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2024年6月の7件の投稿

2024年6月30日 (日)

映画「九十歳。何がめでたい」

 2024年6月27日(木)、映画『九十歳。何がめでたい』を観る。
 

 昨年100歳を迎えた作家・佐藤愛子が、日々の暮らしと世の中への怒りや新しい時代への戸惑いを独特のユーモアでつづったベストセラー・エッセイ集『九十歳。何がめでたい』『九十八歳。戦いやまず日は暮れず』が映画化、6月21公開した。90歳を迎えた草笛光子が、エネルギッシュでチャーミングな佐藤愛子を熱演する痛快エンターテイメント。唐沢寿明が、 冴えない中年編集者の吉川をコミカルに演じる。

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 直木賞など数々の文学賞を受賞してきた作家の佐藤愛子(草笛光子)は、90歳を過ぎて断筆宣言して人づきあいも減り、新聞やテレビをボーッと眺める鬱々とした日々を過ごしていた。一方、大手出版社に勤める中年編集者の吉川真也(唐沢寿明)は、古い昭和気質がパワハラ、セクハラだと社内で問題となり、謹慎処分に。妻や娘にも愛想を尽かされ、仕事にプライベートに悶々とする日々。

 そんなある日、吉川の所属する編集部では佐藤愛子の連載エッセイ企画が持ち上がる。なんとしても企画を成功させたい吉川と、「書けない、書かない、書きたくない!」と断固拒否する愛子とのお互い一歩も譲らない「頑固者」どうしの攻防戦が繰り広げられる。

 以下6枚の写真は、『90歳。何がめでたい』のパンフレットより転載。

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 ようやく吉川を追い払ったが、情けなくうなだれる吉川の姿にほだされた愛子は、執筆を承諾する。ヤケクソで「いちいちうるせえ!」と、生きづらい世の中への怒りを歯に衣着せぬ物言いで綴った連載は、意図せず大反響を呼び、全国の書店で売れ行き№1に。愛子の人生は90歳にして大きく変わっていく。そして吉川も、妻と離婚して新しい人生を切り開こうと決意する。  

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 愛子と同じ家の2階に暮らす娘・響子役を真矢ミキ、吉川の妻・麻里子を木村多江が演じるほか、三谷幸喜、清水ミチコ、オダギリジョー、LiLiCo、石田ひかりらが出演。『老後の資金がありません!』(2021年10月公開 )などの前田哲監督がメガホンをとり、『水は海に向かって流れる』(2023年6月公開 )でも前田監督と組んだ大島里美が脚本を担当した。そういえば、昨年6月30日に観た『大名倒産』も前田哲監督だった。

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 書籍『九十歳。何がめでたい』は、2016年8月に小学館から刊行。『女性セブン』(同社)に連載されたエッセイに加筆修正したもの。自身の身体の不調、時代の進歩、悩める若い人たちについて書いているという。

 『九十八歳。戦いやまず日は暮れず』(2021年8月、小学館刊)は、その続編。自身の最後となるエッセイ集のタイトルは、夫が作った莫大な借金を一人背負い込んで奮闘する妻(愛子自身)の姿を描いた直木賞受賞作『戦いすんで日が暮れて』(1969年)を真似た借金は返済したけれど人生の「戦いはやまず」、今も「日が暮れていない」という愛子の人生の実感だそうだ。

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 ★ ★ ★

●暴れ猪

 佐藤愛子は、90歳の時に長い作家生活の集大成として『晩鐘』(文藝春秋、2014年12月)を書き上げた。その時のインタビューで「書くべきことは書きつくして、もう空っぽになりました。作家としての私は、これで幕が下りたんです」(女性セブン)と語った。一度は下ろした幕を再び上げて始まった連載『九十歳。何がめでたい』は、現代の世相に噛みつく様子が「暴れ猪」のように見えるという。自らを「暴れ猪」と自称する生き方は、 映画の中でも吉川に「私は暴れ猪だから・・・」と言うシーンがある。

 愛子は大正12年(1923年)の生れ、「癸亥(みずのとい)の年」。「十二支」は、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の12種類。「十干」(じっかん)は、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10種類からなり、これらを合わせて60種の「干支」がある。中国の陰陽五行説に基づいた占術「四柱推命」で、「干支」からその人の性格・本質が分かるそうだ。

 「癸亥生まれ」の性格や特徴は、乱暴な性格の持ち主。無茶苦茶な行動や常識はずれの言動が多い。ときにはお茶目でお調子者のようで、人気もあるが、憎まれることもあるという。本心はいたって正直で曲ったことを嫌、ウソがつけない。平常は温厚で努力家であり、成功する人が多いという。

 「暴れ猪」生まれの愛子と「頑固」な所が似た者同士で、がむしゃらに猪突猛進の編集者・吉川も「癸亥の年」かと思いきや、大正12年の次の「癸亥の年」は60年後の昭和58年(1983年)生れ。吉川とは年齢が合わないので、思い違いだった。草笛光子は、愛子の「暴れ猪」を見事に演じている。

●いい爺さん

 映画の中で吉川が、「いい爺さんになれますかね?」と愛子先生に尋ねると、「いい爺さんなんてつまらない。面白い爺さんになりなさい!」と言う。脚本の大島里美のセリフだそうだ。 「いいお爺さん」や「元気なお爺さん」と「面白いお爺さん」とは、何が違うのか? 死ぬまで、自分に何かを課して、目標・目的を持って生き続けることだろうか? 幾つになっても、生き生きと生きられるのは素晴らしい。

 この映画のラストは愛子が旭日小綬章を受章して、大爆笑の記者会見のシーンで終わる。そして彼女が、吉川への感謝と励ましを贈る。これは前田監督の中高年男性へのエールでもあるともいう。佐藤愛子は、著書『九十歳。何がめでたいの中で、人間は「のんびりしよう」なんて考えてはダメだということが、九十歳を過ぎてよくわかりました」と書いているそうだ。

2024年6月15日 (土)

金沢探訪の旅-ひがし茶屋街

 2024年5月25日~27日、加賀百万石城下町・金沢、その歴史と文化を学ぶ2泊3日の「金沢探訪の旅」。

 3日目 27日(月)は、金沢三茶屋街の「ひがし茶屋街」と「主計町茶屋街」、百万石の台所「近江町市場」を散策、文豪記念館も見学。
  

 8:00、ホテルをチェックアウト。金沢駅東口バスターミナル⑦番から、8:39発の城下まち金沢周遊バス(右回りルート)に乗車。8:50、橋場町(ひがし・主計町茶屋街)バス停着。

 

●ひがし茶屋街 9:00~9:45

 まずは、バス停から徒歩2,3分ほどの「ひがし茶屋休憩館」へ行く。

 この通りは、「ひがし茶屋街」のある東山に囲まれた観音町。古い町屋が並ぶ。この通りに先に、金沢三十三観音霊場 の「観音院」がある。

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 9:00「まいどさんガイド」が待機する「ひがし茶屋休憩所」(旧涌波家住宅) 着。

 旧涌波家(わくなみけ)住宅主屋は江戸時代末期の建築と推定され、「ひがし茶屋街」の主要道から少し離れた所に位置している町屋建築。建築当初は平屋建てだったが、明治時代以降に2階建てに増築されたそうだ。間口が狭くて、奥が深い町屋の特徴。窓がないため、天窓で明かりを取る。2003年(平成15年)に復元整備された。

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 軒先に「トウモロコシ」をぶら下げてある。これは、観音さまの功徳が得られる日を「四万六千日」といい、この日に観音さまにお参りすると、4万6千日分(126年分)のお参りをしたのと同じご利益があると言われている。

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 「観音院」では毎年、旧暦7月9日(今年は8月12日)に年中行事として「四万六千日」が行われ、参拝後に祈祷を受けたトウモロコシを買って帰り、自宅の軒先にぶら下げる。トウモロコシの実は家族の繁栄(子だくさん)、下部のたくさんの毛は「儲け」「魔除け」に通じる。この行事は金沢特有というわけではなく、浅草「浅草寺」の7月9日には「ほおずき市」が行われている。ちなみに「四万六千日」は、もとは「千日詣」だったとも言われている。

 9:10、ガイドから「200年前のひがし茶屋街の創立時の絵図」の説明を受ける。

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 「ひがし茶屋街」は、金沢3茶屋街の一つで、出格子の風情あるお茶屋が軒を並べる観光名所。金箔工芸の店やお土産雑貨の店も多い。

・箔一(はくいち)

 「箔一」は、金箔商品の販売店で、金箔ソフトクリームの元祖(値段は、891円)

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 「箔一」は、新名物の金箔ソフトクリームや、金沢箔工芸品、金沢箔菓子、あぶらとり紙や金箔化粧品など多彩なアイテムが揃っている。風情ある白塗りの外観は、江戸期から芸妓衆に愛されていた「銭湯東湯」を受け継いだ。

・金澤しつらえ

 「ひがし茶屋街」のシンボル的存在ともいえる見返り柳。かつては柳の街路樹が並んでいたが、現在は1本を残して取り払われている。その正面の建物「金澤しつらえ」は、江戸末期より200年もの歴史を持ち、金沢市の保存建造物にも指定されている茶屋建築。写真は、Googleマップより。

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 現在、高度な技術・技法をもつと認定された「人間国宝」の作品や、伝統的な素材で作られた1点物のアクセサリーなどを取り扱っている。また、2階の「茶房やなぎ庵」では「ひがし茶屋街」を眺めながらお抹茶、上生菓子を楽しむことが出来るという。

 茶屋建築の特徴的な外観の色彩「弁柄塗り」(べんがらぬり)は、江戸時代にインドのベンガル地方から伝わったベンガラという天然の土からとれる顔料で、酸化鉄を含むことから独特の赤い色合いを表現する。ベンガラには木材の防腐効果があるほか、年間200日雨が降る金沢で、街を明るく見せる工夫で、もちろん花街の色気のある色彩が使われた。

 ここが、「ひがし茶屋街」のベスト・フォトスポットの「一番町」の通り。左手前は、見返り柳。

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 窓をふさぐ格子も風情あり。虫かごのような造りから、木虫籠(きむすこ)と呼ばれる。

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 この木虫籠のおかげで、昼間は建物の中が見えづらく、反対に家の中から外は見えやすい。この格子の断面は台形になっていて、外側が太く、内側が細くなっている。これは、室内により多くの光を採り入れる工夫で、特に細い格子を使うのが金沢の特徴だという。

・志摩

 1820年」(文政3年)に建てられたお茶屋の建物で、これまで手を加えることなく、江戸時代そのままに残っており、学術的にも貴重な文化遺産として高く評価されている。

 お茶屋は、2階を客間とし、押し入れや物入れ等は作らず、あくまでも遊興を主体とした粋な造りとなっている。お客が床の間を背にして座ると、その正面が必ず控えの間となる。襖がひらくと同時に、あでやかな舞や遊芸が披露されるそうだ。

・懐華樓(かいかろう)

 築200年の金沢で一番大きなお茶屋建築。金沢市指定保存建物として、昼は一般に広く公開している。カフェの利用も可能。

 「懐華樓」の中は、金箔の水引で織られた畳の茶室、輪島塗の朱階段、加賀友禅の花嫁暖簾、夜は今も一見さんお断りで「一客一亭」のお座敷があげられている部屋などがあり、全てを見学することができる。名物「黄金くずきり」などの甘味を楽しめる「懐華樓カフェ」やオリジナル商品を販売する蔵の店も併設。季節ごとにお茶屋遊びを体験して頂ける「艶遊会」も開催している。

 写真は、「志摩」と「懐華樓」。Googleマップより引用。

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・藤とし

 松が建物を貫通しているという建物「藤とし」。

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 「一見さんお断り」のため見学できないが、このお茶屋は赤松が建物を突き抜けて生えていることでも有名。2階のお座敷の床の間を、見事に貫通しているらしい。文化文政の頃からと言われ、樹齢200年以上、高さ8mもあるそうだ。

 一番町の通りを反対側(東から西の方)を望む。

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 二番町の通りを「宇多須神社」側から(東から西)を見る。

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・宇多須神社(うたすじんじゃ)

 9:40、「宇多須神社」参拝。「ひがし茶屋街」の奥に社殿があり、毎年2月3日の節分祭には芸妓衆が踊りを奉納し、多くの見物客が訪れる。江戸時代、藩祖・利家の没後、2代目利長が密かに利家をここに祀り、こっそりお詣りしたという。

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 三番町の通り。

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●徳田秋声記念館 9:55~11:00

 「徳田秋声記念館」に入館。観覧料210円。予約していた当館の解説員が案内。

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 金沢三文豪の一人・徳田秋聲は、尾崎紅葉の門下を経て、田山花袋、島崎藤村らとともに明治末期~昭和の自然主義文学における代表的作家。川端康成に「小説の名人」と言わしめた技巧の高さ、つねに弱者への視点を忘れない。庶民の生活に密着した作品は、「新世帯(あらじょたい)」「黴(かび)」「爛(ただれ)」「あらくれ」「仮装人物」「縮図」など。

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 1階 ▽書斎(再現);東京都文京区の自宅の書斎を忠実に再現し、貴重な遺愛品を当時の雰囲気のままに展示。▽常設展示「光を追うて」;自伝的小説「光を追うて」を元に、秋聲の生い立ちから小説家になるまでのあゆみと、近代化する金沢の姿を辿る。

 ▽和紙人形シアター;秋聲の代表作に登場する女性を、和紙人形作家・中西京子による「和紙人形」で展示。秋聲の生涯と作品を映像で紹介。▽秋聲作品への賛辞;川端康成、広津和郎から古井由吉、中上健次まで、作家たちからの世代を超えた秋聲および作品への賛辞を紹介。

 2階 ▽企画展示室;「レコオドと私~秋聲の聴いた音楽~vol.2」(会期:3月16日~7月20日)。昭和5年、60歳で社交ダンスを始めたことで知られる秋聲。ダンスに没頭してからの秋聲愛用の蓄音器やSPレコードもまじえて展示。

 ▽常設展示室;秋聲の生涯を6期に分け、年譜や基礎資料からその業績を辿る。遺品、初版本、直筆原稿、筆跡など、多くの資料を展示。▽映像コーナー(文学サロン);新藤兼人・徳田章子・高松光代の三氏が秋聲を語ったインタビュー映像や、金沢の三文豪を紹介。
 

●梅の橋と秋声の道

 「徳田秋声記念館」を出るとすぐに、「浅野川大橋」の上流側に架かる木造風の「梅ノ橋」。この橋は、歩行者専用。

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 浅野川の右岸に沿って「秋声の道」を歩く。国道369号線を渡って、更に「秋声の道」を進むと、「梅ノ橋」 と同じような浅野川に架かる「中の橋」。浅野川の上流は、国道359号線のコンクリート橋の「浅野川大橋」。

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●主計町茶屋街 11:10~11:20

 「中の橋」から見る浅野川沿いの「主計町茶屋街」は桜の名所。

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 「中の橋」を渡って対岸に出ると、橋のたもとに「主計町緑水苑」と呼ばれる小公園がある。

 浅野川に架かる歩行者専用の「中の橋」(左)と「主計町緑水苑」(左) 写真は、Googleマップ。

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 金沢市制百周年記念事業の一環として1989年(平成元年)、旧金沢城の内堀だった「西内惣構堀(にしうちそうがまえぼり)」を活かし、「池泉回遊式庭園」をなぞらえ、「主計町緑水苑」が整備された。「西内惣構堀」は、1599年(慶長4年)金沢城防備のため2代目の前田利長が、高山右近に命じて造らせた金沢城西側の内堀のこと。

 浅野川沿いに茶屋造りの町家が並ぶ「主計町茶屋街」は、金沢三茶屋街のひとつで、全国で初めて旧町名が復活。 艶やかな雰囲気が漂う茶屋街は、春ともなれば桜並木が満開の花を川面に垂らす。

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 「主計町茶街」の前の道は「鏡花の道」。この近くの下新町に「泉鏡花記念館」があるが、5月20日~30日は展示替えのため休館。

 幼い頃に母を亡くした金沢三文豪の一人・泉鏡花は。明治、大正、昭和にかけて亡母憧憬を基底とする浪漫と幻想の世界を紡ぎ出し、多くの小説や戯曲を生み出し、やがて浪漫主義文学の大家、また天才と称された。「義血侠血」「高野聖」「婦系図」「歌行燈」「日本橋」「天守物語」などの傑作の数々は、現在も人々に愛され続けている。

 「浅野川大橋」の橋のたもとにある「今越清三朗翁出生の地」の石碑。

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 金沢では「乃木将軍と辻売りの少年」の話が、戦前映画や浪曲の題材にもなったという。今越清三郎は、1883年(明治16)主計町で生まれ幼くして死別、祖母と弟妹を養うため昼は魚、夜は辻占(くじ引きの菓子)売りをして貧困な生活を支えていた。清三郎が8歳の時、たまたま金沢を訪れた陸軍大将乃木希典と巡り合い、激励を受けたことで発奮し、やがて金箔師として大成したという。

 浅野川大橋のたもとから100mほどの橋場交差点を右折し、国道249号線(百何石通り)を西へ、近江町市場方面に歩く。

 こんな大通りにも写真のような古い建物が所々に並ぶのが、金沢らしい。

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●近江町市場 11:35~

 浅野大橋のたもとからおよそ12分、11:35に「近江町市場」に着く。写真は、十間町口。

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 約300年の歴史を持つ金沢市民の台所。日本海の鮮魚や加賀野菜の他、肉・洋品雑貨など180店以上の店がある。当日も観光客で賑わっていた。

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 11:50、昼食に「百万石うどん」の店に入る。

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 観光客相手の海鮮丼や握り鮨の店が多く、2500円以上するので安くはない。百万石うどんなら850円。近江町市場で45年の「百万石うどん」に入店、食券購入。

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 出汁は昆布と鰹節を使用した、上品で優しい醤油味。もちもちの太麺とエビや野菜の天ぷらが乗っていて、ボリューム満点。 

●金沢駅構内

 12:36発の武蔵が辻・近江町市場バス停から、12:50金沢駅東口へ。

 13:50いったんホテルに戻り、預けてあった荷物を引き取り、再び金沢駅へ。14:30駅構内の「百万石街」で土産購入。

 金沢駅構内の観光情報センターに展示してあった「かがやき甲冑展」(百万石祭りのイベント)の「赤母衣衆(あかほろしゅう)」の複製が展示してある。

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 「加賀百万石祭り」は、加賀藩の祖・前田利家が1583年(天正11年)6月14日、金沢城に入城したことにちなんだもので、入城の行列を再現した百万石行列をはじめ、数々のイベントが6月第1土曜日を中心とした3日間に行われる。利家は織田信長に仕えた頃は、信長の親衛隊的存在(馬廻り役)の直属精鋭部隊「赤母衣衆」として従軍したという。

 金沢駅構内の「金沢百番街Rinto」でお土産を購入。金沢駅コンコースと新幹線改札口。

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 金沢駅15:55発の北陸新幹線「かがやき510号」東京行に乗車。18:03大宮駅着。

 

 ★ ★ ★

●ひがし茶屋街

 浅野川界隈に位置する東山ひがし地区。ここは、1820年(文政3年)に遊郭として公許・形成された。その当時は約百軒以上の店が軒を連ね、茶街一帯が板塀で囲われ、入口には木戸が設けられるなど、別天地ともいえる金沢の歓楽地として大いに賑わっていた。

 街並みを特徴づける美しい出格子と、2階を高くして座敷を設けた独特の構造を持つ茶屋建築が立ち並んでいる。加賀藩ではお殿様を見下ろしてはいけないということで、町人エリアの2階建ては禁止されていたが、周囲を塀で囲まれていた茶屋街のみは2階建てが許可されていた。現在は、重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に登録されており、南北約130m、東西約180m、約1.8haの保存地区内の建築物140のうち約3分の2が伝統的建造物。

 重伝建は全国に数多くあるが、茶屋街として登録されているのものは4地区しかない。そのうち2つが「ひがし茶屋街」と「主計町茶屋街」。京都・祇園の茶屋町と並び、これら江戸時代後期から明治初期にかけての茶屋建築がまとまって残されている。

 今日の「ひがし茶屋街」では、観光地化に向けて大きく舵を切ったのは最近で、2001年(平成13年)のこと。そして、2001年11月に「東山ひがし」として国の重要伝統的建造物群保存地区に指定され、一気に観光地へと整備されていった。ちなみに茶屋街としての保存地区の指定は、京都の祇園に次いで2例目とのこと。

●宇多須神社

 「宇多須神社」は、718年(養老2年)に「卯辰治田門天社」として創建。浅野川の河辺から掘り出した古鏡に卯と辰の紋様があり、卯辰神を祀ったことが始まり。1599年(慶長4年)に 前田利家(加賀藩の藩祖)が亡くなると、前田家2代利長(初代加賀藩主)が金沢城の北東方向(鬼門)にあたる本境内に密かに「卯辰八幡宮」を建てて藩祖・利家の神霊を祀って藩社とした。藩士は禄高に応じて祭祀料を負担し、藩主の祈祷所として崇敬を集めた。

 当時、2代利長は徳川家康暗殺の嫌疑が掛けられるなど不安定な情勢下にあり、徳川家の疑念になる事を避ける必要があった。利家は死去する直前まで家康と対立する立場にあり、利家を崇拝する事はすなわち家康と対立する事になり、公には出来なかったと思われる。利長や藩士達は、こっそり利家をお祀りした。

 明治4年(1871)に廃藩置県が施行すると庇護者を失い「卯辰八幡宮」が荒廃した為、1873年(明治6年)に金沢城の金谷出丸(金谷御殿)の跡地に利家の神霊を遷座し、「尾山神社」を創建している。当地に残された当社は、1901年(明治34年)に卯辰山の旧名(宇多須山)にちなんで「宇多須神社」に改称、1902年(明治35年)には県社に列した。

●赤母衣衆

 母衣(ほろ、幌)は、矢や石などから防御するための甲冑の補助武具で、兜や鎧の背に巾広の布をつけて風で膨らませるもの。戦国時代に鉄砲が伝来すると補助武具具としての実用性は失われ、旗一種の指物(馬印)として、大将の近習(側近)や使番(伝令)だけが着用を許された。

 これらは名誉の軍装として、 織田信長の軍には馬廻りから選抜された信長直属の使番の集団は、「黒母衣衆(くろほろしゅう)」と「赤母衣衆(あかほろしゅう)」があり、それぞれ黒と赤に染め分けた母衣を背負わせた。前田利家は、赤母衣衆として活躍した。

 今年の「百万石まつり」(5月31日~6月2日)のポスターの写真素材に「赤母衣衆」が使われている。

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2024年6月14日 (金)

金沢探訪の旅-長町武家屋敷

 2024年5月25日~27日、加賀百万石城下町・金沢、その歴史と文化を学ぶ2泊3日の「金沢探訪の旅」。

 2日目 26日(日) は、加賀百万石の「金沢城」、日本三名園の一つ「兼六園」、城下町の風情漂う「武家屋敷跡」など、加賀藩ゆかりの史跡や武家文化を訪ねる。本記事は、「室生犀星記念館」と「長町武家屋敷」について記す。本ブログ記事「金沢探訪の旅ー兼六園」の続き。
 「兼六園」を見学した後、13:00前に金沢駅東口近くの加賀料理「大名茶屋」着。予約しておいた昼のミニ会席「羽衣」で昼食。夜の加賀料理の会席より、昼だと安く食べられる。

 13:50頃、加賀料理「大名茶屋」を出て金沢駅東口に戻り、バスターミナル⑦番から「城下まち金沢周遊バス」(左回りルート)に乗車。14:27、百万石通りの片町(パシオン前)バス停着。
 

 「室生犀星記念館」は、翌日の「徳田秋声記念館」の後に行くつもりだったが、この日最後に行く「長町武家屋敷」の近くに記念館あるため、予定を変更して前倒しする。

 犀川に架かる「犀川大橋」を渡り、千日町へ。途中、室生犀星が育ったという「雨宝院」前を通る。

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●室生犀星記念館 14:35~15:00

 片町バス停から徒歩6分ほど、「室生犀星記念館」着。

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 記念館は、金沢三文豪の一人・室生犀星の生家跡に建つ。近くには、「にし茶屋街」がある。記念館周辺では「雨宝院」、犀星が愛した「犀川」、詩碑のある「犀星のみち」など、犀星文学の原風景を散策できる。

 「ふるさとは遠きにありて思ふもの…」の詩(「小景異情 その二」)で知られる犀星は、この地で私生児として生まれ、不遇な出生のため生後まもなく近くの寺「雨宝院」に預けられた。館内では、犀星の生き方やその文学世界の魅力と出会い、ふるさとや命に対する慈しみの心への強い共感を呼び起こす。

 以下4枚の写真は、「室生犀星記念館」のパンフレットから転載。

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 館内は、ガラスに囲まれた「中庭」には、庭造り好きの犀星が東京・大田区馬込の自宅の庭に置いてあった「九重塔」「四方仏のつくばい(手水鉢)」などを配している

 1階の「心の風景」コーナーとして、小さな生きものたちや杏の木をシンボリックな造形で表現、吹き抜けの壁面には約160冊の著書を展示。

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 「生涯と作品」コーナーでは、自筆原稿や書簡などを紹介。「交友と人柄」コーナーでは、萩原朔太郎や芥川龍之介をはじめとする交友関係や、家族への愛、動物への慈しみ、軽井沢への愛着など犀星の日常が偲ばれる遺品などとともに紹介されている。

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 2階では、企画展「むかし、女、ありけり―犀星の王朝小説―」を開催。3月2日~7月7日

 15:00「室生犀星記念館」発。再び犀川を渡って、武家屋敷跡のある長町に向かう。

●長町武家屋敷 15:26~16:07

 15:26、「長町武家屋敷休息館」着。待機している「まいどさんガイド」と合流。

 ガイドの案内で、長屋門を見る。武家奉公人の長屋と厩が、門と一体になったもの。この門は加賀藩直臣・禄高300石の天野家のものであった。

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 土塀が続く武家屋敷の町並み。お薦めのフォトスポット。ほとんどの家には、現在も人が住んでいる住宅街。

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 駒留石。馬をつなぎ留めるための石(右下の石)。

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 どこで撮ったのか後で調べると、九谷焼などの販売やコレクションの展示するカフェ「おいしいいっぷく鏑木(かぶらき)」の門の前だった。写真は、Googleマップ。

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 金沢を代表する「新家(あらいえ)邸長屋門」。

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 屋根は現在、瓦葺きだが昭和3年までは板葺き石置きだった。扉は両開きで、右脇には大きな武者窓が張り出している。長屋の中は、一方が仲間(ちゅうげん)部屋で6畳2間あり、道路に向けて窓が開けられている。他方、長屋門を入った左手は馬屋だった。

 土塀に沿って清らかに流れる大野庄用水。大野庄用水は犀川から水を引いており、武家屋敷に沿って流れている。

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●旧加賀藩士高田家跡

 入場無料。敷地内には、見事な池泉回遊庭園を配し、当時の面影を残している。以下3枚の写真は、Googleマップ。

 長屋門を中から見た写真。右が厩、左が奉公人の仲間部屋(ちゅうげんべや)。

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 旧加賀藩士の高田家の禄高は550石、6つの階級に分けられた加賀藩士の中では、上から3番目の平士(へいし)に位置する中級武士。江戸時代、屋敷に門だけでなく「長屋」や「厩」をつけることを認められていたのは、中級以上の武士のみだった。

 厩(右)と庭園(左)。高田家は、2頭の馬を所有していた。400石以上の侍が、馬2頭を持つことができた。

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 こちらは下働人が寝起きする仲間(ちゅうげん)部屋 。

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●足軽資料館 15:50~16:00

 入場料無料。藩政時代の足軽屋敷、高西家と清水家の2棟が保存展示されている。屋根は石を置いたもの。建物の中は、足軽の職務や日常生活の解説・展示で、当時の雰鹿気を醸し出している。

 下の写真の出典は、ウィキメディア・コモンズ。

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 足軽は最下層の武士にあたるため、基本的には住居はいわゆる「長屋」が一般的だが、加賀藩の足軽たちは「庭付き一戸建て」が与えられていた。元々は両家とも金沢市内の別の場所にあったが、住んでいた子孫の方から金沢市に寄贈され、1997年(平成9年)に現在の場所に移築された。

 『流し』(台所)は、写真では板張りだが、もともとは土間だった。

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 『茶の間』。江戸初期の食事は1日朝夕の2回で一汁一菜。

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 玄関を入るとまず正面に『玄関の間』があり、その奥が『座敷』。客人は玄関から入りまっすぐ進み座敷へと通される。一方、玄関入って右を見るとまず『流し』(台所)があり、『茶の間』と『納戸』(物置、生活空間、寝室)があった。このように「接客空間」と「生活空間」を分けるというのが、武士住宅の特徴だそうだ。『座敷』と『納戸』には縁側があり、庭に通じていた。

 16:07、ガイド終了。

●武家屋敷跡野村家

 長町で唯一、一般公開されている有料(入場料550円)の武家屋敷。格式のある建物と風情のある庭園が見事に調和。加賀藩のお抱え絵師によって「上段の間」に描かれた襖絵や野村家伝来の刀剣、甲冑等は必見とか。時間の都合で入場できず。

●前田土佐守家資料館 16:10~16:50

 前田土佐守家の歴史と加賀藩上級武士の姿を紹介している。観覧料210円。

 「前田土佐守家資料館」は、同家に伝来した約6,000点 の古文書をはじめ、武具・書画などあわせて約9,000点 の歴史資料を保存・公開する施設。前田土佐守家伝来の資料は、歴代当主が保存・整理に務めてきたため散逸が少なく、古くは戦国時代、土佐守家の草創期(天正期)から明治時代にいたるまでの古文書を中心とした資料が良好な状態で保存されている。

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 1階の第一展示室。利家の正室おまつの方の書状をはじめとする古文書、書画、調度品など約80点を常時展示。

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 第一展示室。左手は、上級武士の床の間を再現、おまつの方の像。

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 第一展示室の中央、前田土佐守家の成立と歴史を展示。黒漆塗黒糸威二枚胴具足は、前田利政の所用と伝わる具足。

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 写真は、「前田土佐守家資料館」のパンフレットから引用。

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 2階第二展示室の春季企画展:「行くも帰るも123里~前田土佐守家当主 江戸への旅~」が開催中。期間:令和6年4月27日~7月7日。

 加賀藩は徳川御三家に並ぶ有力藩。参勤交代の他にも、藩士たちはしばしば江戸への出府の御用を命じられ、金沢からの長い道のりを往復していた。その距離は、483Km(約123里)にも及ぶ。当館には、「道中日記」が所蔵されていて、加賀藩士たちは藩主に出府を命じられてから、どのような準備をし、どのような道のりを経て、江戸へたどりついたのか。江戸での御用を終えた藩士は、どのような思いで金沢への帰路を進んだのか・・・等を展示。

 16:50「前田土佐守家資料館」を出て、100mちょっと、徒歩1、2分で夕食に予定した洋食店「グリルオーツカ」に到着。

●ハントンライス 17:00~17:55

 ハントンライスは、金沢の名物料理とか、洋食の一種として知られている。 1957年(昭和32年)創業の「グリルオーツカ」は、テレビや雑誌などでも紹介された行列のできる店。2015年の北陸新幹線開業とご当地グルメの流行によって、日本全国に知名度を上げたという

 一般的には、「ハンガリー」の「ハン」と、フランス語で「マグロ」を意味する「トン」(thon)をあわせた造語であると言われている。ハンガリーに似た料理があることから「ハン」と名付けられたとされているが、ハンガリーに該当する料理はないそうだ

 開店の17時前、すでに先着の2、3人が並んでいたが、日曜とはいえ思ったより行列は少ない。ふわふわたまごのオムライスの上に、魚介類のフライ、ケチャップとタルタルソースがのっている。ボリュウムがあるので、「小」を注文。写真の出典:ウキメディア・コモンズ。

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 食事前に、ビールを小瓶で飲んだせいもあって、腹いっぱい。オムライスを食べた気分だが、ちょっとケチャップの味が濃いめ。

 17:55店を出ると、さらに十数人の行列ができていた。

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 「グリルオーツカ」を後にして、片町・香林坊の百万石通りで出る。城下まち金沢周遊バスの片町(きらら前)バス停や香林坊(旧日銀前)バス停がを探すが、まちバス、北鉄の路線バス、西日本JRバスなど、いろいろなバス停があってよくわからない。おまけに道路が混んでいてバスは時刻表通りに来ない。なんとか城下まち金沢周遊バス(右回りルート)に乗り込んで、金沢駅東口着。18:30頃にホテル着。


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●前田土佐守家

 前田土佐守家は、加賀藩祖・前田利家と正室まつの次男・前田利政を家祖とし、以後、明治維新を迎えた直信まで10人の当主を数える。このうち6人が従五位下および近江守、土佐守の叙任を受け、5代直男・6代直方・7代直時・10代直信の4人が土佐守に任ぜられたため、当家は一般に「前田土佐守家」と称されるようになった。

 利政は、前田利家の次男であることから、当家は藩主前田家の分家筋にあたる。利政の長男で2代当主の直之は、幼少時に祖母芳春院(まつ)にひきとられて養育され、芳春院の尽力があって元和元年 (1615)に3代藩主前田利常に召し抱えられた。これ以後、前田土佐守家は藩政期を通じ、1万余石の禄高をもって代々「加賀八家」の一つとして藩の要職を歴任した。

 加賀藩では、「年寄」(他藩の「家老」に相当)という家格に属する家が八つあったことから、それを「加賀八家」と呼ぶようになった。年寄は、軍事面、行政面で藩の重職に就いた。「八家」の制度は、5代藩主綱紀が整えたもので、本多家(5万石)。 長家(3万3000石)・ 横山家(3万石)・ 前田家(長種系1万8000石)・ 奥村家(宗家1万7000石)・ 村井家(1万6569石)・ 奥村家(支家1万2000石)。 前田土佐守家(1万1000石 )があった。

2024年6月13日 (木)

金沢探訪の旅ー兼六園

 2024年5月25日~27日、 加賀百万石城下町・金沢、その歴史と文化を学ぶ2泊3日の「金沢探訪の旅」。

 2日目26日(日)は、加賀百万石の「金沢城」、日本三名園の一つ「兼六園」、城下町の風情漂う「武家屋敷跡」など、加賀藩ゆかりの史跡や武家文化を訪ねる。本記事は、「兼六園」について記す。本ブログ記事「金沢探訪の旅ー金沢城公園」の続き。
 
 引き続き、観光ボランティアの「まいどさんガイド」の案内で、11:03「金沢城公園」を出て「兼六園」の桂坂口より入場。

●蓮池門

 茶店が並ぶ「江戸町通り」を抜けて、11:09「蓮池門」を通る。

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 暫く歩くと、右手に園外から石段を上がって来る門がある。対面の「金沢城」の石垣が見える。

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 立派な石段があるのは、かつて、金沢城から「兼六園」へお越しになった殿様や奥方が2階建ての「蓮池御門」と呼ばれる門をくぐって「兼六園」へ出入りしていた。門の両サイドに番所が設けられて三十人組と呼ばれる役人が門番をしていたという。

 この「蓮池御門」には、「兼六園」の名付け親「白河楽翁(松平定信)」の筆による「兼六園」と書かれた扁額が掛けられていた。明治時代に「蓮池御門」は老朽化のために取り壊されたが、定信が揮毫した扁額は現在、石川県立伝統産業工芸館に展示されているという。

●「兼六園」の由来

 「兼六園」は、17世紀中期、加賀藩によって金沢城の外郭に造営された「大名庭園」を起源とする江戸時代を代表する池泉回遊式庭園。岡山後楽園水戸偕楽園と並んで日本三名園の1つに数えられる。園名は、松平定信が中国・宋の『洛陽名園記』を引用し、宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の6つの景観「六勝」を兼ね備えていることから命名された

●瓢池(ひさごいけ)

 「瓢池」は、「兼六園」で2番目に大きい瓢箪(ひょうたん)の形をした池。 2500㎡(760坪)の池に小島が1つ、滝が2つ、橋が2つある。「瓢池」周辺は「兼六園」が作られる前には「蓮池(れんち)」と呼ばれ、ハスが生い茂る沼地だった。「瓢池」周辺の庭は「兼六園」と呼ばれるまでは「蓮池庭」(れんちてい)と呼ばれ、作庭されていた。「兼六園」の始まりの場所であり、園内でもっとも古く作られた場所だった。

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 「翠滝」(みどりたき)は「瓢池」に落ちる人工の滝で、滝壺が無く、石が積みあがっているのが特徴。「瓢池」にある「夕顔亭」のすぐ後ろにある茶屋が「三芳庵」(みよしあん)で、「瓢池」に突き出た写真左手の建物は、「三芳庵」の別棟。

●夕顔亭

 「夕顔亭」は、「瓢池」の傍にある茅葺屋根の茶室。1774年、11代藩主、前田治脩(はるなが)によって建てられた茶室で、「兼六園四亭」(よんてい)の一つ。1989年に石川県の有形文化財に指定されていて、建物も茶庭も約240年前のまま保存されている。

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●黄門橋(こうもんばし)

 榮螺山(さざえやま)から「噴水」へ向かう途中の小川にかかる橋。青戸室石でできた一枚石で、大きさは園内一。長さ6m、幅1m。「黄門」とは中国名で中納言のことであり、中納言であった3代藩主利常を称えて名付けられた。現世と浄土をつなぐという橋を題材にした謡曲「石橋」に基づいて造ったという。

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●噴水

 動力を使わず、霞ケ池を水源として池の水面との高低差による自然の水圧(逆サイフォン)によって、高さ約3.5mで噴きあがる。日本最古の噴水。

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●ことじ灯籠と霞ヶ池

 「兼六園」のシンボル「ことじ灯篭」は、「霞ヶ池」にそっと足を下したような美しい姿。

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 「兼六園」を代表する風景。片足だけを池の中に入れた二本足の灯籠で、高さは2.67m。前方にある「虹橋」を琴に見立てると、後方の灯籠が琴の絃(いと)を支える駒に見えるので、徽軫(ことじ=琴柱)と名付けられた。記念写真のスポットとしては最適で、観光客の行列ができていた。

 「霞ヶ池」は、「兼六園」の中央に位置する園内最大の池。5,800㎡(1,750坪)。この池には、神仙島を表す「蓬莱島」が置かれている。

●眺望台

 卯辰山(うたつやま)や白山(はくさん)山系、能登半島方面が見渡せる場所で、海抜53mある。兼六園の六勝の内の1つ「眺望」はまさにここで体験できる。眼下の土手には桜やサツキ、ツツジなども配されており、季節の花も楽しめる。

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●蓬莱島(ほうらいじま

 「霞ヶ池」の真ん中にある小島が「蓬莱島」で、渡ることはできない。「蓬莱島」の蓬莱とは、古代中国で仙人が住むといわれている蓬莱山(ほうらいさん)のことで、大きな亀の背中にある山と言われている。

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 「霞ヶ池」は、日本庭園の手法の一つ、借景という技法で設計されていて、園外にある卯辰山を遠景、霞ヶ池に突き出た茶屋「内橋亭」を近景、真ん中の中景となる「蓬莱島」が浮島に見える、という演出になっているという。

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●唐崎の松(からさきのまつ)

 「霞ヶ池」に枝を伸ばす大きな黒松は、「兼六園」でもっとも有名な「唐崎の松」。13代藩主・前田斉泰(なりやす)が、琵琶湖畔の松の名所、唐崎の松から種を取り寄せて植えた黒松。園内の多くは赤松だが、唐崎の松は黒松。黒崎松の雪吊りは、兼六園ならではの風物詩。

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●雁行橋(がんこうばし)

 11枚の赤戸室石一枚一枚が亀の甲の形をしていることから「亀甲橋」ともいわれる。並べられた11枚の石が、雁(かり)の列が飛んでいく様に見えることから名付けられた。別名「かりがね橋」とも呼ばれる。1969年(昭和44年)から、石の保護のために通行が禁止されているが、昔はこの橋を渡ると長生きすると言われていた。なお、戸室石(とむろいし)は金沢市東部の戸室山の周辺で採れる安山岩。

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●七福神の庭

 七福神に見立てた庭石が並ぶ築山になっていて、七福神山周辺だけでも小さな日本庭園になっている。七福神山の庭石は、名前のとおり、七福神の姿に似た石を集めて作られている。

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 七福神山の正面(写真では右手)にある、大きな青戸室石の橋が「雪見橋」(ゆきみばし)。囲いの中にあるため、現在は渡ることができない。

●曲水(きょくすい)

 「兼六園」の中には、約570mの「曲水」と呼ばれる小川がいたるところに張り巡らされている。この水は犀川の上流から引いてある「辰巳用水」から引かれたもの。六勝の一つに数えられる「曲水」は、周辺の木々や草花と川のせせらぎによって癒しを感じられる。

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●明治記念之標

 西南戦争で亡くなった軍人を鎮めるために建てられたのが、「日本武尊象」。1880年に富山県高岡で造られたという銅像は、仏像以外では日本最古の銅像と言われている。

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●鶺鴒島(せきれいじま)

 「花見橋」の下を流れる曲水の少し上流にある、赤い鳥居や石塔が建つ小島が「鶺鴒島」。

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 「鶺鴒島」は別名、「夫婦島(めおとじま)」とも呼ばれている。子孫繁栄も含めて、人の一生を表している島。鶺鴒とは、鳥のセキレイのこと。セキレイは古来より子孫繁栄のシンボルで、日本神話のイザナギとイザナミに子孫繁栄の契りを教えた鳥。

●根上松(ねあがりまつ)

 「ひねくれの松」(写真なし)を見たあと、「根上松」を見る。高さ15mの黒松で、大小40数本もの根が地上2mまでせり上がり、地を掴んだような奇観は、迫力がある。

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 根っこが地面の上に出ているが、根っこを掘り出されても枯れない生命力の強さから、縁起の良い松とされている。根上(ねあがり)の語呂から、値が上がる成績が上がる運気が上がる商売繁盛株価上昇。園内屈指のパワースポット。

●沈砂池(ちんさいけ)

 「沈砂池」は、「兼六園」内の「曲水」の始まり。山崎山の裏にある蒼く澄んだ池。「辰巳用水」から流れてきた水が、「沈砂池」に溜められ、山崎山の下を通って園内へ流れ出ている。

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 砂を沈めて、きれいな水だけが「兼六園」内の「曲水」を流れ、「霞ヶ池」に溜まり、「噴水」となって吹き上がり、「ひさご池」に滝となって落ち、金沢城へ、金沢市内へ、と流れている。

 小立野口を出て、11:59「石川県立伝統産業工芸館」(石川生活工芸ミュージアム)で休憩。

 再び、「兼六園」に入場、12:09桂坂口に戻って退場。

 12:12、兼六園下・金沢城バス停着。12:36、金沢駅行きの北陸バスに乗車。この路線バスは、全国共通交通系ICカード(SUICA/PASMO)が使えない。

 金沢駅東口に到着、歩いて予約してある加賀料理の店「大名茶屋」(此花町7丁目)へ。

 

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●成巽閣(せんそんかく)

 「兼六園」に隣接する「成巽閣 」は、時間の都合で見学を省略した。

 「成巽閣」は、13代藩主前田斉泰の母堂の隠居所として造営。武家書院造と数寄屋風書院造を一つの棟の中に組み入れた巧みな様式をもつ建造物であり、江戸時代末期(1860年代後半)の武家造の遺構としては類例のないものと高く評価されている、また、大名正室の御殿としては、日本国内に唯一現存する建造物。

 以下2枚の写真の出典:ウキメディア・コモンズ

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 建築当時は、「巽御殿」(たつみごてん)と呼ばれたが、後に「成巽閣」と改められた。1階は書院造りで2階は数奇屋造り、江戸時代末期の大名屋敷の代表的建築として、国の重要文化財に指定。また付随する庭園「飛鶴庭」も、国の名勝に指定されている。内部は歴史博物館として、書画、人形等の展示が季節ごとに行われるという。

金沢探訪の旅ー金沢城公園

 2024年5月25日~27日、加賀百万石城下町・金沢、その歴史と文化を学ぶ2泊3日の「金沢探訪の旅」。

 2日目26日(日) は、加賀百万石の「金沢城」、日本三名園の一つ「兼六園」、城下町の風情漂う「長町武家屋敷跡」など、加賀藩ゆかりの史跡や武家文化を訪ねる。本記事は、「金沢城公園」について記す。

 

 8:27、宿泊先の「ホテルマイステイズ金沢キャッスル」を出発。徒歩5分で金沢駅東口。

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 金沢駅東口のバスターミナル⑦番乗り場から、8:35発の城下まち金沢周遊バス(右回りルート)に乗車。

 8:50、兼六園下・金沢城バス停着。石川橋(陸橋)を渡り、の「石川門」へ。

 「石川門」(重要文化財)は現在、金沢城のメインゲートだが、当時は搦手門(裏門)だった。写真は、2014/7/25撮影。

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 8:56、「石川門」は、枡形になっており、こちらは「石川門二の門」。

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 写真にはないが「石川門」の石垣は、右側は「切石積み」、左側は「粗加工石積み」となっていて積み方が異なる珍しい例。

 9:05、「金沢城総合案内所」で観光ボランティアの「まいどさんガイド」と合流。金沢城の模型で説明を聞く。

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 城址は明治以降、陸軍施設が置かれたため建物の一部を残して撤去され、第二次世界大戦後には「金沢大学」が1995年(平成7年)まで置かれていた。

 「河北門」は、金沢城の大手門から入り、河北坂を上がったところに位置する「三の丸」の正面、金沢城の実質的な正門。

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 「河北門」も枡形になっていて、こちらは「河北門二の門」。

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 「三の丸」広場前から、金沢城のシンボル「五十間長屋」を眺める。武器等を保管する倉庫として使用されていたという。

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 「五十間長屋」には、堀に面して「出し」と呼ばれる出窓が造ってある。「出し」の床は開くようになっており、床を開けると真下に堀や石垣が見え、敵が侵入して堀を渡り、石垣に取り付いて来た時に、石を落としたりするためのもので「石落し」といわれている。

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 「石川門」の櫓を城内から見る。内部を見学できる。

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 「二の丸御殿」に至る「橋爪門」は、「石川門」と「河北門」とともに「三御門」と呼ばれ、最も厳しい通行制限があった。

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 「橋爪門」の狭間(さま)。鉄砲を撃つために城壁に開けた穴で、外側の海鼠(なまこ)壁を破って鉄砲狭間として使えるようになっている。

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 「橋爪門」は、「石川門」同様に枡形になっており、「橋爪門二の門」(写真下)には番所が置かれていた。

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 左に「三十間長屋」、右に「二の丸」御殿のあった広場をを見ながら進むと、左手に「玉泉院丸庭園」に下る道がある。

 「玉泉院丸庭園」に面した石垣群「数寄屋式石垣」(写真なし)あたりから、「玉泉院丸庭園」を見下ろす。この先の通路は、1月の地震で工事中のため、通行止め。

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 「玉泉院丸庭園」は、「兼六園」より古い庭園。2代目藩主利長の正室玉泉院(永姫)が屋敷を構えたことがその名の由来。3代目利常により作園が始められ、廃藩まで歴代藩主が愛でた庭園。2015年(平成27年)3月、江戸時代末期の姿をもとに再現された。金沢城に、「金沢大学」があったときは、この庭園はテニスコートだったらしい。

 「玉泉院丸庭園」に面した石垣群の「色紙短冊積み石垣」は、趣向を凝らした切石積みで、「玉泉院丸庭園」の重要な景観的な要素だった。

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 「三十間長屋」(重要文化財)に行く。

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 「三十間長屋」は、もともとは食器類が収められたり、干飯(ほしいい)が蓄えられていたそうだ。その後、江戸時代後期には武器や弾薬を備えた武器庫でもあったらしく、鉄砲蔵とも呼ばれていた。この「三十間長屋」は1858年(安政5年)に再建されたもので、金沢城にはこの他に全部で14の長屋があったと伝えられている。倉庫と防壁を兼ねた細長い建物のことを「多聞櫓」というが、金沢城では、「長屋」と呼んでいる。

 2階の西側の窓からは、日本海を航行する船を見張ったという。

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 2階の南側の天井の木組みがすごい。

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 「三十間長屋」の西側は、唐破風のついた出窓が3箇所あり、城下町から見るといかにも堂々としてお城に見せたという。

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 「三十間長屋」の石垣は、切石積みの技法で積まれているが、表面の縁取りだけをきれいにそろえ、内側を粗いままにしておく「金場取り残し積み」という技法が用いられている。

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 「鉄門(くろがねもん)」は、「二の丸」から「本丸」に入る正門。鉄板を貼った扉がつけられていたことからこの名前が付いた。渡し櫓が乗った重厚な門で、本丸の防御にあたっていた。 重要な鉄門の石垣は、「切石積み」で、石の表面を多角形に加工したすぐれたデザインで、丁寧なつくりになっている。

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 「戌亥櫓(いぬいやぐら)」跡から「二の丸御殿跡」の広場や「五十間長屋」(右手)を眺める。

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 城内には陸軍第9師団の司令部や兵舎が置かれていたが、本丸付近には弾薬庫が設けられ、煉瓦作りのトンネルが造られた。

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 鉄門から、金沢大学時代に植物園となっていた西側の高台「金沢城園地」の散策路を歩くと、この辺りに「本丸」があったという説明板。

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 説明文には、1586年(天正15年)頃に天守を設けたと記されている。当時は関ケ原の戦い以前であったことから、豪華な城を築くことができたようだ。しかし、五層建ての天守閣は1602年(慶長7年)に落雷で焼失。この時は、既に権力を掌握した家康に遠慮してコジンマリこぢんまりとした三階櫓が建造された。その後も本丸の建物は、何度も焼失を繰り返し、次第に手つかずのままとなって金沢城の中心は「二の丸」に移っていったという。

 「東の丸」の北面の石垣は、利家時代の城内最古の高石垣。石垣の総高は21mに達し、金沢城で数少ない初期の姿を伝える「自然石積み」。

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 「丑寅櫓跡」から「兼六園」側を望む。桂坂口近くの茶店通りは、茶店や土産物店が立ち並び、「江戸町通り」とも呼ばれている。

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 「江戸町」は、徳川秀忠の次女・珠姫(たまひめ)が加賀藩の前田利常の正室として、わずか3歳で金沢に輿入れした1601年(慶長6)年から亡くなった1622年(元和8)まで、江戸からの随行者がここに住んだことに由来する。「兼六園」が正式に一般開放された年の翌年(明治5年)に、茶店の営業が許可された。

 幕末に建てられた総2階の「鶴丸倉庫」(重要文化財)を見る。明治以降は、陸軍によって被服庫として使われていた。

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 「鶴の丸土塀」は、三の丸側の腰部が海鼠(なまこ)壁で覆われていたが、内側にはたくさんの鉄砲狭間があった。塀の中からはいざという時に瓦を1枚割れば鉄砲を撃てる「隠し狭間」となっていた。

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 「鶴の丸」休憩所付近に展示されている井戸の枠。

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 井戸枠は、石垣にも使われている戸室石(とむろいし) で、8枚の石を組み合わせて作られており、意匠性が高い。江戸時代後期の絵図によれば、金沢城内には少なくとも21個の井戸があったという。井戸には四角いものと丸いものとがあり、それぞれ9個と12個存在していた。これらの井戸が城内の至るところに設置されていたという。戸室石、金沢市の郊外の戸室山周辺で採掘されている青・赤色系の安山岩。

 「辰巳用水」の説明板あり。日本4大用水の一つとされている。犀川から用水を引き、金沢市内を流れる約11kmの用水路。

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 「石川門」の入口(石川門口)に立っている「百間堀」の説明板。兼六園と金沢城の間は、かつて「百間堀」があった。

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 前田利家入城前の城主・佐久間盛政がこの「百間堀」を掘ったとされ、利家の子・利長の時代に改修したと言われている。防衛上重要な水堀で、長さ270m、幅68.4m、水深2.4mあった。「百間堀」が埋め立てられ、現在のような道路となったのは、1911~12年(明治44年)のことだという。

 11:03「金沢城」を出て、「石川橋」を渡って「兼六園」へ入る。

 この後は、本ブログ記事「金沢探訪の旅ー兼六園と武家屋敷」に続く。

 

 ★ ★ ★

●辰巳用水

 3代加賀藩主・前田利常の命により、1632年(寛永9年)に板屋兵四郎が完成させたといわれている。1631年に発生した金沢大火が建設の契機になったとされ、金沢城の防衛・防火のための用水を導水する目的で掘削された。途中、長距離のトンネルがある難工事であったが、工事開始から1年足らずで完成した。

 犀川上流の金沢市上辰巳より取水し、約4kmの導水トンネルを経て、「兼六園」の園内の曲水(きょくすい)となる。かつては、導水管を用いて外堀をくぐらせ金沢城内に水を供給し、さらに市内にも配水していた。板屋兵四郎は水の高低差を利用して金沢城内に水を吹き出させた。これは、取水地が金沢城より高い位置にあることを利用した逆サイフォン。当初は木管が用いられていたが、後に石管に替えられた。石管は、石川県立歴史博物館の中庭等で保存されている。

2024年6月12日 (水)

金沢探訪の旅ー美術・博物館

 2024年5月25日~27日、加賀百万石城下町・金沢、その歴史と文化を学ぶ2泊3日の「金沢探訪の旅」。

 1日目の25日(土)は、「21世紀美術館」の現代アートと「県立美術館」の伝統工芸を観賞、「県立歴博」で歴史・民俗を学ぶ。

 

 9:06大宮駅発の北陸新幹線「はくたか555号」に乗車。時間節約のため、11:00過ぎに車中で駅弁ランチ。11:43金沢駅に到着。

 金沢駅東口(兼六園口)の「もてなしドーム」。

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 金沢駅の兼六園口の「鼓門」。2014/7/25撮影

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 駅構内でコインロッカーを探すが、土曜の昼とあってロッカーの空きがまったくない。金沢駅東口(兼六園口)から徒歩で5分、12:10宿泊先の「ホテルマイステイズ金沢キャッスル」に直行し、荷物を預ける。

 金沢駅東口に戻り、バスターミナル⑦番から12:26発の「城下まち金沢周遊バス」(右回りルート)乗車。このバスは、全国共通交通系ICカード(SUICA/PASMO)が使えるので便利。

 広坂・21世紀美術館(石浦神社前)バス停まで17分。バス停から広坂交差点を渡って、徒歩2分で「金沢21世紀美術館」。 
 

●金沢21世紀美術館 12:45~13:45

 「兼六園」の斜め向かいで金沢市役所の隣にある。 公園のように気軽に訪れることができて、多くの人々に愛されているという美術館。2004年10月にオープン、全国から多くの人が訪れ、入館者数は国内でもトップクラスだという。有料の展示作品を観覧する「展覧会ゾーン」、屋外と屋内にも無料で楽しめる「交流ゾーン」との二つに分かれている。

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 屋外展示の《カラー・アクティヴィティ・ハウス 》オラファー・エリアソン作、ベルリンとコペンハーゲン在住。3色のガラスの組み合わせで、色の異なる周囲の風景が作り出される。

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 そのほか屋外には、12個のチューバ状の管が点在、管が地中でつながって対になり思わぬところへ声を伝えるという《アリーナのためのクランクフェルト・ナンバー3》、いくつもの突起が様々な方向に突き出た形を持つ遊具作品ラッピング》がある。

 総合案内の前には、右側に三輪車の形をしたユニークな3つの作品《バイサークル》。作者は、パトリック・トゥットフオコ。

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 1月1日に石川県能登地方で最大震度7を観測した「令和6年能登半島地震」で、「金沢21世紀美術館」が大きな被害を受けた。美術館は円のかたちをした明るいガラス張りの平屋建築で、展示室の天井にもガラス板が使用されている。今回、このガラス板が地震によって部分的に剥がれ落ちた。同館は地震発生後に休館、2月6日から「交流(無料)ゾーン」の一部を再開しているが、残念ながら「展覧会(有料)ゾーン」は、修復のため6月21日まで休場している。

 展示作品《スイミング・プール 》レアンドロ・エルリッヒ作、ブエノスアイレス(アルゼンチン)在住。

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 地上から見下ろすと、あたかも水で満たされたプールのように見える。地下からプール内部に入って、地上とプール内部で人と人の出会いを創出するはずだが、地下部への入場も6月21日まで休止。地上部からだけしか見学できない。

 360°全面ガラス張りという斬新なデザインで知られる円形の美術館。

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 美術館の西側にある階段の吹き抜けに合わせて制作された《喪失の美学》サラ・ジー作、ニューヨーク在住。

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 1階と地下を繋ぐ作品は、鑑賞者の階段の昇り降りの行動に様々な表情を見せるという。

 企画展の「透明標本展」と「金魚美抄」

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・市民ギャラリーA 冨田伊織 新世界『透明標本』展 入場料1,000円。

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 透明標本はタンパク質を酵素で分解し、肉質を透明にし、硬骨を赤色、軟骨を青色に染色する骨格研究の手法。生物でありながら、まるで鉱物のような美しさ。学術標本としてだけではなく、芸術やアートへの興味を深め、生物の内なる美を体感できるという。

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・市民ギャラリーB「金魚美抄2024~金魚を描くアーティストたち~」展

 「金魚美抄」は、金魚の美をすくい取るという意味の深堀隆介氏による造語。金魚の美に魅了され、金魚をモチーフにアート作品を手がけるアーティストが一堂に集う展覧会。それぞれの技法、表現などを駆使して様々な作品を生み出し、金魚の“美”を魅せる。今回も監修の深堀隆介を筆頭に新たなアーティストも加わり総勢11名が参加。こちらも有料(1,000円)、入場せず。

 「金沢21世紀美術館」を出て、広坂交差点を渡って百万石通りの坂道を登り、「本多の森公園」へ向かう。
  

●石川県立美術館 14:00~14:40

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 国宝の「色絵雉香炉」他、古九谷から再興九谷焼を含む古美術コレクション。また、石川県を中心とする近現代の美術と工芸作品。加賀藩前田家に伝わる文化財を展示する前田育徳会「尊經閣文庫」分館などが展示。

 国宝「色絵雉香炉」(右)と重文「色絵雌雉香炉」(左)。野々村仁清作、三代目加賀藩主前田利常の頃に前田家にもたらされ、家臣を経て商家・前川家に渡り、石川県に寄贈された。撮影可能な展示品は、これのみ。

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 古九谷、茶道美術、明治以降現代までの絵画、彫刻、工芸作品を鑑賞。
  

●国立工芸館

 国立工芸館前を14:45ころ通過。入館せず。

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 2020年(令和2年)10月、開館した。移転開館当初の正式名称は「東京国立近代美術館工芸館」。東京都千代田区にあった従前の「東京国立近代美術館工芸館」から、収蔵されている美術工芸作品のうち1,900点以上が移転した。近現代の工芸・デザイン専門の美術館。陶磁やガラス、漆工、木工、竹工、染織、人形、金工、グラフィック・デザインなどの各分野にわたって、総数約4,000点を収蔵。

 建物は、明治期に建てられた2つの旧陸軍の施設、旧陸軍第九師団司令部庁舎(1898年建築、左)と旧陸軍金沢偕行社(1909年建築、右)を移築し、過去に撤去された部分や外観の色などを復元したという。 


●いしかわ赤レンガミュージアム 14:50~16:50

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 「石川県立歴史博物館」は「兼六園」に隣接する「本多の森公園」に建ち、かつては1909年(明治42年)~1914年(大正3年)に日本陸軍の兵器庫として建てられた煉瓦造りの建物を改修してつくられた博物館

 最初に建てられた煉瓦倉庫は1909年(第3棟)、1913年(第2棟)、1914年(第1棟)と約5年にわたって建設され、金沢を拠点としていた第9師団の兵器庫として使用された。戦後は「金沢美術工芸専門学校」(現金沢美術工芸大学)の校舎として利用されていたが、1968年(昭和43年)「石川県立郷土資料館」に改修、1986年に「石川県立歴史博物館」としてリニューアルオープンした

 2015年(平成27年)には、愛称が「いしかわ赤レンガミュージアム」に変更され、新たな施設を増築・整備してより一層充実した施設に生まれ変わった。現在は第1棟・2棟が「石川県立歴史博物館」、第3棟が「加賀本多博物館」として金沢を歴史を巡ることが出来る。

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 入館すると、緑のベストを着たレトロ建築のボランティアガイドが、30分ほど建物を案内。2階建ての3棟は、明治と大正期に建築されたが、木造でなく煉瓦の兵器庫だったため残ったこと。兵器庫と言っても火薬類はなく、被服類を中心に保管してあったという。

・加賀本多博物館

 2015年4月、「いしかわ赤レンガミュージアム」の一環として、「石川県立歴史博物館」の敷地内に同居する形で武家文化を伝える「加賀本多博物館」としてリニューアルオープンした。隣接の「県立歴史博物館」の2館共通観覧券あり。

 以下3枚の写真は、「加賀本多博物館」パンフレットから引用。

 加賀藩前田家の筆頭家老として、5万石を領した本多家の博物館。「藩老本多蔵品館」として1973年に開館。その秘蔵の品々は、1000点にも上る。本多家伝わる刀や甲冑など実際に、武士が使った品々が展示されている。軍装具をはじめ、当主が着たという火消し装束、儒学者・室鳩巣(むろきゅうそう) の文書など、藩政時代の文化・歴史を知る貴重な資料がある。

 藩主からの拝領品が多いが、中でも豊臣秀吉が命名したとされる南蛮渡来の「村雨の壷」は、初代本多政重が藩主前田利長から5万石の加増を固辞した際に代わりに拝領したもので、「五万石の壷」という異名がある。

 初代・本多政重の画像と本多家随一の家宝「村雨の壺」。

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 左下:「の」の字文象嵌鐙(あぶみ) 中央:当主と夫人の火事装束 右:色々威(いろいろおどし)二枚胴具足

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・石川県立歴史博物館

 常設展は、石川の原始から現代までを、各時代の象徴的なテーマを軸に概観する「歴史展示」と、風土に根ざした祭り文化を紹介する「民俗展示」から構成される。第1展示室は、縄文時代から江戸時代までの展示。テーマは、原始=豊かな自然となりわい、古代=日本海を行き交う人びと、中世=武士と一揆、近世=加賀藩の政治と文化。第2展示室は、明治時代から現代までの歴史、民俗の展示。近代=近代国家と石川県、民俗:加賀・能登の祭り。

  中世=武士と一揆(1)武士の世へ 加賀国井家荘いのいえのしょう内に位置する堅田かただやかたあと(金沢市)は、当時の武士の豊かな暮らしぶりを伝えている。 

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 中世=武士と一揆(2)信仰の世界

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 近世=加賀藩の政治と文化(1)加賀藩の成立 加賀藩の大名行列。参勤交代は、幕府の命で450名の藩士を連れていくのが常だった。

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 近世=加賀藩の政治と文化(2)加賀藩政の展開 北前船の模型と船旗

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 「県立歴史博物館」の2階で無料の企画展をやっていた。

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 「くらべる文学展 in 歴博」というもので、地震で休館中の「石川近代文学館」所蔵品の企画展だった。企画展は撮影禁止。

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 「石川近代文学館」がある「石川四高記念文化交流館」(金沢城の南側にある)は、能登半島地震の影響により修繕工事をしていて、現在休館。もともとのこの旅行計画では、「石川近代文学館」をスケジュールに組んでいたが、休館中だったので諦めていた。しかし、この「近代文学館」の展示資料を「県立歴史博物館」に移して、歴博で企画展としてやっていたのは、知らなかった。

 本展は、それぞれの作家の自筆の原稿や手紙、日常的に手元に置いた愛用品など「見くらべて」楽しむ文学展。泉鏡花・徳田秋聲・室生犀星など石川県出身作家の資料だけでなく、教科書にも登場する著名作家と石川のかかわりを示す資料や、「文学館」のイメージからは遠い絵画や工芸品といった意外な資料も面白い。
 

 広坂・21世紀美術館(石浦神社向い)から城下まち金沢周遊バス(左回りルート)で21分、17:46金沢駅東口に到着。

 金沢駅から徒歩1分で、ショッピングモール「金沢フォーラス」、6Fの「おひつごはん四六時中」に18:00着、夕食。19:30宿泊先の「ホテルマイステイズ金沢キャッスル」(金沢市此花町10-17)到着、チェックイン

 

 ★ ★ ★

●加賀本多家の歴史
 
 加賀本多家の初代は、徳川家康の重臣・本多正信の次男、本多政重(まさしげ)。彼は当初、徳川家に仕えたが、その後、様々な大名家を渡り歩き、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いには宇喜多秀家の家臣として参加、西軍で活躍した。また、慶長9年(1604)には上杉景勝の執政・直江兼続の養子となり、上杉家に仕える。さらにその後、慶長16年(1611)には加賀藩前田家へ仕えることとなり、それ以降、初期加賀藩政を支える重要な役割を果たした。

 「加賀百万石」の加賀藩前田家には、多くの家臣の中でも最上級の藩士が8家あった。彼らは1万石以上の禄高を与えられた大名クラスの重臣で「八家(はっか)」と呼ばれ、藩内では家老よりも上位の年寄役を務め、政務にあたった。また、戦時には前田家中に編成される軍団の長となり、部隊の指揮を務めた。

 加賀本多家はこの「八家」のうちの1つ、そのなかでも最高の禄高5万石を与えられている。江戸幕府から1万石以上の領地を与えられた者を大名というが、前田家の家臣に過ぎない本多家が5万石を拝領していたことは、全国的にも破格の待遇。この初代・本多政重以降、加賀本多家の歴代当主は年寄役として加賀藩政の参画を続け、重要な役割を果たした。特に幕末においては、11代当主・本多政均(まさちか)が執政として藩政を主導、江戸幕府と京都の朝廷との間で困難な政局を乗り越えていった。

 また、本多家は前田家中でも別格の扱いを受け、藩主前田家からは2度にわたる姫君のお輿入れがあった。前田家3代利常六女・春姫(はるひめ)は本多家2代政長に、前田家12代斉広七女・寿々姫(すずひめ)は本多家9代政和に嫁している。「本多の森公園」は、本多家の武家屋敷が軒を連ねていたところ。なお現在、15代当主・本多政光氏が、「加賀本多博物館」の館長を務めているという。

2024年6月 8日 (土)

福島中通りの花街道

 2024年4月15日(月)、福島県二本松市から郡山市へ。中通りの北から南へと花街道を行く。この日、福島県中通りの天気は快晴、最高気温が25℃以上の夏日。満開の巨桜を巡る。

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●日向(ひなた)の人待ち地蔵桜(二本松市長折字日向)8:30~8:45

 8:10、東北道を二本松ICで降りて東へ向かい二本松市の旧岩代町へ。峠道に立つ一本桜。樹齢約100年のソメイヨシノ。樹高13m。桜と菜の花との組み合わせが良い。桜の木の下に佇む赤い前掛けのお地蔵様が、いかにも人を待っているようだという。

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 駐車場からは、残雪の安達太良山系を望む雄大な景色。

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●箱石の追猪(おい)の桜(二本松市上長折字箱石)9:12~9:30

 農作物を荒らすイノシシを桜の根元に追い込んでいたことから、その名前がつけられた。樹齢280年のエドヒガンサクラ、樹高26m。

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●合戦場の桜(二本松市東新殿字大林)9:47~9:55

 旧岩代町の東新殿地区にあり、国道459号線沿いにある。2本のベニシダレザクラで、樹齢180年、樹高18m。「三春の滝桜」の孫桜とも言われる。

 「合戦場」とは、1040年頃、奥州征伐で源(八幡太郎)義家と阿部貞任・宗任兄弟がこの辺りで戦った(前九年の役)伝承に基づくという。

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 満開といえ、花が寂しい、痛ましい。樹木医のもと数年計画で樹勢回復の施術を実施中だそうだ。募金箱があって、保存会から支援を呼びかけている。

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●塩ノ崎の大桜(本宮市白岩字塩ノ崎)10:27~11:32

 臨時駐車場は、温熱ケア・天然温泉「天空郷」の駐車場を利用。

 周囲を見渡せる小高い丘の上に咲く 推定樹齢600年のエドヒガンザクラ、高さは約18m。地上1mのところで三枝に分かれ、東西南北各20mで均衡がとれた見事な枝ぶりで、優雅なたたずまい。

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 「天空郷」の駐車場のある対面の丘も桜が満開。

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●高柴のデコ屋敷(郡山市西田町)11:43~12:05

 高柴デコ屋敷は、郷土玩具である三春駒や三春張子人形の発祥地。デコ屋敷の「でこ」とは張子の人形の事で、人形屋敷のこと。江戸時代に三春藩領であったため、三春駒や三春人形と呼ばれるようになった。今では人形づくりの工房が、4軒などからなる集落。

 デコ屋敷17代目「橋本広司民芸」の古民家。

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 また、この高柴地区に伝統的に継承された張子の面を使った郡山市指定重要無形民俗文化財の「高柴七福神踊り」などや「ひょっとこ踊り」など独自の文化も根付いている。

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 頂いたチラシによると、5月26日(日)高柴デコ屋敷の大黒屋駐車場で「高柴デコ祭り」が開催されるようだ。

●雪村庵の枝垂れ桜(郡山市西田町大田字雪村)12:11~12:35

 室町時代の画僧・雪村が晩年、当地を活動の処としたとされる。正面にはそれぞれ、「雪村桜」、「雪村梅」と名づけられたシダレザクラと梅の古木があり、桜の名所の一つに数えられている。

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 三春町の市街地に入り、国道288号と県道40号線が交差する四つ角交差点にある担々麺の店「むらかみ亭」で昼食(850円)。

 三春町は、福島県の中央部、中通りの中央部に位置し、田村郡に属する。人口1万6千人。戦国時代は田村市がこの地に城を構え、江戸時代に秋田氏の城下町として栄えたこの地にはお寺や蔵が多く、古き良き街並みが広がっている。白壁の蔵、昭和初期の木造家屋、細い路地や石畳の道が残っているそうだ。町の中心部の大通りに面しては、新しい商業施設や立派な公共施設が並ぶ。

●福聚寺(ふくじゅうじ)桜(三春町御免町 )13:38~13:54

 13:30「三春町歴史民俗資料館」(三春町桜谷)裏手の駐車場に車を置き、急な山道を登ると墓地がある。その墓地から急な細い道を下ると臨済宗「福聚寺」。ここは、戦国時代の三春城主田村家の菩提寺。「福聚寺」の境内にはソメイヨシノのほかに、樹齢470年と樹齢250年の2本のエドヒガン系ベニシダレザクラの巨樹がある。

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 満開時には、背後の竹林の濃い緑がより一層、桜を浮かび上がらせる。

●三春の滝桜(三春町大字滝字桜久保)14:10~15:00

 三春町のシンボル「滝桜」は、大正11年に桜の木としては初めて国の天然記念物に指定。開花期には四方に伸びた枝から、薄紅色の小さな花を無数に咲かせ、その様は流れ落ちる滝のよう。エドヒガン系ベニシダレザクラ、樹齢1000年以上(推定)、高さ13.5m。「滝桜」は「日本三大桜」の一つで、ほかに「根尾谷淡墨桜」(岐阜県本巣市)と「山高神代桜」(山梨県北杜市)。

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 駐車場(無料)から坂道を徒歩で数分。土産屋や屋台が並び、満開とあって観光客が多い。渋滞緩和のため、「三春町運動公園」から無料シャトルバスも運行しているそうだ。三春町では、滝桜の保護・保存や周辺環境の整備、来場者受け入れの充実を目的に「観桜料徴収条例」を制定している。開花期間中の観桜料は500円(中学生以下無料)。

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●紅枝垂れ地蔵桜(郡山市中田町木目沢字岡ノ内)15:08~15:23

 樹齢約400年とされる「紅枝垂地蔵桜」は、樹高16m。 「三春の滝桜」の3kmほど南、車で10分ほどにあり、花色の濃いベニシダレ。

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 「地蔵桜」という名は、この桜の下に地蔵堂があり「延命地蔵尊」が祭られているのが由来。 昔から赤ん坊の短命、夭折の難を逃れ、健やかな成長を願かけたという。

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●さくら・はなもも回廊郡山市中田町木目沢)15:29~15:44

  「紅枝垂れ地蔵桜」の背後の丘の上には「さくら・はなもも回廊」があり、道路脇の階段を登ると「見晴らしの丘」に至る。満開になると丘が桃色に覆われる。

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●上石(あげいし)の不動桜(郡山市中田町上石字舘)15:57~16:10

 不動明王をまつる不動堂の境内に咲く樹齢350年のエドヒガン、樹高16m。「三春の滝桜」の子孫と考えられている。「滝桜」や「紅枝垂れ地蔵桜」から、車で20分程度の距離にある。

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 16:55須賀川インターチェンジで東北道に入り、帰路へ。

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