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2022年4月25日 (月)

身延山とその周辺の枝垂れ桜

 2022年3月30日(水)、身延山久遠寺とその周辺、身延町、南部町の桜をめぐる日帰りの旅。

 

 午前2:20、起床。4:15、自宅発。この日は、曇り。

 関越道から圏央道を経て、中央道を東へ山梨県へ。中央道釈迦堂PAで休憩。双葉JCT経由せず中部横断道へショートカットするため、6:42甲府南ICを降りる。国道358、国道140号を経由して中部横断道の増穂ICへ向かう。国道140号の車窓から右手に八ヶ岳連峰、進行方向に冠雪の北岳が朝日に輝く。

 ちなみに国道140号は、埼玉県熊谷市から秩父地方を経由して甲府、富士川町に向かう一般国道。秩父往還道や彩甲斐街道(埼玉県側)、雁坂みち(山梨県側)などの通称がある。

 7:05、増穂ICから富士川に沿った中部横断道を南下、7:23身延山ICを降りる。富士川に架かる身延橋を渡り、国道52号(富士川街道)を南下、県道804号(身延線)を北上。


●身延山久遠寺の枝垂れ桜

 県道804号線は、久遠寺「総門」を抜けて「三門」前を通り、7:46「久遠寺」境内下の「せいしん駐車場」に到着。

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 駐車場から「久遠寺」境内へ向かう斜行エレベータ。

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 「久遠寺」は、日蓮宗の総本山。1500人が入れるという荘厳な「大本堂」。本堂での朝のお勤めは、午前5時30分 (4月~9月)。

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 1985年(昭和60年)落慶。本尊は日蓮聖人真筆の大曼荼羅本尊を木造形式にした立体曼荼羅。釈迦如来像、多宝如来像、四菩薩像、不動明王像、愛染明王像、四天王像、普賢菩薩像、文殊師利菩薩像、そして日蓮大聖人坐像などからなるという。

 本堂内陣 出典:ウキメディア・コモンズ

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 本堂の天井に描かれている巨大な天井画「墨龍」(撮影禁止)は、加山又造画伯の力作という。また地下には、久遠寺所有の書物、掛け軸、法要道具などの国宝・重要文化財・指定文化財などが多く展示されている「宝物殿」(有料)があるそうだ。

 「大本堂」の右隣りに建つ極彩色の「祖師堂」。

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 「祖師堂」は、宗祖・日蓮聖人像を安置する堂。11代将軍德川家斉が1836年(天保7年)に江戸・雑司ヶ谷に建立し、天保の改革の一環として5年後に廃寺となった鼠山(ねずみやま)感応寺の堂宇の一部を、1881年(明治14年)に移築し、同年宗祖第600年遠忌をここで奉行した。昭和天皇より下賜された「立正」の勅額がある。

 「祖師堂」の日蓮聖人像 出典:ウキメディア・コモンズ

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 「祖師堂」と樹齢400年といわれる枝垂れ桜。「全国しだれ桜10選」に数えられる。

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 朝早いが、すでに観光客や信者がチラホラ。五重塔は、2009年に復元。

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 斜行エレベータを使わず本堂裏から駐車場まで急坂を下り、「西谷の坂」の行き止まりにある「本行坊」へ。

 「本行坊」は、久遠寺の宿坊として最古級の坊。日蓮が開眼し、比企能本(ひきよしもと)に与えたと伝わる帝釈天像を祀る 。本堂左手に「帝釈堂」がある。

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 能本は、比企能員(よしかず)の末子比企大学三郎能本。法名は日学妙本。鎌倉時代、「比企の乱」で北条氏に一族が滅ぼされるが、2歳の能本は助命され、和田義盛に預けられたのちに安房国へ配流となった。京で学問に励み、順徳天皇に仕えた。鎌倉に戻った後、1253年(建長5年)に日蓮に帰依、1260年(文応元年)鎌倉の比企一族の屋敷跡に「妙本寺」を建立した。「本行坊」は、1286年(弘安9年)能本の開基により創建。1858年(安政5年)、現在地に移転した。

 いくつかの坊の枝垂れ桜を見ながら「西谷の坂」を「三門」へ下る。

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 領主・南部実長が開創した「北之坊」。1297年創建。

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 「北之坊」の三門。境内には多数樹齢400年以上の枝垂れ桜がある。

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 久遠寺の「三門」。銅板葺きで、五間三戸の二階二重門。

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 「三門」は、三解脱門(さんげだつもん)の略で、仏教の摂理に基づき「空」「無想」「無願」の三境地を経て悟りの道に至る門をいう。また「山門」ともいうが、正面と左右に門があるので「三門」という説もある。「久遠寺」のこの門は、日本三大門の一つとされる。

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 「山門」付近の枝垂れ桜。

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 「三門」から、一直線で天にも昇るような287段(高低差140m)の石段「菩提梯(ぼだいてい)」を上ると、「久遠寺」大本堂の正面に至る。「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えながら登ると、41回目で頂上に辿り着けるようになっているという。境内に至るには、近くに男坂、女坂のルートもある。

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 参道を少しばかり下ってみると、土産屋は仏具が多くて菓子類の土産が少ない。「三門」から坂道の参道を1.2Kmほど下ったところに、「総門」がある。ここからが聖域に入るという。

 10:00、「三門」を後にして、県道804号~国道52号から、大城川沿いの県道808号を南下する。

●大城のミツマタ群生地と枝垂れ桜

 10:24、富士川水系の大城川砂防ダム(身延町大城)周辺のミツマタの群生地に到着。

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 和紙の原料になるミツマタは、ちょうど黄色い花が満開。

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 11:25、ミツマタの群生地を後にして、県道808号をもどる。

 11:36、県道808号線を下り、左手に枝垂れの一本桜。

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 更に808号線を下り、11:50町有相又団地付近(身延町相又、門野の湯から下り1.3Km)の左手に枝垂れ桜が数本並ぶ。 

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 12:10~13:25、国道52号沿いの道の駅「なんぶ」(南部町中野)と道の駅「とみざわ」(南部町福士)に寄り昼食。

●原間のイトザクラと本郷の千本桜

 国道52号をもどり、新船山川橋北詰を左へ、中部横断道の下をくぐったら右折。13:33、「原間のイトザクラ」(南部町本郷)に到着。

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 原間地内の旧法眼寺境内にある町内一のイトザクラの巨木。町の天然記念物、樹齢150~200年。

 ここから更に4、5分ほど北上し、14:12「本郷の千本桜」(南部町本郷)に着く。

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 県指定天然記念物のエドヒガンザクラは、旧妙善寺境内に咲く。樹齢500~600年。「植物形態学上興味深いのは、地上約5mの位置で樹幹の空洞中に根をおろしている不思議な形状の桜」だそうだ。


●鏡円坊の枝垂れ桜

 国道52号に戻り、北上。15:00、国道沿にある身延山「鏡円坊」(身延町梅平)に到着。

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 本堂裏の急斜面に立つ枝垂れ桜。県の天然記念物指定。樹齢500年とも言われる。

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 南部氏は、甲斐源氏の一族である加賀美遠光の子・光行が、この地の所領を得て南部を名乗ったことに始まる。1189年(文治5年)、光行父子は源頼朝に従い奥州藤原氏征伐に参加、戦功を立て奥州に所領を与えられた。これを機に光行は奥州に下向、甲斐南部氏は、子の実長が継ぐ。実長はこの梅平に館を構え、治政に当たった。その後実長は日蓮聖人に深く帰依、1274年(文永11年)所領を寄進して日蓮を招き、庇護に努めた。

 南部氏館は、身延山久遠寺の南の台地にあったとされ、現在は「鏡円坊」。実長の次男・日台が、晩年に館から日蓮宗の寺院に改めたのが始まり。身延山久遠寺の支院の一つ。
 

 15:27「鏡円坊」を出て、富士川を渡り身延山ICへ。往路を逆順に中部横断道の身延山ICから増穂IC、国道140号へ。16:10頃、中央市から雄大な八ヶ岳の全容を望む。

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 16:20、甲府南ICから中央道へ。談合坂SAで休憩し、圏央道、関越道。19:15、帰宅。

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 ★ ★ ★

 「身延山」は、山梨県南巨摩郡身延町早川町の町境にある標高1153m。日蓮宗の総本山「久遠寺」山号でもあり、最澄の「比叡山」(天台宗)、空海の「高野山」(真言宗)と並んで、「日本仏教三大霊山」の一つとされる。身延山の山麓、標高400m付近に「久遠寺」があり、山頂には日蓮が父母を偲んで建立したと「奥之院思親閣」が建つ。身延山周辺には鷹取山(1036m)、七面山(1982m)など、日蓮宗の修行の場となっている。

 JR身延駅から門前町の身延山までは路線バス、また新宿や甲府からは高速バスも運行。久遠寺の本堂裏から参道を2時間半(下りは1時間半)かかるという山頂の奥の院へは、身延山ロープウェイ(大人往復1,500円)が片道7分で結ぶ。学校法人身延山学園として、身延山高校、身延山大学を身延山内に開学している。
 

 鎌倉時代、疫病や天災が相次ぐ末法の世、「法華経」をもってすべての人々を救おうとした日蓮は、三度にわたり幕府に諫言(かんげん)を行ったが、いずれも受け入れられることはなかった。浄土宗など諸宗の信仰を捨てて「法華経」の信仰になりきることによってのみ、現実の世界は仏国土になることができるというのが、その主張。法然の説く浄土教を禁圧して『法華経』に帰依しないならば、国内に内乱が起こり、他国から侵略を被るであろうと、『立正安国論』を著した。

 鎌倉での宗教活動を理由に、北条時宗によって佐渡に流される1274(文永11)、信者であった甲斐国の波木井(はきい)郷の地頭・南部実長(波木井実長)は、佐渡での流罪が赦免後に鎌倉に戻った日蓮をこの地に招いた。日蓮は、鷹取山のふもとの西谷に構えた草庵を住処とした。これ以来、法華経の読誦(どくじゅ)と広宣流布、弟子信徒の指導に終始し、更には日本に迫る蒙古軍の退散、国土安穏を祈念した。

 1281(弘安4)年には本格的な堂宇を建築し、自ら「身延山妙法華院久遠寺」と名付けた。翌1282(弘安5)年、日蓮は病身の湯治のため常陸(茨城県)加倉井の温泉と小湊の両親の墓参りに向かうため、身延山を下った。当地では足かけ9ヵ年の生活であった。その旅の途中、信徒であった武蔵国の池上宗仲邸(東京都大田区本行寺)にて病状が悪化したため逗留、同地においてその61年の生涯を閉じた。そして遺言のとおり、遺骨は身延山に祀られた。

 その後、「身延山久遠寺」は6人の本弟子「六老僧」の一人、日向(にこう)上人とその門流によって継承され、約200年後の1475(文明7)年、第11世日朝上人により、西谷から現在の地へと移転し、伽藍(がらん)の整備が進められた。のちに、武田氏や徳川家の崇拝、保護を受けて栄え、1706(宝永3)年には、皇室勅願所ともなっている。皇室からは、日蓮大菩薩(後光厳天皇、1358年)と立正大師(大正天皇、1922年)の諡号(しごう、おくりな)を追贈された。

 日蓮聖人の入滅以来、実に700有余年。身延山久遠寺は、総本山として門下の厚い信仰を集め、広く日蓮聖人を仰ぐ人々の心の聖地として、日々参詣が絶えることがない。

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