再び妻沼聖天山
2023年6月15日(木)、「妻沼聖天山」(埼玉県熊谷市)に行き、10年ぶりに本殿彫刻を観覧する。
妻沼聖天山の本殿「歓喜院聖天堂」 は、「日光東照宮」のような装飾建築で「埼玉日光」と称され、国宝に指定されている。ボランティアガイドの案内で、境内をめぐる。
「聖天山」は「平家物語」、「源平盛衰記」や謡曲「実盛」、歌舞伎「実盛物語」などに、武勇に優れた義理人情に厚い人柄が称えられている斎藤別当実盛が、当地・長井庄(熊谷市妻沼)を本拠とした庄司(荘官、荘園の管理人)として、本尊・聖天様を1179年(治承3年)に祀る「聖天宮」を建立したのが始まりとされる。源頼朝が参拝したほか、中世には忍(おし)城主の庇護を受け、近世初頭には徳川家康によって再興されたが、1670年(寛文10年)の妻沼の大火で焼失した。
「歓喜院聖天堂」 は、1735年(享保20年)から1760年(宝暦10年)にわたり、20数年をかけて再建された。設計・総棟梁の妻沼の名工・林兵庫正清のもと、その子の正信の代まで、東照宮の修復の参加経験を持つ彫刻師らの優れた技術がつぎ込まれた。彩色は狩野派の絵師によるものだという。建造物の各壁面は華麗な色彩の彫刻で装飾されており、装飾建築成熟期である江戸後期の代表例で、「日光東照宮をしのぐ」ともいわれている。
2003年(平成15年)から2011年(平成23年)までの修復工事により、当初の極彩色の彫刻が蘇り、2012年(平成24年)国宝に指定された。多くの国宝建築が、権力側によって造られたのに対し、庶民の浄財によって造られたことは、極めて希な事と評価されたという。
●境内にある「斎藤実盛の像」
右手に筆、左手に鏡を持っているのは、実盛が老兵と悟られないように髪を墨で黒く染めて出陣したという史実にもとづいているという。
●妻沼聖天山の境内にある「千代桝(ちよます)」
明治期創業の老舗料亭。『蒲団』、『田舎教師』で有名な田山花袋による小説『残雪』の舞台となった店だそうだ。
●「貴惣門」(国指定重要文化財)
参道の1番目の門。3つの屋根の破風よりなっている。この様式は日本には4棟しか現存しない。規模の大きさでは全国に例がないという。
「貴惣門」の精緻に施された立派な彫刻。
●「仁王門」(国登録有形文化財)
1658年(万治元年)創立と伝えられる。明治24年台風によって倒壊、明治27年に再建。
●本殿「歓喜院聖天堂」(国宝)
本殿は、「奥殿」・「中殿」・「拝殿」よりなる権現造り。
●拝殿・唐破風下の「琴棋書画」【写真をクリックすると博大表示】
「琴棋書画」は、左から「絵を見る子ども」「碁を打つ人々」「琴を弾く男」「読み書きする子ども」の順で配されており、 中国古来の文人の必須の教養や風流事の四芸のこと。日本では室町時代以降、屏風絵や工芸品の図柄などのモチーフとして多く見ることができるという。
上の写真の龍の彫刻の左右には、下のような虎とユー モラスな邪鬼がいる。
拝観料1人700円を払って、透塀(すかしべい、玉垣)に中に入場。拝殿、中殿、奥殿の外観を参観する。
●「中殿」金箔貼りの豪華な花頭窓
「拝殿」は地味で装飾は少ないが、「中殿」は「奥殿」をつなげ、彫刻・彩色が次第に増え始め、観る人を徐々に高揚させるといった権現造りの特性がよく表現されているという。「奥殿」に接する位置にある花頭窓(かとうまど)は、肉彫彫刻の双龍が互いに尾を絡め、頭を下にして水を吐く迫力溢れる構図。背板の地紋彫りが黒漆仕上げのため、双龍の金箔を浮き上がらせている。
花頭窓の上部、軒下小壁には、写真では見えないが、狩野派の絵師による牡丹と獅子など絵画が描かれている。
●「鷲に猿」の肉彫り彫刻(奥殿南側)
「奥殿」の極彩色の豪華な彫刻は、中央部の大羽目彫刻を中心に、軒下・屋根下の上下にも展開されている。
右側は、激流に落ちた猿を鷲が助けている場面が描かれている。猿は人間の煩悩を表し、鷲は神様に例えられるため、「歓喜天」の慈悲深さを表現しているとされる。左甚五郎作との説もあるが、実際は石原吟八と関口文治郎の両棟梁である。
●「福禄寿と長寿」(奥殿南側)
七福神の福禄寿のほか、鶴、亀、竹、梅もがあるが、松が描かれていない。松は木材としても一切使われていないそうだ。これに関しては、妻沼の聖天様に「待つのが嫌い」になった理由があり、その際「松」も嫌いになったというエピソードが伝えられている。
●「布袋・恵比寿・碁打ち大黒」(奥殿西側)
中央の彫刻は七福神が酒を飲みながら囲碁に興じており、左の布袋が恵比寿の一手を見守り、傍らで大黒天が観戦している。神様たちがのんびり遊びに興じられる程、平和である世の中を象徴しているそうだ。修復で、棋譜も見事に描き直された。
その右の大羽目彫刻では、大黒天の俵で遊ぶ子供たち。
左の大羽目彫刻では、布袋の袋で遊ぶ子どもたちが描かれている。
●「毘沙門天・吉祥天・弁財天の双六」(奥殿北側)
こちらも神様が遊びに興じている彫刻。左の吉祥天と右の弁財天が双六(すごろく)に興じており、毘沙門天が見つめている。
右手にいる赤鬼は、右隣の大羽目彫刻(次の写真)に立つ2人の女性を見て手招きしている。
琵琶を持つ西王母と仙桃を持つ侍女。西王母は、中国で古くから信仰された女仙、女神。
●「唐子遊び」:南西北の三面の縁下腰羽目彫刻にある9枚の彫刻。
いきいきした子供たちが遊ぶ姿により、平和な世が表現されている。見物者の腰の高さに嵌め込まれた彫刻で、子どもでも間近で見やすい位置にある。
・「竹馬遊三人と桜、蘇鉄」(南側右):江戸時代の竹馬は、竹の先端に馬の頭部を付けて、馬に乗る真似をした。
・「小間取遊び七人と梅」(南側中央):小間取遊びは、日本の手つなぎ遊びの元祖。親は鬼から守り、鬼は子を触るか、列が切れると勝ち。
・「鶏持三人と牡丹、竹」(南側左):闘鶏のようだ。
・「凧揚げとツツジ、アヤメ」(西側右):凧の糸も彫刻されている。
・「魚獲六人と桃」(西側中央):全員が川でフルチンになっいる。
・「盆踊りと蔦」(西側左)
・「獅子舞五人と芙蓉」(北側右):右から2番目の子どもは、アカンベをしている。
・「雪転がしと梅竹」(北側中央)
・「子ども相撲と椿」(北側左)
●「高欄を支える猿」
奥殿周囲の高欄の下に、まるで高欄を支えているような感じに施されている猿はユーモラス。建物を支える斗供(ときょう)に乗る形で、周囲に13頭が巡らされており可愛らしいと人気がある。
●「瑞雲に鳳凰」(奥殿北側の「鷲と滝」の上):奥殿南側の「鷲に猿」(前掲)とその上にある「瑞雲に鳳凰」(写真なし)と対をなしている。
聖天堂の彫刻は、上州花輪村(現在の群馬県みどり市)の彫刻師であった石原吟八郎を中心に制作された。吟八郎は、日光東照宮の修復に参加したほか、北関東を中心とした多くの社寺建築に彫刻を残している。装飾性を含んだ彫刻技術を高めた吟八郎やその弟子たちによって、数多くの聖天堂の彫刻が作られていったという。
その中で、精緻を極めた彫刻の最たる例が、奥殿の外部における南側と北側に施された一対の「鳳凰」。この彫刻は吟八郎の次の世代である名工二人によって彫られたもので、南側を小沢常信が、北側を後藤正綱が手掛けたとされる。
●唐破風下の瓶の彫刻(奥殿南西北側の上部)
・「三聖吸酸(さんせいきゅうさん)」(奥殿南側の上部) 出典:ウキメディア・コモンズ
三人の聖人(孔子、釈迦、老子)が酢をなめて、その酸っぱさを共感している様子を表現したもの。中国の故事に由来している。酢が酸っぱいという事実は皆同じであり、儒教、仏教、道教など、宗教や思想が異なっても、真理は一つであるという「三教一致」を意味する。
・「司馬温公の瓶割り」(奥殿西側の上部) 出典:ウキメディア・コモンズ
司馬温公が子ども頃、大きくてとても高価な水瓶のあたりで友達と遊んでいたところ、友達の一人がその水瓶の中に落ちておぼれそうになった。温公は、父親からしかられるのを覚悟して石で瓶を割り、友達の命を救った。それを聞いた父親は、温公を褒め称え、命はどのような高価なものよりも尊いものだということを教えた。
・猩猩酒遊図(奥殿北側の上部)
親孝行な男が、揚子江のほとりで酒を用意して待っていると、猩猩(しょうじょう、オラウータンに似た海に棲む想像上の動物)が現れ、酒を飲み、踊りを舞って、飲めども飲めども、尽きることのない酒壺を与えて帰ったという縁起の良い話。
本ブログの「妻沼聖天山」の関連記事
「秩父・熊谷のアジサイ名所」 2019年06月26日投稿
http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2019/06/post-5514ab.html
「妻沼聖天山」 2012年12月13日投稿
http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-8470.htm
★ ★ ★
●大聖歓喜天(だいしょうかんぎてん)
「聖天」(仏教では、しょうでんと読む)は、正しくは「大聖歓喜天」。または「歓喜天」ともいって、象頭人身の仏法守護神で、四天王、帝釈天、吉祥天、弁財天、鬼子母神、大黒天などと同様の天部の一つ。男天・女天2体の立像が向き合って抱擁(結合)しているものが通例だという。「秘仏」として扱われており、一般に公開されることは少ないという。
「妻沼聖天山」の本尊は、国指定重要文化財。1197年(建久8年)の作で、「秘仏」。錫杖の頭で、中心に歓喜天と二童子の像を表す。小さくて良く見えないが、拡大して見ると右図の「双身歓喜天」(高野山真別所円通寺本『図像抄』)のように、象頭人身の男天と女天が抱き合っているように見える。なお錫杖(しゃくじょう)とは、遊僧が携帯する杖。歩くとシャクシャク(錫々)という音が出る。
妻沼聖天山の本尊「銅錫杖頭」と「双身歓喜天」の図 出典は、ウィキメディア・コモンズ
「妻沼聖天山」は、「日本三大聖天さま」の一つとして知られ、特に縁結び、夫婦の縁、家内安全・商売繁盛・厄除け開運・交通安全・学業進学などのあらゆる良縁を結ぶそうだ。
●庶民の浄財で再建
「日光東照宮」では、荘厳な彫刻で飾られているが、本殿「聖天堂」の彫刻には特徴がある。つまり、龍などの威厳ある大きな彫刻ではなく、親しみやすい中国故事や七福神、唐子などモチーフにした彫刻は、聖天堂と庶民とのつながりの深さを示す。この社殿の再建には庶民たちの手で行われた。幕府・大名・豪商といった富裕層の手を借りずに、各地を回って金を募り、職人を集め、長い年月をかけて少しずつ造営されていったという。
七福神が囲碁をしたり、子どもたちが凧揚げをしたり、相撲を取ったりと、登場人物が嬉々として遊戯に興じる場面が多く、盆と正月が一緒に来た様な賑やかさが感じられるという。こういった庶民階層の活力は、村の「お祭り」に似ていて、この「歓喜院聖天堂」が信仰だけでなく、近世庶民の娯楽施設やテーマパークとして機能していたのだろう。
●聖天様の「松」嫌い
妻沼の聖天様は「松」(待つ)嫌いで知られている。その昔、聖天様は松の葉で目をつつかれたとか、松葉の燻(いぶし)にあったという理由で、とても毛嫌いしている。ゆえに、妻沼の人たちは松を忌(い)んでいるという。正月に門松を立てることはないし、松の木を植えない家もある。また、「松」の名のある人と結婚するとき、わざわざ改名するという。聖天様は、「待つことなく」願いをかなえてくださるそうだ。
聖天様の「松」嫌いの理由の一つに、太田市「大光院」の呑龍(どんりゅう)様との喧嘩が伝えられている。すなわち、呑龍様との喧嘩中に、聖天様は松葉で目をつつかれたという。よって呑龍様を詣でたあとに聖天様へ行っても、ご利益はないと信じられている。「松が嫌い」という事が、この建物を建てられた江戸中期には確定していて、建築材に松の木や絵画彫刻のモチーフに松は使われていないというのは、おもしろい。
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