2024年5月25日~27日、加賀百万石城下町・金沢、その歴史と文化を学ぶ2泊3日の「金沢探訪の旅」。
3日目 27日(月)は、金沢三茶屋街の「ひがし茶屋街」と「主計町茶屋街」、百万石の台所「近江町市場」を散策、文豪記念館も見学。
8:00、ホテルをチェックアウト。金沢駅東口バスターミナル⑦番から、8:39発の城下まち金沢周遊バス(右回りルート)に乗車。8:50、橋場町(ひがし・主計町茶屋街)バス停着。
●ひがし茶屋街 9:00~9:45
まずは、バス停から徒歩2,3分ほどの「ひがし茶屋休憩館」へ行く。
この通りは、「ひがし茶屋街」のある東山に囲まれた観音町。古い町屋が並ぶ。この通りに先に、金沢三十三観音霊場 の「観音院」がある。

9:00「まいどさんガイド」が待機する「ひがし茶屋休憩所」(旧涌波家住宅) 着。
旧涌波家(わくなみけ)住宅主屋は江戸時代末期の建築と推定され、「ひがし茶屋街」の主要道から少し離れた所に位置している町屋建築。建築当初は平屋建てだったが、明治時代以降に2階建てに増築されたそうだ。間口が狭くて、奥が深い町屋の特徴。窓がないため、天窓で明かりを取る。2003年(平成15年)に復元整備された。

軒先に「トウモロコシ」をぶら下げてある。これは、観音さまの功徳が得られる日を「四万六千日」といい、この日に観音さまにお参りすると、4万6千日分(126年分)のお参りをしたのと同じご利益があると言われている。

「観音院」では毎年、旧暦7月9日(今年は8月12日)に年中行事として「四万六千日」が行われ、参拝後に祈祷を受けたトウモロコシを買って帰り、自宅の軒先にぶら下げる。トウモロコシの実は家族の繁栄(子だくさん)、下部のたくさんの毛は「儲け」「魔除け」に通じる。この行事は金沢特有というわけではなく、浅草「浅草寺」の7月9日には「ほおずき市」が行われている。ちなみに「四万六千日」は、もとは「千日詣」だったとも言われている。
9:10、ガイドから「200年前のひがし茶屋街の創立時の絵図」の説明を受ける。

「ひがし茶屋街」は、金沢3茶屋街の一つで、出格子の風情あるお茶屋が軒を並べる観光名所。金箔工芸の店やお土産雑貨の店も多い。
・箔一(はくいち)
「箔一」は、金箔商品の販売店で、金箔ソフトクリームの元祖(値段は、891円)

「箔一」は、新名物の金箔ソフトクリームや、金沢箔工芸品、金沢箔菓子、あぶらとり紙や金箔化粧品など多彩なアイテムが揃っている。風情ある白塗りの外観は、江戸期から芸妓衆に愛されていた「銭湯東湯」を受け継いだ。
・金澤しつらえ
「ひがし茶屋街」のシンボル的存在ともいえる見返り柳。かつては柳の街路樹が並んでいたが、現在は1本を残して取り払われている。その正面の建物「金澤しつらえ」は、江戸末期より200年もの歴史を持ち、金沢市の保存建造物にも指定されている茶屋建築。写真は、Googleマップより。

現在、高度な技術・技法をもつと認定された「人間国宝」の作品や、伝統的な素材で作られた1点物のアクセサリーなどを取り扱っている。また、2階の「茶房やなぎ庵」では「ひがし茶屋街」を眺めながらお抹茶、上生菓子を楽しむことが出来るという。
茶屋建築の特徴的な外観の色彩「弁柄塗り」(べんがらぬり)は、江戸時代にインドのベンガル地方から伝わったベンガラという天然の土からとれる顔料で、酸化鉄を含むことから独特の赤い色合いを表現する。ベンガラには木材の防腐効果があるほか、年間200日雨が降る金沢で、街を明るく見せる工夫で、もちろん花街の色気のある色彩が使われた。
ここが、「ひがし茶屋街」のベスト・フォトスポットの「一番町」の通り。左手前は、見返り柳。

窓をふさぐ格子も風情あり。虫かごのような造りから、木虫籠(きむすこ)と呼ばれる。

この木虫籠のおかげで、昼間は建物の中が見えづらく、反対に家の中から外は見えやすい。この格子の断面は台形になっていて、外側が太く、内側が細くなっている。これは、室内により多くの光を採り入れる工夫で、特に細い格子を使うのが金沢の特徴だという。
・志摩
1820年」(文政3年)に建てられたお茶屋の建物で、これまで手を加えることなく、江戸時代そのままに残っており、学術的にも貴重な文化遺産として高く評価されている。
お茶屋は、2階を客間とし、押し入れや物入れ等は作らず、あくまでも遊興を主体とした粋な造りとなっている。お客が床の間を背にして座ると、その正面が必ず控えの間となる。襖がひらくと同時に、あでやかな舞や遊芸が披露されるそうだ。
・懐華樓(かいかろう)
築200年の金沢で一番大きなお茶屋建築。金沢市指定保存建物として、昼は一般に広く公開している。カフェの利用も可能。
「懐華樓」の中は、金箔の水引で織られた畳の茶室、輪島塗の朱階段、加賀友禅の花嫁暖簾、夜は今も一見さんお断りで「一客一亭」のお座敷があげられている部屋などがあり、全てを見学することができる。名物「黄金くずきり」などの甘味を楽しめる「懐華樓カフェ」やオリジナル商品を販売する蔵の店も併設。季節ごとにお茶屋遊びを体験して頂ける「艶遊会」も開催している。
写真は、「志摩」と「懐華樓」。Googleマップより引用。


・藤とし
松が建物を貫通しているという建物「藤とし」。

「一見さんお断り」のため見学できないが、このお茶屋は赤松が建物を突き抜けて生えていることでも有名。2階のお座敷の床の間を、見事に貫通しているらしい。文化文政の頃からと言われ、樹齢200年以上、高さ8mもあるそうだ。
一番町の通りを反対側(東から西の方)を望む。

二番町の通りを「宇多須神社」側から(東から西)を見る。

・宇多須神社(うたすじんじゃ)
9:40、「宇多須神社」参拝。「ひがし茶屋街」の奥に社殿があり、毎年2月3日の節分祭には芸妓衆が踊りを奉納し、多くの見物客が訪れる。江戸時代、藩祖・利家の没後、2代目利長が密かに利家をここに祀り、こっそりお詣りしたという。

三番町の通り。

「徳田秋声記念館」に入館。観覧料210円。予約していた当館の解説員が案内。

金沢三文豪の一人・徳田秋聲は、尾崎紅葉の門下を経て、田山花袋、島崎藤村らとともに明治末期~昭和の自然主義文学における代表的作家。川端康成に「小説の名人」と言わしめた技巧の高さ、つねに弱者への視点を忘れない。庶民の生活に密着した作品は、「新世帯(あらじょたい)」「黴(かび)」「爛(ただれ)」「あらくれ」「仮装人物」「縮図」など。

1階 ▽書斎(再現);東京都文京区の自宅の書斎を忠実に再現し、貴重な遺愛品を当時の雰囲気のままに展示。▽常設展示「光を追うて」;自伝的小説「光を追うて」を元に、秋聲の生い立ちから小説家になるまでのあゆみと、近代化する金沢の姿を辿る。
▽和紙人形シアター;秋聲の代表作に登場する女性を、和紙人形作家・中西京子による「和紙人形」で展示。秋聲の生涯と作品を映像で紹介。▽秋聲作品への賛辞;川端康成、広津和郎から古井由吉、中上健次まで、作家たちからの世代を超えた秋聲および作品への賛辞を紹介。
2階 ▽企画展示室;「レコオドと私~秋聲の聴いた音楽~vol.2」(会期:3月16日~7月20日)。昭和5年、60歳で社交ダンスを始めたことで知られる秋聲。ダンスに没頭してからの秋聲愛用の蓄音器やSPレコードもまじえて展示。
▽常設展示室;秋聲の生涯を6期に分け、年譜や基礎資料からその業績を辿る。遺品、初版本、直筆原稿、筆跡など、多くの資料を展示。▽映像コーナー(文学サロン);新藤兼人・徳田章子・高松光代の三氏が秋聲を語ったインタビュー映像や、金沢の三文豪を紹介。
●梅の橋と秋声の道
「徳田秋声記念館」を出るとすぐに、「浅野川大橋」の上流側に架かる木造風の「梅ノ橋」。この橋は、歩行者専用。


浅野川の右岸に沿って「秋声の道」を歩く。国道369号線を渡って、更に「秋声の道」を進むと、「梅ノ橋」 と同じような浅野川に架かる「中の橋」。浅野川の上流は、国道359号線のコンクリート橋の「浅野川大橋」。

●主計町茶屋街 11:10~11:20
「中の橋」から見る浅野川沿いの「主計町茶屋街」は桜の名所。
「中の橋」を渡って対岸に出ると、橋のたもとに「主計町緑水苑」と呼ばれる小公園がある。
浅野川に架かる歩行者専用の「中の橋」(左)と「主計町緑水苑」(左) 写真は、Googleマップ。

金沢市制百周年記念事業の一環として1989年(平成元年)、旧金沢城の内堀だった「西内惣構堀(にしうちそうがまえぼり)」を活かし、「池泉回遊式庭園」をなぞらえ、「主計町緑水苑」が整備された。「西内惣構堀」は、1599年(慶長4年)金沢城防備のため2代目の前田利長が、高山右近に命じて造らせた金沢城西側の内堀のこと。
浅野川沿いに茶屋造りの町家が並ぶ「主計町茶屋街」は、金沢三茶屋街のひとつで、全国で初めて旧町名が復活。 艶やかな雰囲気が漂う茶屋街は、春ともなれば桜並木が満開の花を川面に垂らす。

「主計町茶街」の前の道は「鏡花の道」。この近くの下新町に「泉鏡花記念館」があるが、5月20日~30日は展示替えのため休館。
幼い頃に母を亡くした金沢三文豪の一人・泉鏡花は。明治、大正、昭和にかけて亡母憧憬を基底とする浪漫と幻想の世界を紡ぎ出し、多くの小説や戯曲を生み出し、やがて浪漫主義文学の大家、また天才と称された。「義血侠血」「高野聖」「婦系図」「歌行燈」「日本橋」「天守物語」などの傑作の数々は、現在も人々に愛され続けている。
「浅野川大橋」の橋のたもとにある「今越清三朗翁出生の地」の石碑。


金沢では「乃木将軍と辻売りの少年」の話が、戦前映画や浪曲の題材にもなったという。今越清三郎は、1883年(明治16)主計町で生まれ幼くして死別、祖母と弟妹を養うため昼は魚、夜は辻占(くじ引きの菓子)売りをして貧困な生活を支えていた。清三郎が8歳の時、たまたま金沢を訪れた陸軍大将乃木希典と巡り合い、激励を受けたことで発奮し、やがて金箔師として大成したという。
浅野川大橋のたもとから100mほどの橋場交差点を右折し、国道249号線(百何石通り)を西へ、近江町市場方面に歩く。
こんな大通りにも写真のような古い建物が所々に並ぶのが、金沢らしい。

●近江町市場 11:35~
浅野大橋のたもとからおよそ12分、11:35に「近江町市場」に着く。写真は、十間町口。

約300年の歴史を持つ金沢市民の台所。日本海の鮮魚や加賀野菜の他、肉・洋品雑貨など180店以上の店がある。当日も観光客で賑わっていた。

11:50、昼食に「百万石うどん」の店に入る。

観光客相手の海鮮丼や握り鮨の店が多く、2500円以上するので安くはない。百万石うどんなら850円。近江町市場で45年の「百万石うどん」に入店、食券購入。

出汁は昆布と鰹節を使用した、上品で優しい醤油味。もちもちの太麺とエビや野菜の天ぷらが乗っていて、ボリューム満点。
●金沢駅構内
12:36発の武蔵が辻・近江町市場バス停から、12:50金沢駅東口へ。
13:50いったんホテルに戻り、預けてあった荷物を引き取り、再び金沢駅へ。14:30駅構内の「百万石街」で土産購入。
金沢駅構内の観光情報センターに展示してあった「かがやき甲冑展」(百万石祭りのイベント)の「赤母衣衆(あかほろしゅう)」の複製が展示してある。

「加賀百万石祭り」は、加賀藩の祖・前田利家が1583年(天正11年)6月14日、金沢城に入城したことにちなんだもので、入城の行列を再現した百万石行列をはじめ、数々のイベントが6月第1土曜日を中心とした3日間に行われる。利家は織田信長に仕えた頃は、信長の親衛隊的存在(馬廻り役)の直属精鋭部隊「赤母衣衆」として従軍したという。
金沢駅構内の「金沢百番街Rinto」でお土産を購入。金沢駅コンコースと新幹線改札口。


金沢駅15:55発の北陸新幹線「かがやき510号」東京行に乗車。18:03大宮駅着。
★ ★ ★
●ひがし茶屋街
浅野川界隈に位置する東山ひがし地区。ここは、1820年(文政3年)に遊郭として公許・形成された。その当時は約百軒以上の店が軒を連ね、茶街一帯が板塀で囲われ、入口には木戸が設けられるなど、別天地ともいえる金沢の歓楽地として大いに賑わっていた。
街並みを特徴づける美しい出格子と、2階を高くして座敷を設けた独特の構造を持つ茶屋建築が立ち並んでいる。加賀藩ではお殿様を見下ろしてはいけないということで、町人エリアの2階建ては禁止されていたが、周囲を塀で囲まれていた茶屋街のみは2階建てが許可されていた。現在は、重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に登録されており、南北約130m、東西約180m、約1.8haの保存地区内の建築物140のうち約3分の2が伝統的建造物。
重伝建は全国に数多くあるが、茶屋街として登録されているのものは4地区しかない。そのうち2つが「ひがし茶屋街」と「主計町茶屋街」。京都・祇園の茶屋町と並び、これら江戸時代後期から明治初期にかけての茶屋建築がまとまって残されている。
今日の「ひがし茶屋街」では、観光地化に向けて大きく舵を切ったのは最近で、2001年(平成13年)のこと。そして、2001年11月に「東山ひがし」として国の重要伝統的建造物群保存地区に指定され、一気に観光地へと整備されていった。ちなみに茶屋街としての保存地区の指定は、京都の祇園に次いで2例目とのこと。
●宇多須神社
「宇多須神社」は、718年(養老2年)に「卯辰治田門天社」として創建。浅野川の河辺から掘り出した古鏡に卯と辰の紋様があり、卯辰神を祀ったことが始まり。1599年(慶長4年)に 前田利家(加賀藩の藩祖)が亡くなると、前田家2代利長(初代加賀藩主)が金沢城の北東方向(鬼門)にあたる本境内に密かに「卯辰八幡宮」を建てて藩祖・利家の神霊を祀って藩社とした。藩士は禄高に応じて祭祀料を負担し、藩主の祈祷所として崇敬を集めた。
当時、2代利長は徳川家康暗殺の嫌疑が掛けられるなど不安定な情勢下にあり、徳川家の疑念になる事を避ける必要があった。利家は死去する直前まで家康と対立する立場にあり、利家を崇拝する事はすなわち家康と対立する事になり、公には出来なかったと思われる。利長や藩士達は、こっそり利家をお祀りした。
明治4年(1871)に廃藩置県が施行すると庇護者を失い「卯辰八幡宮」が荒廃した為、1873年(明治6年)に金沢城の金谷出丸(金谷御殿)の跡地に利家の神霊を遷座し、「尾山神社」を創建している。当地に残された当社は、1901年(明治34年)に卯辰山の旧名(宇多須山)にちなんで「宇多須神社」に改称、1902年(明治35年)には県社に列した。
●赤母衣衆
母衣(ほろ、幌)は、矢や石などから防御するための甲冑の補助武具で、兜や鎧の背に巾広の絹布をつけて風で膨らませるもの。戦国時代に鉄砲が伝来すると補助武具具としての実用性は失われ、旗一種の指物(馬印)として、大将の近習(側近)や使番(伝令)だけが着用を許された。
これらは名誉の軍装として、 織田信長の軍には馬廻りから選抜された信長直属の使番の集団は、「黒母衣衆(くろほろしゅう)」と「赤母衣衆(あかほろしゅう)」があり、それぞれ黒と赤に染め分けた母衣を背負わせた。前田利家は、赤母衣衆として活躍した。
今年の「百万石まつり」(5月31日~6月2日)のポスターの写真素材に「赤母衣衆」が使われている。
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