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2022年5月25日 (水)

映画「大河への道」

 2022年5月23日(月)、映画『大河への道』を観る。

 映画『大河への道』は、落語家・立川志の輔による新作落語『大河への道~伊能忠敬物語』を原作として、映画化。2022年5月20日に公開された。主演の中井貴一をはじめ、松山ケンイチ、北川景子らキャストが、現代を舞台に繰り広げられる大河ドラマ制作の行方と、200年前の日本地図完成に隠された感動秘話を1人2役でコミカルに演じる。

 監督は『花のあと』の中西健二が務め、脚本は森下佳子(よしこ)。森下は、民放の『JIN~仁』『天皇の料理番』やNHKの大河ドラマ『女城主直虎』、朝ドラ『ごちそうさん』など数々の人気ドラマの脚本を手がけている。

 映画『大河への道』のポスター

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 舞台は、令和の時代の千葉県香取市役所。総務課の池本主任(中井貴一)と木下課員(松山ケンキチ)は、市の観光振興策を検討する会議に参加する。観光課の小林課長(北川景子)にたまたま意見を求められた北本は、思いつきで大河ドラマ誘致を提案する。幸か不幸かその企画が通ってしまい、日本地図を作った郷土の偉人・伊能忠敬を主人公にした大河ドラマで観光促進しようと、池本がリーダーに据えられプロジェクトが立ち上がる。

 以下の6枚の写真は、映画『大河への道』のパンフから引用

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 脚本は千葉県知事(草刈正雄)の直々の指名により、人気絶頂期に引退した大物脚本家の加藤(橋爪功)に依頼することになった。乗り気でなかった加藤も「伊能忠敬記念館」を訪れるなどの池本の接待により、正確無比な日本地図と伊能の人生に興味を持ち引き受けることになり、資料を調べ始める。そこで加藤は、伊能は『大日本沿海輿地全図』を完成させる3年前に死去したという事実を知る。「伊能は、日本地図を完成させてない。だから大河ドラマにならない」と言い放つ。

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 一方、江戸時代1818年の下町へ物語は移る。伊能忠敬は日本地図の完成を見ることなく他界する。弟子たちは悲しみと途方に暮れる中、師匠のその遺志を引き継ぎ、日本地図を無事に完成させるために、動き出す。幕府に仕える天文方の高橋景保(かげやす)(中井貴一の1人2役)は、伊能の弟子たち(伊能隊)から師匠の死を偽装したうえで地図作りを続けさせてほしいと懇願され、困惑する。

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 ただでさえ幕府から金食い虫とみなされている地図作りに、幕府をだまして公金を拠出続けさせていることが露見すれば死罪は免れない。景保は、断り続けるが、忠敬の元妻・エイ(北川景子の1人2役)の仕掛けた罠にだまされ、また伊能隊の地図作りの熱意にほだされる。かくして運命をともにすることになった景保は、伊能隊とともに伊能の死を偽装しながら、お上からの追及をのらりくらりかわしてゆくのだった。忠敬の意志を継いだ大日本地図は、いつになったら完成するのか、完成したとしても隠していた忠敬の死をどう公表するのか・・・。

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 忠敬の死から3年後、いよいよ地図は完成する。荷車に積んだ『大日本沿海輿地全図』は、将軍・家斉(草刈正雄の1人2役)の待つ江戸城へと向かう。一方で脚本制作を拒否された現代の大河ドラマプロジェクトは、果たして成功するのだろうか・・・。現代と江戸時代のキャストは、以下の通り。

中井貴一 総務課主任・池本保治 幕府の天文方・高橋景保
松山ケンイチ 総務課員・木下浩章 高橋景保の助手・又吉
北川景子  観光課課長・小林永美   伊藤忠敬の元妻・エイ
岸井ゆきの 総務課員・安野富海 伊藤忠敬の下女・トヨ
平田満  総務課長・和田善久  伊藤忠敬の測量隊員・綿貫善右衛門
和田正人 総務課員・各務修     伊藤忠敬の測量隊員・修武格之進
西村まさ彦 勘定方の家臣・山神三太郎 そば屋の客・神田三郎
立川志の輔     DJの梅さん 町医者・梅安
草刈正雄 千葉県知事  将軍・徳川家斉
橋爪功  大物脚本家・加藤浩造 源空寺の和尚

 『大河への道~伊能忠敬物語』は、立川志の輔が「伊能忠敬記念館」を偶然訪れ、恐るべき正確さの日本地図を観て驚き、この感動を落語仕立てにした。「伊能忠敬が一切出てこない伊能忠敬物語」として2011年の初演以来、絶賛を浴びているという。また、これを鑑賞した中井貴一は、「私が主演でなくとも、プロデューサーやスタッフとしてでも」と自ら映画化に動いた。中井の熱意のもと、結局は「自分が出なきゃダメ!」と、周りに押し切られたそうだ。

 江戸城の大広間いっぱいに、忠敬と弟子らが完成させた日本地図が広げられ、天井から鳥瞰するラストシーンは圧巻。撮影前、スタッフが集まった香取市体育館に、忠敬と弟子らが完成させた日本地図の複製パネルが、市職員20人超の手で広げられた(60m×40m)そうだ。これを使って、CGで制作したのだろうか。忠敬のすごさが良く実感できる。下の写真は、大広間の畳の上に広げられた地図の一部。右上の人物は、将軍の家斉。

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 考えたことはなかったが、なるほど伊能忠敬はNHKの大河ドラマにふさわしい。忠敬のテレビドラマはいくつかあるようだが、映画では『伊能忠敬 子午線の夢』(2001年東映、主演:加藤剛)が制作されている。以前、筆者が香取市佐原を3度ほど訪れ、「伊能忠敬旧宅」やすぐ近くにある「伊能忠敬記念館」を見学した。これらについては、本ブログの以下の記事で紹介している。

 「佐原の町並みと香取神宮」 2020年07月18日投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2020/07/post-fa0a3b.html

 「あやめの潮来と小江戸佐原」 2016年07月01日投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-32d9.html

 「水郷の佐原と潮来」 2015年06月16日投稿
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-b018.html
 

 ★ ★ ★

 NHKの大河ドラマでは、動乱の世の英雄やそれに関わる女性の物語が多い。江戸時代の平和な時代だったが、忠敬の生涯や偉大な業績は、大河になり得ると筆者も思う。また伊能が亡くなったことを3年間も秘匿して日本地図を完成した弟子たちの志と労苦、そして200年後の現代の大河ドラマプロジェクトの物語を落語にした立川志の輔は発想はおもしろい。

 戦国大名の武田信玄は、自身の死を3年間秘匿せよと生前に言ったという。その理由の一つは信長らの勢力を恐れ、3年間も経てば息子の勝頼も成長し信長らに対抗しうると考えたのだろう。また、江戸時代の藩主が跡継ぎを幕府に届けないまま死ぬと、お取り潰しになることを恐れ、次の跡継ぎを決めるまで死を隠した話はよく聞く。伊能忠敬が、日本地図の完成前に死んだこと、それを3年間も隠して地図作りを続行したことは、筆者もよく知っていた。

 忠敬の死を伊能隊は何故隠したのか、あまり深く考えたことがなかった。映画では、幕府から貰っている給金が途絶え、地図作りが未完成で終わることを恐れたという理由は納得できる。それまで忠敬の私財で行っていた測量は、1802年(伊能58歳)の第3次測量から費用のほとんどが幕府から支給され、1805年(忠敬61歳)の第5次測量からは、幕府直轄事業となっていたのだ。

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 さらに映画では、令和と江戸の時代で繰り広げられる物語を一人二役で演じるキャストの設定が、更に面白さを増した。映画の中では、どうやって地図を作ったかの説明も織り交ぜてあって、分かり易かった。

 ★ ★ ★

 忠敬は1794年、49歳で家業を長男・景敬(かげたか)に譲り隠居する。翌年1795年江戸深川黒江町(現・門前仲町)で暮らし、19歳年下の幕府天文方・高橋至時(よしとき)に弟子入りして、念願の暦学・天文学を学び、熱心に勉学に励んだ。

 忠敬は、佐原で3度妻を持ったが、いずれも死別している。江戸で、4人目の妻がいた。内縁のエイは、彼の研究を助けたことが伝えられている。才女とされ「四書五経」を素読したり算術や絵図も出来、測量データをまとめたり、天体観測を手伝った。エイは第一次測量のときは佐原に預けられたが、その後は忠敬の元を離れて文人(女流漢詩人の大崎栄)として生き、忠敬と同じ1818年にこの世を去ったという。

 忠敬は、緯度1度に相当する子午線弧長を求めることに興味を持つ。それは師・高橋至時の大きな関心事でもあった。至時は、当時ロシアと北方での緊張を踏まえ、蝦夷地の正確な地図を作る計画を立て、幕府に願い出た。蝦夷地を測量することで、地図を作成するかたわら、子午線一度の距離も求めてしまおうという狙いがあった。

 忠敬は1800年、自宅の深川から蝦夷地へ向けて出発した。当時55歳、一行は忠敬の次男・秀蔵を含む内弟子3人、下男2人。その後、幕府の要請により第2次時以降も測量が続き、至時は忠敬を支援した。幕府から測量の手当を受け取るが、費用のほとんどは忠敬の私財の持ち出しだった。1804年高橋至時は、享年41歳で亡くなる。幕府は至時の天文方の跡継ぎとして、息子の高橋景保を登用した。

 測量に参加していた次男・秀蔵は、素行が悪く測量にも不向き、1815年に勘当された。忠敬は持病の「痰咳の病」(慢性気管支炎)で、冬になると痰に悩まされていたという。1818年(文政元年)になると急に体が衰え、4月13日弟子たちに見守られながら74歳で生涯を終えた。死因は、慢性気管支炎が悪化して起こる急性肺炎(老人性肺炎)とみられている。

 忠敬は死の直前、「私がここまでくることができたのは高橋至時先生のおかげ。死んだあとは先生のそばで眠りたい」と語った。そのため墓地は、高橋至時・景保父子と同じく上野の「源空寺」にある。一方、佐原で家督を相続していた長男・景敬は、1813年父に先立ち病死した。享年48歳。忠敬の娘は、忠敬に心配をかけまいとこのことを伏せた。景敬の子に、伊能忠誨(ただのり)と銕之助(てつのすけ)がいたが、銕之助は忠敬の死の翌年に亡くなっている。

 1821年(文政4年)、『大日本沿海輿地全図』と名付けられた地図はようやく完成。7月10日、高橋景保と、伊能忠敬の孫の忠誨らが登城し、地図を広げて献上した。そして2ヶ月後の9月4日、忠敬の喪が発表された。忠誨はその年、15歳で幕府から五人扶持と85坪の江戸屋敷が与えられ、帯刀を許されたという。

 伊能忠誨は佐原と江戸を行き来しながら景保らの指導も受け、佐原の伊能家の跡継ぎとしても期待されていたが、1827年弱冠21歳で病死した。忠誨に子がなかったため、忠敬直系の血筋は途絶えることになった。高橋景保は、後にシーボルが国禁の日本地図を持ち出そうとして発覚した「シーボルト事件」に関与して、1828年伝馬町牢屋敷に投獄され、翌年1829年に獄死している。享年45歳。

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