国立歴史民俗博物館(先史・古代)
2020年2月1日(日)、千葉県佐倉市の「国立歴史民俗博物館」に行く。
「国立歴史民俗博物館」(略称「歴博」)は、日本列島に人類が登場した旧石器時代からの第1展示室、そして現代の第6展示室までの考古学・歴史学・民俗学の総合博物館。
3年前に「歴博」を訪れた時、第1展示室「原始・古代」はリニューアル中のため、残念ながら閉室していた。今回、「先史・古代」と名を変えた第1展示室を中心に観覧する。
9:50四街道インターで東関東道を降り、10:07「歴博」の駐車場に到着。
10:15、入館(入館料600円)。
■第1展示室(先史・古代)のエントランス。
1983年の開館以来、はじめて第1展示室の「原始・古代」展示を大幅に見直し、2019年3月19日に「先史・古代」と名称を改めリニューアルオープンした。
プロローグ: 人類の進化の様子を猿人、原人、旧人、新人の段階に分けた概念図。
この第1展示室は、以下のテーマから成る。
Ⅰ 最終氷期に生きた人々
Ⅱ 多様な縄文列島
Ⅲ 水田稲作のはじまり
Ⅳ 倭の登場
Ⅴ 倭の前方後円墳と東アジア
Ⅵ 古代国家と列島世界
副室1 沖ノ島
副室2 正倉院文書
Ⅰ 最終氷河期に生きた人々
4万年前の最終氷河期の森。ナウマン象もいた。
列島に到達した最初の人々。沖縄県の港川で見つかった2万年前の「港川1号人骨」。
狩猟採集民とその遊動生活。皮をなめしたり石器づくりの人々のリアルな模型。
Ⅱ 多様な縄文列島
縄文文化の時代:縄文人のすがた・かたちは、男162cm、女149cm、手足が長く丸顔、鼻が高く、あごのエラが張っている。
縄文人の登場:縄文人は丸顔で彫りが深い等の特徴を持つが、同時期に中国大陸にはこれらの特徴を持つ人は確認されていない。
縄文文化の地域性:定住生活により西と東で土器の形が違うなど、地域ごとの文化が発達した。
定住生活の進展:縄文人のメジャーフード。季節ごとに何を食べ何を貯蔵するか、計画的に食料を調達していた。
縄文人の家族と社会:縄文人の一生。13~18歳で成人儀礼を受け、成人の証しの抜歯や入れ墨。16~20歳で結婚。50歳くらいで一部の人は集落のリーダーとなり、60歳くらいで第一線を退いた。
三内丸山遺跡(青森市)の家屋の復元模型。6000年~4500年前。
縄文人の祖霊祭祀:一度埋葬された遺体を一個所に寄せ集めて祖霊を祀り、人々のつながりを強化した。
縄文人の「おそれ」・「いのり」・「まつり」の展示。
輪になるように石や石棒が立てられ、「いのり」の場として使われた。
Ⅲ 水田稲作のはじまり
紀元前10世紀後半、新天地を求めて朝鮮海峡を渡って、北九州や薩摩半島にやって来る人々が現れた。
水田耕作は北九州でしばらく留まった後、紀元前8世紀末頃から南へ、北へと日本列島に一気に拡散した。
出土した頭の骨を元に、当時の女性を再現。
Ⅳ 倭の登場
弥生時代の人々、つまり倭人が1、2世紀頃の中国の歴史書に登場する。
倭が、「漢委奴国王」の金印を手にする。(写真は、パンフから転載)
Ⅴ 倭の全方後円墳と東アジア
3~7世紀に築かれた約5,200基もの前方後円墳は、日本の様式だが朝鮮半島にも似たような古墳があったという。
倭の境界と周縁:北縁の岩手県中部から北は縄文文化を続ける人々がいたり、南縁の南九州は独自の文化が見られる。
Ⅵ 古代国家と列島世界
仏教が伝来し、寺院の建立によって権力を表すようになり、古墳時代は終末を迎える。
飛鳥京、難波京、藤原京の王宮が出現。
平城京を象徴する「羅城門」の模型。701年大宝律令が制定、古代国家が誕生する。
古代国家の北、多賀城は政庁と外郭(城柵)から構成された。
古代国家の南には、太宰府を設置し西海道を支配した。左下は、太宰府政庁の鬼瓦。
副室1: 沖ノ島
福岡県の孤島「沖ノ島」では、4~9世紀(500年間)に航海の安全を祈る祭りが行われた。2017年に世界遺産に登録。
島には海外から宝物が運び込まれており、盛んな国際交流があった。実物大の祭祀遺跡の模型で、当時を体感できる。
副室2: 正倉院文書
役所の文書や文具まで残されている奈良・東大寺正倉院の模型。左端は、国の平安を祈り写経を奉納する写経生の模型。
「正倉院」は、奈良・天平時代を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた建物。1997年に国宝に指定、翌1998年に「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産登録。
12:00前に、駆け足だったが2時間かけて、第1展示室(先史・古代)を見終わる。
12:00~12:50、レストラン「さくら」で昼食(古代カツカレー1,030円)、休憩。午後から、第2展示室(中世)~第6展示室(現代)を観覧することにする。
本ブログの関連記事「国立歴史民俗博物館」 2017年3月7日投稿
http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-b174.html
本ブログ記事「国立歴史民俗博物館(中世~現代)」に続く。
★ ★ ★
「歴博」のパンフレットによれば、「先史・古代」を対象とする時代は、3万7千年前に日本列島に人類が出現してから、7世紀末~8世紀初頭に古代国家が成立後、10世紀に中世の姿を見せ始める(「平安時代」中期)迄だという。「歴博」の先端的研究が明らかにした先史時代の新しい年代観にもとづき、リニューアル後は約3500年さかのぼった土器の出現、約500年さかのぼった水田稲作のはじまり、開館時には明らかにされていなかった調査成果をふまえた新しい歴史展示になっているという。
また「歴博」の民衆生活・環境。国際交流という3つの基調テーマ、そして多様性・現代的視点という2つの視点をもとに、中国・朝鮮や北海道・沖縄との関係を重視した展示になっていたのは、目新しい。
「歴史時代」(有史時代)以前の歴史区分に、「先史時代」というのは昔からあった。しかし昔の学校教科書には「原始時代」と書かれていた。「原始」とは、人類の進化・発展段階において一番初期の段階で、文明社会に対する未開・野蛮というニュアンスもあった。現在は「原始」という概念は学術的には使われず、「先史時代」または「原史時代」などと呼ばれていて、改めて認識する。また「原始人」という表現も、アウストラロピテクス属などと人類の属名を用いて分類するように変わっているそうだ。
また日本史の「古代」は、古墳時代または飛鳥時代から平安時代までとされていた。古代国家(ヤマト王権)の形成時期をめぐっては、見解が分かれており、3世紀、5世紀、7世紀の各説があるそうで、今でもはっきりしない。「中世」は武士の時代と思っていたが、中世の初め、つまり「古代」の終りも様々な見解があるとは知らなかった。政治権力の分散、武士の進出、主従制、荘園公領制の確立といった中世的な特徴が出現する11世紀後半(鎌倉時代の開始前)までというのが主流だそうだが、律令制から王朝国家体制に移行する平安中期(900年頃以降)とする意見もある。「平安時代」を「古代」と「中世」のどちらに分類するかは、いまだに議論が分かれるそうだ。
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