、県道324号線を東へ。15:00、みやげ屋・食事処の「滝本屋本店」前で下車。

 

●「袋田の滝」(大子町袋田)

Img_7702

 「袋田の滝」入口で入場料300円を払い、「袋田の滝トンネル」(長さ276m)を通って第1観瀑台へ行く。

Img_7708

 徒歩約5分ほどで第1観瀑台。滝の上から3段目が目の前にあるが、最上段は見えない。

Img_7748

 「袋田の滝」は、久慈川支流の滝川上流に位置し、滝は4段で長さは合計120m、幅73m。冬は、滝が凍結する氷瀑(ひょうばく)現象が発生することがある。全面凍結はかつては毎年のように見られたそうだが、近年は2012年が最後で、氷瀑の脇を水が流れるという。

Img_7753

Img_7721

 華厳滝那智滝とともに「日本三大名瀑」の一つに挙げられる場合もあり、「日本の滝百選」にも選定されている。

 トンネルの途中に新設されたエレベータで、第2観瀑台(2008年9月オープン)へ上がる。第2観瀑台は3つのデッキからなり、第3デッキは第1観瀑台よりも 約51m上にあるため、最上段を含めた滝の全景を観賞することができる。

Img_7821_20231219223901

 ここから見る景色も紅葉が少なく、枯れ葉のような茶色のカエデが目立つ。

 この滝の別名「四度(よど)の滝」と名付けられたのは、滝川が4段に岩肌を落ちることから名づけられたとされる説と、この地を訪れた西行法師が「この滝は四季に一度ずつ来てみなければ真の風趣は味わえない」と絶賛したと伝えられているからという説がある。

 有料のトンネルや観瀑台を利用しないハイキングコースがあり、滝の一部や滝の縁を上流側から眺めることができるそうだ。なお、「袋田の滝」の200m上流には「生瀬(なませ)の滝」という滝があり、こちらも国の名勝に指定されている。

 15:55、「袋田の滝」を出発。国道118号線を南下。16:30~17:00道の駅「常陸大宮かわプラザ」(常陸大宮市岩崎)に寄って買い物。往路と逆順に辿り、19:45集合場所に到着。20:15自宅着。

 

 本ブログの関連記事

 「常磐道の周辺を巡る旅」 2018年11月23日投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2018/11/post-474f.html

 

 ★ ★ ★

 今年11月初旬にも、東京では最高気温が25℃を越す「夏日」が何日があったが、11月中旬以降はだいぶ涼しくなってきた。この日11月20日の大子町の最高気温は、15℃。暑くもなく、天気に恵まれた旅行日和だった。しかし、今回はお目当ての紅葉はサッパリ。

 今年は、暑い夏が長くて「秋がなかった」と言われる。9月の気温は平年よりかなり高めだった。10月は平年並みの気温だったが、また11月から12月にかけては平年より高めだという。この秋は長引く残暑の影響で、紅葉の見頃が例年より遅くなっているとも聞く。

 また一方で、紅葉の名所では真っ赤の染まるモミジが、「今年は物足りない」「鮮やかさがない」「去年よりも赤さがない」という声が聞かれる。やはり、今年の猛暑が影響している。

 専門家の話では、モミジの木は葉から栄養分を吸収しているそうだ。しかし、猛暑によって木が弱ってしまったため、例年よりも多く葉っぱから栄養分を吸収。これで葉の色素が失われ、落葉も早くなっているのではないかと推察されるという。例年なら、葉の栄養分を半分残すところ、ほとんど栄養を吸収してしまった。それで紅葉という段階を経ないで、葉が急に枯れて落葉してしまっているとことらしい。

 「平均気温、過去最高」 12月23日付の朝日新聞朝刊によるとーー

 気象庁は22日、今年の平均気温について1898年の統計開始以来、過去最高になる見込みだと発表した。春から秋にかけて3季連続で観測史上最高を記録し続けている。過去30年間(1991~2020年)の平均気温を基準に、年ごとの平均気温を比較すると、今年1~11月の平均気温はプラス1.34℃で最大だったという。12月も平年超えの高温と予想。これまで最高だったのは2020年のプラス0.65度で、上昇幅が倍増したことになる 。

2023年10月31日 (火)

川の博物館と鉢形城公園

  2023年10月22日(日)、東武東上線の鉢形駅から寄居駅まで歩く。

 途中、「川の博物館」と「鉢形城園」を見学。

 
 10:01、東武東上線の鉢形駅に到着。2015年(平成27年)3月に駅舎のリニューアルしたそうだ。近隣の埼玉県立「川の博物館」の水車小屋をイメージしたものだという。10:07、鉢形駅を出発、静かな住宅街を抜ける。

Img_5888ps

 坂を下り、右手の寄居町保健福祉総合福祉センターと寄居町総合社会福祉センターの大きな建物を過ぎる。

Img_5891_20231029153001

 左手に、荒川の「かわせみ河原」が賑わっている。

Img_5892

 10:30、埼玉県立「川の博物館」(かわはく)着。入場料は、一般410円。

Img_5906

 65歳以上の入場料は無料だったが、県の条例改正により、2013年(平成25)7月から一般と同じになっている。

 展示室などがある本館。

Img_5905ps

 本館前から「荒川大模型」、「レストハウス」と「大水車」。

Img_5904

 「大水車」は1997(平成9)年8月、「かわはく」の開館に合わせて作られた。埼玉県産のヒノキで作くられ直径は23m、日本一の大きさを誇ったが、2004(平成16)年に岐阜県で直径24mの大水車が完成し、日本第2位となった。2015(平成27)年、木部に老朽化により回転を停止。2017(平成29)年、改修工事が行われ、2019(令和元)年7月に直径24.2mの日本一の「大水車」が完成した。

 11:00~事前に依頼した学芸員による「荒川大模型」の説明を40分ほど受ける。

 荒川の源流(甲武信岳)から河口(東京湾)までの長さ173kmの流れと本流沿いの地形を1000分の1に縮小た大パノラマ。

 秩父山地、甲武信岳(標高2,475m)の山麓、奥秩父の赤い丸が「荒川源流点」とされる。

Img_5900ps

 深い谷を刻む荒川は、秩父盆地内を曲流し数段の非対称の河成段丘をつくっている。

 右手前が浦山ダム、その先に秩父市街。

Img_5903ps

 2019年(令和元年)の台風19号の当時の「かわはく」の被害状況などの説明があったが、本館の写真やパネルでも紹介されていた。

 11:38、途中、大小の水車を見ながら、レストハウスへ移動。

 園内には荒川流域で使われていた精米水車(上の写真)とコンニャク水車(写真なし)が移築復元されている。

Img_5920

 11:40、レストハウス2階、レストラン「ウォーターミル」で昼食。かわはくラーメン650円。

 12:00~本館展示室を見学。「鉄砲堰(てっぽうぜき)」の1/4模型。

Img_5923

 12:20~、大型パノラマスクリーンで実際の「鉄砲堰」を復元する過程と放水が解説、上映され、同時に「鉄砲堰」模型での放水実演が行われた。

Img_5925

 「鉄砲堰」は、木材運搬のために使われた木製の堰(ダム)。丸太を組んで水を貯めた後、堰を切って伐採した木材を水と一緒に一気に下流へと押し流すもの。 幕末から明治初期にかけて作られるようになり、秩父の中津川などでそう呼ばれていたが、堰を使った木材の流送手段は、全国各地に存在した。林道の建設が進み、トラックの普及により、戦後に「鉄砲堰」は全国から姿を消したという。

 「船車(ふなぐるま)」の実物大模型では、船車の歴史と役割について解説。以下2枚の写真は、「かわはく」のホームページより引用。

F_eximg02  

 「船車」は船に水車が付いていて、船の中で小麦などを粉にすることができる船。中には囲炉裏があり休憩や寝泊まりもできるようになっていた。荒川の水の増減にも影響を受けず、船のまま避難もできた。

 本館外壁に、川合玉堂の筆になる重要文化財「行く春」(六曲一双屏風)を、長さ21.6m、高さ5.04mの大陶板画(信楽焼)にして展示してある。「行く春」は、1916(大正5)年に長瀞・寄居方面を訪れた玉堂が、荒川に浮かぶ「船車」をモチーフに描いた傑作で第10回文展出品作。現在は東京国立近代美術館が所蔵、重要文化財に指定されている。

Apimg01

 「荷船(にぶね)」の実物大模型。「荷船」は荷物の運搬に使われ、年貢米や特産物などの物資の大量輸送を担っていた船。

Img_5930

 荒川本流や、その支流の新河岸川、入間川、高麗川などにおいて、河川輸送の主役だった。荒川本流では、荷船が辿り着ける最上流の熊谷と、最下流の東京との間の水運を担った。荷船には世辞(せじ)という部屋があり、炊事ができて2~3人が寝泊まりできるようになっていたという。 

 周辺の農村から河岸場に集められた米・麦・さつまいも・しょう油などの農産物は、荷船に積んで東京に運ばれた。秩父山地の木材・炭、川口の鋳物も重要な積荷だった。 東京からは、塩・酒・海産物の干物などの食料品や下肥(しもごえ)が主な荷物。肥船で運ばれた下肥は、貴重な肥料として農産物 の生産向上に役立ったという。


 12:33、「川の博物館」を出発。13:10、浄土宗「浄福寺」で10分ほど休憩。

Img_5934

 県道30号線を西へ進む。荒川に架かる「正喜橋」の手前の三叉路で、左の坂道へ少し進むと、13:35「鉢形城公園」の北端にある笹曲輪(ささくるわ)。

Img_5937

 「鉢形城」は、深沢川荒川に合流する付近の両河川が谷を刻む断崖絶壁上の天然の要害に立地する。

 公園の中を通る一般道を南に進み、坂道がゆるくなったあたり、Y字路の手前で左の小径を下る。

Img_5938

 深沢川に降りて、再び上がると13:45「鉢形城歴史館」に到着。

 2階が受付。入館料は、一般200円。70歳以上、無料。

Img_5939

 14:00~、ボランティアガイドによる説明を受ける。

 館内1階へ降りると、再現した櫓門が展示室の入口。館内撮影禁止。

Img_5940

 まず、展示室の鉢形城ワープステージ(鉢形城のジオラマ)で、鉢形城の歴史、城の構造を映像を交えて学ぶ。

 次に、館外へ出て、ボランティア・ガイドの案内で鉢形城趾を巡る。

・外曲輪(そとくるわ)
 「鉢形城歴史館」は、この外曲輪の一角に建てられている。この広い曲輪は、整備される前は民間の畑だったという。奥に土塁が見える。

Img_5942

・深沢川

 天然の堀、深沢川にかかる橋を渡る。

Img_5949

・土塁(どるい)

 左右に土塁が現れる。左の土塁には「カタクリ群生地」の看板がある。

Img_5950ps

 この先に、町指定の天然記念物で樹高18m、樹齢150年の大きなエドヒガンサクラ(愛称:氏邦桜)があった。

・本曲輪

 公園内を通る一般道に出て少し下った公園西側の本曲輪に進み、寄居の市街を望む。この下の荒川とは断崖絶壁。「正喜橋」のある北東方面を望む。

Img_5959

 北から北西方面。

Img_59601

・二の曲輪

 本曲輪の南側には、ニの曲輪がある。

Img_5970

 二の曲輪から北の方向、日光の男体山がよく見える。

Img_5973

・堀と畝(うね)<写真なし>

 二の曲輪と三の曲輪を隔てる巨大な空堀と土塁がある。堀は、発掘調査の結果、最大上幅約24m、深さ約12mの大規模な堀であることが判明。堀と土塁は屏風状に折れ曲がり、先が見通しづらい形状。堀底からは、「畝(うね)」と呼ばれる直線状の盛土がある「障子堀」の跡も発見されている。この「畝」は、敵兵が堀底で動き回るのを防ぐためという説と、堀底の水を一定に保つためという説がある。

・石積み土塁、四阿(あずまや)、池、四脚門

 三の曲輪では戦国時代の築城技術を今に伝える石積み土塁、四阿(あずまや)と池や四脚門などが復元されている。以下3枚の写真は、寄居町のホームページから引用。

 復元された石積み土塁。

Hp_508

 河原の石を使用した全長約100m、高さは約4m。いわゆる江戸時代の城の石垣とはその規模・技法等において見劣りするが、関東地方の石積技術の有様や石積を専門とする技術者の存在を示す重要な発見だという。

 復元された四阿と池。庭園跡とみられ、ここからは茶道具なども出土しているそうだ。

Hp_506

 復元四脚門。四脚門の前には虎口(こぐち)周辺の状況が復元整備されている。

Hp_507

・馬出(うまだし)<写真なし>

 城の出入り口である虎口を守る小さな曲輪を意味し、城兵の出入りを安全に行う施設。堀で四方を囲み、土塁は敵兵に面する箇所に設置されている。北条氏系の城郭は、四角い形の「角馬出(かくうまだし)」と呼ばれている。真田幸村が築いた「真田丸」の様な馬出とは異なる。鉢形城内には6箇所の馬出が推定されているという。

・鉢形城復元地形模型

 笹曲輪にもどり、鉢形城復元地形模型を確認。1/250スケールで鉢形城の全貌を模型にしてある。

Img_5976_20231030190001

 二の曲輪、三の曲輪、笹曲輪は、1997(平成9)年度から2001(平成13)年度にかけて発掘調査が行われ、それをもとに馬出や堀・土塁の復元整備が進められた。また、園内の遊歩道は、深沢川の渓谷やカタクリ群生地、エドヒガン(寄居町指定天然記念物)など四季折々の景観が楽しめる。

 15:15、「鉢形城公園」を後にする。

 新しくなった寄居駅南口前の中央通り線(県道190号)。

Img_5979

 寄居駅前の再開発事業が、2018年に基本計画が国に認定されてから本格化。町が約25億円を投じ、交流広場や駅前道路などの整備を進めていた。

 15:35、寄居駅南口駅前拠点「Yotteco」(ヨッテコ)に立ち寄り、コーヒータイム。2023年4月に開館したばかり。

 写真は、ウィキメディア・コモンズより引用。

Yotteco

 16:05 「Yotteco」発、16:19寄居駅発の東上線小川町行きの電車に乗車。

 開業以来約120年ぶりにリニューアルした寄居駅南口。

Img_5980

 およそ11km、19,000歩。約2万歩を歩いた。秋晴れのさわやかな空気の中、上着を脱いで歩く気持ちの良いウォーキングだった。
 

 ★ ★ ★

 「鉢形城」は、1476年(文明8年)関東管領であった山内上杉氏(上杉氏の諸家のひとつ )の家臣・長尾景春が築城したと伝えられる。その後、この地域の豪族・藤田泰邦に入婿した、小田原の北条氏康の四男・氏邦が整備拡充し、現在の規模となった。関東地方において有数の規模を誇る鉢形城は、北条氏の北関東支配の拠点として、さらに甲斐・信濃からの侵攻への備えとして重要な役割を担った。

 1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、北条氏の重要な支城として、前田利家・上杉景勝等の北国軍に包囲され、攻防戦を展開。氏邦は3千の兵とともに1ヶ月余りにおよぶ籠城の後に、城兵の助命を条件に開城した。開城後は城は廃城となり、徳川氏の関東入国に伴い、家康配下の成瀬正一や日下部定好が代官となり、この地を統治した。

 なお、「鉢形城跡」は、1932年(昭和7)に国指定史跡となった。2000年(平成12年)「21世紀に残したい埼玉ふるさと自慢100選」(埼玉新聞社)、2006年(平成18年)「日本100名城」(日本城郭協会)。2007年(平成19年)には、「日本の歴史公園100選」(都市公園法施行50周年等記念事業実行委員会)と「日本の史跡101選」(日本経済新聞社)に選ばれている。
 

 本ブログの関連記事

 「川の博物館」 2019/8/11投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2019/08/post-16c97e.html

 「武州寄居七福神めぐり-後半編」 2012/4/10投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-75a9.html

2023年9月25日 (月)

古賀志山

 2023年9月23日(土)、宇都宮市の「古賀志山」に登る。

 
 古賀志山(こがしやま)は栃木県宇都宮市の北西にある山で、標高は582.8m。「日本百低山」、「関東百名山」に選定されている。低山ながらも北関東屈指の名山とされる。

 昨夜からの雨が今朝も続くが、現地に着く頃には曇りの予報。

 7:00、車2台に分乗して出発。東北道の鹿沼ICから、9:15「宇都宮市森林公園」駐車場に到着(写真はGoogleマップ)。

Shinrinkoen_parking_ps

 ここでは、毎年10月に森林公園周回コースで「ジャパンカップ・サイクルロードレース」(Japan Cup Cycle Road Race)が開催される。

 9:30、「宇都宮市森林公園」駐車場を出発。

 森林公園内にある「赤川ダム湖」。公園内には、休憩所、食堂、キャンプ場、バーベキュー場、魚釣り場、サイクリングコースなどが整備されており、市民の憩いの場となっている。

Img_5754

 細野ため池として建設され、当初「細野ダム」とも呼ばれていたようだ。「赤川ダム」より赤川に沿って約800mほど北には、「細野ダム」という名の砂防ダムがあるので紛らわしい。 

 森林公園通りを歩くと、「古賀志山」が顔を出す。手前にダム湖の湖畔に「少年自然の家」の建物が見える。

Img_5757

 森林公園の奥、左手にオートキャンプサイトの「ロッキーズ」(The Rockys)。子どもたちと遊べるアウトドア施設。

Img_5763

 道路脇に立つ「古賀志山周辺地図」。(写真をクリックすると拡大表示されます)

Img_5765

 「ロッキーズ」の入口付近で、森林公園通りは左へ折れて芝山林道(古賀志林道)へ。

 9:55、車両通行禁止の「北登山道」(北コース)入口に直進する。

Img_5769

 沢沿いに上流に向かって林道を進む。

Img_5776

 10:00、細野ダムの手前で「古賀志山」への北登山道(北コース)と「中尾根」の分岐。

Img_5777_20230924171201

 杉林の中の砂利道の林道を歩く。

Img_5781_20230924171201

 沢に架かる木橋を渡る。

Img_5785

 10:10、コップが置いてある水場。

Img_5791

 再び木橋を渡る。

Img_5793

 10:35、丸太のベンチがある広場に到着。10分ほど休憩。

Img_5802

 広場からは、勾配が急になる。

Img_5797

 「富士見峠」直下は、岩ゴロゴロ。息が切れそうな急登。最後は丸太の階段。

Img_5810mos

 11:15、ベンチのある「冨士見峠」に到着し、尾根に出る。ここで5分ほど休憩。

Img_5815

 この先も急登が続き、ロープや鎖も設置されている。

Img_5820mos

 11:50、「古賀志山」の山頂に到着。ベンチで昼食、休憩。

Img_5834_20230924171301

 周囲には樹木が茂っていて、見晴らしは良くない。携帯電話の電波塔がある。

Img_5831

 12:20山頂を離れて、「富士見峠」に戻る途中、「東陵見晴台」への分岐。

Img_5850

 12:30、狭い岩棚の「東陵見晴台」に到着。

Img_5844

 「東陵見晴台」からの眺望。写真ではわかりにくいが、眼下の左端に赤川ダムや森林公園。その先に広がる宇都宮市街。中央の木陰に「多気山」(たげさん、377m)、中央より右手に「筑波山」(877m)が遠くに霞む。

Img_5838

 見晴台には、寒暖計が木にくくりつけられていて、20℃を指している。

Img_5848

 東陵分岐まで戻り、「富士見峠」から往路を下る。

Img_5854_20230924171401

 14:05、往路で通り過ぎた「ロッキーズ」(The Rockys)に入場。

Img_5766

 「ロッキーズ」は、車が乗り入れられるオートキャンプサイト。BBQ、電動バイクや電動アシスト付きのマウンテンバイク(自転車)の貸し出し、​森林公園の周辺のサイクリング、遊具やプールの水遊び場などがある。アイスクリーム(400円)を食べながら休憩。

Img_5859

 14:20、森林公園駐車場着。14:50出発、帰路へ。

 17:10、出発地着。

 朝から雨だったが現地に着く頃は雨が上がり、青空も見え始めて時々薄日が射す。しかし、結局夕方まで曇り。少し蒸し暑さはあったが、気温は20℃と最近の残暑と違って低くかった。標高600mも満たない低山と軽く見ていたが、久し振りの本格的な登山になった。

 下山時には、小雨か霧雨が降り始めたがすぐに止み、無事下山。トレイルランニングの男女をたくさん見かけ、健康のために週に2,3回は登っている単独の高齢の女性、犬の散歩と思われる軽装の男性などに遭遇。標識があんまり無くてよそ者にはわかりにくい山だが、やはり宇都宮市の「市民の山」、「日本百低山」にふさわしい山だった。

 

 本ブログの関連記事

 「大谷石とカルビー」 2019年06月18日投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2019/06/post-a364de.html

 「宇都宮と大谷石」 2018年10月22日投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-46a2.html

 

 ★ ★ ★ 

 「古賀志山」(標高582.8m)のほか、「御岳」(御嶽山、546m)、「赤岩岳」(536m)は一体の山塊として、これらをまとめて「古賀志山」と呼ぶこともあるそうだ。「御岳」山頂には石の祠(ほこら)があり、御嶽神社が祀られている。「古賀志山」の東側ピークにある「東稜見晴台」や西側ピーク「御岳」からは北西から北東にかけて日光連山、那須連山、東に多気山と宇都宮市街、遠くに筑波山。南に鹿沼市街、秋から冬にかけては富士山を遠望出来るという。

 「古賀志山」は低山ながら、辺り一帯は岩山が多く、切り立った岩場も多い。鎖場や岩場が連続するコースもある刺激的な山で、初級者から上級者まで楽しめる。もともと「古賀志山」は「初心者コース」と言われていたが、近年、滑落や転落などの山岳遭難が相次いで発生しているという。これは、登山道が多いため道に迷ってしまったり、上級者向けの危険なコースを未経験者が通ってしまうことなどから、栃木県山岳遭難防止対策協議会では「中級者コース」に指定した。

 一帯の数あるコースの中でも、広い駐車場のある森林公園側から出発する2つのコース(北登山道コースと南登山道コース)がお勧めだという。「古賀志山」周辺はレジャー施設として利用されており、「御岳」には切り立った奇岩を利用したロッククライミングのゲレンデとして知られ、「赤岩山」山頂にはパラグライダーの出発場となっている。

 また山麓東南側の森林公園周辺には、日本で唯一、国際自転車競技連合(UCI)よりワールドツアーに次ぐ「プロシリーズ」に認定された、アジア最高位のワンデイロードレースが開催される。大会は3日間、初日には全出場チームが顔をそろえる「チームプレゼンテーション」。2日目は宇都宮市中心部の大通りを周回するハイスピードレース「ジャパンカップクリテリウム」。最終日が、標高差185mの古賀志林道を疾走する「ジャパンカップ・サイクルロードレース」。

 2016年ジャパンカップサイクルロードレース(赤川ダム周辺) 出典:ウキメディア・コモンズ

Japan_cup_cycle_road_race_2016_001

 森林公園駐車場に戻る途中、ジュニアクラブと思われる競技用のユニフォームを着た子どもたちが、ロードバイクに乗って森林公園周辺の坂道でタイムトライアルをやっていた。宇都宮は、渡辺貞夫を輩出した「ジャズのまち」、市民のソウルフード「餃子のまち」、そして宇都宮競輪やジャパンカップの「自転車のまち」だ。

より以前の記事一覧

2024年5月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

最近のトラックバック