神話のふるさと日向の国-その3
2019年5月24日(金)~26日(日)、神話のふるさと「日向(ひむか)の国」(宮崎県)探訪の旅。
旅の最終日 5月26日(日)、宮崎市街から南へ、日向灘に面して美しい海岸線が続く。昭和40年代は新婚旅行のメッカともいわれたトロピカルな「日南海岸」をドライブ。ここにも神話の舞台が点在する。
6:00起床、7:00~朝食。
8:10、「ホテルマリックス」を出発。宮崎市のメインストリート橘通りから南へ、国道220号線を走る。
●堀切峠
青島の前を通過し、8:45国道220号の旧道の峠道を上ると、突然視界が開け太平洋が広がるところが「堀切峠」。
あいにく曇り空で、海は水平線がはっきりしない、ボンヤリとした灰色。
眼下には、波状岩の「鬼の洗濯岩(板)」。
波状岩は、約700万年くらい前に海中で出来た水成岩(固い砂岩層と軟らかい泥岩層が積み重なった地層)が隆起し、長い間に波に洗われ、砂岩層だけが板のように見える。
「堀切峠」を1kmほど下るとすぐに、「道の駅フェニックス」。
ここで休憩、9:10出発。ひたすら国道220号線の日南海岸を南下する。
「サンメッセ日南」の前を通り過ぎ、新鵜戸トンネルの手前で左折し、国道220号の旧道を進む。
●鵜戸神宮
鵜戸神宮には「八丁坂参道」、「自動車参道」、「新参道」の3つ参道と、3つのの無料駐車場がある。
国道220号の旧道の鳥居から入り、海岸を通る「自動車参道」を利用すると、鵜戸神宮に近い第1駐車場(50台)と第2駐車場(250台)がある。「観光バス駐車場」(40台)からは、トンネルのある「新参道」もあるが、昔ながらの「八丁坂参道」(本参道)を歩いて行くため、9:35そこに車を駐める。
「八丁坂参道」の入口は、分かりにくい。駐車場から階段を上る途中、左手にいくつかの石碑とその奥に赤い鳥居があった(下の写真)。
昔の風情が残る石積みの「八丁坂参道」(本参道)は、「鵜戸神宮」の神門まで数100m(8丁=872m)。登り坂はやがて下り坂となり、小さな山の峠を越える感じ。
石段を下り終えると視界が開け日向灘、左手に進むと「鵜戸神宮」の神門(随神門)。
楼門は、ウィキペディアコモンズから転載。
「鵜戸神宮」の本殿は、日向灘に面した断崖の大きな岩窟(海食洞)の中にある。
10:00~、本殿で予約していた神職に案内してもらう。山幸彦(火遠理命、ホヲリノミコト)は、海神の娘・豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)と結ばれ岩窟に産屋を建てたが、鵜の羽で屋根を葺き終わらないうちに御子(御祭神)が誕生、鵜葺草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト、神武天皇の父)と名付けた。
岩窟内の本殿は、観光客が多くて撮影出来なかったため、2015/10/4に撮影したものを掲載。
本殿の裏にある乳房に似た2つの突起「おちちいわ」があったが、暗くてうまく写真が撮れなかった。豊玉姫が御子の育児のために、自らの乳房をくっつけたものと伝えられる。御子はそこから滴り落ちる「お乳水」で作った飴(おちちあめ)を母乳代わりにしたという。現在も安産や育児を願う人々から信仰されているそうだ。
鵜戸神宮の境内や本殿には、ウサギの像が多い。主祭神・鵜葺草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)の「鵜」の字から、「卯」と「兎」へと転じ、ウサギが神使となったという。
洞窟内は、天井の岩が剥離して落盤しないか心配になるが、定期的に天井の岩を検査しているという。岩の割れ目を接着剤を充填した後が所々に見られる。
日南市で春季キャンプを行っている広島カープも、毎年ここに必勝祈願にやって来るそうだ。
帰りは、トンネルのある近道の「新参道」を使って「観光バス駐車場」へ。11:00、駐車場を出る。
●サンメッセ日南
国道220号線の来た道を戻るとすぐに、日向灘を見下ろす丘の上の広い公園「サンメッセ日南」。「太陽と南洋浪漫」のテーマパーク。
11:10入場(大人700円)、園内を散策。
復刻されたイースター島の7体のモアイ像。
クレーンメーカーの(株)タダノ(高松市)が1992年、イースター島の倒されたままのモアイの修復を実施することを発表。奈良国立文化財研究所、及び古い石を扱う飛鳥建設(株)とモアイ修復委員会を立ち上げ、大型クレーン1台と1億円を拠出。
飛鳥建設(株)社長で石工の左野勝司氏の指導により、1995年モアイ15体を再現した。そして、そのお礼としてイースター島の長老会(市長を含む議会)は、日本のチームに世界で初めて日本でのモアイ復刻を許可。日南海岸にモアイ像7体の完全復刻することができたという。モアイ像の高さは5.5m、重さは1体18~20トン。
南国の日差しは強いが、海風が心地よい。木陰でしばらく、のんびりと休憩。
ここで最初にカート(5人乗り)を借り、丘の頂上近くまで上って施設を見学し、センタープラザの「南洋レストラン」で食事する予定だったが省略し、早めに切り上げて青島周辺で食事することにする。
11:40「サンメッセ日南」を出て、国道220号線を再び北上し、最後の目的地「青島」へ。
●青島と青島神社
「青島」の参道入口の陸橋近くの大駐車場(駐車料500円)は、日曜日のせいか観光客も多く、すでに満車。駐車場所を探し、「P」マークの看板を持つおじさんが立つ「おみやげのすぎた」(1階が駐車場、2階は土産屋)に入る。駐車料は無料だが、全員で合計3,000円以上の買い物をするという条件。観光地の駐車場を持つみやげ屋が、よくやっている商売のパターン。
車をみやげ屋に駐め、近くの海鮮料理「鬼扇(おにせん)」で12:20~昼食。魚フライ1,080円。
13:10、陸橋近くのおみやげ&レストランの「青島屋」前で、観光ガイドボランティアと待ち合わせ。
「青島」は、宮崎を代表する日南海岸の観光スポット。周囲1Kmほど、熱帯・亜熱帯植物のビロウ樹で覆われ、国指定天然記念物の波状岩「鬼の洗濯板」で囲まれた島。熱帯・亜熱帯植物も、国の天然記念物。
熱帯・亜熱帯植物のビロウ樹で覆われた「青島神社」は、兄の釣り針を失くした山幸彦(火遠理命、ホヲリノミコト)が海神宮(わたつみのみや)から戻った所。青島全体を境内とする。
古くから青島自体が霊域として崇められ、全島が禁足地とされていた。江戸時代の1737年(元文2年)から、一般人に渡島しての参拝が許されたという。
青島神社に参拝。山幸彦とその妃・豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)、そして塩筒神(シオズノカミ)の3柱を祀る。塩筒神は、塩竈(しおがま)明神とも言い、日本神話の神で潮流を司る神、航海の神、製塩の神としても信仰されているという。
青島神社の元宮に向かうジャングルのような手つかずの森に中の参道。
山幸彦が居を構えたとされる場所にある元宮(もとみや)。
遠くに見えるのは、青島に渡る「弥生橋」。
「青島神社」の冬祭は、山幸彦が海神宮から帰還した際に、村人が装束をまとう暇もなく裸で出迎えたという故事から起こったという。かつては旧暦12月17日の夜を徹して、近在の若い男女が真裸になって参拝していたため、「裸参り」とも呼ばれ、この行いは千日参詣に等しいとされた。現在は1月の成人式の日、全国から男女約数百名の人々が神社の前の海で禊(みそぎ)を行い、身を清めて神社に参拝するそうだ。
後に兄弟が争い、山幸彦に追われた海幸彦がたどり着き居を構えたと伝えられる場所は、全国で唯一の海幸彦を祀る「潮嶽(うしおだけ)神社」。ここから南西に17Km先の山間部(日南市北郷町北河内) にある。
参道入口まで戻り、14:20~35 駐車場を借りた「おみやげのすぎた」で買い物。
14:55、空港前の「バジェットレンタカー」でレンタカー返却。
15:05、宮崎空港着。空港売店で買い物。
16:55発のソラシドエア66便に搭乗、18:25羽田空港着。
3日間続けて最高気温が30度を越す真夏日の中、歩いたのは通算3万8千歩、距離にして23キロほどだった。自分で作ったスケジュールがハードで時間管理が大変だったが、計画した所はだいたい回ることが出来た。
「西都原古墳群」と「県立西都原考古学博物館」、それに「高千穂神楽」は、今回が初めてだった。各スポットで観光ガイドを頼んでいたので、知らなかった面白い話が聞けて良かった。事故もなく、無事に終わってホッとした。レンタカーの運転、会計係りの友人には感謝したい。ただ時間に追われて、適時適当な写真が撮れなかったのは残念だった。
★ ★ ★
山幸彦(火遠理命、ホヲリノミコト)が、兄・海幸彦(火照尊、ホデリノミコト)の釣り針を探しに海神宮(わたつみのみや、龍宮)に行き、海神の娘・豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)と結ばれた。3年後、釣り針を探し当てた山幸彦が海から帰った後、身重になった豊玉姫命は「天孫の御子を海原で生むことは出来ない」と鵜戸の地(現在の鵜戸神宮)にやって来た。
山幸彦は、急いで産殿を造ったが、鵜(う)の羽で屋根を葺(ふ)き終わらないうちに御子が誕生した。豊玉姫は、「他国の者は子を産む時には本来の姿になる。絶対に産屋の中を見ないように。」と山幸彦に言う。しかし山幸彦は不思議に思って、産屋の中を覗いてしまう。そこには、豊玉姫がワニ(鮫)の姿でなってもだえていたのを見て逃げ出したという。
生まれた御子(御祭神)は、鵜葺草葺不合尊(ウカズフキアエズノミコト)と名付けた。 豊玉姫は、山幸彦に覗かれたことを恥じて悲しみ、御子を置いて海に帰ってしまう。そして御子を養育するために、妹の玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)を遣わした。「おちちいわ」は、豊玉姫が御子の育児のため、両乳房をご岩窟にくっつけて行ったと伝えられる。
やがて成人した鵜葺草葺不合尊は、豊玉姫の妹である乳母の玉依姫命(つまり叔母)と結婚し、4人の御子を授かる。その末の御子が、後に初代天皇の神武天皇となる神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)だそうだ。
「鵜戸神宮」の本殿前から海を見下ろした所に、亀の形をした霊石「亀石」がある(写真の右下)。しめ縄で囲んだ60cm四方の穴に、男性は左手、女性は右手で願いを込めて「運」の文字が記された「運玉」を投げ入れると、願いが叶うとされている。
「亀石」は、豊玉姫が海神宮から来訪する際に乗った亀が、姫が海に帰ったも知らず待つ間に石と化したものと伝えられる。かつては貨幣を投げ入れる風習であった。しかし子供たちがそれを拾いに下に降りて危険なので、1954年(昭和29年)から鵜戸小学校の児童らが、粘土を丸めて作った素焼きの「運玉」が使われることとなったという。5個で100円。
「鵜戸さん詣り」の「シャンシャン馬」の風習は、江戸時代の中期から明治中頃まで行われていたそうだ。新婚夫婦が、七浦七峠と呼ばれる険しく厳しい日南海岸の道中を、花嫁を馬にのせ花婿が手綱を取り、馬の首にかけられた鈴を「シャンシャン」と鳴らして「鵜戸神宮」へ向かい、宮詣りをしたあと我が家に帰るという新婚旅行であった。
現在はこの風習はなくなったが毎年、新婚夫婦や婚約カップルの参加者を募集して「シャンシャン馬道中鵜戸詣り」を再現する行事や、「シャンシャン馬道中唄」の民謡全国大会、宮崎神宮大祭の「ミス・シャンシャン馬」行列などのイベントとして行われている。写真は、宮崎神宮大祭のミス・シャンシャン馬(ウィキぺディアコモンズ)。
本ブログの関連記事
「日南海岸」 2015/10/10 投稿
http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-ca5b.html
「宮崎県日南市」 2014年11月2日 投稿
http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-c216.html
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●いもがらぼくと
「いもがらぼくと」や「日向かぼちゃ」の言葉は、地元の人たちは何気なく使っていてそのニュアンスはよく分かっているが、いざ他県の人からその意味はと聞かれると、即答できない場合もあるようだ。
「日向かぼちゃ」は色が黒くて小ぶりで、見た目は派手さはないが、美味しい。芯はしっかりした働き者の日向女性を例えているという。「いもがらぼくと」は、「里芋の茎で作った木刀」のことで、見かけは立派だが役に立たない、お人よし、というように理解していた。しかし今回ある観光ガイドから、「サツマイモのツル」のことで何の役にも立たないことだ、という話も聞いた。
どれが本当かではなく、諸説あるということだろうか。それに、こういった言葉は時代と共に解釈がだんだん変わったりするものだ。「いもがらぼくと」のほかに、熊本の「肥後もっこす」、青森の「津軽じょっぱり」、高知の「土佐いごっそう」、鹿児島の「薩摩隼人」は、どうだろうか。
●サボテン公園
日南海岸が新婚旅行のメッカだったころに、「サボテン公園」という植物園があった。今は、宮崎市から日南市への国道220号線を南下し、伊比井川を過ぎ、富士川を渡るとすぐに、国道はまっすぐに「日南富土トンネル」へと向かうので、昔「サボテン公園」があった場所には気がつかない。トンネルの前で左折し、海岸に沿った旧道沿いの岬の丘陵に、かつて「サボテン公園」があったのだ。
宮崎交通の初代社長の岩切章太郎が、「青島」と「鵜戸神宮」との間に新しい観光名所を設けるため「サボテン公園」として開園したのが1951年(昭和26年)。1955年(昭和30年)には、「日南海岸」が「国定公園」に指定された。1960年代になって新婚間もない皇太子と美智子妃殿下夫妻(現上皇・上皇后)がご来県、NHK連続テレビ小説で宮崎が舞台の『たまゆら』が放送されるなど、「日南海岸」は全国に知れ渡り、昭和40年代の「新婚旅行ブーム」を迎えたのだった。そして「サボテン公園」は、「日南海岸」の観光名所としての一翼を担った。海岸の丘陵斜面を埋め尽くす百数十万本ものサボテンの景観は圧巻で、異国情緒に溢れ、大きく広がる太平洋を一望、訪れる人にも新鮮なインパクトを与えただろう。
やがて「新婚旅行ブーム」も過ぎて宮崎観光が斜陽の時代を迎え、「サボテン公園」の客足も当然落ちた。施設や設備を増築・改築し「サボテンハーブ園」としてリニューアルされた後も、昔のような客足が戻ることはなかった。そして2004年夏に「サボテンハーブ園」は台風で大きな被害を受け、2005年3月をもって休園、閉園へと至ったのだ。開園から68年間、4,500万人の来場者があったという。
「日南海岸」の国道220号線を車で通れば、かつては必ず「サボテンハーブ園」の横を通りるはずだった。筆者は「サンメッセ日南」が出来たと聞いて、てっきり「サボテン公園」の跡地に出来たのかと、思い違いをしていたことがあった。新しい「日南富土トンネル」が開通して、国道は公園をバイパスして行くようになった。かつて「日南海岸」観光の一翼を担い、多くの観光客で賑わっていた時代の「サボテン公園」が懐かしい。
●天皇のふるさと
梅原猛は、著書『天皇家の“ふるさと”日向を行く』の中で、日向の各地を回り「これらの伝承はたいへん古いもので、八百年も千年も前に『古事記』や『日本書紀』を読んで、この片田舎に記紀神話の舞台をデッチ上げた知恵者がいたとは思われない」と書いている。何故、日向の国や出雲の国の地名に因んだ神話があって、大和の国ではないのだろうか。梅原猛が言うように、古代の日向の国に渡来人たちがやって来て、何らかの出来事があって、それを元に伝承が作られたのではないかという説に納得できる。
しかし史実は史実、神話は神話である。フィクションや観光用とは、明確に区別して理解するなり、子供たちに伝えなければならないと思う。神道は日本人の心であり、その起源は日本人の伝統的な民俗信仰・自然信仰を基盤に自然と生まれた宗教で、教祖はいない。聖書やコーランにあたる聖典が『古事記』、『日本書紀』とされている。しかし神話によって天皇が神格化され、国家神道や軍国主義に利用された時代があったことを忘れてはならない。誤った歴史認識や復古主義に対して批判や、歴史の真実を追求する姿勢は大切なことであると思う。
現代語訳の由良弥生著の『眠れないほど面白い古事記』(王様文庫)の中の「日向神話」の部分を読んだ。『古事記』は、愛と欲望、ホラーにエロスが渦巻く世界。記紀では、こんな人間味臭い話でなく天皇家の祖先をもっと厳粛に、尊厳深く描かなかったのか、あるいは日本人は如何に優れた民族であるかを書かなかったのか不思議だ。戦前はこんな物語を、美化して都合の良い面だけを切り取って、国民や子供たちに教えたのだろう。
神話は、考古学的な古代史とは別だ。しかし神話には、いろいろな解釈があったり、いろいろ自由に推測したり、想像したりできる。鹿児島に行くと、この日向神話は少し解釈が違ってくる。薩摩国、大隅国を含んだ南九州を「日向国」という時代もあったようだ。天孫降臨の地も、また宮崎県以外の別の所にあったりする。ニニギノミコトの墓も(宮内庁管理)も、鹿児島県内にもある。明治政府の薩摩出身役人が、我田引水したという話もあるが・・・。
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