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2020年1月27日 (月)

東急池上線沿線-その1

 2020年1月19日(日)、東急池上線沿線、大田区の洗足・池上・馬込界隈をめぐる新春ウォーク。

 

 JR山手線の五反田駅から、東急池上線に乗りかえ。

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 五反田駅9:48発の蒲田行き、洗足池駅に9:54着。

 10:08、洗足池駅からウォーキング開始。

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 3分ほどで、勝海舟別邸「洗足軒」跡に到着。

●洗足軒(大田区南千束) 10:11

 江戸時代末期、鳥羽・伏見の戦いで敗れた江戸幕府は、官軍側の西郷隆盛と交渉するために、官軍が本部を置いていた「池上本門寺」へ勝海舟を出向かせた。その結果、江戸の町は戦禍に飲み込まれることなく、江戸城は無血開城した。

 海舟は本門寺へ行く際、通りかかった「洗足池」の景色にひかれ、のちに農学者・津田仙(津田梅子の父)の仲介で当地・千束村に土地を求め、1891年に別邸「洗足軒」を建てた。写真は、「洗足軒」跡の説明板。

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 「洗足軒」は茅葺風の民家であったが、戦後まもなく焼失。跡地は現在、大田区立大森第六中学校となっている。
 

●袈裟掛けの松(大田区南千束) 10:14

 「妙福寺(御松庵)」の山門をくぐる。

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 ここは、1282年(弘安5年)、日蓮聖人が池のたもで休憩した地。霊場として「御松庵」として開創されたという。身延山(山梨県)から常陸国(茨城県)に湯治に向かう途中、日蓮に帰依していた池上宗仲の館(池上本門寺)を訪れる前、千束池の畔で休息し傍らの松に袈裟をかけ池の水で足を洗ったと伝えられる。

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 この言い伝えからこの松を「袈裟掛けの松」と称し、また千束池は「洗足池」とも呼ばれるようになったとされる。なお現在ある松は、3代目だそうだ。

 
●勝海舟記念館(大田区南千束) 10:20~11:00

 太田区立「勝海舟記念館」は、国有形文化財の「旧清明文庫」を保存活用し、昨年9月に開館したばかり、海舟にゆかりの資料が展示。

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 収蔵品は勝直筆の手紙、日記、印章、袴や大礼服など45点。特に幕府に軍艦建造などを説いた『海防意見書』の草稿、無血開城を巡って福沢諭吉と論争になった「痩せ我慢の説」の往復書簡、咸臨丸の航海日記などの史料を所有。

 2階へ進むと、貴賓室として使用された部屋には勝海舟の胸像。

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 2階展示室の全体の様子。正面のモニターでは、「東京はこうして生まれた」「洗足池の四季」「若き日の海舟」を放映。

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 別荘であった洗足軒のジオラマで晩年の暮らしぶりを紹介する。

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 勝海舟記念館として活用している旧・清明文庫の模型と当時の講演の様子。

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●海舟夫妻の墓、西郷隆盛の留魂詩碑(大田区南千束) 11:02~11:08

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 海舟は1899年(明治32年)9月に65歳で死去。洗足池やその周辺の形式を愛し、富士が見える処で眠りたいとの遺言で此処に夫妻の墓が置かれた。大田区文化財。

 海舟夫妻の墓所の隣には、海舟が西南戦争で逝去した西郷隆盛(南州)を悼み、3回忌に自費で建てた「南洲留魂詩碑」。

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 その隣には、海舟と西郷隆盛の江戸城無血開城の偉業をたたえた徳富蘇峰の詩碑「南州海舟両雄詠嘆之詩碑」が建立されている。

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●洗足池(大田区南千束) 11:10~11:35

 「洗足池」は、江戸時代に歌川広重の名所江戸百景『千束の池袈裟懸松』にも描かれた水辺の景観の面影を今も残す。ウィキメディアコモンズから転載。

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 池の広さは都内屈指の湧水池。春は桜、秋には紅葉でにぎわい、渡り鳥の楽園。ボート乗り場、散策スポットとして勝海舟夫妻の墓所、南州留魂碑、徳富蘇峰の詩碑ほか、池月橋、水生植物園のほか、名馬池月像などがある。

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 水生植物園の遊歩道。

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 千束八幡神社の傍に建つ「池月号の像」。「池月」は源頼朝が所有していた馬の名前。頼朝がこの地に泊まっていた際、突如現れた美しい馬を気に入り、「池月」と名付けて愛馬としたという。

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 三連の太鼓橋「池月橋」を渡って、池をほぼ1周。

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 上野公園の不忍池にもいたが、海にいる白いカモメが淡水の池にも多く飛来しているは不思議な気がする。

 11:35洗足池駅に戻り、11:39発の東急池上線で11:49池上駅下車。

 

 本ブログ記事「東急池上線沿線界隈-その2」へ続く。

 

 

 ★ ★ ★

■勝海舟記念館について

 「勝海舟記念館」は、大田区が「旧清明文庫」の建物(国有形文化財)を整備して、2019年(令和元年)9月7日にオープンしたばかり。

 「清明文庫」の創設は、東洋思想や仏教思想を普及させる団体として知られていた1920年(大正9年)設立の財団法人「清明会」が、1923年(大正12年)10月に勝海舟の没後使われなくなっていた「洗足軒」を、清明会の講堂として譲り受けたことに始まる。翌1924年には「清明会」が勝家から別邸の隣の土地の寄贈を受け、勝海舟の遺蹟保存とゆかりの図書を蒐集し公衆の閲覧に供えることを目的として、「清明文庫」が設立され、1928年に講堂兼図書館である建物が完成した。

 戦後の1954年、建物は学習研究社のものになり「鳳凰閣」という名前になった。2012年(平成24年)には大田区が所有、勝海舟の業績を顕彰する記念館整備事業が行われ、「勝海舟記念館」として開館した。

 なお勝海舟の生誕の地は、両国小学校のそばの「両国公園」の中で、「勝海舟生誕の地」の石碑がある。次のブログ記事を参照。

 「両国・お茶の水界隈-その1」 2015年1月29日投稿 
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/125-f2e1.html

 

■名馬「池月」について

 伝承によれば、平安末期の1180年に源頼朝が石橋山の合戦に敗れて後、再起して鎌倉に向かう途中で、千束郷の大池(現在の「洗足池」)の近く八幡丸の丘(現在の千束八幡神社のことか?)に宿営した。或る月明の夜にどこからか一頭の駿馬が陣営に現れ、家来たちがこれを捕らえて頼朝に献上した。馬体はたくましく、その青毛は、さながら池に映る月光の輝くように美しかったので、これを「池月」と命名し頼朝の乗馬としたという。

 京都・宇治川の合戦(1184年)で敵の矢が降り注ぐ中、頼朝の重臣・佐々木高綱が渡川の先陣を争い、この時に高綱が頼朝から拝領して乗っていた馬が当地出身の「池月」だった。この地の付近に「馬込(まごめ)」という地名があるが、古来から馬の育成が盛んな所で、名馬を輩出したらしい。

 高綱は、軍功により筑後国の鯵坂(あじさか)庄に所領を賜り、名馬「池月」とともに住んだ。3年後に鎌倉幕府の命によって、息子・利綱と池月をこの地に残し鎌倉に帰った。利綱も父の意思を継ぎ、名馬「池月」を我が子のように大切にし、領民たちもこの名馬「池月」をこの上もなく愛し、領地をかけめぐる「池月」を仏の再来として信仰した。名馬「池月」が死亡すると、その遺体を当地(現小郡市八坂)の塚に葬り「名馬池月塚」と称したという。

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