映画「一粒の麦 荻野吟子の生涯」
2019年11月18日(月)、映画『一粒の麦 荻野吟子の生涯』を観る。
明治時代、近代日本で初めての女性医師・荻野吟子の苦悩と愛、闘いの生涯を描いた伝記映画。主演は若村麻由美、共演に山本耕史。ほかに賀来千香子、佐野史郎、柄本明らが出演。メガホンをとったのは、『石井のおとうさんありがとう 岡山孤児院石井十次の生涯』、『筆子・その愛 天使のピアノ』、『母 小林多喜二の母の物語』など、87歳の山田火砂子(ひさこ)監督。「現代ぷろだくしょん」制作。劇場公開は、2019年10月26日から。
株式会社「現代ぷろだくしょん」は、俳優集団からスタートした独立系の映画製作会社。五社協定がなくなった後も独自の製作・配給活動を続けてきた小規模の映画会社。社会派の作品が多い。山田典吾(てんご)が1951年に創設し、代表取締役、監督。舞台女優だった妻の火砂子は、映画プロデューサ、監督、山田典吾の没後、代表取締役を兼任。
「一粒の麦」とは、新約聖書「ヨハネ伝」第12章で、地に落ちることによって数多(あまた)の実を結ぶと説いたキリストの言葉から、人を幸福にするためにみずからを犠牲にする人、またその行為をいう。
1851年(嘉永4年)、武蔵国幡羅郡俵瀬村(はらぐんたわらせむら、現在の埼玉県熊谷市俵瀬)の名主の五女として生まれた荻野吟子は、幼いころから聡明で、勉強好きだった。しかし、女に学問はいらないと隣村(上川上村)の名主・稲村家の長男・貫一郎と17歳(1868年、慶応3年)で結婚。そこで夫から性病(淋病)をうつされると、今度は子どもの産めない嫁はいらないと実家に帰されてしまう。
地元の医師の紹介で、大学東校(後の東京大学医学部)の付属病院に入院。生死をさまようほどの病状だった。入院中、この無情な現実に泣いた吟子は、女医の必要性を痛感し、自分自身が女医となる決意をする。 19歳(明治3年)で離婚、故郷に戻って本格的に学問を始める。
儒学者・寺門静軒が妻沼村(熊谷市妻沼)に開塾した「両宜塾」を継承した松本萬年に師事、22歳で上京して国学者・井上頼圀の私塾「神習舎」に入る。その翌年には女性私塾の助教として甲府に赴くが、休校となり東京に戻る。明治7年(24歳)、女性の教育養成を目的とした「女子高等師範学校」(後の「東京女子師範学校」、「お茶の水女子大」の前身)に一期生として入学。明治12年(28歳)同校を首席で卒業、女医を目指すため医学校への入学を希望した。
医学校は、当時は女人禁制とされ断られたが、男装して私立医学校「好寿院」で医術を学ぶ。男子学生の女性差別やいじめに耐え、31歳で優秀な成績で卒業する。医術開業試験の願書を幾度となく提出するも、女医は前例がないとことごとく却下される。決して諦めずに支援者の協力を得て、内務省衛生局長・長与専斎を紹介され面会。日本の古代にも女医がいた文献があることを資料にし、紹介状に添えたともいう。ようやく、女性の受験が認められた。
明治18年(1885)34歳の時、医術開業試験に合格、女性として初めて医籍に登録された。同年、東京本郷で「荻野医院」を開業。この頃、キリスト教婦人矯風会に参加する。婦人参政権、廃娼運動など女性解放のための運動に熱心に取り組んだ。
明治23年(1890)、同志社の学生で新島襄から洗礼を受けた13歳年下の敬虔なキリスト教徒・志方之善(しかたよしゆき)と、周囲の反対を押し切り再婚する。明治24年(1891)、岐阜県の濃尾大地震では、娼婦として売られる女子の孤児たちを保護するために立ち上がった石井亮一(日本の知的障害児福祉の創始者、石井筆子の夫)に賛同し、「荻野医院」を子供たちのために開放、自らも孤児たちの世話を行った。
写真は、映画『一粒の麦』のパンフから転載。
志方は、理想郷インマヌエル(北海道今金町)開拓のため吟子を残し、単身で北海道に渡る。明治27年(1894)、吟子は医院を閉めて志方のいる未開地インマヌエルに入植して同居、夫とともにキリスト教の理想郷を目指す。この頃、夫の姉夫婦が乳児のトミを残して死去したため、吟子はトミを養女にする。
しかし理想郷建設は、困難を極め様々な事情で撤退を余儀なくされた。吟子は瀬棚(函館市せたな町)で医院を開業するが、志方は同志社に再入学して神学を学び、北海道に戻って 浦河教会の牧師になるなど、吟子とは別居の生活が続いた。しかし明治38年、志方が41歳で病死する。この時、吟子54歳。
吟子は、夫の死後しばらく北海道に留まっていたが、熊谷の9 つ年上の姉・友子のすすめで、明治41年57歳で帰京。東京・本所で再び医院を経営、友子と養女トミと晩年を過ごした。大正2年(1913年)、脳溢血で死去。友子やトミ、親戚に看取られて波乱多き一生を閉じた。62歳だった。葬儀は本郷教会で行われ、親戚・友人や吟子を尊敬する若き女医たちが見送った。墓は、東京・雑司ヶ谷霊園に建てられている。
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荻野吟子の肖像写真。ウィキメディア・コモンズから転載。
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●埼玉県の三偉人
荻野吟子は、塙保己一、渋沢栄一とともに、埼玉ゆかりの三偉人として知られている。塙保己一(はなわほきいち、本庄市児玉町)は、江戸時代の国学者で、『群書類従』『続群書類従』を編纂した。全盲で鍼灸を習ったが不器用で実家に戻され、国文学の分野を学んだという。渋沢栄一(深谷市)は、日本資本主義の父と呼ばれ、多くの企業設立や教育に貢献。2021年に放送されるNHK大河ドラマ「青天を衝(つ)け」の主人公に、また新一万円券の肖像に決まった。
●小説・テレビ・舞台
荻野吟子の生涯を題材にした渡辺淳一の小説『花埋み(はなうずみ)』が1970年に発表された。1971年に大空真弓主演のテレビドラマが制作され、ポーラ名作劇場(ANN系列)で放送された。山本陽子が1980年、舞台『花埋み』を主演。三田佳子が1998年、舞台『命燃えて』で主演した。
その以前の1964年4月~1965年9月、NHK総合でオムニバスのテレビドラマ「風雪(ふうせつ)」が放送されたが、その第29話「女医記」が1964年10月29日、小山明子の主演で荻野吟子が取り上げられている。また、NHK歴史秘話ヒストリア「あなたを助けたい~女医第1号 荻野吟子の恋~」が 2013年11月20日放送された。
●山田火砂子監督
最高齢の女性監督としても知られる山田火砂子監督は2007年(平成19年)、江戸末期から昭和初期にかけて女性教育や障害児教育に尽力した石井筆子を描いた映画『筆子 その愛-天使のピアノ』を制作する際、筆子と親交があった吟子の偉業に触れ、強く興味を持って荻野吟子の映画化構想を温めていたとのこと。本映画では、筆子の夫で知的障害教育の石井亮一や内務省衛生局長の長与専斎も描かれている。
山田監督は、「荻野吟子が、みんなに反対された志方との恋がなかったら、女子医大の3つや4つ作っていただろう。でも志方がいなかったら、吟子の人生はあまりにもかわいそうな人生だったろう。」と語っている。また「世の女性に対して、女性としての生き方を考えるきっかけにしてもらいたい。荻野さんの志に触れて何か感じてもらえれば」と話している。
吟子が、夫に病気をうつされず、離縁されずに幸せな結婚生活を送っていれば、女医1号の誕生はもっと後の時代になっていただろう。吟子が、東京で医療活動や社会運動を続けたなら、社会はもっと進んでいたかもしれないと思う。2 度も結婚した荻野吟子の生涯は、実に波瀾に満ちたものであった。
●女性医師
江戸時代末期から明治にかけて、西洋医学を学んだ初めての女医(産科医)として、シーボルトの娘・楠本イネがいた。医術開業試験がなかった頃には、女性の医師がほかにも何人か開業していたそうだ。荻野吟子は初の国家資格を持つ女医である。彼女が医術開業試験に合格した頃、イネはすでに57歳。イネは受験を諦め、産婆として活躍したという。
現在、6万7千人の女性医師がいるが、全医師で女子の割合はおよそ2割。先進国の中では、非常に少ない方だという。昨年、東京医科大学が女子受験生の入試結果を減点して、女子の合格者数を3割以下に抑えようとしていたことが、明らかになった。同大学では、2010年の一般入試合格者数で女子が約4割となったことから、女子受け入れの総量規制が始まったと言われている。現在でも、根深く女性差別の問題は残っている。
日本女医会は、荻野吟子の偉業を称えて、1984年(昭和59年)に、「荻野吟子賞」を設置したという。
●順天堂医院
夫から病気をうつされた吟子は、上京して診察を受け入院する。映画の中では、「順天堂医院」の看板が掛かった赤煉瓦の病院だった。「順天堂医院」に入院という資料もがあるが誤りで、正しくは「大学東校」(現在に東大医学部)だそうだ。「順天堂医院」が東京神田に開院したのは、1973年(明治6年)、湯島に移転したのが1875年(明治8年)。吟子が入院した時期とは合わない。
●文部科学省選定
本映画は、「文部科学省」選定、「カトリック中央協議会広報」推薦とある。後援には、日本赤十字社、日本医師会、日本女医会、日本看護協会、キリスト教団体、労働団体、社会福祉団体、埼玉県熊谷市、群馬県千代田町、北海道せたな町などなど数多くの団体名が並ぶ。
そうか、子供も見られるような映画に仕立ててあって、物語や台詞がどこか小中学校の学芸会的、いや舞台演劇のような感じがする。ストーリーがやや平板で、山場や感動シーンが無かったのが残念。しかし、荻野吟子の波瀾万丈の生涯を知るには、とても良かった。
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