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2022年6月14日 (火)

新田氏ゆかりの地・太田市

 5月29日(日)、新田氏ゆかりの新田荘(にったのしょう)、太田市(群馬県)の史跡をめぐる。

●大光院

 9:10、「大光院」駐車場に到着。「大光院」は、徳川家康が始祖・新田義重(よししげ)の菩提寺として、金山(かなやま)南麓に1613年に建立した浄土宗の寺院。

 「開山堂」に参拝。鉄筋コンクリート造りとしては古く、1934年(昭和9年)の再建。

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 こちらが本堂。境内中央には(写真右手)、上人の手植と伝えられる「臥龍の松」がある。

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 本堂の前にある「臥龍の松」は、半分枯れていた。

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 徳川家康は一族の繁栄と天下泰平、さらにご先祖の新田義重(よししげ)の追善供養のため菩提寺を建立計画を立て、芝「増上寺」の観智(かんち)国師に相談した。国師の門弟で四哲の一人といわれた呑龍(どんりゅう)上人が迎えられ、1613年(慶長18年)に創建された。「大光院」に入山した上人は、読経・講義・説法などに力を尽くしす。上人の徳を慕う学僧が「大光院」に多数集まり、周辺農民も上人の教えを守ったので、寺は栄えた。

 当時、太平の世になっても人心は乱れ、天災等で生活は貧しく、多くの捨て子や間引きなどが横行していた。上人は、これらの子どもを弟子という名目で寺に受け入れ、寺の費用で養育した。このため、後世の人々から「子育て呑龍」や「呑龍様」と慕われ、篤い信仰を集めているという。今日も、乳児を連れた母親が、何組も参拝していた。

●金山(かなやま)

 戦国時代の山城「史跡金山(かなやま)城跡」の金山(標高239m)に登る。金山は、太田のシンボルの山。昭和9年(1934)に国の史跡指定。

 9:35 「大光院」を出発。子ども連れのハイキング集団が、別のコースに山に向かって山道を歩く。

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 途中、2個所の東屋で小休憩しながら、10:30駐車場のある展望台に着く。

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 展望台から、現在はSUBARU(スバル)の城下町の太田市街、遠くに関東平野を一望。

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 10:40展望台を出て、「金山城跡」へ向かう。

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●金山城趾

 10:45、「史跡金山城跡」着。

 「金山城」は戦国時代、新田一族の岩松家純によって1469年(文明元年)に築城され、下克上によって城主となった重臣の横瀬氏(のちに由良氏に改姓)の時代に全盛を迎えた。越後の上杉氏や甲斐の武田氏などの有力武将たちに攻められたが、強固な城は落城することはなかったという。その後北条氏の支配となり、豊臣秀吉による小田原攻めによる北条氏の敗北によって、金山城も1590年(天正18年)に廃城となった。

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 「金山城」は、山全体の自然地形を利用して造られた山城。堀切や土塁・石垣などの土木工事を中心とした遺構がよく残されている。金山の山頂を中心として全山にその縄張り(=城の設計)が及ぶ金山城跡は、1934年(昭和9年)に国の史跡指定を受けた。太田市と太田市教育委員会では、1992年(平成4年)から発掘調査を開始し、金山城時代の通路形態の復元を中心とした遺構の保存整備事業を実施。また、2006年(平成18年)には日本城郭協会により、「日本100名城」に選定されている。

・堀切:山城に使われている空堀で、尾根を断ち切って敵の侵入防ぐ曲輪を守る施設。

 西矢倉西堀切と物見台堀切(写真がうまく撮れず、太田市教育委員会のパンフを転載)

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・物見台:金山の周囲の敵の動きを見張る施設。10:30着。

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 物見台から北西の方角:榛名山(1449m)と赤城山(1828m)

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 北の方角:日光白根山(2578m)と男体山(2486m)

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・馬場曲輪(ばばくるわ):大手虎口を守る兵が待機したという曲輪。石垣、石段、建物や柵列があった。

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・月の池:大手虎口の脇にあり、訪れた者に水の豊富さを見せつけるという。

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・大手虎口(おおてこぐち):本丸への侵入を防ぐ一大防御拠点。高く積まれた石垣は、敵を威圧し、城の威厳を示す。11:20着。

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・大手虎口南上段曲輪:手前の井戸跡と石敷建物跡。武器庫や兵の詰め所だったと思われる。

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・大ケヤキ(欅):この先の「新田神社」の参道にも大ケヤキがある。

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・日の池:戦いで勝利や雨乞いなどの儀式が行われたと思われる神聖な池。

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・南曲輪(中島記念公園):休憩所などが整備されて、眺望も良い。空気の澄んだ日には秩父山地の上に顔を出す富士山を望むことができる。

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 広場には、中島飛行機(現在のSUBARU)の創設者である中島知久平の胸像が建てられている。子供たちが大勢いるが、登山開始の時にいたハイキングの集団だろうか。

●新田神社

・金山のシンボル「金山の大ケヤキ」は、樹齢800年ほど。金山の山頂近く、「新田神社」の参道にある。

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 樹高17m、目通り6.79m、枝張りは40mを超え、樹勢良好。石段を登ると、11:40「新田神社」に到着。金山城の本丸跡に鎮座し、新田義貞を祀る。

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 拝殿の右横の説明板「新田神社御鎮座壱百年記念事業 修復奉賛会発足 趣意書」 には、

 「新田神社の創始につきましては、新田公の支族江田行義の十代の孫森下大膳が旧領江田の館(現在の新田町大字上江田)の本丸跡に、藁宮を建てて公及び祖先の遺徳を偲んだのが始めと傅えられて居ます・・・」とあるが、いつの頃の話だろうか。

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 明治になり、義貞の末裔と地元有志らの出願により、1973年(明治6年)神社創立の許可を得て、 1875年(明治8年)社殿を建築、「新田神社」の社号を賜ったという。1934年(昭和9年)、国の史跡に指定。

 社殿の右側には天皇家が腰掛けた腰掛石がある。右から大正天皇、秩父宮殿下、昭和天皇(以上、明治42年)、高松宮殿下(大正4年)、三笠宮殿下(大正14年)。参拝時に腰掛けられたそうだ。

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 境内には、他にも1979年(昭和54年)の高松宮宣仁親王の参拝記念植樹の松がある。

 境内で昼食後、12:05新田神社を出発、登りとは別の南側のジグザグの急坂を下る。

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●史跡金山城跡ガイダンス施設

 12:35、「史跡金山城跡ガイダンス施設」に入館(入場料無料)。金山城跡の歴史を紹介する歴史学習の場、金山来訪者の憩いの場でもある。建物は、隈研吾氏の設計。側面の壁は、金山城の石垣を模したという。

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 金山城の歴史解説、出土遺物などが展示されている。

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●金龍寺

 13:20 金龍寺着。「金龍寺」は、1417年(応永24年) 横瀬貞氏が祖父・新田義貞の菩提寺として建立した。

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 本堂に義貞の木像が安置されている。

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●天神山古墳

 「大光院」駐車場に戻り、3Km、車で7分ほどの「天神山古墳」駐車場に13:45に着く。

 墳丘の長さ210m、東日本最大(全国26位、近畿を除けば3位)の前方後円墳の「天神山古墳」。国指定の史跡。

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 「男体山(なんたいさん)古墳」とも呼ばれ、墳丘の周りには二重に堀が巡らされ、北東には付属する陪塚(=ばいちょう、親族や臣下を埋葬した小古墳)や北東に帆立貝型の「女体山古墳」も造られている。円筒埴輪のほか、家、楯、鶏や水鳥(白鳥)の埴輪が発見されていて、古墳が造られた時期は5世紀前半と推定。大型の長持形石棺が使われたことや埴輪の特徴から、古墳に埋葬された人はヤマト王権と強いつながりを持っていた毛野(けぬ)国の大首長とされている。墳丘に登る。

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●世良田東照宮

 天神山古墳から西へ15Km、車で25分ほどで、14:45 「世良田東照宮」の駐車場に着く。

 「世良田東照宮」は、徳川氏発祥の地の東照宮として知られている。国指定史跡、重要文化財。三代将軍家光により、元和年間(1615~1623) に造営された「日光東照宮」の元社殿や宝物などを1640年~1642年(寛永17年~19年)に徳川氏発祥の地である当地・世良田へ移築された。

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 次の写真は、ウキメディア・コモンズより転載した「拝殿」。国の重要文化財。

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 唐門(国の重文)に付随し透塀が本殿を一周している。この奥の本殿(国の重文)は、工事中か。

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 境内の「宝物保管陳列所」(撮影禁止)には、東照宮所蔵の宝物を陳列。展示されている「新田・徳川氏略系図」には、源義家ー源義国-新田義重-新田義季(よしすえ、新田義重の4男)ー世良田頼氏-・・・-松平親氏(松平家へ婿養子)-・・・徳川家康(徳川に復姓)-・・・つながるという。新田義季から数えて家康は、実に17代目となるとしている。拝観料300円。

 今日の学界では、家康によって粉飾された系譜というのが通説になっている。徳川家の系図詐称については、本ブログの次の記事を参照されたい。

 「尾島ねぷたまつり」 2014年8月18日投稿

   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/post-b26c.html
 

●長楽寺

 「世良田東照宮」に隣接した「長楽寺」に15:20着。

 「長楽寺」は、徳川氏の祖と言われる新田義季が1221年(承久3年)、臨済宗の開祖・栄西の高弟・栄朝を招いて開基した、東国における禅文化発祥の寺。室町時代には関東十刹の一つにも数えられた。

 栄朝は名僧の誉れ高く、徳を慕って集まった全国の僧侶の中からは多くの高僧・名僧が輩出した。かれらは各地に寺院を開いて禅を広め、世良田は全国の僧侶の憧れの地となったという。広大な境内には小寺院が軒を並べ、常時500人もの学僧が研学・修行につとめるなど、関東の優良な寺院として栄えたそうだ。

 徳川家康が関東に入ると、徳川氏祖先の寺として「長楽寺」を重視し、天海大僧正を住職に任じた。さらに三代将軍家光の命を受けて天海は天台宗に改宗し、日光東照宮の社殿を移すなど、「長楽寺」は末寺700余寺を擁する大寺院として再興した。

・三仏堂:1651年(慶安4年)に三代将軍家光によって再建された。現在の建物は、1985年(昭和60年)に改修されたもの。三仏堂の中には、釈迦如来(高さ3m)、阿弥陀如来(3.3m)、弥勒菩薩(2.7m)の三体の木造仏が並んで安置されているという。県の重文。

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 新田義季は、得川(徳川)氏また世良田氏の祖。父・義重からは新田郡(新田荘)の世良田郷を譲られ、世良田郷の地頭となった。これにより世良田と称した。また得川郷をも領有して、得川を称したともされる。

 義季の後は、長子・頼有が得川郷を継承し、次子・頼氏が世良田郷を継承した。のちに家康が清和源氏を詐称する際、新田義季(得川義季)を先祖として、自身は松平から徳川に復姓した。

・忠霊塔:「長楽寺」の三仏堂の左手には、忠霊塔が建っている。

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 忠霊塔は、1877年(明治10年)の西南戦争から太平洋戦争まで245名余りの英霊が祀られ、昭和21年世良田村によって建てられた。

・蓮池と渡月橋:「心」の字を型どっていることから、「心字池」とも呼ばれる蓮池は、鎌倉時代にはすでに存在していたという。この池のほぼ中央には、石造りの太鼓橋「渡月橋」が架けられている。

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・太鼓門:時報や行事の合図のため、楼上に太鼓を置いていたことからこの名があるという。現在、太鼓はなく、明治9年に旧鐘楼から移された鐘も戦時中に供出されてしまっている。1982年(昭和57年)に重要文化財に指定。

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 ほかにも、鎌倉時代の優れた石造美術品として知られ国の重文に指定の「宝塔」、県の重文「勅使門」、本堂(大師堂)、新田一族供養塔 などがあるが、広い境内を回りきれず割愛した。

●新田荘歴史資料館

 「新田荘歴史資料館」(旧・東毛歴史資料館)は歴史公園の中にあり、「長楽寺」、「東照宮」の貴重な文化財をはじめ、新田荘域を中心とする様々な歴史資料を展示。入館料200円。時間の関係で入館は割愛。

 新田の「長楽寺」、徳川の「世良田東照宮」そして「新田荘歴史資料館」の一帯は、「大田市歴史公園」と呼ばれている。歴史公園の西側には芝生広場があり、古くから新田氏一族・世良田氏の館跡(推定)と伝えられているという。


●総持寺

 総持寺は、2町四方(一辺200m)の鎌倉時代の新田氏の惣領(=跡取り)の館がここにあったとされることから、別名を「館の坊」とも呼ばれる。この新田館跡は、西の早川を背にして、三方を堀にした館跡で、東と西の一部に堀の跡が残っている。拝観料なし。時間の関係で割愛する。

 「世良田東照宮」の駐車場を15:30出発、帰路へ。


 ★ ★ ★

 新田荘(にったのしょう)は、上野国(こうずけのくに)新田郡を中心とした地域(現在の群馬県太田市と周辺の桐生市・伊勢崎市・みどり市などの一部)にあった荘園、おもに大間々扇状地の上に立地している。1108年(天仁元年)、浅間山の爆発によって荒廃した新田郡南西部の地を源義重(源義国の子、義家の孫)が開発。1157年(保元2)にこの19郷を鳥羽上皇建立の寺院「金剛心院」に寄進、ここに金剛心院を本家、藤原忠雅を領家、義重を下司職(げししき)とする新田荘が成立した。

 下司(げし)とは、中世日本の荘園や公領において、現地で実務を取っていた荘官のこと。京にいる荘官の上司(じょうし)に対していう。

 新田荘は、1170年までには新たに39郷を荘域に加えて大荘園へと発展。義重の子息らは諸郷の地頭職を分割・譲渡されて世良田氏・額戸氏・山名氏などに分立、それぞれがさらに分立して庶子家(分家)は各郷に根を下ろし、自らの郷名を名字とした。

 新田義貞は、新田氏の惣領(=嫡子、跡取り)であったが、官職すらもたないほど鎌倉幕府からは冷遇されていた。元弘の変(1331)には、初め幕府軍の一員として楠木正成の千早城攻撃に加わったが、その途中帰国。1333年(元弘3・正慶2)、護良(もりよし)親王の令旨(りょうじ)を得て北条氏に背き挙兵する。関東各地で反幕府勢力を結集し、鎌倉に進撃して陥落させ、北条高時らは自害、鎌倉幕府は滅亡した。


 義貞はその功により、後醍醐天皇の「建武の新政」で重用され、越後、播磨守などの国司、武者所頭人、さらに左近衛中将などに任ぜられたが、やがて勲功第一位として優遇された足利尊氏と激しく対立するようになる。建武政権に反旗を翻し、武家政権を再興しようとする足利尊氏に、新田義貞は天皇方の大将として抗争を繰り返す。一時は尊氏を九州に追い落とすが、後醍醐天皇方は楠木正成らを失い、京都を放棄した。

 義貞は、天皇方勢力の再結集を図るため北陸に赴いていた延元3年(1338)、足利氏一門の斯波(しば)氏の軍の流れ矢に当たり、越前藤島(福井県福井市)で38歳の生涯を閉じた。義貞は、鎌倉攻めのため新田荘で兵を挙げたあと、ついに一度も新田の地を踏むことはなかった。

 尊氏とその弟・直義(ただよし)を中心に一族がまとまって行動した足利氏に比べ、新田氏は家格の低さももちろん、山名・岩松氏ら有力な一族が当初から義貞と別行動をとり、わずかに本宗系の庶子家しか動員しえなかったので、すでに義貞の非力さがあった。にもかかわらず義貞は後醍醐天皇によって尊氏の対抗馬に仕立て上げられ、悲劇の末路をたどることになった。


 新田義貞の時代に南朝軍の中核になり、新田氏一族もこれに従うが南朝の敗退とともに没落。その中で、北朝に下った岩松氏が事実上の宗家の地位を占めて新田荘を支配した。だが、戦国時代に入ると岩松氏も家臣の由良氏の下克上によって取って代わられると荘園の実態を失い、やがて豊臣政権の「小田原の役」に由良氏が巻き込まれて所領を失い、新田荘も解体に追い込まれた。


 明治維新の後、新田義貞や楠木正成らの南朝側の武将らは、朝廷のために最後まで尽した「忠臣」「英雄」として再評価されるようになった。義貞が亡くなって540年以上経った1882年(明治15年)、義貞は正一位を贈位された。新田義貞を祀る「新田神社」に天皇家が何故参拝されたのかという理由が分かった。

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