再び渋沢栄一ゆかりの地を巡る
2024年12月18日(水)、再び埼玉県深谷市 の「渋沢栄一ゆかりの地」をめぐる。
財務省印刷局と日本銀行は、2024年7月3日新紙幣を発行した。新一万円札に「近代日本経済の父」と呼ばれる渋沢栄一の肖像がデザインされている。 紙幣のデザインが変わるのは2004年以来、20年ぶりとなった。2年ぶりに「渋沢栄一ゆかりの地」を車でめぐる。
■渋沢栄一記念館 10:35~12:00
「渋沢栄一記念館」は、栄一の出身地である深谷市が設立・運営する渋沢栄一に関する市立博物館。
深谷市北部・血洗島(ちあらいじま)にある渋沢栄一の生家から、東に500 mほどの清水川のほとりにある「八基(やつもと)公民館」に併設され、渋沢栄一に関する展示を行っている。1階の資料室の入口に栄一の等身大パネル(栄一の身長は、150㎝ちょっとだったとか)と、記念館北側に建つ銅像がある。
資料室には、栄一が書き残した書画や写真など、多数の資料を展示。撮影禁止(渋沢栄一記念館/深谷市ホームページより引用)。
2020年7月からは、2階展示室で「アンドロイド渋沢栄一」の公開を開始されている(要予約)。なお、東京都北区西ケ原にある「渋沢史料館」は、「渋沢栄一記念財団」の施設。
資料室の見学後、11:30~12:00ガイドの案内で渋沢栄一のアンドロイドからの講義「道徳経済合一説について」を聴く。
■麺屋忠兵衛煮ぼうとう店 12:15~13:05
「渋沢栄一記念館」から、車で西の方へ3分(1.0 km)ほど、12:10旧渋沢邸「中の家」(なかんち)の駐車場着。
「中の家」の前には、大型バスが駐車できるほど大きな駐車場が整備されて、駐車場の先に見える「中の家」の立派な正門と塀は、いかにも豪農といった雰囲気。
「中の家」の正門から入るが、主屋に入らずに東門から一旦出て、隣接する麺屋忠兵衛「煮ぼうとう店」に入店し、先に昼食。
古民家の「煮ぼうとう店」は、元は渋沢家の大番頭の家だったという。落ち着いた雰囲気で、テーブル席が50席もあり、思ったより広い。渋沢栄一が帰郷の際に、好んで食べたといわれるのが、この郷土料理「煮ぼうとう」だったそうだ。
煮ぼうとう(850円)とホットコーヒー(200円)を注文。
野菜がたくさん入った煮ぼうとうは、ボリュームがある。もちもちの麺とスープが絡んで美味しい。
店内の床の間には、渋沢栄一が書いたとされる「天意重夕陽 人間貴晩晴」の書が飾られている。
渋沢栄一が座右の銘にした名言の中の一つ、「てんい、せきようをおもんじ にんげん、ばんせいをとうとぶ」と読む。正確な出典は分からないが、古人の詩の一節とされている。意味は、「一日の中で最も大事なの夕刻で、日中いかに快晴であっても、夕刻に雨でも降れば、その日一日が雨だったと感じてしまうように、人間も晩年が晴れ晴れと立派でないと、つまらない人生になってしまう」。
若いうちに多少の欠点があっても、世間はこれを許してもくれる。立派な晩年の生活によって、若いうちの欠点失策は、帳消しにすることができるが、いかに若いうちが立派であっても、晩年がよくなければ、その人はついに芳しくない人で終わってしまうものである。晩晴(ばんせい)とは、「夕方になって空が晴れること」。つまり、「人生ってのは、終わり良ければすべて良し」ということか。
お土産に、秘伝のたれ付の「煮ぼうとう」(干しひらめん)4食入(690円)と長芋の旨味昆布漬け(300円)を購入して店を出る。
■旧渋沢邸「中の家」(なかんち) 13:10~13:50 入館無料
「中の家」の庭に建つ「若き日の栄一」の銅像は、1867年パリでの姿らしい。
渋沢栄一が23歳まで過ごした血洗島村にあった「中の家」は、茅葺屋根の主屋だった。明治時代になって家業の中心が養蚕になると建て替えられたが、明治25(1892)年に火災で焼失。家を継いだ妹夫婦(てい・一郎)によって明治28(1895)年に上棟されたのが、現在の主屋。栄一が帰郷の際には、ここに寝泊まりした。主屋を囲むように副屋(藍玉の店、のちに農協の事務所)、4つの土蔵、正門、東門が建ち、屋根に天窓の「煙出し」がある典型的な養蚕農家の形。
「中の家」に入室し、栄一のアンドロイドから、スクリーンの映像を見ながら栄一の経歴を聴く。
裏庭には、栄一の義弟の渋沢平九郎を追悼した石碑が建っている。
この石碑は、東京・谷中の渋沢家墓所内にあったものを、この地に移設したもの。平九郎は栄一の義弟で、栄一が渡欧する際に養子となった。しかし幕府側として「飯能戦争」で新政府軍と戦い、自刃。享年22歳だった。
■尾高惇忠(じゅんちゅう)生家 <見学省略> 入館無料
「中の家」から東に4分(1.5Km)ほどで、尾高惇忠の生家。車を停めて社内から建物を見るだけで、見学はスキップ。
惇忠は名主の子で、幼い頃から学問に優れ、17歳頃から自宅に「尾高塾」を開き近郷の子弟に学問を教えた。渋沢栄一も7歳から数年間、惇忠の教えを受けた。栄一の父の姉が惇忠の母で、惇忠と栄一はいとこの関係だった。また、栄一の最初の妻は、惇忠の妹・千代。栄一が渡仏するのを機会に、栄一夫婦の養子として惇忠の弟・平九郎が迎えられた。
生家の屋号は「油屋」、農業の他、藍玉・菜種湯・塩・雑貨などを販売した。2階には、栄一らと高崎城の乗っ取りの謀議をした部屋が残されている。「戊辰戦争」の際、惇忠は平九郎らと共に「彰義隊」に参加。その後、平九郎らと共に脱退し「振武隊」を結成、「飯能戦争」で官軍と交戦するが敗退し、平九郎は自決、 淳忠は逃げ延びた。維新後は、「富岡製糸場」の建設に尽力して所長、また「第一国立銀行」仙台支店支配人などを勤め、のちに養蚕・製糸業の振興にも努めた。
■誠之堂(せいしどう)と清風亭 14:00~14:40 入館無料
「尾高惇忠生家」からは、車で3分(950m)ほど、 「誠之堂」と「清風亭」は、県道14号沿いの「大寄(おおより)公民館」の敷地にある。ともに建築史上、重要な建物で、元は東京・世田谷にあった「第一国立銀行」(のちに「第一勧業銀行」、現「みずほ銀行」)の保養・スポーツ施設「清和園」の敷地内に並んで建てられていた。
「第一国立銀行」は、栄一が初代頭取を務めた民間の銀行。「誠之堂」は大正5(1916)年、初代頭取・栄一の喜寿祝に「清風亭」は大正15(1926)年に2代目頭取・佐々木勇之助の古希祝を記念して、いずれも行員たちの出資で建設された。
昭和46(1971)年に、「清和園」の敷地の半分を聖マリア学園に売却。しかし、学園の施設拡充計画により、「誠之堂」と「清風亭」の取り壊しが検討されたが、平成11(1999)年に深谷市が譲り受け、移築・復元された。その後「誠之堂」は平成15(2003)年に国の重要文化財に、「清風亭」は平成16(2004)年に埼玉県指定有形文化財に指定されている。
ガイドの案内で、両施設を見学。「誠之堂」の外観は、英国の農家風で、和風、東洋風のデザインが随所に見らる。
煉瓦造平屋建で、焼き色の異なる3色の色むらのある煉瓦を積む「フランス積み」という方法。煉瓦は、深谷市に存在した「日本煉瓦製造株式会社」で製造された。暖炉の背面の外壁には、3色のレンガで「喜寿」という漢字に積まれた部分もある。
暖炉脇の窓のステンドグラスのモチーフは、中国・漢時代の宮殿、祠堂、墳墓の壁面に彫りつけたもの。格子状のガラスは、日本の障子をイメージ。貴人と従者らによる宴会を、渋沢栄一の喜寿を祝う様子に見立て描かれている。
ステンドグラスを建物の外から見たのと、室内から見たのでは色の鮮やかさが全く違う。
暖炉の上部には、正面を向いた栄一の肖像レリーフ。
「清風亭」は、当時流行っていたスペインの南欧風建築。屋根は南欧風のスパニッシュ瓦、ベランダの5連アーチ、出窓のステンドグラス、円柱装飾などが特徴的。
1923年(大正12年)の関東大震災をきっかけに耐震性への関心が高まった。「清風亭」は、鉄筋コンクリート造平屋建の初期の建築物、建築史上でも貴重。その後、日本の洋風建築は煉瓦から、丈夫な鉄筋コンクリートへ代わっていった。
2017年(平成29年)9月21日には、当時の天皇・皇后陛下が私的な行幸啓で、ここ「誠之堂」「清風園」のほか、「渋沢栄一記念館」や生家の「中の家」を来訪されていて、それぞれの施設で当時の写真が掲示されていた。
14:40「大寄公民館」を後にして、帰路へ。
★ ★ ★
2年前に来た時は、「渋沢栄一記念館」で栄一のアンドロイドが見られなかったのと、耐震工事中で旧渋沢邸「中の家」の内部を見学できなかったのが残念だった。両施設で、それぞれにアンドロイドから解説を聞いて有意義だった。「誠之堂」と「清風亭」では、ガイドの説明を聞けたのも収穫だった。
アンドロイドは、人間に似た外見や動作を持つロボットのことだが、人間と同じように動いたり話したり、顔の表情ができるが、昔よりも技術が進歩していて、自然に近い動きをするようになっているのに驚いた。皮膚の見た目も人間に近い。渋沢栄一アンドロイドは、深谷市出身で株式会社ドトールコーヒーの名誉会長・鳥羽博道氏の寄付により制作とあったが、いったいどのくらいの値段がするものか気になる。
本ブログの関連記事
2年前の2022年10月30日(日)には、「渋沢栄一ゆかりの地」をウォーキングでめぐった。
「渋沢栄一ゆかりの地を巡るウォーキング」 2022/11/11投稿
http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2022/11/post-a56a44.html
★ ★ ★
■渋沢栄一について
渋沢栄一は豪農の長男で、明冶・大正期の実業家。一橋慶喜(のちに将軍・徳川慶喜)の家臣に取り立てられ、慶応3(1867)年「パリ万国博覧会」に出席する徳川昭武(慶喜の異母弟、のちに水戸藩主)に随行し、欧州の産業や社会制度を大いに見聞した。
明治2(1869)年新政府に勤め、明治5(1872)年大蔵大丞(大蔵省の大臣に続く第4位の高官)となるが、翌年退官して実業界に入る。「第一国立銀行」(現みずほ銀行)の頭取となった他、多くの銀行、「王子製紙」、「大阪紡績」、「東京瓦斯」、「東京海上保険会社」、「日本鉄道会社」など約500社の近代的企業のほか、経済団体、教育機関などの創立と発展に尽力した。
幼少期に学んだ孔子の教え『論語』を徳育の規範として『論語と算盤(そろばん)』を著し、「道徳経済合一説」を唱えた。大正5(1916)年実業界から引退するが、その後も福祉や医療、教育、国際親善に力を注いだ。昭和6(1931)年、老衰のため死去。享年92。
左から、渋沢栄一、恩師・尾高惇忠、義弟・渋沢平九郎、主君・徳川慶喜。出典:ウキメディア・コモンズ
« 再び新宿御苑と神宮外苑 | トップページ | 寅さんの柴又を巡るウォーク »
「旅行・地域」カテゴリの記事
- 吉見百穴と武州松山城趾(2025.02.09)
- 寅さんの柴又を巡るウォーク(2025.01.16)
- 再び渋沢栄一ゆかりの地を巡る(2024.12.26)
- 再び新宿御苑と神宮外苑(2024.12.25)
- 再び紅葉の平林寺(2024.12.08)
コメント