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2019年11月28日 (木)

会津若松と須賀川

 2019年11月20日(水)~21日(木) 、会津若松市と須賀川市をめぐる1泊2日のバス旅行。


 11月20日(水)、7時45分に出発したバスは、参加者22名を乗せて東北道へ。天気は晴天だが、冬型の気圧配置により冷え込みが厳しいとの予報。いつもより厚手の服を着込んで来た上に、これまでの旅行と違って小さめバスで、車内は少し窮屈な感じ。

 東北道から福島県の磐越道を西へ走る頃、外気温は5~6℃。一時、灰色の雲が空を覆ってみぞれが降り出し、やがて雪がパラパラ。

 

●猪苗代地ビール館(12:10~13:00)

 12:00猪苗代ICを降り、猪苗代湖の湖畔、雄大な磐梯山を望む煉瓦造りの「猪苗代地ビール館」に12:10到着。

 2階のレストランで、美味しい地ビールを頂きながら昼食。

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 「猪苗代地ビール館」の向こうは、雪をかぶって雲に覆われた磐梯山。

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 「猪苗代地ビール館」の1階は、「猪苗代お菓子館」。同じ敷地に「世界のガラス館」がある。

 猪苗代湖畔を走る国道49号線を走り、会津若松市内に入る。
 

●飯盛山(13:45~14:15)

 飯盛山は、会津若松市中心街から北東に位置する。飯盛山の入口付近のお土産屋の駐車場に到着。

 長い石段と並行する「動く坂道」(スロープコンベア、250円)を利用して、13:45飯盛山の中腹にある「白虎隊霊場」へ。

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 この広場が、白虎隊自刃の地「白虎隊霊場」。

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 1928年(昭和3年)、白虎隊士を讃えてローマ元老院と市民からとして、当時のイタリア首相ムッソリーニから「白虎隊とイタリアのファシスト党とは、一脈相通じるものがある」と贈られた「イタリア記念碑」。

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 この石碑は、ポンペイから発掘した古代ローマ宮殿の柱、上に青銅の鷲が羽を広げている。碑文には、”ファスケス”(古代ローマの権威を表す斧を複数の棒で束ねたもの)が4角にそれぞれ4本、更に鷲が1本握っていた。斧は武をあらわし、束ねた棒は団結を示す。第二次世界大戦後のアメリカ進駐軍に持ち去られ、碑文も削りとられて碑は倒されてしまった。1985年(昭和60年)、碑文だけは三代目墓守の飯盛フミの代に復元された。

 「イタリア記念碑」の右手には、白虎隊精神を賛美して1935年(昭和10年)に寄贈された「ドイツ記念碑」もある。

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 この地に来て、白虎隊士の行動に感動したドイツ大使館フォン・エッツドルフが、寄贈した。石碑には、ナチスのマークとドイツ語で「会津の若き少年武士に贈る」と刻まれている。こちらも進駐軍より碑文とマークを削られ撤去を命ぜられたが、当時の二代目墓守が自宅に隠し、1953年(昭和28年)に同じ場所に戻された。

 戊辰戦争時、自刃や討ち死にした武家の婦女子230名余の霊を慰める石碑の「会津藩殉難烈婦碑」。

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 この慰霊碑は、1928年(昭和3年)元白虎隊士で東京帝大総長を務めた山川健次郎らの篤志家によって建てられた。

 「白虎隊十九士の墓」に黙礼。今も線香を手向ける人も多いという。

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 飯盛山に落ち延びた白虎隊20名の中でただ一人生き残った飯沼貞吉の墓のほかに、藩主・松平容保の弔歌の碑、白虎隊碑、白虎隊観音などもある。

 展望台から、会津若松市内を一望。

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 下の写真中央、鶴ヶ城(会津若松城)を望遠レンズで撮影。

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 白虎隊は、城下の煙と炎に包まれた鶴ヶ城を見て、いち早く会津の負けを悟り、自ら命を絶っていったという。

 飯盛山の広場から石段を降りると、らせん型の「さざえ堂」がある。

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 この「さざえ堂」の正しい名称は、「円通三匝堂」(えんつうさんそうどう)。1796年(寛政8年)に飯盛山正宗寺の第12世郁堂和尚(いくどうおしょう)によって建立、西国三十三観音菩薩を安置した六角三層の観音堂。階段のない螺旋通路で上り下りができ、上りの人と下りの人がすれ違うことなく一方通行で巡れる世界にも例のない建築様式で、国の重要文化財に指定されている。高さ16m。

 さざえの殻に似ていることから俗に「さざえ堂」と呼ばれるが、江戸時代後期の東北~関東地方に多く見られた。現存するこのような建物は、全国に数カ所以上ある。

 白虎隊が抜け道に使った「戸ノ口堰洞穴」。

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 天保年間に会津平野の灌漑用水として猪苗代湖より通水した洞穴。戊辰戦争の折、白虎隊が鶴ヶ城の情勢を確認するため飯盛山に向かう際、この洞穴を潜った。現在でも農業や工業用水に使われている。

 飯盛山の麓には、白虎隊を中心に戊辰戦争や会津藩に関する武具・調度品・写真・絵図などの資料を展示している「白虎隊記念館」や「白虎隊伝承史学館」があるが、入館せず。

 

●鶴ヶ城(14:30~15:50)

 飯盛山の麓の土産屋で買い物・休憩後、「鶴ヶ城」とも呼ばれる「会津若松城」までバスで10分ほど。

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 城内に掲げられていた「会津藩十の掟」の看板。

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 「鶴ヶ城」の本丸広場から天守閣を望む。 

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 戊辰戦争で損傷した鶴ヶ城は、1874年(明治7年)までに天守をはじめとする建造物は総て解体された。三の丸の一部に陸軍練兵場が設置されたが、本丸、二の丸、三の丸の一部や付属する壕などは保存された。第2次大戦後、1960年(昭和35年)までに本丸は現在の形状に復旧。1965年(昭和40年)には、鉄筋コンクリート造による天守閣が復興された。

 天守は通常の黒の瓦を使用していたそうだが、瓦が寒さで凍み割れてしまうことから、江戸中期頃に耐性のある赤瓦が使われるようになったという。前回ここに来たときは、黒瓦だったような気がする。2010年(平成22年)の改築により、写真のような解体以前の赤色の瓦に葺(ふ)き替えられた。

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 天守閣の内部内部は、「若松城天守閣郷土博物館」として公開されている(入場料410円)。戦国時代の芦名氏、伊達氏、蒲生氏から江戸時代の保科・松平氏までの歴史資料が展示されていた。館内は撮影禁止。

 天守閣から、雲に隠れた磐梯山(左手、標高1816m)と右手の丸い小山が飯盛山(314m)。

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 国道118号線を南下し、会津若松の奥座敷、阿賀川の渓流沿いの芦ノ牧温泉「丸峰観光ホテル」に16:20到着。

 紅葉を眺めながら天然温泉で疲れを癒やし、18:00からお楽しみの大宴会。

 

 

 翌21日(木)、9時出発。肌寒いが、朝からいい天気。周囲の山々は中腹までは紅葉、山頂付近の木々は柔らかな白い綿をまとったようで、霧氷だろうか。11月下旬のこの地方の季節は、晩秋というより、もう初冬だ。

 

●円谷英二ミュージアム(10:55~11:40)

 バスは東北道を南下し須賀川ICを降り、福島県須賀川市の立派な「須賀川市民交流センター」(愛称Tette)に入館。

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 この施設の設立目的は、市民の生涯学習の推進、市民活動の支援、市民交流を促進。東日本大震災により甚大な被害を受けた市街地中心部に賑わいと活気を取り戻し、震災からの創造的復興の実現を図るとしている。昨年7月竣工、今年1月に開館。 

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 須賀川市は、東日本大震災によって甚大な被害を受け、市内の全壊家屋のうち約半数が市街地中心部に集中、市庁舎や総合福祉センターをはじめ多くの公共施設も使用不能となった。市街地の再生・活性化は、震災復興の最重要課題の一つであり、新たな公共施設としてこの市民交流センターが整備されたという。

 この建物の5階に、「円谷英二ミュージアム」がある。

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 今年1月にオープンしたばかりのミュージアムは、4つのコーナーに分かれている。一部を除き撮影禁止だったのは残念。

 「円谷英二クロニクルボックス」コーナーでは、ゴジラやウルトラマンなど「特撮の神様」と称された円谷監督の68年間の足跡をパネル、映像や造形物を展示。

 「特撮スタジオ」は、多くの作品を手がけた東宝撮影所の特撮スタジオでの撮影風景をミニチュア模型で再現。

 「空想アトリエ」では、子供たちへの学びの大切さを伝えるため生物学、機械学、環境学、天文学などのテーマの関連図書と、そのテーマに関連付けた怪獣「モスラ」、「へドラ」のフィギアや兵器などメカ模型を展示。

 特に、高さ2m、重さ100キロの初代ゴジラのスーツ(着ぐるみ)は、ミュージアムの目玉。

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 モニターに、自分の顔の宇宙人が現れる。

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 「円谷英二ネットワークウオール」には、パーツを組み合わせオリジナルの怪獣をスクリーンに作る「クラフトかいじゅうだいこうしん」。 

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 11:55~12:00、須賀川市内の寿司店「あづま」で昼食。

 この後、直売所でリンゴを買った方が安いということで果樹園の予定を変更、12:50~20分ほどJA直売所「はたけんぼ」に寄ってリンゴ購入。

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 午後1時過ぎ須賀川を後にして、帰路へ。16:40出発地の駐車場に、予定より20分早く到着。

 今回の旅行は、参加人員が少ない場合は諸費用の面で中止という前提で計画された。22名の参加を得て開催出来、寒い日だったが天気に恵まれた楽しい研修旅行だった。

 

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  映画「シン・ゴジラ」 2016年10月 3日投稿
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 ★ ★ ★ 

●白虎隊と三国同盟

 慶応4年・明治元年~明治2年(1868年~1869年)の戊辰戦争で、会津藩では15歳~17歳の少年340名余りで『白虎隊』を編成した。その中でも士中二番隊は、会津藩校の日新館に学ぶ中でも優秀な隊であった。彼らは明治元年8月、戸の口原での戦いで決定的な打撃を受け、負傷者を抱えながら郊外の飯盛山へと落ち延びた。

 だがこの山から眺めた城下の煙と炎に包まれた鶴ヶ城を見て、いち早く会津の負けを悟り、自ら命を絶ったという。戊辰戦争後、会津藩は朝敵とされたために、明治政府は白虎隊の遺体をそのまま放置しておくよう命じた。この場所で風雨に晒される少年たちの遺体は酷い状態で、不憫に思った当時の山主の飯盛正信は、村の有志らと夜な夜な骨を拾い集め、飯盛山の広場の一角に仮埋葬した。しかし、このことが新政府軍に知られ、遺体は掘り起こされ元の場所へ投げ捨てられ、正信らは処罰された。白虎隊の埋葬許可がおりたのは、後の明治2年のことだったという。

 一般に白虎隊は鶴ヶ城周辺の火災を目にして、落城したと誤認してしたとされている。しかし、生き残った飯沼貞吉が生前に伝え残した手記によれば、当時隊員らは鶴ヶ城に戻って敵と戦うか、敵陣に斬り込んで玉砕するかで激論となるが、いずれにせよ敵に捕まり生き恥をさらすことを望まなかった隊員らは、武士の本分として自刃したという。

 「イタリア碑」と「ドイツ碑」の2つの碑は、第2次世界大戦で日本と三国同盟を結んだ国から、白虎隊の武士道に対する賞賛だった。碑には、ファシスト党紋章やナチスのマーク(ハーケンクロイツ)が刻まれているは、違和感がある。10年以上も前だったろうか、この地を訪れた時は、何故かこれらの碑に気がつかなかった。改めてこの碑を見ると、戦前には白虎隊が武士道=軍国主義として利用されたことがよくわかる。

 「白虎隊記念館」前にある白虎隊の碑、ウィキメディア・コモンズから転載。

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 山本八重(後の新島八重)の生涯を描いたNHK大河ドラマ『八重の桜』は、2013年1月~始まった。会津藩の砲術指南の山本家に生まれ、会津の女として育った八重は、鶴ヶ城から新政府軍に対し最新のスペンサー銃を撃つ。その年には、テレビ東京の新春ワイド時代劇『白虎隊~敗れざる者たち』(2013年1月2日)や、NHK歴史秘話ヒストリア『妻たちの会津戦争~反骨の家老 西郷頼母と家族の悲劇~』(2013年6月19日)が放映され、視聴した。

 新政府軍の侵攻が迫り、城下は早鐘が鳴らされた。家老・西郷頼母の妻・千重子は、夫と長男・吉十郎の入城を見送った後、家族・親類一同を居間に集める。「女子供は足手まといになる、自刃して国に殉じる」として、幼い子供は自らの手で刺し、家族・親戚の婦女子一同が自害したという。飯盛山にあった「会津藩殉難烈婦碑」を観て、ドラマのこの悲劇のシーンを思い出した。

 
●蘆名氏(芦名氏)から会津松平家まで

 戦国時代になって会津地方で勢力を広げた蘆名(あしな)氏は、もともと桓武平氏系統の三浦氏から興った相模国三浦郡蘆名(現在横須賀市芦名)の氏族・蘆名氏だった。芦名氏、葦名氏とも表記されるようだ。「芦」は、「蘆」の字を簡略にしたもので同じ漢字。

 「蘆(芦)」と「葦」は、いずれも同じくイネ科の植物の「アシ」のことで、植物的にはアシの穂が出たものが「葦」で、穂がで出てないものが「蘆(芦)」だそうだ。蘆名氏、芦名氏、葦名氏は、時代によって表記が違うとか、諸説があって資料でもまちまち。よくわからないが、どれも正しいようだ。現代では、「蘆」という漢字はほとんど使われてないが、植物のアシは「葦」、「芦」は芦川や芦屋などと名字や地名によく使われている。
 
 蘆名氏は、仙台の伊達氏と長年争っていたが、伊達政宗は豊臣秀吉の制止を聞かず蘆名義広を攻め滅ぼした。しかし政宗はその後、秀吉に臣従したため会津を取り上げられ、蒲生氏その後上杉氏と替わる。徳川の天下になると、西軍に付いた上杉は退けられて、再び蒲生氏。その後加藤氏が入封するも改易され、三代将軍家光の異母弟・保科正之が23万石で入封する。保科家は、その後明治維新まで会津松平家(保科を改名)として鶴ヶ城を居城とした。
 

●円谷英二とゴジラ

 写真は、ウィキメディア・コモンズから転載。

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 円谷英二は、20世紀が始まった1901年(明治34年)、当時の福島県須賀川町の麹屋を営む商家に生まれた。円谷少年は、絵を描くがうまく、模型作りが好きで、飛行機乗りに憧れた。「日本飛行学校」に入学するも飛行機事故があって休校になり、飛行機乗りの夢は破れる。東京・神田の電機学校(現在の東京電機大学)に入学、この頃玩具会社で玩具考案や発明の委嘱や特許収入で学費を稼ぐ。

 1919年(大正8年)18歳、ひょんな事から映画会社の人と知り合い、薦められて映画界に入る。やがてカメラマンとして活躍。撮影手法や撮影機器や映画セットを工夫し、映画は次々に大成功する。一方他のカメラマンたちは、円谷の先進的な撮影技術には冷ややかだった。1933年(昭和8年)アメリカ映画『キングコング』の試写を観て、この特撮に大きな衝撃を受け、その撮影技術を分析・研究する。

 1939年(昭和14年)38歳、陸軍の依頼で航空学校の教材映画を制作するが、やがて特撮技術を使った戦意高揚映画を次々に制作・企画する。戦後は公職追放によって戦争映画に加担したとして、映画界から退職・失職する。1952年(昭和27年)公職追放解除。

 1954年(昭和29年)53歳の時、日本初の本格的特撮怪獣映画『ゴジラ』を制作。円谷は新たに特撮班を編成してこれに当たった。満を持して公開された『ゴジラ』は、空前の大ヒット。

 1954年公開の『ゴジラ』のポスター、ウィキメディア・コモンズから転載。

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 円谷英二の名は再び脚光を浴び、同作は邦画初の全米公開作となり、その名は海外にも轟いた。当作で円谷は「日本映画技術賞」を受賞。1955年(昭和30年)54歳、『ゴジラの逆襲』で、世界に例を見ない「特技監督」の名称を与えられる。その後、『地球防衛軍』『宇宙大戦争』『モスラ』『キングコング対ゴジラ』などなど・・・、怪獣・SF映画において特撮技術を監督。1963年(昭和38年)62歳、東宝の出資を受け、株式会社円谷特技プロダクションを設立する。

 1966年(昭和41年)65歳。テレビ特撮番組『ウルトラマン』の放映開始。変身する巨大ヒーローは、さらに怪獣ブームとなって広がった。これらのヒットによって「円谷英二」の名は、子供から大人まで全国隅々にまで知れ渡ることとなり、以後日本の特撮に多大な功績を残した「特撮の神様」になっていく。1970年(昭和45年)逝去、享年68歳。

 「円谷英二ミュージアム」は、ゴジラ、ウルトラマン、怪獣や特撮などのマニアにとっては、夢のような場所である。須賀川市の町おこしにはもってこいであるが、東日本大震災の復興事業の一つとしても、市外・県外からの来館者もあってすばらしい。

 英二の死後、特撮映画をめぐる環境は大きく変化している。現在はフルCG(コンピュータ・グラフィックス)で製作されるようになった。CGやVFXといった技法が多用され、現実ではあり得ないリアリティのある、より鮮明な映像を作り出すことができるようになった。テレビで、人間が着ぐるみ入ってミニチュアの都市の中で暴れ回っていたウルトラマンや怪獣にはあまり興味がなかったが、初代の頃のゴジラ映画はとても懐かしい。

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