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2019年7月の4件の投稿

2019年7月22日 (月)

信州塩田平-その2

 2019年7月13日(土)、信州塩田平と別所温泉の歴史探訪。


 本ブログ記事「信州塩田平-その1」に続き、塩田平の別所温泉を巡る。

 別所温泉は塩田平の西、標高約570mの山あいの地にある。信州最古と伝わる温泉地で、日本武尊が7か所に温泉を開き「七苦離(ななくり)の温泉」と名付けたという伝説から「七久里の湯」とも呼ばれる。

 

 上田市前山の「中禅寺薬師堂」から「山王山公園」駐車場に戻り、およそ車で10分で上田市別所温泉に移動する。

 「安楽寺」の黒門を車で通り抜け、12:00境内の駐車場に車を駐める。

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 駐車場から歩いてすぐの温泉街にへ行き、食事処を探す。

 

●日野出食堂 12:15~12:50

 温泉街に出て、「北向き観音堂」の入口を右へ坂道を登ると、共同浴場「石湯」の対面に「日野出食堂」がある。

 玄関を入ると土間にテーブル席が一つ。靴を脱いで座敷の座卓席に上がり、昼食、休憩。

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 建物は古いが、内部はみぎれい。来店した有名人のサインだろうか、壁に色紙が何枚か貼ってある。昔懐かしいタイプの階段があり、2階にも客席の部屋だろうか。もともと何かの店舗か、住宅を食堂にしている感じ、素朴な昭和の雰囲気の店。さるそば700円を注文。帰ってから気がついたが、この辺りは「馬刺し」や馬肉の「肉うどん」が有名で、メニューにあったのを思い出した。

 

●安楽寺 13:00~13:40

 「安楽寺」の駐車場で、観光ガイドと待ち合わせ。参道の石段を上ると、山門がある。

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 山門の先をまっすぐ石畳の上を進むと本堂。

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 参道の右手は、立派な鐘楼。左手には、座禅堂(写真なし)。

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 「安楽寺」の本堂。寺号は「安楽護聖禅寺」。曹洞宗の寺院で、本尊は釈迦如来。

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 「安楽寺」は、鎌倉の「建長寺」などと並んで、日本では最も古い臨済禅宗の寺院の一つ。奈良時代の天平年間(729~749)とか、平安初期の天長年間(824~834)に開かれたと伝えられるが判然としない。鎌倉時代中期にはすでに相当の規模をもった禅寺であり、「信州の学海」の中心道場だった。中興開山は、惟仙(いせん)和尚とされる。鎌倉北条氏の保護によって栄え、多くの学僧を育てていた。北条氏滅亡(1333年)後は衰退したが、国宝・重要文化財など数多くの鎌倉時代の文化遺産を有して、信州最古の禅寺の面影を残しているという。安土・桃山時代の1588年(天正16年)ころ、曹洞宗に改められたという。

 本堂の屋根の上部には、北条氏の家紋の「三つ鱗」。前山の塩田北条氏の菩提寺「龍泉寺」でも、見ることが出来た。

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 「安楽寺」の国宝「八角三重塔」は、本堂の裏を登った裏山の中腹にある。本堂左手の入口から、塔拝観料の300円を払って入場。

 裏山に登る杉林の山道の途中に、六地蔵が並ぶ。

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 また山道の途中にある「伝芳堂」には、寺宝である1329年(嘉暦4年)制作の木造「惟仙和尚坐像」と木造「恵仁和尚坐像」が安置されている。(写真がうまく撮れなかった、「安楽寺」のパンフレットから転載)

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 1923年(大正12年)に、国の重要文化財に指定された。惟仙(いせん)和尚は、鎌倉時代中期に中国・宋に渡って修行した後、当地で隠遁し安楽寺を中興開山した。また恵仁(えにん)和尚は、惟仙和尚に従って来朝した中国僧で日本に帰化、安楽寺の第2代となった。

 「安楽寺」の国宝「八角三重塔」が、緑に中に重厚なたたずまいを見せる。

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 「八角三重塔」は塔高18.75m。日本に現存する唯一、日本最古の八角塔として極めて貴重な事から、1952年(昭和27年)に国宝に指定。松本城とともに、長野県で最初の国宝となる。中国宋時代の禅宗様を採用したもので、鎌倉時代後期の1290年代に建立されたと推定される。領主だった塩田北条氏が、寄進したものと考えられている。

 

 「安楽寺」を出て「常楽寺」に向かう途中、南東方向の展望。塩田平と遠くに上田市街地、上信越の山々。雲がかかって山頂が見えないが、中央のピークが「湯の丸山」近隣の「烏帽子岳」(えぼしだけ、2066m)、右端に「浅間山」(2568m)、左端に「四阿山」(あずまやさん、2354m)。

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●常楽寺 13:50~14:15

 「常楽寺」は「北向観音」が建立された825年(天長2年)、「三楽寺」の一つとして比叡山延暦寺の座主・慈覚大師(円仁)により開山したと伝えられる天台宗の寺院。「北向観音堂」の本坊であり、本尊は阿弥陀如来。鎌倉時代には、天台教学の道場として大いに栄えた。なお「山楽寺」は、「長楽寺」「安楽寺」「常楽寺」の三寺を指す。長楽寺は焼失し廃寺となった。

 石段を上がると茅葺の本堂が現れる。無人のポストに拝観料100円を入れ、境内に入る。

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 本堂は、平成15年に修復工事を行った際、建立当時の建築様式に改められたという。

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 本堂前にある、樹齢350年といわれる「御舟(みふね)の松」 。

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 この船は、宝船の形に見えるそうだ。この宝船で阿弥陀様が、極楽浄土へとお連れする。

 境内には、歴史がありそうな石仏がいくつも並んでいる。

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 本堂裏には柵に囲まれて、苔むした安山岩の「石造多宝塔」がある。国指定の重要文化財。高さ2.85m。

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 「多宝塔」というのは、上下二層の屋根がある塔。下の屋根の上に饅頭形という丸いふくらみがあって、その上に丸い塔身があり、二つ目の屋根がその上に載っている。更にその上に、相輪という柱が立っている。

 この「石造多宝塔」は、1262年(弘長2年)に建立されたもので、銘文にはこの地が北向観音様が出現した地で、建立した経緯が刻まれている。隣接する高さ1.63mの「石造多層塔」は、1924年(大正13年)別所温泉「大島屋旅館」裏から発見されたものの一つて、上田市有形文化財に指定されている。

 

●岳の幟(たけののぼり)

 温泉街にも幟(のぼり)を目にしたが、「北向観音堂」に向かう道路脇に、色鮮やかな幟がいくつか立っていた。「岳の幟」は、別所温泉に伝わるめずらしい雨乞いのお祭りで、国の重要無形民俗文化財。

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 7月15日に一番近い日曜(2019年は14日)に、別所温泉で雨乞いの行事「岳の幟(のぼり)」が行われる。室町時代の1504年(永正元)年、干ばつで村人が夫神岳(おがみ)の山の神に雨乞いをしたら雨が降ったので、各家で織った布を奉納するようになったのが始まりと言われ、以来500年も続いているという。

 温泉街の4地区の100人以上の住民達が、交替で数十本の色とりどりの反物と竹竿でできた長さ約6mの幟のぼりをかつぎ、標高1250mの夫神岳の山頂から別所神社まで温泉街を練り歩く神事。練り歩きの途中では、笛や太鼓のリズムに合わせて、花笠童女(小学生女子)たちが2本の竹を竹を打ち鳴らす「ささら踊り」や、若衆の「三頭獅子舞」を奉納する。

 「北向観音」前の広場では、何やらお祭りの準備中。あとで調べると、この日は「祇園祭り」。

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 「岳の幟」の前日(今年は7月13日)、つまりこの気にの当日、「別所温泉祇園祭」が行われる。昼間は、子供神輿。夕方からは3基の勇壮な神輿が、笛と太鼓の演奏とともに別所温泉内を練り歩くそうだ。 

 また街にあるポスターを見ると、「別所温泉つるし飾りまつり」が、2019年7月1日〜8月16日まで行われている。江戸時代後期の上田藩では、初節句を迎えた女の子の健やかな成長と幸せを願い、厚紙を絹などで包み刺繍を施した桜の花、鶴亀、海老や鳳凰などの「つるし飾り」を贈る風習があったそうだ。この「上田のつるし飾り」は幕末期頃に途絶えてしまったが、近年別所温泉では有志によって盛んにつるし飾りが作られ、別所温泉の各所に展示してあるそうだ。 
 

●北向観音堂 14:25~14:40

  「北向観音堂」は、別所温泉街の中心にある。参道の両側にお土産屋、食事処が軒を連ねる。

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 「北向観音堂」は近隣にある「常楽寺」が本坊で、その伽藍の一部として同寺が所有・管理している。

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 寺伝によれば、平安時代初期の天長2年(825年)比叡山延暦寺座主の慈覚大師(円仁)により開創された霊場。平安時代後期の安和年間(968~970年)、信濃守に就任した平維茂(たいらのこれもち)が「常楽寺」や「北向観音堂」など大伽藍として大改修を加え、また別所温泉の開発に尽力したという。1189年(寿永元年)には源平争乱の中、木曾義仲の手により八角三重塔と石造多宝塔を残して全て焼失してしまうが、源頼朝の命のもと伽藍復興がおこなわれ、1252年(建長4年)に北条国時により再興された。

 厄除け観音として全国の人々とから信仰を集め、多くの著名人も参拝に訪れている。本堂が北に向いているのは、国内ではほとんど例がないという。「北向観音堂」は千手観音様を御本尊として、現世利益を願う。また長野市の「善光寺」は、ちょうど向き合う南向きに建立され、阿弥陀様を御本尊として未来往生を願う。現在と未来の片方だけだと「片詣り」と言われ、向き合う両方をお詣りしたほうが良いとされる。

・愛染かつら(市指定文化財

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 樹齢300~1200年(諸説ある)、幹囲5.5m、樹高22mの老木。伝説によると平安時代初期825年(天長2年)、大火の際どこからなく現れた千手観音様が、このカツラの木の上でひしめきあう避難民を救ったという。北向厄除け観音の霊木といわれている。境内の東隅にある「愛染明王堂」(写真なし)とこのカツラの木に因んで、第一回直木賞受賞作家の川口松太郎(1899 - 1985)が『愛染かつら』を執筆したことは有名。ヒロインの高石かつ枝が津村浩三(映画の配役は、田中絹代と上原謙)が、カツラの木の下で永遠の愛を誓う。若い人たちに「縁結びの霊木」として親しまれ、1939年(昭和14年)長野県の天然記念物に指定された。

・護摩堂(不動堂)

  1983年(昭和58年)に、本堂の傍の護摩堂が再建された。護摩祈祷が行われ、不動明王が祀られている。

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・温泉薬師瑠璃殿 (るりでん)

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 内部には温泉薬師信仰から薬師如来が祀られてい。この温泉薬師は、伝説では行基菩薩の創建、慈覚大師の再建とされている。以前の薬師堂の位置は、別所温泉「大師湯」の西隣りにあったようだ。今の建物は、江戸時代の1809年(文化6年)に湯本講中の積立金により再建された。

・北原白秋の歌碑

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 「観音のこの大前に奉る 絵馬は信濃の春風の駒」

  1923年(大正12年)に家族と別所温泉へ遊びに来た北原白秋は、わずか数日で162首の短歌を詠んだという。1962年(昭和37年)、この歌碑の前で白秋の法要が営まれ、遺族、歌碑建立賛助者が参列して除幕式が行われた。

・新派の俳優・花柳章太郎の供養碑

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 「北向にかんのん在す 志ぐれかな 章太郎」

 花柳章太郎は、白粉(おしろい)が肌に合わずに悩んだが、北向観音に願をかけたところ快癒することができたという。1965(昭和40)年、晩年に詠んだ句と言われ、供養碑の建立発起人に大映社長の永田雅一や川口松太郎の名もある。

 観光ガイド終了。

 

●共同浴場「石湯」 14:45~15:20

 池波正太郎の歴史小説『真田太平記』には、別所の湯がしばしば登場する。入口の左側に石碑「真田幸村公 隠しの湯」(池波正太郎の筆) が建つ。入浴料150円。

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 別所温泉には3ヶ所の共同浴場(温泉銭湯)がある。入浴料は安いが、岩風呂の浴場は小さいくて、洗い場は数人程度でシャワーなし。石鹸・シャンプーが置いてなく、タオル、髭剃りなどと共に石鹸(50円)も帳場で販売していた。温泉でで汗を流し、気分もサッパリ。外に出ると、こども神輿が街に繰り出していた。

 別所温泉を後にして、16:05東部湯の丸IC通過。16:35、横川SAで休憩し、夕飯用の「峠の釜めし」を購入。

 18:00、出発地に到着、解散。

 「塩田平ウォーキングマップ」というパンフレットがあった。ここには、「遊歩百選」認定コースというのがる、ウォーキング・コース。しかし思ったよりも坂道が多くて、少しハードなウォーキングだった。この日の万歩計では、1万5千歩、9Kmほど歩いていた。

 

 ★ ★ ★

 「別所温泉」は景行天皇の時代、日本武尊が東征の折に発見されたと伝えられている。また平安時代中期、清少納言『枕草子』にある「湯は七久里の湯、有馬の湯、玉造の湯」という一節の「七久里の湯」が、起源ではないかという説もある。「別所」という地名が初めて歴史に登場するのは13世紀。信濃の守の平維茂(たいらのこれもち)が、この地に別業(古代貴族の別荘のこと)を建て、「別所」と呼んだことが由来とされる。12世紀に入ると「別所」は、木曽義仲が信州を平定するために派遣した軍勢によって火を放たれ、多くの寺院が灰になってしまった。その後、焼失した寺院は源頼朝、次いで塩田北条氏によって再建されたという。

 近代以降、有島武郎や川端康成ら多くの文人が訪れた。川端は『花のワルツ』(1936年刊行)を別所温泉の旅館「臨泉楼 柏屋別荘」(2017年で閉館)で執筆している。その旅館には、1923年北原白秋も逗留して百首以上の歌を詠み、後年歌碑が建てられた。旅行記や随筆に取り上げたり、別所温泉に関わる史実や伝承を取り入れた作品も少なくない。

 吉川英治は『新平家物語』で、木曽義仲が愛妾を連れて別所温泉「大湯」に入湯する場面を描いている。史料上の根拠はないが、「大湯」の傍らには吉川の文学碑も建てられている。また真田昌幸・信之・幸村の作品を数多く執筆した池波正太郎は、取材のため別所温泉を度々訪れた。代表作の一つ『真田太平記』においては、若き幸村が「石湯」に頻繁に入浴に訪れるなど、重要場面にしばしば登場している。これも、史料上の根拠はない。『新平家物語』同様にフィクションであるが、「石湯」は「真田幸村公隠しの湯」と宣伝され、池波の筆による石碑が建てられている。

 小説・映画で有名なメロドラマ『愛染かつら』のカツラの大木を、「北向観音堂」で初めて見たが、愛染明王の「愛染堂」はどこにあったのか、気がつかなかった。作者の川口松太郎は昭和10年頃、「北向観音」がある別所温泉の老舗旅館「かしわや」に小説執筆のため滞在していた。部屋からはこのカツラの木がよく見えたため、この木をモチーフにした恋愛ドラマを着想したという。

 別所温泉には、源泉や共同浴場の「大湯」「大師湯」「石湯」、足湯の「ななくり」「大湯薬師の湯」、そのほか13ヶ所の住民用の洗い場(洗濯場)を所有・管理する公共団体として、「別所温泉財産区」がある。別所温泉の所有者は「別所温泉財産区」で、管理者は上田市長である。1997年長野新幹線開業や1998年長野オリンピックなどで大型投資をして施設拡充した事業者が多いが、このところ長引く地方の不景気で借入金負債が経営を圧迫し、歴史ある別所温泉でも倒産や廃業する老舗旅館も出て来て、現在2軒の旅館が売りに出されているそうだ。

 鎌倉時代、塩田平には仏教文化が根付き、教育施設が充実、優れた指導者もいたであろう。学問を志す多くの人は、塩田平を修業の地に選び、集まって来た。信濃の生んだ名僧に、無関普門(むかんふもん)という僧がいた。のちに京都随一の名刹「南禅寺」を開山し大明国師と呼ばれた。いわば日本最高の地位にあった高僧は、若いころこの塩田平で学んだという。そのころ、塩田平は「信州の学海」といわれ、学問・宗教に志すものは、遠方からたくさんやって来た。別所の「長楽寺」「常楽寺」「安楽寺」の三楽寺や、前山の「中禅寺」「前山寺」などがその道場になっていたようだ。

 

 

2019年7月18日 (木)

信州塩田平-その1

 2019年7月13日(土)、信州塩田平と別所温泉の歴史探訪。

 

 塩田平(しおだだいら)は、長野県東信地方の上田盆地、千曲川の左岸にある河岸段丘。かつては「塩田北条氏」三代の居城「塩田城」があり、その周りには神社仏閣が点在、「信州の鎌倉」と呼ばれ、現在なおその面影を残す。

 「生島足島神社」(上田市下之郷)、「前山寺」(上田市前山)と「安楽寺」(上田市別所温泉)の駐車場に車を駐め、それぞれ周辺の名所旧跡を徒歩で巡る。

 

 7:20、レンタカーに参加者が同乗して出発、関越道、上信越道を走る。

 8:55、上信越道の東部湯の丸ICで高速を降り、千曲川を渡って上田市下之郷の「生島足島神社」の駐車場に車を駐める。

 
●生島足島(いくしまたるしま) 神社 9:15~9:50

 万物を生み育て生命力を与える生島大神(いくしまのおおかみ)と国中を満ち足らしめる足島大神(たるしまのおおかみ)を祀る。

 「生島足島神社」は少なくとも平安時代からの古社で、戦国時代には武田氏や真田氏などの信仰を受け、また江戸時代は上田藩主の厚い庇護を受けた。

 「神池」という池の中の小島「神島」に「御本社」がある。「神島」に渡るための屋根付きの朱塗りの「御神橋」。

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 「御池」に浮かぶ「神島」に鎮座する「御本社」。

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 「御本社」に行くには、「御神橋」の左手にある「参橋」を渡る。

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 本殿に参拝。本殿内殿の土間(大地そのもの)が御神体だそうだ。

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 摂社「諏訪神社」(下宮)は、上宮の「御本社」と向かい合う位置にある。

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 上の写真の右隅に、樹齢800年の「夫婦欅(めおとけやき)」と呼ばれる御神木がある。この「諏訪神社」の本殿は、1610年(慶長15年)に真田信之が再建した。

 境内には、江戸期農村歌舞伎の姿を残す「歌舞伎舞台」がある。

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 「せり上がり」や「廻り舞台」装置があり、観客席は舞台前の平地で、花道は左手に架設されたという。江戸~明治時代にかけて建築された農村歌舞伎舞台として、県内では最大規模、全国でもトップクラスだそうだ。

 「生島足島神社」には、国指定重要文化財の武田信玄の必勝を神に祈った「願文(がんもん)」、家臣団に忠誠を神に誓わせた「起請文(きしょうもん)」、真田昌幸・信幸親子が神社に与えた公文書「朱印状」など、数多くの古文書を所蔵する。「歌舞伎舞台」の館内には、これら文書のコピーが常設展示されていた。入館無料、撮影禁止。


 上田市下之郷の 「生島足島神社」から10分ほど、次の目的地の上田市前田の「前山寺」に近い「山王山公園」駐車場に10:00車を駐める。8年前に行った戦没画学生慰霊美術館の「無言館」は、この近くにある。ここから塩田平の田園の見晴らしが良い。

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●前山寺(ぜんざんじ) 10:05~10:20

 「山王山公園」駐車場に車を駐めたが、「前山寺」により近い所に、空いている駐車場が2ヶ所ほどあった。

 5分ほど歩くと、立派な黒い冠木門(かぶきもん)。冠木門とは、門柱に貫(ぬき)をかけただけの屋根を持たない門。

 冠木門から先は結界(聖と俗を分ける堺)とされ、緩やかな石畳の坂と赤松や欅(ケヤキ)の巨木に囲まれた参道並木が100mほど続く。

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 参道の左手に建つ「信濃デッサン館」は、休館日。

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 「信濃デッサン館」は、1979年(昭和54年)に館主・窪島誠一郎(父は小説家・水上勉)によって設立。夭折(若くして亡くなった)の画家達の作品約1000点を所蔵、展示している。1997年(平成9年)に分館として、戦没画学生慰霊美術館「無言館」を開館。2015年末館主が病気となり、また来館者減少や財政上などの理由から、「無言館」を存続させ、「信濃デッサン館」を2018年3月から「無期限休館」としているという。

 急階段を上ると、薬医門(やくいもん)の先の左手に、木造茅葺の本堂がある。入山料200円。薬医門は、2本の本柱に控え柱を立て屋根を持つ門。

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 「前山寺」は、 独鈷山(とっこさん、標高1266m)の麓にある古刹で、真言宗智山派、本尊は大日如来。平安時代初期(812年)、空海上人が護摩修行の霊場として開創したと伝えられている。鎌倉時代の1331年、讃岐国「善通寺」より長秀上人が訪れ、「正法院」を現在の地に移し、「前山寺」を開山したとされる。「塩田城」の鬼門に位置し、その祈祷寺として塩田北条氏の信仰も厚かった。

 正面に重要文化財で有名な「前山寺三重塔」。

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 寺の縁起によれば、鎌倉時代の建立と伝えられているが、建築様式から室町時代初期と推定されるという。塔は高さ19.5m、屋根は柿葺(こけらぶき)。二層目と三層目に、何故か窓も扉もなく、また回廊(かいろう)も勾欄(=高欄、手すり)がないため、「未完成の完成塔」といわれる。

 案内標識に従って、「塩田城跡」に向かう。

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●塩田城跡 10:35

 坂道を上り、塩田城跡の主要部への入り口の「塩田城跡」の石碑の前を通過する。

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 「塩田城跡」は、独鈷山の分脈である弘法山(842m)の山麓にあり、塩田平を一望できる。鎌倉時代に北条義政が、鎌倉から塩田の地に入った時に居城として築いた。土塁や石垣が若干残っていて、昭和50年(1975年)頃に発掘調査が行われたそうだ。

 「塩田城跡」の石碑の前の「あじさい広場」で、 ちょうど地元自治会の「あじさい祭り」が開催されていた。子ども達の和太鼓、女性達のオカリナ演奏、焼き鳥やソフトドリンクの販売など。塩田北条氏が、鎌倉に向かう「鎌倉街道」は「あじさい小道」として整備されている。「前山寺」から「塩田城跡」の石碑の前を経て、「塩野神社」までの1.5Kmほどの小道に、3万株のあじさいが満開だった。

 「あじさい小道」を歩き、観光施設の「塩田の館」の前を経て「龍光院」へと進む。


●龍光院 10:40~10:50

 「黒門」と称される門の前には、樹齢600年というケヤキの大木と石標が立っている。右側は「曹洞宗 龍光院」。左側には「山門禁葷酒」、つまり臭みのある野菜、生臭い魚や肉は、修行の妨げになるから持ち込み禁止という意味。

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  門を抜けると、その先は石段の参道が長く延びている。参道の右側には車道が沿っていて、山門前の駐車場まで続く。

 参道を上りきると、右手に立派な山門が建つ。

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 山門から石畳が真直ぐ延びた先に、どっしりした寄棟・銅板葺きの本堂がある。江戸中期(享保年間)に再建されたという。中央に「龍光禅院」と金文字で書かれた扁額。本尊は釈迦如来。

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 1282年(弘安5年)、北条国時が父である義政の菩提を弔う為、臨済宗「仙乗寺」として創建。塩田北条氏の菩提寺として庇護され、「信州の鎌倉」の中心的寺院として隆盛する。その後1333年(元弘3年)新田義貞が鎌倉を攻め、幕府側についた塩田北条氏一族が滅びたため衰退する。1601年(慶長6年)、当初の寺号を「龍光院」と改め曹洞宗に改宗、再び興して現在に至る。

 本堂の左側には、選佛場が建っている。選佛場(せんぶつじょう)とは、座禅の修行をする禅堂。本堂や門の屋根には、「三つ鱗」の家紋が飾られており、北条氏の菩提寺であったことがうかがえる。「三つ鱗」は、正三角形を3つ山形に積み上げた図案の家紋。

 参道には初代義政の墓が、また近くの塩田城跡には国時、俊時父子の供養塔が建立されているそうだ。

 「あじさい小道」、ため池の「塩野池」の前を通り、「塩野神社」へ。

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●塩野神社 11:00

 時間の都合で、「塩野神社」の参道入口を通過。

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 「塩野神社」は、独鈷山(とっこさん)の山麓に位置し、大きな森につつまれた古社。出雲大社の分霊を、独鈷山の山頂付近の鷲岩という巨石に祀ったのが始まり。後に、人里近いこの場所に遙拝所が建てられ、そのうちに本殿もこの地に移されたという。「塩野神社」は、水の神様。神社の前に太鼓橋が架かっており、その下には独鈷山の清らかな湧き水が滝となって流れ、やがて産川(うぶがわ)と合流して塩田平を潤しているそうだ。

 古来この地方の信仰の中心で、塩野北条氏、武田氏、真田氏などの統治者は、この神社を厚く崇敬した。境内の森の荘厳さには定評があり、また太鼓橋、拝殿の楼閣造り、本殿の彫刻など、見るべきものが多いそうだ。時間がなくて残念。

 案内標識に従って、再び坂道を上って次の「中禅寺」へと進む。

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●中禅寺薬師堂 11:05~11:15

 無人の受付があって、拝観料200円を箱の中に入れる。

 仁王門には、木造金剛力士立像。阿形、吽形像は、県宝に指定。像高は2m余り。

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 「中禅寺薬師堂」は、中部日本(中部・関東地方)最古の木造建築物。本尊の薬師如来座像は、神将(しんしょう)像とともに、国の重要文化財に指定。薬師堂では「方三間宝形作り」という様式で建築されていて、様式の面から平安未期か鎌倉初期の創建とされている。

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 薬師堂の扉の格子から拝観すると、暗い堂内に木造薬師如来坐像が安置されている。像高は1m弱のカツラの寄木造り、国の重要文化財。鎌倉時代初期の製作と考えられている。薬師堂の様式、仏像が安置されている位置など、平安末期の平泉・金色堂と同じだそうだ。

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 薬師像の右下に、1躰の神将(しんしょう)像が安置されている。像高70cm弱、ヒノキの寄木造り、これも木造薬師如来坐像と共に、国の重要文化財。腕や左足先が失われており、薬師如来を守護する武神・十二神将のうちの1躰だけが残ったのか、別のお堂から移されて来たのだろうか。

 「中禅寺」は、真言宗智山派の寺院。平安初期、空海による創建と伝えられるが不詳。平安末期から鎌倉初期の仏像があることから、この頃までには伽藍があったようだ。 写真は、「中禅寺」の本堂。

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 車を駐めた「山王山公園」駐車場へ、歩いて戻る。

 11:50、駐車場を出発、西の方角の別所温泉に向かう。

 この後は、本ブログ記事「信州塩田平-その2」に続く。

 

 「上田城」、「真田の郷」、「無言館」についての本ブログの関連記事は、次の通り。

  「真田の郷」  2017年9月17日 投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-4c3e.html

  「紅葉の信濃路の旅」  2016年11月30日 投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-8ad4.html

  「国宝・松本城と無言館」 2011年11月 2日 投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-a829.html



 ★ ★ ★

 千曲川の東岸は、戦国時代に真田氏が築いた「上田城」とその城下町、北東の山間部には真田氏発祥の地「真田の郷」がある。一方で千曲川左岸の「塩田平」は、鎌倉時代に塩田北条氏の所領の田園が広がり、山の麓には塩田城跡、国宝・重文などの文化財が残り神社仏閣が残っていることが、よく分かった。


 信濃国小県(ちいさがた)郡の塩田郷は、古代には国府・国分寺も置かれ、「塩田平」と呼ばれるように肥沃な耕地を有し、信濃国における要地とされた。平安時代に建春門院に寄進され「塩田荘」となった。(建春門院は、平清盛の妻・時子の妹・滋子で、後白河天皇の寵愛を受け、平氏一門の繁栄の基となる高倉天皇を産んだ。)

 鎌倉時代には、幕府により島津忠久が地頭職に任命されるが、「比企能員(ひきよしがず)の変」に連座したので北条氏の所領となる。塩田北条氏は、2代執権・北条義時の三男・重時(極楽寺流)の五男・義政を祖とする北条氏の一門。重時以降の極楽寺流という一族は、北条氏一門の中でも北条家宗家に継ぐ家格を持ち、その子孫は幕府重職に就き、また嫡流の正室にも入っている。

 塩田北条氏の祖の義政は、鎌倉幕府の連署(執権に次ぐ役職)として8代執権・北条時宗を支える要職にありながら36歳で突然出家、信濃国善光寺に遁世して、その後「塩田荘」に籠居。以後この家系は、「塩田(または塩田流)北条氏」と称し、塩田荘の実質的な権益が継承されていった。義政が居住した「塩田荘」は、その子の国時、孫の俊時の三代で、「信州の鎌倉」と呼ばれる中世文化が開かれた。鎌倉陥落の際には宗家に殉じ、国時とその子の俊時と藤時が、一門と共に自害した。

 北条が滅んだ後は村上氏が長く支配したが、戦国時代には武田氏や真田氏の所領となる。江戸時代は、「塩田三万石」と称される上田藩の穀倉地帯となった。


 「塩田平」は、千曲川の支流である浦野川と産川(うぶがわ)の河岸段丘と低い丘によって形成された平坦地。かつて湖であったが、2つの川によって埋め立てられたものと考えられている。「塩田平」は、全国有数の雨の少ない地域で、ため池が多い。耕作地は浦野川や産川の河岸段丘の上にあるため、江戸時代から「塩田平3万石」と言われる900haの水田に、大小合わせて100ヶ所のため池を作り、灌漑に使用されている。2010年には「塩田平のため池群」として農林水産省の「ため池百選」に選定されている。

 1956年(昭和31年)、長野県西塩田村・東塩田村・中塩田村と別所村が合併して塩田町が発足したが、塩田町は1970年(昭和45年)に上田市に編入された。また真田発祥の地や菅平高原で知られる真田町は、2006年(平成18年)に上田市に編入されている。

 

 

 

那須塩原-その2

 2019年7月10日(水)~11日(木)、栃木県那須塩原の1泊2日の宿泊旅行。

 本ブログ記事「那須塩原-その1」の続き。

 

 2日目の7月11日(木)、5時半起床。

 6時半からラジオ体操。このホテルは、毎朝2階フロント前で宿泊者向けのラジオ体操がある。日替わりで、標準語、青森弁、岩手弁、茨城弁、京都弁、大阪弁、土佐弁、博多弁、鹿児島弁…など各地の方言を使ったラジオ体操第一をビデオで流す。

 この日は、ウチナーグチ(沖縄)。掛け声がさっぱり分からないが、数を数えるのは何となくわかる。

 ティーチ(1) ターチ(2) ミーチ(3) ユーチ(4) イチチ(5) ムーチ(6) ナナチ(7)ヤーチ(8)。ちなみに9はククヌチ、10はトゥー。

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 20人ほどの参加者には、ミネラルウオーターが配られた。PETボトル500mLの「 麗( うるわ)しずく 」。環境省の名水百選にも認定されている長良川中流域の地下天然水をボトリング。カラダに吸収されやすいとされるpH7.3、硬度27の軟水、とても美味しい。

 ラジオ体操の後は、朝風呂へ。前日の迷子になりそうな「湯仙境」ではなく、西館の地下1階にある「岩風呂」に入り、気分爽快。体も脳も活性化。

 7時45分から朝食。この時刻はちょうど混み合う時で、列に並んでやっと8人掛けのテーブルに着席。朝食は、60数品目(ドリンクを除く)もあるという。

 誰もが那須塩原の正確な地図を持っていない。あるのは観光地図で、道路をデフォルメして書いてあるので、距離感がつかめなない。とりあえず、今日の予定は塩原渓谷の有名な滝と大吊橋。お昼は、那須で適当なステーキ店を探すことに。行きあたりばったりの旅。


 10時、「ホテルニュー塩原」を出発。時折、雨がパラパラ。箒川(ほうきがわ)に沿った国道400号線を下る。

 10時15分、国道沿いに塩原の代表的な滝である「竜化(りゅうげ)の滝」入口にある駐車場に到着。

 

●竜化の滝 那須塩原市塩原字東山国有林 10:15~10:55

 案内板には、ここから700m、山道を歩いて片道20分とある。箒川(ほうきがわ)に注ぐ沢をさかのぼる。

  山道を登ると、この辺りは材木岩と呼ばれる柱状節理を見ることができる。

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 沢を渡る橋から、下流側に滝らしい流れがある。そこから全体は見えないが、これが案内板にあった「抛雪(ほうせつ)の滝」か。

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 国道400号線の「澄鮮橋(ちょうせんはし)」からだと滝全体が見えるらしいが、澄鮮橋付近には駐車場も路肩もないそうだ。しかも国道は道幅が狭くカーブが多い上に交通量も多いので危険、見学は無理。

 沢に沿ってよく整備された遊歩道を登る。雨で濡れていて滑り易く、急な坂道が続く。

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 案内板にあった2番目の滝の「風挙(ふうきょ)の滝」は、沢が少し開けた所にある。落差は約10m。

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 コンクリートのトンネルの中で、遊歩道の行き止り。ここが観瀑台。

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 観瀑台の眼前に、迫力のある「竜化の滝」。落差60m、三段になって流れる様子が、竜が登っているように見えるそうだ。

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 次の目的地は、大吊り橋。「竜化の滝」駐車場から国道400号の約4㎞先、途中に長さ1.5Kmの「がま石トンネル」を抜ける。

 

●もみじ谷大吊橋 那須塩原市関谷 11:10~12:55

 レストラン、ショップ、トイレのある「森林(もり)の駅」の駐車場に着く。塩原ダム湖に架かる全長320m、歩道吊り橋としては本州最大級の「もみじ谷大吊り橋」。通行料は大人300円、小中学生・高齢者(65歳以上)は200円。

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 特に紅葉の時期なら、雄大な塩原渓谷の自然に囲まれた吊り橋の景観が楽しめそうだ。

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 対岸がダム公園になっていて、展望台がある。また2013年に「恋人の聖地」として認定され、この谷の周辺に生息するクマタカのつがいのモニュメントが設置されていて、恋人たちの記念撮影スポット。また人間国宝の宮大工・西岡常一(1908年~1995)の唯一の内弟子・小川三夫氏が制作したという立派な祠(ほこら)が、何故かここにある。


 大吊り橋から国道440号を南下し北西に進路を変え、那須郡の那須町へ。

 

●和牛ステーキ桜 那須高原店 那須郡那須町高久甲 13:05~14:40

 那須街道(県道17号那須高原線)を走り、昼食のステーキの店を探す。しかしどこも高級店でランチで5千円以上。お子様ランチなら、それなりの値段で肉が食べられそうだが…。

 「和牛ステーキ桜 那須高原店」の店を覗く。

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 ここはランチのステーキが5千円前後。ちょっと手が届かないが、国産牛ハンバーグなら150gで1,800円、200gで2,300(いずれも税抜き)。これにサラダ、スープ、パンまたはガーリックライス、デザート、コーヒーまたは紅茶が付く。

 全員これで手を打ち、入店。ちょうど8人が入れる個室に案内された。ハンバーグのサイズ、パン・ライスなど、各自好みのものを注文。ステーキはあきらめたが、ハンバーグも十分美味しくて全員が満足。

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●チーズガーデン那須本店 那須郡那須町高久甲 14:45~15:00

 「チーズガーデン那須本店」に寄り、チーズケーキを購入。

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 「御用邸チーズケーキ」1,350円。

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 帰りは、東北道の佐野SA(サービスエリア)で休憩、買い物。

 「御用邸の月」(6個入り)884円

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 「皇室御用達」ではないと思うが、那須高原に皇室の御用邸があることに因んだ「御用邸」ブランドのお土産は、なんとなく気品があって、手に取ってしまう。

 

 佐野SAを出て間もなく本格的な雨が降り出した。梅雨時期の今回の旅行は、晴れることはなかったが、何とかここまで雨が降らず助かった。

 17時過ぎに出発地に到着。

 

 ★ ★ ★

 「那須塩原市」は栃木県北部の都市で、2005年(平成17年)1月に黒磯市、西那須野町と塩原町の合併により発足。なお東那須野村というのがあったが、1955年に当時の黒磯町と合併している。

 那須塩原市は、人口11万6千人(2019年7月)で県内で第6位、面積は日光市に次いで県内第2位。大田原市、矢板市、日光市、那須郡那須町、塩谷郡塩谷町と隣接する。

 日本最大級の扇状地「那須野が原」の大部分を市域とする。明治政府の「那須野が原」開拓事業により形成された比較的新しい都市で、山間部に塩原温泉や板室温泉などの観光都市も併せ持つ。酪農も盛んで、生乳の粗生産額が本州第1位(全国第4位)。

 

 那須、那須塩原、那須高原、那須野が原、那須温泉郷など、混同し易く、分かりにくい。以下に整理してみる。

・「那須」:おおよそ旧那須郡を指す。那珂川の上流(支流も含む)一帯の地域名。

 行政区画では、大田原市、那須塩原市、那須烏山市、那須郡の那須町と那珂川町が相当する。

 地形的には、那須岳の南麓地域の「那須高原」と複合扇状地の「那須野が原」から成る。

 観光地としての「那須」は曖昧だが、一般的には那須町の「那須岳」、その麓の「那須高原」や「那須温泉郷」を指す場合が多いようだ。

・「那須塩原」:黒磯市、那須郡西那須野町の那須の一部地域と、那須に含まれない塩原町が合併した「 那須塩原市」のこと。

・「那須高原」:那須岳の南麓地域。那須岳の標高千数百mの地域より、東北本線や国道4号が通る標高300m辺りまでの緩やかな斜面。那須御用邸がある。

・「那須野が原」:「那須」地域にある日本最大級の複合扇状地。那須連山や大佐飛山地の山麓部から、箒川と那珂川の合流部にかけて広がる標高150~500m程度の緩やかに傾斜した台地。南の箒川と北の那珂川で区切られる。中央に扇状地特有の水無川の「熊川」、「蛇尾川(さびがわ)」がある。日本三大疏水の一つ「那須疏水」(用水路)が流れる。 

・「那須温泉郷」:那須岳の南麓に位置する那須町を中心に散在する温泉の総称。

・「塩原」:那須塩原市の塩原地区(旧塩原町)を指し、塩原温泉郷が有名。

・「塩原温泉郷」:旧塩原町の箒川(ほうきがわ)沿いの谷間を中心に点在する11の温泉の総称。

 なお「箒川」は、大佐飛山地(那須塩原市塩原)を源流として塩原渓谷を形成して塩原温泉郷を流れ、「那須野が原」の南端を流れて大田原付近で1級河川の那珂川に合流する。「那珂川」の本流は、那須岳山麓(那須町)を源流として「那須野が原」の北端を流れて、茨城県ひたちなか市で太平洋に注ぐ。

 

 

2019年7月16日 (火)

那須塩原-その1

 2019年7月10日(水)~11日(木)、栃木県那須塩原の1泊2日の宿泊旅行。

 

 1日目の7月10日(水)。10:00、参加者8名、最寄り駅前を車2台で出発。東北自動車道を走る。

 佐野SA(サービスエリア)で1回目の休憩。2回目は、12:25~上河内SAで休憩。昼食は、レストラン「和食 九尾」で天ぷら蕎麦980円。

 西那須野塩原インターで高速を下り、国道400号沿いの「千本松牧場」へ。

 

●千本松牧場 (那須塩原市千本松) 13:35~15:00

 肉料理の店「ミレピーニランチョ」の前の駐車場に車を駐める。入場料・駐車場無料。

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 「那須千本松牧場」は100年以上の歴史があり、東京ドーム178個分の広大な広さ(全面積834ha)を持つ牧場&レジャー施設。ホウライ株式会社が運営。

 牧場内で育てている乳牛は約500頭、1日約8トンの生乳を敷地内の工場で生産。

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 「ジンギス館」で牛乳1杯無料券を使って新鮮な牛乳を頂き、隣のソフトパーラー「まきば」でチョコミント380円。

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 牧場内を散策。

 スポーツ施設、遊戯施設を左右に見ながら桜並木を350mほど歩くと十字路。右に折れて、左手に動物ふれあい広場、牛舎・放牧場、乳業工場(ホウライ)が続く広い道路を650mほど進むと、「萬歳閣」がある。

 千本松牧場内にある「萬歳閣」は、内閣総理大臣・松方正義の旧別邸。

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 明治36年に建てられた木造2階建て洋館。1階の外壁が石造り。

 建物とその周辺敷地は、現在も松方家とその関係者が利用しており、外観のみ見学。

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 政府の要職を離れていた松方正義は、1893年(明治26年)この地に広大な農場を開設、大型機械を導入し欧米式農場経営を行った。

 

 資料用のトウモロコシ畑の巨大迷路やいちご園ハウスの反対側の林の中に、「千本松温泉」がある。源泉かけ流しの日本庭園風の露天風呂。

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 「千松神社」は、日本三大稲荷の一つ「笠間稲荷神社」より、1953年(昭和28年)蓬莱殖産株式会社(現ホウライ株式会社)の開運・招福・火伏の守護神として分霊。笠間稲荷大神は元来、食物の神、農業の神様として崇敬されていた。

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 食事処「もみじ亭」のそばを通って、駐車場に戻る。

 「千本松牧場」から次の目的地「乃木神社」(那須塩原市石林)まで約20分ほど。

 国道400号を南下し、東北道をくぐり、国道4号線を横切り、東北新幹線の高架をくぐる。

  

●乃木神社 (那須塩原市石林) 15:25~16:20

 「千本松牧場」から20分ほどで「乃木神社」へ到着。

 日清戦争後に乃木大将が閑居した別邸の敷地内にある「乃木神社」。左手に将軍像が立つ。

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 主祭神は乃木希典将軍、静子夫人。乃木希典は長州藩の支藩長府藩士の出身、日露戦争の英雄とされている。乃木希典が明治天皇の崩御により殉死したのち、1916年(大正5)に創建された。

 拝殿で参拝。

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 神馬舎。皇太子時代の大正天皇から乃木将軍が賜った白馬の実物大模型がある。

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 皇太子殿下にちなんで「殿号(しんがりごう)」と名付けられた。乃木将軍夫妻の殉死後の1914年(大正3年)、この地の別邸で没した。

 「宝物館」には、乃木希典の遺品が展示されている(入館せず)。入口に、中国馬車が展示。

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 この中国馬車は、複数の馬で引き悪路に堪えられるよう堅牢に造られている。昭和初期に奉納されたそうだ。右の一回り小さな車輪(前輪)が、左の車輪(後輪)と重なっていて、おかしい。ネットで見つけた写真を見ると、この馬車は屋根の付いた別の場所に置かれていて、前輪は台車のもっと右手に取り付けられていた。

 森に囲まれた境内の奥には、乃木夫人の静子が杉の苗を植えたという「静子林」やたくさんの鯉が泳ぐ「静沼」がある。その奥に、乃木将軍の別邸が保存されている。「静沼」は、元は乃木家の水田だったそうだ。

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「乃木希典那須野旧宅」は、「乃木将軍」として親しまれている乃木希典(まれすけ)が、1891年(明治24年)、石林の地に約14haの土地を求め、静子夫人の叔父(旧薩摩藩士・吉田清皎)が所有している土地と家屋を譲り受けた。

 枝折戸(しおりど)を入ると、左手に石造り書庫があり、正面に旧宅(別邸)。

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 石蔵庫。現在は乃木希典に関する書籍等が展示されている「石林文庫」。

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 愛馬「殿号」(しんがりごう)の厩(うまや)。

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 左の藁葺屋根は、農具舎。右は別邸、正面に風呂や井戸、その奥には納屋がある。

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 乃木将軍の別邸。こちらが正面で玄関がある。内部は公開されていない。

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 当初は住宅1棟と納屋があったが、明治25年(1892)、乃木将軍は自ら設計して農家風の質素な別邸を建てた。栗の木の板を小さく切って重ねた栗小羽葺き(後に瓦葺き)の平屋で、延べ面は約189平方m。関西間風の間取りで建坪は53坪(関東間に換算すると約57坪)。土間と囲炉裏があり、畳の部屋は8畳間・6畳間など合計6つ、その他物置場・屋根裏部屋等があるそうだ。

 前庭の納屋の前にも、乃木将軍の石像が建っていた。

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 乃木将軍は生涯に4度の休職をした。別邸を建ててからは、休職中の延べ48か月の多くをここで晴耕雨読の生活を送った。村人とも親しく交わったという。別邸は、放火により1990年(平成2年)に焼失、1993年(平成5年)に復元された。

 

 箒川(ほうきかわ)に沿った国道400号を北上して、宿泊地の塩原温泉へ向かう。

 17:10、大江戸温泉物語グループの「ホテルニュー塩原」に到着。

 
 

●ホテルニュー塩原 (那須塩原市塩原)17:10~

 「ホテルニュー塩原」は西館(本館、下の写真)のほか、B&H(ビューティ&ヘルス)館(新館)、湯仙峡(リニューアル館)の3館で構成されている。

 西館2階のフロントでチェックイン。宿泊は、西館8階の和室2部屋。

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 入浴は、8階からエレベーターで4階で降り、そこから箒川を渡る通路橋を通って対岸の「リニューアル館」のエレベーターに乗り換え、地下1階で降りるとそこが「湯仙峡(ゆせんきょう)大浴場」。

 18:30~20:15、西館1階の食事会場「オーロラ」で夕食(バイキング)。体育館より広い会場だが、平日なのに会場いっぱいに宿泊客が食事に集まっていることに驚く。料理の種類は、80種類以上(ドリンクは除く)とか。デザートもドリンクも豊富。

 

 8:45~21:30、西館2階の劇場「塩原 鳳凰座」で、「逢川まさき」歌謡ショーを観覧する。宿泊者の観覧は無料。

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 劇場には、客席の半分ほど約100名ほどの観客が入っている。司会の紹介のあと、逢川まさきが登場、まずデビュー曲の『港たずねびと』を披露。小銭を紙に包んで投げるお捻り(おひねり)の代わりに、客は一本500円のレイを買って、客席を握手して回る歌手の首にかける。「追っかけ」らしいおばさんたちも散見する。

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 そのほか持ち歌を数曲、カバー曲を数曲。中孝介の『花』のカバー曲を、9月CD発売に先駆けて披露。アンコールは、懐メロの森田公一の「青春時代」を観客と一緒に歌ってお開き。客のお見送りでは、逢川まさきが自ら、CDとサイン色紙やグッズを売っていた。

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 このホテルの歌謡ショーは、2日~5日で出演者が変わるようだ。逢川まさきは、今週火曜から金曜までの4日間の出演の予定。

 ちなみに昼の部は、大衆演劇により13:30~14:30 お芝居、15:00~16:00 舞踊ショー。夜の部は、19:00~20:00舞踊ショーだった。7月中は、中野加津也座長の公演で、これも月ごとに出演劇団が変わる。

 

 歌謡ショーの後は、参加者が部屋に集まって歓談、12:00頃就寝。

 

 ★ ★ ★

●松方正義

 松方正義(1835~1924)は、薩摩出身の明治の元勲。大蔵卿、大蔵大臣を長年務め、2度の内閣総理大臣(第4代、6代)を任じられた。日本銀行の創設、財政金融政策を確立するなど、財政金融面の業績を残した。那須の別邸は赤松林の中にあり、松方が新たに牧羊を始めるに当たって建設された。この地を「千本松」と名付け、別邸は当初「松茂山荘」と呼ばれていた。

 翌年、塩原御用邸(戦後廃止された)に滞在中の皇太子(後の大正天皇)がこの別邸に行啓された折り、日露戦争の遼陽陥落の報が届き「万歳」を唱え祝杯を挙げた事から、「萬歳閣」と呼ぶようになったという。

 松方正義は、女好きで子沢山、早世した2男も含めて15男11女の26子もあったそうだ。明治天皇がら絶大な信頼を得ていたが、子供の数を尋ねられて即答できなかったというエピソードがある。

 写真は、ウキペディアコモンズから転載。

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 子供たちは、男子の多くが高学歴で実業家や政治家として活躍、また女子はそういった家に嫁いでいる。特に三男の松方幸次郎は、川崎造船所社長、衆議院議員(日本進歩党)を務めたが、美術収集家としても著名だ。日本の本格的な西洋美術館の創設を目指し、ヨーロッパで買い集めた絵画、彫刻、浮世絵は「松方コレクション」の名で知られており、その一部は「国立西洋美術館」に所蔵、展示されている。

 

●乃木希典

 乃木希典(のぎまれすけ 1849~1912)は、長州藩の支藩・長府藩士、軍人(階級は大将)、教育者、また多くの詩歌を遺した文人でもあった。明治45年(1912年)7月30日明治天皇が崩御され、その「大葬(たいそう)の礼」が行われた9月13日夜、乃木夫妻は殉死(自刃)した。享年62歳。乃木の殉死の理由は、西南戦争時に連隊旗を奪われたことを償うためとか、日露戦争において多くの天皇の兵士を失ったことなどが挙げられている。戦前は「乃木大将」、「乃木将軍」と親しまれ、東京の「乃木坂」の地名の由来でもある。

 日露戦争における旅順攻囲戦では第三軍司令官として指揮を執った。旅順要塞は「難攻不落」とされ、日露戦争における最激戦であったため、日露戦争を代表する将軍として日本海海戦の東郷平八郎と共に、その武功が国際的に評価された。また、降伏したロシア兵に対する寛大な処置も世界的な賞賛の対象となり、軍人としての人格も評価されている。

 また乃木は日露戦争で2人の息子を戦死させてしまった事から、国民的な同情を寄せられた。明治天皇は、子息を亡くした将軍の心中を思い、将軍を学習院院長に任じ、裕仁親王殿下(後の昭和天皇)の教育係りも委ねた。

 写真は、ウキペディアコモンズから転載。

255pxmaresuke_nogi__1__photo_only 

 しかしながら旅順要塞攻略に際しては、延べ6万人の戦死者を出した。特に激戦地だった203高地では、11日間の戦闘で約5千名の戦死者、約1万1千名の負傷者を出し、戦いには勝利したが大きな犠牲を払った。旅順攻囲戦での戦略的な誤りや、明治天皇崩御に際し前時代的な殉死について、司馬遼太郎ほか多くの文化人からの批判も多い。名将であったとする主張と愚将だったとの批判とで、乃木に対する評価は大きく分かれる。

 乃木は殉死に当たって静子夫人に宛てた遺書を残している。夫人の殉死の遺志は、直前まで将軍に伏せられいたため、乃木は一人で死ぬつもりだったそうだ。将軍夫妻の墓所は、東京・青山霊園にある。

 

 「乃木神社」は、乃木希典を軍神として祀った神社。乃木の出身地の下関市や別邸のあった那須塩原市など、国内ゆかりの地に複数の「乃木神社」がある。

 栃木県那須塩原市・・・日清戦争後に乃木が閑居した別邸の敷地内にある。
 京都市伏見区・・・明治天皇陵の麓にある。
 山口県下関市長府・・・乃木の郷里。
 東京都港区赤坂・・・乃木夫妻が自刃した邸宅の隣地にある。

 そのほかにも、滋賀県近江八幡市、香川県善通寺市、北海道室蘭市、埼玉県飯能市などにも「乃木神社」があるそうだ。

 

●逢川まさき

 プロ歌手の「逢川まさき」は、声も良いし歌もうまい。ちょっと出た月並みの歌手とどこか違う良さを持っている。しかしこういった歌手は、日本中にたくさんいるのだろう。本名前田将邦、熊本県八代市出身、1980年3月生まれの39歳。日本クラウン株式会社所属。事務所は、個人事務所の「オフィスアイカワ」。

 高校生の時にNHKのど自慢へ出場、2001年名古屋で開かれたカラオケ大会でグランプリを受賞。大会関係者にスカウトされて上京 、6年後の2008年『港たずねびと』で歌手デビュー。2010年はは第2弾シングル『しのび逢い』で全国キャンペーン行い、初めてのソロコンサートを東京で開催した。

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 27歳の遅いデビューで12年目、クラウンレコードから何枚かCDを出し、カラオケにも何曲か入っているそうだ。しかしテレビで見たり、聞いたりするようなヒット曲は、まだないようだ。

 デビューの時のキャッチフレーズは「甘い艶のある低音の響きを持つ新人」。本人の弁では、若い頃はプロゴルファーの石川遼に似ていることから「歌謡界のハニカミ王子」、しかし最近は俳優の香川照之に似て来たという。声は美川憲一似だそうだ。

 

 本ブログ記事「那須塩原-その2」に続く。

 

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