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2020年2月の7件の投稿

2020年2月26日 (水)

ハウステンボス2020-その2

 2020年2月20日(木)、昨年に引き続き長崎県佐世保市のテーマパーク「ハウステンボス」に行く。

 本ブログ記事「ハウステンボス2020ーその1」の続き。

 

 ハウステンボスの南端にあるパレスハウステンボスにいった後、アムステルダムシティに戻る。

●ギアマンミュージアム

 15:30~アムステルダムシティのスタッドハウスで、「ギヤマンミュージアム」を観覧。世界各地からガラス工芸品を集めた美術館。

 ミュージアム入口の展示。

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 シャンデリア 1940年 フランス

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 最上階に上がると教会の祭壇のような雰囲気の展示場。

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 セイレン皿 ルネ・ラリック作 1920年 フランス

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 神話図双耳壺 1860年 ボヘミア(チェコ)

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●白い観覧車

 アートガーデンで、16:25~白い観覧車に乗る。意外に空いていてすぐ乗れた。ハウステンボスの町並みを一望。所要時間は11分。

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 夜は、ハウステンボスの夜景が楽しめるので、観覧車は混み合いそうだ。

●ファイヤーパフォーマンス

 17:30~炎を操るパフォーマー集団による迫力のファイヤーパフォーマンス。後方は、光のドラゴンロボット。

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 少し薄暗くなってはいるが、まだ日没(当地では18:10頃)前でファイヤーショーとしては、迫力に欠けて残念。

 10分間のショーで、この後も閉園の21時までの間にあと3回実演されるが、他の夜のショーもあってもう一度見るのは無理。

 ●ウォーターマジック

 フラワーロードに戻る。8:30~ウォーターマジックは、日本最長の音楽噴水ショー。10分間、光と水が躍動する。

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●光の王国

 暗くなって、ハウステンボスは世界最大の1,300万球のイルミネーションの「光の王国」。

 再びアートガーデンに戻り、光の滝・ブルーウェーブ。幅60mの滝から流れた光は、広大な海へ。

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●運河パレードショー

 運河の前で、パレードが来るのを待つ。昼間は、2,3日前に比べて晴れていて暖かかったが、さすがに夜になると寒い。

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 19:00~光と音楽の運河パレードショーが始まる。

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 デッキではミュージシャンたちが生演奏。

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 昨年は、延々と船のパレードが続いたが、今年は数隻で終わり、ちょっと物足りなかった。

 アートガーデンで輝く光の中を、出国ゲートに向かって歩く。

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 19:30、ハウステンボスを出国。この日の歩数計では、約1万6千歩。園内をおよそ10Km近く歩いたことになる。

 19:44ハウステンボス駅発、長崎行きの普通列車に乗車。

 本ブログの関連記事

 「ハウステンボス」 2019年2月28日投稿

   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2019/02/post-7cf9.html

 

 ★ ★ ★

 「歌劇 ザ・レビュー ハウステンボス」(以下、HTB歌劇団)は、女性のみの出演者によってレビューやミュージカルを上演する歌劇。2017年9月「ハウステンボス歌劇団」から名称を変更した。劇団はハウステンボス株式会社の一部門で、ハウステンボス内の劇場「ミューゼホール」と愛知県蒲郡市にある系列のリゾート施設「ラグーナテンボス」の劇場を中心に公演を行っている。3月27日には、3カ所目の新しい劇場が福岡市にオープンするとう。複合商業施設「アイランドアイ」(福岡市東区)内に造られる。

 各演目において男役のトップスターが主演、トップ娘役がその相手役を務めるなど、衣装やメークなども宝塚歌劇団やOSK日本歌劇団(旧大坂松竹歌劇団)と演出が似ている。劇団員たちは、「チーム輝(シャイン)」、「チーム華(フラワー)」、「チーム凜(ハート)」、「チーム翔(ウィング)」「チーム奏(ハピネス)」の5つのチームに編成され、チームごとに異なる演目のレビューやミュージカルを上演するという。

 ハウステンボス内にある「ミューズホール」がHTB歌劇団のホーム劇場。当初は、ホール自体は入場無料、全席自由席で写真撮影や録画・録音等は自由であったが、現在は歌劇団公演時は有料席と無料席が設けられ、写真撮影や録画・録音等は禁止となった。自由席では入園料の他に追加料金はかからない。終演後にDVDやグッズが販売され、購入すると特典として出演者との握手と写真撮影が可能。

 劇場での公演以外にも、ハウステンボス内のパレード出演や、不定期だが国内外の各地施設での公演・イベント出演なども行っているそうだ。またハウステンボスでの公演時には、ファンが劇団員と接触できるように、舞台用メイクを施した状態で楽屋と劇場の間を徒歩で移動していた。公演の最後には毎回、出演者全員でテーマソングである『夢の扉〜welcome HUIS TEN BOSCH〜』を歌う。

 HTB歌劇団は、2013年7月に宝塚歌劇団やOSK日本歌劇団の出身者を中心に集めて結成された。ハウステンボス内の野外劇場で行われる30分間程度のレビューショーとして公演を開始。園内に常設劇場の「ミューズホール」が2014年1月に完成した後は、屋内公演になった。2014年7月からは「チーム光(ひかり)」と「チーム花(はな)」の2チーム制。宝塚やOSK出身者以外のメンバーはオーディションで選ばれ、やがて「チーム心」では宝塚やOSK出身者ではないトップ男役が誕生した。また2014年5月には、劇団の養成所「ハウステンボス歌劇学院」(2年制)が開校、アマチュアを一から育てる人材育成を開始。学院の第1期生が卒業・初舞台を踏んだ2015年4月以降は、学院出身者が多く配属されている。現在、2020年5月入学の第7期生徒の第3回目の募集中である。

ハウステンボス2020-その1

 2020年2月20日(木)、昨年に引き続き長崎県佐世保市のテーマパーク「ハウステンボス」に行く。

 

  早岐行きの普通列車、10:02ハウステンボス駅着。

 10:20、ハウステンボスに入国。

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●フラワーロード

 チューリップと風車の風景。アトラクションタウンへ向かう。

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●アトラクションタウン

 カラフルな傘が並ぶアンブレラストリート。

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 ロボットの館とKirara(キララ)館の建物の前には、映画『THE NEXT GENERATION パトレーバー』(2014年4月公開)に登場した全高約9mの実物大パトレーバー。実際に撮影で使用された立像タイプが展示されている

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 アニメのことはよく知らないので、つい「ガンダム」かと思ってしまう。これはヘッドギアとういうグループの原作、1988年以降に発表されたを近未来の東京を舞台とした警察ロボットのアニメ、漫画、小説、ゲーム、実写などのメディア・ミックス作品『機動警察パトレイバー』。

 ロボットの館の隣は、ミューゼホール。昨年は、このミューゼホールでミュージカルを自由席で観覧した。

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 この日は、11:20~「歌劇ザ・レビューハウステンボス」のチームシャインによる『ザッツ レビューショー ~One more time~』が開演30分前だが、自由席(無料)を求めてすでに列を作っていた。

 自由席(無料)の列に並ぶ。ちなみにプレミアム席1,000円、SS席500円。

 平日だからだろうか、入ってみると意外に空いていて、前の方に列に並んでいたので、良い場所に座れた。

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 11:30~12:15『ザッツ レビューショー ~One more time~』は、歌と踊りが次々と繰り出すバラエティショー。この日はチーム輝(光?、シャイン)というチームの公演で、出演者は全員で10数人くらいだろうか。男役の”青蘭(せいら)そら”が、トップスター。

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 会場内は、撮影禁止。終了後はDVDやグッズなどの販売が行われていて、購入者はスターと記念写真撮影が出来るようだ。『ザッツ レビューショー~one more time~』の公演は、2/5(水)~ 3/9(月)。

 アトラクションダウンにあるカフェテラス「エバーカフェ」(佐世保バーガー認定店)で、佐世保バーガー850円とドリンク300円で昼食。

●アムステルダムシティ

 12:55~マスカレード・ストリート・パフォーマンスショー。フラフープのパフォーマンスが、アムステルダム広場の舞台で行われていた。

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 そのあと13:10~仮装舞踏会バーティ。参加型のダンスイベントで、常連客と思われる人たちが、舞台の前の方に陣取って仮面をしたダンサーと一緒に踊っていた。

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 アムステルダム広場前のチューリップ。 

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 ホテルアムステルダムの前のチューリップ。

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●タワーシティ

 高さ105mのシンボルタワーのドムトールン。昨年は、展望台(高さ80m)に登った。

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●パレスハウステンボス

 ハーバータウンの一番奥(ハウステンボスの一番南)にある「パレスハウステンボス」に行き、13:40に入館。

 17世紀にハーグの森に建てられ、オランダ王室の所有する4つの宮殿の一つ。1981年からオランダのベアトリクス前女王の住まいになっている宮殿の外観を、オランダ王室の特別のご許可をいただいて忠実に再現。

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 夜には宮殿壁面で、3Dプロジェクションマッピングが行われるそうだ。

 パレスハウステンボスの宮殿内では、展示会がいくつか催されていた。

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●お菓子の美術展

 13:50~「 お菓子の美術展」を鑑賞。本物のようにつくられたカラフルなキャンディ、スウィーツなどを用いた現代美術作品を制作する芸術家・渡辺おさむの作品200点以上の個展。会場内はすべて撮影可能。本物そっくりで、とてもお菓子が材料とは思えない作品も多い。

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●大胡蝶蘭展

 14:05~「大胡蝶蘭展」を鑑賞。昨年は時間の都合で見れなかったが、今年も日本最多200品種の『大胡蝶蘭展』が開催。カラフルな蘭など、様々な品種の胡蝶蘭を楽しめる。

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 ピンク・黄色・白など、春らしい彩りの鮮やかな蘭に包まれるトンネル。

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●黄金の館

 14:20~「黄金の館」を鑑賞。壁も天井も床も金箔を1枚1枚貼った黄金の部屋、総額8億円の黄金の館。

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 正面に、地球上で最も小さくて最も高額な宝石・ミャンマー産天然ルビーが展示。小判や干支、仏像、仏具など、輝く金の工芸品が160点。

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 部屋の中央には、黄金のピラミッド。透明なブラスチックの箱に入った、1本6,000万円相当の純金インゴットを片手で持てるようになっているが、重さ約12.5Kgもあってとても持ち上がらない。

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●パレスハウステンボスの庭園

 宮殿の後ろ側には、広大なオランダ・バロック式の庭園が広がっている。夜には光のオーケストラ「ジュエル・イルミネーションショー」、庭園全体が音楽に合わせてイルミネーションが点滅するという。

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 庭園を囲む生垣は、永遠(とわ)のアーチ。

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 宮殿の「蘭カフェ」で休憩、ソフトクリーム550円。高いけどとても美味しい。

 

 本ブログ記事「ハウステンボス2020ーその1」の続き。

 

2020年2月23日 (日)

有明海と諫早干拓堤防

  2020年2月18日(火)、長崎県諫早市の小長井町に行き、牡蠣焼きを食べ諫早湾干拓堤防道路をドライブ。

 

 諫早市の市街地を車で通り抜け、長崎本線と平行に走る国道207号線を佐賀方面に向かって北上。やがて有明海を右手に見ながら、諫早市街からおよそ30分ほどで、佐賀県との県境に近い諫早市小長井町遠竹。

 有明海を望む。左手の島は、佐賀県藤津郡太良町の竹崎島。周囲4Kmの火山島だという。

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 11:00頃、「牟田商店」の牡蠣小屋に入る。

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 「牟田商店」は、自家製粕漬けや海鮮の販売、海鮮の炭火焼や釜めしの食事処。

 手前にある牡蠣は、1かご1,000円。

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 昨秋の台風の影響で、小ぶりだという牡蠣やサザエなどを堪能する。

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 12:10牡蠣小屋を出て、元来た国道207号線を南下する。

 諫早市高木町で左折し島原・雲仙方面へ、諫早干拓の潮受け堤防の上を走る道路を進む。この堤防道路は、「雲仙多良シーライン」と呼ばれる国道251号線で、諫早市高木町と雲仙市吾妻町を結ぶ。

 諫早干拓堤防の北部排水門。

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 12:35、堤防の中央付近に駐車場やトイレのある休憩所がある。展望所へ渡る歩道橋もある。

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 展望所から南東の方角、島原半島の雲仙方面を望む。堤防の右手の濁った色が「調整池」、左手が有明海。

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 雲仙岳の主峰・普賢岳(標高1359m)が見える。

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 反対側は北西の方角、佐賀県との県境の多良山系。左手は「調整池」。

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 中央がテレビ塔が建つ五家原岳(標高1057m)。右手奥が多良岳(標高996m)だろうか。昨日の雪で冠雪している

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 休憩所には、ちょうど菜の花が咲いていた。秋には彼岸花が咲くという。左手が「調整池」。

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 南西の方角、「調整池」の向こうに干拓地、諫早市街。堤防で仕切られた広大な「調整池」は、「池」といっても「湖」のよう。

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 休憩所には、諫早湾干拓事業のや関連施設の説明板が立っていた。

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 説明板によると、事業に農地創設は672ha(主に畑作)、「調整池」の面積は2,600ha。諫早湾は元々遠浅だったところなので、「調整池」の水深は深い所でも約3.5mしかないそうだ。

 説明板の内容を要約すると、以下のようである。

 有明海は浅い海で、潮の満ち引きの差も6mと大きく、干潮時には沖合へ5~7Kmほどの干潟が現れるという。干潟には多いところで年々5cmの「ガタ土」が溜まるため、陸地の排水が難しくなるそうだ。有明海は、江戸時代以前から干拓が行われており、干拓と同時には排水をよくする取り組みが続けられてきた。

 しかし大雨や台風にょる高潮などで、これまで陸地では浸水、洪水の被害を受けてきた。諫早干拓の潮受堤防は、「調整池」を標高-1mに保たれていて、満潮や高潮の時も陸地の排水が出来るように排水門を開閉して水位を調整するという。

 更に堤防道路の南部水門を取り過ぎ、島原半島へ進む。

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 12:55、全長8Kmの干拓堤防道路を渡り切り、雲仙市吾妻町。島原鉄道に沿った国道251号線を走り、諫早市街へ。

 

 本ブログの関連記事

 「雲仙・普賢岳2015」 2015年11月10日投稿

  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/2015-ba2a.html

 「雲仙・普賢岳」 2011年11月3日投稿

  http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-fc3f.html

   

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●小長井町(こながいちょう)

 北高来郡小長井町は2005年(平成17年)3月、諫早市、多良見町、森山町、飯盛町、高来町と合併して新しい諫早市となり、自治体としての小長井町は消滅した。そもそも小長井は、1889年(明治22年)に小川原浦村・長里村・井崎村の3村が合併し、それぞれの頭文字を取って北高来郡小長井村が成立。1966年(昭和41年)町制施行し、小長井町となった。 

 国道207号線沿いには、フルーツをかたどった「フルーツバス停」を散見した。地元ではお馴染みのこのバス停設置のきっかけは、1990年に開催された「長崎旅博覧会」で、長崎県の玄関口として訪れる人たちの心を和ませるため、当時の小長井町が整備したもの。

 グリム童話のシンデレラに登場するカボチャの馬車が、このアイディアのヒントになったという。イチゴ、メロン、ミカン、スイカ、トマトの5種類16基のフルーツを模したバス停が、国道沿いを中心に設置されているそうだ。

 インスタ映えするので写真を撮る観光客もいるようだが、撮りそびれたのでウィキペディア・コモンズから転用する。

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●高来町(たかきちょう)

 高来町は、長崎県北高来郡にあった町。2005年(平成17年)3月、諫早市、多良見町、森山町、飯盛町、小長井町と新設合併し、新市制による諫早市の一部となり、自治体としての高来町は消滅した。

 そもそも高来町は、1889年(明治22年)の町村制施行により、北高来郡のうち、湯江村(湯江村・宇良村が合併)、小江村(小江村・犬木村が合併)、深海村(深海村・藤田尾村が合併)の3村が発足。1955年(昭和15年)、湯江村が町制施行し湯江町となる。1956年(昭和31年)、湯江町、小江村、深海村が1町2村が合併し、高来町となった。山域に多良岳県立公園が含まれる。

 

●吾妻町(あづまちょう)

 吾妻町は、長崎県の島原半島にあった町で、南高来郡に属した。2005年10月に周辺の国見町、瑞穂町、愛野町、千々石町、小浜町、南串山町の6町と合併し、雲仙市として市制施行。吾妻町は自治体として消滅した。現在、旧吾妻町役場に雲仙市役所本庁が置かれている。

 そもそも吾妻町は、1889年(明治22年)の町村制施行により南高来郡のうち、守山村(守山村・三室村が合併)、山田村(単独村制)の2村が発足。1954年(昭和29年)に守山村と山田村が新設合併して吾妻村が発足。村名の由来は、地域内にある吾妻岳にちなむ。1963年(昭和38年)、 吾妻村が町制施行し、吾妻町となった。特産品は、雲仙牛、ブロッコリー。

 

●諫早湾干拓事業

 干拓と埋め立ては違う。干拓は干潟や水深の浅い海を堤防で囲い込み、排水してやがて干上がり、陸地が開かれる。埋め立ては、堤防で囲った水を抜きながら、土砂や廃棄物を埋めて土地をつくる。干拓地は干上がった後、時間をかけて塩分を抜いて農地に、埋め立て地は工場や住宅地に利用される事が多い。干拓地は、特に満潮時には海水面より低い。

 諫早湾は、有明海の中央西岸に位置する。その湾を横断する干拓堤防道路「雲仙多良シーライン」は、諫早湾の干拓事業に伴って湾を締め切る為に造られた潮受堤防の上を走る道路で、2007年に開通。地元では「ギロチンロード」とも呼ばれるようだ。

 そもそも諫早湾の干拓事業が動き始めたのは、まだコメ不足や食糧難という事が叫ばれていた戦後間もない1952年(昭和27年)。当時の長崎県知事西岡竹次郎が、山が多い長崎県の平地を広げ、当時の食糧難を解決するために「長崎大干拓構想」として発案。

 広大な干拓地が得られ、農地の冠水被害(塩害)を防ぎ、農業用水も確保されるとされた。諫早を流れる本明川は数年に1度の頻度で氾濫、住民は水害に悩まされたと聞く。1957年(昭和32年)には500人以上が犠牲になった「諫早大水害」は記憶に残る。当時諫早市内には、水害を防ぐために多数の水門が備えられていた。見張り役が立って水門を開閉をしていたが、台風襲来時などは危険な仕事だった。また干潟では川の排水を促すために、大勢の住民が人力で「みおすじ」と呼ばれる溝堀り作業が行われていた。

 当初の計画では、諫早湾の11,000haを締め切って巨大な干拓地を造るものであった。しかし予算の関係で規模を1/3に縮小、農水省が実際に工事に着工したのは1989年(平成元年)。もはやコメ不足どころか減反政策により、米の生産調整がされるような時代。公共事業が一度動き出すとなかなか止められないのが国のやり方、「無駄な公共工事」と叫ばれている事例も全国各地にある。諫早湾には潮受堤防が建設され、1997年(平成9年)4月に堤防の水門が閉じられた。その10年後の2007年(平成19年)11月に完工式が行われ、12月に堤防道路が開通した。

 当然、干拓事業によりその恩恵を受けている農業者も多い。干拓堤防道路の休憩所にあった「諫早干拓事業」の説明板を見れば、大雨や高潮などの災害から地域を守るという大きな役割があるのは確かだろう。しかし一方で、諫早湾や有明海の環境破壊、生態系の大きな変化など、漁業者など被害を受けている人も多い。

 「開門だ」、「開門するな」、被害賠償支払い請求、制裁金支払い請求などの裁判の争いは、今もなお続いている。干拓事業の推進派、反対派、どちらが正しかったのか。干拓事業はどうあるべきだったのだろうか。いずれにせよ、何十年も争いが続く国の政策や事業は、成功したとは言えないのではないか・・・、考えさせられる。

 

2020年2月22日 (土)

ミライon図書館

 2020年2月15日(土)、昨年10月に開館した「ミライon図書館」に行く。
 

 「ミライon(みらいおん)図書館」は、「長崎県立長崎図書館」と「大村市立図書館」の共同運営図書館。

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 「長崎県立長崎図書館」は、1912年(明治45年)に創設。1960年(昭和35年)に建て替えられた後、老朽化が進み年々増加する資料の保管の能力をはるかに超えたため、新たな建設が望まれていた。

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 長崎市にあった「長崎県立長崎図書館」を移転して、大村市の「大村市立図書館」や「大村市民会館」の敷地に県立・市立一体型の図書館施設「ミライon図書館」として2019年1月竣工、同年10月5日にオープンした。

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 都道府県と市町村が共同運営する図書館は、高知県の「オーテピア高知図書館」以来の全国では2例目だそうだ。九州の県立図書館としては、収蔵能力最多の202万冊を誇る。開館時の蔵書数は、約125万冊でうち開架図書は25万冊。

 

 10:00頃入場。

 建物は6階建だが、一般利用者の入館は4階まで。天井や書架には長崎県産の木材が使われていて、優しく温かみのある雰囲気。

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 1階は、こども室(児童書の書架4万冊、閲覧席101席)、多目的ホール(200名収容)、カフェ「cafe miraino」、「大村市歴史民俗資料館」など。

 2階は、学習スペース(104席)、研修室(76名収容)、グループ学習室(6名×4室)など。

 下の写真は、吹き抜けの3階から撮影。下半分は2階の学習スペース、上半分は1階のこども室。

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 3階は、一般資料の開架・閲覧スペース(一般書約21万冊、閲覧席231席)。

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 4階は、資料閲覧スペース(閲覧席116席)など。

 

 石井筆子が愛用した「天使のピアノ」のレプリカが、1階のサブエントランスに設置されている。

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 エントランスの壁には、近代を拓いた大村の人々のパネル展示。

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 右から黒板勝美(教育)、荒木十畝(美術)、長岡半太郎(科学)、石井筆子(教育)、長岡安平(造園)、長与専斎(医学)、楠木正隆(政治)、渡辺清・昇(政治)。

 

 1階に併設の「大村市歴史資料館」。 

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 「大村市歴史資料館」は、大村藩や大村家関係の古文書等を保管・展示するため、1973年(昭和48)に開館。以後、大村に関する歴史資料の収集、調査、展示を行っている。所蔵資料は、1万数千点。

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 資料館は、「プロローグ展示」、「シアター」、「常設展示室」と「企画展示室」から構成されている。

 「プロローグ展示」は、多くの人を引き寄せ賑わい作り出す資料館の入口。床には、大村湾を中心とした大村藩に相当するエリアの航空写真(写真なし)。

 「シアター」では、デジタルコンテンツ「南蛮屏風図 天正遣欧少年使節」を映写。

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 戦国時代の長崎などでの南蛮貿易を描いた南蛮屏風をモチーフに、織田信長、豊臣秀吉や大村純忠などの歴史上の人物たちが登場する。コンテンツに触ったり、スマホを使って遊んだりと参加して楽しむことができるそうだ。

 また、映画「遥かなる天正遣欧少年使節」を毎時00分と30分から、8分間上映。バチカンロケを行った天正遣欧少年使節のドラマ「MAGI-遣欧天正少年使節」(2019年公開、野村周平主演)のダイジェスト版のようだった。学芸員の話では、少年使節が実際にローマ教皇に謁見を行った「帝王の間」の撮影は、国内初だという。

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「常設展示室」は、説明パネルや歴史資料のほか、ジオラマや映像、情報検索システムなどがある展示室。大村の歴史全体を楽しく知ることができる。

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 「企画展示室」では、「新収蔵品展」が1月11日(土)~2月24日(月)で開催中。

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 近年収集した坂本龍馬や桂小五郎から薩長同盟に尽力した大村藩士・渡辺昇にあてた手紙(渡辺清の交友関係を知る資料)、江戸時代に世界の人々を描いた「万国人物図」など初公開を含む展示。

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 11:30頃一旦退場して、館外で昼食。12:30過ぎに、再び入館。

 

 13:30~15:10、館内の多目的ホールで郷土史講演会「ミュージアムの将来~社会の中のミュージアム」を聴講する。

 ・報告「大村市歴史資料館の整備について」 大村歴史資料館 館長 今村明 氏 

 ・講演「ミュージアムの現在とこれから」 長崎県立美術館 館長 米田耕司 氏

  主催は、大村史談会、大村歴史資料館。

 15:30~学芸員による「大村市歴史資料館」の展示案内。

 

 学芸員の話で「ミライon図書館」から徒歩5分の「プラットおおむら」に、別館の「大村市近代資料室」があるという。

 「ミライon図書館」を退館して、アーケード街(旧長崎街道)の中心市街地複合ビル「プラットおおむら」の5階に行ってみる。16:30、「大村市近代資料室」に入場(入場料無料)。

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 明治から終戦後まで、近代大村の歩みを伝える新しい展示施設。

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 歩兵第46連隊や海軍航空隊、第21海軍航空廠と昭和17年の大村市誕生など、近代化の道を進んできた大村市の歴史的資料を展示。

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  16:45、退場。

 ★ ★ ★

●石井筆子について

 石井筆子(1861~1944年)は、渡辺清の娘。清は幕末の坂本龍馬や木戸孝允と交流があった志士で、明治政府では福岡県令や元老院議官などの要職を歴任し、男爵に叙せられた。

 筆子は、オランダやフランスに留学するなど優れた語学力を生かし、女性の教育と権利向上に貢献した。また、日本初の知的障害児社会福祉施設「滝乃川学園」(東京・国立市)の創立者・学園長の石井亮一と再婚、2代目学園長としても活躍した。

 「天使のピアノ」は、現存する日本最古のアップライトピアノだそうだ。演奏者の目の前に位置する上前板に、2人の幼児を抱いた天使がデザインされている。筆子はこのピアノでクリスマスなどに演奏を披露したとされ、現在でも同学園で使われているという。

 2007年には、石井筆子の生涯を描いた映画『筆子・その愛天使のピアノ』(常盤貴子主演)が製作・公開されている。

●大村市歴史資料館

 以前の「大村市立図書館」に併設された資料館がどんなものだったか知らないが、新しい資料館は郷土史を知る上では非常に分かりやすく、楽しく歴史を学ぶことができ、素晴らしかった。

 大村の歴史は、それぞれの時代の特徴的なポイントは、

 ・原始・古代:富ノ原の環濠集落遺跡、彼杵荘(そのぎのしょう)、仏教文化の隆盛、竹松遺跡。

 ・中世:大村氏の登場、戦国の世を生き抜いた大村氏、大村純忠と天正遣欧少年使節、キリシタン王国の時代。

 ・近世:大村藩260年間の歴史、隠れキリシタンと宗教政策、捕鯨で財をなした深澤義太夫、藩校の五教館、幕末を駆け抜けた大村藩士。

 ・近代:城下町から軍都大村へ。陸軍歩兵連隊、海軍航空隊、海軍航空工廠。

 などがあげられる。

 大村氏のはじまりは、大村家の系図では伊予国(愛媛県)から藤原純友の孫の直澄が、大村にやってきて大村と名乗ったと伝えられていた。昔読んだ郷土史や観光パンフレットには、そう書いてあった。どこか大村家の出自(しゅつじ)を権威づけるような系図は、捏造めいた感じがした。

 しかし最近の研究では、大村家は平安時代の藤津荘(現在の佐賀県鹿島市)の原一族と考えられているという。資料館の説明パネルでは、原一族は藤津郡から彼杵郡へと勢力を伸ばし、大村と名乗って大村を本拠地に有馬氏と争ったと書いてあった。

 

●ミュージアムの将来

 「ミライon図書館」の特徴は、閲覧や学習のスペースが多くとられていることだそうだ。その数はおよそ550席もあって、席ごとに(一部を除いて)専用の電源コンセントが目についた。パソコンを持ち込んで、勉強や仕事をするのにも便利。もちろんWi-Fiも完備。また1階のエントランスでは、お昼時になると飲食をしている人たちがいたのは驚いた。

 午後からの「長崎県立美術館」の米田耕司館長の講演は、面白かった。ミュージアムは、「市民のリビングルーム」であるべきだと言う。忙しい日常の中で、ホッとする場である。例えばミュージアムに、食事ができるカフェが必要だと主張。これまでの第一世代、第二世代のミュージアムに対して、「第三世代の博物館像」を提唱されている。話を聞いて目からウロコが取れる思いがした。

 例えば、第1世代は保存志向、第2世代は公開志向だったが、第3世代は参加・体験志向だという。これまでの閉鎖的で、難しくて、堅苦しい、暗いイメージは、最近あちこちのミュージアムを訪問した経験では、確かに変わって来つつあるのに気がつく。市民に参加してもらって、地域社会に開かれた、くつろげる自由なミュージアム。まさしく 「大村氏歴史資料館」や「ミライon図書館」もその将来を先取りした施設だった。ここでは、1階エントランスとカフェでは、食事が可能とパンフレットに書いてある。

 「文化芸術基本法」は、文化芸術に関する基本法として2001年(平成13年)に制定された。国や地方自治体は、文化芸術の充実を図る責務が定めるられたという。その実現のために「果報は寝て待て」ではなく、「果報は練って待て」と講演で米田氏は言う。ミュージアムは、地域の振興、活性化を果たす役割を担っているのだ。

 

2020年2月12日 (水)

国立歴史民俗博物館(中世~現代)

 2020年2月1日(日)、千葉県佐倉市の「国立歴史民俗博物館」に行く。

 本ブログ記事「国立歴史民俗博物館(先史・古代)」の続き。

 

 「国立歴史民俗博物館」(略称「歴博」)は、日本列島に人類が登場した旧石器時代から近代・現代まで、考古学・歴史学・民俗学の総合博物館。

 3年前にここを訪れた時は、第1展示室「原始・古代」はリニューアル中のため閉室。今回は、午前中「先史・古代」と名を変えた第1展示室を中心に観覧した。

 昼食後の13:00~14:00、第2展示室(中世)~第6展示室(現代)は復習のつもりでわずか1時間でザッと見て回った。

 

■第2展示室(中世)13:00~

 平安時代の半ばから戦後期時代にかけて、テーマは、王朝文化(10〜12世紀)、東国と西国(12〜15世紀)、大名と一揆(15〜16世紀)、民衆の生活と文化(14〜16世紀)、大航海時代のなかの日本(15〜17世紀)、印刷文化(8〜17世紀)。

 王朝文化:入口からの展示風景。中央は、屋根飾りの「鴟尾(しび)」。右手は、藤原道長の邸宅「東三条殿」模型。

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 御帳台(右)と王朝貴族の服装。左から十二単(女性)、束帯(そくたい、男性の正装)、白の直衣(のうし、日常着)。

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 京都の町並み。四条室町付近。

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 大航海時代の日本:御朱印船の模型(17世紀)

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 民主の生活と文化:芸能と職人。手前は田楽の装束。奥は大鋸(おが)引き。初めて製材か可能となり建築に一大革新をもたらした。

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■第3展示室(近世) 13:15~

 近世は、江戸時代を中心(16世紀末~19世紀半ば)に、人びとの生活や文化を紹介。テーマは、国際社会のなかの近世日本、都市の時代、人と物の流れ、村からみえる「近代」、絵図・地図に見る近世、寺子屋「れきはく」。

 都市の時代:江戸橋広小路の模型。日本橋と江戸橋の間の南側一帯。江戸の中心部の町。

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 人と物の流れ。多くの道しるべが建てられた。

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 北前船は、大阪と蝦夷地を結ぶ長距離航路で活躍。

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■第4展示室(民俗) 13:25~

 人びとの生活のなかから生まれ、幾多の変遷を経ながら伝えられてきた民俗文化を展示。テーマは、「民俗」へのまなざし、おそれと祈り、くらしと技。

 おそれと祈り:右は、能登の宇出津(うしつ)あばれ祭りの神輿。中央は、沖縄県八重山地方の西表島節祭(しち)では中国伝来の龍船競争も行われる。

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 死と向き合う:佐渡の五十回忌棚飾り。奥に見えるのは、安らかなくらし:移動式の神前結婚式祭壇(東京、明治の終わり頃)。

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 なりわいと技:カツオ一本釣り漁船「竜王丸」。

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 里のなりわいと技の展示。

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■第5展示室(近代) 13:40~

 19世紀後半の近代の出発(明治)から 1920年代(大正~昭和初期)までを、文明開化、産業と開拓、都市の大衆の時代の3テーマで構成。

 文明開化:山梨県に建てられた擬洋風建築の小学校。人々の献金で建てられた。

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 文化住宅の台所。関東震災以後に中流向け家庭のために造られたアパートの台所。水道・ガス完備。

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 都市の大衆の時代:大正~昭和の浅草の町並み。

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■第6展示室(現代) 13:45~

 1930年代から1970年代(昭和5年~昭和45年)までを、戦争と平和、戦後の生活革命の2テーマで構成。

 戦時生活:人生画訓

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 占領下の生活:闇市、露天の実物大の模型。

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 戦後の生活革命:1964年東京オリンピックポスター(左)、1960~70年代おもちゃ(右)。

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 14:05、「歴博」を退場。

 14:15「歴博」の駐車場を出発、佐倉の城下町を巡る。

 本ブログ記事「城下町佐倉」に続く。

 

 本ブログの関連記事「国立歴史民俗博物館」 2017年3月7日投稿

   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-b174.html

 

 

国立歴史民俗博物館(先史・古代)

   2020年2月1日(日)、千葉県佐倉市の「国立歴史民俗博物館」に行く。

 

 「国立歴史民俗博物館」(略称「歴博」)は、日本列島に人類が登場した旧石器時代からの第1展示室、そして現代の第6展示室までの考古学・歴史学・民俗学の総合博物館。

 3年前に「歴博」を訪れた時、第1展示室「原始・古代」はリニューアル中のため、残念ながら閉室していた。今回、「先史・古代」と名を変えた第1展示室を中心に観覧する。

 

 9:50四街道インターで東関東道を降り、10:07「歴博」の駐車場に到着。

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 10:15、入館(入館料600円)。

 

■第1展示室(先史・古代)のエントランス。

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 1983年の開館以来、はじめて第1展示室の「原始・古代」展示を大幅に見直し、2019年3月19日に「先史・古代」と名称を改めリニューアルオープンした。

 プロローグ: 人類の進化の様子を猿人、原人、旧人、新人の段階に分けた概念図。

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 この第1展示室は、以下のテーマから成る。

 Ⅰ 最終氷期に生きた人々
 Ⅱ 多様な縄文列島
 Ⅲ 水田稲作のはじまり
 Ⅳ 倭の登場
 Ⅴ 倭の前方後円墳と東アジア
 Ⅵ 古代国家と列島世界

 副室1 沖ノ島
 副室2 正倉院文書

 

Ⅰ 最終氷河期に生きた人々

 4万年前の最終氷河期の森。ナウマン象もいた。

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  列島に到達した最初の人々。沖縄県の港川で見つかった2万年前の「港川1号人骨」。

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 狩猟採集民とその遊動生活。皮をなめしたり石器づくりの人々のリアルな模型。

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Ⅱ 多様な縄文列島

 縄文文化の時代:縄文人のすがた・かたちは、男162cm、女149cm、手足が長く丸顔、鼻が高く、あごのエラが張っている。

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 縄文人の登場:縄文人は丸顔で彫りが深い等の特徴を持つが、同時期に中国大陸にはこれらの特徴を持つ人は確認されていない。

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 縄文文化の地域性:定住生活により西と東で土器の形が違うなど、地域ごとの文化が発達した。

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 定住生活の進展:縄文人のメジャーフード。季節ごとに何を食べ何を貯蔵するか、計画的に食料を調達していた。

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 縄文人の家族と社会:縄文人の一生。13~18歳で成人儀礼を受け、成人の証しの抜歯や入れ墨。16~20歳で結婚。50歳くらいで一部の人は集落のリーダーとなり、60歳くらいで第一線を退いた。

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 三内丸山遺跡(青森市)の家屋の復元模型。6000年~4500年前。

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 縄文人の祖霊祭祀:一度埋葬された遺体を一個所に寄せ集めて祖霊を祀り、人々のつながりを強化した。

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 縄文人の「おそれ」・「いのり」・「まつり」の展示。

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 輪になるように石や石棒が立てられ、「いのり」の場として使われた。

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Ⅲ 水田稲作のはじまり

 紀元前10世紀後半、新天地を求めて朝鮮海峡を渡って、北九州や薩摩半島にやって来る人々が現れた。

 水田耕作は北九州でしばらく留まった後、紀元前8世紀末頃から南へ、北へと日本列島に一気に拡散した。

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 出土した頭の骨を元に、当時の女性を再現。

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Ⅳ 倭の登場

 弥生時代の人々、つまり倭人が1、2世紀頃の中国の歴史書に登場する。

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 倭が、「漢委奴国王」の金印を手にする。(写真は、パンフから転載)

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Ⅴ 倭の全方後円墳と東アジア

 3~7世紀に築かれた約5,200基もの前方後円墳は、日本の様式だが朝鮮半島にも似たような古墳があったという。

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 倭の境界と周縁:北縁の岩手県中部から北は縄文文化を続ける人々がいたり、南縁の南九州は独自の文化が見られる。 

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Ⅵ 古代国家と列島世界

 仏教が伝来し、寺院の建立によって権力を表すようになり、古墳時代は終末を迎える。 

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 飛鳥京、難波京、藤原京の王宮が出現。

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 平城京を象徴する「羅城門」の模型。701年大宝律令が制定、古代国家が誕生する。

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 古代国家の北、多賀城は政庁と外郭(城柵)から構成された。

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 古代国家の南には、太宰府を設置し西海道を支配した。左下は、太宰府政庁の鬼瓦。

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副室1: 沖ノ島

 福岡県の孤島「沖ノ島」では、4~9世紀(500年間)に航海の安全を祈る祭りが行われた。2017年に世界遺産に登録。

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 島には海外から宝物が運び込まれており、盛んな国際交流があった。実物大の祭祀遺跡の模型で、当時を体感できる。

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副室2: 正倉院文書

 役所の文書や文具まで残されている奈良・東大寺正倉院の模型。左端は、国の平安を祈り写経を奉納する写経生の模型。

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 「正倉院」は、奈良・天平時代を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた建物。1997年に国宝に指定、翌1998年に「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産登録。

 12:00前に、駆け足だったが2時間かけて、第1展示室(先史・古代)を見終わる。

 12:00~12:50、レストラン「さくら」で昼食(古代カツカレー1,030円)、休憩。午後から、第2展示室(中世)~第6展示室(現代)を観覧することにする。

 

 本ブログの関連記事「国立歴史民俗博物館」 2017年3月7日投稿

   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-b174.html

 

 本ブログ記事「国立歴史民俗博物館(中世~現代)」に続く。

 

 ★ ★ ★

 「歴博」のパンフレットによれば、「先史・古代」を対象とする時代は、3万7千年前に日本列島に人類が出現してから、7世紀末~8世紀初頭に古代国家が成立後、10世紀に中世の姿を見せ始める(「平安時代」中期)迄だという。「歴博」の先端的研究が明らかにした先史時代の新しい年代観にもとづき、リニューアル後は約3500年さかのぼった土器の出現、約500年さかのぼった水田稲作のはじまり、開館時には明らかにされていなかった調査成果をふまえた新しい歴史展示になっているという。

 また「歴博」の民衆生活・環境。国際交流という3つの基調テーマ、そして多様性・現代的視点という2つの視点をもとに、中国・朝鮮や北海道・沖縄との関係を重視した展示になっていたのは、目新しい。

 「歴史時代」(有史時代)以前の歴史区分に、「先史時代」というのは昔からあった。しかし昔の学校教科書には「原始時代」と書かれていた。「原始」とは、人類の進化・発展段階において一番初期の段階で、文明社会に対する未開・野蛮というニュアンスもあった。現在は「原始」という概念は学術的には使われず、「先史時代」または「原史時代」などと呼ばれていて、改めて認識する。また「原始人」という表現も、アウストラロピテクス属などと人類の属名を用いて分類するように変わっているそうだ。

 また日本史の「古代」は、古墳時代または飛鳥時代から平安時代までとされていた。古代国家(ヤマト王権)の形成時期をめぐっては、見解が分かれており、3世紀、5世紀、7世紀の各説があるそうで、今でもはっきりしない。「中世」は武士の時代と思っていたが、中世の初め、つまり「古代」の終りも様々な見解があるとは知らなかった。政治権力の分散、武士の進出、主従制、荘園公領制の確立といった中世的な特徴が出現する11世紀後半(鎌倉時代の開始前)までというのが主流だそうだが、律令制から王朝国家体制に移行する平安中期(900年頃以降)とする意見もある。「平安時代」を「古代」と「中世」のどちらに分類するかは、いまだに議論が分かれるそうだ。

2020年2月11日 (火)

城下町佐倉

 2020年2月1日(日)、城下町佐倉(千葉県佐倉市)を巡る。

 本ブログ記事「国立歴史民俗博物館(先史・古代)」(・・・現在、公開準備中)の続き。

 

 千葉県佐倉市の「国立歴史民俗博物館」に行った後、市内の「佐倉順天堂記念館」、最後の佐倉藩主だった堀田正倫の「旧堀田邸」、武家屋敷「旧川原家住宅」、「旧但馬家住宅」と「旧武居家住宅」を巡る。

 

●佐倉市立美術館 (佐倉市新町、14:20~14:25)

 市の中心部にある「佐倉市立美術館」に行く。

 1918年(大正7年)建築の「旧川崎銀行(現・三菱UFJ銀行)佐倉支店」のエントランスホールを保存・活用した美術館。設計者は、矢部又吉。千葉県指定文化財(有形文化財)。写真は、ウィキペディア・コモンズから転載。

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 ここは浅井忠のほか、荒谷直之介、香取秀真、津田信夫など佐倉市と房総ゆかりの作家を中心に収蔵している、というので興味があった。

 受付に行くと、入館料800円と高い。常設展は無料のはず。よく見ると、2020年1月25日(土)〜3月22日(日)、2階・3階の展示室で企画展「メスキータ展」が開催中。メスキータは初めて聞く名前だが、19世紀末から20世紀はじめにかけてオランダで活躍した画家、版画家、デザイナーだそうだ。  

 館内は、1階がロビー、喫茶コーナーと売店。2階は、原則的には常設展示室。3階は市民ギャラリー。ただし、企画展の実施時には2階・3階は企画展の展示室となるようだ。4階はハイビジョンホール、映像による絵画紹介。

 企画展の開催中は、常設展はなし。美術館を諦め、「佐倉順天堂記念館」へ移動する。

 なお佐倉には他に、3年前に観覧した印刷インキのDIC株式会社が運営する「DIC川村記念美術館」や、日本刀を専門に展示する「塚本美術館」などの美術館がある。

 

●佐倉順天堂記念館(佐倉市本町、14:35~15:17)

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 記念館の冠木門(かぶきもん)をくぐると、庭には順天堂の創始者・佐藤泰然(たいぜん、1804-1872)の胸像がある。

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 武家屋敷・旧堀田邸・佐倉順天堂記念館の3館を見学できるお得な「三館共通入館券」540円を購入して入館。ガイドの案内で見学。

 長崎で蘭方医学を学んだ佐藤泰然は、1838年(天保9年)江戸で蘭医学の「和田塾」を開く。1843年(天保14年)に弟子の林洞海に「和田塾」を譲り、佐倉に移住し蘭医学塾兼外科診療所「順天堂」を創設する。

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 佐倉に移住したのは、蘭学を奨励していた佐倉藩主・堀田正睦の招きのよるものとされる。泰然は、町医から藩医となる。

 「順天」とは、中国古書にある「天道に順(したが)う」、つまり「自然の理に従う」の意味。

 泰然は進歩的で行動力に富んでいて、書物だけの知識ではなく実際の診療に役立つ技術を習得する教育を目指し、多くの優秀な近代医学の門人が育った。また天然痘の新しい予防法の導入に力を入れ、普及させた業績も評価されている。

 手術道具の複製。(原品は、順天堂大学所蔵) 

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 手術の様子。当時はまだ麻酔は使ってなかった。

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 「療治定」の複製模型。つまり治療別の料金表。現在の外科、眼科、産婦人科に相当する。

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 佐倉順天堂の復元模型。「順天堂」の業績は全国に知られるようになり、全国各地から医学を志す者が多く集まった。

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 泰然は1859年(安政6年)病気を理由に、家督を優秀な弟子で養子の佐藤尚中(たかなか、1827-1882)に譲り隠居する。

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 尚中は、1861年(文久2年)長崎に留学、オランダ軍医ポンペに西洋医学を学ぶ。明治維新後の1869年(明治2年)、政府から要請されて大学東校(東大医学部の前身)に出仕、大学大博士 (学長) となる。また明治天皇の侍医をつとめた。1872年(明治5年)辞職し、翌年東京下谷(したや)に「順天堂」を開き、1875年(明治8年)に御茶の水に移した。 (現在の順天堂大学 )

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●旧堀田邸 (佐倉市鏑木町、15:17~16:00)

 最後の佐倉藩主だった堀田正倫(まさとも、1851-1911)の「旧堀田邸」に行く。

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 「旧堀田邸」の玄関棟。

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 明治の建築様式を残した旧大名家の純和風の木造住宅。玄関棟・座敷棟・居間棟・書斎棟・湯殿および土蔵、門番所の7棟が、2006年(平成18)に国の重要文化財に指定された。

 堀田正倫は、幕末の佐倉藩主で老中・堀田正睦(まさよし)の四男。安政6年(1859年)、父が井伊直弼との政争により排斥されたため、家督を譲られて藩主となった。

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 1871年(明治4年)の廃藩置県により佐倉を離れ、東京に移住した。明治17年(1884年)に伯爵に叙される。

 明治23年(1890年)佐倉に戻って、私立の農事試験場を設立し農業の振興や、佐倉中学校(現在の県立佐倉高等学校)の教育発展に寄与するなど地域の振興に尽力した。

 ちなみに長嶋茂雄は佐倉市生れで、佐倉高校の出身でよく知られているが、女子マラソンの小出義雄監督も佐倉市の出身、順天堂大学を卒業して佐倉高校でも教鞭を執っていた事は、初めて聞く。

 展示されていた写真は「堀田家農事試験事務所」とその前庭。庭園を含む一帯は、「旧堀田正倫庭園」(さくら庭園)として、2015年(平成27年)に国の名勝に指定された。

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 「旧堀田邸」と「堀田家農事試験場」の模型。

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 「旧堀田邸」は、農事試験場の敷地を含めると3万坪もあったという。現在の「旧堀田邸」と「さくら庭園」の敷地は、その1/3ほどの広さ。

 座敷棟の客座敷。「旧堀田邸」の各棟の床の間の裏に、トイレ(雪隠)があるのは珍しいそうだ。

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 座敷棟の向かいは、先ほど通って来た玄関棟。

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 座敷棟から庭園に続く。

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 他に、居間棟(1階)を見学。居間棟の2階部分、書斎棟は非公開。

 近代化の波が押し寄せた時代、旧大名家の上級住宅の多くは洋風または和洋折衷であった。「旧堀田邸」のように純和風の旧大名家住宅は、全国で三例(他に松戸市の戸定邸(旧水戸藩別邸)、鹿児島市の磯御殿(旧島津藩別邸))のみとも言われている。豪商や豪農のように華美に流れず、質実堅牢な建築とされる。

  

●武家屋敷 (佐倉市宮小路町、16:13~16:35)

 「旧河原家住宅」(千葉県指定文化財)、「旧但馬家住宅」(佐倉市指定文化財)、「旧武居家住宅」(国登録有形文化財)の3棟が公開されている。いずれも江戸時代後期の建築。城下町佐倉の面影を今に残す土塁と生垣の武家屋敷通りに面して、3棟が並ぶ。

 もともと「旧但馬家住宅」が、当時よりこの場所に建っていた。「旧河原家住宅」と「旧武居家住宅」が、それを挟んで移築されたという。

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  旧武居家住宅の裏手の駐車場に車を止め、武家屋敷通りを通って順路の旧川原家住宅に入る。

 

・旧河原家住宅(千葉県指定文化財)

 「旧河原家住宅」は、300石以上の藩士が住む大屋敷。

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 右手前は、井戸。

 

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 土間と畳縁(たたもべり)のない質素な茶の間。

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 「旧河原家住宅」は、市内に残る武家住宅の中で最も古いそうだ。

 座敷には畳縁がある。奥が客間。

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・但馬家住宅(佐倉市指定文化財)

 「旧但馬家住宅」は、100石以上の藩士が住む、規模は中屋敷。

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 「旧河原家住宅」に比べ、少し簡素な門。

 「旧但馬家住宅」だけが、もともとこの場所に建っていたもので、植栽や建物の形も当時のままだという。

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 垣根の左側は、菜園があったのだろうか。

 本物の甲冑が飾られていた。

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・旧武居家住宅(国登録有形文化財)

 「旧武居家住宅」は小知(しょうち)と呼ばれる藩士の小規模な屋敷で、門も更に簡素。小知とは少しの知行、わずかな扶持(ふち)のこと。

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 門が閉まっていて、「旧但馬家住宅」に庭から移動する。

 「旧武居家住宅」の建物は、良い写真が撮れなかったので、ウィキペディア・コモンズより転載。

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 移築・復元の時に茅葺き屋根だったが、維持の問題で銅葺きに変えられたそうだ。

 床の間に飾られた佐倉藩士の肖像写真。

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 移築復元の様子の写真や、出土した茶碗や皿など資料(写真にない)が展示してあった。

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 武家屋敷を後にして、16:45佐倉インターから東関東自動車道、帰路へ。

 

 ★ ★ ★

・堀田正睦

 以前から、順天堂大学や順天堂病院の発祥の地が、佐倉というのは聞いたことがあったが、今回初めて詳しいことが分かった。蘭方医の佐藤泰然が佐倉に来た理由は諸説があるらしいが、堀田正睦が佐藤泰然を江戸から招聘したのは当然の事だろう。

 佐倉藩主で老中の堀田正睦は、老中首座の水野忠邦を補佐して「天保の改革」を推進したが挫折、忠邦と共に辞任する。正睦は、蘭学に傾倒して「蘭癖(らんぺき)」と称された。藩政改革を行い、藩校を拡充して蘭学の導入を図る。佐倉は関東の蘭学の拠点となり、「西の長崎、東の佐倉」と呼ばれた。

 老中に再任、老中首座を阿部正弘から譲られて開港問題でハリスと日米通商交渉に対処。朝廷に条約調印の了承を求めるが失敗。一方将軍の継嗣問題では、一橋慶喜を支持する一橋派であった。紀伊派(徳川慶福を支持)の井伊直弼が政治工作により大老に就任、正睦は老中を罷免される。家督を正倫に譲り隠居、佐倉城で蟄居(ちっきょ)を命じられる。1864年(元治元年)3月、佐倉城三の丸の御殿において死去。享年55歳であった。

 

・佐藤家の系図

 優秀な泰然の弟子だった佐藤尚中は、養子となって家督と「順天堂」を継ぐ。一般には実子を後継にしがちだが、優秀な弟子を養子とする選択は、尚中の後も続き順天堂を発展させる一因となったという。記念館には佐藤家の系図が貼ってあって、主な人物の業績がパネル展示されていた。

 佐藤舜海= 尚中の隠居後に養子となって3代目として「佐倉順天堂」を任され、病院の近代化を図る。後に東京鎮台佐倉営所の軍医。

 佐藤恒二= 舜海の三女の婿養子。舜海が亡くなった後「佐倉順天堂」の4代目院長となり、分院を設けるなど地域医療の拠点になった。

 林薫(ただす)= 泰然の5男。幕府医官の林洞海の養子。外交官として活躍、日英同盟を締結。その後外務大臣・逓信大臣を歴任。伯爵。

 松本良順= 泰然の次男。幕府医官の松本良甫の養子。近代医学に貢献、初代陸軍軍医総監、貴族院議員。男爵。

 佐藤進= 尚中の養子となり佐倉藩医。東京の順天堂医院で外科を担当、日本初の医学博士の学位。日清・日露戦争の陸軍軍医総監。男爵。

 佐藤志津= 尚中の長女で佐藤進と結婚。横井玉子らが創設し経営難となった私立「女子美術学校」(現・女子美術大学)を再建、校長となって発展させた。女子教育発展の功績により、津田梅子(父は佐倉藩出身の農学者・津田仙)らとともに勲六等宝冠章。

 

・佐倉の武家屋敷

 江戸時代の武家屋敷の多くは、藩が所有して藩士に貸し与えたという。身分、石高によって、屋敷の規模や様式が細かく定められていた。武家屋敷は、主に城下の主君の居所の周囲に形成された。

 基本的に主君の居所から近いほど身分の高い人物、遠くなるほどに身分の低い人物が住んだ。特に家老を始めとする重臣は、藩主の居所の近隣に住むことも多かったが、一方身分の低い藩士は町屋や村に近い場所に住んでいた。佐倉の武家屋敷の身分の違う3棟が移築して並んでいるが、一般的には隣接することないようだ。

 石高の違う3つの武家屋敷の様式などを、比較して見られたのは興味深い。佐倉城は、石垣でなく土塁で守られているが、武家屋敷も土塁というのは、共通の理由があるのだろうか。

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