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2024年11月17日 (日)

国立東京博物館「はにわ展」(その1)

 2024年11月15日(金)、国立東京博物館(平成館)の特別展「はにわ」を観覧する。

 12:25、JR上野駅を出て上野恩賜公園から、横断歩道を渡り「国立東京博物館」の正面ゲート。特別展「はにわ」の観覧料は、大人2,100円(本館、東洋館などの常設展も含む)。

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 国立東京博物館の「本館」の前。

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  特別展「はにわ」の会場は、国立東京博物館の一番奥の「平成館」。

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 全国から埴輪が集結した特別展「はにわ」。「平成館」に12:45入館。

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 特別展「はにわ」は、2階、第1・第2会場。

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 埴輪の始まりは、今から1750年ほど前。古墳時代の350年間、時代や地域ごとに個性豊かな埴輪が作られ、王をとりまく人々や当時の生活の様子を今に伝える。「挂甲(けいこう)の武人」(群馬県太田市飯塚町で出土)が1974年の国宝に指定から50年を記念し、会期2024年10月16日(水)~12月8日(日)で特別展が開催中。


■プロローグ 埴輪の世界

 会場に入るとまず、東京国立博物館の代表的な所蔵品のひとつである「踊る人々」が展示。この埴輪は、当博物館が創立150周年を機に文化財活用センターとクラウドファンディングなどで寄附をつのり、2022年10月から解体修理を行い、2024年3月末に修理が完了したもの。

1.「踊る人々」 埼玉県熊谷市 野原古墳出土 6世紀 東京国立博物館蔵

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 初期の埴輪と思いきや、実は時代が新しく、表現の省略が進んだ姿だそうだ。埴輪がもつ独特な「ゆるさ」を象徴する。王の祭祀に際し、死者の復活を願ってて踊る姿であるとする説のほか、近年は片手を挙げて馬の手綱(たづな)を曳(ひ)く馬子の姿であるとする説が有力となっている。

■第1章 王の登場

 古墳からの副葬品は、王の役割の変化で移り変わった。古墳時代前期(3~4世紀)の王は司祭者的な役割であったので、宝器を所有し、中期(5世紀)の王は武人的な役割のため、武器・武具を所有した。後期(6世紀)は官僚的な役割を持つ王に、金色に輝く馬具や装飾付大刀が大王(ヤマト王権)から配布された。このほか各時期において、中国大陸や朝鮮半島と交流関係を示す国際色豊かな副葬品も出土している。

11.国宝「金銅製沓」 熊本県和水町 江田船山古墳出土 5~6世紀 東京国立博物館蔵

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 死者のための沓(くつ)で、全長34cm。金銅板を鋲で留めてたもので、朝鮮半島の百済で作られた。

12.国宝「金銅製鈴付大帯」 群馬県高崎市 綿貫観音山古墳出土 6世紀 群馬県立歴史博物館保管

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 鈴付大帯は石室右側の壁に沿って安置されていたので、死者の頭部に置かれていた。鈴の付いた帯の出土は国内で3例のみで、他の2ヵ所は奈良の藤ノ木古墳と山王金冠塚古墳(前橋)。長さ105cm、幅9.4cmで、20個の鈴が付いている。

 この他、金象嵌銘大刀や神獣鏡、耳飾りなどの展示あり。

■第2章 大王の埴輪
 
 ヤマト王権を統治していた大王の墓に立てられた埴輪は、大きさや量、技術で他を圧倒している。天皇の系譜に連なる大王の古墳は、時期によって築造場所が変わった。古墳時代前期は奈良盆地に、中期に入ると大阪平野で。倭の五王の陵(みささぎ)としても名高い大阪府の百舌鳥(もず)・古市古墳群は、世界文化遺産に登録された。後期には、継体(けいたい)大王(天皇)の陵とされる今城塚(いましろづか)古墳が淀川流域に築造されている

16.重要文化財「円筒埴輪」 奈良県桜井市 メスリ山古墳出土 4世紀 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館蔵 出典:ウキメディア・コモンズ

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 日本最大の埴輪。メスリ山古墳では、後円部中央の竪穴式石室を取り囲むように多数の巨大な円筒埴輪が立てられた。最大のもので、2mを上回るその高さ、大きさもさることながら、厚みは2cmほどしかない。

23.「水鳥形埴輪」 大阪府羽曳野市 誉田御廟山古墳 (応神天皇陵古墳)出土 5世紀 東京国立博物館

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 誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)は「応神天皇陵」とも呼ばれ、大仙陵古墳(仁徳天皇陵、大阪府堺市)に次ぐ全国第2位の規模の巨大古墳。「水鳥形埴輪」の高さは、61.8cm。

25.「家形埴輪」と26.「盾形埴輪」 大阪府高槻市 今城塚古墳出土 6世紀 高槻市立今城塚古代歴史館蔵

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 「家形埴輪」は、3つのパーツを組合せてつくられた巨大な家形埴輪(高さ170cmの日本最大)で、屋根の上部と床下の高床部分が別づくり。屋根の上には現代の神社建築にも通じる千木(ちぎ)や鰹木(かつおぎ)などの部材がのせられており、大王にふさわしい建物であることがわかる。
 古墳時代の盾は、主に革(かわ)や木などで作られていたが、「盾形埴輪」はそれを粘土でかたどった盾面部分が円筒部分に取り付けられている。

27.「捧げ物をする女子」と28.「挂甲の武人」 大阪府高槻市 今城塚古墳出土 6世紀 高槻市立今城塚古代歴史館

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 「挂甲の武人」は、今にも刀を抜こうとする瞬間。衝角付冑(しょうかくつきかぶと、前後に少し長い卵形の冑 )をかぶり、籠手(こて)や手甲まで着込んだ完全武装の埴輪である。今城塚古墳では祭祀区を中心に多くの武人の埴輪が置かれ、大王を死後も護る役割が与えられていた。

■第3章 埴輪の造形

 日本列島の幅広い地域で埴輪は作られた。地域ごとの習俗の差、技術者の習熟度、大王との関係性の強弱によって、表現方法に違いがある。その結果、各地域には大王墓の埴輪と遜色ない精巧な埴輪が作られる一方で、地域色あふれる個性的な埴輪も作られた。

29.「特殊器台・特殊壺」(左)岡山県新見市 西江遺跡出土 2〜3世紀 岡山県立博物館保管

30.「朝顔形円筒埴輪」(右)奈良県天理市 東殿塚古墳出土 3〜4世紀 天理市教育委員会 

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 「特殊器台・特殊壺」は、弥生時代後期後葉(2世紀)に吉備地方(岡山県)で生まれ、古墳時代前期には衰退した。華麗な文様を施し赤く塗るなどして装飾性に富んだ筒型・壺型の土器。埋葬祭祀に使用された。これらの土器類が発達・変遷して、円筒埴輪や朝顔形埴輪が生れたと考えられている。

 「朝顔形埴輪」は、広義の円筒埴輪に含まれる。器台の上に壺を載せた形状をしており、上部は口縁部が大きく朝顔の花が開いたようにラッパ状に広がっている。

31.「鰭付楕円筒埴輪」 奈良県天理市 東殿塚古墳出土 3〜4世紀 天理市教育委員会

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 円筒型埴輪に鰭(ひれ)がついたもの。よく見ると前後に船の絵が線刻されている。これらの船の絵は、後に出現する「舟形埴輪」と多くの表現が共通しているという。

33.国宝「円筒埴輪」 奈良県天理市 東大寺山古墳出土 4世紀 東京国立博物館

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 「円筒埴輪」は、墳丘の上に並べられた土管状の形態をしたもので、埴輪の中で一番早く登場した。れとは別種の埴輪として形象埴輪がある。

40.重要文化財「子持家形埴輪」 宮崎県西都市 西都原古墳群出土 5世紀 東京国立博物館

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 中心の大きな家(親)の周りに小さな建物(子)が4つ配置されているのは極めて珍しいという。中央の家は竪穴式住居、周りの建物は高床式建物となっている。

43.模造「船形埴輪」 原品:三重県松阪市宝塚1号墳出土 5世紀 九州国立博物館保管

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 高い側板と波切板で船底を深くし、外洋を航行できる。櫂(オール)受けや隔壁の表現は繊細で、船体中央には権威を象徴する蓋(きぬがさ)と呼ばれる日傘、王のもつ杖とされる威杖(いじょう)が2本、威厳を示す大刀(たち)が華々しく飾る。死者を乗せて冥土へ渡る船だろうか。

46.「馬形埴輪」 三重県鈴鹿市 石薬師東古墳群63号墳出土 古墳時代・5世紀 三重県埋蔵文化財センター保管

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 馬は、古墳時代に朝鮮半島から渡来して急速に普及し、農耕や軍事、儀式などに用いられた。馬形埴輪の大半は、数多くの馬具を身に付けた「飾り馬」。この埴輪は、頭部の表現が独特で、被りものか、たてがみを垂らした状態を表したと思われ、全国的に見ても例がない。

47.重要文化財「旗を立てた馬型埴輪」 埼玉県行田市酒巻14号墳出土 6世紀 行田市郷土博物館

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 戦闘用の馬の鞍から筒のような蛇行状の鉄器を付けて、旗竿を装着している。旗を立てた表現は日本で唯一の例となる。

48.重要文化財「天冠をつけた男子」 福島県いわき市 神谷作101号墳出土 6世紀 磐城高等学校保管

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 美豆良(みずら)を肩まで垂らしたヘアスタイルに、両手を前に捧げあぐらをかいて座る男性。三角形の冠(天冠)のひさしの先端には7つの鈴がゆれている。左腰には、大刀と弓を射る時の防具である鞆(とも)を下げた盛装。衣服や冠、頬紅をつけた端正な顔だち。王の葬祭に際して、威儀を正して霊前に拝礼する若き後継者の姿を表現しているという。

50.「あごひげの男子」 伝・茨城県出土 古墳時代 6世紀 東京国立博物館

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 長い髭を生やし、先の尖った帽子をかぶる。千葉県北部から茨城県南部にかけて見られる地域色豊かな埴輪。高さが173cmもある人物埴輪としては最大級の大きさ。

52.重要文化財「武装石人」 福岡県八女市 鶴見山古墳出土 6世紀 岩戸山歴史文化交流館保管

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 甲冑で身を固める武人で、腕を水平に広げ、近づくものを退ける姿勢をとる。阿蘇溶結凝灰岩で出来た埴輪で、重厚感にあふれる。筑後や熊本県北部の「石人」の分布は、この地域を支配した「筑紫君一族」勢力範囲を示しているという。

■第4章 国宝 挂甲の武人とその仲間

 埴輪として初めて国宝となった「挂甲の武人」には、同じ工房で作成された可能性も指摘されるほど、兄弟のようによく似た埴輪が4体がある。そのうちの1体は、現在アメリカのシアトル美術館が所蔵しており、今回5体の「挂甲の武人」を史上初めて一堂に集めて展示。

55.国宝「挂甲の武人」(左) 群馬県太田市飯塚町出土 6世紀 東京国立博物館蔵 出典:ウキメディア・コモンズ

61.彩色復元「挂甲の武人」(右) 製作:2023年 文化財活用センター 原品は、上記の55.

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 国宝「挂甲の武人」には、表面に色が塗られていた痕跡が各所に残っている。2017(平成29)年~2019(平成31)年に実施した解体修理に際し、詳細な分析を行った結果、白、赤、灰の3色が全体に塗り分けられていたことがわかった。このたび実物大で彩色復元を行い、製作当時の姿を展示する。

56.重要文化財「挂甲の武人」(左) 群馬県太田市成塚町出土 6世紀 (公財)相川考古館蔵

57.重要文化財「挂甲の武人」(右) 群馬県太田市世良田町出土 6世紀 天理大学附属天理参考館蔵

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58.「挂甲の武人」(左) 群馬県伊勢崎市安堀町出土 6世紀 千葉・国立歴史民俗博物館蔵

59.「挂甲の武人」(右) 群馬県太田市出土 6世紀 アメリカ・シアトル美術館蔵

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60.国宝「挂甲の武人」 群馬県高崎市 綿貫観音山古墳出土 6世紀 群馬県立歴史博物館保管

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 2020年(令和2年)に指定されたもうひとつの国宝「挂甲の武人」。突起の付いた特徴的な冑をかぶり、左手で弓を持ちう右手は大刀の柄頭に触れている。甲冑を着込んだこの武人は、身なりから被葬者自身を表わした可能性もあるという。また背中側には、完全には残っていないが靫(ゆぎ)という矢の入れ物が付いていたと考えられ、復元されている。

 この後、■第5章 物語をつたえる埴輪 以降は、本ブログ記事「国立東京博物館「はにわ展」(その2)」に続く。

 

 ★ ★ ★

 埴輪の最高傑作「挂甲の武人」(群馬県太田市飯塚町出土)は、1958年(昭和33年)重要文化財に指定された後、1974年に埴輪で初めて国宝に指定された。しかし、同じ工房で製作されたと考えられ、「きょうだい」と称される4体が国内、アメリカに存在していた。今回、初めて5体の「挂甲の武人」が勢ぞろいした。今回の特別展の目玉展示である。

 「挂甲の武人」は、小札(こざね)と呼ばれる小札状の鉄板を重ねた甲(よろい)を身に着け、左手に弓、右手に大刀を持つ。背負っている靫(ゆぎ)には矢を入れている。「挂甲の武人」の埴輪のほとんどは、他の埴輪に比べて顔以外は写実的な作りをしており、不思議に思っていた。最近、身分の高い権力者か埋葬された人物がモデルとされているためだと知り納得できた。

 2020年(令和2年)に群馬県高崎市の綿貫観音山古墳出土の埴輪群が国宝となるまでは、群馬県太田市飯塚町出土の「挂甲の武人」は、唯一の国宝埴輪であった。群馬は「埴輪王国」と呼ばれ、古墳時代の東国文化の中心地であったことが、改めて認識した。

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