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2023年3月 1日 (水)

比企氏ゆかりの地-宗悟寺

  2023年2月19日(日)、埼玉県東松山市の大岡地区の「比企氏ゆかりの地」をめぐる。比企氏は、2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に登場した。

 なお写真で、「2022年撮影」は同年6月13日(月)に撮影、「2015年撮影」は11月1日に撮影したもので、その他の写真は当日撮影。

 

●大岡市民活動センター 10:00~10:30

 東松山市の大岡地区にある「大岡市民活動センター」に10:00集合。大きな風車とオランダ風建物は、オランダ王国ナイメーへン市と東松山市が姉妹都市提携を結んでいることから、オランダの古い町並みをイメージして作られた。(2枚の写真は、2022年撮影)

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 活動センターのコミュニティホールに「比企氏紹介コーナー」を設置、2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に登場する比企氏についてパネル展示されている。10:00集合して、観光ガイドから、比企氏の概要を説明を受ける

 周辺の散策ルート「比企氏ゆかりの地 大岡マップ」。

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●城ヶ谷(じょうがやつ)10:40

 「雷電山古墳」の真南にある奥深い谷が、「城ヶ谷」と呼ばれ、この谷の奥に「城ヶ谷沼」がある。「城ヶ谷」には比企能員(よしかず)の館があったと伝えてられている。残念ながら館の痕跡は、これまで発見されていない。

 この地は、鎌倉の比企が谷(ひきがやつ) によく似た地形で、このあたりは「比企の乱」後、若狭の局に従って落ちて来たと伝える頼家の側近の子孫が住み、谷の西の丘には鎌倉の八幡宮を祀っ ていたと伝わる。(城が谷の説明板は、2022年撮影)

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 鎌倉を囲む丘陵の南東、比企ヶ谷は、鎌倉でも比較的奥行きのある谷(やつ)で、谷の最奥部から尾根を伝えば鎌倉随一の見晴らし、戦略的に重要な場所。鎌倉時代、幕府で重職を担った比企氏がこの地を与えられ、現在も比企氏ゆかりの「妙本寺」が建立されている。


●雷電神社 10:45

 東松山市には多くの古墳があり、大岡地区に三千塚古墳群がある。なかでも「雷電山古墳」は一番大きく、帆立貝型前方後円墳で埼玉県最古の埴輪が出土。古墳の上に「大雷神社」が祀られている。写真右の一対の石灯籠の間に昔の参道があった。(2022年撮影)

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●扇谷山宗悟寺(せんこくさんそうごじ) 10:50~11:10

 「宗悟寺」の参道と案内板(2022年撮影)、山門(2015年撮影)。

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 鎌倉時代初期、若狭局は鎌倉幕府第2代将軍源頼家の妻妾であったが、「比企の乱」による比企氏の滅亡後、夫・頼家の殺害により、修善寺より比企氏の根拠地であった武蔵国大谷村に逃げてきた。若狭の局は、村の名と頼家の法号「寿昌」を用いた「大谷山寿昌寺」(たいこくさんじゅしょうじ)を建立、頼家や自分が産んだ一幡、比企一族の菩提を弔う寺を創建したとされる。

 戦国時代、豊臣秀吉の命により、徳川家康は関東地方に転封され、家康の家臣の森川金右衛門氏俊(うじとし)は当地、大谷村や山田村を所領として与えられた。1592年(天正20年)、氏俊は「比丘尼山(びくにやま)」にあった「大谷山寿昌寺」を現在の扇谷に移し、寺の名を「扇谷山宗悟寺」と変えた。森川金右衛門氏俊の法号は「桐蔭宗悟居士」という。その後、森川氏の嫡流は旗本となった。

 「宗悟寺」の本殿(東松山観光協会のホームページより)

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 「宗悟寺」の祭壇。若狭の局が持ち帰ったと伝わる「頼家公ご位牌」(右手の燭台の後方)、若狭の局が夫頼家を失った苦しみから逃れるために祀った「蛇苦止(じゃくし)観音」(左手燭台の右下)が見える。(2022年撮影)

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 境内に立つ比企氏伝承の品(「頼家公ご位牌」と「蛇苦止観音」)の説明板。

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 森川氏の陣羽織等が、本殿に展示されている。森川金右衛門氏俊が天下統一の武勲により徳川幕府より賜ったとされ、森川氏の末裔から「宗悟寺」に寄贈された。(2022年撮影)

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 境内には、地元の有志による「比企一族顕彰碑」が設置されている。

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 本殿裏の墓地には、市指定文化財の森川氏の墓地がある(2022年撮影)。

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●梅が谷(うめがやつ)・須加谷(すかやつ)

 宗悟寺の山門から南の方角を望む。

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 中央の小高い森は、火伏の神様の「秋葉神社」。1658年に旗本・森川氏が歓進した。森川氏は江戸森川町(現文京区本郷)の屋敷に分祀し、守り神としていた。江戸の大火から森川氏の屋敷だけは火の難を逃れたことから火伏の神として有名になったとされる。その後は広く周辺の人々からも信仰され、特に例祭(4月18日)や酉の日には賑わい、松山宿からこの神社への経路は「秋葉道」と呼ばれたという。

 「秋葉神社」を中心として西側(右手の谷)を「梅が谷」、東側(左手の谷)を「須加谷」という。「梅が谷」は年老いた若狭の局が隠棲して余生を送ったといわれる場所で、「須加谷」はかつて「菅谷堂」という観音堂があり、若狭の局が作ったとされる「蛇苦止観音」が祀られていたという。現在は「宗悟寺」に祀られている。

●武蔵逍遥乗馬会 11:15

 「宗悟寺」の裏山には、外乗りを主とする乗馬クラブがある(2022年撮影)。完全予約制で、乗馬トレッキング60分コースが8,500円、120分コースで13,000円。

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●串引沼(くしびきぬま)11:30

 「串引沼」には、次のような伝説が伝わっているという。

 その昔、夫頼家を殺された若狭の局は、大谷村に逃れ比丘尼山の草庵に住み、夫頼家の菩提を弔っていましたが、いつまで も夫を殺された悲しみから逃れられず苦しんでいました。それを見かねた祖母比企の尼は、若狭の局に、心の迷いを去らせる為に、鎌倉より持参し肌身離さず持っていた夫頼家から贈られた鎌倉彫の櫛を捨てさせようと心に誓いました。

 夜の明けはじめた早朝、朝の勤行を済ませ、祖母の比企の尼と二人連れだってこの沼に行き、頼家形見の櫛を沼に投げ入れました。櫛はかすかな水音を残して沼底深く沈み、その姿が見えなくなりました。その時若狭の局はもちろん、比企の尼の両眼からも涙がとめどなく流れ落ちていました。時は1205年7月半ば、丁度、夫頼家の命日に当たる日であったと云います。

 「串引沼」は、川越カントリークラブの一部になっている。 

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 土手に並ぶ桜は、修善寺町(現伊豆市)の篤志家から寄贈された山桜で、真っ白の小さな花が咲く「頼家桜」。

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● 比丘尼山(びくにやま)11:35

 「比丘尼山」は、比企郡司・比企遠宗(とおむね) の妻、比企の尼が遠宗の没後、禅尼となって草庵を営んだところと伝えられている。

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 「比丘尼山」から南は、伊豆の修善寺と同じに、主膳寺と呼ばれている。比企地区には、鎌倉と同じ呼称の土地が多くある。その他にも扇谷、梅が谷、菅谷、滑川、腰越、大蔵などの地名がある。

 「比丘尼山」の南面には横穴墓が造られており、市指定史跡となっている。三千塚古墳群の一部、「比丘尼山」の南斜面に3 、4 段に配列して築造され、40~50基余りの横穴墓が分布していると思われる。うち 3 基が開口しているそうだ。「吉見百穴」と同様の7 世紀頃に造られたものであると思われる。横穴墓群は「吉見百穴」を中心に西に広がっており、この地方に移住した渡来系氏族とのかかわりあいのある墓制とも考えられている。

 12:00、大岡市民活動センター着。

 

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  「日本スリーデーマーチ2015」 2015年11月12日 (木)
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/2015-3fcc.html

 

 ★ ★ ★

 平安時代末期、比企遠宗(とおむね)は、清和源氏の棟梁・源義朝の家人だった 。義朝は、1147年(久安3)三男・頼朝が生まれると、頼朝の乳母に比企遠宗の妻を任命した。1159年(平治元年)頼朝13歳の時、平清盛と源義朝の源平の戦い「平治の乱」が起った。しかし、源氏は敗れ、頼朝の父・義朝や二人の兄は戦死。初陣の頼朝も平氏に捕らえられ殺されるところ、平清盛の継母・池禅尼(いけのぜんに)の助命により、伊豆の蛭ケ小島に流されてしまった。

 頼朝の監視役には、平氏北条時政と伊東に本拠を置く平氏伊東祐親(すけちか)がなった。頼朝が伊豆に移ると、比企夫婦も頼朝の世話をするために、京都から請所とされた武蔵国比企郡に移る。そして夫・遠宗亡き後、妻の乳母は比企の尼として、伊豆の頼朝を物心両面で支援していく。伊豆の伝承では、月に一度、比企氏からの物資が届いたという。

 比企氏の支援は、 20年に及んだ。頼朝の旗上げ後、比企氏は一族をあげて頼朝の武士政権「鎌倉幕府」に貢献する。頼朝も比企の尼の恩に報いるため、比企家の当主・比企能員(よしかず)を上野や信濃の目代にした。1182年(寿永元年)頼朝の長男・頼家が産まれると能員は頼家の乳母父になり、比企氏の女性達が乳母になる。しかし、次男・実朝が産まれると、政子の妹・阿波の局など北条氏の女性達が乳母になった。

 その後、比企能員の娘・若狭の局は、頼家に嫁ぎ、1198年(建久9年)に頼家の長男・一幡を産む。1199年(建久10年)1月に頼朝が亡くなる。18 歳の長男・頼家が、二代将軍となり、比企氏が将軍の外戚として勢力を付ける事になる。1203年(建仁3年)頼家が病にかかると、同年9月、比企氏を北条邸で薬師如来の法要があると偽り、比企能員を自分の屋敷に招き殺害。北条氏の軍は、鎌倉・比企が谷の比企の館も襲い、比企一族は滅亡した。

 北条時政は、頼家の将軍職を解き修善寺に幽閉、北条氏が乳母をした実朝を三代将軍にし、後見人として権力を握る。翌年7月、頼家は北条氏により殺される。この時、頼家の側にいた妻の若狭の局は、頼家の位牌(遺骨説もあり)を持ち、武蔵国大谷村に逃げてきたと伝えられている。この争いは「比企の乱」と呼ばれているが、京都の公家や僧侶の日記などから、比企氏から権力を奪取するための北条氏の謀略とされている。

 能員の末子・比企能本(よしもと)は、比企一族滅亡時に2歳だったが助命され、長じて出家し日学上人となった。鎌倉に戻った能本は、1253年(建長5年)日蓮に帰依する。比企一族の菩提を弔うためは、鎌倉の比企氏館跡にあった自らの屋敷を日蓮聖人に献上した。日蓮聖人は、1260年(文応元年)比企能本の父・能員と母に「長興」、「妙本」の法号をそれぞれ授与、この寺を「長興山妙本寺」と名付けたという。

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