映画「MINAMATA -ミナマター」
アメリカの写真家W・ユージン・スミスは、『ライフ』誌に掲載されるなど報道写真家として過去には功績を評価されながらも、酒に溺れ、すさんだ生活を過ごしていた。ユージンのCM撮影に同行して来た魅力的な日本人翻訳者のアイリーンから、水俣を訪れて水俣病を撮影し記録するよう促される。
ユージンは、年の離れた妻となったアイリーンとともに水銀中毒と水俣病による沿岸地域の被害を記録するために、水俣を訪れた。1971年から1974年の3年間現地で暮らし、ミノルタSR-T101のカメラを持って水俣病におかされた患者たちや家族の日常、チッソに対する抗議運動、補償を求め活動する様子を何百枚もの写真に収めていく日々がドラマチックに描かれる。そしてスミスは現地で厳しい報復を受けることになるが、真実を写真で捉えることに没頭していく中で、1枚の傑作が世界を呼び覚ます。
主人公のユージンは、映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズで海賊役のジョニー・デップ、妻のアイリーンは女優・モデルの美波が演じる。共演はビル・ナイ(ライフ誌の編集長)、真田広之(被害者救済運動のリーダー)、國村隼(チッソの社長)、加瀬亮(自身が水俣病、震える手を押さえながら撮影するカメラマン)、浅野忠信と岩瀬晶子(胎児性水俣病の長女の両親)など。音楽を手掛け たのは坂本龍一。
ジョニー・デップ 美波 以下、8枚の写真は映画『MINAMATA』のパンフより転載
ビル・ナイ 真田広之 國村隼
加瀬亮 浅野忠信 岩瀬晶子
登場人物は、実在の患者らがモデルになっている。アンドリュー・レビタス監督らは2018年9月に水俣を訪れ、胎児性患者らに会って制作の意向を伝えた。主な撮影は何故かセルビア、モンテネグロで行われたという。
映画のエンドロールでは、各国で同じ環境被害に多くに人々が苦しむ「人為的な事件」の数々を紹介する。インドネシアの金採掘による水銀汚染、チェルノブイリ原発事故、サリドマイド薬害、ハンガリーのアルミナ工場の有害廃棄物流、アメリカの坦懐原油流出、福島の原発事故、ブラジルの尾鉱ダム決壊・・・・などなど。
★ ★ ★
ユージン・スミスが水俣で取材していた時期からもう50年、半世紀が経つ。この機会に、当時の社会状況を思い出す。漁協が操業停止や排出の停止を訴えて抗議、工場に乱入するが、垂れ流しは続く。企業城下町で大多数の市民が、チッソで生活の糧を得ている。会社に抗議するのは難しい。周囲の水俣病に対する偏見や差別もある。
多くの患者やその家族はわずかな見舞金と引き換えに、泣き寝入りを強いられた。そして補償金や救済を要求して抗議や団体交渉、一株株主運動、裁判に訴える人々などと、市民は分断される。一方、国はいかに無策であったか、企業を指導できなかったのか。遅まきながら1971年7月、国は縦割り行政を廃して環境庁を発足させた。フクシマもしかり。企業、政府、社会が、弱者である被害者らにどう手を差し伸べるか、寄り添えるか、国の民主主義が問われる。
■ユージンとユージンをめぐる人々
ユージンは、1918年米国カンザス洲生れ。子どもの頃、母親からカメラを与えられ写真に熱中する。写真に関する奨学金を獲得、ノートルダム大学に入学するが18歳のときに退学、ニューヨークへ。1937年9月、週刊誌『ニューズウィーク』の仕事を始めた。第2次世界大戦には写真家として従軍し、サイパン、沖縄、硫黄島などへ派遣されて戦場の生々しい写真を撮影、雑誌『ライフ』などに写真を提供。
沖縄戦では重症を負い、生涯その後遺症に悩んだ。戦後も『ライフ』の仕事を続けるが、1954年編集部と対立して決裂。ユージンは1959年に「世界の十大写真家」の一人の選ばれ、水俣に来る前から有名な写真家だった。
アイリーンは、米国人の父親と日本人の母親を持ち、スタンフォード大学で学ぶ。1970年の20歳の時に、ニューヨークで通訳者として富士フイルムのコマーシャル制作の仕事に携わり、ユージン(当時51歳)と出会った。史実では、彼らが出会ってわずか1週間後、ユージンがアイリーンに自分のアシスタントになり、ニューヨークで同居するよう頼んだという。アイリーンは承諾。そのまま大学を中退し、カリフォルニアには戻らずユージンと暮らしはじめた。
二人は、翌1971年8月16日にユージンの写真展『真実こそわが友』開催のため来日すると、8月28日に婚姻届けを提出。結婚後すぐの9月から熊本県水俣市に移り住み、1974年10月まで3年間ほどの期間、水俣病とその患者、家族たちを撮影し続けた。水俣の撮影を提案したのはアイリーンではなく、実際はユージンと親交のあった元村和彦氏(1933 - 2014)。写真集の出版を手がけた写真編集者で、出版社「邑元舎」を主宰。1970年秋に渡米し、ニューヨークでユージンらに来日して取材を提案したという。
水俣病におかされた患者たちや家族の日常、原因企業チッソと闘う彼らの姿を写した写真集『MINAMATA』を1975年、ユージン夫妻はアメリカで出版(日本では1980年出版)。水俣病を世界に知らしめたユージンは、フォトジャーナリズムの象徴となる。しかしユージンは、アイリーンと離婚まもない1978年、2度目の脳溢血の発作を起こしそのまま亡くなった。享年59歳。
石川武志氏(1950 ー )は、写真学校を卒業したばかりの1971年、東京・原宿で来日中のユージンと偶然出会い、アシスタントとなり、水俣に同行して自身も水俣病に苦しむ人々を撮影した。1975年に渡米し、ユージンのアパートに住みながら、写真集『MINAMATA』の出版などにも立ち会った。2012年、自身の『MINAMATA-NOTE 私とユージン・スミスと水俣』(千倉書房)を出版した。ユージンの水俣病の写真は、苦しむ患者の顔や姿をとらえて被害を訴えるのではなく、病を背負いながら暮らす姿を寄り添うようにして収めた、と石川氏は回想する。
地元で撮影を続けていた写真家の塩田武史氏(1945~2014)は、水俣にやってきたユージン夫妻を水俣病第1次訴訟(1969~73年)の原告たちの家へ案内した。塩田氏は1967年、胎児性患者の存在を知り、大学卒業後の1970年に水俣市に移住して患者家族の撮影を続けていた。ユージンらが患者家族から借りて住んでいた家も近かった。ユージンとアイリーンは塩田氏の案内で、精力的に患者を撮影した。写真集『僕が写した愛しい水俣』(岩波書店)や『水俣な人 水俣病を支援した人びとの軌跡』(未来社)を出している。
川本輝夫氏(1931 - 1999)は、水俣病の患者の救済運動「チッソ水俣病患者連盟」の委員長、水俣市議会議員(3期)を務めた。土木、炭鉱労働者、とび職、新日本窒素肥料の臨時労働者などを遍歴。1965年にチッソの工場で働いていた父が死亡。1969年水俣病認定促進の会を結成、以後、未認定患者救済の闘争の先頭に立つ。1971年に自らも熊本県より患者に認定され、同年11月より補償をめぐって、チッソと自主交渉に入る。映画で真田広之が演じる患者運動体のリーダーは、川本氏らをモデルにしてその闘争を描いている。
アイリーンは水俣以降、環境活動家として市民運動に関わる。1983年、コロンビア大学で環境科学の修士号取得。1991年、NGO「グリーン・アクション」を設立し代表。1994年、「アイリーン・アーカイブ」設立。京都を拠点に約30年間にわたり、反原発を訴え続けている。水俣病の公式確認から65年。患者認定をめぐる訴訟は今も続き、多くの被害者は救済されず、水俣病問題はまだ解決していない。そしてミナマタは、フクシマにも続いているのだ。
ユージン・スミスと妻のアイリーン(1974年) 出典:ウキメディア・コモンズ
■写真は魂を奪う
ユージンは、映画の中でアイリーンに次のように語る。「昔、アメリカ先住民は写真を撮られると、魂を奪わると忌み嫌った。しかし写真は撮る者の魂の一部を奪う。だから覚悟をもって撮れ」。実際、ユージンの母方の祖母は、インディアンの血筋もひく。ユージンを尊敬し、演じるジョニー・デップも先住民の血を引いているという。
一方映画で、「写真を撮っても良いか」と患者に撮影許可を求めるが、拒否されて不満な顔をするユージンに、アイリーンは「共感してよ!」と患者の心に寄り添うことを訴える。やがて、水俣病と日本に身を投げ出す外国人に、患者や家族たちは心を開いてゆく。厳しい現実をアートに変えたユージンの作品は、後日、アイリーンの作品とともに写真集として出版され、今もなお人々に真実を伝えている。
■「入浴する智子と母」
本映画のハイライトは、ユージンが撮影した「ピエタ像」のような世界に発信する母娘の写真を撮影するところにある。「ピエタ像」とは、死んで十字架から降ろされたキリストを抱く聖母マリアの彫刻や絵の事を指す。ユージンの作品「入浴する智子と母(Tomoko and Mother in the Bath)」は、その構図から「ピエタ像」を思わせるものとして、世界中の人々の心を揺さぶり、高い評価を受けている。
ミケランジェロ作の『サン・ピエトロのピエタ』 出典:ウキメディア・コモンズ
『サン・ピエトロのピエタ』像は、ミケランジェロの彫刻の中でも『ダビデ像』と並ぶ最高傑作。
被写体の娘の本名は「上村智子」ではなく、映画では「マツムラアキコ」となっている。胎児性水俣病患者である智子を抱いて母が、一緒にお風呂に入っている写真「入浴する智子と母」は、写真家ユージン・スミスの代表的な作品。この写真はユージンが水俣を訪れた最初の年、1971年12月に撮影された。映画では実際にユージンが撮影した写真でなく、女優の岩瀬晶子と娘役の入浴シーンが撮影された。ただ、映画ではその映像とユージンの実際の作品とが一瞬、二重写しされたのに気がついた。
ユージンの代表作となった写真「入浴する智子と母」は、智子が21歳で亡くなった後も脚光を浴び続けた。1996年9月、東京・品川で大規模な水俣展が開催された。入浴する母子像を載せた大きなポスターが品川駅から会場までの至るところに貼られ、チラシやチケットにも使われた。雨が降っていて、濡れたポスターが剥げ落ち、ポスターやチラシが歩行者に踏みつけられたという。上村夫妻は、この光景に心を痛めた。
1997年7月、フランスのテレビ局から番組で使うため、水俣病の悲惨さを象徴するこの1枚を提供してほしいという依頼が上村夫妻にあった。しかし、夫妻は「公害を世界に伝える」というそれまでの意思とは変わり、写真の使用とインタビューのいずれも断った。「亡き智子をゆっくりと休ませてあげたい」というのが、夫妻の本音だった。
それから2年近く後の1998年6月にアイリーンは上村夫妻と話し合い、母子像写真の新たな展示や出版を行わないことを約束した。このようないきさつで現在、水俣病の象徴となった「入浴する智子と母」は封印されているままである。このブログにもこの写真が掲載できなくて、残念。
■史実と脚色
2021年6月に地元有志の実行委員会が、本映画の先行上映会の後援を水俣市に依頼した。市は、映画が史実に即しているかや、被害者への差別や偏見の解消に貢献するかが不明、水俣病を忘れたいと考えている市民もいる、などの理由で後援を拒否した。一方で熊本県は「世界的に発信されることに意義がある」として上映会の後援を承諾している。
9月18日に水俣市で先行上映が行われた。2回の上映で市民や胎児性患者などのおよそ1000人が鑑賞。会場ではジョニー・デップのビデオメッセージも紹介され、アイリーンは上映後の舞台挨拶に立ち、劇中でチッソ社長がユージンにネガの買収を持ち掛けたり、仕事小屋が放火される脚色について、「史実と違う部分はあるにしても、著名な役者が演じた映画を通して、水俣病の根底にある問題を広く世界に知って貰うことの意義は大きい」と語った。
■ユージンの取材前から原因と水銀と判明
1950年代から水俣湾周辺の漁村地区などで、奇妙な病気が数多く報告されていた。1956年、中毒性中枢神経系の病気「水俣病」が公式確認。原因究明の研究も行われ、1959年には熊本大学水俣病研究班が水俣病の原因は有機水銀であると発表。1960年に入るとさらに、チッソの工場から排出された水銀が原因であるという論文がいくつも発表された。1968年には厚生省は、水俣病を公害病と認定、「チッソ水俣工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀化合物が原因」と発表した。
映画の中では、ユージンとアイリーンらがチッソの附属病院に侵入して、水俣病の原因が水銀であることを会社が知っていて隠していた、という事実が判明する。探偵映画じゃあるまいし、演出として違和感ある。
■チッソ株式会社は現在、補償を専業
チッソは明治後期に創業し、第二次世界大戦をはさみ発展した日本の化学工業メーカー。1932年からチッソ水俣工場が触媒として使用した無機水銀の副生成物であるメチル水銀を含んだ廃液を海に無処理で排出していたため、水俣市を中心とした八代海沿岸地域で発生した水俣病の原因を作った。
1975年3月、水俣病患者と遺族らが、チッソ関係者を殺人罪、傷害罪で熊本県警に告訴した。1976年5月、熊本地検は元社長の吉岡喜一氏と水俣工場長の西田栄一氏を業務上過失致死傷で起訴した。1979年3月、熊本地裁は吉岡氏と西田氏に禁固2年、執行猶予3年の有罪判決を下し、1988年3月の最高裁上告審で有罪が確定した。
1960年代からチッソは経営状態が悪化した上に、水俣病裁判での敗訴後は被害者への賠償金支払い、第一次オイルショックなどにより経営がさらに悪化、1978年に上場を廃止した。同社は現在では実質上、国の管理下にあり、現在は水俣病の補償業務を専業とする。なお、水俣工場は現在も操業を継続している。
チッソ株式会社のロゴ 出典:ウキメディア・コモンズ
■チッソからユージンが暴行を受けた
映画では、ユージンがチッソ工場と抗議者との間で起こった混乱に巻き込まれ、暴行を受けて大けがを受けるシーンがあった。この事件は実際にユージンが被害を受けたものだが、時期や場所は全く異なっていて映画の演出として大幅変更されている。実際にユージンが暴行を受けたのは、1972年1月7日。場所は、千葉県市原市にあるチッソ五井工場を訪問した際に起こった。
チッソ五井工場に水俣市からの患者を含む交渉団と新聞記者たち約20名に訪れたが、ここで従業員約200名から強制排除を受けた。ユージンはこの「五井事件」の暴行で、実際に脊髄骨折と片目失明という重傷を負った。暴行を受けた後に「入浴する智子と母」を撮影したのは、映画の演出。この時の傷がもとで後遺症を患い、いくつもの医療機関で治療するも完治せず、晩年は神経障害と視力低下にも悩まされ、結果的に死期を早めたと思われる。
●雅子皇后の母方の祖父・江頭豊はチッソ社長
江頭豊氏は東京府出身で、父は海軍中将の江頭安太郎氏。1933年東京帝国大学法科を卒業後、日本興業銀行へ入行。興業銀行をメインバンクとし、水俣病問題と労働争議による経営不振に陥っていた新日本窒素肥料の立て直しのため、中山素平頭取の意向で1962年、同社の専務取締役として派遣された。
1964年12月、社長に就任。1965年1月、同社は「チッソ」に社名変更。1970年11月と1971年5月に開かれたチッソ定時株主総会は、一株株主運動との対決で大混乱となった。江頭社長は混乱の責任を取り、1971年7月の取締役会で社長を退任するが、会長に就任して経営にかかわった。後任の社長は、島田賢一氏(1971年7月~1977年6月)。1973年5月、江頭氏は会長を退任、相談役に就任。2006年9月、98歳で死去。
江頭氏の前任の吉岡社長は、刑事追訴され水俣病の業務上過失致死傷 で有罪となった。江頭氏は外部から派遣され、水俣病の原因を作った社長ではない。しかし社長・会長の時代、水俣病被害者や家族への対応はどうだったのか。ユージンらが、水俣に滞在していた時期と重なる。江頭氏の孫・小和田雅子さんには、当然ながら責任はない。しかし祖父にチッソ社長の経歴があったことが、宮内庁から慎重論が出て皇太子妃候補から一時外された、という話もあった。1993年6月、結婚の儀が執り行われ、雅子さまは皇太子妃となった。
« 新型コロナ2021.09 重症高水準 | トップページ | 日光杉並木街道ウォーク »
「映画・テレビ」カテゴリの記事
- 映画「雪の花 ーともに在りてー」(2025.02.02)
- 映画「九十歳。何がめでたい」(2024.06.30)
- 映画「オッペンハイマー」(2024.05.16)
- 映画「ゴジラ-1.0」(2024.03.19)
- 映画「こんにちは、母さん」(2023.09.10)
コメント