かみつけの里博物館と観音塚考古資料館
2020年6月28日(日)、群馬県の古墳めぐりで、高崎市の「かみつけの里博物館」と「観音塚高校資料館」を観覧する。
午前中に「群馬県立歴史博物館」(高崎市綿貫町)を観覧した後、14:40同市井出町の 「かみつけの里博物館」に到着。
●かみつけの里博物館(高崎市井出町) 14:40~15:00
「かみつけの里博物館」の周囲は、広大な「上毛野はにわの里公園」となっていて、園内には「八幡塚古墳」、「双子山古墳」、土屋文明文学館、はにわ工房などの遺跡や施設がある。
《エントランスの展示》
保渡田古墳群「八幡塚古墳」の舟形石棺の実物大模型。
石をくりぬいて作り、直方体よりも両端が斜めに切られた形状で舟に似ている。運搬のための縄かけの突起を備える。内部は魔除けにため赤く塗られていた。実物は「八幡塚古墳」の後円部の地下室に展示されている。古墳時代の石棺は、長持形石棺、舟形石棺、竹割型石棺、家形石棺、箱形石棺などがあった。
床に描かれた榛名山の二ツ岳火口の噴火地図。赤城山と同様に榛名山という山は、いくつかの峰の総称で、同名の峰はない。
埴輪円筒棺は、円筒埴輪を棺(ひつぎ)に転用した墓。石はすべて川原石。
埴輪円筒棺の多くは、古墳の近く(墳丘裾部,または周濠外堤など)から発掘されるので、古墳の被葬者の従属的な地位を示す追葬用として使われたと考えられている。
竪穴系小石棺は、榛名山の噴火でできた石を使用。
この石棺の多くは古墳から離れた場所で発掘され、被葬者の身分は低いと考えられている。小さいため、子供の墓? 骨にしてから埋葬?
1981年上越新幹線建設で発掘された「三ツ寺Ⅰ遺跡」」(高崎市ミツ寺町)の発掘当時の模型。右手が北の方角。
左右に走る県道10号線(前橋安中富岡線)と、左から右上に伸びる工事中の上越新幹線が交差する付近が遺跡。居館跡は内側に1mの盛土が施された一辺約86mの方形で、周囲を幅30~40m、深さ約3~4mの濠を巡らせ、更に濠の内縁には石垣が築かれていた。
《常設展示室》 次の9つのコーナーで構成されている。
①よみがえる5世紀 ②王の館を探る ③王の姿を探る ④王の墓を探る ⑤広がる小区画水田 ⑥火山灰に埋もれたムラ ⑦海の向こうからきた人たち ⑧埴輪に秘められた物語 ⑨埴輪の人・動物・もの。
常設展示室内の様子。
①よみがえる5世紀/榛名山東南麓の古墳社会復元模型(上の写真の中央部)。
榛名山の2度にわたる火山災害に遭った東南麓には、東日本有数の勢力を誇る豪族(王)の本拠地があった。1500年前、豪族の館である「三ツ寺I遺跡」と周囲の住居、保渡田古墳群などが再現されている(縮尺1/500)。写真の右上の方が、榛名山。
②王の館/「三ツ寺Ⅰ遺跡」復元模型。
日本で最初に発見された古墳時代の豪族の館跡(縮尺1/100)で、日本最大級。上越新幹線建設の際に発掘、今は新幹線や道路の下に埋め戻されている。
日本を代表する豪族(王)の居館「三ツ寺Ⅰ遺跡」と「北谷(きたやつ)遺跡」(高崎市間引町)から出土した遺物群。
「北谷遺跡」は、「三ツ寺Ⅰ遺跡」と同時期、同規模の豪族館跡で、2000年に民間開発の時に発掘された。
③王の姿を知る。
全国の5世紀の前方後円墳分布図が展示。三ツ寺の王や上毛野地域が、日本、また東アジアの中でどのような位置を占めていたのかを探る。
④王の墓を知る。
この博物館に隣接する保渡田古墳群の「八幡塚古墳」の築造時の風景。葺石(ふきいし)の設置、後円部へ石棺の搬入、窯場から円筒埴輪の搬入の様子を再現。保渡田古墳群は、榛名山東南麓でこの一帯を治めた「三ツ寺Ⅰ遺跡」の豪族(王)たちの墓所。
⑤広がる小区画水田/古墳時代の水田復元模型。
畳2枚ほどに区画されたミニ水田の初夏(田植え前後)の様子。榛名山の噴火によって火山灰で埋もれた地表や遺跡を元に再現。
⑥火山灰に埋もれたムラ/古墳時代の榛名山東南麓のモデルムラ
火山灰に埋もれていた下芝遺跡群などの発掘データを元に、ムラの姿を再現。竪穴住居に柵で囲まれた作業小屋、作業小屋や家畜小屋。周りに広がる畑では、ヒエ、アワ、キビ、イモなど根菜を栽培していた。
⑦海の向こうからきた人たち
「下芝谷ツ(しもしばやつ)古墳」から発見された日本最古の飾履(しょくり、金のクツ)の展示のほか、様々な渡来系文化を紹介。
朝鮮半島で王の埋葬時に使われる「金銅製の飾履」(復元模型)の展示品は、写真を取り損ねた。出典:「ジパング倶楽部」2020年4月号
⑧埴輪に秘められた物語
保渡田Ⅶ遺跡から出土したはにわ群を中心に様々な埴輪を展示。
⑨埴輪の人・動物・もの
盃を差し出す高貴な女子、甲冑で武装した男子、家形埴輪。
15:00~15:40、博物館に隣接した「八幡塚古墳」と「二子山古墳」を見学。
本ブログ記事「群馬の古墳めぐり」を参照。
●観音塚考古資料館 16:05~16:20
16:05、「観音塚考古資料館」(高崎市八幡町)に到着。すでに閉館(16:00?)していたが、特別に開けて貰って観覧する。
この資料館は、100mほど北にある「観音塚古墳」で未盗掘で発見された30種類、約300点の副葬品が主に展示されている。
日本画「古代・若田原のあけぼの」(高崎市若田町)は、若田原遺跡群(資料館から北へ1km)の古代想像図。作者名は確認できず。
朝鮮半島から技術が伝えられたという「韓式系土器」が多数出土した。
渡来系遺物が多く出土することから、群馬県に多くの渡来人が存在していたことが推測される。
剣崎長瀞西遺跡から出土した鉄製くつわ(馬の口にかませる金具)は、県指定重文 。
朝鮮半島からもたらされた黄金色に輝く承台付(うけだいつき)の銅碗(どうわん)が2セット出土。
1セットは、蓋(ふた)、碗、受け皿の3点からなる。仏具に似た形状の端正な姿で、6世紀に伝来した仏教の影響か。
「観音塚古墳の出土品で最も多い馬具。材質も銀・銅・金銅(銅に金メッキ)・鉄・木・鹿角・革など多様。馬の装飾具。馬を所有する事は、財力と権威の象徴だったので、古墳に馬具が多く埋葬され、馬の埴輪が多く並べられた。
鏡板は、馬を操作するための轡(くつわ)に付属する金具で、鐘形・花形・心葉形といった多様な形状をもつ。
鞍金具は鞍や鐙(あぶみ)等の付属する金具、その革ベルトや金属の鎖に使われる金具など、多種にわたる。
雲珠(うず)、辻金具(つじかなぐ)は、馬の身体に装着するベルトが交差する部分に使用する金具。銅や鉄に金メッキし、鈴が取り付けられたりした。
馬具は、現代の馬の装備や機能とさほど変わらないという。古代人が馬を制御する技術の高さ、馬具の機能や装飾への美的感覚が、現代人と基本的には変わらないことに驚く。
修羅(しゅら)の模型。修羅は、古墳に使う巨石を運ぶ木のソリ。
中原Ⅱ遺跡(高崎市吉井町)の1号墳(円墳)の模型。三段の墳丘は、直径24m、高さ4m。埋葬施設は、両袖の横穴式石室で、全長7.8m。
方墳の下芝谷ツ古墳(高崎市箕郷町)は、二段の方墳。一辺が約20m、高さ4.2m、葺き石で覆われている。石室は、竪穴式石室。渡来人のリーダー格の墓と考えられているという。
武具、工具。鉄鏃(てつぞく)は、矢の先端に取り付ける鉄の鏃(やじり)で、古墳時代の鏃はほとんど鉄製だった。
金属容器の金具や耳環(イヤリング)など装飾具。
観音塚古墳から4つの青銅製の鏡が発掘された。弥生時代に中国からもたらされ、古墳時代には多く埋葬された銅鏡は、所有者の権力を象徴する呪術性の高い祭器だった。
観音塚古墳に副葬されていた大刀(たち)のうち、3点が原形をとどめている。出典:「観音塚考古資料館」のパンフ。
中央の銀装鶏冠頭大刀(ぎんそうけいかんとうたち)の柄頭(つかがしら)。鶏冠頭大刀は、柄頭が鶏冠(とさか)のような形状を呈する装飾付き、儀仗の大刀。出典:同上資料館の歴史カード。
比べてわかる古墳の大きさ。日本最大の「大仙(だいせん)古墳」(堺市、仁徳天皇陵)の全長は486m、群馬県最大の「太田天神山古墳」(大田市)は210m。
巨大古墳は、奈良県、大阪府が上位のほとんどを占める。奈良県・大阪府以外では、全国4位「造山古墳」( 岡山市、350m)、10位「作山古墳」(岡山県総社市、286m)で、次が群馬県最大の「太田天神山古墳」(大田市、210m)は28位。
群馬県内の古墳の大きさベスト20。(写真をクリックすると拡大表示)
この後16:25、資料館の100mほど近くの「観音塚古墳」に見学に行く。
16:40、資料館の駐車場を出発。帰路は前橋ICから関越道へ。
18:20、帰宅。
★ ★ ★
●群馬の古墳は、1万3千基
2017年4月18日の毎日新聞によると、
群馬県教委が2012年度から実施してきた古墳総合調査の最終報告がまとまった。県内の古墳の総数は1万3249基で、そのうち2434基(速報値)が現存していることが分かった。県教委によると、古墳総数は、東日本では千葉県に次ぎ2番目に多く、規模などの「質」では「東日本随一」という。
(中略)
市町村別では、高崎市が2741基(現存639基)で最多。以下、太田市1605基(現存178基)▽前橋市1542基(現存139基)▽藤岡市1511基(現存1444基)が続く。
群馬県は、この古墳総合調査をまとめた「群馬県古墳総覧」を2017年に刊行したという。1万3,000基あまりの全古墳の詳細データが網羅されており、主要な古墳については、発掘調査時の写真等も掲載されているそうだ。
文化庁のデータでは、消滅も含め全国で16万基あるそうだ。文化庁の『平成28年度(2016年度)周知の埋蔵文化財包蔵地数』で現存と消滅の「古墳・横穴」を合計した総数は、159,636基。都道府県別では、群馬県は11位の3,993基。群馬県の調査で、本当に1万3千基もあったのだろうか。その差異は何だろうか。
●古墳王国の群馬
古墳時代(3世紀後半~6世紀末)の上毛野(現在の群馬県)の特徴は、以下のように思われる。
上野毛は当時、東国で最も先端の文化が栄え、先端技術や強力な軍事力を持つ複数の勢力が存在していたと考えられている。豊富な水源と肥沃な大地は豊かな食糧を生産し、国力を高めた。当時の交通は、海路や川を利用する水運が主流で、日本海と大平洋の中間に位置する群馬は交通の要衝でもあった。またヤマト王権にとっては、異民族と見なしていた東北地方の蝦夷(えみし)に対抗するため、上毛野国の豪族と密接な関係を作りたかった。
ヤマト政権は、朝鮮半島や中国とも交流があり、当時は最先端の技術を持つ先進国家だった。地方の豪族と同盟を結ぶため、馬の生産や鉄の鍛冶(かじ)や窯業などの技術を伝えた。そのなかでも最大の技術が、前方後円墳の築造技術だった。「長持形石棺」や「両袖形横穴式石室」は、大王(おおきみ、ヤマト王権の首長)クラスしか埋葬することができないとされるが、畿内以外でこの最高位のタイプの古墳は、上毛野国に多く存在する。畿内の専門の工人が特別に当地に派遣され、その有力豪族のために製造(石材は当地で調達)と考えられている。
「お富士山古墳」出土の長持形石棺(複製)国立歴史民俗博物館展示 出典:ウキペディアコモンズ
長持形石棺は、関東では「太田天神山古墳」と「お富士山古墳」の2基しかない。「お富士山古墳」(群馬県伊勢崎市)は5世紀中頃、全長125mの前方後円墳。墳丘は両毛線により前方部の一部が切断されているが、三段築成で葺石がある。砂岩の長持形石棺は、墳頂にある富士神社の社殿造営の際に出土したそうだ。「太田天神山古墳」(群馬県太田市)は、5世紀前半~中頃、前方部の外堀を東武小泉線が横断するもの、墳丘は三段築成で葺石が認められる。墳丘長約210mは、全国28位の大きさで、東日本では最大規模である。墳丘周囲には二重の周濠、くびれ部には天満宮の祠が鎮座し、古墳名はその神社から由来する。未調査のため、長持形石棺の使用が認められるほかは詳細不明。
「お冨士山古墳」(群馬県伊勢崎市) 出典:ウキペディア・コモンズ
船形石棺は、長持形石棺の被葬者のようにヤマト王権と同等ではない、次のランクの王の棺とされている。それでもその地域における支配者だったことに疑いはない。前方後円墳はヤマト王権の承認なしには造れなかったそうだ。ゆるやかな序列もあって、豪族の勢力に応じて墳丘の大きさや石棺の形なども決められましたとされる。前方後円墳は、ヤマト王権の勢力範囲を誇示する、価値ある建造物であり、地方豪族にとってはヤマト王権と同盟を結ぶネットワークだった。
馬は単なる人の交通手段だけでなく、軍事、輸送、農耕を飛躍的に向上させた。上毛野では5世紀から馬の飼育を開始。群馬県には、馬の埴輪や出土した馬具やその装飾品が、他の地域に比して著しい事に気がついた。群馬は、県名の由来(県のマスコットは馬のゆるキャラ「ぐんまちゃん」)になったように、馬の大生産地であったのだ。現代、自動車が国の基幹産業となって、その生産力が国力を表すように。王は、祭事には装飾品で着飾った馬具をまとった馬にまたがり、人々の前に立って権力を誇示したのだろうか。
群馬県のマスコット「ぐんまちゃん」 出典:群馬県ホームページ
もともと馬は、渡来人が日本に持ち込んだものである。また中国や朝鮮半島で発見された土器などの出土品に類似するものが、榛名山南麓から高崎市を中心とする群馬の地域から多く出土しているという。渡来人が直接持ち込んだものか、ヤマト政権が持ち込んだものか、それとも渡来人が上毛野で製作したものだろうか。「日本書記」には、上毛野の豪族たちが何度も朝鮮半島に渡航していたともいう。「観音塚考古資料館」の資料では、渡来人が多くこの地に存在したことが推測されるとある。
榛名山ニツ岳が、6世紀前半に2度噴火した。火砕流や泥流に埋没した南東麓の集落は、発掘により当時の古墳時代の姿が、まるでポンペイの町のようによみがえった。火山灰で閉じ込められた豪族の館、竪穴住居、水田など、当時の生活や文化が明らかになり、今日の群馬の考古学研究が大きく前進したそうだ。
群馬は、東国で巨大な権力を持つ複数の首長が、肩を並べていたという「古墳王国」であった。群馬県には、他県にはない「上毛かるた」や「群馬交響楽団」など、県民に身近な文化もある。県内の大規模な古墳総合調査のことや、充実した博物館・資料館を観覧し、群馬県が遺跡整備や文化財保護にも力を入れていることが、伝わって来る。
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