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2023年6月25日 (日)

栗田美術館

 2023年6月11日(日)雨の降る中を栃木県佐野市を巡った後、隣接する足利市の「栗田美術館」を参観する。

 本ブログ記事「佐野厄除大師」の続き。
  
 
栗田美術館 足利市駒場町 14:20~15:50
 
 「佐野観光物産館」駐車場から車で10分ちょっと、14:15「栗田博物館」の駐車場に到着。
  
 「伊万里焼」および「鍋島焼」の磁器のみ1万点あまりを蒐集した美術館。創立者の栗田英男(1912年12月20日 - 1996年10月4日)は、足利市の出身で、実業家、総会屋、元衆議院議員、美術評論家。陶磁器の収集対象をこの2分野に絞っているが、世界的に有数の陶磁コレクションだという。
 
 3万坪といわれる広大な敷地に、大小30あまりの施設が建つ。「本館」のほか、「大手門」、「世界陶磁館」、「歴史館」、「資料館」、「阿蘭陀館」(ミュージアムショップ)、「栗田山荘」(食事処)、「陶磁会館」(企画展示室)、「無名陶工祈念聖堂」、「栗田嵐嶽記念館」、「陶磁研究所」(工房)など。広大な庭園や展示室の設計、磁器の飾り付けまで、全て栗田本人が手がけたという。
 
 「大手門」の入場券発売所。入場料1,250円、割引きで1,000円。
 
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 入って左へ、山裾を上ると「栗田山荘」と「茶室寿光院」(写真なし)があり、おもてなしの館になっている。
 
 「本館」入口の石畳には、創立者の美術館への意気込みが彫られている。
 
 「この美術館には
  陶磁器に生涯を賭けた栗田英男が
  深い愛情と強靱な意志を持って蒐めた
  魂の記録が隅々にまで色濃く執拗に
  燻りこめている 昭和五十年 秋」
 
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 「本館」は、日本の美を追究した世界屈指の陶磁器の殿堂だという。白い漆喰壁が特徴の本館建物は、BCS賞(建設業連合会の賞)を受賞した。ここに「伊万里」「鍋島」の名品を常時約400点展示してある。撮影禁止。
 
  「本館」の展示室 鍋島色絵岩牡丹植木鉢文大皿 出典:栗田美術館のパンフレット

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 「鍋島色絵岩牡丹植木鉢文大皿」は重要文化財。鍋島尺皿の中でもひときわ格調高い名品といわれている。
 
 「本館」裏手にある「資料館」。「伊萬里」「鍋島」の焼き物に関する資料が、1、2階に年代別に展示資料が並んでいる。

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 その先の松の木の丘を登ると、「歴史館」がある。有田泉山(いずみやま)の白磁鉱で製作した磁器タイルを建物の内外に使用した塔のような建物。
 
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 有田泉山は、日本の磁器発祥の地。17世紀初めに朝鮮人陶工・李参平が磁器の原料である磁石を発見し、日本で初めて磁器が誕生した。
 
 海外へ輸出した伊萬里大壺展示室(写真撮影可)から階上の展示室へと続き、地階に講堂がある。
 
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 伝説のロックバンド「クイーン」のフレディ・マーキュリーは、1986年9月にプライベートで来日し、「栗田美術館」を訪れたことはファンの間ではよく知られている。
 
 左は展示室の写真、右はシンコー・ミュージック・ムック(2019年02月発売)より
 
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 日本と日本文化を愛してやまなかったフレディは、来日の度に興味は増し、招き猫から始まり、着物、浮世絵、陶磁器、果ては火鉢など多くの古美術品を日本で収集し、ロンドンに持ち帰っていたという。1991年に45歳の若さでこの世を去った。フレディの人生を描いた映画『ボヘミアン・ラプソディ』公開(2018年)を機に、若い参観者が増えているという
 
 「歴史館」の最上階は広々ゆったりとした応接室で、眺めのよい展望室となっていて、「足利フラワーパーク」を見下ろす。
 
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 「陶器会館」は、「クイーン」のレコードや写真などのほか、ゆかりのグッズも展示されている。また館内には喫茶室もある。陶磁器への造詣が深かったフレディが 1986年9月に訪問した「栗田美術館」は、ファンの間では「聖地」となっている。

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 「陶器会館」の前にある栗田氏家族の銅像「志向の像」。1985年(昭和60)11月、開館10周年に建立された。左が美術館建設の構想と決意をしたときの創立者の栗田英男。書家・陶芸家で1981年(昭和56)に他界した弟の嵐嶽(らんがく、右)と、美術館を見ることなく1967年(昭和42)、86歳で天寿を全うした母のよし。
 
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 栗田嵐嶽は、栗田英男の実弟で孤高の芸術家。嵐嶽は、生前作品を公開することはなかったが、絵画、書、陶磁器と幅広く創作した。「栗田嵐嶽記念館」には、嵐嶽の作品を展示しているという。
 
 「阿蘭陀館」は、江戸時代の長崎出島にあった商品陳列所を模して建てられた陶磁器専門のミュージアムショップ。有田焼の作品を中心に豊富に取揃え展示・販売している。
 
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 15:50、「栗田美術館」を後にして、帰路へ。17:30自宅着。
 
 
 ★ ★ ★
 
・有田焼と伊万里焼
 
 佐賀藩主・鍋島直茂は豊臣秀吉の朝鮮侵攻に参加した際、朝鮮から協力した農民や漁民、とくに陶工など多数の人たちを連れ帰って帰化させた。その中の一人、李参平(日本名:金ヶ江三兵衛)が17世紀初め、1610年代に泉山の白磁鉱を発見、上白川天狗谷(てんぐだに)に築窯したのが近世陶磁器を代表する「有田焼」の創始とされる。
   
 「有田焼」は、有田(鍋島藩、佐賀県有田町)を中心とする肥前国で生産された磁器の総称。製品の主な積み出し港が伊万里であったことから、消費地からは「伊万里」と呼ばれた。「三川内焼」(平戸藩、長崎県)、「波佐見焼」(大村藩、長崎県)などのほか「鍋島焼」も含まれる。
 
 「伊万里」は創始から約100年の間に技術と生産体制が発展し、染付とともに1640年代から色絵の生産も始まった。1660年代からは、オランダ東インド会社の注文による輸出用磁器が生産され、「柿右衛門様式」や「金襴手(きんらんで)様式」の華麗な色絵磁器が完成し、国内外で広く知られるようになった。18世紀以降は、一般内需向けの大小さまざまな食器が生産され、各地に供給され消費拡大していった。
  
・初期伊万里
  
 「伊万里焼」の中で1610~40年代頃までに作られたものは「初期伊万里」と呼ばれる。素焼きをしない生掛け焼成のため、肉厚の大らかな器形をしている。力強く自由な筆致で描かれる文様は素朴で味わいがあり、中国の古染付(こそめつけ)の影響を受けたものも多く見られる。初期伊万里を焼いた窯跡からは染付を主に、青磁や銹釉(さびゆう)、瑠璃釉(るりゆう)などを用いた豊富な内容の製品が出土している。

 この「初期伊万里」は絵付けの発色が安定せず、生地も厚く歪みや押指の跡が残るなど粗雑な部分があり、次第に「古九谷」や「柿右衛門」などに押され市場から姿を消してしまった。
 
 染付楼閣山水文皿 1640-1650年代 佐賀県立九州陶磁文化館 出典:ウキメディア・コモンズ

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・古九谷(初期色絵)

 1640年代には有田西部の山辺田窯(やんべたがま)などで色絵磁器の生産が創始され、国内向けの大皿などの色絵磁器製品が生産された。これらは長年、加賀(石川県)の九谷が産地であると誤って考えられていたことから「古九谷」と称され、現代では「古九谷様式」あるいは「初期色絵」と称されている。

 色絵牡丹蝶文大皿(初期色絵)東京国立博物館 出典:ウキメディア・コモンズ

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・鍋島焼
 
 1640年頃からは鍋島藩が、将軍家や諸大名などへの贈答用高級磁器をもっぱら製造する藩窯が活動を開始。鍋島は有田近郊の大川内山(おおかわちやま、伊万里市南部)に1670年代に本格開窯、「伊万里」の製品とは違った独特の形式美を持つ精緻な磁器を生産した。日本の磁器の最高峰に位置づけられている。その製品は食器類で、一尺、七寸、五寸など、円形木盃形の皿が主体で、純日本的な意匠。これらの製品を今日、「鍋島様式」あるいは「鍋島焼」と呼んでいる。

 鍋島 色絵芙蓉菊文皿 出典:ウキメディア・コモンズ
  
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・柿右衛門様式

 「伊万里焼」の輸出と、これに伴う技術革新により生まれたのが「柿右衛門様式」。オランダ東インド会社からの厳しい品質注文を受け1670年代に完成、素地や釉薬(ゆうやく)が改良され、白磁の地にほとんど青味のない「濁手」(にごしで)と呼ばれる乳白色の素地が作られた。この素地に色絵で絵画的な文様を表したものを「柿右衛門様式」と称する。皿や鉢などの食器以外に、人形類も多く作られた。ヨーロッパの王侯貴族から高い評価を受けた。

 柿右衛門 大壺 東京国立博物館蔵 出典:ウキメディア・コモンズ

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・金襴手様式
 
 経済活動と町人の文化が栄えた元禄時代、この1690年代に始まった新たなスタイルが「金襴手(きんらんで)」。染付の素地に赤、金などを多用した絵付を施した製品が作られるようになった。この種の様式のものがヨーロッパ向けの輸出品となった。国内向けは「型物(かたもの)」と呼ばれる特別注文品、輸出向けは王侯貴族の居館を飾った大皿や大壺がその代表。
 
 色絵金襴手唐花文皿 出展:国立東京博物館 画像検索
  
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・伊万里焼と古伊万里

 「伊万里焼」と「古伊万里」の大きな違いは、骨董的価値。江戸時代に有田で焼成された歴史的、骨董的価値のある作品を「古伊万里」と呼び、明治以降に現在の佐賀県伊万里市で焼成された陶磁器のことを「伊万里焼」と呼ぶ。明治初期に焼き物を産地名で呼ぶようになり、現在の「伊万里焼」と呼ばれる陶磁器が誕生することになった。「古伊万里」はヨーロッパの王侯貴族達に愛され、今でも「オールドイマリ」(Old Imari)として世界中に熱烈なコレクターが存在する。

  中国では1644年明王朝が滅び、その混乱期にヨーロッパで重宝されていた中国の磁器の輸入も途絶えてしまう。それを埋めるために、オランダ東インド会社は中国製陶磁器を見本としてヨーロッパ人の好みに合う製品を制作するように依頼し、「伊万里焼」の海外輸出が始まった。中国製磁器の輸出が再開されてからは、東南アジア方面の市場は中国製磁器に奪還されたが、ヨーロッパ方面への「伊万里焼」の輸出は継続したという。

・酒井田柿右衛門

 江戸時代、有田の陶芸家、および代々その子孫(後継者)が襲名する名称。初世(1596-1666)は白磁、染付の改良に努めた後、長崎で赤絵の技法を学び、1640年ころに日本最初の赤絵焼成に成功した。作品は乳白色の素地に細い線で雲竜、鳳凰、松竹梅などの文様を描き気品高い。初世のころから外国に輸出され、西欧でも模倣作が作られた。その後は子孫の第15代酒井田柿右衛門(1968年~)は、2014年に襲名した。

 酒井田家は、有田皿山(さらやま、有田焼の生産地)の中心部から離れた南川原(なんがわら)山に窯を築き,伊万里焼とは性質を異にする上質の色絵磁器を焼成した。濁手(にごしで)などといわれる純白の白磁に、赤、青、青緑、黄、紫などの色絵具を用いて花鳥人物文様などを描いた色絵磁器(赤絵)は、「柿右衛門様式」として知られている。

 1912年に『名工柿右衛門』という歌舞伎が制作され、11代片岡仁左衛門が主演した。11代柿右衛門と親交のあった仁左衛門のはまり役だったとされ、その後も他の俳優達によって演じられた。内容は史実に基づいておらず、フィクションである。夕日に映える柿の実を見が赤絵磁器を作ったとする話が、『陶工柿右衛門』や『柿の色』の題で大正時代の小学校の教科書に掲載され広く知られたという。筆者の子どもの頃にそんな物語を聞いたが、創作だとは知らなかった。

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