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2020年2月11日 (火)

城下町佐倉

 2020年2月1日(日)、城下町佐倉(千葉県佐倉市)を巡る。

 本ブログ記事「国立歴史民俗博物館(先史・古代)」(・・・現在、公開準備中)の続き。

 

 千葉県佐倉市の「国立歴史民俗博物館」に行った後、市内の「佐倉順天堂記念館」、最後の佐倉藩主だった堀田正倫の「旧堀田邸」、武家屋敷「旧川原家住宅」、「旧但馬家住宅」と「旧武居家住宅」を巡る。

 

●佐倉市立美術館 (佐倉市新町、14:20~14:25)

 市の中心部にある「佐倉市立美術館」に行く。

 1918年(大正7年)建築の「旧川崎銀行(現・三菱UFJ銀行)佐倉支店」のエントランスホールを保存・活用した美術館。設計者は、矢部又吉。千葉県指定文化財(有形文化財)。写真は、ウィキペディア・コモンズから転載。

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 ここは浅井忠のほか、荒谷直之介、香取秀真、津田信夫など佐倉市と房総ゆかりの作家を中心に収蔵している、というので興味があった。

 受付に行くと、入館料800円と高い。常設展は無料のはず。よく見ると、2020年1月25日(土)〜3月22日(日)、2階・3階の展示室で企画展「メスキータ展」が開催中。メスキータは初めて聞く名前だが、19世紀末から20世紀はじめにかけてオランダで活躍した画家、版画家、デザイナーだそうだ。  

 館内は、1階がロビー、喫茶コーナーと売店。2階は、原則的には常設展示室。3階は市民ギャラリー。ただし、企画展の実施時には2階・3階は企画展の展示室となるようだ。4階はハイビジョンホール、映像による絵画紹介。

 企画展の開催中は、常設展はなし。美術館を諦め、「佐倉順天堂記念館」へ移動する。

 なお佐倉には他に、3年前に観覧した印刷インキのDIC株式会社が運営する「DIC川村記念美術館」や、日本刀を専門に展示する「塚本美術館」などの美術館がある。

 

●佐倉順天堂記念館(佐倉市本町、14:35~15:17)

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 記念館の冠木門(かぶきもん)をくぐると、庭には順天堂の創始者・佐藤泰然(たいぜん、1804-1872)の胸像がある。

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 武家屋敷・旧堀田邸・佐倉順天堂記念館の3館を見学できるお得な「三館共通入館券」540円を購入して入館。ガイドの案内で見学。

 長崎で蘭方医学を学んだ佐藤泰然は、1838年(天保9年)江戸で蘭医学の「和田塾」を開く。1843年(天保14年)に弟子の林洞海に「和田塾」を譲り、佐倉に移住し蘭医学塾兼外科診療所「順天堂」を創設する。

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 佐倉に移住したのは、蘭学を奨励していた佐倉藩主・堀田正睦の招きのよるものとされる。泰然は、町医から藩医となる。

 「順天」とは、中国古書にある「天道に順(したが)う」、つまり「自然の理に従う」の意味。

 泰然は進歩的で行動力に富んでいて、書物だけの知識ではなく実際の診療に役立つ技術を習得する教育を目指し、多くの優秀な近代医学の門人が育った。また天然痘の新しい予防法の導入に力を入れ、普及させた業績も評価されている。

 手術道具の複製。(原品は、順天堂大学所蔵) 

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 手術の様子。当時はまだ麻酔は使ってなかった。

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 「療治定」の複製模型。つまり治療別の料金表。現在の外科、眼科、産婦人科に相当する。

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 佐倉順天堂の復元模型。「順天堂」の業績は全国に知られるようになり、全国各地から医学を志す者が多く集まった。

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 泰然は1859年(安政6年)病気を理由に、家督を優秀な弟子で養子の佐藤尚中(たかなか、1827-1882)に譲り隠居する。

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 尚中は、1861年(文久2年)長崎に留学、オランダ軍医ポンペに西洋医学を学ぶ。明治維新後の1869年(明治2年)、政府から要請されて大学東校(東大医学部の前身)に出仕、大学大博士 (学長) となる。また明治天皇の侍医をつとめた。1872年(明治5年)辞職し、翌年東京下谷(したや)に「順天堂」を開き、1875年(明治8年)に御茶の水に移した。 (現在の順天堂大学 )

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●旧堀田邸 (佐倉市鏑木町、15:17~16:00)

 最後の佐倉藩主だった堀田正倫(まさとも、1851-1911)の「旧堀田邸」に行く。

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 「旧堀田邸」の玄関棟。

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 明治の建築様式を残した旧大名家の純和風の木造住宅。玄関棟・座敷棟・居間棟・書斎棟・湯殿および土蔵、門番所の7棟が、2006年(平成18)に国の重要文化財に指定された。

 堀田正倫は、幕末の佐倉藩主で老中・堀田正睦(まさよし)の四男。安政6年(1859年)、父が井伊直弼との政争により排斥されたため、家督を譲られて藩主となった。

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 1871年(明治4年)の廃藩置県により佐倉を離れ、東京に移住した。明治17年(1884年)に伯爵に叙される。

 明治23年(1890年)佐倉に戻って、私立の農事試験場を設立し農業の振興や、佐倉中学校(現在の県立佐倉高等学校)の教育発展に寄与するなど地域の振興に尽力した。

 ちなみに長嶋茂雄は佐倉市生れで、佐倉高校の出身でよく知られているが、女子マラソンの小出義雄監督も佐倉市の出身、順天堂大学を卒業して佐倉高校でも教鞭を執っていた事は、初めて聞く。

 展示されていた写真は「堀田家農事試験事務所」とその前庭。庭園を含む一帯は、「旧堀田正倫庭園」(さくら庭園)として、2015年(平成27年)に国の名勝に指定された。

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 「旧堀田邸」と「堀田家農事試験場」の模型。

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 「旧堀田邸」は、農事試験場の敷地を含めると3万坪もあったという。現在の「旧堀田邸」と「さくら庭園」の敷地は、その1/3ほどの広さ。

 座敷棟の客座敷。「旧堀田邸」の各棟の床の間の裏に、トイレ(雪隠)があるのは珍しいそうだ。

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 座敷棟の向かいは、先ほど通って来た玄関棟。

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 座敷棟から庭園に続く。

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 他に、居間棟(1階)を見学。居間棟の2階部分、書斎棟は非公開。

 近代化の波が押し寄せた時代、旧大名家の上級住宅の多くは洋風または和洋折衷であった。「旧堀田邸」のように純和風の旧大名家住宅は、全国で三例(他に松戸市の戸定邸(旧水戸藩別邸)、鹿児島市の磯御殿(旧島津藩別邸))のみとも言われている。豪商や豪農のように華美に流れず、質実堅牢な建築とされる。

  

●武家屋敷 (佐倉市宮小路町、16:13~16:35)

 「旧河原家住宅」(千葉県指定文化財)、「旧但馬家住宅」(佐倉市指定文化財)、「旧武居家住宅」(国登録有形文化財)の3棟が公開されている。いずれも江戸時代後期の建築。城下町佐倉の面影を今に残す土塁と生垣の武家屋敷通りに面して、3棟が並ぶ。

 もともと「旧但馬家住宅」が、当時よりこの場所に建っていた。「旧河原家住宅」と「旧武居家住宅」が、それを挟んで移築されたという。

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  旧武居家住宅の裏手の駐車場に車を止め、武家屋敷通りを通って順路の旧川原家住宅に入る。

 

・旧河原家住宅(千葉県指定文化財)

 「旧河原家住宅」は、300石以上の藩士が住む大屋敷。

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 右手前は、井戸。

 

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 土間と畳縁(たたもべり)のない質素な茶の間。

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 「旧河原家住宅」は、市内に残る武家住宅の中で最も古いそうだ。

 座敷には畳縁がある。奥が客間。

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・但馬家住宅(佐倉市指定文化財)

 「旧但馬家住宅」は、100石以上の藩士が住む、規模は中屋敷。

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 「旧河原家住宅」に比べ、少し簡素な門。

 「旧但馬家住宅」だけが、もともとこの場所に建っていたもので、植栽や建物の形も当時のままだという。

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 垣根の左側は、菜園があったのだろうか。

 本物の甲冑が飾られていた。

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・旧武居家住宅(国登録有形文化財)

 「旧武居家住宅」は小知(しょうち)と呼ばれる藩士の小規模な屋敷で、門も更に簡素。小知とは少しの知行、わずかな扶持(ふち)のこと。

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 門が閉まっていて、「旧但馬家住宅」に庭から移動する。

 「旧武居家住宅」の建物は、良い写真が撮れなかったので、ウィキペディア・コモンズより転載。

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 移築・復元の時に茅葺き屋根だったが、維持の問題で銅葺きに変えられたそうだ。

 床の間に飾られた佐倉藩士の肖像写真。

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 移築復元の様子の写真や、出土した茶碗や皿など資料(写真にない)が展示してあった。

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 武家屋敷を後にして、16:45佐倉インターから東関東自動車道、帰路へ。

 

 ★ ★ ★

・堀田正睦

 以前から、順天堂大学や順天堂病院の発祥の地が、佐倉というのは聞いたことがあったが、今回初めて詳しいことが分かった。蘭方医の佐藤泰然が佐倉に来た理由は諸説があるらしいが、堀田正睦が佐藤泰然を江戸から招聘したのは当然の事だろう。

 佐倉藩主で老中の堀田正睦は、老中首座の水野忠邦を補佐して「天保の改革」を推進したが挫折、忠邦と共に辞任する。正睦は、蘭学に傾倒して「蘭癖(らんぺき)」と称された。藩政改革を行い、藩校を拡充して蘭学の導入を図る。佐倉は関東の蘭学の拠点となり、「西の長崎、東の佐倉」と呼ばれた。

 老中に再任、老中首座を阿部正弘から譲られて開港問題でハリスと日米通商交渉に対処。朝廷に条約調印の了承を求めるが失敗。一方将軍の継嗣問題では、一橋慶喜を支持する一橋派であった。紀伊派(徳川慶福を支持)の井伊直弼が政治工作により大老に就任、正睦は老中を罷免される。家督を正倫に譲り隠居、佐倉城で蟄居(ちっきょ)を命じられる。1864年(元治元年)3月、佐倉城三の丸の御殿において死去。享年55歳であった。

 

・佐藤家の系図

 優秀な泰然の弟子だった佐藤尚中は、養子となって家督と「順天堂」を継ぐ。一般には実子を後継にしがちだが、優秀な弟子を養子とする選択は、尚中の後も続き順天堂を発展させる一因となったという。記念館には佐藤家の系図が貼ってあって、主な人物の業績がパネル展示されていた。

 佐藤舜海= 尚中の隠居後に養子となって3代目として「佐倉順天堂」を任され、病院の近代化を図る。後に東京鎮台佐倉営所の軍医。

 佐藤恒二= 舜海の三女の婿養子。舜海が亡くなった後「佐倉順天堂」の4代目院長となり、分院を設けるなど地域医療の拠点になった。

 林薫(ただす)= 泰然の5男。幕府医官の林洞海の養子。外交官として活躍、日英同盟を締結。その後外務大臣・逓信大臣を歴任。伯爵。

 松本良順= 泰然の次男。幕府医官の松本良甫の養子。近代医学に貢献、初代陸軍軍医総監、貴族院議員。男爵。

 佐藤進= 尚中の養子となり佐倉藩医。東京の順天堂医院で外科を担当、日本初の医学博士の学位。日清・日露戦争の陸軍軍医総監。男爵。

 佐藤志津= 尚中の長女で佐藤進と結婚。横井玉子らが創設し経営難となった私立「女子美術学校」(現・女子美術大学)を再建、校長となって発展させた。女子教育発展の功績により、津田梅子(父は佐倉藩出身の農学者・津田仙)らとともに勲六等宝冠章。

 

・佐倉の武家屋敷

 江戸時代の武家屋敷の多くは、藩が所有して藩士に貸し与えたという。身分、石高によって、屋敷の規模や様式が細かく定められていた。武家屋敷は、主に城下の主君の居所の周囲に形成された。

 基本的に主君の居所から近いほど身分の高い人物、遠くなるほどに身分の低い人物が住んだ。特に家老を始めとする重臣は、藩主の居所の近隣に住むことも多かったが、一方身分の低い藩士は町屋や村に近い場所に住んでいた。佐倉の武家屋敷の身分の違う3棟が移築して並んでいるが、一般的には隣接することないようだ。

 石高の違う3つの武家屋敷の様式などを、比較して見られたのは興味深い。佐倉城は、石垣でなく土塁で守られているが、武家屋敷も土塁というのは、共通の理由があるのだろうか。

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コメント

良く調べていますね。
感心しました‼️

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