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2022年6月23日 (木)

那須の国探訪の旅

 2022年6月12日(日)、栃木県・那須地方の古代を中心に歴史と文化を学ぶ旅。

 

 「那須の国」つまり「那須国」は、那珂川上流地域である太田原市を中心とする那須郡一帯がその領域で、多くの古墳や古代遺跡が存在する。2019年の宮崎県・西都原古墳群、2020年の群馬県・上毛野の古墳群に引き続き、2021年コロナ禍で延期した栃木県・那須地方の古代史を中心に歴史と文化を学ぶ日帰りの旅。

 前日の太田原地方の予報(11日8:00発表)は、降水確率は午前70%(小雨)、午後40%(小雨)、最高気温21℃と、梅雨時期で天気が危うい。小雨決行、しかし当日は最高気温25.1℃の夏日で、小雨の予報が外れ、曇りで予定通リコースを回ることができた。


●那珂川町風土記の丘資料館(9:35~10:40)那珂川町

 東北道を矢板ICで降り、県道161号を東へ20分ほど走る。資料館は田園風景の中にある。このあたりで、国史跡の「那須小川古墳群」(国史跡)や「那須官衙(かんが)遺跡」(国史跡)などなど。多くの史跡が発見されているという。

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 2015年4月より「栃木県立なす風土記の丘資料館」は那珂川町に移管され、「那珂川町なす風土記の丘資料館」となった。常設展示テーマを「よみがえる那須古代文化の軌跡」として、縄文時代から奈良・平安時代にわたり5つのテーマを取り上げ、全体として那須の古代文化を紹介する。学芸員に分かりやすく説明してもらう。

 ロビーに展示されている地形模型。資料館周辺の地形や文化遺産の分布を概観。

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 那珂川やその支流によって出来た河岸段丘上の狭い地域に、遺跡が集中しているのがよくわかる。

 資料室に入ると、いきなり那須縄文人の竪穴式住居の模型。縄文人の食生活や東北地方に見られる「複式炉」を知る。

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 この地域の取っ手のある縄文式土器は、新潟の火炎土器の影響を受けているという。

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 前方後方墳の駒形大塚古墳(全長60.5m)の模型。

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 前方後方墳は、特に東日本の前期古墳に多く存在する。中国・四国にも多いそうだ。前方後円墳と前方後方墳は、被葬者の階層の違いとの説明があるが、他の資料によるといまだ十分解明されてないという。

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 古墳造り模型。

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 那須八幡古墳の鉄製工具類、右側は土器と中国産の鏡「夔鳳鏡」(きほうきょう、複製)。

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 駒形大塚古墳の土器群と右下は中国産の「画文帯四獣鏡」(複製)。

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 川崎古墳の横穴式石室の実物大模型。長さ約8.2m、最大幅約3m、高さ2mで、県内最大の大きさ。

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 「那須官衙(なすかんが)遺跡」は、役所の跡。国の指定史跡。官衙遺跡は、主に古代の政庁である国衙(こくが)や郡衙(ぐんが)の跡を指す。南東上空から見た復元図。

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 「那須官衙」には政庁としての様々な建物があったが、大部分の建物は税としての稲などを収蔵する倉庫「正倉」が数多く立ち並んでいた。手前の「那須官衙正倉」の模型は、高床で朱塗り瓦葺きの大型の正倉と考えられている。古代の那須郡は「租庸調」の調として納税されたカラムシ(麻の仲間)製の古代布の産地で、奈良の大仏に使われた砂金も採れるなど、豊かな土地だったという。

 「那須官衙遺跡」は、那珂川箒川(ほうきがわ)の合流地点の近くの、箒川の形成した段丘上に位置する。昭和の初期より古瓦が散布することから寺院跡だと考えられていたが、発掘により郡衙跡であることが分かった。

 那珂川町の資料館のすぐ近くにある「那須官衙遺跡」。後方に資料館が見える。出典:ウキメディア・コモンズ

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 那須国(なすのくに)は、鬼怒川上流部の東部、那珂川上流地域である那須郡一帯(現在の大田原市を中心とする地域)がその領域であったと考えられている。鬼怒川の西部は下毛野国(しもつけののくに)と呼ばれていたが、那須国は下毛野国 、下野国(しもつけのくに)に編入され那須郡となった。那須統合の時期は明らかではないという。


●上侍塚古墳(10:55~11:10)太田原市

 那珂川町の資料館から2Kmほど先、那珂川水系の箒川(ほうきがわ)に架かる国道294号の長い橋を渡ると、太田原市。そこから「上侍塚古墳」まで3Km。道路左手に立つ「冨士ぼたん園」の看板前で、右手に松林の小山が見える。T字路を右折、狭い道を左手の「上侍塚古墳」の墳丘に沿って進み、古墳を40mほど過ぎたところに、駐車スペースがある。

 車を駐め、右手の小径から墳丘に登る。古墳時代前期の前方後方墳。前も後も方形になっている。長さは、114mある。

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 「侍塚古墳」は、那珂川右岸河岸段丘上に位置する前方後方墳。「上侍塚古墳」から800m北にある「下侍塚古墳」とからなる。1951年、国の史跡に指定。ここの「上侍塚古墳」は、足利市の「藤本観音山古墳」(116.5m)に次ぎ、県内では2番目に大きい。2基とも葺石、墳丘周囲に周濠痕跡、築造は4世紀後半。徳川光圀の命により、「那須国造の碑」の碑主を求めて日本初の学術発掘調査が行われたが、明らかに出来なかった。

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太田原市風土記の丘湯津上資料館(11:20~12:00)太田原市

 「上侍塚古墳」から、更に国道294号を北へおよそ1Kmほど、「太田原市風土記の丘湯津上資料館」に着く。

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 国宝に指定されている「那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)の建立とその発見」をテーマに展示を行う。すぐ近くに、国指定史跡「下侍塚古墳」がある。2012年4月より県から移管、名称変更。入館料は100円だが、この日は栃木県の「県民の日」の無料開放日だった。

 碑が建立された時代背景や江戸時代の徳川光圀による「侍塚古墳」発掘の業績、さらに周辺の遺跡や出土品も紹介。館長から直接、説明を受ける。

 「上・下侍塚古墳」の発掘と国造碑の保存についての展示。

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 水戸光圀は、出土品を絵師に描かせてから松材の木箱に入れて埋め戻させ、盛土の崩落を防ぐため墳丘には松を植えさせた。

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 「那須国造碑」の拓本(右)とレプリカ。

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 碑文は、19字8行、全152字からなる。7世紀末ころに活躍したとされる那須値(なすのあたい)韋提(いで)の業績をたたえた内容。水戸光圀の日本初の発掘調査のきっかけとともなり、現在は「笠石神社」のご神体となっている。高さ148cm、硬い花崗岩(御影石)に彫られている。この石材は、那珂川対岸の八溝(やみぞ)山地で産出するもの。

 碑文の内容から最初、那須の国造(くにのみやつこ=朝廷の地方長官)であったのが評督(こおりのかみ=郡長)になっており、那須国が下毛野国(しもつけぬのくに)、後に下野国(しもつけのくに)に組み入れられたことがわかるという。また、唐の則天武后の時代に使用された年号「永昌」が用いられ、碑の文字が六朝(りくちょう)の書風、中でも北魏の書風に近い。この当時新羅人を下野国に居住させたということが、「日本書紀」に記されていることなどから、渡来人と非常に密接な関係のある資料として注目されるどうだ。

 左から「金井沢碑」(726年建立)、「山ノ上碑」(681年)、「多胡碑」(711年頃)、「多賀城碑」(762年)の古碑の展示。

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 「金井沢碑」、「山ノ上碑」、「多胡碑」の3つの古碑は群馬県高崎市にあり、「上野三碑」(こうづけさんぴ)と呼ばれる。日本各地に点在する古代碑のうち、書道史の上から極めて重要とされている碑(金石文)の「多湖碑」と右端の宮城県多賀城市「多賀城碑」、太田原市の「那須野国造碑」の3つあわせて「日本三古碑」と呼ぶ。

 隣接する「太田原市歴史民俗資料館」(入館無料)は、昭和30年代までの地域の民俗資料を収集・展示する資料館だが、見学は割愛。


●下侍塚古墳
(12:10~12:25)太田原市

 「太田原市歴史民俗資料館」から、国道294号を北へ100mほど先の右手に「下侍塚古墳」がある。

 古墳時代前期の前方後方墳。1951年、国の指定史跡。全長は84mで、「上侍塚古墳」(全長114m)に比べて小ぶり。こちらも松が植えられている。墳丘に登る。

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 侍塚古墳は、「侍塚古墳松守会」という地元のボランティア団体によって、日常的な手入れが行われ、保護されているそうだ。会の名は、「黄門さまが植えた松を守る」という思いから名づけられた。「松守会」による毎年の松のこも巻き・こも外しは、地域に冬や春の訪れを告げる風物詩として定着。また、定期的な下草刈りや枯れ枝の除去も行われているという。地元住民の古墳に対する思い入れと、それによって美観が保たれているは凄い。

 「下侍塚古墳」の北に前方後円墳1、円墳6、方墳1の計8基の古墳群があり、周囲には遊歩道が整備され周遊できる。

 国道294号線を北へ130m先、「下侍塚古墳」の道路を挟んだ反対側に、駐車場、トイレや東屋がある。12:30~駐車場の東屋で、コンビニで買ったランチの昼食。
 

●笠石神社(12:55~13:45)太田原市

 国道294号線を北へ650m先の信号を左折し、すぐに「笠石神社」がある。

 国宝「那須国造碑」(なすのくにのみやつこのひ)は、「笠石神社」にご神体として安置。鳥居の前には、「日本考古学発祥の地」の石碑が建つ。題字は水戸徳川家15代当主が筆を執った。

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 アメリカの動物学者・モースが、大森貝塚を発見したのは、1877年(明治10年)。大森貝塚はこれまで「日本考古学発祥の地」とされていた。徳川光圀の命により、侍塚古墳で行われた日本考古学史上初の学術的発掘調査の事績を顕彰するため、「笠石神社」にあらたに「日本考古学発祥の地」記念碑を建立し、2021年3月28日に除幕式が行われたという。  

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 社務所で拝観料500円を払い、宮司の詳しい解説のあとご神体(石碑)を拝観できる。透塀(すきべい)の奥に、ご神体「那須国造碑」が鎮座する本殿がある。

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 宮司の案内で、狭い本殿の中(内部の撮影は禁止)のご神体を拝観させていただく。

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●那須乃木神社(14:15~15:05)那須塩原市

 国道461号、ライスライン(大田原広域農道)経由して「那須乃木神社」へ。
 
 日露戦争における旅順攻囲戦の指揮で有名な将軍・乃木希典(まれすけ)は、那須野に自ら設計して農家風の質素な別邸を建てた。明治天皇を慕いあとを追って殉死した後、敷地の一部に神社が建立された。

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 乃木希典夫妻の葬儀にあたり、乃木別邸中庭に於て遥拝式が行われた。終了後、神社創立の声がおこり、地元の石林住民を中心にして、1916年(大正5)4月に神社が建立。ちなみに「乃木神社」は、那須(別邸の敷地)のほか東京・赤坂(自刃した邸宅の隣地)、京都市(明治天皇陵の麓)、下関市(幼少時代の旧家跡に隣接)、飯能市(秩父御嶽神社内)など、全国に大小10社ほどある。

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 希典とともに殉死した静子夫人にちなんで名づけられた「静沼」。乃木別邸のそばの水田跡地に造られた灌漑(かんがい)用の池で、神社境内を流れる蟇沼(ひきぬま)用水から水を引いている。 

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 1892年(明治25年)に自ら設計した建坪53坪の木造瓦葺の乃木希典別邸。

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 乃木将軍は、石林のこの地をこよなく愛し、通算4年間静子夫人と過ごした。自ら鍬や鋤を握って農作業にいそしみ、晴耕雨読の生活を送り、村人とも親しく交わったという。「我が国は瑞穂の国、農は国の大本なり」と、自ら勧農の範を示した将軍は、「農事日記」に日常の出来事や農作物の経過、質素な献立、買い物など詳細に記していたとそうだ。

 別邸前庭の乃木将軍像。その後の建物は納屋。

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 乃木希典は、長州藩の支藩長府藩出身の陸軍大将。後に学習院長も務めたた。日露戦争における旅順攻囲戦の指揮や明治天皇の大喪の際の殉死は国際的にも有名。裕仁親王(昭和天皇)の教育係も務めた。明治24年(1891年)、ここ石林の地に約14haの土地と農家造りの家屋を求め、農家風の質素な別邸を建てた。1966年に栃木県の史跡に指定。内部公開は、なし。所有者は、乃木神社。

 右手は湯沸かし所、中央が井戸、左手は風呂場。

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 愛馬殿号愛育厩舎。大正天皇が皇太子の時、乃木将軍が賜った白馬は、殿(しんがり)号と名付けて愛育した。

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 石蔵庫(現石林文庫)

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 乃木神社の宝物館に入館。料金300円だが、この日は「県民の日」で無料。

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 乃木別邸で夫妻が使用された日用品をはじめ遺品や将軍に関係した資料を展示。

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●那須野が原博物館
(15:15~15:45) 那須塩原市

 県道317号(塩原街道)経由して、「那須野が原博物館」へ。

 那須塩原市域と那須野が原周辺を対象に、地学・植物・昆虫・動物の自然系4分野と、歴史・考古・民俗・美術・文学の人文系5分野を扱う総合博物館。「那須野が原の開拓と自然・文化のいとなみ」をテーマに、活動を展開している。

 道の駅と一体化した「那須野が原博物館」は、地域情報の発信と人々の交流を目的とした文化交流型の「道の駅」。観覧料は300円であるが、「県民の日」のため無料だった。

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 1977年(昭和52年)、前身の「西那須野町郷土資料館」が開館。1993年(平成5年)に焼失した後、2004年(平成16年)「那須野が原博物館」が開館。そして、2005年(平成17)の黒磯市・西那須野町・塩原町の合併により那須塩原市が誕生し、博物館は「那須塩原市那須野が原博物館」として再出発した。

 旧青木家周蔵那須別邸、松方正義別邸、大山巌別邸、山県有朋記念館などの展示。明治の元勲らは大農場方式の入植・開拓を行った。

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 那須野が原開拓地の家の模型。

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 那須野が原は扇状地のため、水が地下に浸透してしまい、江戸時代以前は人があまり住んでない不毛の原野だった。那珂川の水を取水する「那須疎水」の開削は、国の直轄事業としての大プロジェクト。それにより開拓が進み、緑豊かな大地となった。福島県の安積疎水、京都府の琵琶湖疎水とともに「日本三大疎水」と言われている。

 那須疏水取水施設1/2模型(高さ4.5m) 

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 「那須塩原の自然」の展示。地学・植物・昆虫・動物のほか、発掘された化石など。

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 博物館を後にして、県道317号(塩原街道)、国道400号経由、15:50西那須野塩原ICから東北道、帰路へ。

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 梅雨の時期で雨の心配もあったが、天気に恵まれ、快適な歴史探訪ツアーとなった。6月15日が栃木県の「県民の日」。県や市町村、民間施設で、ちょうど12日が無料開放・一部割引の対象の日に当たったところがあって、ラッキーだった。2個所の「なす風土記の丘資料館」で、学芸員や館長から直接の説明をいただき、理解を深めたのは良かった。

 

 ★ ★ ★

 1692年(元禄5)、上侍塚・下侍塚という二つの古墳を水戸藩2代藩主・徳川光圀(1628~1701)が発掘した。2021年(令和3年)、栃木県が進める「いにしえのとちぎ発見どき土器わく湧くプロジェクト」は、「栃木県文化財保存活用大綱」の重点テーマの一つで、光圀が掘ったこの二つの古墳を、現代の技術で再調査しようという。今後、5年程度かけて調査と報告書の作成が行われることになっている。上・下侍塚古墳はいずれも国の史跡に指定されており、文化庁と相談しながら進めるという。

 物語は、水戸藩領の那須郡小口村(現在は栃木県那珂川町)の庄屋だった大金重貞(おおがねしげさだ)が、1676年(延宝4年)旅の僧・円順から「湯津上に高さ4尺あまりの古い碑がある」という話を聞いたことに始まる。重貞は現地を訪れ、草むらに倒れ苔にまみれた碑に刻まれた文章を読み、『那須記』という書物にまとめた。重貞は、古くは佐竹氏の家臣であったが、佐竹氏の秋田転封に際し小口村へ帰農土着したと伝えられる。

 重貞は諸学に精通しており、特に史書・仏典に詳しく『那須記』16巻のほか、多くの文書を残している。1683年(天和3年)、水戸光圀は当時水戸領であった那須郡武茂郷(むものさと、現在の那珂川町馬頭)を訪れた際、大金重貞から自著『那須記』を献上された。光圀は、その『那須記』に記された古碑「那須国造碑」に興味を持つ。

 碑文の内容は、689年に那須評督(なすのこおりのかみ)という官職を授かり、700年に亡くなった、元・那須国造(なすのくみのみやつこ)の那須直韋提(なすのあたいいで)という人物を顕彰したものだった。そこで「碑は那須国造の墓碑ではないか」と考えた光圀は1687年、家臣の佐々宗淳(さっさむねきよ=通称・介三郎、水戸黄門の助さんのモデル)に韋提の墓を見つけるよう命じる。

 碑の下を掘っても何も出土しなかったため、1692年(元禄5年)地元で国造の墓との伝承がある近くの「侍塚古墳」の発掘に取りかかる。しかし銅鏡などの遺物の他、古墳の被葬者の名を記した墓誌は見つからず、なお、これら出土品は、光圀の意向で絵師に命じて記録図を描かせた後、松材の箱に納め、それぞれの古墳に再び埋め戻された。また墳丘保護のため、松を植樹させた。こうした一連の光圀による活動は、今日の文化財調査・文化財保護に通じるものといわれている

 このときの調査の所見は大金重貞が『湯津上村車塚御修理』という書名に記録している。上侍塚の後方部中央を5尺(約1.5m)ほど掘り下げると、石釧、鉄鏃、管玉などが出土したとあり、これらの下には「へな土」(泥土)を塗り、その中には「墨・漆の練り土」「朱少々」があったという。これは、粘土郭の中に木棺を収めた埋葬施設とみられる。下侍塚についても同様に後方部中央を5尺ほど掘り下げると遺物が出土したというが、『湯津上村車塚御修理』は下侍塚の埋葬施設については言及していない。両古墳からの出土品は以下のとおり。

  • 上侍塚 - 銅鏡、石釧(いしくしろ=石製の腕輪)、管玉、鉄鏃、鉄鉾身、鎧破片、鉄刀身破片、高坏
  • 下侍塚 - 銅鏡、鉄斧、大刀柄頭、鉄刀身破片、鎧破片、高坏、壺

 重貞は、「那須国造碑」の保存のため、光圀の命により碑の堂宇を建設する。そしてその功績により銀若干を賜った。この一連の作業は大金重貞が現地指揮をとり、光圀の命は佐々を通じて行われた。重貞は事の経緯を『笠石御建立起』に記している。一方、この堂宇の周囲は水戸藩の飛び地として旗本から買い上げ、管理人の僧(別当)を配置し、碑堂が完成するとすぐに参詣した。なお前述のとおり、「那須国造碑」は、下侍塚古墳の北650mにある「笠石神社」の御神体となり、国宝に指定されている

 下侍塚については、1975年に周濠を主とする調査が実施され、葺石が確認されたほか、発掘記録にあるものと似た土師器壺などが出土している古代の那須郡はカラムシ製の布の産地で、奈良の大仏に使われた砂金も採れるなど、豊かな土地だったという。河川交通の要衝である那珂川のほとりに葬られた下侍塚と上侍塚の主は、一帯を治めた首長だったのだろうか。

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