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2019年7月16日 (火)

那須塩原-その1

 2019年7月10日(水)~11日(木)、栃木県那須塩原の1泊2日の宿泊旅行。

 

 1日目の7月10日(水)。10:00、参加者8名、最寄り駅前を車2台で出発。東北自動車道を走る。

 佐野SA(サービスエリア)で1回目の休憩。2回目は、12:25~上河内SAで休憩。昼食は、レストラン「和食 九尾」で天ぷら蕎麦980円。

 西那須野塩原インターで高速を下り、国道400号沿いの「千本松牧場」へ。

 

●千本松牧場 (那須塩原市千本松) 13:35~15:00

 肉料理の店「ミレピーニランチョ」の前の駐車場に車を駐める。入場料・駐車場無料。

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 「那須千本松牧場」は100年以上の歴史があり、東京ドーム178個分の広大な広さ(全面積834ha)を持つ牧場&レジャー施設。ホウライ株式会社が運営。

 牧場内で育てている乳牛は約500頭、1日約8トンの生乳を敷地内の工場で生産。

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 「ジンギス館」で牛乳1杯無料券を使って新鮮な牛乳を頂き、隣のソフトパーラー「まきば」でチョコミント380円。

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 牧場内を散策。

 スポーツ施設、遊戯施設を左右に見ながら桜並木を350mほど歩くと十字路。右に折れて、左手に動物ふれあい広場、牛舎・放牧場、乳業工場(ホウライ)が続く広い道路を650mほど進むと、「萬歳閣」がある。

 千本松牧場内にある「萬歳閣」は、内閣総理大臣・松方正義の旧別邸。

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 明治36年に建てられた木造2階建て洋館。1階の外壁が石造り。

 建物とその周辺敷地は、現在も松方家とその関係者が利用しており、外観のみ見学。

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 政府の要職を離れていた松方正義は、1893年(明治26年)この地に広大な農場を開設、大型機械を導入し欧米式農場経営を行った。

 

 資料用のトウモロコシ畑の巨大迷路やいちご園ハウスの反対側の林の中に、「千本松温泉」がある。源泉かけ流しの日本庭園風の露天風呂。

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 「千松神社」は、日本三大稲荷の一つ「笠間稲荷神社」より、1953年(昭和28年)蓬莱殖産株式会社(現ホウライ株式会社)の開運・招福・火伏の守護神として分霊。笠間稲荷大神は元来、食物の神、農業の神様として崇敬されていた。

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 食事処「もみじ亭」のそばを通って、駐車場に戻る。

 「千本松牧場」から次の目的地「乃木神社」(那須塩原市石林)まで約20分ほど。

 国道400号を南下し、東北道をくぐり、国道4号線を横切り、東北新幹線の高架をくぐる。

  

●乃木神社 (那須塩原市石林) 15:25~16:20

 「千本松牧場」から20分ほどで「乃木神社」へ到着。

 日清戦争後に乃木大将が閑居した別邸の敷地内にある「乃木神社」。左手に将軍像が立つ。

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 主祭神は乃木希典将軍、静子夫人。乃木希典は長州藩の支藩長府藩士の出身、日露戦争の英雄とされている。乃木希典が明治天皇の崩御により殉死したのち、1916年(大正5)に創建された。

 拝殿で参拝。

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 神馬舎。皇太子時代の大正天皇から乃木将軍が賜った白馬の実物大模型がある。

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 皇太子殿下にちなんで「殿号(しんがりごう)」と名付けられた。乃木将軍夫妻の殉死後の1914年(大正3年)、この地の別邸で没した。

 「宝物館」には、乃木希典の遺品が展示されている(入館せず)。入口に、中国馬車が展示。

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 この中国馬車は、複数の馬で引き悪路に堪えられるよう堅牢に造られている。昭和初期に奉納されたそうだ。右の一回り小さな車輪(前輪)が、左の車輪(後輪)と重なっていて、おかしい。ネットで見つけた写真を見ると、この馬車は屋根の付いた別の場所に置かれていて、前輪は台車のもっと右手に取り付けられていた。

 森に囲まれた境内の奥には、乃木夫人の静子が杉の苗を植えたという「静子林」やたくさんの鯉が泳ぐ「静沼」がある。その奥に、乃木将軍の別邸が保存されている。「静沼」は、元は乃木家の水田だったそうだ。

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「乃木希典那須野旧宅」は、「乃木将軍」として親しまれている乃木希典(まれすけ)が、1891年(明治24年)、石林の地に約14haの土地を求め、静子夫人の叔父(旧薩摩藩士・吉田清皎)が所有している土地と家屋を譲り受けた。

 枝折戸(しおりど)を入ると、左手に石造り書庫があり、正面に旧宅(別邸)。

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 石蔵庫。現在は乃木希典に関する書籍等が展示されている「石林文庫」。

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 愛馬「殿号」(しんがりごう)の厩(うまや)。

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 左の藁葺屋根は、農具舎。右は別邸、正面に風呂や井戸、その奥には納屋がある。

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 乃木将軍の別邸。こちらが正面で玄関がある。内部は公開されていない。

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 当初は住宅1棟と納屋があったが、明治25年(1892)、乃木将軍は自ら設計して農家風の質素な別邸を建てた。栗の木の板を小さく切って重ねた栗小羽葺き(後に瓦葺き)の平屋で、延べ面は約189平方m。関西間風の間取りで建坪は53坪(関東間に換算すると約57坪)。土間と囲炉裏があり、畳の部屋は8畳間・6畳間など合計6つ、その他物置場・屋根裏部屋等があるそうだ。

 前庭の納屋の前にも、乃木将軍の石像が建っていた。

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 乃木将軍は生涯に4度の休職をした。別邸を建ててからは、休職中の延べ48か月の多くをここで晴耕雨読の生活を送った。村人とも親しく交わったという。別邸は、放火により1990年(平成2年)に焼失、1993年(平成5年)に復元された。

 

 箒川(ほうきかわ)に沿った国道400号を北上して、宿泊地の塩原温泉へ向かう。

 17:10、大江戸温泉物語グループの「ホテルニュー塩原」に到着。

 
 

●ホテルニュー塩原 (那須塩原市塩原)17:10~

 「ホテルニュー塩原」は西館(本館、下の写真)のほか、B&H(ビューティ&ヘルス)館(新館)、湯仙峡(リニューアル館)の3館で構成されている。

 西館2階のフロントでチェックイン。宿泊は、西館8階の和室2部屋。

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 入浴は、8階からエレベーターで4階で降り、そこから箒川を渡る通路橋を通って対岸の「リニューアル館」のエレベーターに乗り換え、地下1階で降りるとそこが「湯仙峡(ゆせんきょう)大浴場」。

 18:30~20:15、西館1階の食事会場「オーロラ」で夕食(バイキング)。体育館より広い会場だが、平日なのに会場いっぱいに宿泊客が食事に集まっていることに驚く。料理の種類は、80種類以上(ドリンクは除く)とか。デザートもドリンクも豊富。

 

 8:45~21:30、西館2階の劇場「塩原 鳳凰座」で、「逢川まさき」歌謡ショーを観覧する。宿泊者の観覧は無料。

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 劇場には、客席の半分ほど約100名ほどの観客が入っている。司会の紹介のあと、逢川まさきが登場、まずデビュー曲の『港たずねびと』を披露。小銭を紙に包んで投げるお捻り(おひねり)の代わりに、客は一本500円のレイを買って、客席を握手して回る歌手の首にかける。「追っかけ」らしいおばさんたちも散見する。

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 そのほか持ち歌を数曲、カバー曲を数曲。中孝介の『花』のカバー曲を、9月CD発売に先駆けて披露。アンコールは、懐メロの森田公一の「青春時代」を観客と一緒に歌ってお開き。客のお見送りでは、逢川まさきが自ら、CDとサイン色紙やグッズを売っていた。

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 このホテルの歌謡ショーは、2日~5日で出演者が変わるようだ。逢川まさきは、今週火曜から金曜までの4日間の出演の予定。

 ちなみに昼の部は、大衆演劇により13:30~14:30 お芝居、15:00~16:00 舞踊ショー。夜の部は、19:00~20:00舞踊ショーだった。7月中は、中野加津也座長の公演で、これも月ごとに出演劇団が変わる。

 

 歌謡ショーの後は、参加者が部屋に集まって歓談、12:00頃就寝。

 

 ★ ★ ★

●松方正義

 松方正義(1835~1924)は、薩摩出身の明治の元勲。大蔵卿、大蔵大臣を長年務め、2度の内閣総理大臣(第4代、6代)を任じられた。日本銀行の創設、財政金融政策を確立するなど、財政金融面の業績を残した。那須の別邸は赤松林の中にあり、松方が新たに牧羊を始めるに当たって建設された。この地を「千本松」と名付け、別邸は当初「松茂山荘」と呼ばれていた。

 翌年、塩原御用邸(戦後廃止された)に滞在中の皇太子(後の大正天皇)がこの別邸に行啓された折り、日露戦争の遼陽陥落の報が届き「万歳」を唱え祝杯を挙げた事から、「萬歳閣」と呼ぶようになったという。

 松方正義は、女好きで子沢山、早世した2男も含めて15男11女の26子もあったそうだ。明治天皇がら絶大な信頼を得ていたが、子供の数を尋ねられて即答できなかったというエピソードがある。

 写真は、ウキペディアコモンズから転載。

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 子供たちは、男子の多くが高学歴で実業家や政治家として活躍、また女子はそういった家に嫁いでいる。特に三男の松方幸次郎は、川崎造船所社長、衆議院議員(日本進歩党)を務めたが、美術収集家としても著名だ。日本の本格的な西洋美術館の創設を目指し、ヨーロッパで買い集めた絵画、彫刻、浮世絵は「松方コレクション」の名で知られており、その一部は「国立西洋美術館」に所蔵、展示されている。

 

●乃木希典

 乃木希典(のぎまれすけ 1849~1912)は、長州藩の支藩・長府藩士、軍人(階級は大将)、教育者、また多くの詩歌を遺した文人でもあった。明治45年(1912年)7月30日明治天皇が崩御され、その「大葬(たいそう)の礼」が行われた9月13日夜、乃木夫妻は殉死(自刃)した。享年62歳。乃木の殉死の理由は、西南戦争時に連隊旗を奪われたことを償うためとか、日露戦争において多くの天皇の兵士を失ったことなどが挙げられている。戦前は「乃木大将」、「乃木将軍」と親しまれ、東京の「乃木坂」の地名の由来でもある。

 日露戦争における旅順攻囲戦では第三軍司令官として指揮を執った。旅順要塞は「難攻不落」とされ、日露戦争における最激戦であったため、日露戦争を代表する将軍として日本海海戦の東郷平八郎と共に、その武功が国際的に評価された。また、降伏したロシア兵に対する寛大な処置も世界的な賞賛の対象となり、軍人としての人格も評価されている。

 また乃木は日露戦争で2人の息子を戦死させてしまった事から、国民的な同情を寄せられた。明治天皇は、子息を亡くした将軍の心中を思い、将軍を学習院院長に任じ、裕仁親王殿下(後の昭和天皇)の教育係りも委ねた。

 写真は、ウキペディアコモンズから転載。

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 しかしながら旅順要塞攻略に際しては、延べ6万人の戦死者を出した。特に激戦地だった203高地では、11日間の戦闘で約5千名の戦死者、約1万1千名の負傷者を出し、戦いには勝利したが大きな犠牲を払った。旅順攻囲戦での戦略的な誤りや、明治天皇崩御に際し前時代的な殉死について、司馬遼太郎ほか多くの文化人からの批判も多い。名将であったとする主張と愚将だったとの批判とで、乃木に対する評価は大きく分かれる。

 乃木は殉死に当たって静子夫人に宛てた遺書を残している。夫人の殉死の遺志は、直前まで将軍に伏せられいたため、乃木は一人で死ぬつもりだったそうだ。将軍夫妻の墓所は、東京・青山霊園にある。

 

 「乃木神社」は、乃木希典を軍神として祀った神社。乃木の出身地の下関市や別邸のあった那須塩原市など、国内ゆかりの地に複数の「乃木神社」がある。

 栃木県那須塩原市・・・日清戦争後に乃木が閑居した別邸の敷地内にある。
 京都市伏見区・・・明治天皇陵の麓にある。
 山口県下関市長府・・・乃木の郷里。
 東京都港区赤坂・・・乃木夫妻が自刃した邸宅の隣地にある。

 そのほかにも、滋賀県近江八幡市、香川県善通寺市、北海道室蘭市、埼玉県飯能市などにも「乃木神社」があるそうだ。

 

●逢川まさき

 プロ歌手の「逢川まさき」は、声も良いし歌もうまい。ちょっと出た月並みの歌手とどこか違う良さを持っている。しかしこういった歌手は、日本中にたくさんいるのだろう。本名前田将邦、熊本県八代市出身、1980年3月生まれの39歳。日本クラウン株式会社所属。事務所は、個人事務所の「オフィスアイカワ」。

 高校生の時にNHKのど自慢へ出場、2001年名古屋で開かれたカラオケ大会でグランプリを受賞。大会関係者にスカウトされて上京 、6年後の2008年『港たずねびと』で歌手デビュー。2010年はは第2弾シングル『しのび逢い』で全国キャンペーン行い、初めてのソロコンサートを東京で開催した。

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 27歳の遅いデビューで12年目、クラウンレコードから何枚かCDを出し、カラオケにも何曲か入っているそうだ。しかしテレビで見たり、聞いたりするようなヒット曲は、まだないようだ。

 デビューの時のキャッチフレーズは「甘い艶のある低音の響きを持つ新人」。本人の弁では、若い頃はプロゴルファーの石川遼に似ていることから「歌謡界のハニカミ王子」、しかし最近は俳優の香川照之に似て来たという。声は美川憲一似だそうだ。

 

 本ブログ記事「那須塩原-その2」に続く。

 

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