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2023年3月 4日 (土)

比企氏ゆかりの地-岩殿観音

 2023年2月19日(日)午前中、埼玉県東松山市大岡地区の「比企氏ゆかりの地」をめぐった後、午後から高坂地区へ車で移動し「岩殿観音」を拝観。比企氏は、2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に登場した。

 なお写真で「2019年撮影」とあるのは、同年12月6日(金)に撮影したもので、その他の写真は当日撮影のもの。

 「岩殿観音」(いわどのかんのん)で親しまれる「正法寺」(しょうぼうじ)は、東松山市にある真言宗智山派の寺院。山号は「巌殿山」(いわどのさん)で、坂東三十三観音の10番札所。創建は718年(養老2年)、逸海上人が千手観音像を刻み庵を結んだのが始まりとされている。鎌倉時代に比企能員(よしかず)が中興し、観音堂建設や北条政子の守り仏「千手観音」を安置した。 

●大東文化大学

 13:00、物見山の駐車場着、観光ガイドと合流。

 ガイドの案内で、駐車場から坂を下って大東文化大学東松山キャンパスに向かう。比企能員(よしかず)の菩提を弔う「判官塚」が、昔大東文化大学の敷地内にあったそうだ。また、大岡地区「城ヶ谷」の比企の館跡と同様に、この岩殿山一帯のどこかにも比企の館があったという説がある。

 構内の目的地を聞きそびれたが、大学の守衛所で予約なしの学外者の入構を断られた。以前は構内に自由に出入りできたそうだが、新型コロナによる入構制限か、最近起きた都立大学内での教授襲撃事件の影響か。駐車場に戻り、門前通りに向かう。

●丁子屋

 門前通りの仁王門のすぐ下にある、昔の面影を残る「丁子屋」を見る。宿屋や茶屋を営んでいたそうだ。

 岩殿山の麓の家並みは、岩殿観音へ向かう門前町だった。今や、この門前町の代表的存在だった「丁字屋」(数年前に閉店)だけが当時の面影を残している。参道には家が並び参拝客で賑わっていた。観音堂の裏に大きな道(大東文化大学やこども動物自然公園の通り)が出来てからは、皆なそちらから参拝に行ってしまい、門前町並みにはほとんど人が来なくなっている。

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●仁王門

 仁王門は、表参道の「丁子屋」からすぐの石段を少し登った所にある。門の左右には仁王像。右横手に本堂がある。

 仁王像が、ガラスで囲われているのは珍しいし、よく見える。

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 仁王像は運慶の作といわれていたが、平成4年の解体修理の折りに棟札がでて、運慶作のものは江戸時代に焼失、現在の仁王像は文化年間(1808~1814年)に再建されたものだという。現在の仁王像は、平成の解体修理時に漆を塗りなおされ、漆の保護のため紫外線カットのガラスに覆われている。 

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 仁王門の右横手にある本堂の本尊は、三尺ほどの阿弥陀如来立像。室町時代作の木製で、平成になって箔の押し直しがおこなわれた。(写真なし)。

 観音堂は、この仁王門から急な石段を登ったところにある。(2019年撮影)

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 振り返ると門前町の町並みが続く。

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 境内は、岩殿丘陵の最東端に位置し、物見山のすぐ隣にあるため、寺は急傾斜地を切り崩したような場所(昔は石切場だったという)にあり、東方面にだけ開けている。また、多くの樹木に囲まれているので山寺の雰囲気がある。(2019年撮影)

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鐘楼と銅鐘

 鐘楼は1702年(元禄15年)に比企郡野本村(現在の東松山市野本)の大檀家・山田茂兵衛の寄進で建立されたと伝えられる。鎌倉末期の様式を今に伝える。屋根は萱葺きの寄棟作りで、 斗栱 (ときょう、軒を支える組み木)や天井の装飾なども、往時には朱が塗られていたらしく、ところどころにその痕跡が残っているそうだ。東松山市内で最も古い木造建築で、市有形文化財に指定。

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 銅鐘(梵鐘)は、1322年(元亨2年)に鋳造されたもので、外面に無数の傷がある。これは1590年(天正18年)に豊臣秀吉による関東征伐の際に、山中を引き回して打ち鳴らし、 軍勢の士気を鼓舞したといわれ、その時についた傷が残っている。

●石仏

 境内をかこむ石崖には石仏が安置されている。百観音(西国+坂東+秩父札所)、四国八十八ヶ所の写本尊であり、百観音と四国八十八ヶ所を参拝したのと同じ御利益が得られると言われている。(2019年撮影)

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●岩殿観音堂

 養老年間(717年~724年) の創建と伝える。16世紀中頃(永禄年間)松山城合戦の兵火で全山焼失した。その後、何回かの火災の後、寛永、天明、明治と3回再建された。現在の建物は、1871年(明治11年)の火災により観音堂が焼失した為、翌年高麗村白子(現飯能市)の「長念寺」から移築されたもの。江戸後期の建造と推測されており、ところどころに当時の彩色がみられるそうだ。

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 岩殿観音の本尊は、千手観音。全身金色の千手観音は「前立本尊(まえだちほんぞん) 」であり、奥の厨子に秘仏本尊の千手観音菩薩坐像が収められいる。秘仏本尊は、室町時代作の青銅製。12年に一度、午年(うまどし)に「ご開帳」されるという。

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 観音堂の濡れ縁に木像の「おびんずる(賓頭盧)様」が安置。釈迦の弟子の十六羅漢の一人で、病を治す神通力がとても強い。自分の体の悪いところを撫でて、「おびんずる様」の同じところを撫でると除病の功徳があるという。観音堂の切妻装飾の邪鬼の表情もおもしろい。

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●大銀杏

 推定樹齢は700年を越える。周囲は11m、埼玉県内でも最大級の大きさ。江戸時代には健康長寿のご利益がある「養老木」と呼ばれ、多くの女性に安産・子育守護の対象として信仰された。紅葉の見頃は11月下旬から12月。東松山市指定文化財。(2枚とも2019年撮影)

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 14:00、物見山駐車場に戻り解散。

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  「比企・奥武蔵の紅葉スポット」 2019年12月14日 (土)
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2019/12/post-485995.html

 

 ★ ★ ★

●比企氏による中興

 源頼朝は観音信仰に篤い人物だった。坂東三十三観音霊場の制定にも深く関わっている。当時札所を制定するにあたり、比企氏のお膝元であり、比企能員自身も深く帰依していた「岩殿観音」が第10番の札所として選ばれた。坂東第9番「慈光寺」(ときがわ町)、第11番「安楽寺」(吉見町)とともに、比企郡では三十三の札所のうち3つが札所、頼朝が厚い信頼を寄せる比企能員の領地から有力寺院が推挙された。

 岩殿観音は開山から300年以上が経ち、諸堂の痛みも激しいものがあった。そこで頼朝の庇護のもと、頼朝の妻政子の守り本尊として比企能員が岩殿観音を復興する。寺伝では比企能員を中興の祖としており、比企能員の深い帰依のもと復興された。頼朝の没後の1200年(正治2年)には、亡き頼朝の意志を継いだ政子によって、堂宇の再建がなされたそうだ。

●判官塚と供養碑

 岩殿観音の表参道を進み、しばらく行った先の細い小路を左手に曲がった先には、「判官塚」(比企明神)がある。比企能員(よしかず)の孫である員茂(かずしげ)が1218年(健保6年)頃岩殿山に居て、能員の菩提を弔うために岩殿観音の南東の地である南新井に塚を築いたという。判官とは比企能員の役職名で、律令制における司法警察の役を担った官職。もとは現在の大東文化大学の敷地内にあったが、キャンパス拡張工事に伴い、現在地に移転した。

 岩殿観音に伝わる江戸時代の古地図には、表参道の入口にある現「鳴かずの池」裏手の丘陵地帯に「比企判官旧地」とあり、比企能員の館があったとも伝わる。現在は、その旧地のほとんどがゴルフ場となってしまい、かつての面影はわずかな土塁と堀跡を残すのみという。

 気がつかなかったが、仁王門から石段を少し登った左側に石碑が残されている。この石碑は、江戸時代の旅行記である『坂東観音霊場記』に記録が残っていて、岩殿別当であった入道覚西が入滅後に追善の石碑を建てた、とある。この入道覚西は能員であり、その菩提を弔うために建立された「比企能員供養碑」と伝わる。しかし近年の調査により、覚西は比企能員ではないとも推定されているが、比企氏と岩殿観音のゆかりを示す史跡となっている。

●松山城合戦で全山焼失

 坂東札所の成立当初は、鎌倉幕府に関係する上級武士や僧侶などの限られた者が参拝していたが、室町時代になると一般の庶民も巡礼に出るようになった。室町末期には西国、秩父と合わせて百観音札所として巡礼が盛んになり、岩殿観音の門前も一段と賑わいを増した。 戦国時代の後期には岩殿観音の本坊の他、66の僧坊を有し、7堂あった伽藍はすべて瓦葺きであったと記録に残るほど隆盛を誇った。

 岩殿観音から10kmほどのところに位置する松山城は、武州のほぼ中央に位置し、北武蔵支配の重要拠点であった。比企丘陵の先端に建てられた松山城は、ふもとを流れる市野川を堀とし、その天然の要害から不落城ともいわれ、戦国時代には上杉謙信、武田信玄、小田原北条氏などが激しい攻防を繰り広げた。

 1561年(永禄4年)、北条氏康(北条氏政の父)が抑えていた松山城は、扇谷上杉氏の家臣・太田資正(すけまさ)に攻め取られ、上杉憲勝(扇谷上杉家当主)を城主とした。これに対して、北条氏康は岩殿観音の隣村である高坂村に陣を敷き、松山城を激しく攻めた。しかし、松山城の堅固な守りで、落城することはなかった。業を煮やした北条は、岩殿観音を始めとする付近の寺社をことごとく焼き払った。この「松山城合戦」の戦火で、7堂あった伽藍は焼失した。

●再興、廃仏毀釈から現代へ

 しかし7年後の1574年(天正2年)、戦火を免れた本尊千手観音とともに、僧・栄俊によって再建。その後、松山城主の上田朝直(ともなお)の庇護を受け、1577年(天正5年)には7堂伽藍をはじめとして復興を果たした。1591年(天正19年)には徳川家康により25石の朱印地を賜り、江戸期には隆盛を極め、観音巡礼も盛んになったので岩殿山の門前町も大いに賑わいをみせた。

 明治維新の後、廃仏毀釈によって岩殿観音も多くの山内社寺が廃され、また寺領であり山岳修行の場であった山林を召し上げられるなど弱体化した。この影響は、観音巡礼にもおよび、参拝者は減少し門前町も急激にに衰退していった。戦後、岩殿山や物見山一帯は観光、大学や住宅として開発が進み、時代とともにその姿を変えて賑わいを取り戻している。

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