2025年1月12日(日)寅さんの柴又を巡る新春ウォーク。京成電鉄柴又駅からJR金町駅まで歩く。
この日、日本列島を強い寒気が覆い、この冬一番の寒さ。九州各地で初雪のが見られたようだが、東京は終日曇り。最高気温は9℃程度だった。3連休のせいか、正月の初詣がまだ続いているのか、帝釈天とその参道は、混雑していてビックリ。この日の歩程は、12,800歩、7.6Kmだった。
JR日暮里駅から、10:58京成日暮里駅発の京成本線快速特急に乗車、京成高砂駅11:10着。11:22京成金町線に乗換え、柴又駅11:25到着。
●京成柴又駅 11:25~
柴又駅前には、映画『男はつらいよ』 でお馴染みの寅さん(渥美清)と妹・さくら(倍賞千恵子)の像が建っている。第40作目の「寅次郎サラダ記念日」の旅立ちのシーンをモチーフとしているという。 像の前で記念写真を撮る人が多くて、自分なりの写真がなかなか撮れない。
駅から柴又観光案内所の前の十字路で、参道の方を進まず左折して、まず「柴又八幡神社」に向かう。
●柴又八幡神社 11:30~
「柴又八幡神社」の創建年代は不明。柴又村の鎮守だった。10月の例祭になると「柴又の三匹獅子舞」(葛飾区の無形民俗文化財)と呼ばれる神事が行われる。
境内全体が「柴又八幡神社古墳」の上にあり、社殿の下に石室がある。この古墳からは、『男はつらいよ』の車寅次郎の帽子のようなものを被った、通称「寅さん埴輪」として知られる埴輪が出土している。本ブログ「国立東京博物館「はにわ展」(その2)」を参照。

江戸川と中川にはさまれた低地にある柴又は、721年(養老5)の『正倉院文書 』に載る「嶋俣」を当てる説が有力だという。戦国時代は「柴俣」、江戸時代中期以後は「柴又」と書かれるようになった。
古くから人が暮らしていたことを物語る「柴又八幡神社古墳」。直径20~30mの円墳。墳丘は失われているが、神社はこの上に鎮座している。 石室は葛飾区指定史跡、出土埴輪は東京都指定有形文化財。境内には、古墳から出土した人骨を納めた半球の「嶋俣塚」。
●帝釈天参道 11:40~
京成電鉄柴又駅から「柴又帝釈天」へと至る200mほどの参道は、どこか懐かしい雰囲気が漂い、木造建築の古い店舗などが軒を連ねる。
商店街の手前に並んだ屋台の裏に隠れていたが、「映画の碑」があった。
参道の両側には名物の草だんごや塩せんべい、くず餅、木彫り、民芸品などを売る店、老舗の川魚(うなぎ、鯉、どじょう)料理店などが軒を連ねている。国の重要文化的景観に選定された古き良き下町風情を楽しみながら、「帝釈天」までの参道を歩く。
寅さんの実家「くるまや」のモデルとなった「高木屋老舗(ろうほ)」。
この日は、日曜日とあって観光客や初詣の参拝客か、参道は混み合っていて、ゆっく覗いて見る余裕がない。
●柴又帝釈天題経寺 11:50~
「柴又帝釈天」または「帝釈天題経寺」(だいきょうじ)。正式には「経栄山題経寺」。庚申参りや木彫で有名な日蓮宗寺院。映画では、笠智衆が演ずる、門前の人々から「御前様」と呼ばれる住職がいて、寅さんを「兄貴ぃ」と呼ぶ佐藤蛾次郎演ずる庭男の「源公」が庭を掃いていた。
江戸時代初期の寛永6年(1629年)に、禅那院日忠および題経院日栄という2人の僧によって開創された。「帝釈天」とは、仏教の守護神である天部の一つを指すが、地元では「題経寺」の略称となっている。境内はさほど広くなく、建物は大部分が明治以降の建築。「二天門」、「帝釈堂」などは彩色を施さない素木造のため地味に見えるが、細部には精巧な装飾彫刻が施されている。
参道の突き当たりに、2階建ての立派な「二天門」が建つ。
「二天門」を入った境内正面に位置する「帝釈堂」。手前の拝殿と奥の内殿から成り、内殿には「帝釈天の板本尊」を安置する。大勢の参拝客で、拝殿前には行列が出来ていたし、境内も混み合っている。
宗祖・日蓮が自ら刻んだという伝承のある「帝釈天の板本尊」が長年行方不明になっていた。18世紀末、中興の祖とされている9世住職の亨貞院日敬(にっきょう)の時代の安永8年(1779)の「庚申の日」に、本堂の修理を行ったところ棟木の上から発見されたという。このことから、60日ごとの「庚申の日」が縁日となった。
それから4年ほど経った天明3年(1783年)、日敬は自ら板本尊を背負って江戸の町を歩き、天明の大飢饉に苦しむ人々に拝ませたところ、不思議な御利益があったため、「柴又帝釈天」への信仰が広まっていったという。
「帝釈堂」の右に「祖師堂」(こちらが日蓮宗寺院としての本堂。ご本尊は大曼荼羅 )、その右手前に「釈迦堂」(開山堂)、本堂裏手に「大客殿」などが建つ。「帝釈堂」内殿の外部は東・北・西の全面が装飾彫刻で覆われている。出典:ウキメディア・コモンズ。
これらの彫刻を保護するため、内殿は建物ごとガラスの壁で覆われ、見学者用の通路を設け一般公開している。この「彫刻ギャラリー」と大客殿、庭園の見学は、有料(400円)で拝観出来るが、時間の都合で割愛。
参道商店街へもどり、12:00~そば処「やぶ忠」で昼食を摂る。鴨南蛮1,300円。お土産屋の「門前とらや」で草だんご16粒入りで700円。
●真勝院 12:45~
真言宗豊山派の寺院。「新四国四箇領八十八箇所霊場」の第28番札所。806年(大同元年)創建の古刹。柴又界隈で最も古い。近くの「柴又八幡神社」の旧別当寺(神仏習合が行われていた江戸時代以前、神社を管理する寺)でもあった。
「新四国四箇領八十八箇所霊場」とは、中川の両岸沿いの4つの領(葛飾郡葛西領、葛飾郡二郷半領、 足立郡淵江領、埼玉郡八条領)に札所を持つ弘法大師の霊場。柴又七福神の一つで、弁財天を祀る。境内には、1660年(万治3年)に柴又村の名主らによって建立された「五智如来」の石仏がある。
「五智如来」は、密教で五つの知恵を五つの如来にあてはめたもの。右から阿閦如来、宝生如来、中央が大日如来、阿弥陀如来、不空成就如来となっている。
●寅さん記念館/山田洋次ミュージアム 13:00~
日本庭園のある「山本亭」の敷地を抜けて、「柴又公園」の小高い丘の頂上へ階段を登る。
柴又地区で、江戸川のスーパー堤防の整備事業が行われ、河川敷と法面が一体で整備され「柴又公園」が設立された。公園は、「山本亭」や「寅さん記念館」を含み、江戸川河川敷の広場はレクリエーション・スポーツの場としても利用されている。「寅さん記念館」は、スーパー堤防と一体となったユニークな建物で、1997年11月開館。その公園頂上の真下に作られ、記念館の内部とエレベータで結ばれている。
公園の頂上付近から、北東の方角、スカイツリー方面を望む。
江戸川の堤防、南東の方角を望む。川の向こうは千葉県。
13:10、「寅さん記念館」に入館(シニア400円)。記念館は、『男はつらいよ』の世界をコーナー別に分けて展示しており、「松竹大船撮影所」(鎌倉市、2000年閉鎖)から移設した「くるまや」や「朝日印刷所」のセット、ミニチュアで再現された商店街、映画の名場面を紹介した映像コーナー、実物の革カバンなどの展示コーナーなどがある。
2012年には『男はつらいよ』の原作者で監督も務めた山田洋次を顕彰する「山田洋次ミュージアム」が開設された。「松竹大船撮影所」のジオラマも置かれている。
しばし映画の世界に浸ったあと、先ほど通り抜けた「山本亭」に入館。
●山本亭 14:10~
もともとこの土地は庄屋の鈴木家の土地で、1923年(大正12年)の関東大震災まで鈴木家はこの場所で瓦工場を営んでいた。山本栄之助は、浅草でカメラの部品を製造する工場の経営者で、浅草小島町に住んでいたが、関東大震災で浅草が被害を受けたため、鈴木家の瓦工場跡を取得して移転し、現在の「山本亭」を構えたという。
大正末期から昭和初期にかけて造られ、山本家4代がここで暮らしたという。書院造りと洋風建築を合わせた和洋折衷建築で、築山と池が広がる日本庭園は、アメリカの日本庭園専門誌で三年連続全国3位に選ばれた。
1988年3月に葛飾区の所有となり、1991年4月から一般公開。現在では伝統行事の披露や、琴の演奏などが開催されている。2003年7月東京都選定歴史的建造物。2018年には「葛飾柴又の文化的景観」が重要文化的景観に選定され、「山本亭」は景観の一翼を担う。入館料100円(寅さん記念館とのセット料金で50円引き)。喫茶(抹茶、コーヒーなど)の利用可。ぜんざい700円を注文して休憩。
●矢切の渡し 15:00~
江戸川の堤防を越え、河川敷の「柴又公園」から「矢切(やきり)の渡し」柴又側の渡船場に行く。
葛飾柴又と松戸市の矢切を結ぶ「矢切の渡し」は、江戸時代の初期に江戸川の両側に田んぼを持つ農民が、関所を通らずに江戸と往来したこ とから渡し船が始まった。伊藤左千夫の小説『野菊の墓』、映画『男はつらいよ』や演歌『矢切の渡し』の舞台で、全国的にも有名になった。対岸までは数分、ゆったりとした気分で船旅を楽しむ。料金は200円、往復400円。
乗船して、上流方向を望む。右手は松戸市側のゴルフ場。
左手に東京都水道局「金町浄水場」が立地し、丸い屋根とトンガリ帽子の屋根のある2つの取水塔。
3月中旬から11月は毎日、12月から3月上旬は、土日祝日のみ、1月1日から7日は運航。荒天の場合は運休。現在は、昔のような手漕ぎでなくエンジン付小舟の運航。松戸側の渡し場から歩いて20分程のところの「西蓮寺」に、小説『野菊の墓』の一節を刻んだ文学碑があるそうだ。
●江戸川の土手 15:20~
江戸川は、関東地方を流れる一級河川。利根川水系で利根川の分流(派川)である。流路延長は本流(江戸川放水路)河口より約55km、旧江戸川河口より約60km、流域は、茨城県、埼玉県、千葉県、東京都の1都3県におよぶ。

左手に東京都水道局の「金町浄水場」が立地し、丸い屋根とトンガリ帽子の屋根のある2つの取水塔を右に見ながら、の堤防の上の「江戸川堤サイクリング道路」を北に向かって歩く。国道6号(水戸街道)の手前で堤防を降り、西に向かって住宅街、市街地を歩く。疲れてきたせいか、なかなかゴールに着かない。
●ウォーク終点 JR金町駅 15:50
「矢切の渡し」からおよそ2Km、30分ほど歩いて、JR金町駅に15:50過ぎに到着。
JR金町駅を15:55発、常磐線で西日暮里駅下車。山手線に乗り換えて池袋駅へ。16:40頃から2時間、池袋駅西口の居酒屋「楽蔵」で新年会。
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●寅さんの生い立ち
寅さんの生い立ちや少年時代は、『少年寅次郎』と題してNHK総合TV土曜ドラマで2019年10月から連続5回で放送された。主演は、寅次郎の育ての母・光子役の井上真央で、好演だった。このドラマは興味深くて、熱心に視聴したが、5年経ってストーリーをすっかり忘れていた。今回「寅さん記念館」を見学して、少し思い出したので、この際いろいろ調べてみた。
寅次郎は、子供の頃から父親からは疎まれ、周囲からは芸者の子や捨て子といじめられる。短気な性格で口が悪く、少し乱暴者。しかし、人を騙したり傷をつけたり、女性に暴力を振るうといったことは決してない。情にもろくて、困っている人を見ると放っておけない、優しい一面があった。学校の勉強は出来ないが、なぜか文才があり、詩的な表現を使った情景描写が巧み。成人になった寅さんとそっくり。そんな寅次郎を、光子は実の子のように育てる。
このNHKドラマの原作は『悪童(ワルガキ)小説 寅次郎の告白』で、やはり山田洋次による長編小説で、講談社より2018年9月に刊行された。『男はつらいよ』シリーズの中で描かれなかった主人公「車寅次郎」の生い立ちを、寅さん自身が語る一人称形式で描いてある。この小説は読んでいないが、NHKドラマのストーリーとネットで仕入れた情報で、寅さんの生い立ちを書いてみた。
寅次郎は、遊び人だった「車平造」と、当時柴又の売れっ子芸者だった「お菊」との間の子として生まれた。平造はすでに光子(さくらの実母)と結婚していたため、寅次郎は不倫の子だった。お菊は京都で身売りをするために、寒い冬の真夜中に産まれたばかりの寅次郎を「とらや」の軒先に置いて去ってしまう。光子はそれを知っていたのか、御前様に報告しに行ったところ、御前様は「寅次郎」と命名してくれた。
平造と光子の間には、秀才だった長男「昭一郎」がいたが、旧制中学のころに伝染病で死んでしまう。寅次郎が小学校に上がる前には、光子の実子で妹の「さくら」が生れた。だんご屋「とらや」は実質的には、平造の父親で、無口な「正吉」と嫁の光子で切り盛りしていた。やがて平造は招集される。復員後「とらや」に帰って来るが、ますますおかしくなって、寅次郎とはうまくいかない。
寅次郎が13歳のころ、育ての母・光子の体調が悪くなる。平造の弟夫婦が、「おいちゃん」(竜造、寅次郎の叔父)と、「おばちゃん」(つね、叔母)。おいちゃんとおばちゃんは、病にかかった光子の面倒を看るために「とらや」に移り住むようになり、光子の死後に「とらや」の店と寅次郎とさくらの面倒をみるようになった。
寅次郎は15歳の時、道楽者で自分を疎ましく思っている父親に対し、日頃の不満が爆発して大喧嘩し家出する。政吉親分に香具師(やし)としての素質を買われて、テキ屋稼業に足を踏み入れた。その後、父親の平造は他界した。1人「とらや」に残されてしまった「さくら」(9歳か10歳頃)は、おいちゃんとおばちゃんに育てられることになる。
寅次郎が35歳の時に、20年ぶりに「とらや」に帰郷する。おいちゃんとおばちゃん、さくらは、彼を家族として歓迎する。
●帝釈天参道の「とらや」と「くるまや」
「寅さん記念館」に行って、寅さんの生い立ちのほか、もう一つ大きな疑問があった。
帝釈天に参拝したあとの参道で、時間が無くて店名を確認せずに、急いでお土産の名物「草だんご」を買った。帰ってから、包装紙を見たら「門前とらや」と書いてあった。「柴又屋」の文字もある。
寅さんの生い立ちと少年時代について調べていたら、寅さんの実家の店の名は「とらや」だった。帝釈天の参道にはいくつか、だんご屋がある。「柴又 とらや」でネットで検索すると、「柴又屋」というだんご屋が、実際に「門前とらや」という店名に変えたようだ。『男はつらいよ』の「とらや」の名前に便乗したのは、容易に想像できる。
「門前とらや」は、柴又帝釈天参道で明治20年に「柴又屋」として創業。当時から、参拝者の食事処、草だんごのお土産として、参拝客、観光客の多くに利用されていた。実際に「柴又屋」は、昭和44年の第1作目『男はつらいよ』の映画に使用され、第4作目まで寅さんの実家として撮影が行われたという。ちなみに、第5作から第48作(最後)までの映画のモデルは「高木屋老舗(ろうほ)」という店。
最初「高木屋」がモデルと聞いていたので、「高木屋」の店の写真を撮った。「高木屋」は、参道を挟んで左右2軒あり、写真は帝釈天に向かって右側の店、映画はどちらの店が使われたのか分からない。ところが「寅さん記念館」に行くと、寅さんの実家は「くるまや菓子舗」の幟(のぼり)が立っている。第40作目の『男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日』(1988年)から、何の説明もなく「とらや」の名前が、映画の中で「くるまや菓子舗」(通称くるまや)に変わったという。
はっきりしたことは分からないが、商標権の問題だと思われる。もともと帝釈天参道には「とらや」という店はなかった。当然、映画制作サイドの「松竹」も、「柴又屋」に「とらや」という名前を使わないで欲しいと再三伝えていたようだ。しかし、「柴又屋」は「とらや」という名称を使い続け、それで仕方なく映画側が「とらや」を「くるまや」に変えたというのが、大方の見方だと思われる。
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