佐野厄除大師
2023年6月11日(日)、雨の降る中を「唐沢城趾」に行った後、午後、栃木県佐野市の「佐野厄除大師」などを巡る。
本ブログ記事「唐沢山城趾」の続き。
●佐野市観光物産会館 佐野市金井町 12:30~
12:30、「観光物産会館」駐車場に車を駐める。「佐野厄除大師」の入口正面にある佐野市最大級の品揃えを誇る物産館。お土産用佐野らーめん、そば、耳うどん、お菓子、地酒、天明鋳物・桐製品などの伝統工芸品、厄よけ土産、さのまるグッズ、地元で採れた新鮮野菜など。
●佐野らーめん 12:50~
「観光物産会館」や「佐野厄除大師」の周辺にらーめん店が密集している。テーブル席と座敷あわせて50席の「大師庵」(物産館の左隣)に入店。「佐野厄除らーめん」(1,050円)を注文した。一度、東北自動車道の佐野サービスエリアで「佐野らーめん」を食べたことがあったが、その味をすっかり忘れていた。あっさりとした醤油味で、美味しい。

大師庵の「佐野厄除らーめん」 出典: 佐野らーめん会 公式ホームページ
中国の料理人が「青竹打ち」を伝授したのが「佐野らーめん」のルーツといわれている。市内には100年以上の歴史を持つ老舗をはじめ、150店舗以上のらーめん店がそれぞれの味を競っているという。醤油ベースの澄んだスープにコシのあるちぢれ麺を提供している店が多い。太さは中太から細麺、平打ちなど、店によって異なるという。
「青竹打ち」が特徴ではあるが、竹打ちを再現出来る製麺機も登場しており、必ずしも全ての佐野らーめん店が手打ちの「竹打ち」というわけではない。飽きの来ないさっぱりとした味が特徴。トッピングで異なるが、650円~1,000円前後。佐野名物イモフライ(130円)も出す店もある。
●佐野厄除大師 佐野市金井上町 13:10~
「観光物産会館」の道路を挟んだ対面に、「厄除大師」の入口(山門)がある。
「惣宗寺」(そうしゅうじ) は、天台宗の寺院で、山号は「春日岡山」。一般には「佐野厄除大師」の通称で知られる。藤原秀郷が944年に奈良の僧・宥尊(ゆうそん)上人を招いて開いたという。厄除元三慈恵大師を安置し、厄除け、方位除け祈願。正月になると大祭を開催し、厄除けをはじめ、身体安全や心願成就などのご利益があるという。
「惣宗寺」(そうしゅうじ) は、天台宗の寺院で、山号は「春日岡山」。一般には「佐野厄除大師」の通称で知られる。藤原秀郷が944年に奈良の僧・宥尊(ゆうそん)上人を招いて開いたという。厄除元三慈恵大師を安置し、厄除け、方位除け祈願。正月になると大祭を開催し、厄除けをはじめ、身体安全や心願成就などのご利益があるという。
青柳大師(前橋市・龍蔵寺)、川越大師(川越市・喜多院)と共に「関東の三大師」の一つに数えられることが多く、毎年の年末年始には関東地方を中心にテレビCMが多く放送されるため広く知られており、初詣の参拝客で賑わう。弘法大師を祀った真言宗の「関東厄除三大師」(西新井大師・川崎大師・ 観福寺大師堂)とは全く別だという。
惣宗寺山門(佐野市指定文化財)は、佐野城の移築門といわれている。屋根には金箔の葵のご紋。
厄除元三慈恵大師一千年御遠忌を記念して建立された「金銅(きんづくり)大梵鐘」は、 人間国宝の鋳金工芸作家・香取正彦氏によって謹製され、日本一大きな金の梵鐘(つりがね)で、 直径 1.15m、重量約2トン。
金銅は、銅製鋳物(いもの)に金箔ではなく金めっき(純金を水銀で溶かして塗る鍍金(ときん))を施したもので、仏像などはあるが、鐘は始めて見た。
「パゴダ供養塔」は、4mの方形基壇に6つの相輪と1つの塔身水煙(すいえん)をつけた 宝珠からなり、高さ8mを有する。三界萬霊有縁無縁の霊、戦争災害死者、事故横難(おうなん)死者、水子霊などを供養する為に造られた塔。製作者は、彫刻家の田村了一氏。パゴダは、ビルマ様式の仏塔。
「佐野厄除大師」本堂。ここにも屋根に金箔の装飾。
「惣宗寺」には水子地蔵尊もあり、供養に訪れる人も多いそうだ。
徳川家康の遺骨を久能山から還葬の際、この寺に一泊するなど徳川幕府との縁も深いという。江戸時代には、上野の寛永寺の末寺であったという。その縁で寺側から願い出て、1828年(文政11年)に東照宮本殿(県指定文化財)が、造営されたそうだ。
しかし境内を探したが、そういった建物や説明板は見当たらなかった。後で調べると、現在はちょうど補修工事中(令和2年6月5日~令和10年2月28日)だったようだ。社殿は日光東照宮を模しており、精巧な彫刻に極彩色で彩られているという。
佐野市は、足尾銅山鉱毒事件の田中正造のゆかりの地であり、境内には墓所(分骨の碑)がある。
墓は、他にも農民たちの希望で渡良瀬川沿岸の5カ所に分骨され、記念碑的な墓が数々あるそうだ。その中で「惣宗寺」にある墓が第一号だという。
「佐野厄除大師」後にして、「佐野観光物産会館」に土産の買い物で再び立ち寄り、駐車場に戻る。
14:00駐車場を出発、隣接する足利市の「栗田美術館」に向かう。
★ ★ ★
田中正造は、下野国安蘇郡小中村(現・佐野市小中町)の出身。足尾銅山鉱毒事件の被害者でもあり、苦しんでいる渡良瀬川沿岸の農民の救済を政府に訴え、最後は明治天皇に直訴しようとしたことで知られている。衆議院議員選挙に当選6回。
田中正造 出典:ウキメディア・コモンズ
正造は、死の直前まで精力的に活動し、河川調査の帰途の1913年(大正2年)8月2日、 足利郡吾妻村下羽田(現・佐野市下羽田町)の支援者の一人、庭田清四郎家で倒れた。正造はそのまま1か月間病に臥し、9月4日その庭田家で生涯を閉じた。71歳没。死因は胃ガンなどとされる。財産は全て鉱毒反対運動などに使い果たし、自宅の建物や田畑は既に地元に寄贈していたため、死去したときは無一文だった。庭田家近くの県道沿いに、「田中正造翁終焉の地」碑があるという。
足尾銅山鉱毒事件で公害闘争の拠点としていた、群馬県邑楽郡渡瀬村早川田(現・館林市下早川田町)にある曹洞宗「雲龍寺」にて9月6日に密葬が行われ、10月12日に「惣宗寺」で本葬が行われた。本葬の参列者は一説に30万人ともいわれる。ちなみに「雲龍寺」は群馬県の飛び地で渡良瀬川の左岸にあり、佐野の「惣宗寺」とは、5Km弱しか離れていない。田中の遺骨は、栃木・群馬・埼玉県の鉱毒被害地計6カ所に分骨された。このため、墓は6カ所にある。被害地では現代でも偉人として尊崇されており、「佐野市郷土博物館」が関連資料を保存・展示しているそうだ。
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