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2024年7月 3日 (水)

八王子城跡ー居館地区

 2024年6月28日(金)八王子博物館と八王子城跡に行く。

 

 本ブログ記事「八王子博物館」の続き。

 「八王子博物館」を出て、道の駅「八王子滝山」で昼食。予定していた「滝山城趾」の散策は、雨が強くなってきたため中止。

 12:30道の駅を出て、13:00「八王子城跡ガイダンス施設」の駐車場へ入る。

 

●八王子城跡ガイダンス施設 13:05~15:30

 「八王子城」の歴史や城主・北条氏照について、映像やパネルで紹介。

 13:05施設に入館(無料)し、ボランティアガイドと合流。施設内の展示物を案内してもらう。

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 発掘調査で「御主殿跡」から出土したベネチア産のレースガラス瓶(複製)。どのように持ち込まれたか分からないが、氏照が愛用した物か?

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 「御主殿」の入口「虎口」とその周辺で多数見つかった土製の玉。近年の研究で「まきびし」であることが分かった。

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 「八王子城跡」から出土した中国・明からの輸入磁器と国産陶器。

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 「滝山城」のジオラマ。

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 「八王子城」のジオラマ。

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 13:25~15:05、屋外に出て、雨の中の「八王子城跡」をガイドの案内で散策。

 駐車場から一段上がった所に「屋外模型広場」。東屋の下に「八王子城」の地形模型がある。

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 中央の赤い札が、現在地。

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 右上に「本丸」などのある山頂付近。下の谷の部分に城主の居館「御主殿」がある。

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 「屋外模型広場」を出て、この道を直進し、急な山道を登ると「金子曲輪」を経由して山頂付近にある「本丸」に至る。

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 本日は雨ののため「本丸」のある「要害地区」へは中止し、「御主殿」跡がある道路左手の「居館地区」に向かう。

 「アシダ曲輪」跡は、私有地につき出入り禁止。ボランティアガイドと一緒でなければ見学できない。

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 城山(しろやま)川に沿って、細い山道を進む。

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 城山川を渡る。

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 「大手門前広場」。発掘調査で、この右手の階段の先に「大手門」があったことが確認されている。

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 当時、「御主殿」へ入る道として使われていた「古道」(大手道)の堀切に架かる木橋が見える。

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 「古道」を登ると復元した大きな「曳橋」(ひきばし)が見えてくる。

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 「曳橋」の下に見える山道は、江戸時代に作られた林道らしい。

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 「曳橋」の先には、何段かの石積みがあり「御主殿」至る「虎口」が見える。しかし当時こんな大きな「曳橋」が実際あったのだったのだろうか、疑問が残る。

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 「御主殿」の入口である「虎口」(こぐち)の石垣や石畳は、当時のものをそのまま利用し復元されている。石段の高さが高く、奥行きが広くて、とても登りずらい。

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 階段の踊り場の部分には、「櫓門」があったという。

 「虎口」は鉤型に曲がって、「冠木門」がある。出典:ウキメディア・コモンズ

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 「冠木門」をくぐると、広い曲輪に「御主殿」跡のレプリカの礎石。発掘された実際の礎石は、保存のため埋め戻されているという。

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 「御主殿」は、城主の北条氏照が居住した館。落城後は幕府直轄領や明治以降は国有林だったので、当時のままの状態で残っていたという。発掘調査の結果、多数の遺物が出土した。この曲輪から、茶道具や当時珍しかったベネチア産のレースガラス器の破片が見つかっている。

 要人の接待、宴会などを行った「会所」跡の床を復元。

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 「会所」から右上に入口の「冠木門」が見える。

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 「御主殿」の西側、「会所」の南側にある池や枯山水のある庭園の跡。

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 会所の南側にあるスペースは能舞台の跡か? 手前は敷石の通路。

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 「御主殿」跡を出て、城山川の「御主殿の滝」は、雨天のためすごい水量。

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 1590年、豊臣秀吉方の攻撃により「八王子城」は落城した。その際に「御主殿」にいた女、子供達が滝の上で自刃したと伝わっている。滝の水は三日三晩赤く染まったといわれている。

 15:05管理棟のある「八王子城」の入口に戻る。ガイド終了。

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 「ガイダンス施設」で休憩、ビデオを鑑賞。

 15:30「ガイダンス施設」を出発、帰路へ。

 

 ★ ★ ★

●八王子城の築城

 「滝山城」は、北条氏の三代目・氏康(うじやす)の三男・北条氏照(うじてる)の居城として知られており、多摩川や秋川を堀に利用した天然の要害で、関東随一の規模を誇った。「滝山城」は、木曽義仲の末裔で山内上杉氏の重臣である武蔵国守護代・大石定重が、1521年(永正18年)に築いたとされ、「高月城」(八王子市高月町)から移転して来たと伝えられている。

 1546年(天文15年)、関東管領・上杉憲政氏康に「河越城の戦い」で大敗し没落すると、氏康は武蔵一帯の支配を進め、定重の子・定久は氏照を娘婿に迎えて事実上、大石氏は北条氏の軍門に下った。

 1569年(永禄12年)の「滝山城の合戦」では、小田原攻撃に向かう武田信玄がおよそ2万に対し北条勢はわずか2千程と戦力差は歴然、武田勢に二の丸門まで肉迫、落城寸前にまで追い込まれた。たが、「滝山城」を最後まで打ち崩すことはできず、見事に北条勢が「滝山城」を守り抜いた。その後、天下統一を目差す豊臣秀吉に対抗するため1582年(天正10年)頃、氏照は「八王子城」の築城を開始し、1587年(天正15年)頃に「滝山城」から拠点を移した。

 標高445mの深沢山(現在の城山)に築城された山城「八王子城」は、北条氏の本城である「小田原城」支城であり、関東の西に位置する軍事上の拠点となった。平安時代、深沢山の麓、華厳ヶ谷に庵を結んだ僧・妙行(称号:華厳菩薩)が、山頂で修行中に「牛頭(ごず)天王」と8人の王子が現れたとして916年(延喜16年)に「八王子権現」を祀ったことから、「八王子城」と名付けられた。

 氏照が構想していた「八王子城」の城郭は壮大で、落城時はまだ未完成の状態であったと考えられている。城は大まかに、家臣団の屋敷や寺院など城下町に当たる「根小屋地区」(ガイダンス施設の付近から城山東側の麓)、城主氏照の館のあった「御主殿跡」などの「居館地区」、戦闘時に要塞となる本丸がある「要害地区」に分かれている。

●八王子城の落城

 小田原征伐の一環として1590年(天正18年)、「八王子城」は天下統一を進める豊臣秀吉の軍勢に加わった上杉景勝、前田利家、真田昌幸らの部隊1万5千に攻められた。当時、城主の氏照以下家臣は小田原本城に駆けつけており、八王子城内には城代・横地吉信や家臣らわずかの将兵の他、領内から動員した農民と婦女子を主とする領民を加えた約3千が立て籠った。激しい戦闘の末、城は1日にして陥落した。

 城代の横地吉信は落城前に檜原村に脱出したが、小河内村付近にて切腹している。氏照正室の比左を初めとする城内の婦女子は自刃、あるいは「御主殿の滝」に身を投げ、滝は三日三晩、血に染まったと言い伝えられている。麓の村では、城山川の水で米を炊けば赤く米が染まるほどであったと伝えられる。現代でも受け継がれている風習として、先祖供養に小豆の汁で赤飯を炊くことは、この逸話がもとになっているといわれている。

 この「八王子城の攻防戦」を含む小田原征伐において北条氏は敗北し、城主の北条氏照は兄・氏政とともに切腹した。のちに新領主となった徳川家康によって「八王子城」は廃城となった。

 2004年(平成16年)に、城山要害部の西端直下を通る圏央道の「八王子城跡トンネル」が竣工。2006年(平成18年)、「日本100名城」(22番)に選定された。

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