天覧山・高麗峠・巾着田
2025年3月14日(金)、天覧山・高麗峠・巾着田ハイキング。
JR東飯能駅(埼玉県飯能市)から飯能市街地を経て、「能仁寺」、「天覧山」の山頂、奥武蔵自然歩道の「高麗峠」を越えて「巾着田」を訪ね、西武鉄道高麗駅(日高市)まで、およそ12Kmのハイキング。
県立奥武蔵自然公園の玄関が、飯能市。市街地から少し足をのばし、自然を求め、歴史を訪ねるのんびりハイキング。
本州付近は、緩やかに高気圧に覆われていて、埼玉県の日中は晴れ。飯能市の最高気温は19℃。北の風は強くなく、絶好のハイキング日和。しかし、今日の花粉は極めて多い。
10:14東飯能駅着。駅近くのコンビニで、昼食を購入、10:30スタート。
飯能市の商店街を抜ける。
途中、ひな人形が飾ってある「店蔵絹甚」(みせぐらきぬじん、飯能市指定有形文化財)に立ち寄り、入間川の「飯能河原」(親水広場)を見下ろす。「飯能市市民会館」前を通って「中央広場」を抜ける。
●能仁寺と天覧山
11:15「能仁寺」の山門に到着。この寺院は、「天覧山」の南麓にある曹洞宗の古刹。山号は武陽山、本尊は毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)。
「能仁寺」は1501年(文亀元年)、武蔵国高麗郡加治(現在の飯能)の豪族・中山家勝が創建した。小庵であったが家勝の没後、1573年(天正元年)、中山家範が父の菩提を弔うため本格的な寺とし、中山家勝、家範、照守および、その後の中山家・黒田家の菩提寺となる。
1705年(宝永2年)当時、常陸下館藩の大名となった黒田直邦は老朽化した寺を改築し、雲水50人、七堂伽藍を構える禅寺として栄華を誇ったという。
「能仁寺」の本堂。
1868年7月(旧暦5月)、彰義隊と袂を分けた渋沢成一郎(旧名・喜作)が率いる振武軍が「能仁寺」を本営として飯能の6つの寺に駐屯。これを追討する新政府軍と戦闘(飯能戦争)となった。半日ほどで新政府軍が勝利したが、飯能では民家200軒、4か寺が焼失する被害を受けた。この戦いで、渋沢成一郎と尾高惇忠は伊香保へ逃れた。参謀の渋沢平九郎(尾高惇忠の弟で渋沢栄一の養子)は別の道を逃げ、黒山村(現埼玉県越生町)で官軍に囲まれ自刃した。
「能仁寺」を通り抜けて、11:25桜や紅葉の名所「天覧山」に向かう。
緩やかな山道を登り、11:40あずま家のある「天覧山中段」で休憩。山腹には、五代将軍綱吉の生母・桂昌院が奉じたという「十六羅漢」がある。
「十六羅漢」を過ぎると、頂上直下の岩場の急登があり、鎖を使って登る。
11:50「天覧山」の山頂(195m)着。山頂標識の右は、明治天皇の行幸記念の石碑。
低山だが、山頂からは飯能市内や秩父連山が一望できる。あいにく富士山は望めなかった。
新宿のビル群や、池袋のビル群と東京スカイツリーが、遠くに霞む。
12:00「天覧山」の南斜面を下る。12:10「多峯主山」(とうのすやま)との分岐を右に、奥武蔵自然歩道を「巾着田・宮沢湖」方面に向かって進む。
山道を下ると、12:15車が通る舗装道路に出る。西武線のガード下をくぐる。
●高麗峠
ガードのすぐ先に国道299号線の中山(西)交差点。すぐ左手の山道を12:20「高麗峠」へ向かって登る。
ここから「高麗峠」までが「飯能・西武の森」になる。
12:30「青梻の森」には、アオダモ(青梻)の木が植栽されていた。
西武グループは、飯能市に所有する約130haの森林を「飯能・西武の森」として、自然環境保全の事業を行っている。2015、2016年度には、埼玉西武ライオンズ、西武造園と連携し、西武グループ社員・家族向けに「健康・エコハイキングと植樹祭」を開催、野球のバットの材料として活用されており現在資源の枯渇が危惧されている「アオダモの木」を植樹した。
「ほほえみの丘」は、奥武蔵自然歩道の「高麗峠」に向かう途中の「飯能・西武の森」にある。ベンチがあり、12:35~13:10ここで昼食。
奥武蔵自然歩道の左手(西の方角)の樹木の間から、奥多摩「大岳山」(おおたけさん)1,266mが顔を出す。
13:25「高麗峠」着。天覧山から巾着田をつなぐ奥武蔵自然歩道の飯能市と日高市の市境にある。温度計が設置してあり、見ると気温20℃。
平坦な山道だったので峠らしくない。武蔵野の面影を残す雑木林が今も残る。
麓の日高市の住宅街に下り、「高麗小学校」「高麗郷民俗資料館」の傍を通って県道15号線(日高川越線)へ。高麗川に架かる「天神橋」を渡る。
●高麗郷古民家と民俗資料館
14:00「高麗郷古民家」着。「高麗郷古民家」は、江戸時代末期から明治時代に建設され、「旧新井家住宅」とも呼称される古民家。高麗郡本郷村の名主を努めていた。明治になってから新井家は、戸長、村長も務めた。国の登録有形文化財となっている。
母屋の土間といろり端、茶の間の入口。
母屋とつながった2階建ての建物である客殿の中央玄関には、式台が設けられている。ほかに土蔵、納屋、作業場などの建物がある。
県道15号線に戻って、高麗川に架かる「天神橋」を再び渡る。橋の左手が巾着田。
14:20「高麗郷民俗資料館」に入館。建物は、昭和37年に建築された旧高麗公民館。
民俗資料を市の歴史を物語る貴重な財産として保管。この中から日常生活、農業、林業そして漁労に関する資料を展示。ほかに古代高麗郡集落ジオラマの展示や企画展を開催。
●巾着田
14:40「あいあい橋」を渡り、「巾着田」に入る。橋は、橋長91.2m。日本最長級の木製トラス橋とされており、「巾着田」観光のシンボル。
日高市内を流れる高麗川の蛇行により長い年月をかけてつくられ、その形がきんちゃくの形に似ていることから、「巾着田」と呼ばれるようになった。
直径約500m、面積約22haの川に囲まれた平地には、菜の花、コスモスなどの花々が咲き、 秋には、約500万本の彼岸花(曼珠沙華)が咲き誇る。見頃は、9月中旬~10月上旬。
近くの日高のシンボル「日和田山」より望む「巾着田」。出典:ウキメディア・コモンズ
群生する秋の彼岸花と日和田山 出典:ウキメディア・コモンズ
巾着田に広がる青い葉を異様に思ったが、これは彼岸花の葉だという。今の時期は赤い花は枯れ、一面に彼岸花の青い葉が茂る。
「巾着田」をほぼ一周近く回って県道15号線に戻り、15:15高麗川に架かる「鹿台橋」を渡って、西武線の高麗駅に向かう。
15:25、ゴールの高麗駅に到着。
本ブログの関連記事
「高麗の里山」2015/09/10投稿
http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/post-b75c.html
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●天覧山と黒田直邦
天覧山は、山麓にある「能仁寺」に愛宕権現を祀っていたので、もとは「愛宕山」と呼ばれた。江戸時代、5代将軍・綱吉の病気平癒のお礼に、生母の桂昌院が親しかった黒田直邦の助言により「十六羅漢」の石仏を奉納したので、「羅漢山」と呼ばれるようになった。それが1883年4月、山麓で行なわれた近衛兵の春季小演習を明治天皇がこの山頂から統監されたことにより、「天覧山」と呼ばれるようになり山頂には「行幸記念碑」が建てられた。
なお、黒田直邦の墓が、「能仁寺」と「多峯主山(とうのすやま)」山頂の近くにある。黒田直邦は、1666年(寛文6年)に中山直張(なおはる)の三男として生まれ、外祖父の黒田直相(なおすけ)に養育されたことから黒田氏を称した。
5代将軍綱吉に仕え30人扶持を拝したのが出世の始まり。その後、常陸国の下館城主、また奏者番に就任し寺社奉行を兼任する。 晩年は、上州の沼田城主(3万石)となった。直邦は、宝永年間には飯能地方を領し、菩提寺の「能仁寺」を中興するなど当地の発展に貢献した。
●愛宕山
天覧山が、かつて「愛宕山」と呼ばれたように、日本各地にある「愛宕山」の多くは山頂に「愛宕神社」が祀られていることにちなんで名付けられている。「愛宕神社」は、火の神や防火の神として知られる「愛宕権現」が祭神。特に江戸時代以降、火事を防ぐ祈りの場として信仰を集め、全国各地に「愛宕神社」が建てられるようになった。そのため、これらの神社のある山が、「愛宕山」と呼ばれるようになったという。
「愛宕神社」の総本宮は、京都市の左京区にある。その他、東京の港区と福岡の西区にある「愛宕神社」の三社を総称して「日本三大愛宕神社」と呼んでいる。京都市内で一番高い山に鎮座している総本宮に習ってか、東京、福岡の支社やそのほかの「愛宕神社」もその土地の周辺で一番の高台や山にあるが「愛宕神社」だともいう。
●巾着田
「巾着田」は、日高市の高麗本郷に位置し、高麗川が南向きに大きく蛇行することで形成された巾着のような形状の平地。地元では「川原田」と呼ばれているそうだ。「高麗」の地名は、716年(霊亀2年)、朝廷が駿河など7ヶ国に居住していた旧高句麗からの渡来系移民1,799人を武蔵国の一部に移し、高麗郡を設置したとされる。
昔は文字通り水田が広がり、その面積は約17ha(17万平方m)に及んでいた。昭和40年代に当時の日高町が巾着田を取得し、昭和50年代~60年代ごろに竹藪やアシに覆われていた休耕田を整地したところ、大規模な彼岸花の群生が見られるようになった。河川の蛇行や氾濫により上流部から土砂とともに球根が流れ着いたものと考えられている。1996年には日本一の木製トラス橋「あいあい橋」が完成。グラウンドや駐車場など観光地として整備された。
河原では季節を問わずキャンプやバーベキューを楽しむ人が多く見られる。特に夏場は、弧を描く川の内側は流れが緩やかであるためか、小さな子ども連れの家族の川遊びなどで賑わっている。開花中の曼珠沙華群生地内へ入場は有料(500円)となっており、またキャンプやバーベキーも有料。2017年(平成29年)9月、天皇皇后両陛下が「曼珠沙華公園」を私的な旅行で訪れ、満開の彼岸花を観賞された。
●彼岸花
彼岸花の名は秋の彼岸ごろ、突然に花茎を伸ばして鮮やかな紅色の花が開花する事に由来。別名の曼珠沙華は、梵語(サンスクリット語)で「赤い花」「葉に先立って赤花を咲かせる」という意味から名付けられたと言われ、『法華経』などの仏典に由来する。日本では各地方のみで通じた異名が派生し、葬式花、墓花、死人花、地獄花、幽霊花など不吉な名前が多く見られる。
彼岸花は球根から花が出てきて、その花が枯れた後に葉が成長する。花と葉を同時に見ることができない事から「葉見ず花見ず」と言われ、昔の人は恐れをなしたという。多くの植物は春に芽を出し、夏に葉を繁らせ秋に枯れるが、彼岸花はその逆。冬から春にはちゃんと葉が繁り、花をつけない寒い季節にしっかり栄養を球根に貯えているそうだ。












































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