古墳群と足袋蔵のまち行田
2023年1年22日(日)、古墳群と足袋蔵のまち行田市の名所をめぐる。
行田市は、埼玉県の北部に位置する人口約8万人の都市。足袋産地(行田足袋)として知られ、「和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田」が「日本遺産」に認定されている。全国有数の大型古墳群である「埼玉(さきたま)古墳群」は国の特別史跡に指定されている。
集合場所を出発する頃は零下1℃。この日の天気は晴れ、最高気温は9℃と10℃に満たないが、風がないので比較的温かい。8:55、埼玉県行田市大字埼玉(さきたま)の「さきたま古墳公園」駐車場に到着。
■さきたま史跡の博物館
9:05、国宝「金錯鉄剣」のある県立「さきたま史跡の博物館」に入館。観覧料200円。
国宝展示室と企画展示室「ほるたま展『埴輪男子』」を見学。
展示室中央に展示されている国宝「金錯銘(きんさくめい)鉄剣」を鑑賞。近づいての撮影は禁止。右の写真は「行田市郷土博物館」観覧券を転載。
鉄剣が発見された「稲荷山古墳」の埋葬施設(木棺)の想定図。
発掘によって「稲荷山古墳」の埋葬施設から出土したヒスイの勾玉や鏡などの副葬品も、すべて一括で国宝に指定されている。
企画展示室「ほるたま展『埴輪男子』」に展示された「被りものをする男子」。
10:05 博物館を出て、幸手市から移築したという江戸時代末期の稲作農家の建物「遠藤家住宅」を見学(写真省略)。
■埼玉(さきたま)古墳群
古墳群のエリアに歩いて向かう途中にある「埼玉県名発祥の碑」。この地、行田市大字埼玉(さきたま)が、埼玉県名発祥の地とされている。
「埼玉」が県の名称とされたのは、当初の県の管理区域の中で、最も広いのが、埼玉郡であったことによると、説明板に記されている。「埼玉古墳群」に接する「浅間塚」と呼ばれる古墳上に「前玉神社」が、建てられているそうだ。「前玉(さきたま)」が転じて「埼玉(さきたま)」へと漢字が変化し、現在の「埼玉県」になったと云われている。
「将軍山古墳」へ向かう。墳丘へは、立ち入り禁止。
10:25、「将軍山古墳展示館」に入館。実物の横穴式石室を建物の中から見学できる我が国初の施設。埋葬された人物、副葬品等が展示されている。
「将軍山古墳」は、1894年(明治27)地元の人々により発掘され。横穴式の石室を発見した。官庁の許可を得て発掘を進めた結果、縦1.5m、横0.8m、厚さ30cmの秩父青石(緑泥片岩)の天井板、側壁は房総半島の富津市付近で産出される房州石が用いられていた。また多数の馬具や武器、武具、須恵器などが出土したという。古墳の全長は90m、高さ8m(推定)。
騎馬武者を再現。
横穴式石室の実物大のレプリカ。
10:45、鉄剣が発見された「稲荷山古墳」に登る。写真は、ウィキメディア・コモンズ
「稲荷山古墳」は、埼玉県第2位の規模の大型前方後円墳。全長120m、高さ10m。国の特別史跡に指定され、帯金具、まが玉、鏡等多数の出土品は「国宝」に指定されている。金錯銘を有する鉄剣(稲荷山古墳出土鉄剣)が発見されたことで知られる。造営年代は、古墳時代後期の5世紀後半と考えられ、さきたま古墳群中では最初に築造された。
鉄剣は1968年(昭和43)の発掘調査の際に出土し、10年後(昭和53年)の保存処理作業の折、X線撮影をしたところ、115文字の銘文を発見。1983年(昭和58)に国宝に指定された。
「稲荷山古墳」からは、墳丘表面を覆っていた葺石や、円筒埴輪、人物埴輪などの埴輪類が出土しており、これらの出土遺物の型式から築造年代は6世紀の前半と考えられている。1985年(昭和60)~1987年にかけ墳頂部と墳丘東側を中心に整備が行われた。また、周濠の一部が復元されている。
「稲荷山古墳」の墳頂から東の方角に見える「古代蓮の里」の展望塔。
「稲荷山古墳」から見る北の方角。左につならる「白根山」方面、右は「男体山」。
「稲荷山古墳」から見る日本最大級の「丸墓山古墳」。
11:10「丸墓山古墳」に登る。6世紀前半の国内最大級の円墳。全長105m、高さ17m。出土した埴輪から6世紀前半に造られたと考えられる。
「丸墓山古墳」から見る北北西の方角に「赤城山」。
「丸墓山古墳」から見る北西の方角に「浅間山」、右手前に「忍城趾」が見える。
丸墓山古墳から西の方角に「両神山」。
1590年(天正18年)小田原征伐に際して、秀吉から忍(おし)城攻略の命を受けた石田三成がこの「丸墓山古墳」の頂上に陣を張った。三成は忍城を水攻めにするため、「丸墓山」を含む半円形の「石田堤」を28 kmほど築いたという。「丸墓山古墳」から南にまっすぐ伸びている道路は、この堤の名残だそうだ。
なお、埼玉古墳群の中には、武蔵国で最も大きな前方後円墳の「二子山古墳」(全長132m、高さ14m)がある。造られた時期は6世紀前半とされる。
11:35「さきたま古墳公園」駐車場を出て、「行田市バスターミナル観光案内所」に立ち寄り、12:00「忍城趾・行田市郷土博物館」駐車場に車を駐める。
■ゼリーフライ
駐車場から歩いて県道128号線を横断、「忍東照宮」の西側にある行田名物「ゼリーフライ」の旗が立つ食事処「かねつき堂」に入る。
行田のB級グルメ「ゼリーフライ」は、”おからコロッケ”。おからに小麦粉を加え、つぶしたジャガイモのほかタマネギやニンジンなどの刻み野菜を混ぜあわたタネを小判の形に整えて揚げ、ウースターソースにくぐらせる。通常のコロッケと異なり小麦粉・卵・パン粉をつけない。
ゼリーフライは、2個セットで220円だが、1個だけ注文。ボリュームのある焼きそば(小) 400円と合わせて合計510円の昼食。
形が小判(銭)の形をしていて、揚げものという意味で「銭フライ」が訛ったという。また別に、「フライ」という食べものもあるそうだ。溶いた小麦粉にネギや肉などを加え、卵をのせて焼いた薄焼きの”お好み焼き”。これらは、足袋屋の女工さん、家内工業の主婦、子どものおやつや軽食として食べられたという。
12:30、「かねつき堂」を出て、「忍(おし)東照宮」(忍諏訪神社)で参拝。
「忍諏訪神社」は、後鳥羽天皇の建久(1190年頃)年間、忍一族が当郷へ居住した頃に創建されたとも、戦国時代の1491年(延徳3)成田親泰が忍城を構築した際に持田村鎮守諏訪社(持田諏訪神社)を遷座したとも伝えられる。その後、成田氏代々の崇敬があり、江戸時代の1639年(寛永16)城主となった阿部忠秋は城郭を修築、併せて1645年(正保2)本殿を造営、1672年(寛文12)拝殿を新たに建立した。
1823年(文政6)、松平忠義は伊勢桑名から移封するに当たり、城内字下荒井の地へ「東照宮」を勧請したが、1873年(明治6)城郭取り壊しの際に城内各所にあった他の社もあわせて当社境内に遷座したという。
■忍(おし)城趾
12:50、忍城趾駐車場に戻り、観光ガイドと合流。13:00 駐車場を出発。
当時の「大手御門」は、忍城内の升形城門から大手橋を渡った先に南面して立っていた。
忍城趾のシンボル「御三階櫓」(御三重櫓)。
当時の「御三階櫓」は、現在の「水城公園」(当時は忍城の外堀の沼)付近に建っていたが、明治時代の忍城解体にともない破却されたという。現在の「御三階櫓」は、「行田市郷土博物館」の開館に合わせて昭和63年(1988年)、当時を模して鉄筋コンクリート構造により造られたというが、規模も位置も史実とは異なるという。一見して天守閣に見えるが、「行田市郷土博物館」とつながっていて、展示物および展望台となっている内部を見学できる。
「忍城」は室町時代にあたる15世紀後半に成田氏により築城された城郭。戦国時代の終わりに豊臣秀吉の関東平定に際し、石田三成らによる近くを流れる利根川を利用した水攻めを受ける中、小田原城の降伏後に開城した。このことが、「忍の浮き城」という別名の由来となった。忍城の水攻めを描いた歴史小説『のぼうの城』(和田竜の作)は、2012年に映画化(野村萬斎主演)された。
家康の関東入部後は、四男の松平忠吉が忍城に配置され、以後、忍藩10万石の政庁となった。1639年(寛永16年)に老中・阿部忠秋が入ると城の拡張整備が行われた。阿部氏の時代には「御三階櫓」が新たに建設されるなど、往事の縄張りは1702年(元禄15年)ごろに完成したと考えられている。
1823年(文政6年)に阿部氏が白河に移り、桑名から松平忠堯(ただたか、奥平松平氏)が入った。忍城の城下町は、中山道の裏街道宿場町としての機能や、付近を流れる利根川の水運を利用した物流路としての機能を兼ね備えて繁栄。また江戸時代後期からは、足袋の産地として名をはせるようになる。
■足袋蔵(たびくら)のまち
ガイドの案内で「足袋蔵のまち」をめぐる。
「足袋蔵」は、足袋産業にかかわる蔵造りの建物。古くはおもに足袋の保管庫であった。江戸時代から1957年(昭和32年)にかけて建築され、土蔵だけでなく、石蔵、煉瓦蔵、木蔵、コンクリート蔵、モルタル蔵など、年代により様々な建築技術による多種多様な蔵が、行田の町に点在している。
13:15、「足袋とくらしの博物館」着。ここは「力弥たび」の商標を用いた「牧野本店」の元工場。大正11年に建設された洋風の工場建物。現在は、かつての職人たちが裁断機やミシンを動かし、足袋づくりを実演している様子の見学できる博物館。入館料200円。
2005年10月オープン。足袋を作っている現場を見学。
13:35「足袋とくらしの博物館」を出て、さらに「足袋蔵のまち」を散策。
「牧野本店」の店蔵と主屋は1924年(大正13年)棟上、土蔵は1899年(明治32年)棟上の蔵と建築年代不明のものの2棟が現存し、足袋工場は1922年(大正11年)の棟上。 写真は、「牧野本店」の店蔵で工場につながっている。
「時田蔵」は、1903年(明治36年)建築と大正初期建築の2棟の土蔵。奥にも土蔵が並んでいる。時田家が明治時代に建設。行田では珍しい袖蔵式で板張りの足袋蔵。
「忠次郎蔵」(国登録有形文化財)は、旧小川忠治郎商店の店舗及び主屋。足袋原料問屋の昭和初期の店蔵。1925年(大正14年)棟上の土蔵。現在、蔵を再活用した本格手打ち蕎麦の店。
「牧禎舎」は、昭和初期の旧足袋・被服工場と事務所兼住宅を改装した施設。一日から借りられるレンタルスペースや、中長期的に利用出来るアーティストシェア工房があり、藍染体験工房が併設されているそうだ。
13:50「足袋蔵まちづくりミュージアム(栗代蔵)」に入館(無料)。「栗代(くりだい)蔵」は、1906年(明治39年)建築。
1階は案内所、2階は「栗代蔵」の歴史を展示(写真)。2009年2月オープン。
「保泉蔵」は、1916年(大正5年)建築の土蔵、1932年(昭和7年)棟上の石蔵、昭和戦前期建築のモルタル蔵。
「十万石ふくさや行田本店」(国登録有形文化財)は、銘菓「十万石饅頭」で知られる本店。1883年(明治16年)建設の行田を代表する店蔵。
「イサミコーポレーションスクール工場」は、1907年3月(明治40)にメーカー「イサミ足袋」として創業。
行田最大のノコギリ屋根の足袋工場。現在は、学校や企業の制服、体操着、足袋の製造を手がける。2017年のTVドラマ『陸王』(役所広司主演)でこの工場が、劇中で老舗足袋を扱う「こはぜ屋」の外観としてロケに使われた。
「行田八幡神社」は、「封じの宮」と称され、子供の夜泣きやかんの虫を封じる「虫封じ」をはじめ、癌の病、諸病、難病や悪癖の封じ、お年寄りのぼけ封じ等の封じ祈願が秘法として継承されているそうだ。参拝客でにぎわっていた。
煉瓦作りの「大澤蔵」(登録有形文化財)は、1926年(大正15年)建築。煉瓦造の足袋蔵は行田市唯一。
「足袋蔵ギャラリー門」と「クチキ建築設計事務所」は、1916年(大正5年)建築。ギャラリーは足袋蔵を利用し、絵画展などを不定期で開催。敷地内にあるカフェは、初代行田市長の元住居を「カフェ閑居」として運営。「パン工房KURA」は1910年(明治43年)建築。2017年(平成29)4月にこれらの敷地内建物すべてが、日本遺産構成建物に認定されている。
「孝子蔵」は、1951年(昭和26年)棟上の石蔵(大谷石)。
升形城門跡、大手門跡などを見て、忍城趾に戻る。
■行田市郷土博物館
観光ガイドと別れ、15:00~「行田市郷土博物館」に入館。観覧料200円。
「行田市郷土博物館」は、多くの実物資料が4つのテーマで展示されており、古代から現代にいたる行田の歴史と文化を学ぶことができる。残念ながら、ここの館内は撮影禁止だった。
- 古代の行田 ー行田で花開いた古墳文化
- 中世の行田 ー北武蔵の武将成田氏の居城
- 近世の行田 ー徳川家ゆかりの城郭と城主
- 足袋と行田 ー近代の行田を支えた足袋産業
以下4枚の写真は、「行田市郷土博物館」パンフより転載。
15:50、忍城駐車場にもどり、解散。
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http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-7de4.html
★ ★ ★
前から見たいと思っていた足袋工場の作業風景を見られたのは収穫だった。県立の「さきたま史跡の博物館」では、国宝の金錯銘鉄剣も実物を初めて見た。後で調べると、ケースの中は腐食が進まないように窒素ガスが封入されているという。「金錯」とは、初めて聞く言葉だが金象嵌(きんぞうがん)のこと。昔、新聞などでは「金象嵌」という用語を使っていたと思う。
各地に郷土博物館があるが、この博物館も立派だった。だが撮影禁止とは残念だ。市内をけっこう歩いた。帰ってから久し振りの歩き疲れで、ぐったり。歩数計では1300歩以上だったので、8~9Kmほど歩いたことになる。
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