東急池上線沿線-その2
2020年1月19日(日)、大田区の洗足・池上・馬込界隈を巡る新春ウォーク。本ブログ記事「東急池上線沿線界隈-その1」から続く。
洗足池を一周したあと洗足池駅に戻り、11:39発の東急池上線で11:49池上駅下車。駅から北へ、「池上本門寺」に向かう池上本門寺通りを歩く。
駅から3分、蕎麦処「ますだや」で昼食(11:55~12:30)、天ざる1,000円。
●池上本門寺(大田区池上) 12:36~13:30
「池上本門寺」は、日蓮宗の総本山。日蓮聖が1282年(弘安5年)10 月13 日に、日蓮聖人が61歳で入滅(臨終)した霊跡。
・総門と此経難持坂
「総門」(大田区指定文化財)をくぐる。江戸時代中期、元禄年間(1688~1704)建造。扁額の「本門寺」は寛永の三筆として著名な本阿弥光悦の書。
総門の先、加藤清正の寄進により慶長年間(1596~1615)に造られたと伝わる96段の石段「此経難持坂」(しきょうなんじざか、東京都指定史跡)を登る。名前の由来は法華経宝塔品「此経難持…」の文字数(96字)による。
・日蓮聖人説法像
石段を登り切るとすぐ右手に、巨大な「日蓮聖人説法像」が建つ。1983年(昭和58年)に奉納されたもので、長崎・平和祈念像などで有名な彫刻家・北村西望の作品。
日蓮の著書『開目抄』の一文が、台座に刻まれている。
我 日本の柱とならん
我 日本の眼目とならん
我 日本の大船とならん
・五重塔(重要文化財)
本門寺仁王門の右手に「本門寺五重塔」がある。江戸幕府2代将軍秀忠の乳めのと母・岡部局(おかべのつぼね)の発願により、秀忠が1608年(慶長13年)に寄進した。関東に残る最古の五重塔。
高台にある「池上本門寺」の境内は、太田区立「池上会館」の屋上につながっていて、更にその屋上の展望台に上がる。
南西の方角の川崎、横浜方面を遠望。眼下の左は、池上会館の屋上庭園と右手は区立「池上小学校」。
・大堂(だいどう、祖師堂(そしどう))
立派な大堂には、鎌倉時代の1288年(正応元年)に造立された日蓮聖人尊像、第二祖日朗聖人像、第三世日輪聖人像を奉安する。1964年(昭和39 年)再建。天井画「未完の龍」は、川端龍子(後述)の絶筆だそうだ。
・本殿(釈迦殿)
気がつかず、拝観せず。本師釈迦牟尼仏・四菩薩・祖師像を奉安する。1969年(昭和44 年)建立。写真は、ウィキメディア・コモンズより転載。
・多宝塔(重要文化財)
1831年(天保2 年) の日蓮聖人550 回遠忌(おんき、年忌のこと)を記念して、日蓮聖人御荼毘所(おだびしょ)跡(火葬に付された所)に建立。屋外に建つ宝塔形式の木造塔としては日本唯一の遺構。毎年10 月のお会式に、特別開帳が行われる。
・大坊本行寺(だいぼうほんぎょうじ)
日蓮聖人の御入滅の霊場で、有力信徒の池上宗仲の邸宅跡。東京都史跡。御臨終の間には、日蓮聖人がお寄り掛かりになった柱を格護している。毎年9月8 日に宗祖御入山会が行われる。
日蓮聖人に帰依しこの地の領主・池上宗仲が、法華経の字数に合わせて約7万坪の寺域を寄進、日蓮聖人の高弟・日朗聖人によって基礎が築かれた。以来、当山は東国における日蓮宗の中核寺院として発展、江戸時代には将軍や大名諸侯を始め広く江戸市民の信仰を集め、大伽藍が整備された。昭和20 年の空襲により大きな被害を受けたが、今に見る伽藍の復興が果たされたという。
第二京浜国道の池上本門寺入り口交差点当たりに出て、右折し南馬込4丁目に向かって進む。
●熊谷恒子記念館(大田区南馬込) 13:55~14:30
熊谷恒子(くまがいつねこ、1893-1986)の太田区立「熊谷恒子記念館」は、生前住んでいた自宅を改装、1990年(平成2)年4月に開館。
熊谷恒子は、京都生まれ。現代女流かな書の第一人者として活躍した。1986年(昭和61年)9月30日死去。93歳。日展審査員・評議員、大東文化大教授。勲四等宝冠章。記念館は、1936年(昭和11)年に建てた自宅の雰囲気をそのままに、恒子の書や蔵書を観覧出来る。(館内撮影禁止)
「(臨書)寸松庵色紙」1945年(昭和20年)頃の作。「熊谷恒子記念館」パンフより。
馬込桜並木を通って、次の「龍子(りゅうし)記念館」へ向かう。
●龍子記念館(大田区中央) 14:31~14:54
日本画の巨匠・川端龍子(りゅうし、1885 - 1966年)の大田区立「龍子(りゅうし)記念館」に入館。
龍子は、「健剛なる芸術」の創造を唱え、大衆に訴える作品を描き続けた日本画家。初め洋画を学ぶが、渡米帰国後、日本画に転じる。のち「青龍社」を主宰し、画壇の雄として名を馳せた。文化功労者、文化勲章受章。1966年(昭和41年)4月10日没、81才。
《海洋を制するもの》1936年 「身体のありか」パンフ表紙(作品の一部)より。
造船所の職工を不動明王に見立て三尊形式(仏像の配置)で描いた。
やわらかな曲線で、豊満な女性の美を表した作品。
展示室では、天井に届くような大画面に描いた迫力のある日本画作品に圧倒された。(館内撮影禁止)
●川端康成・石坂洋次郎解説板(大田区南馬込) 14:50
「臼田坂」の標識の裏には、「この坂の付近に「臼田」を姓とする人が多く住んでいた関係から、この名が起こったといわれている。」という説明が書いてある。「川端康成・石坂洋次郎解説板」は、「臼田坂」の途中にある。
環七通りの下をくぐり、池上通りを北上する。
●馬込文士村レリーフ 15:24~15:29
JR大森駅の山王口前の池上通りは「八景坂」と呼ばれ、この坂の西側にある「天租神社」に向かう石段の石垣に「馬込文士村」に住んでいた文士たち43名のレリーフが設置されている。「馬込文士村」は、大正末期から昭和初めにかけて文士や芸術家が暮らしていた馬込・山王地域。江戸時代までは農村だったが、1876年(明治9年)に大森駅が開業により、東京近郊の別荘地として開発。明治の終わり頃、詩人や芸術家が住み始めた。この武蔵野の面影を残す風情を気に入り引っ越して来た尾崎士郎が、多くの人を勧誘したことにより一気に発展、文士村が形成されたという。
その面々は「馬込文士村レリーフ」にあるように、小説家では石坂洋次郎、稲垣足穂、宇野千代、尾崎士郎、川端康成、倉田百三、高見順、広津和郎、村岡花子、室生犀星、山本周五郎、山本有三、吉屋信子。詩人の北原白秋、萩原朔太郎、三好達治。日本画家では川端龍子、小林古径をはじめとしたそうそうたる顔ぶれ。
文士村ではモボやモガ(モダンボーイ、ガールのこと)の時代、頻繁にダンスパーティ、麻雀、相撲などが行われていて、石垣にはそれらの様子が描かれた10枚ほどのレリーフとその説明板が並ぶ。
「馬込文士村の時代、それは女性活躍の時代でもあった」と刻まれたレリーフには、左から片山広子、宇野千代、村岡花子、吉屋信子、佐多稲子。
石段の上の「天租神社」にお詣りして、池上通りへ戻る。
●大森貝塚 15:34~15:40
大森駅前から池上通りを300m程歩くと、「大森貝塚入口」の標識や案内板がある。
池上通りから右手(線路側)のNTTデータのビルとザ・山王タワーのビルの間の通路と階段を下りていくと、「モース博士と大森貝塚」の説明板。「大森貝塚」は、アメリカ動物学者モースによって発掘された。
石碑は、崖の下にある。京浜東北線のあたりは、当時は海だったのだろうか。電車の中から、この石碑には気がつかない。
15:46大森駅へ戻る。15:50大森駅発、田町駅乗り換え、16:32池袋駅着。
16:45~19:40、池袋駅東口の居酒屋で新年会。
★ ★ ★
■日蓮について
日蓮と北条時宗を中心に元寇を描いた『日蓮と蒙古大襲来』(1958年公開、長谷川一夫主演、勝新太郎、市川雷蔵らが出演)という映画があった。子供の頃、父親にねだって一緒に映画館に行った記憶がある。実家は浄土宗であったが、何故日蓮を讃える映画を観たかったのか、よく覚えてない。製作の永田雅一(大映社長)は、熱心な日蓮宗信者だった。なお永田は、1979年に再び『日蓮』(萬屋錦之介主演)を制作している。
日蓮(1222-1282)は鎌倉時代、日蓮宗(法華宗)の開祖。安房国長狭郡(千葉県鴨川市)の漁村に生れる。11歳の時、当地の「清澄寺」に入り天台宗を学ぶ。16歳で出家し、20歳ごろから「比叡山」など各地へ修行し、既存宗派の教義に盲従せず、経典を基準に主体的な思索を続けた。やがて『法華経』にこそ、末法の時代を救う最高の経典であると確信。31歳の時、「清澄寺」に戻る。「南無妙法蓮華経」の題目を唱え、自身の教えの説法を行ったが、受け入れられず「清澄寺」を去る。
以後、日蓮と名乗り、日蓮宗(法華宗)を開き、鎌倉を中心に布教活動を行う。38歳の時、『立正安国論』を北条時頼に進言したが受け入れられず、その後、伊豆へ流されるなど苦難の日々を送る。伊豆から戻ってからも幕府や他宗派を批判、蒙古国書をめぐって片瀬竜ノ口(神奈川県藤沢市)で処刑されかけるが、寸前に助命されて今度は佐渡へ流される。この法難(弾圧)は、処刑寸前に雷光が起こり難を免れた奇跡として伝承された。52歳の時に赦免、その後「身延山久遠寺」(山梨県)を開山、唱題(題目を唱えること)と説法に一生を送った。61歳で死去。
日蓮は天台宗の教えを踏襲、大乗仏教の代表的な経典『法華経』を重んじ、特に仏の教えは一つ(真理は一つ)、誰もが平等に仏となり得るという「一乗思想」と、永遠の生命そのものである「久遠実成(くおんじつじょう)」の仏への帰依を説いた。『法華経』は、聖徳太子の時代に仏教とともに伝来した大乗経典のひとつで、『妙法蓮華経』とも呼ばれる。日蓮は、『法華経』の題目「南無妙法蓮華経」の7文字をひたすら唱えることにより、すべての人を救済し、個人の悟りである「即身成仏」も、国家や社会の安泰である「立正安国」も実現できるとした。
日蓮は、相手意見や誤りを徹底的に非難し、改宗させるという「折伏(しゃくぶく)」を積極的に行った。政治的・社会的関心が強く、幕政に批判的で、他宗派へも排他的だったので反発が多かった。『立正安国論』は、日蓮が説いた法華経の正しい教えに帰依することによって、この世の安泰が得られるという。天変地異は、誤った教えを信じているためであり、それらを正さなければ、内乱や外国の侵略が起きると訴え、幕府の政策は、国家の安泰の対策が不十分であると批判した。
代表的著書 『開目抄』においては、日蓮とその門弟たちが弾圧され、死と隣り合わせの逆境の中で、法華経の信奉実践者が何故かくも受難するのかとの自問する。そして自らが法華経を布教する使命を担った「行者」であると決意。「我日本の柱とならん、我日本の眼目とならん、我日本の大船とならん」は、日蓮の三大誓願として有名。
そして流罪の5か月後の元寇(蒙古襲来)は、日蓮の予言通りだったとして人々は受け入れた。日蓮の教えは、日蓮自身の不屈の精神と献身的な実践が評価され、しだいに民衆に広がっていった。
■熊谷恒子について
現代女流かな書の第一人者として活躍した熊谷恒子は、美智子皇太子妃(現上皇后)にご進講されたことでも知られる。記念館は、1936年(昭和11年)に建てた自宅の雰囲気をそのままに恒子の優美な書を観覧出来る。周辺には庭を持つ日本家屋が多く、かっての馬込文士村 の雰囲気を偲ばせている。春夏秋冬それぞれの季節の作品展が行われ、作品約100点のほか、書道関係の書籍などを収載している。
熊谷恒子が書の道を志したのは、35歳ごろだという。京都の名家・江馬家から銀座鳩居堂の支配人・熊谷幸四郎に嫁ぎ、子どもの習字のついでに、自分も習うようになったのがきっかけだった。
鳩居堂は、日本を代表する香と書道用具の老舗。生家の祖父は書家としても高名、父は書の愛好家。自ずと書の道を歩み始める。かな書を学ぶうちに、その元となった漢字を学ぶことも必要だと感じるや岡山高蔭に弟子入り、漢字を通してかな書への理解を深めた。こうして恒子の書は、豊かさと美しさを増していったという。
熊谷恒子が用いたかな書の技法「散らし書き」は、散らす”かな”とともに現れる余白の美しさを表現した恒子の独特な技法。散らし方に法則は無く、平安古筆を基調とした和歌とその歌に秘められている叙情を読み取り、行の頭などを揃えず、また草仮名(万葉がな・ひらがなの原形)や平仮名(現在のひらがな)を混ぜたり、墨の濃淡、文字の大小、筆の太さや細さなどを固定せず、思いのままに散らして意気込みや心情を豊かに表現しているという。
■川端龍子について
日本画家・川端龍子は、1885年(明治18年)和歌山市生れ。本名は昇太郎。10歳の頃で家族と上京。東京府立中学を中退して、白馬会などで洋画を学んだ。東京内国勧業博覧会や文展に油絵を出品。またこの前後に『国民新聞』に勤め、挿絵を描いて名を知られるようになった。
1913年(大正2年)アメリカを旅行し、ボストン美術館で日本画の意義を自覚、帰国後は「无声会」 (むせいかい) に加わり日本画へ転向した。その後、再興院展にたびたび入選して頭角を現し、1917年(大正6年)に日本美術院の同人となった。しかし大胆な表現が異端視されるようになり、1928年(昭和3年)脱退。翌年「青龍社」を主宰して「会場芸術主義」を唱え、伝統的技法や奇抜な内容と豪放で動感に富む作風の大作で、常に画壇をにぎわした。「会場芸術主義」は、作品は床の間に飾るものではなく、会場に展示されて観るものという考え。
帝国美術院会員や帝国芸術院会員に推されたがいずれも辞退、野にあって画業に専念。1962年(昭和37年)には、文化勲章受章と自身の喜寿を記念して、自作100点余を陳列する「龍子記念館」を東京大田区の自邸内に設立した。自身の設計で建てたもので、作品を展示する記念館と、道を挟んだ向かい側に「龍子公園」がある。公園に保存されたアトリエや旧宅も龍子の設計によるもの。武蔵野の風情を感じさせる庭園もある。
1991年から大田区が区立「龍子記念館」としてその事業を引き継いでいる。約140点あまりの龍子作品を所蔵、多角的な視点から龍子の画業を紹介している。
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