無料ブログはココログ

カテゴリー「グルメ・クッキング」の1件の投稿

2012年2月29日 (水)

大村寿司

 2012年2月26日(日)、市制施行70周年記念の「NHKのど自慢」が、大村市「シーハットおおむら」で開催され、全国放送された。残念ながら、放送を見逃してしまった。砂糖を沢山使った「大村寿司」の紹介があったそうだ。

●大村寿司

 全国各地にその地方独特の「寿司」があるが、帰省した折には、空港売店で「大村寿司」の弁当を買って帰る。また都内で行われる関東在住の母校の同窓会では、毎年開催日の朝に空輸で「大村寿司」を取り寄せている。

 大村寿司は、別名「角寿司(かくずし)」とも呼ばれ、四角い一種の押し寿司で、上に錦糸卵が乗っている。大村の一般家庭では、祝い事など(いわゆるハレの日)に作る定番料理。現在では市内の食堂のメニューや土産物(弁当)にもなっている。伝承によれば、大村寿司の起源は、室町時代中期、約500年前とされる。

Omurasushi

  (大村市公式ホームページより)

●大村純伊

 1474年、島原半島の領主有馬貴純が大村領に侵攻した。領主の大村純伊(すみこれ)は、この合戦で大敗して松浦郡加唐島(かからしま、現在佐賀県唐津市)に逃れた。

 7年の流浪を続けたあと、純伊は1480年に領地を奪回、大村に凱旋した。この時、領主の帰還を喜んだ領民らが、歓迎のために食事を振舞おうとしたが食器が足りない。浅い木箱(もろぶた)に炊きたての米飯を広げて魚の切り身や野菜のみじん切りなどを乗せ、さらにそれを挟むように飯や具を乗せた押し寿司を作った。兵たちは、脇差しでこれを四角に切って食べたそうだ。

 これが大村寿司の発祥とされている。現在、酢飯には砂糖を多めに入れて甘くするが、砂糖は江戸時代になってからふんだんに使われるようになったのではないかといわれている。

 以上が、大村の観光案内などにある由来である。

 大村純伊は、キリシタン大名で有名な大村純忠の2代前(つまり祖父)に当たり、大村家の中興の祖といわれている。その後、純伊の子の純前(すみさき)が、大村家を継ぐ。純忠は、父は有馬晴純、母は大村純伊の娘だったが、大村純前の養嗣子となり、1550年に大村家の家督を継いだ。これは純前に実子の庶子はいたが、嫡子がいなかったためとされているが、有馬が大村家に押しつけたとも言われている。

●藤原直澄

 ところで純忠より前については史料が少なく、純伊にまつわる伝承は豊富であるが、その真偽ははっきりしないそうだ。子供の頃の大村の歴史で、「大村の殿様の先祖は、平安時代に四国から渡ってきて、千年近くもその子孫が治めてきた」と聞いた。大村の郷土史「大村物語」にも、そう書いてある。

 大村家の家系図では、藤原純友(すみとも)の孫である藤原直澄(なおずみ)を、大村氏の始祖としている。藤原純友は、平安時代の名門貴族で伊予の国の地方官だったが、瀬戸内で海賊となって朝廷に対し反乱(承平天慶の乱)を起こし、941年博多湾の戦いで破れて捕えられ、獄死する。988年、藤原純友の勅勘(勅命による勘当)が許されたため、純友の孫である直澄が、肥前国の藤津郡・彼杵郡・高来郡を与えられ、994年に伊予から肥前彼杵郡に下向して大村氏を名乗ったという。

 最近の学説では、藤原直澄なる人物は他の系図にも確認できず、また朝廷から所領を与えられたということがあるはずもないそうだ。むしろ他の史料によると、大村氏の先祖は平姓で、現在佐賀県藤津郡あたりの荘司(荘園領主の家臣)である平清澄の子・直澄のほうが可能性が高いという。中高校生の頃に、直澄が四国から大村に入郡する時の話が、なんとなく不自然で疑問に思っていた。つまり後世の江戸時代になって、大村家の箔付けのために、領主の始祖を貴族出身の藤原純友の孫・藤原直澄とし、また大村純伊を中興の祖として、家系図や出来事をねつ造したのではないだろうか。家の先祖が源氏だとか藤原だとかで、格付けを高めようとする話は、よくあることだ。

●すしの歴史

 というわけで、江戸時代に書かれたという大村家の史料は怪しくなり、大村純忠より前の代は今のところよく分からないのではないか。そうなると、「大村寿司」の由来は疑わしい。ずっと以前からあった地元の「すし」料理を、「領地に凱旋」を祝って突然出来たかのように、後世になって描いているのでないだろうか。

 また長崎空港入り口交差点に像がある「黒丸踊り」など、3つの大村伝統的芸能が長崎県文化財になっている。これらも大村純伊の帰還祝いに初めて踊ったとされている。このように、特定の権威のある人物や有名人を引き合いにして、各地の神社の由来を始めとして、芸能や祭り、寿司や菓子などの起源として語ったものは、全国にもよくあることではある。

 読んだことがないが、日比野光敏氏の著書『すしの歴史を訪ねる』(岩波新書)には、古代から全国各地で色々な「すし」が作られ、その後様々な変化、発展をしてきた歴史が詳しく書かれているそうだ。大村寿司も地元の環境や材料に合わせて、古代から作られていた郷土料理でであって、さらに江戸時代に砂糖を用いて、発展していったのではないかという説に納得できる。

 なお寿司の分類では、大村寿司は「押し寿司」の一種であるが、「箱寿司」と「混ぜ寿司」の中間型ともいわれている。また佐賀県白石町に伝わる「須古寿司」という、大村寿司に良く似た寿司があるそうだ。一方から他方に製法が伝えられたのか、単なる偶然で似ているのかわからないそうである。

2025年2月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28  

最近のトラックバック