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カテゴリー「文化・芸術」の21件の投稿

2020年2月22日 (土)

ミライon図書館

 2020年2月15日(土)、昨年10月に開館した「ミライon図書館」に行く。
 

 「ミライon(みらいおん)図書館」は、「長崎県立長崎図書館」と「大村市立図書館」の共同運営図書館。

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 「長崎県立長崎図書館」は、1912年(明治45年)に創設。1960年(昭和35年)に建て替えられた後、老朽化が進み年々増加する資料の保管の能力をはるかに超えたため、新たな建設が望まれていた。

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 長崎市にあった「長崎県立長崎図書館」を移転して、大村市の「大村市立図書館」や「大村市民会館」の敷地に県立・市立一体型の図書館施設「ミライon図書館」として2019年1月竣工、同年10月5日にオープンした。

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 都道府県と市町村が共同運営する図書館は、高知県の「オーテピア高知図書館」以来の全国では2例目だそうだ。九州の県立図書館としては、収蔵能力最多の202万冊を誇る。開館時の蔵書数は、約125万冊でうち開架図書は25万冊。

 

 10:00頃入場。

 建物は6階建だが、一般利用者の入館は4階まで。天井や書架には長崎県産の木材が使われていて、優しく温かみのある雰囲気。

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 1階は、こども室(児童書の書架4万冊、閲覧席101席)、多目的ホール(200名収容)、カフェ「cafe miraino」、「大村市歴史民俗資料館」など。

 2階は、学習スペース(104席)、研修室(76名収容)、グループ学習室(6名×4室)など。

 下の写真は、吹き抜けの3階から撮影。下半分は2階の学習スペース、上半分は1階のこども室。

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 3階は、一般資料の開架・閲覧スペース(一般書約21万冊、閲覧席231席)。

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 4階は、資料閲覧スペース(閲覧席116席)など。

 

 石井筆子が愛用した「天使のピアノ」のレプリカが、1階のサブエントランスに設置されている。

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 エントランスの壁には、近代を拓いた大村の人々のパネル展示。

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 右から黒板勝美(教育)、荒木十畝(美術)、長岡半太郎(科学)、石井筆子(教育)、長岡安平(造園)、長与専斎(医学)、楠木正隆(政治)、渡辺清・昇(政治)。

 

 1階に併設の「大村市歴史資料館」。 

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 「大村市歴史資料館」は、大村藩や大村家関係の古文書等を保管・展示するため、1973年(昭和48)に開館。以後、大村に関する歴史資料の収集、調査、展示を行っている。所蔵資料は、1万数千点。

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 資料館は、「プロローグ展示」、「シアター」、「常設展示室」と「企画展示室」から構成されている。

 「プロローグ展示」は、多くの人を引き寄せ賑わい作り出す資料館の入口。床には、大村湾を中心とした大村藩に相当するエリアの航空写真(写真なし)。

 「シアター」では、デジタルコンテンツ「南蛮屏風図 天正遣欧少年使節」を映写。

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 戦国時代の長崎などでの南蛮貿易を描いた南蛮屏風をモチーフに、織田信長、豊臣秀吉や大村純忠などの歴史上の人物たちが登場する。コンテンツに触ったり、スマホを使って遊んだりと参加して楽しむことができるそうだ。

 また、映画「遥かなる天正遣欧少年使節」を毎時00分と30分から、8分間上映。バチカンロケを行った天正遣欧少年使節のドラマ「MAGI-遣欧天正少年使節」(2019年公開、野村周平主演)のダイジェスト版のようだった。学芸員の話では、少年使節が実際にローマ教皇に謁見を行った「帝王の間」の撮影は、国内初だという。

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「常設展示室」は、説明パネルや歴史資料のほか、ジオラマや映像、情報検索システムなどがある展示室。大村の歴史全体を楽しく知ることができる。

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 「企画展示室」では、「新収蔵品展」が1月11日(土)~2月24日(月)で開催中。

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 近年収集した坂本龍馬や桂小五郎から薩長同盟に尽力した大村藩士・渡辺昇にあてた手紙(渡辺清の交友関係を知る資料)、江戸時代に世界の人々を描いた「万国人物図」など初公開を含む展示。

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 11:30頃一旦退場して、館外で昼食。12:30過ぎに、再び入館。

 

 13:30~15:10、館内の多目的ホールで郷土史講演会「ミュージアムの将来~社会の中のミュージアム」を聴講する。

 ・報告「大村市歴史資料館の整備について」 大村歴史資料館 館長 今村明 氏 

 ・講演「ミュージアムの現在とこれから」 長崎県立美術館 館長 米田耕司 氏

  主催は、大村史談会、大村歴史資料館。

 15:30~学芸員による「大村市歴史資料館」の展示案内。

 

 学芸員の話で「ミライon図書館」から徒歩5分の「プラットおおむら」に、別館の「大村市近代資料室」があるという。

 「ミライon図書館」を退館して、アーケード街(旧長崎街道)の中心市街地複合ビル「プラットおおむら」の5階に行ってみる。16:30、「大村市近代資料室」に入場(入場料無料)。

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 明治から終戦後まで、近代大村の歩みを伝える新しい展示施設。

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 歩兵第46連隊や海軍航空隊、第21海軍航空廠と昭和17年の大村市誕生など、近代化の道を進んできた大村市の歴史的資料を展示。

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  16:45、退場。

 ★ ★ ★

●石井筆子について

 石井筆子(1861~1944年)は、渡辺清の娘。清は幕末の坂本龍馬や木戸孝允と交流があった志士で、明治政府では福岡県令や元老院議官などの要職を歴任し、男爵に叙せられた。

 筆子は、オランダやフランスに留学するなど優れた語学力を生かし、女性の教育と権利向上に貢献した。また、日本初の知的障害児社会福祉施設「滝乃川学園」(東京・国立市)の創立者・学園長の石井亮一と再婚、2代目学園長としても活躍した。

 「天使のピアノ」は、現存する日本最古のアップライトピアノだそうだ。演奏者の目の前に位置する上前板に、2人の幼児を抱いた天使がデザインされている。筆子はこのピアノでクリスマスなどに演奏を披露したとされ、現在でも同学園で使われているという。

 2007年には、石井筆子の生涯を描いた映画『筆子・その愛天使のピアノ』(常盤貴子主演)が製作・公開されている。

●大村市歴史資料館

 以前の「大村市立図書館」に併設された資料館がどんなものだったか知らないが、新しい資料館は郷土史を知る上では非常に分かりやすく、楽しく歴史を学ぶことができ、素晴らしかった。

 大村の歴史は、それぞれの時代の特徴的なポイントは、

 ・原始・古代:富ノ原の環濠集落遺跡、彼杵荘(そのぎのしょう)、仏教文化の隆盛、竹松遺跡。

 ・中世:大村氏の登場、戦国の世を生き抜いた大村氏、大村純忠と天正遣欧少年使節、キリシタン王国の時代。

 ・近世:大村藩260年間の歴史、隠れキリシタンと宗教政策、捕鯨で財をなした深澤義太夫、藩校の五教館、幕末を駆け抜けた大村藩士。

 ・近代:城下町から軍都大村へ。陸軍歩兵連隊、海軍航空隊、海軍航空工廠。

 などがあげられる。

 大村氏のはじまりは、大村家の系図では伊予国(愛媛県)から藤原純友の孫の直澄が、大村にやってきて大村と名乗ったと伝えられていた。昔読んだ郷土史や観光パンフレットには、そう書いてあった。どこか大村家の出自(しゅつじ)を権威づけるような系図は、捏造めいた感じがした。

 しかし最近の研究では、大村家は平安時代の藤津荘(現在の佐賀県鹿島市)の原一族と考えられているという。資料館の説明パネルでは、原一族は藤津郡から彼杵郡へと勢力を伸ばし、大村と名乗って大村を本拠地に有馬氏と争ったと書いてあった。

 

●ミュージアムの将来

 「ミライon図書館」の特徴は、閲覧や学習のスペースが多くとられていることだそうだ。その数はおよそ550席もあって、席ごとに(一部を除いて)専用の電源コンセントが目についた。パソコンを持ち込んで、勉強や仕事をするのにも便利。もちろんWi-Fiも完備。また1階のエントランスでは、お昼時になると飲食をしている人たちがいたのは驚いた。

 午後からの「長崎県立美術館」の米田耕司館長の講演は、面白かった。ミュージアムは、「市民のリビングルーム」であるべきだと言う。忙しい日常の中で、ホッとする場である。例えばミュージアムに、食事ができるカフェが必要だと主張。これまでの第一世代、第二世代のミュージアムに対して、「第三世代の博物館像」を提唱されている。話を聞いて目からウロコが取れる思いがした。

 例えば、第1世代は保存志向、第2世代は公開志向だったが、第3世代は参加・体験志向だという。これまでの閉鎖的で、難しくて、堅苦しい、暗いイメージは、最近あちこちのミュージアムを訪問した経験では、確かに変わって来つつあるのに気がつく。市民に参加してもらって、地域社会に開かれた、くつろげる自由なミュージアム。まさしく 「大村氏歴史資料館」や「ミライon図書館」もその将来を先取りした施設だった。ここでは、1階エントランスとカフェでは、食事が可能とパンフレットに書いてある。

 「文化芸術基本法」は、文化芸術に関する基本法として2001年(平成13年)に制定された。国や地方自治体は、文化芸術の充実を図る責務が定めるられたという。その実現のために「果報は寝て待て」ではなく、「果報は練って待て」と講演で米田氏は言う。ミュージアムは、地域の振興、活性化を果たす役割を担っているのだ。

 

2019年8月11日 (日)

川の博物館

 2019年8月8日(木)、埼玉県立「川の博物館」(大里郡寄居町)に行く。


 「川の博物館」は、川のテーマパーク。埼玉の母なる川「荒川」を中心に、河川や水と人々のくらしについて展示や体験学習ができる。1997年(平成9)8月「埼玉県立さいたま川の博物館」として開館。2006年(平成18)4月には県立博物館等の再編に伴い、長瀞町にある「埼玉県立自然史博物館」と統合して「埼玉県立自然と川の博物館」として再編され、現在の名称となった。略称は、「かわはく」。

 

 9:00開場と同時に入場。駐車料金300円。入場料金は、一般410円、学生200円、中学生以下無料 。

 

●レストハウス(9:00~)

 レストハウス(写真手前の建物)の1階は、休憩ホール、ミュージアムショップ。2階は大水車を望むレストランとなっている。

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●大水車

 大水車は1997年(平成9年)「かわはく」の開館に合わせて作られた。当時は直径は23m、日本一の大きさを誇ったが、2004年(平成16年)に岐阜県で直径24mの大水車が完成、「日本一」の座を譲る。

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 2015年(平成27年)、老朽化により木部が腐食し一部破損するなどしたため回転を停止。2017年(平成29年)から改修工事が行われ、2019年(令和元年)7月に直径24.2m、再び「日本一の大水車」が完成した。

 

●荒川わくわくランド(9:30~)

 水のアスレチック施設。入園料:一般210円、中学生以下100円。利用時間1時間で入れ換え、予約制。

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 スイスイアメンボ、ふらふらフロートなどのオリジナル遊具にチャレンジしながら、水の流力・浮力・圧力・抵抗の学習ができるという。

 

●水車小屋広場

 埼玉県内に残っていた水車2棟を解体して、「かわはく」敷地内に復元した。

・玄米の糠(ぬか)を取り除き、白米にする精米水車。

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 東秩父村大内沢で1945年(昭和20年)頃まで稼働していたが、その後花園町の旧家で庭園の一部として保存されていた。

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 水車の回転を横棒が伝え、2本の杵(きね)で地面下の臼を突き精米する。

・コンニャクのアラコ挽きの水車

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 皆野町の下日野沢で1960年(昭和35年)頃まで使用されていた水車。薄く切ったコンニャク芋を乾燥させ、その乾燥荒粉を水車で挽いてコンニャク粉にする。「荒川」支流の「日野沢川」から水を引いて水車を回していた。鉄製の水輪は直径が7.3m。建物は、実際とは異なっていたそうだ。

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 鉄製の水車、木製の歯車やプーリベルトなどの近代的な機械要素と、杵や臼などの昔ながらの部品がうまく組み合わされているそうだ。

 

●本館の建物(11:00頃~)

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・本館1階の第二展示室

 2019年9月1日(日)まで特別展「根・子・ねずみ~ネズミワールドへようこそ~」が開催中。古代から現代までの人とネズミの関わりやネズミ生態など、絵画や民芸品、剥製や骨格標本などで紹介。

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 ネズミは、人家付近に生息するクマネズミ、ドブネズミ、ハツカネズミといった「家ネズミ」はよく聞く。しかし、野山にもカヤネズミやアカネズミ、ヒメネズミなどの「野ネズミ」がいるのは、あまり知られてない。

 荒川の河原にも、カヤネズミやアカネズミが多く生息しているとは、初めて知る。ネズミの剥製、写真などの資料の展示のほか、カヤネズミが飼育展示されていた。

 カヤネズミとススキに作られた巣。(写真が撮れなかったので、ウィキペディアコモンズから転載)

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 ・本館2階~1階の第一展示室(常設展示)

 「荒川と人々のくらしとの関わり」がメインテーマ。鉄砲堰(てっぽうぜき)の実演、荷船(にぶね)、船車(ふなぐるま)などの展示。正面スクリーンでパノラマ映像の上映。江戸時代の荒川は、多くの船が行き交い、海上輸送が発達していたことを改めて学ぶ。

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 鉄砲堰(下の写真)は、木材運搬(流送)のために使われた堰(せき)。

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 河川の流量が比較的大きい場所では、筏(いかだ)流しが行われたが、上流の急流部の渓流では丸太で堰(ダム)を建設し、水を貯めてから破堤させ木材を下流に流送した。実際に水を流す実演があるがスキップ。

 中央の小屋(下の写真)は、船車(ふなぐるま、水車船)。岸辺に船を繋ぎ、水車を川の流れで回して穀物などを挽く。

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・本館3階の展望塔

 展望塔に上ると、駐車場の向うに実際の「荒川」が流れる。 

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 冬になると、この展望塔から「谷川連峰」、「赤城山」、「男体山」を眺めることもできるそうだ。

 眼下に屋外展示の「荒川大模型173」が見える。右手が荒川の下流にあたる。

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 12:00~、レストハウスに戻り昼食。

 

●荒川大模型173(13:00頃~)

 荒川の総延長は173km。この模型は、「荒川」の源流(甲武信岳)から河口(東京湾)までの流れと地形を、1/1000に縮小した「日本一」の大きさの地形模型。以前、テレビ朝日の番組「タモリ倶楽部」でも、取り上げられていた。

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 山梨・長野・埼玉の三県の県境に位置する「甲武信岳」(こぶしだけ、標高2,475m)から、「荒川」の下流方向を望む。「甲武信岳」東斜面の標高2,200mにある赤丸の標識が、「荒川」の「源流点」。その先の黄色い標識が、国交省が定める「起点」。(写真をクリックすると拡大表示)

 秩父山地から水を集め、秩父盆地を流れる荒川。右岸にオレンジ色の秩父市街地。

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 荒川に架かる橋は、手前から「秋ヶ瀬橋」(県道40号と県道79号)、JR武蔵野線の鉄橋、東京外環道路の「幸魂大橋」、国道17号の「笹目橋」と「戸田橋」、JR東北本線の鉄橋、国道122号線の「新荒川大橋」・・・と続く。

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 グリーンは河川敷の公園など。荒川と並行する赤茶色のラインは堤防。オレンジ色は川口市、ピンクの部分は東京都。

 写真上部のグリーン部分、写真では分かりにくいが、「新荒川大橋」の先(川口市と東京都の境界付近)に「岩淵水門」、その下流に「隅田川」が蛇行して流れる。

 「荒川」本流(荒川放水路)は、下の写真左上で東京湾に注ぐ。その河口の少し先にあるグリーンの公園(若洲海浜公園)の端にある黄色い標識が、「荒川」の「終点」。写真中央を流れるのは、「荒川」と分かれた「隅田川」。

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●渓流観察窓

 荒川に棲息する川魚が観察出来る。写真は、イワナとヤマメの水槽。

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●大陶版画「行く春」

 本館の外壁に、明治から昭和にかけて活躍した日本画家・川合玉堂(1873-1957)の筆になる重要文化財「行く春」(六曲一双屏風)を、長さ22m、高さ5mの大陶板画(信楽焼)にして複製展示。屋外に展示した日本画の大型美術陶板としては、「日本一」の大きさ。 

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 「行く春」は、1916年(大正2年)に長瀞(ながとろ)・寄居方面を訪れた玉堂が、桜咲く長瀞の「荒川」に浮かぶ三隻の船車(ふなぐるま、水車船)を描いている。第10回文展出品作。現在は東京国立近代美術館が所蔵、重要文化財に指定。

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●アドベンチャーシアター(14:00~14:30)

 上映作品は、「荒川 森と海を結ぶ旅」と「小さな世界はワンダーランド」の2本。鑑賞料金:一般430円、中学生以下210円。

・「荒川 森と海を結ぶ旅」(約20分)

 荒川の源流域に降った「一粒の水」が、荒川の源流域から東京湾までの173kmを動物・植物・地形などの自然、歴史や祭りに出逢う旅をする。映像にあわせて座席が動き、荒川の流れや空からの眺めを疑似体験する。

・「小さな世界はワンダーランド」の一部 (約12分)

 アリゾナの砂漠に暮らす小動物(マウス)が自然界で成長していく3D映像の物語(BBCアース制作)。

 

 15:30頃、「かわはく」を退場。

 この日の寄居町は晴れ、最高気温37℃。連日の「猛暑日」であった。

 

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 「武州寄居七福神めぐり-後半編」 2012/4/10 投稿

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 ★ ★ ★

●荒川の歴史

 「荒川」は古くから「利根川」の支流で、関東平野に出た後、現在の熊谷市近辺で「利根川」と合流していた。合流後は、5,000年前頃までは現在の「荒川」の流路を通ったが、3,000年前頃からは現在の加須市方向へ向った後、南下して東京湾へ注いでいたそうだ。「利根川」と「荒川」の川筋は安定せず、また次第に並行した流路となり、両者の合流点は次第に下流へ移動した。「荒川」の名は「荒ぶる川」を意味し、有史以来数知れないほど洪水を繰り返し、下流域は未開の低湿地であった。

 今から約400年前の家康が関東にやって来た頃、「荒川」は現在の「元荒川」の川筋を通り、現在の越谷市・吉川市付近で「利根川」と合流して東京湾に注いでいた。徳川幕府は洪水の被害を防ぎ、かつ多くの耕作地を造りだすため、「利根川」と「荒川」の流路を変更することを考えた。

 1629年(寛永6年)幕府の関東郡代・伊奈忠次らが、現在の熊谷市久下で「荒川」の流路を締切り、「入間川」に流れるように付け替えた。元の流路は、熊谷市で「荒川」から離れて吉川市で「中川」と合流する「元荒川」となった。一方で「利根川」は、東に瀬替え(「利根川東遷」)して「渡良瀬川」に付け替え、「古利根川」流路から「江戸川」の流路を流れるようになった。なお江戸時代の「利根川東遷」事業は、約60年間にわたって少しずつ東へと流れを移し、それまで東京湾に向かっていたが、現在のように千葉県銚子市で太平洋に注ぐようになった。

 付け替え後の「荒川」(元の「入間川」)は、下流で現在の「隅田川」の流路を通っていた。この部分は流速が遅く、台風で大雨が降るとしばしば溢れて江戸の下町を浸水した。しかし「荒川」の河川舟運にとっては、この瀬替えによって水量が増えたことにより物資の大量輸送が可能となり、交通路としての重要性を高めたのだった。

 1910年(明治43年)8月、関東地方では長雨と台風が重なり、「荒川」(現「隅田川」)を含む「利根川」や「多摩川」などの主要河川が軒並み氾濫、埼玉県内の平野部全域を浸水、東京下町にも甚大な被害を出し、明治以降最大の関東大水害が発生した。長年、豪雨災害によって被害を受けていたこともあり、翌1911年(明治44年)政府は根本的な首都の水害対策を利根川や多摩川に優先し、「荒川放水路」の建設を決定する。
 

●荒川放水路

 内務省によって調査と設計準備、用地買収を進められ、放水路の開削工事に着手したのは1913年(大正2年)。この工事は、当初10年という予定を大幅に超え、関連工事の完了まで17年間という歳月、予算の2.5倍にも及ぶ莫大な工事費を費やした。また、工事の出水や土砂崩れなど多くの災害により30名近くの犠牲者も出した。工事中にも幾度も台風に襲われ、工事用機械や船舶が流出したほか、関東大震災では各地の工事中の堤防への亀裂、完成した橋梁の崩落、更に第一次世界大戦に伴う不況や物価高騰も難工事に追い打ちがかかった。

 1924年(大正13年)の「岩淵水門」完成により放水路への注水が開始され、関連作業が完了したのは1930年(昭和5年)。「荒川放水路」は荒川のうち、「岩淵水門」から江東区・江戸川区の区境の「中川」河口まで掘削された人工河川。全長22 km、幅約500 m。それ以後、東京は大洪水に見舞われることは無くなった。「荒川放水路」は、1965年(昭和40年)に正式に「荒川」の本流とされ、それに伴い「岩淵水門」より分かれる旧「荒川」が「隅田川」となった。

 「荒川」と「隅田川」の分岐にある「岩淵水門」は、運用を終了し、「新岩淵水門」(ウキペディアコモンズ)が1982年(昭和57年)に竣工。

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 「荒川」の本流となった「荒川放水路」と「清砂大橋」(ウキペディアコモンズ)。

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 「荒川」河口近くに架かる「清砂大橋」は、東京メトロ東西線と東京都道・千葉県道10号東京・浦安線が通る。
 

●カスリーン台風

 1947年(昭和22年)9月、カスリーン台風により山間部の土石流や河川の氾濫が相次ぎ、「荒川」と「利根川」堤防の一部が決壊、明治以来の大洪水被害で戦後間もない関東地方で甚大な被害が発生した。これを機会に政府は、水害による大都市への被害を防ぐことを目的に、本格的な治水事業に乗り出す。荒川・利根川を始め全国10水系を対象に「河川改訂改修計画」を策定、ダムによる計画的な洪水調節を計画。「二瀬ダム」は、荒川流域に最初建設された多目的ダムで、1953年(昭和28年)着工、1961年(昭和36年)に完成した。「かわはく」に展示されている「荒川大模型173」には、「二瀬ダム」のほか「滝沢ダム」、「浦山ダム」、「合角ダム」、「玉淀ダム」の5つのダムを見つけることが出来る。


●荒川の川幅日本一

 荒川の中流域は、堤外地(堤防に挟まれ川が流れて側)が広くとられている。これは、洪水時に遊水地としての役割を果たす。最も広いのは、吉見町と鴻巣市を結ぶ「糠田(ぬかた)橋」と下流の「御成(おなり)橋」の中間付近で、「川幅日本一」の2,537 m(堤防から堤防までの距離) 。このため河川改修によって堤外地に多数の集落が取り残された。これらの集落は、さらに水害の被害が増したため集団移転するなど、徐々に堤内地への移転が進んだ。しかし、付近に農地を持つ住民にとっては先祖からの土地から離れることを拒んだ。そのため、危険を冒して堤外地に住み続ける住民や、堤外地であるが横提(増水時に流れを滞留させるため川に向かって直角に突き出た堤防)の上に移住した住民も多いという。この付近の航空写真をGoogleマップで見ると、その様子がよく分かる。

●埼玉県立のミュージアム

 埼玉県立の博物館、美術館、動物園、水族館などの県内の文化施設を調べたら、意外に多くて主なもので次のようであった。

 ・近代美術館(さいたま市浦和区)、さいたま文学館(桶川市)
 ・自然の博物館(秩父郡長瀞町)、川の博物館(大里郡寄居町)
 ・歴史と民俗の博物館(さいたま市大宮区)、さきたま史跡の博物館(行田市)、嵐山史跡の博物館(比企郡嵐山町)
 ・平和資料館(東松山市)、埼玉伝統工芸会館(比企郡小川町)
 ・こども動物自然公園(東松山市、鳩山町)、 さいたま水族館(羽生市)

2019年3月 3日 (日)

国立西洋美術館「ル・コルビュジエ展」

 2019年2月24日(日)、午後から「国立西洋美術館」(台東区上野公園)の特別展の「ル・コルビュジエ展」と「林忠正展」、常設展を観覧。

 午前中は、「江戸東京博物館」(東京都墨田区)の常設展を観覧。両国駅前で昼食後、上野へ。

 13:30~16:00、「国立西洋美術館」を観覧する。

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 ル・コルビュジエが設計した「国立西洋美術館」本館は、2016年にユネスコ世界文化遺産に登録された。美術館入口の”ピロティ”と呼ばれる柱で支えられた空間も、ル・コルビュジエ建築の特徴の一つ。

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●[本館] 国立西洋美術館開館60周年記念 

 特別展「ル・コルビュジエ 絵画から建築へ ― ピュリスムの時代」 観覧料1,600円。

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 20世紀建築の巨匠ル・コルビュジエ(1887-1965)が設計した「国立西洋美術館」の開館60周年を記念して本展覧会が開催。

 ル・コルビュジエは、第一次大戦の終結直後の1918年末、故郷のスイスを離れて芸術のパリで「ピュリスム(純粋主義)」の運動を始めた。絵画、建築、都市計画、出版、インテリア・デザインなど多方面に渡った約10年間の活動を振り返り、ル・コルビュジエとピカソやブラックなど同時代の作家たちの美術作品約100点に、建築模型、出版物、映像などの多数の資料を展示。

 (建築模型以外の絵画や資料は、撮影禁止。以下5枚の写真は、ル・コルビュジエ展のパンフから転載。)
 

①ピュリスム(純粋主義)の画家ジャンヌレ

 シャルル=エドゥアール・ジャヌレ(ル・コルビュジエの本名) 《多数のオブジェのある静物》 1923年 油彩/カンヴァス 

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 若き、ル・コルビュジエの日常生活と希望をうかがわせるテーブルの上の静物。

 アメデ・オザンファン 《和音》 1922年 油彩/カンヴァス

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 オザンファンはジャンヌレに油絵の技法を教え、ピュリスムの理論を作るにあたっても主導的な役割を務めた。
 

②キュビスム(立体派)との対峙

 ジャンヌレは、ピカソ、ブラック、レジェらのキュビスム(立体派)を批判するが、ピュリスムと同じ方向であることを知り、認識を改め理解を深める。やがてキュビスムは、ル・コルビュジエの絵画以外の建築造形に影響を与える。

 パブロ・ピカソ 《静物》 1922年 油彩/カンヴァス

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 ジョルジュ・ブラック 《食卓》 1920年 油彩/カンヴァス

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 フェルナン・レジェ 《サイフォン》 1924年 油彩/カンヴァス

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③絵画から建築家へ-総合芸術家ル・コルビュジエの多彩な活動

 ル・コルビュジェ 「メゾン・ドミノ」 1/30模型 2005年模型製作。

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 柱と床面で建物の加重を支え、階段で上下階をつなぐという構造の考え方。

 ル・コルビュジェ 「画家オザンファンのアトリエ・住宅」 1/30模型 1922-23設計、1988年模型製作

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 (下の写真はその内部で、ル・コルビュジエのパンフから転載。)

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 ル・コルビュジェ 「スタイン=ド・モンヅィ邸」 1/30模型 1988年模型製作

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 ル・コルビュジエ 「イムブール=ヴィラ」 1/100模型 1988年模型製作

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 ル・コルビュジエ 「国立西洋美術館」の本展示室(実物) 1959年完成

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 建築模型を展示している本館ホールの吹き抜け、柱と梁、三角の明り取り窓。

 ル・コルビュジエ 「サヴォア邸」 1928-31年設計 (写真は、ウィキペディアコモンズ)

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 ル・コルビュジエの建築の中でも最も有名な作品の一つで、世界遺産。
 

 

●[新館 版画素描展示室] 特別展「林忠正―ジャポニスムを支えたパリの美術商」

 「林忠正展」のポスター。

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 林 忠正(1853 - 1906)は、明治時代に西洋で日本美術品を商った初めての美術商。

 日本でフランス語を習得、1878(明治10)年のパリ万国博覧会に通訳として渡仏。日本の絵画や工芸品が大きな人気を博していた時代、万博終了後もパリに留まり、当地でそれらを商う店を構えた。

 また1900年(明治33年)のパリ万国博覧会では、日本事務局の事務官長を務めた。

 (写真は、「林忠正展」作品リストの表紙)

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 本展は、林忠正の孫の夫人で歴史作家・木々康子氏の所蔵品を中心に、万博などとの関わりや、日本と西洋との交友、コレクションなど、林忠正の生涯にわたる活動を展示。
 

 

●[新館] 常設展「中世末期から20世紀初頭にかけての西洋絵画とフランス近代彫刻」

 常設展示室には、中世末期から20世紀初頭にかけての西洋絵画と、ロダンを中心とするフランス近代彫刻を年間を通じて展示してある。

 クロード・モネ 《船遊び》 1887年 油彩/カンヴァス 松方コレクション

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 クロード・モネ 《睡蓮》 1916年 油彩/カンヴァス 松方コレクション

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 クロード・モネ 《陽を浴びるポプラ並木》 1891年 油彩/カンヴァス 松方コレクション

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 ピエール=オーギュスト・ルノワール 《アルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)》 1872年 油彩/カンヴァス 松方コレクション

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 ピエール=オーギュスト・ルノワール 《帽子の女》 1891年 油彩/カンヴァス 松方コレクション

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 ピエール=オーギュスト・ルノワール 《横たわる浴女》 1906年 油彩/カンヴァス 寄贈

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 ジョアン・ミロ 《絵画》 1953年 油彩/カンヴァス 寄贈

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 パブロ・ピカソ 《アトリエのモデル》 1965年 油彩/カンヴァス 寄贈

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 藤田嗣治 《座る女》 1929年 油彩/カンヴァス 寄贈

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 ラファエル・コラン 《詩》 1899年 油彩、カンヴァス 2015年購入

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 ラファエル・コラン 《楽》 1899年 油彩、カンヴァス 2015年購入

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 オーギュスト・ロダン 《説教する洗礼者ヨハネ》 ブロンズ 1880年(原型) 1944年(鋳造) 松方コレクション

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●屋外(前庭)の彫刻展示 
(2017/11/09撮影)

 オーギュスト・ロダン 《考える人》(拡大作) 1881-82年(原型) 1902-03年(拡大) 1926年(鋳造) ブロンズ 松方コレクション

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 オーギュスト・ロダン 《カレーの市民》 1884-88年(原型) 1953年(鋳造) ブロンズ  松方コレクション

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 エミール=アントワーヌ・ブールデル 《弓を引くヘラクレス》(習作) 1909年 ブロンズ 松方コレクション

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 17:15~19:00、川越駅東口の居酒屋「テング酒場」にて、本日ミュージアム巡りの反省会。

 

  「国立西洋美術館」には、過去何回か行ったが、本館が常設展示、新館が特別展展示だった。今回は、ル・コルビジエが設計した本館で「ル・コルビュジエ展」を開催するため、常設展示と特別展示が入れ替っていた。

 この入れ替えにより、常設展の中世時代の絵画の展示が少なくなっていたようだが、良く知られているモネ、ルノアール、ゴーギャン、ピカソなど20世紀初頭の作品が多く展示されていた。順路通りに回らなかったので、戸惑って館内でうろうろしてしまったが、やはり本記事の順のように、特別展から常設展を見るのが順路だったようだ。

 当日午前中は「江戸東京博物館」、午後から「国立西洋美術館」とミュージアムをハシゴして、かなり疲れてしまった。ミュージアム巡りは、今回までのように2ヶ所以上を効率良くハシゴするのが良いのか、1日かけて1ヶ所をゆっくり見るのが良いのか、悩ましい。



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 ★ ★ ★

 「国立西洋美術館」は、フランス政府から日本へ寄贈返還された「松方コレクション」を保存・公開するために設立された。「松方コレクション」は、松方幸次郎(1866~1950)が収集した美術コレクション。パリに残されていた一部は、第二次世界大戦でフランス政府に敵国人財産として管理され、その後フランス国有財産となったが、日仏友好のため返還寄贈された。

 返還寄贈に当たって、仏政府は新設美術館を要求、日仏間の国交回復の象徴として、20世紀を代表する建築家の一人であるフランス人建築家ル・コルビュジエの設計により、1959(昭和34)年3月に竣工した。
 

 明治の美術商・林忠正は、19世紀末のパリに本拠を置き、ヨーロッパ・アメリカ・中国などを巡って、日本から仕入れた浮世絵などの絵画や工芸品など日本美術品を販売した。彼は美術商としてだけではなく、日本の文化や美術の紹介にも努め、芸術家や研究者の仕事を助けたり、各国博物館の日本美術品の整理に携わったりした。

 林の活動は、商品に関する知識と共に、西洋の日本美術を愛好する芸術家たちに大いに受け入れられ、”ジャポニスム”ブームの大きな力になった。このことは、本ブログ記事の「国立西洋美術館『北斎とジャポニスム』」でも明らかだ。

 浮世絵からヒントに、新しい画風を創りろうとした印象派の画家たちと親交を結び、また日本に初めて印象派の絵画を紹介した。エドゥアール・マネと親しくなった日本人は、彼一人であるとされている。 

 そういった林の文化的貢献に対し、フランス政府は1894年(明治27年)に「教育文化功労章2級」を、1900年(明治33年)には「教育文化功労章1級」及び「レジオン・ドヌール3等章」を贈っている。

 美術館の文化的役割の重要性を認識していた林は、日本での初の美術館建設を夢見て、西洋美術品収集を少しずつ充実させていた。1905年(明治38年)の帰国に際し、500点もの印象派のコレクションを持ち帰り、自分の手で”西洋近代美術館”を建てようと構想・計画したがその翌年、東京で没した。52歳という早すぎる死によって、夢は果たされることなく、、また彼のコレクションも散逸してしまったという。

 林は、浮世絵などの大量の日本美術品を国外に流出させた人物として、批判されることもある。しかし一方で、芸術を通じて海外文化交流に尽した功績を評価されるべきという意見もある。

2019年3月 2日 (土)

江戸東京博物館

 2019年2月24日(日)、「江戸東京博物館」(東京都墨田区)の常設展を観覧する。
 

 JR両国駅を出るとすぐに「両国国技館」を左に見て歩き、広い長い階段を上がると高床式の倉をイメージしたという「江戸東京博物館」。9:20、チケット売り場がある「江戸東京ひろば」に着く。

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 「江戸東京ひろば」は、「江戸東京博物館」の3階。この建物には2階と4階はない。

 ひろばから「両国国技館」を振り返る。

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 9:30、3階からエスカレータで5階を経て、6階まで上る。6階の常設展示室の入口には、日本橋の実物大の模型。

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 10:00~、ボランティアガイドの案内で館内を巡る。

 日本橋の大きさは全長15m、幅8m。その北側半分が復元されている。床板だけでも、いかに大きい木材が使われたか分かる。日本橋は1603年(慶長8年)に架けられ、諸街道の起点。一帯には魚河岸、米河岸、材木河岸などが造られた。

 日本橋を渡り、「江戸ゾーン」(江戸城と町割り)へ。

 寛永の町人地。江戸初期、日本橋北詰付近。左手前の大きな建物は、現在の三越日本橋店。敷地が広く多くの建物が建っていた大名屋敷に比べ、町人の家は一戸一戸がきわめて狭かった。

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 江戸城の中心部である内堀に囲まれた内郭は、本丸・二丸・西丸・吹上御庭などから構成され、本丸・二丸・西丸にそれぞれ御殿があった。

 この模型は、本丸御殿(奥の方)と二丸御殿(手前)の幕末期における様子を1/200で復元。

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 本丸御殿には御玄関に始まり、表(幕府の政庁)、奥(将軍の執務と日常生活)、大奥(御台所と奥女中が生活)があった。大奥に隣接して天守台があった。

 1657年(明暦3年)に起きた「明暦の大火」で消失するまで、江戸城には全高は60mほどもある日本最大の天守閣(写真右上)があった。城下の復興再建を優先、また天下泰平の世になっていたため、以後は天守閣が再建されることはなかった。

 江戸城本丸御殿、諸大名が将軍に拝謁する大広間。最も高い位置に将軍が座る。右奥は勅使との対面などに用いられた白書院。

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 大広間(左手)と白書院(右手)を結ぶL字型の松の廊下。

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 江戸城本丸大手門の前に建てられた、越前福井藩主・松平忠昌の桃山風の上屋敷。明暦の大火により焼失、以後このような華麗な大名屋敷は姿を消した。

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 寛永の町人地と同じ縮尺で復元。大名の敷地は広く、多くの建物が建っていた。

 豪華な松平忠昌の屋敷の門。

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 「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館所蔵)のレプリカ。

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 木造徳川家康坐像(芝東照宮所蔵)のレプリカ。

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 大名や公家が乗るの豪華な乗物(のりもの)。質素な駕篭(かご)とは区別された。

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 5階に下りると、「江戸ゾーン」(庶民の文化)が展示されている。

 棟の前後で部屋を分ける形のものを「棟割長屋(むねわりながや)」と呼んだ。火事のこともあって、着物や家財道具はあまり持たず、「損料屋」というレンタル屋で借りた。

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 火消は、幕府直轄で旗本が担当した定火消(じょうびけし)、大名に課役として命じられた大名火消と、町人によって組織された町火消の3系統があった。

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 町火消は、第8代将軍吉宗の時代に始まる町人による火消。消火活動は、延焼を防ぐため建物を破壊していくという破壊消防が主で、一般の町人よりも鳶職人で構成された。竜吐水は木製の手押ポンプで水を15mほど飛ばすことができたが、継続的に水を供給することが難しく、それほど消火の役に立たなかったそうだ。

 読み・書き・そろばんの寺子屋の風景。当時から日本人の識字率は高かった。

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 上水井戸。江戸市中には、道路下に上水を通す樋(ひ)が埋設され、上水を供給。長屋に設けられた上水井戸を通して、人々に届けられた。

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 絵草紙屋の店内。庶民が楽しんだ草双紙や錦絵といったさまざまな書物や刷り物も出版された。

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 寿司屋の屋台。現代に比べ一貫が大きい。ネタを赤酢に浸したものを使用したため米が赤っぽかったそうだ。

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 江戸で代表的な呉服店の「三井越後屋」江戸本店。

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 現代のような「店先売り」や「現銀掛値無し」といった、店頭販売や現金取引による新たな商取引が始まった。

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 「神田祭り」の行列の様子。代表的な山車(だし)や神輿(みこし)などを抜粋して復元。

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 「神田祭り」の山車を原寸大で復元。

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 江戸時代9月15日の神田明神の祭礼の日には、神輿の前後に30数台の山車とさまざまな練物(ねりもの)が従い、隔年に江戸城に繰り込み、将軍が上覧したという。この山車は、江戸末期の須田町のものを再現。人形は中国の三国時代の武将・関羽。こういった山車は、明治以降に電線敷設の影響で、東京の祭りから山車が消え、神輿中心になったという。

 江戸の盛り場、両国橋の西詰。

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 両国橋の西詰の広小路には、歌舞伎などの見世物小屋、髪結床(かみゆいどこ)、水茶屋などがいくつも立ち並び、寿司・てんぷら・うなぎなどの屋台、すいか売り、朝顔売りなどの物売りや大道芸人も集まっていた。隅田川は、小舟や屋根舟、屋形船が行きかい、夏には花火大会で賑わった。

 江戸歌舞伎の代表的な演目「助六」の舞台を展示。

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 「助六」は、歌舞伎十八番の一つで、「助六ゆかりの江戸桜」の通称。1713年(正徳3年)に2代目市川団十郎が初演。助六(左、実は曽我兄弟の曽我五郎)は、失われた銘刀・友切丸を探すため吉原へ出入りするが、花魁・揚巻(中央)に横恋慕する髭の意休(いきゅう、右)の所持する刀が友切丸と知り、取り戻すという筋。

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 なお「助六寿司」は、稲荷寿司と海苔巻き寿司を折り詰めにしたもの。花魁・揚巻の”揚げ”が油揚げ、”巻き”は海苔巻きのことから由来する。

 歌舞伎などの芝居見物は、町人や武士といった身分に関係なく、江戸の人々にとっては最大の娯楽だった。

 代表的な歌舞伎の芝居小屋である「江戸三座」の一つ「中村座」の正面部分。

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 「江戸三座」は、江戸時代中期~後期にかけて江戸町奉行所によって歌舞伎興行を許された芝居小屋。江戸には当初数多くの芝居小屋があったが次第に整理され、中村座、市村座、森田座、山村座の四座に限って「櫓をあげる」ことが認められた。最終的に、山村座が取りつぶされ三座となった。

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 「江戸ゾーン」を見終わると、もう11:55。
 

 この後、同じ5階にある明治以降の常設展示の「東京ゾーン」、企画展「春を寿(ことほ)ぐ ―徳川将軍家のみやび―」やミュージアムショップは、時間がなくて省略。

 

 両国駅前の商業施設「両国江戸NOREN」の2階「築地食堂 源ちゃん」で、昼食(~13:00)。「旨味・源ちゃん丼」980円は、松前漬けと天かすが入った海鮮丼の定食。

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 午後から「国立西洋美術館」(台東区上野公園)へ移動。

 

 ★ ★ ★

 「江戸東京博物館」の常設展は、一般600円、65歳以上300円。当日2月24日(日)は「天皇陛下御在位三十年記念式典」が行われる日で、観覧料がだれでも無料。チケット売り場に行かず、直接6階常設展示室入口から入る。

 ちなみに、「天皇陛下御在位三十年記念式典」は内閣府が主催で首相が式典委員長を務め、天皇、皇后両陛下のご臨席の下で、国立劇場(東京都千代田区)で開かれた。「国民でお祝いする式典」だそうだが、一般国民は参加できず、新聞・テレビで見るだけ。

 前回「江戸東京博物館に行ったのは、NHK大河ドラマ『利家とまつ』が放送されていた頃、2002年だと思う。17年も前のことで、ずいぶん前のことだ。日本橋の実物大模型や芝居小屋、文明開化、関東大震災や太平洋戦争中の庶民の生活などの展示を憶えている。特別展だったかどうか、『利家とまつ』にちなんだ加賀百万石の展示もあったようだ。

 今回の江戸の展示は、奥が深くて興味深い内容が多く、またガイドの話も面白くて分かり易く、2時間以上かけても全部は見終わらなかった。機会があれば、「東京ゾーン」も含めてもう一度ゆっくり見たい。

2018年11月18日 (日)

川舟流しと倉紡記念館

 2018年10月22日(月)~24日(水)、2泊3日の岡山県倉敷の旅。

 

 23日(火)と24日(水)、「倉紡記念館」を観覧。24日(水)、川舟で倉敷川を遊覧。本ブログ記事「倉敷美観地区」の続き。

 

 23日(火)、「倉敷アイビースクエア」に連泊。24日(水)6:30起床、7:15~朝食。昨日の雨は止み、この日は晴れの良い天気。

 「倉敷アイビースクエア」をチェックアウトし、荷物を預ける。9:00~中庭に集合、今年のOB会はこれで解散。
 

●くらしき川舟流し 9:30~9:50
 
 かつて倉敷川は、物資を積んだ川舟の往来でにぎわっていた。その風情を味わえる観光川舟が、2艘運行している。ゆったりと進む舟から、視線を低くして白壁の町並みを眺める。

  倉敷川畔にある川舟乗船場の少し下流にある「倉紡製品原綿積み降ろし場跡」のチケット売り場で、9:30発の乗船チケット購入。料金は1人500円。

 川船は、始発が9:30〜最終便17:00、30分おきに出発している。1艘6人乗り、所要時間約20分。

 乗船すると船はゆっくりと、まず下流の「高砂橋」の方向に向かう。

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 現在の倉敷川の川幅は10m程だが、船による物資の輸送がされていた頃には、川幅20m程あったという。

 右岸の街並み。

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 左端の建物のデニム専門店「倉敷デニムストリート」と隣の建物は箸専門店「倉敷のお箸やさん 遊膳」。その間の路地に入り、「倉敷デニムストリート」の2F部分に「星野仙一記念館」があるようだ。左から3番目の建物は、天然石とアクセサリーの店「凸凹堂 倉敷」。

 潮留めのある「高砂橋」。ここで川船はUターン。

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 「高砂橋」は、江戸時代末期に建てられた元の「今橋」。1926年(大正15年)に「大原美術館」前に現在の「今橋」が架けられた時に 旧高砂町(現在の中央二丁目)に移され、「高砂橋」と改名された。1967年(昭和42年)に倉敷用水や美観地区の整備によって、現在のこの場所に移されたという。

 上流の「中橋」の方向に進む。右岸に大きな看板の備前焼の店「陶慶堂本店」と、その先に「日本郷土玩具館」。

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 さらに舟が進み、右岸の2棟は「倉敷民芸館」。

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 「倉敷民芸館」は、江戸時代後期の米蔵を改装。日本だけでなく、世界各国の暮らしに役立つ民芸品(民衆的工芸品)15,000点を所蔵。右端の「倉敷館」(観光案内所)は、工事ネットで囲われ休館中。

 「中橋」の下をくぐる。

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 「中橋」は土橋、板橋を経て、1877年(明治10年)に現在の石橋に架け替えられた。橋げたが一枚石の太鼓橋で、アーチ状に設計されている。

 左岸、旅館「鶴形」の庭にある樹齢400年以上ともいわれる松の木が見える。

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 「大原美術館」と「旧大原家住宅」とを結ぶように架かっている「今橋」。

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 「今橋」は大正15年(1926年)に、皇太子であった昭和天皇がこの地を訪問するのに合わせて、架け替え工事が行われた。

 架け替えは大原孫三郎によってなされ、児島虎次郎がデザインした。菊のご紋と龍(孫次郎の干支)の彫刻が彫られている。また、橋げたの形を半円にして、水面に映る半円の影と併せて満月を眺めることができるという。

 「旧大原家住宅」(大原家本邸、左)と「有隣荘」(右)。

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 「有隣荘」は、1947年(昭和22年)に昭和天皇が倉敷に行幸された折、お泊りになった大原家の別邸。

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 再び「中橋」をくぐる。

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 「中橋」と「倉敷考古館」。

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 「倉敷考古館」は、江戸時代の米蔵を改装し、1950年(昭和25年)に開館した。吉備地方を中心とした考古学資料や古墳から出土した石器・土器・埴輪・刀剣など1,500点を展示。古代ペルー・アンデス文明、イラン、中国の文化財なども展示されているという。

 「倉敷アイビースクエア」の敷地に戻り、再び「倉紡記念館」に行く。
 

 

●倉紡記念館 10:00頃~11:00前

 「倉紡記念館」には、前日の23日(火)15:20~16:00に観覧した。

 「倉敷アイビースクエア」の宿泊優待券の提示で、入館無料。前日は、提示を忘れ入館料250円を払ったので、この日に返却してもらい、再度無料で入館。

 倉紡創立当時に建てられた原綿倉庫を、1969年(昭和44年)のクラボウ(倉紡)の創立80周年の記念館として改装し、建設された。

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 順路に従い、写真・模型・文書・絵画などで、クラボウ(倉紡)の歴史が分かるようになっている。

・第1室 明治時代【1888~1912】

 明治期の紡績機械や、創業当時の文書等を展示。手前は手織り機、その先の提灯と車輪を備えた消防器具、その奥は英プラット社製の紡績機械。

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 1867年(慶応3年)5月、薩摩藩によって鹿児島に日本初の紡績工場が創設、明治になって全国各地に紡績工場が設立された。

 岡山県の3人の若者が、米と綿花以外に産業の無い貧村の倉敷村の将来のため、紡績工業を興すことを提案、資金提供を地元の大地主・大原孝四郎に依頼した。

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 初代社長の大原孝四郎の肖像画(児島虎次郎画1919)。

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 天保5年(1834)の天領代官所の模型。

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 1988年(明治21年)倉敷紡績所が創立した。初代社長に、大原孝四郎が就任。

 1989年(明治22年)代官所跡地に倉敷紡績工場が造られた。写真は、明治25年(1892)頃の倉敷紡績工場の模型。

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・第2室 大正時代【1912~1926】

 労働理想主義を具現化していった倉紡の発展期の資料を展示。

 手前の模型は従業員の寄宿舎の模型。それまでの集合宿舎を改善して分散式家族的寄宿舎とし、家庭的な生活が出来るようになった。

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 倉紡の2代目大原孫三郎社長は、石井十次の「岡山孤児院」を援助し、また大阪に「石井記念愛染園」を設立した。

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 「倉紡中央病院」の設計に当たって、孫三郎は次の3項目を指示した。

 1.設計はすべて治療本位にすること。2.病院くさくない明るい病院にすること。3.東洋一の立派な病院を造ること。時代を先取りしたような孫次郎の先見性にには感服。

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 倉紡の女工さんの人生双六。

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 入社がスタート。寄宿舎、仕事、学校、裁縫、生け花、バレーボール、テニス、観劇、遠足、踊り、実家へ送金、模範女工として表彰、良縁があり帰省、上がりは結婚。当時の時代背景がうかがえ、また福利厚生が充実していたことが分かる。

・第3室 昭和時代(戦前・戦中)【1926~1945】

 不況と戦争期の時代背景とクラボウの変遷を展示。

 正面は、大原總一郎が後援していた棟方志功の戦時中の書画。その手前は、1950年(昭和25年)昭和天皇が国内最新工場の北条工場へ御臨幸された時にお座りになった椅子。

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 (この写真のみは、「倉紡記念館」パンフから転載。)

・第4室 昭和(戦後)・平成時代【1945~】

 戦後の復興以後、紡績産業と、クラボウの事業の多角化の歩みを展示。

 敗戦により大打撃を受けたが、朝鮮戦争特需で繊維産業は、日本の経済をけん引する産業となった。しかしやがて化繊などの普及、繊維不況の時代は、事業の多角化へと経営を転換する。

 手前は、紡績以外のスポーツや教育向上にも注力した安城工場の模型。特に女子ソフトボールチームは有名。紡績以外の多角化経営のため新事業ポリウレタン加工の寝屋川工場。

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 1988年(昭和63年)、100周年を迎え本社ビル竣工、「クラボウ」を正式社名とした。

・第5室 年表コーナー

 明治から現在までの総まとめのコーナー。ビデオと写真映像、書籍の展示空間。

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 「倉敷アイビースクエア」の受付で、預けた荷物を引き取る。

 11:00頃~ショッピングしながら、本町通りを経て、えびす商店街、えびす通り商店街、センター街のアーケードを通って、倉敷駅へ向かう。12:00頃~駅付近の寿司・和食の店「しば田」で昼食。刺身定食1,600円。

 13:53倉敷駅発、山陽本線・岡山行に乗車。14:11岡山駅着。

 14:23岡山駅発、新幹線ひかり474号・東京行に乗車。18:33 品川 駅着、所要時間4時間40分(乗車時間4時間28分)。山手線から帰路へ。

 

 ★ ★ ★

 大原孫三郎の肖像画(個人蔵、大原美術館寄託、児島虎次郎画1915)

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 (写真は、ウィキペディアコモンズから]引用)

 大原孫三郎は1880年(明治13年)、倉敷の名家・大原家の三男として生まれた。二人の兄が相次いで若死にしたため、孫三郎が大原家の跡継ぎとなった。1897年(明治30年)東京専門学校(後の早稲田大学)に入学したが、大富豪の息子として放蕩な生活を送り、莫大な借金を抱えた。父親から東京専門学校を中退させられ、倉敷に連れ戻されて謹慎処分を受けた。

 日本の児童福祉の先駆者であり、「岡山孤児院」の創設者である石井十次との出会いが孫三郎の人生を変えたという。キリスト教信者であった石井の影響で、1905年(明治38年)自らも洗礼を受けた孫三郎は、1906年(明治39年)孝四郎の跡を継ぎ倉紡2代目の社長となった。

 石井の影響で、事業で得た富を社会へ還元することの重要性に目覚め、「大原社会問題研究所」、「労働科学研究所」、「倉紡中央病院」などを次々と設立した。孫三郎にとっては「大原美術館」の創設も社会貢献の一環だった。

 

 美観地区のどの建物だったか忘れたが、瓦屋根に生えている不思議な植物を見つけた。

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 あとで調べると、本瓦葺きの屋根に生育するツメレンゲだそうだ。ベンケイソウ科の多年草で、野生では暖地の日当たりが良く乾燥した岩の上、街中では古い瓦屋根に生育するという。

 岡山県では主に県中部~南部の岩崖地や古い石垣、本瓦葺き(土を敷いた上に瓦を葺く)の屋根の瓦の隙間などに生えるそうだ。かつては茅葺きの屋根でも、生育していたという。

 倉敷美観地区では本瓦葺きの古い建物が保存されているため、屋根を見上げながら歩くと、見つけることが出来るそうだ。

2018年11月14日 (水)

大原美術館

 2018年10月22日(月)~24日(水)、2泊3日の岡山県倉敷の旅。23日(火)午前中、「大原美術館」に行く。

 本ブログ記事「倉敷アイビースクエア」の続き。

 

 

 10月22日(月)、「倉敷アイビースクエア」に宿泊。

 23日(火)、6:30起床。7:00~朝食。9:00集合、記念撮影後、美観地区へ繰り出す。天気は、雨になりそうな曇り空。

 9:40、「大原美術館」の敷地に入場。

 

 「大原美術館」は、倉敷紡績(現クラボウ)二代目社長・大原孫三郎が1930年(昭和5年)に創設した日本で最初の近代西洋美術館。創業当時の作品を収集したのは、孫三郎の援助で渡欧した岡山出身の画家・児島虎次郎だった。

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 ギリシャ神殿のような古典様式の「大原美術館 本館」。

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 「本館」入口の右手に、ロダン作『カレーの市民 ジャン・ダール』1890年。イギリス・フランス間の百年戦争(1337~1453)のエピソードをもとに制作された。

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 左手は、ロダン作『洗礼者ヨハネ』1880年。聖ヨハネは、キリストに洗礼をさずけた人物。

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 入館料(本館/分館/工芸・東洋館含む) 一般1,300円、音声ガイド500円。

 館内は撮影禁止のため、主な作品をウィキメディア・コモンズから転載。
 

 シャヴァンヌ『幻想』1866年 四点の装飾画の一つ。 天馬は人間の想像力、花摘む少年は美への感受性を暗示しているという。

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 セガンティーニ『アルプスの真昼』(1892年) スイスの平和な、明るい太陽の光をいっぱい浴びた放牧の風景。

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 セザンヌ『風景』1885 - 95年頃 セザンヌは、印象派として活動していたが、1880年代から独自の絵画様式を探求。20世紀美術に多大な影響を与えたことから、「近代絵画の父」とされる。

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 ゴーギャン 『かぐわしき大地』1892年 ゴーギャンが、オセアニアのタヒチ島に渡って、間もなくしてからの作品。

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 ロートレック『マルトX夫人の肖像、ボルドー』1900年 気品のある落ち着いた雰囲気と的確な明暗表現が、印象深いとされる作品。

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 アマン=ジャン『髪』1912年頃 児島虎次郎が収集した最初の西洋画。二人の優美な色彩や親密な雰囲気の描写、あたかも化粧風景を覗き見てしまったような臨場感の作品。

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 ルノワール 『泉による女』1914年 印象主義を追求した明るい太陽の光のもとの裸婦画。

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 モネ『睡蓮』1906年頃 浮世絵を部屋に飾るなど親日家のモネの邸宅を、児島虎次郎が訪ねて譲り受けた作品だそうだ。 

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 モディリアーニ『ジャンヌ・エビュテリヌの肖像』1919年 ジャンヌ・エビュテルヌはフランスの画家で、モディリアーニのお気に入りのモデルであり、内縁の妻だった。

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 エル・グレコ『受胎告知』17世紀初頃 天上から雲に乗って突然現れた天使を、本を読んでいた聖母マリアが視線を合わせ、告知を受け止めているという名画。純潔の白百合の花、精霊の鳩が描かれている。

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 「分館」が「本館」の裏側にある。

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 前庭芝生の左手に、ロダン『歩く人』(1877年)。

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 前庭右手に、ムーア『横たわる母と子』1975-79年。

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 芝生には、他にイサム・ノグチ『山つくり』1982年
 
 「分館」内には、日本の洋画家の作品や現代美術の作品を展示。

 

 岡田三郎助『イタリアの少女』1901年 岡田のあのフランス留学中の作品。パステルの筆あとに、少女の肌のやわらかさを表現。

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 青木繁『男の顔』1903年 青木の代表作は『海の幸』。名声を得ることなく放浪の末に胸を患い、28歳で早世。この絵は、20歳の頃の自画像か。

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 関根正二『信仰の悲しみ』1918年 極貧であった関根は、この作品を描いた翌年、わずか20歳でこの世を去った。

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 小出楢重『Nの家族』1919年 日本独特の洋画を構築しようとする大正期洋画界の動向を示す作品。自分と家族を描いた。

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 岸田劉生『童女舞姿』1924年(本資料のみ「大原美術館」パンフより転載) 岸田は、娘・麗子をモデルにした作品を多く手掛けている。

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 児島虎次郎『自画像』1922年頃 大正11年、児島の41歳の頃の作品か。

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 児島虎次郎『里の水車』1906年 外光を逆光として取り入れ、明暗を生かした構図。美術学校卒業後、ヨーロッパ留学前に描かれた。

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 児島虎次郎『ベゴニアの畠』1910年 フランスからベルギーに移った児島は、ベルギー印象派の点描技法を身につけた。

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 児島虎次郎『睡れる幼きモデル』1912年 椅子にもたれてまどろむ幼い少女。明るい色彩があふれる、洋風の室内の様子がていねいに描写されている。

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 児島虎次郎『朝顔』 1916 - 1921年 『朝顔』の作品は3枚あるうちの1枚。朝顔に囲まれた浴衣の少女が、下駄で爪先立ちで水遣りをしている。この絵が好きな女子が多い。

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 児島虎次郎『アルハンブラ宮殿』1920年 フランスからスペイン旅行中に描いたグラナダの風景。

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 「工芸館」には、河井寛次郎、バーナード・リーチ、濱田庄司、富本憲吉の陶器、棟方志功の木版画、芹沢銈介の染色などが展示。

 「東洋館」は、児島虎次郎の収集を中心とした東洋の古代美術品を展示。

 なお、「工芸館」と「東洋館」は、もとは大原家の米蔵を展示館に改装したものだという。

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 12:00頃、退館。

 本ブログ記事「倉敷美観地区」へ続く。
 

 

 ★ ★ ★

 「大原美術館」は、倉敷の実業家・大原孫三郎(1880–1943)が、資金援助していた洋画家・児島虎次郎(1881–1929)に依頼して収集した西洋美術、エジプト・中近東美術、中国美術などを展示するため、1930年(昭和5年)に開館した。近代西洋美術を展示する美術館としては、日本最初。

 大原孫三郎は、倉敷紡績(クラボウ)、倉敷絹織(クラレ)、倉敷毛織、銀行、電力会社などの社長を務め、大原財閥を築き上げた。 昭和初期、一地方都市にすぎない倉敷に、このような美術館が開館した先見性に驚愕する。

 氏は、岡山孤児院を設立した石井十次の社会福祉事業の影響があったためか、工員の教育や環境改善、農業改善のほか、社会・文化事業にも熱心に取り組んだ。倉紡中央病院、大原美術館、大原奨農会農業研究所、倉敷労働科学研究所、大原社会問題研究所、私立倉敷商業補習学校を設立した。その大原美術館の創設も、社会貢献の一環だったようだ。しかし、開館当初は一日の来館者ゼロという日もあったほど、注目度が低かったそうだ。



 倉敷は、美術館・博物館が多いことで知られている。「大原美術館」の近くにあって、お土産屋のような建物は、「加計美術館」。

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 昨日、目について気になっていたが、例の「もりかけ」問題で批判を浴びている加計学園の美術館らしい。あとで調べると、大学関係者の作品や学生の卒業制作などが展示されているようだ。
 

 

 ある旅行サイト「フォートラベル(株)」での、倉敷の美術館・博物館クチコミ・ランキングを引用する。

 ①大原美術館 ②大原美術館 分館 ③倉紡記念館 ④倉敷民藝館 ⑤倉敷考古館 ⑥桃太郎のからくり博物館 ⑦大原美術館 工芸・東洋館 ⑧星野仙一記念館(野球選手・監督の星野仙一は倉敷出身)

 ⑨オルゴールミュゼ・メタセコイア ⑩加計美術館 ⑪いがらしゆみこ美術館(いがらしゆみこは北海道出身) ⑫日本郷土玩具館 ⑬アイビー学館 ⑭倉敷市芸文館 ⑮大山名人記念館(将棋の大山名人は倉敷出身) ⑯倉敷市立美術館

 ⑰倉敷市立自然史博物館 ⑱ライフパーク倉敷科学センター ⑲林源十郎記念室 ⑳倉敷貯金箱博物館 ㉑倉敷科学センター ㉒真備ふるさと歴史館 ㉓まきび記念館 ㉔倉敷刀剣美術館 倉敷刀剣美術館

 

 

 

 

 

 

2018年3月 9日 (金)

すみだ北斎美術館

 2018年2月11日(日)、すみだ北斎美術館(墨田区亀沢)に行く。
 

 この日、午前中から国立科学博物館(東京・上野)の特別展「古代アンデス文明展」と常設展を観覧の後、13:10~13:50上野駅ビルの「ぶんか亭」で昼食。せいろそば(600円)を注文。

 上野駅から総武線の両国駅に移動、そこから10分ほど歩いて、14:20「すみだ北斎美術館」に到着。

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 美術館は、北斎がこの亀沢界隈(昔は本所と呼んでいた)で生まれ、生涯を過ごしたので、この地に設置されたそうだ。

 アルミパネルを外壁に使用した異様なデザインな建物、これが下町に溶け込んでいるということらしい。後で調べたら、建築設計は妹島和世(せのうかずよ)という有名な女性建築家。

 入場料(常設展)は、一般400円、65歳以上300円。

 『須佐之男命厄神退治之図(すさのおのみこと やくじん たいじのず)』 弘化2年(1845年) 北斎晩年の最大級作品(約126×276cm)。

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 牛嶋神社(墨田区向島)に奉納され社殿に掲げられていたが、関東大震災で焼失した。展示品は、明治の美術書を元にした推定復元図。(写真をクリックすると拡大表示します。)

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●読本(よみほん)挿絵の時代 45歳(1804年)~52歳(1811年)

 文化年間は、読本挿絵のイラストレータとして活躍。
 
 『飛騨匠物語(ひだのたくみものがたり)』 文化5年(1808)頃 読本

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●絵手本(えてほん)の時代 53歳(1812年)~70歳(1829年)

 『北斎漫画』として知られた絵手本の数々。門人や愛好家のための絵手本を版本とし、また工芸品の図案集としても利用された。

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 『潮干狩図』 文化10年(1813)頃 絹本 漢画や油彩画など様々な技法を取り入れているという。

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●錦絵の時代 71歳(1830年)~74歳(1833年)

 北斎の代表作『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏(かながわおき なみうら)』 天保2年(1831年)頃 錦絵

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●肉筆画の時代 75歳(1834年)~90歳(1849年)

 北斎87歳の時の作品『朱描鍾馗図(しゅがき しょうきず)』 弘化3年(1846年) 絹本

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 最も絶筆に近い作品とされる『富士越龍図(ふじこし りゅうず)』 嘉永2年(1849年) 絹本

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 晩年の北斎と娘のお栄の蝋人形には、あまりにもリアルでびっくり。

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 3日後の2018年2月14日(水)から、4月8日(日)まで、企画展「Hokusai Beauty ~華やぐ江戸の女たち~」が 開催される。

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 当館所蔵の北斎と一門の描いた美人画、ポーラ文化研究所所蔵の結髪雛型や装身具、化粧道具といった江戸の女性風俗を伝える資料等を合わせて、130点ほどの作品や資料を展示。北斎の美人画の魅力と、華やかな江戸美人の世界を紹介するという。

 美術館は4階建てだが、常設展示は4階のフロアだけで、意外とこじんまり。展示作品も、長野県小布施町で見た「北斎館」よりも少なくて、ちょっと残念だった。1時間ほど、ゆっくり見て回る。

 15:15、退館。美術館に隣接する「緑町公園」。東京スカイツリーが見える。

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 「北斎通り」を歩いて、「江戸東京博物館」(昨年10月1日~本年3月30日まで休館中)と「両国国技館」の前を経て両国駅へ。

 「北斎通り」は、かつて「本所割下水」と呼ばれ、北斎はこの辺りの住人であった。(写真をクリックすると拡大表示します。)

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 割下水(わりげすい)は、道路の真ん中を掘り割った下水路で、1650年代末以降の本所開拓で造られた。湿地帯に土を盛って造成された本所は、水はけが悪いので掘られた排水路で溝よりも大きい。生活用水を流さず、主に雨水の排水路だったので、さほど汚くはなく川魚、蟹や蛙などが棲んでいたという。
 

 16:10~18:10、池袋駅東口「一軒め酒場」に入店。

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  「長野市周辺と白馬の旅-その2」 2016/10/28 投稿
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2018年2月15日 (木)

国立科学博物館「古代アンデス文明展」

 2018年2月11日(日)、国立科学博物館(東京・上野)の特別展「古代アンデス文明展」を観覧に行く。
 

 主催は、国立科学博物館、TBS、朝日新聞社。会期は、昨年10月21日(土)~2018年2月18日(日)。特別展の入場料は、1,600円。

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 アンデス文明は、南米大陸のペルーを中心とするアンデス山脈西側沿岸と中央高地の南北4,000km、標高差4,500mに及ぶ広大な地域に存在した文明。先史時代から16世紀にスペイン人がインカ帝国を滅ぼすまで、約1万5千年間の歴史を有する。

 メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、中国黄河文明のいわゆる世界四大文明と異なり、文字を持たなかった。ナスカ、モチェ、ティワナクなど多種多様な文化が盛衰を繰り返した。貨幣や市場もなく、車(車輪)や鉄の製造も知らず、金・銀・青銅器の製造に留まったことも特徴。道具は、農耕では土を掘る棒、武器では棍棒(こんぼう)程度で、あまり発達しなかった。

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 特別展会場MAP (写真をクリックすると拡大)

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 本特別展は、祭礼や儀礼、神殿やピラミッドを造り上げる優れた技術、厳しい自然に適応した生活など、約200点の貴重な資料が展示されている。

 午前10時に入館。10時10分から音声ガイドを借り(500円)、「特別展」の観覧を開始。音声ガイドは、タッチパネル式のスマホタイプとタブレットタイプの2種類があって、画面を見ながら操作できるので、分かり易い。 
 

●序章 アンデスへの人類到達 紀元前13000年~前3000年頃

 1万数千年前に、アジアのモンゴロイド(黄色人種)が、ベーリング海峡を渡って南下し、アンデスまで移動してきた。アンデス特有な環境の中で、やがてリャマ(ラマ)やアルパカを飼育し、アンデス原産のトマトやトウガラシ、ジャガイモ、トウモロコシなどを栽培した。これらの作物は、スペイン人の征服後ヨーロッパに持ち帰り、世界の料理を変えたと言われている。

 アンデスのジャガイモとトウモロコシ・・・出典:ウィキメディア・コモンズ

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●第1章 アンデスの神殿と宗教の始まり

 先土器時代後期(土器がまだつくられてない紀元前3000年~前1500年頃)には、アンデス高地では農業に基づき、太平洋側では農業や漁業により人々の定住が始まった。共同社会や政治は次第に複雑さを増し、他地域との交流が始まり、大規模な神殿が多数現れる。神殿は、人々を宗教的・社会的に統合する役割を持ち、この機能は何千年という後の時代まで保たれた。

・カラル文化(紀元前3000年頃~前2000年頃)

 ペルーの首都リマから北に200Kmほど離れた場所に世界遺産「カラル遺跡」がある。砂漠地帯であるカラルは、中央海岸のノルテ・チコ地方に25以上ある遺跡の一つ。住居跡や神殿と思われる円形広場、ピラミッドが並ぶ都市遺跡。人々が定住生活をし、祭祀が行われた始まりとされる。農業を基盤とせずイワシなどの海産物を食べ、漁網が作るために乾燥に強い綿を栽培したという。

 カラルの大神殿・・・出典:ウィキメディア・コモンズ

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 左から、《線刻装飾のある骨製の笛2本》、《焼かれてない粘土で出来ている男性の人形2体》・・・オフィシャル・ガイドブック「古代アンデス文明展を楽しもう」から転載。

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 ペリカンの骨で作ってある笛は、サル、トリ、ネコ科動物の絵が刻まれている。まだ土器はなかったが、神殿が存在したことが明らかになった。

●第2章 複雑な社会の始まり

・チャビン文化(紀元前1300年頃~前500年頃)

 ペルー北部のアンデス高地に栄えた「チャビン文化」では、石彫の神像や頭像などが見られる。石造りの壮大な建造物で知られる古代アンデスの石の文明や宗教、美術など、この時代から地域間の交流により、文化的、社会的統一が始まったとされる。

 「チャビン文化」の最も有名な考古遺跡は、名前の由来となったチャビン・デ・ワンタル(世界文化遺産)。紀元前900年頃に建設され、チャビン人の宗教、政治の中心であった。

 《人が神に変身するテノンヘッド》

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 チャビン・デ・ワンタル神殿の壁に差し込まれていた石の頭像。人(左)が幻覚の中でジャガー神(右)に変化していく様子を表現されているともいわれている。

 《自身の首を切る人物の形をした土器》

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 首が180度ねじれたありえない形だが、切られた自分の首を自分で持っている。こんな物を土器にするとは実用的なものでなく、生贄(いけにえ)の儀礼に関係あるのかもしれないという。
    

●第3章 さまざまな地方文化の始まり

 数百年に及んだチャビン文化は理由は明らかではないが廃れ、各地域の伝統が復活して行く。やがて同時代の異なる地域、ペルー北部海岸では独特な美的才能を見せた「モチェ文化」、南部海岸で地上絵で有名な「ナスカ文化」の華が開く。 

・モチェ文化(紀元200年頃~750/800年頃)

 大きな谷には開けた大平野があり、豊かな川が潤い、灌漑農業が経済を発展させた。洗練された写実的なユニークな土器と、華麗な黄金製品を生み出した。アンデス文明では文字がなかったため、土器のデザインで意思疎通を図ったとされる。「モチェ文化」では、土器を通して人々が神々、死者、自然、人間の4つの世界観を共有した。

 《象嵌のマスク》・・・「古代アンデス文明展」のポスターから転載。

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 牙が生えているのは、アンデス文明の神の特徴の一つ。

 《儀式用ケープをまとった人間型超自然的存在の像が付いた土器の壺》

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 《ネコ科動物の毛皮を模した儀式用ケープ》と、下 《ネコ科動物の足をかたどりメッキをほどこした爪を付けた土製品》。

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 ジャガー神のつもりだろうか、儀式の時に身に付けたと思われる。

 《二つの主神が描かれた土器》

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 土器の上の図にあるような、2人の神様の絵が描かれている。

 右から順に、《鹿を背負う死者の土器》、《この世の女性と仲良くしている死者を描いた土器》、《人間型の鹿の土器》、《裸の男性の背中にネコ科動物がおぶさった土器》。

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 《擬人化したネコ科動物》

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・ナスカ文化(紀元前200年頃~紀元650年頃)

 北部海岸と比べてナスカの農業環境は恵まれていなかった。極端に雨の恵みが少なく干ばつの影響を受けやすい。彼らは神に祈る為に、優れた芸術品を作った。巨大な地上絵もその一つ、土器や織物の見事な装飾が知られている。しかし紀元600年頃までには、急激な気候変動により社会的混乱が起こり、人口の大部分が高地に移住。「ナスカ文化」は、途絶えてしまう。 
 
 《リャマが描かれた土製の皿》・・・オフィシャル・ガイドブック「古代アンデス文明展を楽しもう」から転載。

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 適度に抽象化されているこの土器の絵は、「ナスカ文化」の比較的初期のもの。

 左手前は《8つの顔で装飾された砂時計型土器》、中央は《人間型神話的存在が描かれた双注口壺》、右は、《投槍器を持つ2人の男が描かれた背の高いコップ形土器》

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 《刺繍マント》

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 ナスカの前身のパラスカで美しい織物が作られた。そのほとんどはミイラを包んだものだったそうで、精霊を思わせる人物(鳥の翼を持った人間)が刺繍してある。 
 

●第4章 地域を超えた政治システムの始まり

  6世紀後半、干ばつ、洪水などの深刻な気候変動によって、アンデス中央の高地と海岸部で、人口集中という大きくな社会変化が起こる。

 7世紀、アンデス中央高地南部の地域では、人口が集中して新興のワリ国家となり武力で領土を拡大。都市的な建造物群が各地に造られ、「ワリ文化」が発達する。また同じ頃、現在のボリビア高原のティワナクの人々が、独自の宗教を掲げてチチカカ盆地から領土を拡張する。その後10世紀初めになると、ペルー北部海岸の地域では、高い生産力、進んだ技術と多くの人口を抱えた強力な「シカン国家」が成立し、北部海岸の広い範囲を支配する。

  「ティワナク文化」の「太陽の門」をはじめとする高度な石造の建築技術、同じ高地で共存していた「ワリ文化」の時代から築かれ始めた「インカ道」(道路網)。そして、黄金の装飾品を生み出した「シカン文化」の金属加工技術。アンデスの各地が生み出した政治、経済、文化は、後にアンデス最大にして最後の帝国となる「インカ帝国」に受け継がれていった。

・ティワナク文化(紀元500年頃~1100年頃)

 チチカカ湖の湖畔にある盆地で繁栄し、中心となったティワナク遺跡は、巨大な石造建築物や一枚岩から削り出された石彫などが有名で「石の文化」、「石の文明」と呼ばれている。7世紀頃からチチカカ盆地の外にも宗教的・経済的な影響力を持ち始め、太平洋岸にも飛び地(入植地)を築いたが、紀元1000年ごろに衰退しはじめた。

 ティワナク遺跡は、2000年に世界遺産に登録され一部復元されているが、破壊がすさまじく風化も激しいため、昔日の面影はほとんど残っていないという。

 《カラササヤで出土した金の儀式用装身具》・・・「古代アンデス文明展」のポスターから転載。

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 ペルー北部海岸は黄金製品が潤沢なことで有名だったが、山の中のティワナクにもこのような黄金製品があった。トルコ石を象嵌。黄金は腐食しないため「永遠の生命」の象徴であった。

 《動物をかたどった土器の香炉》

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 ネコ科の動物が多い。どれも表情が豊かでかわいい。

 右は《台部が人頭の鉢》、中央の3体は男性や女性をかたどった土器など。

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・ワリ文化(紀元650年頃~1000年頃)

 「ワリ帝国」は、武力で広い範囲の領土を獲得し他民族を統治し、アンデスではじめての「帝国」だと言われる。計画的に設計された都市型の飛び地を海岸部に建設し、海岸と高地の覇権を握っていたと考えられている。

 《土製のリャマ像》・・・オフィシャル・ガイドブック「古代アンデス文明展を楽しもう」から転載

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 ラクダ科のリャマ(ラマ)は運搬、織物のための採毛、食肉などの用途があり、アンデスにはか欠かせない家畜。この香炉の高さは、約70センチもある。

 《杖を持つ神が描かれた鉢と壷》

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 杖を持つ神は、「ティアナク文化」の影響を受けているそうだ。

 《人間の顔が描かれた多彩色鉢》

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 種族の違う人の顔がたくさん描かれているが、政治的に重要な立場の人だったのではと考えられているそうだ。また舌を出しているのは、ワリが征服した敵を絞殺した姿ではないかとも考えれられている。

 《チュニック(上衣)の一部》

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 説明板には、「アンデスの織物伝統の中で、数はさほど多くないが際立った存在のうちのひとつで、 階段状のユニットをかがり合わせて作られている。この布は男性のチュニックとして作られたのだろう。」とある。どこか懐かしい模様で、こんなにも色が鮮やかに残っている。

 《つづれ織のチュニック》・・・写真なし

 アンデスは文字のない文明だったため、紙の代わりに織物がイメージを伝達するメデイアとして重要な役割を果した。また、織物は身分をあらわす重要な指標でもあった。

   
・シカン文化(紀元800年頃~1375年頃)

 「シカン文化」は紀元10世紀のペルー北部海岸で急速に頭角をあらわし、最盛期である中期シカン期(900年~1100年)には独自の文化を完成させた。「モチェ文化」の存在と「シカン文化」の台頭があったため、拡大を試みた「ワリ帝国」はこの地域では確固とした覇権を確立することができなかった。「シカン文化」は、在来の「モチェ文化」と外部から導入された「ワリ文化」の特徴を併せ持つ新しい様式を作り上げたという。 

 《ロロ神殿「西の墓」の中心被葬者の仮面》・・・オフィシャル・ガイドブック「古代アンデス文明展を楽しもう」から転載

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 アンデスの多神教の風土の中で、シカンではこの仮面のような「アーモンド・アイ」をした「一神教的な」神が頻出するという。仮面は、支配者階級が神に変身するために使われたのだろう。埋葬された高い身分の遺体にかぶせられていた。表面は朱が塗られている。

 左から《金の装飾品》、《鉢形の金の器》、《金のコップ》、《金の首飾り》

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 これらは、高純度の金の薄板を打ち出し加工したもの。優れた金属精錬・加工技術を有していた。

 上の写真《金の装飾品》の拡大・・・「古代アンデス文明展」のポスターから転載。

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 《人間型の土製小像3体》

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 左から、《2種類の超自然的存在の4つの顔が付いた壺》、《リャマの頭部をかたどった黒色壷》、《生まれたての仔犬をくわえた親犬をかたどった単注口土器》

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●第 5章 最後の帝国 ― チムー王国とインカ帝国

 「ワリ帝国」や「ティワナク文化」の体制が衰退・崩壊すると、各地に多数の地域国家が成立し、対立や衝突が生じた。その間、勢力を伸ばした「チムー王国」は北部沿岸の有力勢力になって14世紀末に「シカン文化」を吸収。しかし1470年頃、「インカ帝国」が「チムー王国」を滅ぼし、アンデス文明で最大規模の領土にまで成長する。

・チムー王国(紀元1100年頃~1470年頃)

 「チムー王国」は、「シカン文化」の金属精錬技術を受け継ぎ、高い農業生産性を持つ土地と技術、優れた職人を獲得した。

 《木製の葬送行列のミニチュア模型》

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 埋葬行列の模型。2人の男性が担いでいるのは、死者を織物でくるんだ「葬送包み」というもの。周りにいる12人は、地位や役割がバラバラだそうだ。
 

・インカ帝国(紀元15世紀早期~1572年)

 「インカ帝国」は、アンデスで発達した政治システムの中で、最後にして最大、最強の国家であった。様々な技術を利用して景観を変えるほどの大規模な開発や、軍事的な大遠征を繰り返して強大な帝国を作り上げた。「インカ道」と呼ばれる交通網は、全長4万kmに及んだという。

 しかしアンデスに南北4000Kmにも及ぶ大帝国を築きながら、わずか168名のスペイン人の侵略によってあっけなく崩壊した。

 《インカの象徴的なアリバロ壷》

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 《インカ帝国のチャチャポヤス地方で使われたキープ》

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 文字のないアンデス文明では、情報の記録・伝達手段という役割を担った「キープ」と呼ばれる紐。織物や家畜の数を、紐に結び目をつけて数字を10進法で表し、色や太さも意味を持っていたと考えられている。もっと複雑な情報が隠されているという説もあるが、まだ解読途上の遺物。

 《植民地期の多色コップ》

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 インカ帝国の遺跡「マチュ・ピチュ」・・・出典:ウィキメディア・コモンズ

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 《アンデスの最後の晩餐》 次のコーナー(第6章)に向かう通路の壁に、油絵があった。 

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 有名なイタリアのレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』を元に、アンデス先住民にキリスト教を布教しやすいよう、17世紀に描かれたもの。卓上には、ジャガイモなどアンデスの人達に馴染みのある新大陸特有の食べ物が置かれている。キリスト教の布教には、征服者側も現地の文化や生活スタイルを取り入れる必要があった。

 次の章の部屋の入口には、「このコーナー 『第6章 身体から見たアンデス文明』 での写真・動画撮影はご遠慮ください。」という大きな看板が立っている。この看板だけを撮影しようとしたら、係員から制止された。 
 

●第 6章 身体から見たアンデス文明

 古代アンデス文明には、旧大陸には見られないミイラの文化が育った。インカの王は死後ミイラとなり、家臣にかしずかれながら生活していたという。南米の乾燥している地域では、死んだ人間をそのまま放っておいてもミイラ化する。死んだ人も、生きていたように傍に置き、生者と一緒に生活していたのだろう。

・チリバヤ文化(紀元900年頃から1440年頃)

 《変形された頭骨》・・・写真なし

 頭を特別視していたアンデスの人々は、「変形頭蓋」と呼ばれる形状の頭骨をしていた。子供の時から頭に板を当て縄や布できつく縛り、人工的に変形した頭蓋骨が展示。部族への帰属や宗教的な意味があったそうだ。

 《開頭術の跡のある男性頭骨》・・・写真なし

 開頭術は、黒曜石などのナイフで頭骨に孔を開ける外科手術で、「パラカス文化」(2500年程前ペルー南部海岸に栄えた文化)に始まり、インカの時代まで続いた。時代と共に生存率が上昇したことも分かっているという。頭に大きな負傷を負った者に対して、頭に穴を開けて治療したらしい。脳みそは痛覚器官がないから痛みを感じないそうだが、コカイン(コカの葉から抽出)で麻酔をしたのだろうか、酒などのアルコールで雑菌消毒はしたのだろうか。

 《少女のミイラとその副葬品》・・・「古代アンデス文明展」のチラシから転載。

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 他の男児のミイラと違って、顔が覆われていないが、理由はわかっていない。髪はきれいに編まれている。ミイラが3体が展示してあった中の一つ。

 「チリバヤ文化」では、人々は死後ミイラとなり共同体の一員として受け入れられていた。多数の副葬品と共に埋葬されたり、定期的に衣服を取り替えられたミイラもあるという。古代エジプトと違い、古代アンデスでは遺体を体育座りの格好で布で包み、生者と共存していたそうだ。我々が仏壇や居間に、亡くなった人の写真を掲げるのと同じことなのだろう。しかし布を外したもう一体は、乾燥して干からびた皮膚とか髪が、リアルで不気味だ。

 本展示にはないが、インカ時代に生贄(いけにえ)に火山の山頂に埋められ、凍結しているため保存状態の良い少女のミイラ3体が、20年ほど前に発見された。着飾って安らかな顔をした少女の毛髪を分析すると、生贄として捧げられる1年程前から、贅沢な食事のほか向精神作用成分(コカインやアルコールなど)を摂取していたという。 特に数週間前くらいからの大量摂取で、意識もうろうとして死を迎えたのであろう。

 こういったアンデスの風習を知ると、現代の我々は理解できないが、人間の生死について改めて考える。

 

 観覧を終え、ミュージアム・ショップへ行く。「古代アンデス文明展」の図録は、2,500円。オフィシャルガイドブック「古代アンデス文明展を楽しもう」1,000円を購入する。

 12時頃「特別展」を退場、次に国立科学博物館の常設展を見学することに。
 

 ★ ★ ★

 特別展の「古代アンデス文明展」は、見ごたえがあった。日本の縄文・弥生の土器・埴輪・土偶などと較べても、模様のデザインが複雑で技術も高く、高度な文化に驚く。2時間かけて回ったが、日曜日で観覧者が多く、展示品や説明板を見るのに並んだり、良く見えなかったり。展示品は、ミイラのコーナーを除いて写真撮影出来たが、観覧者の体が邪魔してうまく撮れなかった。

 文字を持たなかったアンデスの人々の生き方、考え方は、長い年月をかけて発展してきた土器、装飾品、織物、土像、石像などの特有のデザインでしか知ることができない。それゆえ、ユニークな造形や図柄がとても面白く、精巧で素晴らしい。
 
 

 「インカ帝国」は、アンデス文明の系統を引く先住民が築いた最後の国家。首都はクスコ。世界遺産であるインカ帝国の遺跡「マチュ・ピチュ」から、さらに千メートル程高い3,400mの標高にある。クスコの市街地も世界遺産。

 記録がないのでインカ帝国の起源は定かではないが、1200年頃にケチュア族の中のインカ部族が、中央アンデスのクスコに地方小国家をつくったとされる。高度な農耕、金属器文化を有して、15世紀の中ごろ北方のチャンカ族と戦って勝利を収めると、インカ部族は急速に征服を開始した。

 第9代のパチャクチ皇帝は、在位33年間に帝国の版図を約1000倍に拡張、現在のペルー、エクアドル、ボリビア(チチカカ湖周辺)、チリ北部を支配し、最盛期を迎えた。「インカ帝国」は、被征服民族に比較的自由に自治を認めていたため、連邦のような国家だったという。第11代のワイナ=カパック皇帝は更に領土を100万平方Kmに拡張、南北の距離は4000Kmに及ぶ大帝国となった。ワイナ=カパックの死後、皇妃との間に生まれた皇子ワスカルと、側妻の子アタウワルパが皇位継承をめぐって争い、帝国は二分されて内戦となった。

 1533年、結局アタウワルパが勝利を収めて皇位を嗣いだが、同じころスペインのピサロが168人の部下を率いて進撃し、皇帝を欺して捕らえて処刑する。ピサロたちは、神殿や宮殿を徹底的に破壊し、金銀はすべて略奪した。金銀には、スペイン人にはお金という価値があるが、装飾品や美術品という感覚はなかったので、すべて溶かして本国に送った。

 征服戦争で華々しく戦ってきた「インカ帝国」は、なぜわずかな兵士のピサロ隊に敗れてしまったのか。インカは、高地に順応している利点はあったが、武器は投石機、吹き矢、弓矢、銅製の斧や投槍だった。一方ピサロたちは、ヨーロッパでの数々の豊富な戦術経験があり、鉄剣、鉄砲、大砲、騎馬と、インカ人が知らない武器を持っていた。

 戦いの勝負は、果たして武器の差だけだったのだろうかという疑問があった。最近の研究で、「インカ帝国」は別の理由で自滅したということを知る。スペイン人たちは、インカによる自領の統治を断ち切ろうとする何万もの先住民の味方を獲得していた。また皇位をめぐる内戦で、帝国内は弱体化していた。そして、すでにヨーロッパ人が持ち込んだ伝染病が、壊滅的な打撃を与えたのが一番大きい。おそらくは「インカ道」により伝染が容易に広まったのである。チフス、天然痘、インフルエンザなど、旧大陸と交流がないため抵抗力の無かった先住民にまん延。天然痘は、わずか数年間でインカ帝国の60%以上もの人々を死に至らしめ、人口の大幅な減少を引き起こしたという。

 インカの後継者たちは、1536年には反乱を起こすが、1572年インカ最後の要塞がスペイン人に征服され、最後のインカ皇帝と称したトゥパック=アマルは捕らえられ処刑された。ここにインカ帝国のスペインによる征服への抵抗は終結。古代アンデス文明の「インカ帝国」は、完全に滅亡した。

2018年1月23日 (火)

国立西洋美術館「北斎とジャポニスム」

 2018年1月17日(水)、国立西洋美術館の企画展「北斎とジャポニズム」を観賞する。

 

 午前10時から駒込・巣鴨界隈を散策、15時ころ上野駅へ。

 15:10、上野駅構内の「エキュート上野」にあるチケットショップで、国立西洋美術館「北斎とジャポニズム」の観覧券1,600円を購入。窓口には、企画展の待ち時間は、「0分」と掲示してある。


【企画展】 北斎とジャポニズム - HOUKUSAIが西洋に与えた衝撃

 15:30入館。音声ガイド550円。企画展内は、撮影禁止。

 「北斎とジャポニスム」のパンフレットの表紙。

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 江戸時代末期、今から150年ほど前に開国した日本に、西洋は急速に関心を寄せ始めた。中でも西洋の芸術家たちは、日本美術の新しさ、珍しさに魅了され、その真髄を自らの創作活動に取り入れた「ジャポニスム」という現象を生み出した。特に、天才浮世絵師・葛飾北斎が、西洋美術に与えた影響は絶大であったという。その影響は欧米の全域にわたり、絵画、版画、彫刻、ポスター、工芸など、更には音楽の分野にも及んでいる。

 国内外の美術館が所蔵するモネ、ドガ、セザンヌ、ゴーガンなどの西洋の作品約220点と、錦絵約40点と版本約70点からなる北斎作品約110点を集め、比較して展示。主催者は、「日本初、世界初。西洋と北斎の名作、夢の共演」と謳っている。

 本展の会期は、2017年10月21日(土)~2018年1月28日(日)。鑑賞した前日の1月16日(火)には、来場者数が30万人を突破したそうだ。

 

 葛飾北斎(1760~1849)は、江戸時代後期を代表する浮世絵師。狂歌本や読本挿絵、『北斎漫画』に代表される絵手本などの版本、錦絵版画、肉筆画など多彩な制作活動を行った。代表傑作の『冨嶽三十六景』は、歌川広重の『東海道五十三次』と並び、浮世絵における風景画を確立させた。森羅万象を描き、生涯に3万点を超える作品を発表、14歳で絵師になってから90歳で没するまで、意欲的な製作活動を続けた。『北斎漫画』の初編を発刊したのは54歳、『冨嶽三十六景』を発表したの72歳、大器晩成型の絵師であった。

 北斎の自画像 天保10年(1839年)頃 出典:ウィキメディア・コモンズ

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 以下に各章(エリア)ごとに、代表的な作品について論じる。

 本文に掲載する作品は、クロード・モネの《陽を浴びるポプラ並木》 以外は、「北斎とジャポニスム」のパンフレットから転載。

 

第Ⅰ章 北斎の西洋による受容

 鎖国時代、シーボルトを始め出島のオランダ商館員たちが、北斎の絵本や肉筆画を西洋に持ち帰った。開国すると、来日した外国人たちは日本での紀行本や紹介本を発刊するが、日本の風景や風俗を表わすため、北斎の絵が挿絵として多数掲載されるようになった。

 明治に入って日本の美術品は大量に流出。特に北斎の作品に興味を持ち、収集する愛好家たちが数多く生まれた。更に、西洋に無い斬新な表現をする北斎に驚いた芸術家たちは、その絵を手本として模写したり、その画法を研究するようになる。

 西洋の画家が『北斎漫画』を模写した作品が、北斎の絵と並べて多数展示されている。
  

第Ⅱ章 北斎と人物

●エドガー・ドガ

 ドガは、踊り子を多く描いた。手を腰に当てたバレニーナの日常、何気ない動きをとらえたポーズは、『北斎漫画』に登場する相撲取りの姿。バレニーナの正面からの姿を描くの普通だろうが、背中を向けたポーズは、新鮮だったのだろうか。

 エドガー・ドガ 《踊り子たち、ピンクと緑》 1894年 パステル、紙

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 葛飾北斎 『北斎漫画』十一編(部分) 刊年不詳

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●メアリー・カサット

 それまで西洋では、幼い女の子でも行儀の良いポーズで描かれていたのだろう。このような退屈そうに寝そべって、足を広げた子供らしい姿は、まさに『北斎漫画』の大きな袋の上にユーモアのある太鼓腹の布袋様を意識しているのだそうだ。
 
 メアリー・カサット 《青い肘掛け椅子に座る少女》 1878年 油彩、カンヴァス

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 葛飾北斎 『北斎漫画』初編(部分) 文化11(1814)年

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第Ⅲ章 北斎と動物

●ポール・ゴーガン

 小動物、鳥、魚、爬虫類や昆虫は、モチーフとして北斎の作品に多く現われているが、西洋にはその生きた姿が作品の主役として描かれることは無かった。西洋から遠く離れた南太平洋のタヒチを本拠地としていたゴーガンも、浮世絵に興味を持っていた。北斎の丸々として愛くるしい3匹の子犬と同じく、平面的に描かれた子犬を3匹描いている。

 西洋画を見た日本人は、油絵など写実的で立体感のある絵に驚いたと思う。しかし西洋人が、簡潔で平面的ではあるが生き生きとした動作・表情の日本の絵に、新鮮さを憶えたのは皮肉なものである。

 ポール・ゴーガン 《三匹の子犬のいる静物》 1888年 油彩、板

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 葛飾北斎 『三体画譜』(部分) 文化13(1816)年 浦上蒼穹堂

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第Ⅳ章 北斎と植物

 日本では古来より、「花鳥風月」という言葉がある。花や鳥などの動植物を愛し、よく詩歌の題材になったり、絵にも描かれる。美しい自然や自然の美しい風物(風と月など)を重んじて観賞する、風雅な趣を楽しむことをいう。

●フィンセント・ファン・ゴッホ

 西洋では、宗教画が一番上で、その下に人物画、風俗画や風景画、静物画の順に位置づけられていた。しかも植物は静物画として、花瓶に活けた姿を描くのが定番だった。日本では花鳥画として、自然の中で根を張った植物が対象である。ゴッホは、野生に咲く花の姿を、しかもクローズアップして描くというのを北斎から学んだという。

 フィンセント・ファン・ゴッホ 《ばら》 1889年 油彩、カンヴァス

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 葛飾北斎 《牡丹に蝶》 天保2-4年(1831-33)頃 横大判錦絵

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第Ⅴ章 北斎と風景

●クロード・モネ

 モネは、北斎の作品をいくつも所有するほど、北斎好き。北斎は、松の並木や竹林越しに見る風景をよく書いていた。モネのポプラの木立がリズムよく並ぶ構図は、北斎の松の並木を参考にしているそうだ。

 クロード・モネ 《陽を浴びるポプラ並木》 1891年 油彩、カンヴァス (出典:ウィキメディア・コモンズ)

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 葛飾北斎 《冨嶽三十六景 東海道程ヶ谷》 天保元-4年(1830-33)頃 横大判錦絵

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第Ⅵ章 波と富士山

●カミュ―ユ・クローデル

 西洋にも風景画の中に、海景画という分野があったそうだ。しかし北斎のように、波自体を主役にすることは無かった。北斎の『神奈川沖浪裏』の大波を見た西洋人は、きっとそのダイナミックさに衝撃を受けたであろう。大勢の西洋芸術家たちが、その大波(The Great Wave)にチャレンジした。

 フランスの女性彫刻家・クローデルの「波」は、「神奈川沖浪裏」をヒントに、彫刻によって大波を立体化したとされる。ただ大波の恐怖よりも、3人の女性たちを包み込むようで優しい。クローデルと親しかった作曲家・ドビュッシー(1862~1918年)も、北斎の絵から交響詩「海」を着想したとされている。(音声ガイドから、その曲を聞く。)

 左、カミュ―ユ・クローデル 《波》 1897-1903 オキニス、ブロンズ

 右、葛飾北斎 《冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏》 天保元-4年(1830-33)頃 横大判錦絵

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●ポール・セザンヌ

 北斎の富士山のように、セザンヌは南仏のサント=ヴィクトワール山を様々な構図で繰り返し描いたという。遠景に主役の山を置き、前景に木立を配して、中間の景色を俯瞰的に描く構図は、北斎の『冨嶽三十六景』の描き方に似ている。

 ポール・セザンヌ 《サント=ヴィクトワール山》 1886-87年 油彩

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 葛飾北斎 《冨嶽三十六景 駿州片倉茶園ノ不二》 天保元-4年(1830-33)頃

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【常設展】 松方コレクション

 企画展「北斎とジャポニズム」を観賞した後、3年前に鑑賞した事があるが、常設展(松方コレクション)を駆け足で回る。企画展のチケットで、常設展の観覧は無料。

 鑑賞途中で気がついたが、当館が所蔵する作品(常設展示作品)については、写真撮影は可能。

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 ピエール=オーギュスト・ルノワール 《横たわる浴女》 1906年 油彩、カンヴァス

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 ピエール=オーギュスト・ルノワール 《帽子の女》 1891年 油彩、カンヴァス

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 右、ジョアン・ミロ 《絵画》 1953年 油彩、カンヴァス

 中央、フェルナン・レジェ 《赤い鶏と青い空》 1953年 油彩、カンヴァス

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 17:30、退館。

 本降りの雨の中、公園口からパンダ橋を渡って上野駅ビル商店街「アトレ上野」へ。

 18:00~19:30、不忍口、山下口から徒歩1分、「アトレ上野」1Fの道路側にあるイタリアン「バルピノーロ 上野」 (BAL PINOLO)で夕食。

 

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 ★ ★ ★

 【北斎を「影」で支えた葛飾応為】

 2016年10月16日、長野県小布施町の美術館「北斎館」(一般財団法人)に行った。葛飾北斎の肉筆画が多く展示してあり、北斎の多彩な才能に感動した。

 北斎は、信州・小布施村に縁があった。小布施の豪農商・高井鴻山は、江戸での遊学の折、北斎と知り合った。数年後の1842年(天保13年)秋、83歳の北斎が小布施の鴻山屋敷を訪れた。鴻山は感激し北斎を厚遇、自邸に一間のアトリエを新築した。北斎は1年余り滞在して創作活動に励んでいる。その後も数回、鴻山邸を訪れたという。
 

 2017年9月18日(月)夜7:30~8:43、NHK総合テレビで特集ドラマ『眩(くらら)~北斎の娘~』が放送され、視聴した。1時間ちょっとの番組だったが、単発でなく連続ドラマにすべきようなとても良い内容だった。

 83歳の北斎が、江戸から信州・小布施まで旅をした。昔の人は健脚であったろうが、高齢の北斎が一人で長旅をしたのだろうか。ドラマを見ていて、やっとわかった。娘・葛飾応為(おおい)が同行したのだった。

 NHK特集ドラマ『眩(くらら)~北斎の娘~』 NHKホームページから転載。

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 ドラマのあらすじは、次のようである。

 江戸の天才絵師・葛飾北斎の三女として生まれたお栄(後に葛飾応為、宮﨑あおい主演)は、町絵師と夫婦になった。しかし針仕事も殆どせず、父譲りの画才と男勝りの性格から夫の描いた下手な絵を笑ったため、離縁されてしまう。師である北斎(長塚京三)の元に出戻った応為は、晩年の北斎と起居を共にし、絵の手伝いが始まる。そんな中で、北斎の門人である絵師・善次郎(松田龍平)にだけは悩みを話すことができ、密かな恋心もあった。

 北斎を尊敬し、影で支える絵師として働き続ける。そして北斎の代表作である「富嶽三十六景」が完成した時にも、そばには応為がいた。父が高齢となり、思うがままに筆を動かせなくなってからも、応為は父の「影」として北斎の絵を描き続ける。北斎は眩しい光、自分はその「影」でいい。

 時は経ち、心のよりどころであった善次郎が、そして北斎もこの世を去る。そして60歳を過ぎた応為は、晩年に独自の画風にたどり着く。

 「影が万事を形づけ、光がそれを浮かび上がらせる。この世は光と影でできている」と・・・。

 

 応為の生まれた年は寛政13年(1801年)前後、没年は慶応年間とされるが、はっきりしない。美人画に優れ、北斎の肉筆美人画の代作をしたともされる。北斎は、「美人画にかけては応為にはかなわない。彼女は妙々と描き、よく画法に適(かな)っている。」と語ったと伝えられている。しかし残念ながら現存する作品は、10点前後と非常に少ないそうだ。西洋画法への関心が強く、誇張した明暗法と細密描写に優れた肉筆画が残る。

 葛飾応為 《吉原格子先之図》 1818-44年(文政-天保年間)頃 紙本着色 (出典:ウィキメディア・コモンズ)

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 この絵を見て、筆者は衝撃を受けた。西洋画のような光と影のある絵を書く人が、江戸時代にいたのかと。

 北斎作とされる作品、特に北斎80歳以降の作品の中には、実際は応為の代筆が相当数あると考えられている。目や耳も衰え、中気(脳卒中)で手が震えていた北斎が、90歳で没するまで描き続けたというのも、応為の支えや代筆があったと考えれば納得できる。ドラマでも、応為の名前では売れない絵に、北斎の落款(らっかん)を押すシーンが出てくる。
 

 ドラマの原作『眩』(くらら)は、直木賞の女流作家・朝井まかてによる歴史小説。『小説新潮』2014年12月号から約1年間連載され、2016年3月に新潮社より刊行された。


 墨田区亀沢にある公立の「すみだ北斎美術館」は、葛飾北斎を単独テーマとした常設美術館。2016年(平成28年)11月に開館したので、まだ新しい。北斎が本所界隈(現在の墨田区)で生まれ、生涯を送ったことから、当地に設置された。来月2月に鑑賞に行く予定で、新しい発見が楽しみ。

 

2017年11月27日 (月)

東京都美術館「ゴッホ展」

 2017年11月9日(木)、上野の東京都美術館で開催中の「ゴッホ展-巡りゆく日本の夢」を観賞。

 

 ゴッホは、600枚に及ぶ浮世絵を集めて模写するなど、日本にあこがれ、日本美術に強い関心を持ち影響を受けていた。

 「札幌展(北海道立近代美術館)が、10月15日(日)までで終了し、現在東京都美術館で、2017年10月24日(火)~2018年1月8日(月・祝)の会期で開催されている。次は京都国立近代美術館が、2018年1月20日(土)~3月4日(日)の会期で京都展が開催される。

 一方上野の国立西洋美術館では、ちょうど「北斎とジャポニズム」展が10月21日(土)~2018年1月28日(日)の会期で開催中。モネ、ドガ、セザンヌ、ゴーガン… 等の西洋の芸術家たちが、浮世絵師・葛飾北斎の作品から衝撃を受けた。北斎と西洋の芸術家たちの作品が集結した展覧会。両美術館とも、テーマが似通っているが、今回は時間もないので、ゴッホの方を観賞することにする。

 去る11月3日(金)午前10時05分~50分、NHK特集番組「ゴッホは日本の夢を見た」が放映された。

 日本のどこにひかれたのか?、女優・吉岡里帆がフランス、オランダを旅し、残された遺品や貴重な証言を手がかりに、傑作誕生の物語から意外なゴッホ人物像に迫るという内容だった。この放映を事前に視聴していたので、「ゴッホ展」を観賞してより理解が深まった。

 

 JR上野駅から上野恩賜公園へ。東京国立博物館前に行くと、大噴水の水が抜かれてその中で工事していた。かつて公園は上野・寛永寺の境内だった歴史を踏まえ、浮世絵にある山門を、角材4800本で模した楼閣だそうだ。

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 この構造物は、10月10日~19日に開催されるアートイベント「TOKYO数寄フェス2017」の出品作。夜にはライトアップされ、噴水池に姿を映し出すそうだ。現代美術家で東京芸術大の大巻伸嗣教授の作品。

 

 14:30、東京都美術館の入口に着く。

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 「ゴッホ展」のポスターに使われている絵は、ゴッホの「花魁(おいらん)」。

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 東京都美術館のロビーと受付。

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 作品はすべて「撮影禁止」だったため、以下に掲載する作品の写真はすべてウィキベディアコモンズから転載。

 

 【第1部 ファン・ゴッホのジャポニスム】

 国内外のコレクションからゴッホ作品約40点と、同時代の西洋画家の作品や浮世絵など50点余りを比較して展示されている。

 ゴッホは33歳の時にパリに来てから浮世絵に出会い、浮世絵や日本の資料を集め、模写しそのデザインや画法を自分の作品に取り入れていく。

 渓斎英泉「雲龍打掛(うんりゅううちかけ)の花魁(おいらん)」を掲載した「パリ・イリュストレ」誌1886年5月号。

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 ゴッホの模写「花魁」。花魁の他にも、別の浮世絵から蓮、鶴、カエルなどが描かれている。1887年製作。

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 「カフェ・タンブランのアゴスティーナ・セガトーリ」 彼女は、パリで「カフェ・タンブラン」を経営していた。ゴッホは、1887年に彼女の店で浮世絵展を開いた。右側の壁に浮世絵の女性像が見える。1887年製作。

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 背景に浮世絵をちりばめた「タンギー爺じいさんの肖像」。1887年。

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 自らを日本の僧侶の姿にして描いた「坊主としての自画像」。1888年製作。(展示なし?)

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 歌川広重の「亀戸梅屋敷」とミレーの「種まく人」の模写。1888年製作。

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 上の絵のもとになったと思われる歌川広重の「亀戸梅屋敷」の模写「梅の開花」(1887)と ゴッホのミレー「種まく人」の模写(1888年)。(これらの作品は、図録リストにはない)

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 晩年、南フランスのアルルに向かったのも、「日本のように陽光に満ちた地」を目指したからだとされる。

 「寝室」= アルルで暮らした2階の部屋。ドアの隣には画家・ゴーギャンが住んでいた。「日本人はとても簡素な部屋で生活した。そしてその国には何と偉大な画家たちが生きていたことか。この作品の陰影は消し去ったり、浮世絵のように平坦で、すっきりした色で彩色した」。1888年製作。

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 アルルの風景「オリーブ園」。黄色がゴッホの作品の特徴。1889年製作。

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 フランス女性を日本人に見立てた「ムスメの肖像」。日本人少女をイメージして、この作品を「ムスメ」と呼んだ。1988年製作。

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 「花咲くアーモンドの木の枝」= ゴッホが南フランスの精神病院で療養していた時、パリに住んでいた弟テオに子が生まれたのを祝って製作したという。花の輪郭や枝ぶりは、浮世絵の影響が見られる。1890年製作。

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 下の絵も同名の作品。1888年製作。

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 【第2部 日本人のファン・ゴッホ巡礼】
 
 1890年(明治23年)にゴッホが亡くなった後、主治医だったガシェ医師に晩年の作品が多く残された。およそ20年を経て、武者小路実篤や岸田劉生らがこの天才画家を日本に紹介し始める。

 日本を夢見たゴッホの死後、大正から昭和初期にかけて今度は日本人画家ら多くのファンたちがゴッホの墓参をし、ガシェ家を訪れた。第2部ではこの「ゴッホ巡礼」で、ガシェ家に残る芳名録に基づいた約90点の資料が展示されている。

 16:00、退館。

 

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 フィンセント・ファン・ゴッホは、1853年3月オランダ南部のズンデルトで、牧師の家に生まれた。1869年画商グーピル商会に勤め始め、ハーグ・ロンドン・パリで働くが勤務態度が悪く、1876年商会を解雇された。その後イギリスで教師として働いたり、オランダの書店で働いたりするうちに聖職者を志すようになり、1877年アムステルダムで神学部の受験勉強を始めるが挫折。

 1878年末からベルギーで伝道活動を行うが、常軌を逸した活動で資格停止。画家を目指すことを決意して美術学校に入学。以降オランダ、ベルギーの各地を転々としながら、4歳下の弟テオの援助を受け、製作を続けた。この時代には、貧しい農民の生活を描いた暗い色調の絵が多く、「ジャガイモを食べる人々」はこの時代の代表作品。

 1886年2月弟を頼ってパリに移り、印象派の影響を受けた明るい色調の絵を描くようになった。この時期の作品としては、「タンギー爺さん」などが知られる。日本の浮世絵に関心を持ち、収集や模写を行っている。1888年2月、南フランスのアルルに移り「ひまわり」や「夜のカフェテラス」などの名作を次々に生み出した。

 日本では浮世絵画家たちが、共同生活を送っていると思い込む。南フランスで画家の協同組合を築くことを夢見て、1888年10月末から画家ゴーギャンとの共同生活が始まった。しかし次第に二人の関係は行き詰まり、また住民とトラブルを起こす。同年12月末、ゴーギャンと口論の末、自ら「耳切り事件」を起こし共同生活は破綻した。

 以後、発作に苦しみながらアルルの病院へ入退院を繰り返した。1889年からはアルル近郊の精神病院に入院。発作の合間にも、「星月夜」など多くの風景画や人物画を描き続けた。1890年5月精神病院を退院して、パリ近郊のオーヴェールに移り製作を続けたが、同年7月自らを銃で撃ち、2日後に死亡。37歳だった。発作等の原因は、研究者によって統合失調症やてんかんなど様々な説が発表されている。 

 

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 今回の「ゴッホ展」会場には展示されてなかったが、以下にゴッホの代表的な作品4点を掲載する。

 「ジャガイモを食べる人々」= 1885年にオランダのニューネン在住時に描かれた。ゴッホの初期の頃の作品で「暗黒の時代」とか「薄闇の時代」と呼ばれ、その時代の代表作品。

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 「夜のカフェテラス」= 1888年にアルルの星空の下、人でにぎわうカフェテラスが描かれている。この夜の絵には、青、すみれ色、緑と黄色を用いて、黒は使われていない。

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 「星月夜」= 1889年6月、アルル近郊の精神病院で療養中に描かれた。月と星でいっぱいの夜空が画面の4分3を覆って、大きな渦巻きが特徴。

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 「ひまわり」= 1888年8月から1890年1月にかけて、花瓶に活けられたひまわりをモチーフに、同名の絵画が複数存在する。ゴッホにとってのひまわりは、明るい南フランスの太陽、ユートピアの象徴であったという。

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 ゴッホがどのような人物だったか、よく分かった。彼の代表的な明るい色彩の作品は、パリ時代からだと4年間、特に精神を病んでからたった2年足らずの間に多く描かれている。何度も挫折を繰り返したゴッホは、あまり幸せな人生ではなかっただろう。画家になってからは、弟テイの援助で生活し、精神的な支えにもなっていた。もっと長生きしていれば、画家としての評価も受けて、絵もたくさん売れただろうにと思う。ゴッホの死後4半世紀が経って、多くの日本人画家たちが天才画家ゴッホに憧れ、はるばるゴッホの終焉地を訪ねたのは、まさしく「ゴッホ展」の副題である「巡りゆく日本の夢」、ゴッホの夢は日本人の夢に変わったのだ。

2022年11月
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