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2024年10月の1件の投稿

2024年10月27日 (日)

野火止用水を歩く

 2024年10月24日(木)、埼玉県新座市の「野火止用水」に沿って約10Kmのコースを歩く。


 東武東上線「志木駅」南口を10:30出発。

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 鉄腕アトムがコースを案内。

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 駅から住宅街を通る「野火止用水」は、暗渠(あんきょ)。

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 やがて用水路が現れるが、水量は少ない。

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 用水路に架かる小橋を渡ると、そこは「野火止用水公園」。

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 「野火止用水公園」を通り抜け、川越街道(国道254号線)に架かる歩道橋(野火止用水緑道橋)を渡る。

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 歩道橋を渡るとすぐに「野火止公園」。公園の前に立つ「埼玉県指定史跡 野火止用水」の石碑には冒頭、次のような内容の和歌がある。

 「聞かでしも 其の名はしるし 玉河の 流れの末の いとど澄めれば」

 1811年(文化8)、吉田藩主・松平信順(のぶより、松平信綱の嫡流で8代目)は信綱の150回忌に墓所のある「平林寺」を訪ね、著作「野火止紀行」の中に、「野火止用水」の清らかな流れを詠んでいる。「玉河」は「玉川」、つまり「多摩川」のこと。

 

 

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 吉田藩(愛知県豊橋市)は7万石を領する三河最大の藩であった。東海道の要衝にあったため、譜代大名が配置された。江戸時代後期の約140年間は、大河内松平家が7万石で治めた。同家は松平信綱を祖とする譜代大名で、代々の藩主は伊豆守を名乗った。信綱をはじめ、信祝(のぶとき)、信明(のぶあきら)、信順の四人が老中を務め、最後の藩主信古(のぶひさ)も幕末の混乱期に大阪城代を務めるなど、譜代大名としての重責を担った。 

 子どもの遊具がある「野火止公園」で、11:50~12:25休憩・昼食。

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 「野火止公園」の脇を流れる「野火止用水」。

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 「野火止用水」に沿って「野火止用水緑道」を歩く。

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 「野火止緑道」は、左手の広大な「平林寺」の境内林と「野火止用水」が一体となっている武蔵野の風情を色濃く残す遊歩道として、多くの市民やハイカーに親しまれている。

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 「平林寺」の広大な境内林が終わり「陣屋通り」に架かる「伊豆殿橋」。

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 やがて「野火止用水」は、フェンスの下を走る関越自動車道の上をまたぐ「掛樋(かけひ、かけとい)」と呼ばれる水道橋を流れる。

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 ここから「本多緑道」。「野火止用水」の清流に沿って春には数多くの桜が咲き乱れるという。

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 「本多緑道」のあたりの「野火止用水」は、昔ながらの素掘りで築かれ、春になると山桜やソメイヨシノなどの桜の名所としても知られている。また緑道の右手一帯には「本多の森」が広がる。その一角の「本多の森お花畑」には、夏にはヒマワリ、春には菜の花が咲き、自然を満喫できる遊歩道となっている。更に森の先には、スポーツ施設の「新座市総合運動公園」がある。森の中のマレットゴルフ場で休憩。

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 13:35「野火止用水」分岐点。左は本流、右の「平林寺堀」の方向に折り返す。

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 「平林寺」の境内に向かって流れる「平林寺堀」に沿って、「野火止史跡公園」の細い道を歩く。

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 史跡公園の石碑には「平林寺林泉二ソソグ野火止用水…史跡景観保存地域ニ依り大切…管理スベキ事 昭和十九年二月 埼玉縣」とある 。よく読めないが、太平洋戦争中の1944年(昭和19)に埼玉県が建てたもの。

 「西屋敷通り」を歩くと、右手の歩道と用水は道路よりも高い所を流れている。地形の高低差の関係で「築樋(つきどい)」と呼ばれる土手を築いて、その上に水路を開削するという工事が約800m続いている。写真は、Googleマップより転載。

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 このあたりは、用水路を道路が横切るたびに水は道路の下をくぐって、また高い位置に続く。また水路が道路右側から左側に、道路をくぐって移動する。このようなサイフォンの原理で水を通しているのは、明治以降の工事による。

 関越道を越えた用水は、バス通りから離れて「平林寺」に向かう。

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 用水からしばし離れて 「新座市保健センター」の建物の中にある「新座市立歴史民俗資料館」(愛称:れきしてらす)に寄る 。14:00~14:30、見学・休憩。

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 「歴史民俗資料館」は、新座市の歴史、民俗、考古などに関する資料の収集や保存、展示する施設。片山一丁目にあった旧資料館は閉館し、2023年(令和5年)4月に「保健センター」との複合施設として野火止二丁目に開館した。

 ワンフロアーに原始時代の石器・土器から始まり、古代・中世を経て、近世・江戸時代に開削された「野火止用水」に関わる新田開発関連資料などの各種資料や、昭和30年代まで新座の中心産業であった農業に関連した生産・生活用品、伝統芸能の「中野の獅子舞」の資料などの民俗資料が展示。

 臨済宗「平林寺」の総門前を歩く。入山せず。

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 「平林寺」は、南北朝時代の1375年(永和元)、現在のさいたま市岩槻区大字平林寺に創建。1663年(寛文3) 川越藩主・松平信綱の遺志をうけて、子の輝綱が菩提寺として野火止台地に移転した。約40haの広大な境内を有し、武蔵野の面影を残す雑木林として、1968年(昭和43)に国の天然記念物に指定。松平信綱夫妻墓(埼玉県指定史跡)がある。

 「平林寺境内林」の国の天然記念物のほか、「睡足軒(すいそくけん) 」(国の登録有形文化財)、1,000坪の広さを有する池泉廻遊式庭園 の「平林寺林泉境内」(県指定名勝)、総門、山門、仏殿、中門などが県指定有形文化財に指定されている。「平林寺」の紅葉は有名で、赤、黄、緑の彩りの美しさが特徴。「平林寺」の総門前から「平林寺大門通り」を北へ60m程先、道路の対面に「睡足軒の森」がある。

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 「睡足軒の森」は「平林寺境内林」の一画で、武蔵野の雑木林の面影を残す。2002年(平成14)「平林寺」から新座市へ無償貸与され、一般に開放されている。 園内には、「睡足軒」(下の写真)がある。松永安左エ門(松永耳庵)が、もともと飛騨高山周辺に建てられていた江戸後期の民家を1938年(昭和13)に当地へ移築し草庵とした。

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 安左エ門は、長崎県壱岐出身。明治末期から昭和にかけて長く電力業界で活動した実業家で、茶人としても著名。「睡足軒」に親しい友人を招き、「田舎家の茶」を楽しんでいた。

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 新座市役所前の信号を左折、「こもれび通り」「川越街道」を経て、JR武蔵野線「新座駅」南口に15:35到着。

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 ★ ★ ★

●野火止用水

 「野火止」という地名は、その昔、焼き畑が行われた頃にその火が人家に及ばないように、塚や堤を築いて止めた「野火止塚」に由来し、「のびどめ」または「のびとめ」と読む。

 「野火止用水」は、1655年(承応4年)に川越藩主・松平伊豆守信綱が、江戸の上水道である「玉川上水」を完成させた功績により許可を得て、家臣の安松金右衛門に命じて武蔵野開発の一環として「玉川上水」(東京都小平市)に7分、「野火止用水」3分の割合で分水した。用水の開削は、野火止台地を経て新河岸川に至るまで全長24Km。工期40日、費用は3000両。野火止の開拓民や移転してきた「平林寺」や「陣屋」等の貴重な飲料水・生活水として使われた。

 開削に前後して川越藩では農民や家臣を多数入植させ、灌漑用水として大規模な新田開発も行った。「野火止用水」の開削によって人々の生活が豊かになったことを信綱に感謝し、信綱の官位である「伊豆守」にあやかって「伊豆殿堀」と呼ぶようになったという。

 なお、松平信綱の孫・松平信輝が下総古河に移り、替わって川越城に入った柳沢吉保がその後甲府城へ移ると、信綱の弟で高崎城主松平輝貞が、周辺の知行と近くの菩提寺「平林寺」を守るために、1704年(宝永元年)が「陣屋」を構え、家臣を住まわせたという。「陣屋堀」跡は「平林寺堀」と同様、「野火止史跡公園」から分水し現在の「水道道路」を通って「陣屋バス停」付近に達していた。

 太平洋戦争中の1944(昭和19)年には、「史蹟名勝天然記念物法」に基づき埼玉県指定史跡となっている。しかし、戦後の1949(昭和24)年頃から生活様式が変化すると、生活排水が用水に入って汚染が始まり、飲料水や生活用水としての利用が問題になった。特に1963(昭和38)年頃から宅地化が進み、水質汚染が激しくなる。さらに1964年(昭和39)関東は大干ばつに見舞われ、東京が水不足で「野火止用水」への分水が中止された。

 写真は、新座市教育委員会のパンフ「のびどめ用水を歩く」から転載。

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 1966(昭和41)年、再度通水されるようになるが水量が制限、水質汚染は改善されず、1973(昭和48)年には東京都の水事情の悪化によりついに玉川上水からの取水が停止。次第に用水路には蓋がされ、暗渠化されていくようになる。

 しかし、歴史的にも貴重な「野火止用水」をよみがえらせようとの住民の機運が高まり、東京都は1974(昭和49)年には都内の「野火止用水」とその周辺の緑地が「東京都における自然の保護と回復に関する条例」に基づき「野火止用水歴史環境保全地域」に指定、保護されることとなった。下水処理水をさらに浄化した高度処理水を流水に活用する「清流復活事業」を実施した。

 埼玉県と新座市は、文化的業績の大きい「野火止用水」を滅ぼしてはならないと「野火止用水復原対策基本計画」を策定して、用水路の浚渫(しゅんせつ)や氾濫防止のための流末処理対策を実施。1984(昭和59)年には「野火止用水」に流水がよみがえり、現在に至っている。新座市では「野火止用水クリーンキャンペーン」として、例年8月に学校、市民や団体による清掃活動を行い、「野火止用水」への愛護啓発・世代間交流・ボランティアのネットワーク拡大を図る活動も行っているという。

 「野火止用水」は、「野火止用水史跡公園」(新座市本多1丁目)で本流と「平林寺」へ分岐する「平林寺堀」と「陣屋堀」(現在は廃止)に分かれる。また現在は、関越自動車道を「掛樋(かけひ)」で越えている。新座市野火止付近から志木駅周辺は、暗渠となっている。
 

●松平信綱

 源氏の流れを引くという三河国大河内郷の大河内氏は、大河内信貞のとき徳川家康に仕えた。その子は秀綱。孫の正綱(秀綱の次男)は、家康の命で徳川氏一族の長沢松平家(松平氏の庶流)の養子となって松平姓を与えられ、以後は大河内松平家となった。

 信綱は、大河内秀綱の長男で家康の家臣・大河内久綱の長男として、1596(慶長元)年に武蔵国に生まれた。6歳にて自ら望んで叔父(久綱の弟)・松平正綱の養子となり、江戸幕府第3代将軍となる家光の小姓として出仕、そのまま老中まで登り詰めた。家光亡き後も第4代将軍家綱の老中として留任、幕藩体制の完成に大きく貢献した。幕政下では「島原の乱」鎮圧、「明暦の大火」処理、また第5代川越藩主として「玉川上水」「野火止用水」の掘削等を行い、数々の優れた手腕は「知恵伊豆」と称えられた。

 信綱の遺言により、岩槻にあった「平林寺」は野火止の地に移され、信綱の興した大河内松平家の祖廟となった。廟所は約3,000坪。信綱夫妻の墓(埼玉県指定史跡)を含む160基余りの一族の墓石が、この地を見守るように並んでいる。写真は、2014年11月26日に筆者撮影の松平信綱夫妻の墓。

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 信綱は、「島原の乱」の幕府軍総大将として鎮圧の勲功を賞され、1639年(寛永16)1月には3万石加増の6万石で、川越藩に移封された。更に信綱は、城下町川越の整備、江戸とを結ぶ新河岸川や川越街道の改修整備、「玉川上水」や「野火止用水」の開削、農政の振興などにより藩政の基礎を固めた。また、キリシタン取締りの強化や武家諸法度の改正、ポルトガル人の追放を行い、オランダ人を長崎の出島に隔離して鎖国制を完成させた。

 1638年(寛永15)11月に土井利勝と酒井忠勝が名誉職である大老に就任すると、信綱は老中首座になって幕政を統括した。1639年(寛永16)8月に江戸城本丸が焼失すると、その再建の惣奉行を務めた。1651年(慶安4年)4月の家光没後はその息子で第4代将軍となった徳川家綱の補佐に当たり、1657年(明暦3)1月の明暦の大火などを対応。1662年(寛文2)3月に老中在職のまま死去した。享年67(満65歳没)。

 松平信綱とその子孫は代々「松平伊豆守」を名乗り、下総古河藩・三河吉田藩と移りながら老中を何人か輩出した。信綱の五男・信興は下総土浦藩に封ぜられ、養子輝貞からは上野高崎藩主として幕末に至った

 

●鉄腕アトム

 手塚治虫の「手塚プロダクション」は1988年(昭和63)、新座市にアニメ制作「新座スタジオ」を建て、本社の高田馬場から制作部門が 引っ越して来た。手塚の自宅は東久留米市だが、距離が近くて環境の良い新座は、「平林寺境内林」や近郊の雑木林を大変気に入っていたという。スタジオを建てた翌年の1989年(平成元)、手塚は60歳で早世した。

 新座市は2003年(平成15)、鉄腕アトムを特別住民に登録している。また、JR武蔵野線「新座駅」の発車メロディは、山手線「高田馬場駅」と同様に音色は異なるが、テレビアニメ『鉄腕アトム』の主題歌が使われている。

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