織田宗家の城下町小幡-その2
群馬県甘楽町小幡、織田宗家の城下町を巡るウォーク。「織田宗家の城下町小幡-その1」の続き。
甘楽町小幡は、織田信長の 次男・信雄(のぶかつ)より8代、152年にわたり城下町として栄えた土地、現在も江戸時代の面影を残し、歴史と風情ある街並みが広がる。
9:10「道の駅甘楽」を起点に、1日コースに従い城下町を巡り「織田宗家7代の墓」を後にしたところで12時を過ぎたので、武家屋敷地区のレストラン「プレトリオ」に行くが、コロナ対策の客数制限で満員。近くに食事処が見当たらない。15分ほど歩いて出発地の「道の駅甘楽」まで戻り、13:00~昼食・休憩。
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●長岡今朝吉記念ギャラリー 13:50
13:40「道の駅甘楽」を出て、予定を変更して次の目的地「楽山園」に向かう。「楽山園」のとなりに「長岡今朝吉記念ギャラリー」がある。時間の関係で入館せず、前を通り過ぎる。
名誉町民の長岡今朝吉氏から寄贈された絵画の展示施設として、2011年(平成23年)3月にオープン。人間国宝・須田賢司氏の作品も展示してあるという。入館料は200円。入口には、生涯学習の場として「甘楽ふるさと伝習館」の看板も掲げてある。
故・長岡氏は甘楽町の出身、東京で建設や不動産会社を設立。町に対して、収集した絵画を寄贈、土地や福祉基金の寄付、教育事業を行った。須田賢司氏は、東京で祖父から続く木工家に生れ、1992年(平成4年)に甘楽町に工房を移し移住した。現在、木工芸ギャラリー「清雅」を主宰、海外文化交流等にも力を注いでいる。甘楽町名誉町民。
●楽山園 13:50
小幡藩二万石の藩邸に付属する群馬県内唯一の大名庭園。江戸時代初期、織田信長の次男・信雄が7年の歳月と数万両の巨費を投じて築いた池泉回遊式の庭園。2万3千平方m。国指定名勝。観覧料300円。(長岡今朝吉記念ギャラリー、甘楽町歴史資料館との共通券は500円)
池を中心として、中島や築山を築いて起伏のある地形を造り出し、いくつかの茶屋を配し、それらを巡る園路にも工夫を凝らしている。また庭園の西側にある雄川をはさんで紅葉山、南には連石山、熊倉山などの山並を借景として取り込み、豊かな広がりを演出している。
「楽山」の名は『論語』の「智者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」の一文から採ったもの。江戸時代初期に造られたが、経年で荒れていたのを整備して2012年(平成24年)3月に開園した。
「御殿前通り」に面して「番所」という看板のある案内所。右の「中門」から入園。
入園すると、右手すぐに復元された「拾九間長屋」。藩邸の使用人が暮らしていた。
長屋の中は、事務所と簡単な展示スペースがあって、約15分の甘楽町紹介のビデオ「織田宗家ゆかりの城下町」を視聴。
藩邸・御殿と「楽山園」のジオラマが展示。
土塁と空堀で囲まれた御殿・藩邸の跡。左の屋根は、井戸が復元。奥に庭門の先が「楽山園」。
「楽山園」の北西側から「昆明池」を望む。左手の建物は、休憩所、お茶席のある「凌雲亭」。
南側から「昆明池」を望む。中央の土塁の奥に園外にある白壁の建物。右手は園内の「凌雲亭」。
東側から、手前の築山(つきやま)の「腰掛茶屋」とその後の築山の「梅の茶屋」を望む。後方は借景の「紅葉山」。
「凌雲亭」側から、南東庭園の小さな池の「泉水」。
「楽山園」を出て、武家屋敷地区を廻る。
●矢羽橋・分水路 14:40
「矢羽橋」は破魔矢を意味し、織田時代の厄除けとして鬼門を指している橋。道路の東端に「雄川堰」をまたぐ平らな石が3個あるが、これが「矢羽橋」だったのだろうか、よく分からない。
橋の西側に「分水路」があり、写真の下手方向(北の方向)は「楽山園」へ注ぎ、右手(南の方向)は「松浦氏屋敷」の園池に水が引き込まれているという。
南の方向は北側より標高が高くなるが、このような配水は当時としては高度な技術だったそうだ。しかし、右手(南の方向)の水路が、なぜ小石で塞いであるのか不明。
●松浦氏屋敷 14:42
松浦氏は、小幡松平藩の中老を務めた。屋敷の庭園は川を模した「雄川堰」の水を池に引き込み、南に見える秩父の山々を借景している。
主屋は、茅葺きの寄棟造り。
主屋は江戸時代後期に建てられ、庭園も主屋と同年代に築庭されたようだ。1978年(昭和53)まで住居・蚕室として使用されていたが、2011年(平成23)に町に寄贈された。江戸時代の小幡藩の武士の生活の一端を伝える責重な文化遺産として群馬県の史跡に指定。
●雄川堰(小堰) 14:47
「雄川堰」の水を取水し、陣屋内の家臣の屋敷に配水するために張り巡らされた、巾30~50cmの用水路。当時の高度な技術がうかがえる。(町指定重要文化財)
●喰い違い郭 14:50
小幡藩は城郭がなく、陣屋が設けられてそれを居城とした。陣屋は雄川の東岸に築かれたが、現存しない。それでも数々の遺構が残されており、「喰い違い郭(くるわ)」もそのひとつ。
わざと見通しを悪くした石垣で、戦時の防衛上のために造られたもの。 また、下級武士が上級武士に出会うのを避けるため隠れたともされている。(町指定重要文化財)
●松平家大奥 14:53
「喰い違い郭」の向かい側には、小幡藩松平家の大奥があった。奥方と何人かの腰元が住んでいたといわれている。大奥らしい落ち着いた感じのする庭園は、堰の水を引き込んで背後の山を借景にしており、江戸時代後期に造られた。(町指定名勝)
現在も住居の庭として使用されていくらしく、これ以上は中に入れない。
●高橋家 15:55
高橋家は、小幡藩の勘定奉行を勤めた。江戸時代初期に造営され、武家屋象の中でも最も昔の様子を残している庭園と屋敷。
庭園は、「心字池」を中心に配されている。池の水は堰から引き込まれ、高低差10cm足らずの「蓬莱の滝」が流れ、爽やかな音がよく反響し、人の心を和ませてくれるという。
小幡藩では庭園は100坪以内と決められていた。庭には、池や滝のほか樫の古木、月見灯籠、大小の石などが配され、甘楽町の指定名勝となっている。ここも人が住んでいるため、入場は一部に制限されている。
●中小路 16:00
小幡藩主が通つた道幅14mもある「中小路」。白壁の武家屋敷や庭園・石積みが江戸時代の面影を今に伝える。(石垣は、町指定重要文化財)
「楽山園」から東へ向かう「御前通り」は、「喰い違い郭」で左に折れて「中小路」となるが、「高橋家」で右に折れて県道46号線にぶつかる。下の写真は、東に向かう「中小路」で、右手が高橋家の石垣と塀、左手は柴田家の石垣。
●大手門礎石 15:05
県道46号線を北へ向かい、「甘楽町歴史民俗資料館」が建つ大手門交差点の一角に、陣屋の大手門があった。現在は、礎石だけが2つ残る。
この大手門は、四脚門(しきゃくもん)と呼ばれ、門柱の前後に控柱を2本、左右合わせて4本立つ。四脚門は、日本の門の建築様式の中では最も多く、正門に配される。「八脚門」(控え柱8本)に次いで、格式の高い門だった。礎石の大きさから、かつての門の大きさや織田家の家柄の高さがうかがえる。
この地にギャラリーお休み処「大手門」が、長年ボランティアが観光案内や湯茶サービスを行ってきたが、2019年12月に閉所され、現在は更地になっている。
●甘楽町歴史民俗資料館 15:10
大手門の位置にある「甘楽町歴史民俗資料館」は、レンガ造りの重厚な建物、1926年(大正15年)に組合製糸小幡組の繭倉庫として造られた。養蚕最盛期を象徴する建物として、1986年(昭和61年)町の重要文化財。武具や養蚕資料など、所狭しと展示してある。入館料200円。
1階展示室 養蚕資料を中心に展示。右手前は、連石山から切り出した富岡製糸場の土台石を運んだという大八車の木製車輪。
2階展示室 中央のしゃれた便器は、養蚕農家がいかに豊だったかが、うかがえる。
2階展示室 甲冑のほか、円空が彫ったという独特の作風の木彫り仏像「円空仏」(町指定重要文財)も展示。
「甘楽町歴史資料館」を出て、県道197号線と「雄川堰(大堰)」に沿った町屋地区の桜並木の広い歩道を北へ向かって歩く。
●甘楽町歴史民俗資料館別館(通称:有賀茶屋) 15:26
明治期に建てたと伝えられる「有賀茶店蔵」が、復元工事により町屋地区の町並み景観のひとつとして往時の姿に蘇った。屋内は「歴史民俗資料館別館」として活用されている。入館せず、前を通過。
●古民家かふぇ「信州屋」 15:27
「信州屋」はその名の通り、明治時代後期に信州から移り住んだ家主の息子が、明治38年(1905年)に建てた建物。
最初は呉服などを取り扱っていたが、薬や雑貨などをメインにしてゆき、近隣の養蚕農家に倣って養蚕も手掛けた。往時の佇まいはそのままに改修、2013年(平成25年)4月に無料の休憩所、観光案内所としてオープン。入館せず、前を通過。
●雄川堰(大堰) 15:30
甘楽町を南北に流れる「雄川堰」は、古くから住民の生活用水や水田の灌漑用水として、多目的に利用されてきた用水路。別名、「大堰」。日本名水100選等に選定されている。また、2014年(平成26年)には「世界かんがい施設遺産」に登録された。(町指定重要文化財)
●小幡八幡宮 16:35
町屋地区の中ほど、八幡山(夕陽ヶ丘公園)の中腹に、陣屋の鬼門(東北の方角)封じのため宗家三代信昌(二代藩主)の時代の1645年(正保2年)に創建された。応仁天皇を祭神とした素朴で味わい深い神社。例大祭には、屋台や神楽が町内を練り歩く。
天井は、格子絵天井で中央に大枠(1.4m×1.4m)、周りに小枠(46cm×46cm)が90ある。大枠に龍が画かれ、四周外側36の小枠に藤原公任撰による「三十六歌仙」の極彩色肖像画に歌と名が記されている。その他54の小枠には、花鳥・人物・動物類。小枠の画はすべて中央の龍に向かい、龍は本殿に向かっている。
●養蚕農家群の町並み 15:45
明治中期に建築された養蚕農家群の町並みが、「雄川堰」沿いに建ち並ぶ。白壁の立派な建物は、往時の繁栄が偲ばれる。天窓を設けた屋根が特徴的。今も住居となっているらしく、前を通り過ぎる。
豆腐店「豆忠」の前で、町屋地区の桜並木の歩道が途切れ、来た道を引き返す。400mほど戻った小幡交差点で右折、県道46号を200mほど歩けば「道の駅甘楽」、15:55着、休憩。16:15帰路へ。
★ ★ ★
群馬県甘楽町に、織田信長の子孫の城下町があったことは、最近まで知らなかった。城下町の風情、水をめぐる先人の知恵、風雅な大名庭園、養蚕業の繁栄や富岡製糸場との関わりなど、多くを体感した。甘楽町では、歴史的なまちなみや地域の伝統文化等をまちづくりの要素の一つとして活用するため、2008年(平成20年)11月施行の通称 「歴史まちづくり法」による「甘楽町歴史的風致維持向上計画」を策定し、2010年(平成22年)3月に国の認定を受け、計画に基づいた「まちつくり」事業に取り組んできているという。確かに、歴史的遺産やウォーキングコース、案内板や道標などの観光資源は、特にここ10年ほどで整備されたようだ。
暑くも寒くもない、秋晴れのウォーキング日和り。この日の歩数は、2万4千歩、歩程14.6Km。当初、1日コースを全部を廻るのは無理だと思っていたが、やはり「織田家七代の墓」から後はコースを外れてしまった。紅葉山や連石山の急登で時間や体力を消耗した。八幡山夕陽ヶ丘公園は、時間がなくて省略。この日は日曜で、秋の行楽シーズン。「道の駅」の人混み、帰りの高速道路の渋滞などは、コロナ禍で外出や旅行が回復しつつあることが感じられる。
★ ★ ★
観光マップのスポット38個所のうち、今回廻れなかったのは、次の10個所だった。
●一番口取水口、二番口取水口、三番口取水口
「雄川堰」には3箇所の取水口が設けられ、陣屋地内・武家屋敷の間をぬって幾筋にも用水路をめぐらしていた。「一番口」からそれぞれ、一升枡、五合枡、三合枡の大きさという。
●雄川堰遊歩道
遊歩道は、町屋地区で見られる町並みとは違い、のどかな田園風景が広がる。上の3つの取水口は、この遊歩道沿いにある。
●龍門寺
小幡七福神の1つである寿老人を祀る。寿老人は、中国の長寿の神様で、松平氏が領内の平和と人々の長寿を願い祀られた。
●こんにゃく畑の風景
城下では、肥沃で水はけの良い土壌を活かし、こんにゃく栽培が盛んに行われた。こんにゃく畑は、古い町並みをとりまくように広がっている。
●城町薬師堂の石仏
薬師如来、観音菩薩、地蔵菩薩一体は、いずれも室町から桃山時代にかけてのものと推定。町重要文化財。
● 八幡山夕陽ヶ丘公園
八幡山の頂上(標高235m)からは、街を一望。赤城、榛名、妙義の上毛三山や浅間山も望める。トレイルコースが整備されており、散策を楽しむことができる。
●宝泉寺
小幡七福神の1つである恵比寿を祀る。参道には石造の薬師像が安置されていて、町重要文化財。
●松井家住宅
江戸時代、名主を務め苗字帯刀を許された松井家を移築・復元。江戸中期に建てられた寄棟造草葺屋根。この地方の代表的な農家造り特微を、良くとどめている。「道の駅甘楽」のすぐ隣にある。
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【陣屋とは】
陣屋は、一般的に3万石以下の城を持たない大名、上級旗本の知行地、大藩の家老の所領地の屋敷、飛地を持つ大名の出張所を指す。陣屋に藩庁を置く大名のことを、”無城大名”あるいは”陣屋大名”と呼ばれた。陣屋は、城郭に比べて簡略化され、行政・居住の機能しかないものが一般的。天守や本格的な土塁や石垣などはない。塀で囲った屋敷の内外に、家臣の屋敷が造られることが多かった。
【小幡陣屋】
初代藩主・織田信良(のぶよし)と二代藩主・信昌(のぶまさ)は、隣接する甘楽郡福島*に陣屋を設けて藩庁としていた。信昌は、1629年(寛永6年)に小幡村の旧小幡氏重臣の屋敷に移り、1642年(寛永19年)に小幡陣屋の完成をもって藩庁、藩邸を小幡陣屋に移した。
(注)* 福島は、上州姫街道(下仁田街道)の福島宿の仮陣屋。現・甘楽町福島の上州福島駅付近。
当時の信雄(のぶかつ)系の織田家は、織田信長の後裔という事もあり、2万石でありながら”国主格”(国持大名格)の大名だったが、本来許される城郭は設けず石高に見合った陣屋とした。しかし、庭園だけは本格的な大名庭園として信雄が領内に作庭したともいわれる。信雄は茶人でもあったため、芸術的な要素を強く盛り込んだ。
小幡陣屋は大きく主郭と外郭の二つの郭で構成され、主郭は東西約230m、南北約230m。外郭は東西約600m、南北約760m、面積約34ha。背後(西側)の雄川を天然の堀に見立て、主郭と外郭とは内堀と土塁によって隔てられていた。主郭には藩庁(御殿)と藩主居館(藩邸)が設けられ、外郭の手前には武家町が配され、鍵型の道筋や水路により陣屋の防衛を担っていたと思われる。陣屋の内部には60余りの藩役所、武家屋敷、鎮守社(神社)2社が構え、「雄川堰」の外側には商家町が町割されていた。
その後小幡陣屋は、七代藩主・信邦が「明和事件」に連座して蟄居するまで、7代にわたり織田氏の居城となった。1848年(嘉永元年)小幡に入った松平忠恵は、”城主格”に格上げされ形式上は「城」になったが、城郭としての大規模な拡張は行われず、明治維新後に小幡藩が廃藩になると廃城となった。小幡陣屋の遺構としては「楽山園」以外は殆どなかったが、近年、「中門」や土塁、「拾五間長屋」(木造平屋建、寄棟、茅葺)、井戸などが復元された。
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