菅谷城跡 ー 比企城館跡群
2024年2月25日(日)、比企城館跡群の一つ「菅谷城跡」(埼玉県嵐山町)に行く。
「菅谷城」(すがやじょう)は、武蔵国比企郡(埼玉県比企郡嵐山町菅谷)にあった城。「菅谷館」(すがややかた)とも呼ばれる。鎌倉幕府の有力御家人として知られ、武蔵武士の典型的人物で武将の鑑(かがみ)として尊敬されてきた畠山重忠の居館。1973年(昭和48年)、居城跡は、国の史跡に指定された。館跡には埼玉県立「嵐山史跡の博物館」が設置されている。2017年(平成29年)4月、「続日本100名城」(120番)に選定された。
畠山氏は、重忠の父・畠山重能の代から大里郡畠山荘(現在の深谷市畠山)の荘司であり、重忠も当初は同荘内に館を置いていたが、やがて鎌倉街道の要衝にあたる菅谷の地に移って館を構えたのが始まり。
8:59、東武東上線の武蔵嵐山駅に到着。
武蔵嵐山駅でボランティアガイドと合流し、駅西口から歩いておよそ1Kmほどの「菅谷城跡」に向かう。朝から曇りだが、このあと雨の予報が心配。
9:30、「菅谷城跡」の「搦手(からめて)門」跡に到着。
国道254号線から見る「菅谷城跡」の土塁と搦め手門 出典:Googleマップ
「菅谷城跡」内にある県立「嵐山史跡の博物館」の入り口。
9:35入館(入館料100円)。エントランスに「菅谷城跡」のほか、「杉山城跡」、「松山城跡」、「小倉(おぐら)城跡」の「比企地区の城館跡群」の立体模型や写真が展示。
「畠山重忠」のロボット(何故か動かない?)。
「重忠の参陣」の展示。
源頼朝が房総半島で勢力を回復して鎌倉を目指して長井の渡し(現在の横須賀市)に達したとき、それまで平家方に属していた畠山重忠は、源氏の白旗を掲げて頼朝に参陣した。1180(治承4)年、重忠は17歳。父が平家に仕えていたため、平家軍に加わっていたが、在京中の父・重能に代わり、河越氏、江戸氏らの同族や一族郎党を率いて頼朝の傘下に入り、頼朝の忠実な御家人となった。
「第1章 掘り出された食」の展示。
比企地域を中心とする中世の遺跡の出土物から、煮炊きに関する道具や食器、食材など、食に関するものを紹介。
「2章 食を得る」の展示。
食材を得る手段として、狩猟や農林漁業、市での購入や領内からの貢納などがあった。それぞれの場面の美術工芸品や古文書を紹介。
犂先(すきさき)鋳型(金井遺跡B区-坂戸市) 出典:当博物館のホームページ 犂の説明図(上の右図)の出典は、「デジタル大辞泉」。
犂とは、牛や馬に引かせ、畑や田を耕す農具。犂の先端の鉄製部分が犂先。
「3章 食の風景」の展示。
鎌倉時代の料理に関する記録や、武士が食事の時の行儀を記した家訓など資料を展示。また復元写真や絵画資料などで武士の食の風景を紹介。
「絹本着色酒飯論絵巻模本」(群馬県立歴史博物館蔵) 出展:当博物館のホームページ
「第4章 食と信仰」の展示。
武士は、合戦に赴き殺生を生業としていたが、さらに食においても肉食も得ていた。鎌倉時代の武蔵武士たちが殺生をどのように贖罪していたのか、仏教や神道といった信仰を紹介。
「銅造阿弥陀三尊像懸仏」(古尾谷神社蔵で県指定文化財)は、古尾谷神社(川越市)の神宝として秘蔵されていた懸仏(かけぼとけ)。
『吾妻鏡』『今昔物語集』などの古文書。
10:15、博物館を出て、城跡内をめぐる。「嵐山史跡の博物館」の建物。
しばらくすると雨が降り出す。
10:30、竹筋コンクリート製の畠山重忠の像。
菅谷城の二ノ郭(くるわ)の土塁上に建っている。1929年(昭和4年)に造られ、鎌倉の南の方角の空を仰いでいる。2011年度(平成23年度)に嵐山町の文化財に指定された。
この辺りが本郭(ほんぐるわ)跡とされている。奥まった場所で、土塁と空堀に囲まれ、南側は都幾川の絶壁。
1205年(元久2年)、北条氏の策略により畠山重忠が武蔵国二俣川(現・横浜市旭区)で戦死した。その後は、畠山の名跡を継いだ足利義純の子孫に伝えられたというが、15世紀後半に至るまでの詳細は不明だという。
11:05「安岡正篤記念館」の前を通過。
1970年に安岡正篤氏が昭和初期に創立した「日本農士学校」の跡地に、「財団法人郷学研修所」が設立。2012年に「公益財団法人 郷学研修所・安岡正篤記念館」が正式名称となった。「日本農士学校」の精神を継承しつつ、郷学の振興を図ると共に、今の世にこそ必要とされる安岡正篤の教学・人間学を後世に伝えるために活動しているそうだ。
広い敷地の左手の平屋の小さい建物のほうが記念館らしいが、ちょっと入りにくい。
11:15、昼食のために「国立女性教育会館」に入館。
「国立女性教育会館」(NWEC)は、文部科学省所管の独立行政法人が運営する研修施設。1977年に「国立婦人教育会館」として宿泊棟も備えた研修施設の運営をし、地域活動の主婦リーダーの育成を主な事業として設立されたという。広大な敷地は、元々は「日本農士学校」だった。建物も50年近くなり老朽化し、あまり利用されてないようだ。国が嵐山町に譲渡、または撤去を提示しているという。
館内のエントランス。
11:30、教育会館のレストランで、日替りランチ(とんかつ定食880円)。12:30、教育会館を出て、武蔵嵐山駅まで歩いて戻る。
次の予定地、戦国期城郭の最高傑作とされる国指定史跡「杉山城跡」(嵐山町杉山)は、東口から約4.4km(徒歩で約50分)。雨のため中止となった。
★ ★ ★
●嵐山町(らんざんまち)
埼玉県の中央、比企郡に属する。人口は約1万8千人。「武蔵の小京都」と称され、全国京都会議に加盟。昭和初期には、現在の「嵐山渓谷」が京都の嵐山(あらしやま)の風景に似ていたことから、「公園の父」といわれる本多静六(林学者、造園家、旧名;折原静六)により「武蔵嵐山」と命名され、評判になって多数の観光客が訪れた。
平安時代末期は、武将・源義仲や畠山重忠ゆかりの地。江戸時代には江戸と上州を結ぶ川越児玉往還(川越道)の菅谷宿として栄えた。1889年(明治22年)、比企郡菅谷村が成立。1955年(昭和30年)比企郡七郷村と新設合併し、改めて菅谷村が発足。1967年(昭和42年) 町制施行で嵐山町となる。日本の国蝶・オオムラサキの生息地としても有名。
●国指定史跡「比企城館跡群」
埼玉県比企地方には現在、69ヵ所の城館跡が確認されている。その多くが15世紀から16世紀にかけて築城された。2007年(平成19年)、文化審議会から文科大臣に答申が出され、「杉山城跡」が国指定史跡になることが決まった。指定の名称は『比企城館跡群』で、埼玉県の比企地方でで、既に国指定されている「菅谷館跡」に「杉山城跡」、「松山城跡(吉見町)」、「小倉城跡(ときがわ町・嵐山町・小川町)」が加わり、4つの城館跡の広域指定された。
比企地方は埼玉県のほぼ中央に位置していて、東松山市、比企郡滑川町、嵐山町、小川町、川島町、吉見町、鳩山町、ときがわ町にまたがる地域。秩父山地から関東平野に突き出るように比企丘陵があり、東側は位置の側や越辺川が形成した沖積地が広がる。鎌倉〜戦国時代には、鎌倉と上野国(群馬県)を結んでいた鎌倉街道が通る交通の重要ポイントで、また河川を利用した物流でも重要な地域だった。
●安岡正篤(まさひろ)
1898年(明治31年)大阪市生まれ、(大正11年)東京帝国大学法学部政治学科卒業。昭和2年「金鶏学院」、昭和6年「日本農士学校」を設立、陽明学を基礎とした東洋思想の研究と後進の育成に努める。昭和24年「師友会」を設立、政財界のリーダーの啓発・教化に努め、その精神的支柱となった。東洋古典の研究と人材育成に尽力する一方で、体制派「右翼」の長老としても政財官界に影響力を持ち続けた。
安岡正篤(1971) 出典:ウキメディア・コモンズ
佐藤栄作首相から中曽根康弘首相に至るまで、歴代首相の指南役を務め、さらには三菱グループ、東京電力、住友グループ、近鉄グループ等々、昭和を代表する多くの財界人に師と仰がれた。1983年(昭和58年)、愛人の細木数子との再婚騒動があったが、12月に逝去。死後に婚姻無効が調停されている。昭和20年8月15日、昭和天皇の「玉音放送」で発せられた「終戦の詔勅」の草案作成にかかわり、また「平成」の元号の考案者でもあったという。
●国立女性教育会館
文部科学省所管の独立行政法人で、宿泊研修施設を運営する。広大な敷地(東京ドーム5つ分、23ha)は元々は、農村の指導的人材の養成を目的として設立された「日本農士学校」だった。1977年に「国立婦人教育会館」として宿泊棟も備えた研修施設の運営をし、地域活動の主婦リーダーの育成が主な事業として、設立された。残りの部分は「日本農士学校」設立者である安岡正篤を後世に伝える「郷学研修所・安岡正篤記念館」となった。
1999年以降の目的は、男女共同参画社会の形成の促進。具体的には、女性教育指導者その他の女性教育関係者に対する研修、女性教育に関する専門的な調査及び研究等を行う。本館に男女共同参画および女性・家庭・家族に関する専門図書館である「女性教育情報センター」、女性教育や男女共同参画施策等に関わった女性団体や女性の史・資料の収集・整理・保存・提供を行う「女性アーカイブセンター」がある。
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