足利学校と足利氏
2019年6月1日(土)、栃木県足利市に行く。
足利市は、栃木県の南西に位置する歴史の街。室町幕府を開いた、源氏の流れをくむ足利尊氏の先祖が住んでいた足利氏発祥の地。この辺りは、昔から養蚕が盛んで、織物でも知られていた。足利市には、2015年「あしかがフラワーパーク」に行ったことがある。
ワゴン車のレンタカーに参加者6人同乗。渡良瀬川に架かる「中橋」を渡って、9:35足利市観光協会の「太平記館」(足利市伊勢町)に到着。休憩後、車を駐車場に置き、歩いて数分の国指定史跡「足利学校」(足利市昌平町)へ。
●足利学校(10:10~11:10)
「足利学校」の創建は奈良時代、平安時代、鎌倉時代など、諸説ある。「坂東の大学」と称され、室町時代から戦国時代にかけては、関東における事実上の最高学府であった。
国道293号線の歩道橋の上から「足利学校」の全景を望む。
足利学校の「入徳(にゅうとく)門」から入場。
受付で参観料420円(JAFカード提示で340円)。入学証をいただく。
「足利学校の歴史」という紹介ビデオ(約15分)視聴したあと、「学校門」をくぐる。
「旧遺跡図書館」は「足利学校」が廃止になった後、明治36年(1903年)に開設。「足利学校」の書物を引き継いだ図書館。
「庫裡(くり)」は学校の台所、食事など、日常生活が行われたところ。
建物内部に入ると、「足利学校」の歴史を中心に、ゆかりの資料が展示されている。
「足利学校」の模型。堀と土塁に囲まれている。中央の建物が「方丈(ほうじょう」。その手前L字形の建物が「庫裡」、その右の黒い屋根「書院」。
「方丈」は、学生の講義や学習、学校行事や接客のための座敷として使用された。「書院」は、庠主(しょうしゅ=学長)の書斎、応接室。学生への個人授業も行われた。
「足利学校」の教育内容は、儒学が中心。孔子は儒学の祖。1535年に造られた日本で最も古い「孔子坐像」が祀られている。
「足利学校」の蔵書に見る元号「平成」と「令和」の出典。国宝『宋版 尚書正義』(中国南宋時代)と『万葉集』(文化2年(1805年)刊)。写真をクリックすると拡大表示します。
「足利学校」跡の東半分は、小学校の敷地になっていたそうだ。1990年(平成2年)、江戸時代中期頃の「方丈」や「庫裡」、書院」の建物や庭園が復元された。下の写真は、「方丈」の建物と奥に「庫裡」の建物。
「方丈」の南側にある池と築山の「南庭園」。発掘調査と、江戸時代の絵図を元に復元された。
同様に「方丈」の北側にも、復元された築山、池と中島の「北庭園」がある(写真なし)。
「南庭園」の築山越しに見る「方丈」と「庫裡」の建物。
「杏壇(きょうだん)門」と、その先の孔子を祀る孔子廟。改修中のため入門禁止。
孔子廟の建物は「大成殿」と呼ばれ、1668年(寛文8年) に造営。様式は、中国明代の古廟を模したものと伝えられている。
8年前の東日本大震災の影響で傾いてしまったため、2018年11月から改修工事が始まった。屋根瓦を下ろし、回廊や柱を解体する大工事で、創建された1668年以来、記録に残る限り初めての工事だという。工事の終了は2020年3月の予定、総工費・調査費など計9千万円。
「足利学校」の伝統行事である「釋奠(せきてん)」は、足利市指定の民俗文化財に指定され、毎年11月23日に孔子廟で行われるそうだ。
工事前の孔子廟「大成殿」での「釋奠」の様子。パンフレット「日本最古の学校 国指定史跡 足利学校」の写真を転載。
孔子とその儒学の弟子たちを祭るこの儀式は、古代中国に起源をもち、現在は国内でも数ヶ所でしか行われていない。
「釋奠」の終了後、庠主(学長)の講話や記念講演も行われるという。今年の11月は、まだ工事が行われているが、「釋奠」行事はどうするのだろうか。
「足利学校」から参道「石畳通り」を通って、正面の「鑁阿寺(ばんなじ)」(足利市家富町)の山門に向かう。
●鑁阿寺(ばんなじ)(11:25~11:50)
「鑁阿寺」は「足利学校」に隣接し、1196年(建久7年)足利義兼(よしかね)によって創建された真言宗の古刹。足利氏の氏寺。坂東八十八ヶ所霊場十六番札所。この地は足利氏の館(やかた)跡で、国指定の史跡。四方に門が設けられ、境内は堀と土塁がめぐらされているのは、鎌倉時代前後の武士の館の面影を残しているという。
本堂は国宝。御本尊は大日如来。
参拝で正面を見ると、祭壇はシンプルで鏡が置いてある。お寺のイメージが無くなぜ鏡なのか、本堂にいたおばさんに聞くと、「よく参拝客に聞かれるけど・・・」と前置きして「神仏習合の名残り」だそうだ。御本尊は、鏡の後ろの幕の裏に安置されているとのこと。
国指定重要文化財の経堂(きょうどう)。経堂は経典を納めておくところ、経蔵(きょうぞう)ともいう。
栃木県指定重要文化財の西門。
国指定重要文化財の鐘楼。
「鑁阿寺」の山門を出て、参道へ。
参道沿いの小公園に建つ「征夷大将軍 足利尊氏公像」。室町幕府を開いた尊氏は、足利氏の始祖・義康(源義家の孫)から数えて八代目にあたる。
尊氏は、七代目貞氏の次男として、側室・上杉清子との間に生まれた。生誕地は母の実家で、上杉氏の丹波の国上杉荘(京都府綾部市)とされる。過去、尊氏は足利荘(足利市)で出生したとされていたが、30年ほど前からこの説は否定されているそうだ。尊氏は、鎌倉や京都に住み、足利には来なかったとも聞く。足利一族は、二代目義兼が頼朝挙兵に参加したことや、義兼は母が頼朝のいとこ、妻が北条政子の妹・時子(つまり頼朝の義理の弟)という関係で、鎌倉幕府で優遇されていた。北条家とも代々婚姻関係を結んでいて、尊氏の正妻も北条家の出身だった。
●めん割烹「なか川」(11:55~12:55)
「鑁阿寺」の 参道「石畳み通り」に面して、めん割烹「なか川」(足利市通2丁目)がある。足利市出身の書家・相田みつをの縁(ゆかり)のこの店で昼食。
店のお薦め「天ぬきそば御前」(2,100円)を注文。盛り蕎麦、天ぬき、ニシンの甘露煮、炊込みご飯、デザートの水わらびもちのセット。”天ぬき”とは、”天ぷら蕎麦”から蕎麦を抜いたもの。温かいつゆに入った天ぷらでゆっくりと日本酒を飲み、〆に盛り蕎麦を残ったつゆにつけて食べるのが、通の食べ方だそうだ。そんなことも知らずに、まず生ビールで乾杯の後、日本酒を飲みながら天ぷらも蕎麦もニシンも一緒に食べていた。ちょうど昼時で店は満員。地元の人達というより観光客が相手なのか、2,100円はちょっと高かかった・・・・。
店内には相田みつをの書が、いくつも飾ってあった。
めん割烹「なか川」は1945年(昭和20年)、旅館「なか川」として創業した。その頃訪れた相田みつをの作品に対する思いと夢を聞き、支援を始める。「なか川」は、個人では相田みつを作品の日本一の所有者、店内にも季節に応じて作品を展示しているという。
レンタカーを駐めておいた「太平記館」に戻り、お土産購入。
足利土産は、香雲堂本店の和菓子。日本最古の学校「足利学校」、足利氏の氏寺「鑁阿寺」の古印、足利出身の画家・田崎草雲の落款に因んだ方形の最中(7個入り1,080円)。
13:00、レンタカーで出発。「鑁阿寺」の北東方向にある発掘・復元中の「史跡樺崎寺跡」(足利市樺崎町)へ行く。
●史跡樺崎寺(かばさきじ)跡 (13:10~13:35)
「樺崎八幡宮」の石段下の駐車場に、レンタカーを駐める。
「樺崎寺」は、「鑁阿寺」の開基で足利氏二代目の義兼によって、1189年(文治5年)に創建。義兼は1195年(建久6年)に出家、1199年(正治元年)に没した。三代目の義氏が、父義兼の霊をなぐさめるため廟所を造り、「赤御堂」と称した。あわせてお堂を建て、八幡神を勧請して義兼を合祀したことが、「樺崎八幡宮」のはじまりとされている。
「樺崎寺」は、鎌倉時代後期から南北朝にかけて最盛期を迎えたが、戦国時代になって足利氏が力を失うと「樺崎寺」も衰退し荒廃。明治維新後の神仏分離令により、廃寺となった。旧境内域の一部には、「樺崎八幡宮」のみが現在も残る。
八幡山を背景に、「樺崎八幡宮」が建つ。
八幡神は、清和源氏、桓武平氏を始めとする武家に広く信仰されたが、清和源氏は八幡神を氏神として崇敬し、日本全国各地に勧請した。源義家は、石清水八幡宮で元服し自らを「八幡太郎義家」を名乗ったことでも有名。
本殿は、江戸時代の天和年間(1681〜83年)に再建され、1989年(平成元年)に修復された。
「樺崎寺」跡は、1984年(昭和59年)から発掘調査が行われた。旧境内は西側の八幡山を背にし、東を正面として伽藍が営まれていた。山麓には廟所「赤御堂」のほか、多宝塔などがあった。これらの東側には、大日如来を安置する「下御堂」(または「法界寺」)と呼ばれる堂宇があり、浄土式庭園が築かれていた。
多宝塔の礎石。
足利氏御廟の礎石建物跡の案内板。写真をクリックすると拡大表示します。
浄土式庭園は、平泉の藤原氏の庭園をまねたものだそうだ。写真は、復元工事中の浄土庭園と池。
「樺崎寺」は、「鑁阿寺」と並ぶ足利を代表する寺院であり、鎌倉時代の浄土庭園を持つ寺院として貴重であることから、2001年(平成13年)に国の史跡に指定された。
次の目的地「ココ・ファーム・ワイナリー」は、 「史跡樺崎寺」から北西の方向、関東自動車道の下をくぐって、足利市田島町へ。
●ココ・ファーム・ワイナリー (13:45~14:30)
1958年(昭和33)、特殊学級の中学生達と担任教師・川田昇によりブドウ畑を開墾。川田は、1969年(昭和44)障がい者支援施設「こころみ学園」を設立し、そして賛同する園生の家族の方々と1980年(昭和55)有限会社「ココ・ファーム・ワイナリー」を創立した。
平均斜度38度という南急斜面のブドウ畑。ブドウには、日当たりがよく、水はけも良いという。
ワインショップ&カフェで休憩。
ワインの醸造タンク。
ワイナリーはカルフォルニアから専門家を呼んで指導を受け、200年沖縄サミットや2008年洞爺湖サミットで振る舞われ、国際的のも高い評価を受けているという。障がい者支援施設「こころみ学園」は現在140名の園生がおり、88歳を筆頭に約半数が高齢の知的障がい者。園生みんなが、何らかの形でワイン作りに携わっているそうだ。
最後の目的地「織姫神社」は、「ココ・ファーム」から南西の方向、再び北関東自動車道の下をくぐって足利市西宮町へ。「織姫神社」に最も近い織姫駐車場に車を駐める。
●足利織姫神社(14:45~15:15)
織姫山に広がる「織姫公園」、その南端に建つ朱塗りの美しい神殿は足利名勝のひとつ「足利織姫神社」。1300年の歴史と伝統を誇る、足利織物の守護神が奉られている。
旧社殿は1879年(明治12)に焼失したため、1937年(昭和12)に再建された。2004年(平成16)には国の登録有形文化財に認定。
境内から市街地を展望。正面の山は、「足利富士浅間神社(男浅間神社)」。その手前に「女浅間神社」と渡良瀬川に架かるトラス構造の橋「渡良瀬橋」。
富士山を眺望、関東平野を遠望できるというが・・・。織姫公園からは「天狗山ハイキングコース」などが整備されている。
織姫公園の駐車場からでなく、県道40号線の織姫神社交差点から一の鳥居をくぐり、229段ある石段を昇って参拝すると願いが叶うとされている。
15:15、織姫公園の織姫駐車場に戻り、帰路へ。案内してくれたIさんに感謝。
★ ★ ★
●足利学校
「足利学校」の創建については、奈良時代の教育機関という説、平安時代の小野篁(おののたかむら)が創設したという説、鎌倉時代の初期に「鑁阿寺」を開いた足利義兼が建てたという説がある。明らかなのは、室町時代の上杉憲実(のりざね)が学校を再興したという。学校を整備し、孔子の教え「儒学」の五つの経典のうち四経の貴重な書籍(多くは現在、国宝)を寄進。鎌倉から禅僧・快元(かいげん)を招き、初代の庠主(しょうしゅ:校長)とし、学生(僧)の養成に力を注いだ。その後は、代々禅僧が庠主になったという。
室町時代には儒学、特に「易」について学校に学んだ僧は非常に多く、永正年間(1504~1520)から天文年間(1532 ~1554)には学徒三千といわれ、事実上日本の最高学府となり大いに発展した。フランシスコ・ザビエルは1549年、「日本国中最も最大にして有名な坂東の大学」と世界に紹介した。
江戸末期には役割を終え、書籍も散逸の危機に陥った。南画家の巨匠・田崎早雲などの尽力で保存され、1903年(明治36)に「遺跡図書館」が造られた。1921年(大正10)、「足利学校」跡は孔子廟、学校門などの建物を含め国指定史跡となった。1982年(昭和57)の「足利学校」の東半分にあった小学校の移転を契機に史跡の保存整備事業に着手、1990年(平成2年)に江戸中期の絵図を基に「方丈」や「庫裏」、庭園などが復元された。
室町時代から戦国時代にかけて、関東の最高学府と言われる「足利学校」がどんなものかが、よく分かった。明治以降に廃校になってしまったが、その直後に書籍などの文化財を保存しようという有志たちは立派。10年の歳月と15億円をかけて、やっと今の形に復元されたそして足利市の熱意も素晴らしい。
「足利学校」の「杏壇門」の扁額と「大成殿」の建物。 パンフレット「日本最古の学校 史跡足利学校」の表紙を転載。
●足利市と足利氏の歴史
足利市は、足利氏発祥の地であり、源義家(八幡太郎義家)の孫の義康(よしやす)が源姓足利氏を名乗り、この地を治めたことが始まり。鎌倉時代には、足利氏二代目の義兼が居館を現在の「鑁阿寺」に置き、義兼の子孫も足利に住み、多くの寺社を建てたことから、市内には足利氏ゆかりの社寺が点在する。
足利は、昔から織物業で栄えた。その歴史は奈良時代まで遡り、絹織物が税として朝廷に納められたとある。大正から昭和初期にかけては「足利銘仙」の生産が盛んで、安価な銘仙は日本中の人々に愛用された。足利銘仙は足利市を大きく発展、銘仙業者の手で「足利織姫神社」も立派に再建された。戦後はトリコット(縦編みメリヤス)生産が盛んで、昭和30年代には日本一の産地に成長。現在では、アルミや機械金属、プラスチックなどの工業が中心となっている。
平成の時代になって「足利学校」の復原が完成、NHK大河ドラマ「太平記」(足利尊氏が主人公の物語)の放映(1991年)など、足利市は観光のまちとして有名になった。現在では「足利学校」や「鑁阿寺」をはじめとする社寺、「あしかがフラワーパーク」、「栗田美術館」などの名所旧跡に多くの観光客が訪れる。
足利市は1921年(大正10年)に市制施行、現在の人口は約15万人。栃木県の南西部に位置し、東京から北へ約80km、栃木県佐野市、群馬県桐生市・太田市・館林市・邑楽郡に接している。
●森高千里の「渡良瀬橋」
足利市の中央を渡良瀬川が流れる。「渡良瀬橋」は、この川に架かる県道5号線(足利太田線)、東武足利市駅から西へ約500mほど先、「中橋」の上流にあるトラス橋。足利市は、歌手の森高千里が1993 年に発表した名曲『渡良瀬橋』の歌詞に登場したことによって、ファンの間で全国的に知られるようになった。
50万枚に迫る大ヒットとなったこの曲は、リリースした翌月に足利市から森高に感謝状が贈られ、地元の人から愛された。橋の上から望む夕日の美しさは、森高の曲に歌われるほど。2007 年には「渡良瀬橋」と夕日が一緒に見える場所に、歌碑が建立されたそうだ。
●ペタンコ祭り(初山祭り)
この日の足利市街では、打ち上げ花火が1時間おきに聞こえ、どこやらでお祭りの様子。街では、額に朱印が押された幼児や乳児を目にする。6月1日に開催される「ペタンコ祭り」は、400年以上も前から始まったとされ、足利市の指定民俗文化財。その昔、足利地方に起こった洪水・疫病・飢饉で多くの子供が苦しんでいた時、「足利富士浅間(せんげん)神社」の浅間山(標高108m)から見事な龍が立ち上り、子供たちが救われたという伝説があるそうだ。
「ペタンコ祭り」は、この1年に生まれた新生児を連れて参拝し、御朱印を赤ちゃんの額に”ペタンコ”と押してもらい(御朱印代500円)、無病・息災・開運を祈願する。男の赤ちゃんは男浅間神社(「足利富士浅間神社」の上宮)へ山道を登り参拝。御朱印は、桜の花の形の中に浅間神社と書かれている。女の赤ちゃんは、男浅間神社より低い山の女浅間神社(下宮)に登って参拝。御朱印は、2cm角の角印で山の形と浅間神社と書かれている。
足利市広報『あしかがみ』 2013年6月号の表紙から転載
必ずしも1歳未満の赤ちゃんではなくても、参拝・祈願出来るそうだ。兄弟姉妹がいる家庭もあるので、どちらの山に登ってもそれぞれの神社で、両方の御朱印が用意されている。渡良瀬川右岸の河川敷には臨時駐車場が設けられ、屋台も出て参拝客で大賑わいだという。
なお、全国に1300余の富士山信仰の浅間神社があるが、御神体は富士山、御祭神は木花佐久夜姫(コノハナノサクヤヒメ)。初めて霊山に登り参拝することを「初山参り」と呼ぶが、このように1歳未満の子供が毎年決まった日(山開きの日?)に、「初山参り」や「初山祭り」の祭事を行うところが、他にも北関東の一部にいくつもあるようだ。
本ブログの関連記事
「紅葉の上州沼田と足利のイルミネーション」 2015年11月16日投稿
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改めて足利の町を再認識しました。歴史ある美しい町です。足利の人たちに読んでもらいたいです。
投稿: 岩本哲雄 | 2019年7月 1日 (月) 11時24分