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2024年7月の3件の投稿

2024年7月25日 (木)

八島湿原と車山肩

 2024年7月22日(月)、長野県下諏訪町、諏訪市の「八島湿原」を散策し「車山肩」に寄る。

 「八島湿原」は、長野県のほぼ中央に位置する「八ヶ岳中信高原国定公園」中部の「霧ヶ峰」高原の北西部に位置する標高約1632mの高層湿原。湿原の所在地は諏訪市及び下諏訪町にまたがる。苔や湿地の生き物の宝庫で、総面積43.2ヘクタールの高層湿原。国の天然記念物・文化財に指定されている。

 

 上信越道から中部横断道の佐久南ICを9:45に下り、国道142号線(一部国道254号と重複)を西に向かって走る。

 10:05、立科町の道の駅「女神の里たてしな」で休憩。販売所「農ん喜村(のんきむら)」は、新鮮なトウモロコシなど地元産の野菜、立科町産の加工食品、オリジナル商品も並ぶ。

 道の駅を出て35分後、国道142号線(旧中山道)を南西に進むと「通行止め」の看板あり。長和町の大和橋Y字路を左に曲がり、「大門街道」(国道152号線)の諏訪・白樺湖方面に迂回。大門峠で右折して 霧ケ峰の表示のある「ビーナスライン」(県道40号線)に入る。「ビーナスライン」のドライブルートは、高度を上げながら開放感あふれる高原のすばらしい絶景が広がる。

 11:15、「白樺湖展望台駐車場」で休憩。展望台から「白樺湖」と「蓼科山」を望む。

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 「蓼科山」は、八ヶ岳連峰の北端に位置する標高2,531m火山。コニーデと呼ばれる台地状の火山に、美しい円錐型のトロイデを重ねた複式火山。別名「女の神山(めのかみやま) 」や「諏訪富士」の別名を持つ

 「八ヶ岳連峰」の全容を身近に展望。

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 県道194号線の「ビーナスライン」を経て、11:40「八島湿原」の駐車場(普通乗用車約100台、無料)に到着。平日だが混んでいて、3、4台の車列に並んで何とか駐車できた。

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 左手の建物が、下諏訪町立の「八島ビジターセンターあざみ館」。右手は、みやげ・宿泊・食事の「八島山荘」。

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 12:05、ビジネスセンターを見学。「八島湿原」のジオラマ、断面模型による形成の成り立ち、高原に生きる動物や鳥たちや亜高山植物を紹介。「霧ヶ峰高原」一帯には、人が居住していたとされいて旧石器時代の遺跡が多く、黒曜石の石器が大量出土する国内有数の黒曜石の産地。また2階では四季折々の自然の姿をビデオで放映。

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 12:15、ビジターセンターを出て、「ビーナスライン」(県道194号線)の下をくぐり、「八島湿原」の入口「八島湿原展望台」広場へ。

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 広場の端の木陰で昼食。

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 広場には、『あざみの歌』の歌碑があった。「山には山の愁いあり 海には海のかなしみや」の『あざみの歌』は、1949年(昭和24年)にNHKラジオ歌謡で発表。作曲は『さくら貝の歌』で知られる八洲秀章。作詞は『さよならはダンスのあとに』、『下町の太陽』などを手掛けた横井弘。

 横井は、戦後に転居した長野県下諏訪で、自然散策をしながら15編余りの詩をしたためた。野に咲くアザミの花にみずから思い抱く理想の女性の姿をだぶらせて綴った、最も気に入った一編が「八島湿原」で書かれた『あざみの歌』だったという。

 広場から「八島湿原」を展望。

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 12:45、「八島湿原展望台」広場を出発、木道を歩く。1周約3.7㎞。高低差もあまりなく、2/3は木道。途中には休憩所もあり、90分くらいで散策が楽しめる。

 時計廻りで木道を歩き始めてすぐの「八島ヶ池」。

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 正面の山は「車山」、気象レーダーが小さく見える。

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 13:05、「鬼ケ泉水(おにがせんすい)」の近くで、休憩。

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 ニッコウキスゲ、アヤメ、ノアザミ、シシウド、コバイケイソウの花もチラホラ咲いている。 ここのニッコウキスゲは、盛りを過ぎた感じ。

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 「八島湿原」の中で一番大きい「鎌ケ池」。

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 この木道の先は、現在休止中の「奥霧小屋」と「奥霧キャンプ場」、トイレの建物がある。

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 13:15、トイレ休憩。トイレはバイオトイレで、チップ制。

 近くに『山小舎の灯』の歌碑(1988年建立)があった。この歌は戦後まもない1947年(昭和22年)に発表された。作詩、作曲したのは米山正夫。歌ったのは近江俊郎。ラジオから流れたその曲は、たちまち知れ渡りヒットした。

 『山小舎の灯』の歌詞では、「暮れゆくは白馬か穂高は茜(あかね)よ」のように、北アルプスの山々と山小屋の情景が歌いこまれている。しかし「八島湿原」には歌の舞台ではなく、モデルになった山小屋もない。どのような経緯でこの地に歌碑が設置されたのか不明だそうだ。

 遊歩道には「鹿よけのネット」が張られえており、その出入口が2個所ほどある。

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 しばらく林の中の木道を歩く。

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 再び視界が開け、湿原を一望。

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 14:00、ハート型の湿原を一周して、広場に戻る。14:15、駐車場を出発。

 「ビーナスライン」(県道192号線)を北上して和田峠の方へ向かおうとしたが、「通行止め」の看板、来た道を戻る。和田峠トンルのある国道142号の旧道区間で道路路肩の崩落が確認されたため、この旧道区間が全面通行止めとなっているらしい。 

 二度の迂回のたため1時間近くのロス。次に予定していた「権現の湯」(立科町)で汗を流すのは、割愛。

 14:45、「ビーナスライン」沿いの「車山肩」の駐車場(180台、無料、一部有料)に車を駐める。ちょうどニッコウキスゲが満開。

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 「車山」の山頂に設置された「車山気象レーダー観測所」が見える。

 ここはニッコウキスゲが群生しているが、ロープが張られ、電気柵が設置されていて近づいて撮影できないのが残念。

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 「車山」は、長野県茅野市と諏訪市の市境に位置する「霧ヶ峰」の最高峰、標高は1925mで、日本百名山。諏訪市にある「車山肩」は、「車山」への登山口で標高1,800m。バス停や駐車場がある。ここから「車山」山頂までゆっくり歩いて45分ほど。13年前に登ったことがある。

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 丘の上から、車山と反対方向(西の方角)を望む。

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 車山肩の売店のソフトクリームは人気があるそうで、買って食べたがちょと高い(460円)。

 15:25、「車山肩」を出発、中部横断道へ。途中上信越道の横川サービスエリア夕食用の「峠の釜めし」(1,300円)を購入。釜飯は、買うたびに値上がりしている。

 18:15、出発地に帰着。18:30帰宅。

 天気に恵まれ、快適な高原のドライブと涼しい湿原の散策、ニッコウキスゲを楽しめた。

  

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 「八ヶ岳北横岳・霧ヶ峰車山高原」  2011年9月26日 (月)投稿

  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/20110723-24-5f5.html

 

 ★ ★ ★

●ビーナスライン

 「ビーナスライン」は、茅野市街から蓼科湖、白樺湖、車山高原を経由して美ヶ原に至る観光道路。戦時中は国鉄茅野駅から郊外の花蒔(はなまき)という駅まで鉄道が敷かれていて、花蒔よりさらに山奥の鉄山から鉄鉱石を掘り出して、茅野駅を経由して神奈川県川崎にある製鉄所に運ばれていた。その鉄道は、1944年(昭和19)年に運用を始めたものの翌年の終戦と共に廃止されたそうだ。

 その線路跡に作った道路が「ビーナスライン」で、まず1963年(昭和38年)に茅野市街から蓼科湖までの道路が開通、その後順次路線が延びて、1981年(昭和56年)に「美ヶ原」まで全線が開通。開通当初は建設費用を賄うため有料道路で、7~8ヶ所の料金所があった。「ビーナスライン」の名前の由来は1968年(昭和43)年、有料道路が大門から強清水まで開通した際に「美ヶ原」までの有料道路全線の愛称を募集、その中から「ビーナスライン」が選ばれた。

 「ビーナスライン」から望める「蓼科山」を、歌人・伊藤左千夫が「信濃には八十の群山ありといへど女の神山の蓼科われは」とうたっている女の神を「ビーナス」と呼びかえ、「美ヶ原」の「美」も「ビーナス」に通じるものとして命名者の理由にあったそうだ。

 なお、立科町のあった道の駅「女神の里たてしな」は、町のシンボルである「蓼科山」が円錐形で優雅な山容から「女の神山」と呼ばれ、水面に映す高原の湖で神秘的な「女神湖」があることから名付けられたという。

●八島湿原と八島ヶ原湿原

 「八島ヶ原湿原」と「八島湿原」は、同じ場所を指している。正式名称は「八島ヶ原湿原」、一般的には「八島湿原」とも呼ばれている。湿原は面積が43.2ha、泥炭層の厚さは約8.05m。12,000年前に誕生した高層湿原であり、日本の高層湿原の南限にあたる。

 「霧ヶ峰」には、「八島ヶ原湿原」、「車山湿原」、「踊場湿原(池のくるみ)」の3つの湿原があり、それらは1939年(昭和14年)に国の天然記念物として個別に指定された。1960年(昭和35年)に「八島湿原」の西半分の旧御料地を加え、個別に指定されていた3つの天然記念物は1件にまとめられ、指定名称が「霧ヶ峰湿原植物群落」となった。

 高層湿原の始まりは、湖沼。周囲から土砂の流入、水生植物の繁茂などが起き次第に埋められていく。標高1,000m以上の場所や高緯度地方では寒冷な気候のため、植物は腐敗・分解がしにくく泥炭となって堆積。堆積物の溜まった湖沼に植物が侵入し、湖沼はやがて湿原に変わる。この段階の湿原を低層湿原という。低層湿原は、湿原の表面まで冠水。湿原の水は地下水と雨水などにより供給され比較的富栄養性である。

 しかし、長い年月がたつにつれて湿原は泥炭が蓄積され周囲よりも高くなる。そのため、湿原は地下水からの供給が行われず雨水のみで維持されるようになり貧栄養。高層湿原に生育している植物は、主にミズゴケ。これが、湿原全体を時計皿をふせたように盛り上げていく。このようにしてできた湿原を高層湿原と呼ぶ。

 1年に約1㎜ずつ成長している「八島ヶ原湿原」。12,000年の歴史を持つ湿原の主役ともいえる18種ものミズゴケをはじめ、シュレーゲルアオガエルなどの湿地の生き物や各種の亜高山植物が多く生息していている。湿原の主役ともいえるミズゴケの種類は18種にのぼり、「八島ヶ原湿原」の約490倍もある日本最大級の「釧路湿原」とほぼ肩を並べているという。

●旧御射山(もとみさやま)遺跡

 「八島湿原」を時計回りに2/3ほど回った南東の湿原の外れに、鎌倉時代の「旧御射山遺跡」(南北370m、東西270m)がある。この地は諏訪信仰の要地で、ここ「旧御射山遺跡」は江戸初期まで「諏訪大社下社」の狩猟神事「御射山(みさやま)祭」が行われた。「旧御射山(もとみさやま)神社」は、「諏訪大社」下社の奥宮。

 遺跡では、鎌倉時代の素焼き土器(かわらけ=神事等に用いる使い捨ての土器)や、陶器・古銭等が多数出土している。「諏訪大明神」(軍神)を祀る「御射山祭」では、諏訪・甲斐を中心に関東一円から武将や幕府重臣が集い、流鏑馬(やぶさめ)、草鹿(くさじし)、 武者競馬や相撲などの奉納試合を盛大に行ったそうだ。(草鹿=鹿の形をした的に離れたところから弓を引いて腕前を競う)

 諏訪大社の最古の縁起絵巻『諏訪大明神画詞』にあるように、中央の祭場と競技場を取り囲んで丘を削った階段状の桟敷が設けられており、10万人とも言われる人数が見物に集まったとされる。鎌倉・室町時代には、神官や武将たちがここに小屋を建てて5日間籠り、農作物の豊作を祈願したという。

2024年7月 3日 (水)

八王子城跡ー居館地区

 2024年6月28日(金)八王子博物館と八王子城跡に行く。

 

 本ブログ記事「八王子博物館」の続き。

 「八王子博物館」を出て、道の駅「八王子滝山」で昼食。予定していた「滝山城趾」の散策は、雨が強くなってきたため中止。

 12:30道の駅を出て、13:00「八王子城跡ガイダンス施設」の駐車場へ入る。

 

●八王子城跡ガイダンス施設 13:05~15:30

 「八王子城」の歴史や城主・北条氏照について、映像やパネルで紹介。

 13:05施設に入館(無料)し、ボランティアガイドと合流。施設内の展示物を案内してもらう。

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 発掘調査で「御主殿跡」から出土したベネチア産のレースガラス瓶(複製)。どのように持ち込まれたか分からないが、氏照が愛用した物か?

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 「御主殿」の入口「虎口」とその周辺で多数見つかった土製の玉。近年の研究で「まきびし」であることが分かった。

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 「八王子城跡」から出土した中国・明からの輸入磁器と国産陶器。

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 「滝山城」のジオラマ。

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 「八王子城」のジオラマ。

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 13:25~15:05、屋外に出て、雨の中の「八王子城跡」をガイドの案内で散策。

 駐車場から一段上がった所に「屋外模型広場」。東屋の下に「八王子城」の地形模型がある。

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 中央の赤い札が、現在地。

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 右上に「本丸」などのある山頂付近。下の谷の部分に城主の居館「御主殿」がある。

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 「屋外模型広場」を出て、この道を直進し、急な山道を登ると「金子曲輪」を経由して山頂付近にある「本丸」に至る。

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 本日は雨ののため「本丸」のある「要害地区」へは中止し、「御主殿」跡がある道路左手の「居館地区」に向かう。

 「アシダ曲輪」跡は、私有地につき出入り禁止。ボランティアガイドと一緒でなければ見学できない。

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 城山(しろやま)川に沿って、細い山道を進む。

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 城山川を渡る。

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 「大手門前広場」。発掘調査で、この右手の階段の先に「大手門」があったことが確認されている。

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 当時、「御主殿」へ入る道として使われていた「古道」(大手道)の堀切に架かる木橋が見える。

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 「古道」を登ると復元した大きな「曳橋」(ひきばし)が見えてくる。

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 「曳橋」の下に見える山道は、江戸時代に作られた林道らしい。

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 「曳橋」の先には、何段かの石積みがあり「御主殿」至る「虎口」が見える。しかし当時こんな大きな「曳橋」が実際あったのだったのだろうか、疑問が残る。

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 「御主殿」の入口である「虎口」(こぐち)の石垣や石畳は、当時のものをそのまま利用し復元されている。石段の高さが高く、奥行きが広くて、とても登りずらい。

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 階段の踊り場の部分には、「櫓門」があったという。

 「虎口」は鉤型に曲がって、「冠木門」がある。出典:ウキメディア・コモンズ

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 「冠木門」をくぐると、広い曲輪に「御主殿」跡のレプリカの礎石。発掘された実際の礎石は、保存のため埋め戻されているという。

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 「御主殿」は、城主の北条氏照が居住した館。落城後は幕府直轄領や明治以降は国有林だったので、当時のままの状態で残っていたという。発掘調査の結果、多数の遺物が出土した。この曲輪から、茶道具や当時珍しかったベネチア産のレースガラス器の破片が見つかっている。

 要人の接待、宴会などを行った「会所」跡の床を復元。

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 「会所」から右上に入口の「冠木門」が見える。

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 「御主殿」の西側、「会所」の南側にある池や枯山水のある庭園の跡。

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 会所の南側にあるスペースは能舞台の跡か? 手前は敷石の通路。

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 「御主殿」跡を出て、城山川の「御主殿の滝」は、雨天のためすごい水量。

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 1590年、豊臣秀吉方の攻撃により「八王子城」は落城した。その際に「御主殿」にいた女、子供達が滝の上で自刃したと伝わっている。滝の水は三日三晩赤く染まったといわれている。

 15:05管理棟のある「八王子城」の入口に戻る。ガイド終了。

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 「ガイダンス施設」で休憩、ビデオを鑑賞。

 15:30「ガイダンス施設」を出発、帰路へ。

 

 ★ ★ ★

●八王子城の築城

 「滝山城」は、北条氏の三代目・氏康(うじやす)の三男・北条氏照(うじてる)の居城として知られており、多摩川や秋川を堀に利用した天然の要害で、関東随一の規模を誇った。「滝山城」は、木曽義仲の末裔で山内上杉氏の重臣である武蔵国守護代・大石定重が、1521年(永正18年)に築いたとされ、「高月城」(八王子市高月町)から移転して来たと伝えられている。

 1546年(天文15年)、関東管領・上杉憲政氏康に「河越城の戦い」で大敗し没落すると、氏康は武蔵一帯の支配を進め、定重の子・定久は氏照を娘婿に迎えて事実上、大石氏は北条氏の軍門に下った。

 1569年(永禄12年)の「滝山城の合戦」では、小田原攻撃に向かう武田信玄がおよそ2万に対し北条勢はわずか2千程と戦力差は歴然、武田勢に二の丸門まで肉迫、落城寸前にまで追い込まれた。たが、「滝山城」を最後まで打ち崩すことはできず、見事に北条勢が「滝山城」を守り抜いた。その後、天下統一を目差す豊臣秀吉に対抗するため1582年(天正10年)頃、氏照は「八王子城」の築城を開始し、1587年(天正15年)頃に「滝山城」から拠点を移した。

 標高445mの深沢山(現在の城山)に築城された山城「八王子城」は、北条氏の本城である「小田原城」支城であり、関東の西に位置する軍事上の拠点となった。平安時代、深沢山の麓、華厳ヶ谷に庵を結んだ僧・妙行(称号:華厳菩薩)が、山頂で修行中に「牛頭(ごず)天王」と8人の王子が現れたとして916年(延喜16年)に「八王子権現」を祀ったことから、「八王子城」と名付けられた。

 氏照が構想していた「八王子城」の城郭は壮大で、落城時はまだ未完成の状態であったと考えられている。城は大まかに、家臣団の屋敷や寺院など城下町に当たる「根小屋地区」(ガイダンス施設の付近から城山東側の麓)、城主氏照の館のあった「御主殿跡」などの「居館地区」、戦闘時に要塞となる本丸がある「要害地区」に分かれている。

●八王子城の落城

 小田原征伐の一環として1590年(天正18年)、「八王子城」は天下統一を進める豊臣秀吉の軍勢に加わった上杉景勝、前田利家、真田昌幸らの部隊1万5千に攻められた。当時、城主の氏照以下家臣は小田原本城に駆けつけており、八王子城内には城代・横地吉信や家臣らわずかの将兵の他、領内から動員した農民と婦女子を主とする領民を加えた約3千が立て籠った。激しい戦闘の末、城は1日にして陥落した。

 城代の横地吉信は落城前に檜原村に脱出したが、小河内村付近にて切腹している。氏照正室の比左を初めとする城内の婦女子は自刃、あるいは「御主殿の滝」に身を投げ、滝は三日三晩、血に染まったと言い伝えられている。麓の村では、城山川の水で米を炊けば赤く米が染まるほどであったと伝えられる。現代でも受け継がれている風習として、先祖供養に小豆の汁で赤飯を炊くことは、この逸話がもとになっているといわれている。

 この「八王子城の攻防戦」を含む小田原征伐において北条氏は敗北し、城主の北条氏照は兄・氏政とともに切腹した。のちに新領主となった徳川家康によって「八王子城」は廃城となった。

 2004年(平成16年)に、城山要害部の西端直下を通る圏央道の「八王子城跡トンネル」が竣工。2006年(平成18年)、「日本100名城」(22番)に選定された。

2024年7月 2日 (火)

八王子博物館ー桑都物語

 2024年6月28日(金)八王子博物館と八王子城跡に行く。

 

 9:50八王子駅南口近くの駐車場へ入る。

 

●八王子博物館 10:05~10:55

 「桑都日本遺産センター  八王子博物館」は、JR八王子駅南口(八王子市子安町4丁目) の「サザンスカイタワー八王子」 3階にある博物館。2021年(令和3年)6月にオープン。愛称:はちはく。

 東京都内唯一の「日本遺産」として認定されたストーリー「霊気満山 高尾山~人々の祈りが紡ぐ桑都物語」と八王子の歴史・文化を紹介。

 八王子博物館のエントランス。入館無料、ボランティアガイドに案内してもらう。

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 テーマ展示ゾーンでは、八王子の歴史文化と日本遺産のストーリーを4つのテーマ➊~➍を紹介。

➊霊気満山 高尾山・・・歴史、信仰、自然や観光・行事。いろいろな角度から高尾山の魅力を紹介。

 高尾山は、動植物の玉手箱ームササビは高尾山の人気者。

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 高尾山は、戦国武将の祈りの山、戦略上も重要な山。江戸時代は大名も庶民も信仰した山。

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➋滝山城と八王子城・・・北条氏照(うじてる)の居城、「滝山城」と「八王子城」を紹介。

 氏照は、北条氏の領国支配と勢力拡大に重要な役割を果たした人物。

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 滝山城跡の投射模型。

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 八王子城跡の出土品ー北条氏照は、茶の湯や生け花をたしなむ戦国大名だった。

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 八王子市の名は、深沢山に祀られている「八王子権現」(八王子神社)に基づいている。下の「八王子」の文字を大きく鋳出した扁額。

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➌八王子のまちと人びと・・・甲州道中の宿場町として発展した八王子宿。まちの様子やそこに住む人々、幕府に仕えた「千人同心」について紹介。

 街道沿いに旅籠や店が立ち並び、旅人を迎えた。八日市宿の風景。

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 「千人同心」は元武田氏の家臣団。武田氏滅亡後は徳川家康に召し抱えられ、軍事面で支えた。家光死後は軍事動員がなくなり、日光火の番を主な任務とした。身分はあくまで百姓だが、幕末に入ると幕府直属軍として再び軍事面で支えた。

 「千人同心」の郷土調練。

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 「千人同心」に関する品々 -韮山笠、日光火の番の鳶口と手鎌。

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➍桑都と織物・・・古くから養蚕や機織りが盛んで「桑都」と呼ばれてきた。まちの発展を支えた織物業や、現在に伝わる伝統芸能などを紹介。

 八王子は、織物のまち。織物工場からは、織機の音が聞こえた。

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 「八王子祭り」では、真夏の甲州街道を山車や神輿が彩る。獅子舞などの個性豊かな伝統芸能が受け継がれている。

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➍交流コーナー・・・車人形や、機織りを体験できる。

 車人形と車仕掛けの箱に人形の遣い手が腰掛けて、前後左右に動けるようにし、両手両足を用いて人形をあやつる。

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 車人形の使い方の解説ビデオ。

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 明治時代に実際使われていた高機(たかばた)。

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 八王子博物館から八王子市滝山町にある東京都道169号淵上日野線(新滝山街道)の道の駅「八王子滝山」へ移動。

●道の駅八王子滝山 11:40~12:30

 2007年(平成19)4月開業。東京都内では、唯一の道の駅。

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 「道の駅八王子滝山」で昼食。降雨が強いため「滝山城跡」の散策は中止。

 次に、「八王子城跡ガイダンス施設」へ移動する。本ブログの記事「八王子城趾」へ続く。

 

 ★ ★ ★

●午頭天皇(ごずてんのう)

 牛頭天王は、日本における神仏習合の神。釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされた。京都東山祇園や播磨国広峰山(ひろみねさん)に鎮座して祇園信仰の神(祇園神)ともされ「感神院祇園社」(現在の「八坂神社」にあたる)から勧請されて全国の祇園社、天王社で祀られた。牛頭天王は、3尺の牛の頭をもち、また、3尺の赤い角もあったそうだ。

 北条氏照が城を築いた城山(しろやま)は、かつては深沢山(ふかざわやま)呼ばれた。この山に牛頭天王の8人の王子神である「八王子権現」(八王子神社)を祀り、「八王子城」と名づけた。 この城名が市名の由来であるという。

●桑都八王子

 「桑都」(そうと)とは八王子を指す美称。古くから養蚕や織物が盛んであったことを示している。「桑都」と呼ばれる由縁は、西行が詠んだという短歌

 浅川を渡れば 富士の雪白く 桑の都に青嵐吹く

にあるという。この歌は、江戸時代後期の随筆に記録されており、このころ栄えてきた八王子宿の織物市のにぎわいを背景に「桑都」と言い習わされてきた。日本で「桑都」と称されるのは八王子だけ。ちなみに桐生市は、「織都」という雅称がある。

 戦国時代には北条氏および徳川氏から軍事拠点として位置づけられて城下町となり、江戸時代には甲州街道の宿場町(八王子宿)として栄えた。絹織物産業・養蚕業が盛んであったが、特に明治以降は山梨県や長野県、群馬県(桐生市)、栃木県(足利市)などから鉄道により八王子に生糸が集積され、絹織物に加工された。絹織物や生糸は横浜鉄道(現在のJR横浜線)で横浜港に輸送され、当時の貴重な外貨獲得源として世界中に輸出された。

 明治初期までの八王子は、横浜とのつながりが強い。実際、1893年までは神奈川県に属していた。東京府(現・東京都)に移管された理由は定かではない。神奈川県知事が東京府へ譲渡したとも、東京府の水源となっている多摩川流域が神奈川県に属することは管理上で不都合が生じたとも。また1889年に新宿駅―立川駅で開業を果たした甲武鉄道(現・JR中央線)は、半年も経たないうちに八王子駅まで延伸。八王子から東京方面へと人と物が流れるようになり、東京との経済的な結びつきは強まっていった。

 八王子市は、23区を除く東京都内の全自治体のなかで最も人口が多く、現在およそ60万人。東京市(現在の東京23区)に次いで2番目に早く市制を施行した。面積は奥多摩町に次いで、東京都の市区町村で2番目に広い。

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