吉見百穴と武州松山城趾
2025年2月4日(火)吉見百穴と武州松山城趾(埼玉県比企郡吉見町)に行く。
ガイドボランティアが案内。 (写真をクリックすると、拡大表示します)
●吉見百穴
9:00~「吉見百穴(よしみひゃくあな)」に入園。観覧料300円。
「百穴」のある丘陵は、切削に適した凝灰質砂岩。古墳時代後期~終末期に造られた。横穴墓の数は、現在219基。
1887年(明治20)に東大大学院生だった坪井正五郎氏らが、横穴237基を発掘。当時は、住居か墳墓かの論争があった。1923年(大正12年)に国の史跡に指定。
玄室の右手に棺座、入口には緑泥石片岩で蓋がされていた。
太平洋戦争末期、中島飛行機の地下軍需工場が全国から集められた3000~3500人の朝鮮人労働者によって建設されが、本格生産する前に終戦となり閉鎖された。建設により20基近くの横穴墓は破壊された。以前は内部を見学できたようだが、現在は立入り禁止となっていた。
本来、傍を流れる市野川は蛇行し「百穴」に近い位置を流れていたそうだ。工場を造るにあたって前面に広い土地が必要になり、 川を真っ直ぐに改め、現在では堤の手前までは広い駐車場になっている。また、地下から掘り出した土を手前に埋め立てたため、園内はその駐車場よりも高くなっているという。
「かぶと塚古墳」の横穴墓の石材が、屋外に展示してあった。
鉄製手斧の加工痕のある玄室の凝灰質砂岩の一部。
「かぶと塚古墳」は、吉見町久米田にあった円墳で、1973年(昭和48年)の調査の後に墳丘は破壊され、失われている。
石室に用いられた石材の緑泥石片岩。
「吉見百穴」の2.5Km北の吉見町黒岩にも、百穴と同様の遺跡「黒岩横穴墓群」がある。
9:40、園内の「吉見町埋蔵文化財センター」に入館。町内で発掘された縄文時代からの出土品などが展示。
2001年(平成13年)年度の西吉見条里遺跡の発掘調査で、道幅9~12mの古代の「東山道武蔵路」の道路跡が発見された。展示してあった地図は、撮影禁止のため吉見町ホームページより転載。
「東山道(とうさんどう)」は、都を基点に信濃、上野(群馬県)をへて、東北に向かう五畿七道の一つ。そのうち「武蔵路(むさしみち)」は、上野から分岐して武蔵国府(現・府中市) に至った。吉見は当時、重要な交通の要所だったようだ。江戸時代になると、江戸を中心とする五街道が整備され、幹線道路としての「東山道」は、中山道・日光例幣使街道・奥州街道などに再編された。
10:10、「百穴」の丘陵の上からの東松山市街を展望。
左手後方に冠雪の富士山。
正岡子規の句碑。1901年(明治24)11月、当地を訪れた。「神の代は かくやありけん 冬籠」
子規が訪れた明治時代は「住居説」だったので、冬の「百穴」を神の住居に例えたのだろうか。
●岩室観音堂
「百穴」を出て、10:45「岩室観音堂」を拝観。この堂は、ここから北東へ徒歩10分程度にある「龍性院」の境外仏堂。
岩をうがって観音像を祀った。代々の松山城主が、信仰し護持した。
観音堂2階の天井の構造材。建物・屋根を支えるために多数の材が使われている。千社札も多数貼られており、額も様々飾られている。
2階の鉄格子扉の岩窟の奥に御尊像(観音様)が安置されているが、よく見えない。
岩室観音は、「比企西国三十三所観音札所」の第三番。洞窟内に88体の石仏が安置。「四国八十八ヵ所」の参拝と同じ巧徳が得られるという。
観音堂の裏にある「胎内くぐり」のハート型のトンネル。
ここをくぐると、諸難を除き、安産、その他の願いが叶うとのこと。
以上3枚の写真は、2015年12月12日撮影。
●武州松山城趾
城の周囲は市野川が天然の堀として利用して、丘陵上に建てられた平山城。その天然の要害から不落城とも言われた。西側の市野川をはさんで対岸にあたる比企郡の松山本郷(現在の東松山市)は平地になっており、城下町が形成された。大正14年(1926年)に「松山城址」として県の史跡に指定。
南西方向からの「松山城跡」 出展:Google Earth Pro
11:00、「松山城趾」の「曲輪4」の入口から入場。 「三ノ曲輪」を経て「二ノ曲輪」。
「二ノ曲輪」から「松山城趾」最大の高低差(9m)の「空堀」を渡ると「本曲輪」へ至る。
「本曲輪」には昭和初期、お堂があった。
築城技術の高さ、良好な保存状態などから「松山城」「菅谷館」「杉山城」「小倉(おぐら)城」の4城趾が、「比企城館跡群」として国の指定史跡となっている。
城の北側、「虎口」付近で発掘調査。 11:35、城趾を出る。
11:45~12:40、「洋麺屋 五右衛門」東松山店でランチ。
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「比企西国札所巡り-その2」 2015年12月13日投稿
http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/12/post-cf25.html
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室町幕府時代、足利尊氏が関東に鎌倉府を設置し、関東管領として上杉氏が統治した。やがて室町幕府の要職にあった公方足利氏、扇谷上杉氏、山内上杉氏らの確執によって争乱・内紛が起こるようになり、関東の動乱を背景に「松山城」は扇谷上杉氏側の拠点の城として15世紀後半に築城されたと推定されている。15世紀後半から16世紀前半に比企地域に城館跡が多く残るのは、これら三つの勢力が交差する地域だからだという。
その後、扇谷と山内の上杉氏、小田原北条氏、甲斐武田氏、越後上杉氏らの「松山城」をめぐる攻防は大変激しく、ここが北武蔵地域の要所であったことが伺える。特に1537年(天文6年)に北条氏綱が「江戸城」と「川越城」を落とし、「松山城」を攻めたことで有名。その後も小田原北条と越後上杉などによる度重なる合戦によって支配者が頻繁に変わったが、北条勢力下の上田氏の支配下にあることが多かった。
1590年(天正18年)、豊臣秀吉による関東攻略の際、前田利家・上杉景勝などの軍勢により「松山城」は落城し、小田原の北条氏は滅亡した。その後徳川家康の支配下に入り、松平家広が1万石の松山藩(のちに3万石に加増)として城主となった。2代目の弟・忠頼のときに5万石の浜松藩に移封され、1601年(慶長6年)に「松山城」は廃城、この地域は川越藩領となった。
徳川家広の入城から廃城までの時期には交通の便が優先され、城下町(松山本郷方面)と城域を隔てていた市野川に橋が架けられたという。本来ここは「松山城」防衛の要となる方角だったので、争奪戦が激しかった北条氏が支配した時代までは橋が存在しなかったそうだ。
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