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2024年12月の4件の投稿

2024年12月26日 (木)

再び渋沢栄一ゆかりの地を巡る

 2024年12月18日(水)、再び埼玉県深谷市 の「渋沢栄一ゆかりの地」をめぐる。

  財務省印刷局と日本銀行は、2024年7月3日新紙幣を発行した。新一万円札に「近代日本経済の父」と呼ばれる渋沢栄一の肖像がデザインされている。 紙幣のデザインが変わるのは2004年以来、20年ぶりとなった。2年ぶりに「渋沢栄一ゆかりの地」を車でめぐる。


■渋沢栄一記念館
 10:35~12:00

 「渋沢栄一記念館」は、栄一の出身地である深谷市が設立・運営する渋沢栄一に関する市立博物館。

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 深谷市北部・血洗島(ちあらいじま)にある渋沢栄一の生家から、東に500 mほどの清水川のほとりにある「八基(やつもと)公民館」に併設され、渋沢栄一に関する展示を行っている。1階の資料室の入口に栄一の等身大パネル(栄一の身長は、150㎝ちょっとだったとか)と、記念館北側に建つ銅像がある。

 資料室には、栄一が書き残した書画や写真など、多数の資料を展示。撮影禁止(渋沢栄一記念館/深谷市ホームページより引用)。

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 2020年7月からは、2階展示室で「アンドロイド渋沢栄一」の公開を開始されている(要予約)。なお、東京都北区西ケ原にある「渋沢史料館」は、「渋沢栄一記念財団」の施設。

 資料室の見学後、11:30~12:00ガイドの案内で渋沢栄一のアンドロイドからの講義「道徳経済合一説について」を聴く。

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■麺屋忠兵衛煮ぼうとう店 12:15~13:05

 「渋沢栄一記念館」から、車で西の方へ3分(1.0 km)ほど、12:10旧渋沢邸「中の家」(なかんち)の駐車場着。

 「中の家」の前には、大型バスが駐車できるほど大きな駐車場が整備されて、駐車場の先に見える「中の家」の立派な正門と塀は、いかにも豪農といった雰囲気。

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 「中の家」の正門から入るが、主屋に入らずに東門から一旦出て、隣接する麺屋忠兵衛「煮ぼうとう店」に入店し、先に昼食。

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 古民家の「煮ぼうとう店」は、元は渋沢家の大番頭の家だったという。落ち着いた雰囲気で、テーブル席が50席もあり、思ったより広い。渋沢栄一が帰郷の際に、好んで食べたといわれるのが、この郷土料理「煮ぼうとう」だったそうだ。

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 煮ぼうとう(850円)とホットコーヒー(200円)を注文。

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 野菜がたくさん入った煮ぼうとうは、ボリュームがある。もちもちの麺とスープが絡んで美味しい。

 店内の床の間には、渋沢栄一が書いたとされる「天意重夕陽 人間貴晩晴」の書が飾られている。

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 渋沢栄一が座右の銘にした名言の中の一つ、「てんい、せきようをおもんじ にんげん、ばんせいをとうとぶ」と読む。正確な出典は分からないが、古人の詩の一節とされている。意味は、「一日の中で最も大事なの夕刻で、日中いかに快晴であっても、夕刻に雨でも降れば、その日一日が雨だったと感じてしまうように、人間も晩年が晴れ晴れと立派でないと、つまらない人生になってしまう」。

 若いうちに多少の欠点があっても、世間はこれを許してもくれる。立派な晩年の生活によって、若いうちの欠点失策は、帳消しにすることができるが、いかに若いうちが立派であっても、晩年がよくなければ、その人はついに芳しくない人で終わってしまうものである。晩晴(ばんせい)とは、「夕方になって空が晴れること」。つまり、「人生ってのは、終わり良ければすべて良し」ということか。

 お土産に、秘伝のたれ付の「煮ぼうとう」(干しひらめん)4食入(690円)と長芋の旨味昆布漬け(300円)を購入して店を出る。

■旧渋沢邸「中の家」(なかんち) 13:10~13:50 入館無料

 「中の家」の庭に建つ「若き日の栄一」の銅像は、1867年パリでの姿らしい

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  渋沢栄一が23歳まで過ごした血洗島村にあった「中の家」は、茅葺屋根の主屋だった。明治時代になって家業の中心が養蚕になると建て替えられたが、明治25(1892)年に火災で焼失。家を継いだ妹夫婦(てい・一郎)によって明治28(1895)年に上棟されたのが、現在の主屋。栄一が帰郷の際には、ここに寝泊まりした。主屋を囲むように副屋(藍玉の店、のちに農協の事務所)、4つの土蔵、正門、東門が建ち、屋根に天窓の「煙出し」がある典型的な養蚕農家の形。

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 「中の家」に入室し、栄一のアンドロイドから、スクリーンの映像を見ながら栄一の経歴を聴く。

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 裏庭には、栄一の義弟の渋沢平九郎を追悼した石碑が建っている。

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 この石碑は、東京・谷中の渋沢家墓所内にあったものを、この地に移設したもの。平九郎は栄一の義弟で、栄一が渡欧する際に養子となった。しかし幕府側として「飯能戦争」で新政府軍と戦い、自刃。享年22歳だった。

■尾高惇忠(じゅんちゅう)生家 <見学省略> 入館無料

 「中の家」から東に4分(1.5Km)ほどで、尾高惇忠の生家。車を停めて社内から建物を見るだけで、見学はスキップ。

 惇忠は名主の子で、幼い頃から学問に優れ、17歳頃から自宅に「尾高塾」を開き近郷の子弟に学問を教えた。渋沢栄一も7歳から数年間、惇忠の教えを受けた。栄一の父の姉が惇忠の母で、惇忠と栄一はいとこの関係だった。また、栄一の最初の妻は、惇忠の妹・千代。栄一が渡仏するのを機会に、栄一夫婦の養子として惇忠の弟・平九郎が迎えられた。

 生家の屋号は「油屋」、農業の他、藍玉・菜種湯・塩・雑貨などを販売した。2階には、栄一らと高崎城の乗っ取りの謀議をした部屋が残されている。「戊辰戦争」の際、惇忠は平九郎らと共に「彰義隊」に参加。その後、平九郎らと共に脱退し「振武隊」を結成、「飯能戦争」で官軍と交戦するが敗退し、平九郎は自決、 淳忠は逃げ延びた。維新後は、「富岡製糸場」の建設に尽力して所長、また「第一国立銀行」仙台支店支配人などを勤め、のちに養蚕・製糸業の振興にも努めた。

 

誠之堂(せいしどう)と清風亭 14:00~14:40 入館無料

 「尾高惇忠生家」からは、車で3分(950m)ほど、 誠之堂」と「清風亭」は、県道14号沿いの「大寄(おおより)公民館」の敷地にある。ともに建築史上、重要な建物で、元は東京・世田谷にあった「第一国立銀行」(のちに「第一勧業銀行」、現「みずほ銀行」)の保養・スポーツ施設「清和園」の敷地内に並んで建てられていた。

 「第一国立銀行」は、栄一が初代頭取を務めた民間の銀行。「誠之堂」は大正5(1916)年、初代頭取・栄一の喜寿祝に「清風亭」は大正15(1926)年に2代目頭取・佐々木勇之助の古希祝を記念して、いずれも行員たちの出資で建設された。

 昭和46(1971)年に、「清和園」の敷地の半分を聖マリア学園に売却。しかし、学園の施設拡充計画により、「誠之堂」と「清風亭」の取り壊しが検討されたが、平成11(1999)年に深谷市が譲り受け、移築・復元された。その後「誠之堂」は平成15(2003)年に国の重要文化財に、「清風亭」は平成16(2004)年に埼玉県指定有形文化財に指定されている。

 ガイドの案内で、両施設を見学。「誠之堂」の外観は、英国の農家風で、和風、東洋風のデザインが随所に見らる

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 煉瓦造平屋建で、焼き色の異なる3色の色むらのある煉瓦を積む「フランス積み」という方法。煉瓦は、深谷市に存在した「日本煉瓦製造株式会社」で製造された。暖炉の背面の外壁には、3色のレンガで「喜寿」という漢字に積まれた部分もある。

 暖炉脇の窓のステンドグラスのモチーフは、中国・漢時代の宮殿、祠堂、墳墓の壁面に彫りつけたもの。格子状のガラスは、日本の障子をイメージ。貴人と従者らによる宴会を、渋沢栄一の喜寿を祝う様子に見立て描かれている。

 ステンドグラスを建物の外から見たのと、室内から見たのでは色の鮮やかさが全く違う。

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 暖炉の上部には、正面を向いた栄一の肖像レリーフ。

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 「清風亭」は、当時流行っていたスペインの南欧風建築。屋根は南欧風のスパニッシュ瓦、ベランダの5連アーチ、出窓のステンドグラス、円柱装飾などが特徴的。

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 1923年(大正12年)の関東大震災をきっかけに耐震性への関心が高まった。「清風亭」は、鉄筋コンクリート造平屋建の初期の建築物、建築史上でも貴重。その後、日本の洋風建築は煉瓦から、丈夫な鉄筋コンクリートへ代わっていった。

 2017年(平成29年)9月21日には、当時の天皇・皇后陛下が私的な行幸啓で、ここ「誠之堂」「清風園」のほか、「渋沢栄一記念館」や生家の「中の家」を来訪されていて、それぞれの施設で当時の写真が掲示されていた。

 14:40「大寄公民館」を後にして、帰路へ。

 ★ ★ ★

 2年前に来た時は、「渋沢栄一記念館」で栄一のアンドロイドが見られなかったのと、耐震工事中で旧渋沢邸「中の家」の内部を見学できなかったのが残念だった。両施設で、それぞれにアンドロイドから解説を聞いて有意義だった。「誠之堂」と「清風亭」では、ガイドの説明を聞けたのも収穫だった。

 アンドロイドは、人間に似た外見や動作を持つロボットのことだが、人間と同じように動いたり話したり、顔の表情ができるが、昔よりも技術が進歩していて、自然に近い動きをするようになっているのに驚いた。皮膚の見た目も人間に近い。渋沢栄一アンドロイドは、深谷市出身で株式会社ドトールコーヒーの名誉会長・鳥羽博道氏の寄付により制作とあったが、いったいどのくらいの値段がするものか気になる。

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 2年前の20221030日(日)には、「渋沢栄一ゆかりの地」をウォーキングでめぐった。

 「渋沢栄一ゆかりの地を巡るウォーキング」 2022/11/11投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2022/11/post-a56a44.html

 

 ★ ★ ★

■渋沢栄一について

 渋沢栄一は豪農の長男で、明冶・大正期の実業家。一橋慶喜(のちに将軍・徳川慶喜)の家臣に取り立てられ、慶応3(1867)年「パリ万国博覧会」に出席する徳川昭武(慶喜の異母弟、のちに水戸藩主)に随行し、欧州の産業や社会制度を大いに見聞した。

 明治2(1869)年新政府に勤め、明治5(1872)年大蔵大丞(大蔵省の大臣に続く第4位の高官)となるが、翌年退官して実業界に入る。「第一国立銀行」(現みずほ銀行)の頭取となった他、多くの銀行、「王子製紙」、「大阪紡績」、「東京瓦斯」、「東京海上保険会社」、「日本鉄道会社」など約500社の近代的企業のほか、経済団体、教育機関などの創立と発展に尽力した。

 幼少期に学んだ孔子の教え『論語』を徳育の規範として『論語と算盤(そろばん)』を著し、「道徳経済合一説」を唱えた。大正5(1916)年実業界から引退するが、その後も福祉や医療、教育、国際親善に力を注いだ。昭和6(1931)年、老衰のため死去。享年92。

 左から、渋沢栄一、恩師・尾高惇忠、義弟・渋沢平九郎、主君・徳川慶喜。出典:ウキメディア・コモンズ

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2024年12月25日 (水)

再び新宿御苑と神宮外苑

 2024年12月3日(火)、紅葉の「新宿御苑」と黄葉の「神宮外苑」のイチョウ並木に行く。

 天気は晴れ、最高気温は17.5℃で、12月にしては暖かい。

 9:45新宿駅を出て、10:00「新宿御苑」の新宿門から入場。入園料250円。

 園内を東に向かうとカエデの林。

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 温室の手前付近、メタセコイヤとイチョウ。

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 ツワブキの群生。

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 サクラの紅葉。

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 プラタナス並木。

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 バラ花壇から西の方角、ドコモタワーが顔を出す。秋バラは、もう終り。

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 「中の池」と紅葉。

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 「下の池」に映る紅葉。

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 11:30頃、千駄ヶ谷門から新宿御苑を退園。11:55、神宮外苑の「国立競技場」前を通過。

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 12:00頃、「聖徳記念絵画館」前から「イチョウ並木」の方角を望む。総合球技場では、何やらイベントが開催中で「イチョウ並木」へ通り抜けが出来ない。

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 回り道して、12:25神宮外苑の「イチョウ並木」へ。平日だが、すごい混雑。皆、スマホでイチョウを撮っている。

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 「イチョウ並木」に隣接の権田原会場で「全国工芸職人展」が、11/21(木)~12/8(日)で開催中。入場無料。

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 イチョウ並木が黄葉する頃に開催される物産フェア。多彩な工芸品が展示販売。 昼食は、屋台の「広島焼き」700円。ちょっと高い。

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 イチョウ並木と「聖徳記念絵画館」の間の総合球技場では、「東京クリスマスマーケット2024 in 神宮外苑」が11/19日(火)〜12月25(水)で開催中だった。中央に、シンボルのタワー「クリスマスピラミッド」が見える。

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 正面に絵画館が見えるが、こちらからもチケットを買わないと通り抜けが出来ない。

 再び絵画館前に戻り、13:35絵画館の裏に明治天皇の葬場殿跡。記念に植えられた大楠。

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 都道319号線の信濃町歩道橋を渡って、JR信濃町駅へ。歩道橋から青山1丁目方面を望む。

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 14:10JR信濃駅発、新宿駅経由して、14:30JR巣鴨駅着。

 14:35「巣鴨地蔵通り商店街」のアーチ。

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 商店街を散策。巣鴨名物は、赤いパンツと塩大福。

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 元祖「塩大福」と謳っている和菓子屋「みずの」で、少し行列が出来ていたが塩大福(豆大福)をすぐに購入できた。塩大福は、昭和38年にここで誕生したとか。1つ 160円で、5個入り800円。数年前、同じ店で650円だったので、やはり物価高。甘さを抑えた優しい味の大福。

 とげ抜き地蔵の「髙岩寺」に参拝。

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 15:30頃、JR巣鴨駅に戻り、帰路へ。

 

 ★ ★ ★

●神宮外苑いちょう祭り

 2012年12月2日投稿の本ブログ記事「新宿御苑と神宮外苑」を見ると、軟式野球場前の噴水池周辺で「神宮外苑いちょう祭り」が、11/17(土)~12/9(日)で開催されていた。多くの屋台が並んで、ちょうど昼食をとるのに良かった。また、「聖徳記念絵画館」の前では、トヨタ博物館がトヨタ創立75周年記念の「クラシックカーフェスタ」を開催、いずれも入場は無料だった。

 「神宮外苑いちょう祭り」は、2020年から新型コロナウイルスの影響で、開催が中止になっていたが、2023年に噴水周辺で再開されたようだ。今年は、噴水周辺が工事中のため利用出来ず、イベントは中止されたようだ。東京都では他の公共施設と同様、神宮外苑の都道のイチョウ並木を11/23(土)~12/1(日)の期間、ライトアップしているとのこと。
 

●クリスマスマーケット

 今回、神宮外苑で「クリスマスマーケット」という初めて聞くイベントをやっているとは、知らなかった。

 「クリスマスマーケット」は、ドイツやオーストリアが発祥で中世から続く伝統的なお祭り。ヨーロッパ全体に広がり、どこの町でも中心部の広場では飾り付けやイルミネーションのクリスマスの雰囲気の中で、仲間とグリューワイン(ホットワイン)を飲み交わしながら、クリスマス用のお菓子や飾り、プレゼントを選んだりするのが「クリスマスマーケット」の楽しみだそうだ。11月末頃~12月25日のクリスマス・シーズンには欠かせない風物詩となっている。

 ドイツ・ドレスデンのクリスマスマーケット。出典:ウキメディア・コモンズ

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 のちにはドイツ系の移民たちがこの習慣を、イギリスやアメリカへもたらしたという。ドイツ語では、Weihnachtsmarkt(ヴァイナハツ・マルクト、聖夜のマーケット)というらしいが、町によって異なるそうだ。日本では親しみやすい英語の「クリスマスマーケット」がよく用いられる。最近では、全国の各都市でも開催されるようになている。

 「東京クリスマスマーケット」は、本場のドイツ・ザイフェン村からやってきた高さ14mの「クリスマスピラミッド」をシンボルとし、グリューワインやクリスマス・スイーツ、ヨーロッパ風のクリスマス装飾の店舗が並ぶ本場の雰囲気さながらの屋外イベントとして、日比谷公園で2015年12月に初開催された。ドイツ・ドレスデンのクリスマスマーケットをモチーフに今年で9回目、10周年を迎える。

 日比谷公園のリニューアルに伴い、2023年、2024年は神宮外苑の絵画館前、総合球技場で開催されている。「東京クリスマスマーケット2024 in 神宮外苑」(下のチラシ)は、日本を代表するクリスマスマーケットとして、57の雑貨店や飲食店が出店しているという。チケットは平日1,000円、土日祝1,500円、初日(11/19)と12/21~25は2,000円だそうだ。

 主催:東京クリスマスマーケット実行委員会
 後援:ドイツ観光局/バイエルン州駐日代表部/ザクセン州観光局/ザイフェン村/
    東京都/新宿区/新宿観光振興協会
 協力:Trip.com/SKWイーストアジア/ファミリーマート

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2024年12月 8日 (日)

再び紅葉の平林寺

 2024年11月30日(土)、「平林寺」(埼玉県新座市)の紅葉。

 

 東武東上線志木駅の南口から、9時48分発の西武バスひばりヶ丘駅北口行きに乗車。約14分で平林寺バス停下車。

 「総門」は、県指定有形文化財(建造物) 。左手に受付があって、入山料500円。パンフには、入山料は国指定天然記念物「平林寺境内林」の整備に使われていますと書いてある。

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 「総門」からすぐに「山門」。こちらも県指定有形文化財(建造物)。

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 「山門」の先に見える「仏殿」の前で、立ち入り禁止。昔はその先の「本堂」まで拝観できたと思ったが、今は行けなくなった。

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 「半僧坊感応殿」の建物の傍にある「放生池」。かつては仏教の「放生」の儀式に使用されていたのだろうか。「放生」とは、生き物を解き放つことで、慈悲の心を示す行為。水面に映る紅葉に赤い鯉が映える。

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 「平林寺境内林」は、武蔵野の面影を残す雑木林として、国の天然記念物に指定。2009年(平成21年)11月、天皇明仁・皇后美智子夫妻(現上皇后夫妻)が訪問したと説明板にある。皇太子時代の1977年(昭和52年)以来の再訪だという。

 「野火止用水」の「平林寺堀」が、境内を通る。

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 川越藩主で幕府老中だった松平伊豆守信綱夫妻の墓(県指定史跡)。

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 約三千坪の墓域に配された墓石は、すべて大河内松平家一族歴代のもの。一大名一族の墓が、一箇所にこれほどまでに残っているのは、国内であまり例がないという。

 信綱布佐の墓所の近くに、「寛永年中 肥州島原対死亡霊等」と刻まれた島原の乱戦没者供養塔がある。

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 供養塔の左手にある説明板には、

 『寛永十四年から十五年(1637~38)にかけて肥後国天草の農民が、キリシタン信者と結合して起こした大反乱(島原・天草の一揆)を、大河内松平家の祖である松平伊豆守信綱が収めたことに由来する供養塔です。
 この戦いによって亡くなった人たちの霊をなぐさめるためと、先祖の松平伊豆守信綱の足跡を知らしめるために、三河国吉田藩松平伊豆守家の家臣である大鳴左源太が、文久元年(1861)に大河内松平家の菩提寺である平林寺に建立したものです。』

 とある。

 この供養塔について、島原の乱で亡くなった人々を悼みその霊を慰めるためのもので、「対死」すなわち敵味方双方の慰霊のため塔だと解釈する向きもあるようだが、平林寺のホームページの「山内散策」ページには、あくまでも「幕府側の犠牲者を弔う供養塔」と書いてある。

 12時過ぎに平林寺を退場。先月、紅葉前に来た「睡足軒の森」に入場。

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 平林寺バス停12時23分発の志木駅南口行きの西武バスに乗り、志木駅ビルEQUiA(エキア)の2階「すし三崎丸」でランチし、帰路へ。

 

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 「野火止用水を歩く」 2024/10/27投稿
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 「紅葉の平林寺」 2014/11/28投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-55bd.html

 

 ★★★

 この日は、紅葉の時期の土曜日で、天気も良く、境内は家族連れなどで賑わっていた。外国人も多かった。今年の紅葉は全国的に遅れていて、「平林寺」でも全山紅葉とまでには至っていないが、それなりに楽しめた。「平林寺」の紅葉期間中の人出は6万人ともいわれ、埼玉県内第1位の紅葉人気スポットだそうだ。

 近年、国内の観光地に過剰な観光客が訪れることで、「オーバーツーリズム」が問題になっている。観光地のインフラや地域社会に悪影響を及ぼし、地元住民の生活が妨げられたり、自然環境が破壊されたりする。この問題に対処するために、観光地や管轄の自治体では、訪問者数の制限や各種の規制、ルールの厳格化などの対策を講じているところもある。

 臨済宗「金鳳山 平林寺」は、「禅の修行の場であり、参拝や散策は静粛に」と平林寺のパンフやホームページに書いてある。以前は、本堂の拝観も出来たし、自由に境内を散策できたようだったが、いまは散策コースが定められていて、立入り禁止の柵があちこちに設けられ、散策する範囲が狭まっていて残念だ。

 注意事項・禁止事項として、写真・動画は個人で楽しむ限りスマホやカメラ等で手軽に撮影するもののみ。撮影用の機材(一脚・三脚、自撮り棒、レフ板、ライト、踏み台)の使用やモデル撮影、撮影会の開催は禁止。写生やスケッチ、総門・山門・仏殿の前での集合写真も禁止。飲食(弁当、軽食、酒類)、喫煙は禁止。敷物類や折り畳み椅子、スポーツ用トレッキングポールの使用禁止。ガイドや案内説明の行為、ペット(ケージに入っていても)の入山、動植物の採取も禁止。ゴミは持ち帰り、御朱印帳の記帳はない等々・・・とけっこう細かい。

2024年12月 7日 (土)

秋の矢作川上流域

 2024年11月21日(木)、秋の矢作川上流域。長野県、岐阜県と愛知県を巡る。

 5:40上信越自動車道を佐久ICで降りて、県道44号、国道142号を経由し岡谷ICからへ中央自動車道へ。7:05辰野PAで休憩。飯田市の飯田山本ICで高速を降りて、国道153号線を南下する。阿智村を経て、8:20平谷村の道の駅「信州平谷」で休憩。

 赤坂峠を越えると最初の目的地の長野県根羽(ねば)村に入る。根羽村を走る国道153号線沿いに「信玄塚」の標識があった。諸説あるようだが、ここは戦国武将・武田信玄が絶命したと伝わる場所。信玄は、三河国に侵攻して家康を敗退させたが持病が悪化、甲斐国に撤退する途中でこの地で没した。

 矢作川支流の小川川沿いに国道153号線を更に南下し、 根羽村の役場を過ぎてから左折、8:45黒地集落に到着。棚田が広がるこの辺りの標高は、610m。

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●黒地の柿の木
 長野県下伊那郡根羽村黒地(8:45~9:25)

 樹齢150年の柿の木は、今年は「成り年」だそうで柿は実っているが、青い葉が残っていて秋の柿の木の風景とはどこか違う。

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 早朝、雨が降ったようで、地面から蒸気霧が上がっている。

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 根羽村の「黒地の柿の木」は、写真愛好家たちの撮影スポット。葉が落ち赤い実が残った木と根元にある苔むした物置小屋が調和し、昔話の一コマのような写真が撮れると評判だそうだ。今年は、青葉が茂って主役の柿の実が目立たない。

 近くのドウダンツツジは、真っ赤に染まっていた。

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 矢作川に沿って国道153号を走り、いったん愛知県豊田市の国道257号を経て、矢作川に架かる「出合橋」を渡ると岐阜県恵那市。「奥矢作さくら街道」(県道20号)を矢作川を左に見て走ると、「奥矢作湖」の湖畔に「大野公園」がある。
 

●大野公園 岐阜県恵那市串原 大野公園 10:00~10:30

 カエデが紅葉。ここは標高305m。

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 ツタの葉は紅葉しているが、モミジは青い。

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 岐阜県の南東部の恵那郡にあった串原村は、2004年10月に周辺自治体との合併で消滅。合併後は恵那市の大字として串原が旧村域に設定されている。

 「奥矢作湖」の下流(右手方向)に「矢作ダム」がある。

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 「矢作ダム」は、愛知県豊田市と岐阜県恵那市にまたがる、一級河川・矢作川本流最上流部に建設されたダム。「矢作第一ダム」とも呼ばれる。国土交通省直轄のダムで、高さ100mのアーチ式コンクリートダム。矢作川の治水と愛知県西三河地域への利水、水力発電を行う多目的ダム。矢作川水系では最大規模。「矢作ダム」による人造湖は「奥矢作湖」。

 「矢作ダム」 出典:ウキメディア・コモンズ

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 公園内にある「恵那市串原郷土館」は、串原地区の文化財の収集保存、公開する施設。1968年(昭和43)、恵那郡串原村の「串原村郷土館」として開館。2004年(平成16)に合併で恵那市となると、「串原郷土館」に改称した。建物は「奥矢作湖」に水没した久木地区の農家(江戸時代末期建築。茅葺屋根の木造平屋建)であり、串原村が建物の寄贈を受け、移築した。1979年(昭和54)に串原村指定文化財(2004年に恵那市指定文化財に再指定)となっている。

 ここには、当時の村の生活文化を現代に伝える民具が600点以上も展示されているそうだ。 10:00を過ぎた時刻だが、建物は閉まっている。後で知ったが、利用する際は事前予約が必要だという。

 「恵那市串原郷土館」 恵那市観光協会串原支部のホームページから転載。

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 建物は、2016年(平成28)にリノベーションが行われ、「サトノエキカフェ」がオープンした。カフェの「フェースブック」を見ると、11月のカレンダーでは営業日は土日を中心に1カ月の1/3程度。12月1日~桜の頃まで冬期休業だとか。

 前庭には、水没集落から移築した「三十三体仏」が「奥矢作湖」を向いて立っている。岐阜県内には、一石三十三観音が多数存在しているようだ。この恵那市指定文化財「彫刻石造三十三一石観音」は、 1846 年(弘化3)の作で彫りも深く、保存状態も良い。

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 矢作川に沿って西進し、県道11号から、右折して矢作川に架かる「有平橋」を渡って国道354号線。恵那市の「大野公園」から35分ほど、11:10豊田市も「小原ふれあい公園」着。

 

●小原ふれあい公園 愛知県豊田市小原町  11:10~12:30

 公園では、「四季桜まつり」が開催中。

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 「小原ふれあい公園」と隣接する豊田市役所小原支所の周辺には約300本もの四季桜が植えられており、春は3月中旬~4月上旬、秋は10月下旬~12月上旬に花を咲かせるという。春に比べて秋の方がより満開になるので、ピンクの桜と紅葉のコラボを楽しむことができる

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 「小原ふれあい公園」に隣接する豊田市市役所の小原支所。標高280m。

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 愛知県西加茂郡小原村は、2005年(平成17)4月豊田市に編入合併され、小原村は廃止された。

 「小原ふれあい公園」を出て、国道419号線を北へ。「小原和紙のふるさと」(小原和紙美術館)を経て5分ほどで「川見四季桜の里」。
 

●川見(せんみ)四季桜の里 愛知県豊田市川見町  12:35~13:30

 川見町は、旧小原村の大字川見。川に沿った山全体に1200本の四季桜と紅葉のコントラストが広がる。標高360m。

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 川見の「四季桜の里」にある「川見薬師寺」は、真言宗高野山派の古刹。

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 本堂は、急勾配の石段を88段、33段、42段と登った上にある。

 真言宗「瑠璃光山薬師寺」の本堂。本堂の標高495m。

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 開山は不明だが、現在の伽藍は江戸末期から明治初期にかけて建立。本尊の木造薬師如来像は室町時代末期の作と伝わる。灯籠と如来像は、豊田市の指定文化財。

 四季桜は、小原地区の各地で咲いていて、「四季桜まつり」はあちこちで開かれている。

 13:30「川見四季桜の里」を後にして、往路と逆順で帰路へ。
 

 15:40中央自動車道の駒ヶ岳SAで休憩。山頂が雲に隠れた「仙丈ヶ岳」(中央)と冠雪の「甲斐駒ヶ岳」(左手)を展望。

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 16:25岡谷ICで高速を降り、佐久ICから関越自動車道。18:15横川SAで休憩。横川SAでは、いつも「峠の釜めし」を購入するが、値段が高いのでやめた。米などの食材、燃料や物流費の高騰で、10月15日から 「峠の釜めし」は、1,400円(税込み)に値上がりしていた。

 「峠の釜めし」は、過去1,000円の時もあって買いやすかった。 2020年1月には1,100円に、2022年4月より1,200円、2023年7月に1,300円と値上がりしていた。また、「益子焼の器が重い」というの声を受け、誕生したパルプモールド素材の白い容器がある。原料はサトウキビの搾りかす等を使用した環境にやさしく、値段も陶器より100円安かったが、今回陶器と同じ価格になっていた。

 

 ★ ★ ★

●今年の遅い紅葉

 今年9月の気温はかなり高く推移し、特に中旬の最低気温は平年より5℃程度高くなった。10月~11月も平年より高めの傾向は続き、12月も平年並み、または高めの気温が予想されている。日本気象株式会社の11月26日の予想では、紅葉の色づきは各地で平年より遅く進むとのこと。東日本の山間部では10月下旬から12月中旬にかけて、平野部では11月下旬から12月下旬にかけて見頃となる見込みだそうだ。

●一級水系矢作川

 矢作川または矢矧川(やはぎがわ)は、長野県・岐阜県・愛知県を流れて三河湾に注ぐ河川。一級水系矢作川の本川。最上流部は「根羽(ねば)川」とも呼ばれる。矢作川は、その源を中央アルプス南端の長野県下伊那郡大川入山(標高 1,908m)に発する。大川入山付近を境として北西側は木曽川水系、東側は天竜川水系へと分かれている。

 矢作川は、飯田洞川、名倉川などの支川を合わせて愛知、岐阜県境の山岳地帯を貫流し、平野部で巴川、乙川を合わせて、その後、矢作古川を分派して三河湾に注ぐ。「小原ふれあい公園」の近くを流れる「犬伏川」(いぬぶせがわ)や「川見四季桜の里」の中を流れている「田代川」も矢作川の支川。

三十三観音と二十二夜塔

 恵那地方では、江戸時代の中・後期に観音信仰が盛んになり、西国、坂東、秩父の霊場巡拝が行なわれたそうだ。当時としてはこれらの霊場を巡礼参拝することは、時間的、経済的にも大変なことであった。大野公園の「石造三十三観音」は、西国三十三霊場を巡拝に行けない個人が、自分の屋敷内に建立して祭ったいたものを移築した。(恵那市教育委員会の説明板から抜粋)

 「石造三十三観音」の右手に「二十二夜神」の石塔がある。「三十三体仏」とは関係なさそうだが、月待行事を行った供養の記念として建てた月待塔(つきまちとう)の一つのようだ。月待行事は、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜など、「講中」と称する信者たちが月の出を待って集まり、ともに飲食したあと経などを唱え、月を拝み、悪霊を払うという行事だった。

 一般的に「二十二夜」の塔は、旧暦22日の月待ちを記念して建立され、ほとんどは女人講(安産祈願やおしゃべり)や念仏講(高齢者が念仏を唱える)だったそうだ。「二十二夜」と刻まれた文字塔のほか如意輪観音が彫られた塔もある。群馬と埼玉を中心に、東日本に多く分布するという。ここには「二十二夜神」と彫られているので、当時「神」も「仏」も同じ祈りの対象だったのだろうか。

●小原の四季桜

 シキザクラ(四季桜)は、バラ目バラ科サクラ属のサクラ。エドヒガン系の中のコヒガン系の栽培品種で、マメザクラとエドヒガンが交雑した種間雑種で、春と秋から冬にかけての二度開花する二季咲きが最大の特徴だそうだ。最大の特徴は、ジュウガツザクラ、コバザクラ(フユザクラ)、コブクザクラ等の品種と同じく、春と秋から冬にかけて咲く二季咲きであり、広義の冬桜の一つ。

 新芽の時期には葉と一緒に花をつけ、紅葉の時期には葉が落ちるころに花をつける品種で、花は春のほうが大きく、秋は小さめの花を咲かせるという。豊田市小原地区には、約10,000本の四季桜が植えられている。秋の開花の時期には、「小原四季桜まつり」が開催されることで有名。見ごろは10月下旬~12月上旬、最盛期は11月上旬~11月下旬頃。地区内に数カ所あるまつり会場では、出店やイベントも楽しめる。

 この小原のほかの「四季桜」の名所に、朱塗りの鳥居とともに四季桜を観賞できる宮城県塩竈市の志波彦神社と塩竈神社がある。初詣の時期などに開花をしている場合もあるという。京都府立植物園(京都市左京区)では、園内の半木(なからぎ)神社近くに寒咲きの桜を集めたコーナーがあるそうだ。

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