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2024年1月17日 (水)

四谷界隈の谷と坂

 2024年1月13日(土)、四谷界隈から神宮外苑をめぐる10kmほどの新春ウォーク。


■JR信濃町駅から四谷三丁目の都会の谷と坂をめぐる。

 新宿駅からJR総武線、9:55「信濃駅」着。改札口(1ヶ所)を出て、正面に見える「信濃町歩道橋」の左手「千日坂」を下る。

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●千日坂と一行院 10:00

 「千日坂」を下る途中、首都高(4号新宿線)の外苑出口高架の下に、「一行院」(現・一行院千日谷会堂)がある。

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 この辺りは、徳川家の家臣で大名の永井直勝の下屋敷があった。「一行院」は、僧侶になった直勝の部下のために、下屋敷の一部を与えて庵を建立したのがその始まりとされる。ちなみに「信濃町」という地名は、ここに屋敷を有していた永井家宗家が代々「信濃守」を称していたことに由来する。 

 「千日坂」は、「一行院」の正式名称「一行院千日寺」に由来する。直勝の死後、回向(えこう)のため千日回向を行った。このことから正式名称が「一行院千日寺」となったと言われている。直勝の子孫に、作家の永井荷風三島由紀夫、狂言師の野村萬斎などがいるそうだ。

 「みなみ児童遊園」を左折し、狭い道を東に進むと、「みなみもと町公園」にぶつかる。

●鮫河橋地名発祥所 10:10

 「みなみもと町公園」 出入口の左手に、小さな赤い鳥居と祠の「鮫ヶ橋せきとめ稲荷」、その中に「鮫河橋地名発祥所」の碑がある。

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 「鮫河橋」は、「鮫ヶ橋」とも表記される。かつてこの辺りは 低湿地帯で「鮫河」という川が流れており、 そこに「鮫河橋」が 架かっていたとされるが、今はその痕跡はない。江戸時代までこの碑のある場所は、周囲から下ってくる谷の合流点、いったん雨が降ると小さな川は濁流となった。急な崖で隔てられた台地上には大名や旗本の屋敷があったが、谷筋の低湿地は町人地で、台地と低地の境には四谷南寺町という寺院密集地帯があったという。

●みなみもと町公園 10:15

 「みなみもと町公園」の東側出入口付近から見る「ちびっ子広場」。

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 天皇皇后両陛下の長女・愛子さまが、公園デビューしたところ。近くには、東宮御所(現在は仙洞御所)がある。

 園内を散策。「鮫河橋坂」に面する公園の北側出入口の方にある「森の広場」から、左の「多目的広場」、右の「ちびっ子広場」を望む。

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 明治時代は、公園の敷地を含む地域は御料地となり、その後は学習院の所有地となったりいくつかの変遷を経て、東京都が買収、1964年(昭和39年)に都立公園として開園、1967年(昭和42年)に新宿区に移管後、1996年(平成8年)に全面改修され現在に至っている。

●出羽坂 10:25

 中央線・総武線・首都高のガード下をくぐってすぐ左手に、「出羽坂」。(出典:Googleマップ)

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 「出羽坂」は、明治維新後にこの坂上に旧松江藩主であった松平伯爵(徳川時代は松平出羽守)の屋敷が移転してきたため、この坂名になった。現在は大きなマンションを含む高級住宅街になっている。「出羽坂」には上らず直進する。ここから「須賀神社」方面に向かう住宅街を通る道幅は狭い。ファミリーマートで左の道を進むと、突き当たりが新宿区立「若葉公園」。

●若葉公園と闇坂 10:30

 「若葉公園」入り口の右手が「闇(くらやみ)坂」(出典:Googleマップ)。

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 この坂の左右にある「松厳寺」と「永心寺」の樹木が繁り、 薄暗い坂であったためこう呼ばれたという。

 住宅街の中にある「若葉公園」は、すり鉢状の谷に位置し、三方を擁壁で囲まれている。遊具の他、湧水を利用した水路と池が設置されている。

●鉄砲坂 10:35

 再び元の「須賀神社」に向かう道に戻り、更に進むと右手の丸正若葉ハイツ(若葉町2丁目)から登る「鉄砲坂」。江戸時代、坂の崖下に幕府の鉄砲練習場があったことからこの名がついた。
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●戒行寺坂

 更に元の道を進み左手に「戒行寺坂」がある。

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 若葉二丁目から左手に須賀町9番の日蓮宗「戒行寺」の南脇に登る坂道。坂道の坂下はかつて「戒行寺谷」と呼ばれていた。
  
●観音寺坂 10:40
 
 「観音坂」は、若葉二丁目の「西念寺」と「真成(しんじょう)院」との間の坂。「西念寺坂」などとも呼ばれる。若葉二丁目から北東、新宿通り(国道20号)方面に通じる。
 
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 坂名は、「真成院」の「塩踏観音」またの名「汐干観音」にちなむ。「真成院」は米軍の空襲受けて全焼。戦後に再建され、1971年(昭和46年)に現在の寺院に生まれ変わった。東京の土地事情を鑑み、当時としては珍しい室内墓地「四谷霊廟」を全国に先駆けて建立した。
 
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●西念寺と服部半蔵 10:45

 
 「西念寺」(浄土宗)は、服部半蔵が創建、服部氏の菩提寺である。この界隈は寺社が多い。

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 境内にある服部半蔵の墓。半蔵は、徳川家康の旧臣で伊賀者の頭領、槍の名手だった。

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●須賀神社 10:55

 「須賀神社」の男坂を上る。

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 「須賀神社」は、江戸時代には四谷十八ヵ町の総鎮守の天王様として信仰を集めた。アニメ映画『君の名は。』の聖地、モデルとなった男坂の石段が有名。

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 神社には、新宿区指定有形文化財(絵画)に指定の「三十六歌仙絵」がある。境内にレプリカが展示してある。

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 「三十六歌仙」は、平安時代中期の公卿・藤原公任(きんとう)が、優れた歌人36人を選定したもの。万葉歌人から柿本人麿・山部赤人・大伴家持の3名、平安時代前期の『古今集』『後撰集』頃の歌人から紀貫之・在原業平・小野小町ら33名が選ばれている。

 「須賀神社の三十六歌仙絵」は、三十六歌仙を一人一枚の絵に仕立て、縦55cm×横37cmの絹地に彩色、額装の上社殿内に掲げてある。当時画家として高名な四谷の旗本・大岡雲峰の絵と、和歌や書画で人気を博した公卿・千種有功の書により、1836年(天保7年)に完成・奉納された。

 「須賀神社」の境内から「女坂」を下る。

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●東福院(天王)坂と愛染院 11:10
 
 「東福院(天王)坂」は、「須賀神社」男坂の反対側(北側)にある。坂名は、坂の途中にある「東福院」に因む。また「天王坂」とも呼ばれ、明治以前の「須賀神社」が「牛頭天王社」、周辺が「天王横町」と呼ばれていたことに由来している。
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 「愛染院(真言宗豊山派)」は坂の途中、上り右手にある(写真なし)。墓地に、『群書類従』の編者の塙保己一の墓がある。残念ながら墓地には一般の者は出入りは不可。

●円通寺坂

 「円通寺坂」は、若葉二丁目と須賀町の境界から北へ上り、新宿通りに至る坂道。坂名の由来となった「円通寺」が上り左手にある。新宿通りまで行って、戻る。
   
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●於岩(おいわ)稲荷 11:20
 
 四谷警察署が建つ外苑東通り(都道319号)から東に一本入った路地に、二つの「於岩稲荷」がある。「於岩稲荷田宮神社」は、『東海道四谷怪談』の主人公・お岩の伝承をもつ神社。
 
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 東京都指定旧跡「於岩稲荷田宮神社」に立てられた、以下のような都教育委員会の案内板がある。

 「田宮稲荷神社は、於岩稲荷と呼ばれ四谷左門町の御先手組同心田宮家の邸内にあった社です。初代田宮又左衛門の娘お岩(寛永13年没)が信仰し、養子伊右衛門とともに家勢を再興したことから「お岩さんの稲荷」として次第に人々の信仰を集めたようです。鶴屋南北の戯曲「東海道四谷怪談」が文政8年(1825年)に初演されるとさらに多くの信仰を集めるようになります。戯曲は実在の人物からは200年後の作品で、お岩夫婦も怪談話とは大きく異なり円満でした。(…後略)」

 もう一つは、道路の反対側にある「於岩稲荷陽運寺」。こちらもお岩さんを祀る。

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 両者とも「於岩稲荷」と名乗って、本家争いをしているらしい。どうも歴史的な背景を辿れば、田宮神社の方が本家のようだ。陽運寺は、戦後にこの四谷に移転してきた日蓮宗の寺院。「於岩稲荷田宮神社」の人気にあやかり、建立されたお寺だという。

●そば処「稜花」 11:30~12:20
 
 「於岩稲荷」の前の道を北上し、T字路で右折して緩やかな坂道を下って左の角地にある店に入店。夫婦で営む落ち着いた店で、ランチに鳥せいろ(1,300円)を注文。

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●女夫坂 (めおとざか)

 店を出て前の道路が「女夫坂」(上の写真)、別名「夫婦坂(めおとざか)」。「円通寺坂」の西側に平行する。昔はもっと勾配があって、両方からの上り下りの坂で、これを「夫婦坂」と呼んだ。この辺りの火事で改修され勾配は緩やかになり、歩いていて坂とは気がつかない。この坂を北上し、新宿通り(国道20号線)の四谷三丁目交差点と津之守坂入口交差点の中間に出る。
 
●津之守(つのかみ)坂

 新宿通りの「津之守坂入口」交差点。写真右側のビルの間が、「津之守坂通り」。
 
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 四谷二丁目付近の新宿通りから、靖国通り(都道302号線)までを南北に結ぶ通り。三栄町交差点から合羽坂下交差点までの通りの北半分が「津の守坂」と呼ばれる坂であるため、この通称が付けられた。

●車力(しゃりき)門通りと金丸神社 12:25
 
 津之守坂入口交差点の横断歩道を渡り、新宿通りを50mほど西に歩いた右手が「車力門通り」の入口。江戸時代、通りは荒木町エリアへ向かう。荒木町が松平摂津守の屋敷だった頃、「車力門横町」と呼ばれ、物資が屋敷へ荷車で持ち込まれていた。この辺りは、花街と呼ばれた場所で賑わった。

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 荒木町の花街は、すり鉢状に窪んだ谷地の底に溜まる「策(むち)の池」を中心に料亭や茶屋が並んでいた。今も飲食店が多く、隠れ家的な酒場が大勢を占めていて、花街の名残を残す。周囲はオフィス街、丘の上には高級住宅街、谷底に下町のような長屋がまだらに広がっている場所で、すぐ近くの喧騒の新宿の歓楽街とは違った雰囲気の街だという。

 「金丸稲荷神社」は、「車力門通り」に面する小さな神社。美濃国高須藩主・松平摂津守上屋敷の守護神として1683年(天和3年)創建した

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 美濃国高須藩・松平家3万石は、御三家・尾張徳川家の分家で、尾張藩の支藩として荒木町に江戸上屋敷を、西新宿に下屋敷を有していた。幕末の第10代藩主松平義建(よしたつ)の子・慶勝(よしかつ)、茂栄(もちはる)、容保(かたもり)、定敬(さだあき)の4人は、この荒木町の上屋敷に生まれ、各々他家に養子に出された。

 本家尾張藩を継ぎ、明治新政府に味方した徳川慶勝。維新時、徳川家を代表して明治政府と交渉する立場に立った御三卿の一橋茂栄。新政府軍に徹底抗戦した会津藩主・松平容保と桑名藩主・松平定敬。「高須四兄弟」は、それぞれの立場で、激動の幕末・維新を生きた。

●千葉坂、策の池と津の守弁財天 12:30

 「金丸稲荷神社」から、北へ5、600m進むと、趣のある石畳のS字の「千葉坂」。石段を下っていくと、谷底に突如現れるのが「策の池」。
 
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 荒木町の最深部の谷底に残る「策の池」と「津の守弁財天」。
 
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 松平義行の屋敷には4mに及ぶ滝を伴った大きな池があり、家康が鷹狩りの際に乗馬用の策(むち)をここで洗ったことから「策の池」と呼ばれている。廃藩置県でこの地は、荒木町となり池が開放された。現在では湧き水は減って池も埋まり、この滝つぼ跡に昔の痕跡をわずかに残す。池のほとりにあった弁天祠を1956年(昭和31年)崇敬者によって現在地に遷座し、町民の守り神「津之守弁財天」として祀った。学問や音楽の神様としても親しまれている弁財天は、芸妓の多かったこの花街で親しまれた。

 「策の池」から北東に進むと、急階段の「仲坂」。

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 「仲坂」を上り切って左に折れ、外苑東通りを南下。「金丸稲荷神社」を経て新宿通りへ。12:55、丸の内線「四谷三丁目駅」から一駅移動、12:57「四ツ谷駅」で下車。
 
 本ブログ記事「神宮外苑」に続く。

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