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2025年2月の2件の投稿

2025年2月 9日 (日)

吉見百穴と武州松山城趾

 2025年2月4日(火)吉見百穴と武州松山城趾(埼玉県比企郡吉見町)に行く。

 ガイドボランティアが案内。 (写真をクリックすると、拡大表示します)
 

●吉見百穴

 9:00~「吉見百穴(よしみひゃくあな)」に入園。観覧料300円。

 「百穴」のある丘陵は、切削に適した凝灰質砂岩。古墳時代後期~終末期に造られた。横穴墓の数は、現在219基がある。

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 1887年(明治20)に東大大学院生だった坪井正五郎氏らが、横穴237基を発掘。当時は、住居か墳墓かの論争があった。1923年(大正12年)に国の史跡に指定。

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 玄室の右手に棺座、入口には緑泥石片岩で蓋がされていた。

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 太平洋戦争末期、中島飛行機の地下軍需工場が全国から集められた3000~3500人の朝鮮人労働者によって建設されたが、本格生産する前に終戦となり閉鎖された。建設により20基近くの横穴墓は破壊されたそうだ。以前は内部を見学できたが、現在は立入り禁止となっていた。

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 本来、傍を流れる市野川は蛇行し「百穴」に近い位置を流れていたそうだ。工場を造るにあたって前面に広い土地が必要になり、 川を真っ直ぐに改め、現在では堤の手前までは広い駐車場になっている。また、地下から掘り出した土を手前に埋め立てたため、園内はその駐車場よりも高くなっているという。

 「かぶと塚古墳」の横穴墓の石材が、屋外に展示してあった。

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 鉄製手斧の加工痕のある玄室の凝灰質砂岩の一部。

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 「かぶと塚古墳」は、吉見町久米田にあった円墳で、1973年(昭和48年)の調査の後に墳丘は破壊され、失われている。

 石室に用いられた石材の緑泥石片岩。

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 「吉見百穴」の2.5Km北の吉見町黒岩にも、百穴と同様の遺跡「黒岩横穴墓群」がある。

 9:40、園内の「吉見町埋蔵文化財センター」に入館。町内で発掘された縄文時代からの出土品などが展示。

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 2001年(平成13年)年度の西吉見条里遺跡の発掘調査で、道幅9~12mの古代の「東山道武蔵路」の道路跡が発見された。展示してあった地図は、撮影禁止のため吉見町ホームページより転載。

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 「東山道(とうさんどう)」は、都を基点に信濃、上野(群馬県)をへて、東北に向かう五畿七道の一つ。そのうち「武蔵路(むさしみち)」は、上野から分岐して武蔵国府(現・府中市 に至った。吉見は当時、重要な交通の要所だったようだ。江戸時代になると、江戸を中心とする五街道が整備され、幹線道路としての「東山道」は、中山道日光例幣使街道奥州街道などに再編された。

 10:10、「百穴」の丘陵の上からの東松山市街を展望。

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 左手後方に冠雪の富士山。

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 正岡子規の句碑。1901年(明治24)11月、当地を訪れた。「神の代は かくやありけん 冬籠」 

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 子規が訪れた明治時代は「住居説」だったので、冬の「百穴」を神の住居に例えたのだろうか。

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●岩室観音堂

 「百穴」を出て、10:45「岩室観音堂」を拝観。この堂は、ここから北東へ徒歩10分程度にある「龍性院」の境外仏堂。

 岩をうがって観音像を祀った。代々の松山城主が、信仰し護持した。

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 観音堂2階の天井の構造材。建物・屋根を支えるために多数の材が使われている。千社札も多数貼られており、額も様々飾られている。

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 2階の鉄格子扉の岩窟の奥に御尊像(観音様)が安置されているが、よく見えない。

 室観音は、「比企西国三十三所観音札所」の第三番洞窟内に88体の石仏が安置。「四国八十八ヵ所」の参拝と同じ巧徳が得られるという。

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 観音堂の裏にある「胎内くぐり」のハート型のトンネル。

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 ここをくぐると、諸難を除き、安産、その他の願いが叶うとのこと。

 以上3枚の写真は、2015年12月12日撮影。
 

●武州松山城趾

 城の周囲は市野川が天然の堀として利用して、丘陵上に建てられた平山城。その天然の要害から不落城とも言われた。西側の市野川をはさんで対岸にあたる比企郡の松山本郷(現在の東松山市)は平地になっており、城下町が形成された。大正14年(1926年)に「松山城址」として県の史跡に指定。

 南西方向からの「松山城跡」 出展:Google Earth Pro

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 11:00、「松山城趾」の「曲輪4」の入口から入場。 「三ノ曲輪」を経て「二ノ曲輪」。

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 「二ノ曲輪」から「松山城趾」最大の高低差(9m)の「空堀」を渡ると「本曲輪」へ至る。

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 「本曲輪」には昭和初期、お堂があった。

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 築城技術の高さ、良好な保存状態などから「松山城」「菅谷館」「杉山城」「小倉(おぐら)城」の4城趾が、「比企城館跡群」として国の指定史跡となっている。

 城の北側、「虎口」付近で発掘調査。 11:35、城趾を出る。

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 北側城外には根古屋(城主の館や城兵の屋敷)があった。

 11:45~12:40、「洋麺屋 五右衛門」東松山店でランチ。

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 「菅谷城跡 ー 比企城館跡群」 2024年3月16日投稿
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2024/03/post-5b2bff.html

 「比企西国札所巡り-その2」 2015年12月13日投稿
  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/12/post-cf25.html

 ★ ★ ★

 室町幕府時代、足利尊氏が関東に鎌倉府を設置し、関東管領として上杉氏が統治した。やがて室町幕府の要職にあった公方足利氏、扇谷上杉氏、山内上杉氏らの確執によって争乱・内紛が起こるようになり、関東の動乱を背景に「松山城」は扇谷上杉氏側の拠点の城として15世紀後半に築城されたと推定されている。15世紀後半から16世紀前半に比企地域に城館跡が多く残るのは、これら三つの勢力が交差する地域だからだという。

 その後、扇谷と山内の上杉氏、小田原北条氏、甲斐武田氏、越後上杉氏らの「松山城」をめぐる攻防は大変激しく、ここが北武蔵地域の要所であったことが伺える。特に1537年(天文6年)に北条氏綱が「江戸城」と「川越城」を落とし、「松山城」を攻めたことで有名。その後も小田原北条と越後上杉などによる度重なる合戦によって支配者が頻繁に変わったが、北条勢力下の上田氏の支配下にあることが多かった。

 1590年(天正18年)、豊臣秀吉による関東攻略の際、前田利家・上杉景勝などの軍勢により「松山城」は落城し、小田原の北条氏は滅亡した。その後徳川家康の支配下に入り、松平家広が1万石の松山藩(のちに3万石に加増)として城主となった。2代目の弟・忠頼のときに5万石の浜松藩に移封され、1601年(慶長6年)に「松山城」は廃城、この地域は川越藩領となった。

 徳川家広の入城から廃城までの時期には交通の便が優先され、城下町(松山本郷方面)と城域を隔てていた市野川に橋が架けられたという。本来ここは「松山城」防衛の要となる方角だったので、争奪戦が激しかった北条氏が支配した時代までは橋が存在しなかったそうだ。

2025年2月 2日 (日)

映画「雪の花 ーともに在りてー」

 2023年1月31日(金)、映画『雪の花 ーともに在りてー 』を観る。

 江戸時代末期の福井藩を舞台に、数年ごとに大流行して多くの人命を奪う疫病から人々を救おうと立ち向かい、絶対に諦めなかった実在の町医者・笠原良策の姿、そして人々との出会いと夫婦の絆を描く。主人公の笠原良策を松坂桃李、良策の妻・千穂を芳根京子、良策を指導する蘭方医・日野鼎哉(ていさい) を役所広司が演じる。そのほか吉岡秀隆、三浦貴大、宇野祥平らが共演。

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 監督は、小泉堯史(たかし)。黒澤明監督に師事し、28年間にわたって助手を務めた。黒澤の死後、その遺作シナリオ『雨あがる』を映画化(2000年公開)し、監督デビュー。『阿弥陀堂だより』(2002年)、博士の愛した数式』(2006年)、『蜩(ひぐらし)ノ記』(2014年)、『峠 最後のサムライ』(2022年)などで人間の美しい在り方を描いてきた巨匠が、吉村昭の小説『雪の花』(1988年、新潮文庫刊)を原作に映画化。2025年1月24日公開された。

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 江戸時代の末期、有効な治療法がなく伝染力が非常に強く、死に至る疫病として人々から恐れられていた疱瘡(天然痘)が猛威を振るい、多くの命を奪っていた。治癒した場合でも顔面に醜い瘢痕(=あばた)が残るため、忌み嫌われていた。福井藩の町医者で漢方医の笠原良策(松坂桃李)は、患者を救いたくとも何もすることができない自分に無力感を抱いていた。自らを責め、落ち込む良策を、妻の千穂(芳根京子)は励まし続ける。

 どうにかして人々を救う方法を見つけようとする良策は、旅先の温泉宿で大聖寺藩(加賀藩の支藩)の町医者・大武了玄 (吉岡秀隆 )と出会い、蘭方医学であれば疱瘡を治せるかもしれないと聞く。良策は、友人の福井藩・藩医の半井元沖 (三浦貴大)の紹介で、京都の蘭方医・日野鼎哉 (役所広司)に教え請うため京都へと向かう。

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 「名を求めず、利を求めず」という鼎哉の教えのもと、蘭方医学を一から学びなおす。 鼎哉の塾で疱瘡の治療法を探し求めていたある日、 異国では疱瘡を防ぐ「種痘」という方法があると知る。だが種痘を行うためには、牛痘の膿やカサブタ の「種痘の苗」を海外から取り寄せる必要があり、幕府の許可も必要。実現は極めて困難だが、諦めない良策の志はやがて、藩、そして幕府をも巻き込んでいく。そして、私財を投げ打って種痘の苗を福井に持ち込んだ。

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 しかし、天然痘の膿をあえて体内に植え込むという種痘の普及には、さまざまな困難が立ちはだかる。庶民は激しい恐怖心をいだき、漢方の藩医らの妨害もあっていっこうに広まらない。それでも良策は、妻・千穂に支えられながら疫病と闘い続ける。
 

 ★★★

 笠原の天然痘へ立ち向かう活動は、事なかれ主義の役人や、自己の権益に固執する漢方医や藩医だった。医術の主流だった漢方医はこの疾病に、為す術はない。種痘は長崎や大阪、福井で普及し全国に広がっていったが、江戸では漢方医の権勢が強く、お玉ケ池に種痘所の設置が公認されるのは1858年と、福井より 9年も遅れを取ることになったという。

 医者には藩医と町医者がいるのがよく分かった。前者は藩に仕える士分であるが、後者は市中で開業していた町人などの出身者。笠原は映画の中で、種痘を普及させた功労で藩の家老から士分に取り立てて3人扶持を与えると沙汰があるが、「名を求めず、利を求めず」という鼎哉の教えを守り断っている。

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 笠原が牛痘の苗を持ち帰る大雪の「栃ノ木峠」越えの場面がクライマックスで、彼の大事業がこのロケシーンで実感できる。当然リハーサルなしで撮影されたようだが、しかし吹雪の割には周囲の樹木は静止したままで、キャストの動きも違和感があった。すぐに暖かい宿で祝い酒や親子でくつろぐ姿に切り替わるが、凍傷にならなかったのか、濡れた着物はどうしたのか、気になった。

 映画の最初の方で、疱瘡にかかって伏せている村人たちが出て来るが、その顔には天然痘特有の豆粒状の発疹がない。また、天然痘を発症したが1人だけ助かった村娘・はつにも顔にアバタがない。映画作りでメイクをどうするか、小泉監督はあまり悲惨なものにしたくないという思いがあって、その後も美しくたくましく生きるという女性を描きたかったということのようだ。

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 映画の中で「男ノ助」と呼ばれた笠原の妻・千穂は、優しくて強い女として描いていて、演技を見ていて清々しい気持ちになる。しかし護身術を使った浪人を追い払う立ち回りや、ラストシーンで祭りの太鼓を叩くシーンは、ちょっとやり過ぎか。小泉監督の渋い、地味な作風の映画に、派手さを盛り込んだのだろうか、ほかに強さを表現する方法は無かったのだろうか。

 数年前の未知のウィルスだった新型コロナが猛威を振るったとき、闘い抜いた多くの医療関係者の専門家の人たちがいて、多くの患者の命が救われた。迷走する官僚や政治家、根拠のないデマを吹聴する者、科学的なデータや知見を超越して権力を振りかざす者、政府の補助金の無駄使い、それを食い物にする者。そういったコロナ禍を経験した今の時代の我々こそ、この物語を身近に心に感じ、共感を得た人たちも多いと思う。
 
 
★ ★ ★

 笠原良策(1809ー1880)は、福井藩の町医者。越前国足羽郡深見村(現・福井市深見町)生まれ。父も福井城下の町医だった。初め漢方医学を修め、福井城下で開業したが、その後蘭方医学を志して京都で学んだ。1845年、牛痘による天然痘予防が可能であることを知り、痘苗輸入が急務であることを説いて、幕府の輸入許可を求める嘆願書を提出。福井藩主・松平春嶽の建言により、幕府の牛痘輸入許可がおりた。

 1849年、痘苗を入手するため長崎に行く途中の京都で痘苗が手に入り、まず京都で苦心の末に種痘に成功し京都での普及を果たした。当時の種痘は子どもから子どもに7日目毎に植え継ぐ方法しか確実な方法が無かった。良策の日記『戦兢録』(せんきょうろく)によると、同年11月19日、子ども2人に種痘を施した親子と一緒に京都を出発。11月22日、福井から連れてきた子ども2人に途中の長浜で植え継ぎ、京都の親子は帰した。

 笠原らは11月23日、豪雪の国境(滋賀・福井県境)の「栃ノ木峠」(標高539m)を越えた。2mを超える積雪、吹雪が行く手を阻み、あわや遭難という時、迎えに来た村人に助けられる。京都から福井まで7日間の行程によって、11月25日福井城下へ痘苗をもたらした。

 映画で、吹雪の「栃ノ木峠」を越えるシーン。

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 同年、福井城下で初の種痘が実施されたが、庶民の理解を得ることは困難であった。藩役人からは「西洋の妖術」と批判され、種痘をすると牛になるというデマも流れたため、予防接種は広まらなかった。怪しげな情報や、払いがたい不安が広がる状況は、現代のコロナ禍でも同様だった。

 それでも良策は諦めず1850年に、『牛痘問答』を出版。ふりがなをつけ、庶民向けに種痘の意義を説いて次第に広まっていく。1851年には藩営の種痘所「除痘館」が 開設され、急速に普及していった。種痘の継続に尽力し、領内諸地域や北陸の近隣諸藩の府中、鯖江、大野、敦賀、大聖寺、金沢、富山に種痘を広めたという。
   
 
 ★ ★ ★

 種痘は、天然痘の予防接種を指し、人類初のワクチン。1796年にイギリスの医師エドワード・ジェンナー(1749-1823)が、天然痘に感染したウシの膿から精製した「牛痘ウイルス」を接種することで、天然痘の軽症化を発見した。種痘によって近縁のウイルスがヒトの体内に入った場合でも、軽度の発熱、発赤、発しんなどの副反応が生じる場合があるが、発病しない免疫力がつくられる。

 エドワード・ジェンナーと笠原良策  出典:ウキメディア・コモンズ

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 天然痘の歴史は大変古く、およそ1万2000年前からあったと言われていている。紀元前1000年前後のエジプトミイラには、天然痘の痕跡が見られるというジェンナーはウシの乳しぼりをしている人から、「牛痘にかかった人は、天然痘にはかからない」という話を聞き、これをヒントに天然痘の研究に取り組み、ウシやブタで実験をくり返し行なった。そしてついに「種痘」を完成させ、仮説が正しいことを証明した。

 江戸時代の後期、西洋の情報を得た多くの蘭方医が種痘の研究や接種の効果を説き、牛痘苗の入手を試みた。シーボルトに師事した佐賀藩医・伊東玄朴は、藩に痘苗の入手を進言した。藩主・鍋島直正は、オランダ商館長に牛痘苗の取り寄せを依頼。牛痘苗の海外からの輸送は、航海中に効力が失われ失敗していた。同じくシーボルトに師事した佐賀藩医・楢林宗建は藩主の命を受け1848年にオランダ商館医のオットー・モーニッケから種痘法を学んだ。

 翌1989年、バタヴィア(ジャカルタ)からオランダ船が牛痘苗を移入、楢林は長崎出島でモーニッケと協力して、自身の子息を含む3名に対して牛痘接種に成功した。この痘苗は日本の各地へ受け継がれて、本格的な牛痘法が普及する。笠原良策の清国からの牛痘苗の取寄せが実現する前に、この最初の種痘から2か月の間に長崎の市中に広がっていたものが元になった痘苗が、京都の日野鼎哉まで伝わった。笠原はその痘苗を福井に持ち帰ることにした。

 こうして各地で種痘が急速に普及していった。全国に広まっていくと同時に、もぐりの施術を行う牛痘種痘法者も現れた。種痘の普及に尽力していた大坂の蘭学者・蘭方医の緒方洪庵らは「除痘館」のみを国家公認の唯一の牛痘種痘法治療所として認められるよう奔走していた。1858年、洪庵の天然痘予防の活動に対し、幕府からの公認が行われ、牛痘種痘は免許制とされた。

 天然痘ウイルスの電子顕微鏡写真 出典:ウキメディア・コモンズ

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 中国 (北宋 )から入った「人痘法」という予防法もあったそうだ。ところが「人痘法」は疱瘡‘を実際に発症してしまうことも多く、危険とされ、広まり方は中途半端だったという。

 明治政府は、1874年(明治7)に定期の種痘を定めた文部省告示「種痘規則」を布達、1876年(明治9)「天然痘予防規則」が制定、1909年(明治42)の「種痘法」によって国民に定着した。20世紀中盤には、先進国においては天然痘を根絶した地域が現れ始め、日本国内における発生は1955年(昭和30)の患者を最後に確認されず、1976年(昭和51)には種痘の定期接種が中止された。

 1980年(昭和55)5月に世界保健機関(WHO)によって、天然痘の世界根絶宣言がなされた。以降、これまでに世界中で天然痘患者の発生はない。コロナ禍を今日、江戸時代に感染症と諦めず粘り強く、最後まで闘った無名の町医者の存在を知った。

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