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2020年10月27日 (火)

織田宗家の城下町小幡-その1

  群馬県甘楽町小幡、織田宗家の城下町を巡るウォーク。
 

  甘楽町(かんらまち)は、群馬県の西南部、甘楽郡に属する。小幡(おばた)は、豪族・小幡氏が活躍した中世を経て、徳川家康の家臣・奥平信昌(家康の娘婿)の小幡藩となった。1615年(元和元年)に織田信長の 次男・信雄(のぶかつ)の所領となって以降8代、152年にわたり織田宗家の小幡藩城下町として栄えた。その後、幕末まで松平家の支配に移ったが、小幡の町並みは、現在も江戸時代の面影を残している。


 城下町を流れる「雄川堰」(おがわせき)は、歴代の城主が水奉行を置いて管理し藩内の生活用水として利用していた用水路。1985年(昭和60年)に「日本名水百選」に選ばれた。「道の駅甘楽」を起点に「雄川堰」の水源を訪ね、堰にまつわる先人の知恵に触れ、自然豊かな雄川の流れを体感する1日ウォーキング。「歩きたくなるみち500選」の一つ。 

 7:45上信越道を富岡ICで降りて富岡・甘楽方面に進み、県道46号線(富岡神流線)を3km、5分ほど走ると、「道の駅甘楽」駐車場に着く。

 【写真や図をクリックすると、拡大表示します】

●道の駅甘楽 8:50

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 四季の新鮮な農産物、甘楽の特産品が豊富に揃う甘楽の玄関口。城下町小幡の歴史散策や観光案内などもある。甘楽町産業課商工観光係製作の【先人の知恵「雄川堰」を辿る(1日コース)】マップに従って、9:10ウォーキングを開始する。

 雄川の右岸を上流に向かって、遊歩道「せせらぎの路」を歩く。

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●福厳寺/紅葉山公園 9:25

 「せせらぎの路」を300mほど進んだところで、対岸に渡って坂道を登ると、やがて七福神の1つである福禄寿を祀る 「福厳寺」(ふくごんじ)。曹洞宗の寺院で、山号は泉谷山。 紅葉山の麓にある。 

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 「福厳寺」には、左右に普賢菩薩と文殊菩薩を従えた本尊の釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)のほか、小幡七福神のひとつ福禄寿などの諸仏が祀られているという。福と恵みと長寿を叶える神様であるこの寺の福禄寿は、比較的新しく造られた石仏のよう。境内に置かれている確認できなかった。

 「福厳寺」の前から、北東の方角に赤城山を望む。 

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 紅葉山公園は、古くからモミジの木が多いことで知られている紅葉の名所で、標高250mの小高い山。後述の「楽山園」の借景のため、モミジが移植されたという。

 公園(山頂)は、「福厳寺」から急坂を10分ほど登る。山頂付近から北東の方角(右手)に赤城山、北の方角(左手)に榛名山。

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 北西の方角は、妙義山とその奥に冠雪の浅間山。

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 紅葉の見ごろにはまだ早い「紅葉山公園」を後にする。

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●甘楽ふるさと館/達磨窯 9:50

 紅葉山を下りると山麓に、日帰り・宿泊で農村体験ができる「甘楽ふるさと館」。建物は、昔からこの地方で盛んな養蚕農家を模した天窓のある瓦屋根が特徴。

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  四季折々の農村の行事や農作業、手作り料理や工作などを通して、農村の暮らしを体験できる施設。こんにやく作り体験や農産物の収穫など、様々な農業体験メニユーが用意されているという。宿泊施設(33名)とレンタサイクル(20台)もあり、家族連れやグループ客に最適。

 「甘楽ふるさと館」の敷地内に、伝統的な煉瓦を焼く土の窯が復活した。富岡製糸場(隣接の富岡市)の建設時の瓦や煉瓦も、同じような窯で焼成されたという。

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 瓦と煉瓦で出来た説明板「達磨窯復元プロジェクト since 2007」。

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 説明板の内容は、以下の通り。

 この窯は瓦と煉瓦を焼くために築かれた土の窯です。その歴史は古く約五百年前に大陸から伝わったとされています。
 富岡製糸場建設当時もこの窯を使って数十万枚の瓦と百数十万丁の煉瓦が焼かれました。
 我々甘楽福島瓦協同組合は、いにしえの時を超えてこの窯を復元し、富岡製糸場の維持存続のために役立てたいと深く願います。 甘楽福島瓦協同組合
 この窯は、20008年「サントリー三十丸茶」でTV CMに出演しました。


●甘楽総合公園 10:00

 「甘楽ふるさと館」と隣接し、広大な自然の中に充実したスポーツ施設があり、遊歩道を散策したり、自然との触れ合いを楽しめる。「兼六園」や「偕楽園」とともに、日本を代表する歴史公園が選ばれる「日本歴史公園100選」に選定されているという。

 野球場やサッカー場、テニスコート、弓道場などの運動施設や大型遊具、子供遊具を備えた総合公園、広さ18ヘクタール。雄川沿いの散策路には国指定名勝「楽山園」や武家屋敷「松浦氏屋敷」などが隣接する。

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 町が、1979年(昭和54)1月に計画決定。20年かけて1998年(平成10)3月に完成した。駐車場は6カ所、東屋(あずまや)が7カ所、トイレが5カ所、どこからでも公園に入れる。メインの入口は県道46号(富岡神流線)からで、ケヤキ並木を抜けると噴水がある。

 公園の中央を流れる雄川は、「水と緑の砂防モデル事業」として親水性や景観に配慮され、公園事業と協調した整備が図られた。ゆるやかな階段を降りれば、川遊びを楽しむことができる。野鳥や昆虫も豊富で、周囲約3Kmの園路は早朝から夕方まで散歩する人も多いという。
 

●長厳寺/連石山三十三観音・天狗岩 10:30

 「甘楽ふるさと館」から公園の中の雄川沿いに設けられている遊歩道を上流に向かって1Kmほど進むと、連石山の麓にある「長厳寺」。

 山門の前に六地蔵が並ぶ。山門には、珍しい木魚があった。

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 「長厳寺」は天台宗の寺院で、山号は連石山。創建不詳だが、古くは裏山の連石山を修行の場とする修験道場だったとされ、鎌倉時代後期の1271年(文永8年)に行円法師によって天台宗寺院に改宗開山。

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 「長厳寺」の本堂の右手裏には、小幡七福神の1つ毘沙門天を祀るお堂がある。

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 毘沙門天のお堂を過ぎて、連石山の山道を進むと「清心のみち」と「無心のみち」の分岐がある。

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 「清心のみち」の急登の山道を喘ぎながら進む。山道には、石積みやコンクリート製枕木の階段が造られていた。

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 初めに登場する石仏は、自然の岩壁に彫られた高さ10mの日本最大級の摩崖仏(まがいぶつ)。顔だけなら、日本一の大きさだそうだ。

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 意外と彫りがくっきりしていて岩肌の摩耗が少ないと思ったら、35年前ほどに作られたそうだ。仏教彫刻に深い関心を持った一般人が、1979年(昭和54)から6年をかけて彫り上げたものだという。

 「清心のみち」と「無心のみち」の2コースとも、次のような大小様々な観音様(石仏)が点在する。

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 連石山は、多くの修験僧が修行を積んだ聖域で、三十三観音が祀られている。明治初期の廃仏毀釈でかなりの数の石仏が失われ、その後に補充されて現在に至っているという。

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 連石山のピーク(標高290m)は、「達磨岩」と呼ばれる巨石。大きすぎて樹木に覆われて、うまく全景写真を撮れなかった。

 山頂から少し下りた所の分岐で、今度は「無心のみち」から下山する。

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 更に「山の背のみち」との分岐に、等身大の「六尺観音」が立っている。

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 2017年(平成29年)2月、「長厳寺」から「甘楽総合公園」まで続く連石山トレイルコース(下図)が整備され、「連石山三十三観音」や、富岡製糸場の土台となった石材を切り出した「石舞台」(石切場跡)、標高265mの「展望台」などを散策できるそうだ。

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 「無心のみち」を更に下り、「長厳寺」にもどる。

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 「長厳寺」の境内で休憩。本堂の左側から、寺の裏に廻ると巨石「天狗岩」があった。

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 説明板によると、昔この大岩は寺の庭にあって、寺の人や檀家が難儀していた、住職は、「どこか邪魔にならないところへ動かして欲しい」と神様に毎日お願いしたところ、ある日天狗が現れて今の場所に動かしてくれたという言い伝えがある。


●大口(雄川堰取水口) 11:40
 
 雄川に沿って更に上流に向かって細い道を歩き、小島田橋を渡ると左手に清らかな「雄川堰」の流れ(Googleマップから転載)。

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 「長厳寺」から1Kmほど歩いて、「雄川堰取水口」に辿り着く。

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 残念ながら道路からは、写真のような堰堤だけで取水口は見えない。

 下の取水口の写真は、説明板から転載。右手に雄川の堰堤、中央が「雄川堰」の流れ。

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 上流の橋の上から、堰堤を望む。右手に水色の水門ハンドルが見える。

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 雄川は、甘楽町西側の稲含山(いなふくみさん)が水源。小幡地区の西側を北流しており小幡台地よりも20mほど低いため、大手門から約2.3Km上流のこの地に取水口が設けられた。


●吹上の石樋 11:55

 取水口から「雄川堰」に沿った道を折り返し、650mほど下流に「吹上の石樋」がある。この石樋は、雄川に注ぐ堀沢川(ほっさわがわ)を横断する「雄川堰」の水路橋で、石材を組み合わせて造られている。

 小幡藩最後の藩主・松平忠恕の命により、1865年(慶応元年)、7ヶ月と250人の手間を費やして、木樋から石樋に架け替えた。長さは7.7m、水路幅1.2mあり、特に石底は2個の巨大な石で組まれ、両石間は段差が分からないほど精巧に整形されている。(町指定重要文化財)

 「雄川堰」は石樋を右から左に流れ、左上の掘沢川と交差している。

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●崇福寺/織田宗家7代の墓 12:05

 更に「雄川堰」に沿って下り、県道46号を横断すると小幡藩主・織田宗家の菩提寺の「崇福寺」。4代・織田信久は織田家の菩提寺とする為、廃寺だった「崇福寺」を3年の歳月をかけて再興した。

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 織田宗家は3代までは、豪族・小幡氏が菩提寺としていた格式の高い「宝積寺」(ほうしゃくじ)を菩提寺にしていた。しかし4代信久は、急に廃寺だった「崇福寺」を再興して織田宗家の菩提寺に変更し、「宝積寺」から墓を移したという。菩提寺を変更した理由は不明。

 小幡藩主・織田信雄から信富に至る7代の墓が「崇福寺」の旧境内に並んでいる(町指定史跡)。本堂には位牌が安置されている。

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 織田氏の墓石はいずれも五輪塔で、手前の初代・信雄(のぶかつ)から奥に向かい、信良、信昌、信久、信就、信右、信富と歴代順に並ぶ。 

 墓の前の広場には、再興した「崇福寺」があった場所で、その後2度の火災で全焼し、その時一部の墓石は損傷したという。当時は、廻廊が墓に達し、墓石には一箇所づつ上屋(うわや、霊屋=たまや)がついていたとされている。 墓石を守る上屋は、今年(令和2年)に新しく整備された。下の写真は、初代・信雄の墓。

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 後で見学した「甘楽町歴史民俗資料館」に展示してあった上屋のない「織田家七代の墓」の写真。以前は、桜の木が植えられており、風情が感じられる。

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 12:15、「織田宗家7代の墓」を後にして、次の目的地は「一番取水口」・・・。しかしすでに12時過ぎのため、武家屋敷地区に向かい、予定していた「御膳前レストラン・プレトリオ」(イタリアン料理)に行くが満員で、入店できず。

 近くに食事処が見当たらず、出発地の「道の駅甘楽」まで戻り、13:00~13:40昼食。天ざる蕎麦を注文。
 

 ブログ記事「織田宗家の城下町小幡-その2」に続く。

 

 ★ ★ ★

【本能寺の変と信忠、秀信】

 織田信忠は、信長の長男として生まれ、1576年(天正4年)織田家の家督を譲られて、岐阜城主となった。武田氏を滅亡させた直後、1582年(天正10年)の本能寺の変の際には、備中高松城を包囲する羽柴秀吉への援軍に信長と共に向かうため、京都の妙覚寺に滞在していた。信長の宿所である本能寺を明智光秀が急襲した事を知り、救援に向かう。しかし信長自害の知らせを受け、光秀を迎え撃つべく二条新御所に移動、わずかな軍兵とともに篭城し、自刃した。

 織田秀信は、1580年(天正8年)、織田信忠の長子として生まれた。織田信長の嫡孫(ちゃくそん)。幼名は三法師。本能寺の変の時は、岐阜城にいた。その後、織田家の後継者を決める清洲会議で羽柴秀吉により推挙され、織田家の跡目に決定。信長の三男・信孝が後見人となり、僅か3歳で家督を継承した。その後安土城に入る予定だったが、やがて秀吉と反目した信孝は三法師を岐阜城から離さなかった。そこに目を付けた秀吉は、謀反を口実に岐阜城を攻め、信孝は三法師を秀吉に開放して降伏した。その後、信長の次男・信雄(のぶかつ)を後見人とし、三法師を安土城に入れた。

 元服後は秀吉と信長の1字ずつを貰って、織田秀信と名乗る。1592年(文禄元年)、岐阜城主となって13万石。1600年(慶長5年)の関ケ原の戦には石田三成の誘いをうけて西軍となり、岐阜城に籠城するが東軍の攻撃を受けて降服した。一命は助けられたが、剃髪して高野山に追放され、同地で没した。享年26歳。

【信雄と織田宗家】

 織田宗家は、織田信長の二男・信雄(のぶかつ)を祖とする家柄。信雄は、兄・信忠亡き後、織田家の後継者になろうとするもの、清洲会議で秀吉の推す幼少の甥・三法師に決定。三法師の後見の弟・信孝の後継として安土城へ入城した。しかし、失火で安土城と市街地を焼く失態を犯す。やがて信雄と秀吉の関係は険悪化するも、小田原征伐に従軍。その論功としての尾張から家康の旧領(三河・遠江)の移封を信雄が拒否したことから、秀吉の怒りを買って信長から相続した100万石が取り上げられ、一大名へと転落。さらに1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは、傍観を徹してとがめられ改易となった。

 家康に近づいた信雄は、1615年(元和元年)大坂の陣の功により、大和国宇陀郡松山(奈良県宇陀市)3万石、上野国甘楽郡小幡(群馬県甘楽町)2万石、合計5万石が与えられ復権。1617年(元和3年)信雄の四男・信良(のぶよし)が上野甘楽郡2万石を受け継ぎ小幡藩を立藩し初代藩主となる。信良は、信長の孫であったことから、特別に国主格(国持ち大名格)の待遇を与えられた。

 信雄自身は京都に隠居し、茶や鷹狩りなど悠々自適の日々を送った。大和宇陀郡からは、信雄自身の隠居料が入った。信雄が享年73歳で亡くなると、二代藩主・信昌(のぶまさ)は祖父・信雄の遺命により、5万石の領地のうち大和宇陀を叔父の高長(信雄の五男、信昌幼少の頃の後見人)に譲り、父・信良の遺領分2万石のみの領主となった。

 数多くいた信長の息子の中で、江戸時代に大名として存続したのは信雄の系統だけであった。しかし信昌の治世の末期から、国主格の大名格式の維持のためだろうか、小幡藩の支出は収入を上回る財政難が始まり、年々困窮していった。

【明和事件】

 1767年(明和4年)江戸幕府に対する謀反などの罪で、甲斐の出身で儒学者・思想家・兵学者だった山県大弐(だいに)が捕えられ処刑された。幕府に対し最期まで大義名分を説き、王政復古を唱えたとされる。山県の代表著書『柳子新論』には、「士農工商は階級ではなく職務上の分担」と「人間尊重」、「勤王思想」を訴えた。倒幕が成し遂げられる100年も前のことであった。

 小幡藩の家老・吉田玄蕃は山県大弐の弟子として知られ、多くの小幡藩士も影響を受けていた事から、政敵だった家臣からその関係を密告された。幕府は、第代藩主・織田信邦も連座して蟄居を命じ、実弟の信浮(のぶちか)に家督を相続させて同時に”国主格”の待遇を廃し、出羽国高畠藩(山形県高畠町)2万石へ懲罰的な移封を命じた。

 織田家に代わって、上野の上里見藩(群馬県高崎市里見郷)より松平(奥平)忠恒が2万石で入る。4代の松平家の藩主(忠恒・忠福・忠恵・忠恕)は、若年寄、寺社奉行、奏者番などを幕府の重責を歴任する。しかし織田家時代からの藩財政の困窮化と領内の荒廃化は進み、幕末の頃には藩の収入に対し借金が10倍近くまで膨らんで明治維新を迎え、やがて廃藩置県により小幡藩は廃止された。

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