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2021年5月24日 (月)

川島町平成の森公園

 2021年5月6日(木)、埼玉県川島町の「平成の森公園」を散策。

 コロナ禍で外出自粛していたが大型連休の明けた6日の午前、天気は晴れ。

 この日は最高気温が26.5℃の夏日。天気が良いので出かけてみるが、来場者は少ない。


 公園は町のほぼ中央、川島町役場に隣接。四方を川に囲まれた川島町をイメージしたものが「平成の森公園」。

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 「川島町の和船」の展示。

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 川島町は、町名のとおり川に囲まれた島のような地域で、立地を生かした農業が盛んで田園地帯が広がっている。水の恵を受けつつも、水害が多く堤防が重要とされてきた。

 1910年(明治43年)の洪水では、川島町内の各地で破堤し壊滅的な被害を受けた。この時の明治天皇からの下賜見舞金で洪水時の救助・運搬用の水災予備船を造ったという。1947年(昭和22年)のカスリーン台風でも大きな被害を受けたが、その後は河川改修や排水機場整備が進み、船も使われなくなったそうだ。使われなくなった川舟はいつしか老朽化していったが、薬師堂に2艘保存されていてそのうち1艘が保存状態が良く使用可能であったので、川島町の歴史を伝えるため、この「平成の森」に展示されている。(説明板より抜粋)

 約8.4haの広さの公園の中心部に位置するこの広場は、「水と時」をイメージした親水性の高いシンボリックな広場。

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 広場中央にある「時の塔」には、公園全体に響きわたるカリヨン(組み鐘)があり、親しみしみののあるメロディーで時を知らせるという。またこの広場は全体が日時計としてデザインされ、十二支の彫刻が施された景石は時を表し、水の流れとともに時の流れを刻んでいる。

 時計の右手の芝生広場には、鯉のぼり。手前の修景池は、夏には「古代ハス」が咲く。

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 子どもたちが遊べる「ちびっこ広場」。

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 「バラの小径」の周囲に四季の花が咲く。

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 「バラの小径」は、約60品種、約480本のツルバラによる全長340.5m、日本一長いバラのトンネル。新型コロナ対策のため、閉鎖され立ち入り禁止。バラの小径から続く「アスレチックコーナー」も入れず。

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 「バラの小径」のトンネルを外側から覗く。

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 小径の周辺には109本の木バラが植えられているが、開花は少ない。

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 バラの見ごろは、春バラが5月中旬~6月上旬、秋バラは10月下旬~11月中旬だそうだ。

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 町の花である「はなしょうぶ」の中を散策できる「ショウブ 園」。

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 休憩スペースには藤棚(写真右手)。木々に囲まれた園内には八ツ橋が巡らされ、「ショウブ園内」を散策。約2,500株のハナショウブは、毎年6月上旬頃にかけて色鮮やかに咲き誇るという。

 そのほか、スポーツやイベントが楽しめる「多目的広場」は全面芝生の広場で、外周は400mのトラックになっている。

 約8.3万㎡の敷地のこの公園は、1988年(昭和63年)に国が提唱した「ふるさと創生事業」に基づいて広く住民からアイディアを募集し、1996年(平成8年)にオープンした。だれもが憩える公園として、また散歩、ランニング、レクリエーション、スポーツなどの拠点となっている。また賑やかなイベントが開催される場でもあり、町内外の人々に親しまれている。筆者はこの公園に初めて来たが、コロナ禍の平日とあってが、ノンビリと憩いに来た人たちがチラホラ程度だった。


 ★ ★ ★

 1954年(昭和29年)、中山村、伊草村、三保谷村、出丸村、八ツ保村、小見野村が合併し「川島村」が誕生した。「川島」の由来は、荒川の中流域に位置し、東に荒川、北に市野川、南は入間川に、そして西は越辺(おっぺ)川に接しており、「川に囲まれた島」という意味。1972年(昭和47年) 町制施行、「川島町」となる。

 奈良時代の少し前ごろから、この地域に集落が作られ生活が営まれていた。古来より豊富な水による恵みを受けつつも、度重なる水害に見舞われてきた。徳川政権が誕生すると、家康の命を受けた関東郡代・伊奈忠次は、後に「利根川の東遷、荒川の西遷」と呼ばれる利根川と荒川の瀬替え(河川の流路を変えること)を行った。

 利根川水系と荒川水系を切り離すこの大規模な河川改修事業により、荒川は熊谷市久下で締め切られ、和田吉野川・市野川・入間川筋を本流にする流れに変わった。関東平野の治水は代々、関東郡代を世襲した伊奈氏一族が行い、長男の忠政、次男の忠治へと受け継がれた。

 荒川の瀬替えにより埼玉県東部の新田開発や農業生産が高まった。また荒川を利用した舟運によって集まる物資により、江戸は世界に誇る100万都市に成長した。その一方で、新たな水を受け入れることになった和田吉野川・市野川の周辺では洪水が激しくなり、水害に悩まされるようになった。

 今では河川に沿って堤防が築かれているが、江戸時代にはそのような堤防で治めることは難しく、「囲堤(かこいつづみ)」や水塚(洪水時に避難する盛り土した水防施設)など、様々な水に対する備えを領主や地域、個人で行われた。川島では、地域を輪のように堤で囲った「川島領大囲堤」で守っていたという。

 このようにいくつかの村が共同し、集落や村を囲む「囲堤」が、大里町(現熊谷市)や吉見町、川島町などで造られていたという。その後、時代が進むにつれ、河川改修や堤防の築造によって、徐々に水害は克服されてきている。

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