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2019年6月の7件の投稿

2019年6月26日 (水)

秩父・熊谷のアジサイ名所

 2019年6月24日(月)、埼玉県秩父地域と熊谷市内のアジサイ名所をめぐる。

 
 昨夜から続く雨の中、アジサイめぐりを決行したのは7人、車2台に分乗。今日は終日、雨の予報。

 7:50関越道の花園ICを降り、西へ。秩父郡皆野町へと向かう。

 

●美の山公園 8:40~9:45 

 皆野町と秩父市にまたがる蓑山(みのやま、標高586m)の山頂一帯にある「美の山公園」。山頂付近には、駐車場、エントランス広場、イベント広場、展望台(3ヶ所)、インフォメーションセンター、売店、トイレなどの設備がある。

 土砂降りの雨の中、「美の山公園」の山頂付近の広場。

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 「美の山公園」の東斜面に広がるアジサイ園地。園全体の開花は、まだ3~4割程度か。

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 遠景は霧でよく見えない。

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 インフォメーションセンターの内部。秩父の写真を展示中。

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  「美の山公園」は、秩父盆地や奥秩父、外秩父の山々、赤城や日光連山が一望でき、8,000本のサクラのほか、3,500株のヤマツツジ、4,500株のアジサイ、紅葉、雲海や夜景が見どころ。ハイキングコースもある。

  蓑山に10年の歳月をかけて桜を植栽、1979年(昭和54年)に開園した広さ41haの県立の自然公園。環境省より国民休養地に指定された総合野外レクリエーション施設。

 

 県道44号線(秩父児玉線)を北上、「萩神社」と廃校になった「金沢小学校」(現在「デイサービスももとせ学校」)の前を通り過ぎ、信号あるT字路の突き当りは、赤い屋根の小さいお堂。道路標識は、道なりが県道44号(その先のY字路を右折すると国道140号線)、左折は行き先の表示がない。左折して西へ山道を進み、株式会社「上武」の採石場前を通過。やがて道は狭くなりT字路の標識は、右折「上武基幹林道 神泉村 吉田町」、直進「浦山地区 行止り」とある。直進して、浦山に向かう。



●皆野町金沢地区浦山 10:20~11:20 

 皆野町の金沢地区浦山の「カタクリの里」には、約4,000株の色とりどりのアジサイが植栽されており、梅雨時期には「美の山公園」と並んで、人気のアジサイスポット。「美の山公園」のアジサイに比べ、開花はやや遅いそうだ。

 金沢浦山の杉林の中、アジサイ園の入口。車2~3台を駐められる駐車場とトイレの建物。

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 雑木林の霧の中に咲くアジサイが幻想的。細い山道を登りながら鑑賞。

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 白と青のアジサイがほとんどで、彩りが少ないのが残念。

 「美の山公園」と皆野町金沢浦山のアジサイは、土砂降りの中でカッパを着て傘を差しても、濡れながらの鑑賞だった。

 


●そば処「別品屋本店」 11:40~12:20 

 秩父郡長瀞町野上、国道140号線の射撃場入口交差点付近の「別品屋(べっぴんや)本店」で昼食。

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 温かい、天ぷらそば850円を注文。

 天気予報に反して、昼ころから空は少し明るくなり小雨。国道140号線を西に進み、熊谷市街から国道407号線を北上、熊谷市妻沼に向かうころには、雨は止む。

 あじさい寺の「能護寺」に行く前に妻沼名物の「妻沼のいなり寿司」を買うため、「妻沼聖天山」に先に行く。

 

●妻沼聖天山(歓喜院)  13:15~13:55

 「歓喜院(かんぎいん)」は、熊谷市妻沼(めぬま)にある高野山真言宗の寺院。一般には「妻沼聖天山(しょうてんざん)」、地元では「聖天さま」と呼ばれる。日本三大聖天の一つで、特に縁結びの御利益で知られる。夫婦の縁をはじめ、家内安全・商売繁盛・厄除け開運・交通安全・学業進学などのあらゆる良縁を結んでいただけるという。

 雨が上がった「妻沼聖天山。3つある門のひとつ「仁王門」。

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 社伝によると、長井庄(熊谷市妻沼)を本拠とした武将・斎藤実盛(さねもり)が、1179年(治承3年)に守り本尊の大聖歓喜天(聖天)を祀る聖天宮を当地に建立し、長井庄の総鎮守としたのが始まりとされている。

 その後、1670年(寛文10年)の妻沼の大火で焼失。現存する聖天堂(本殿)は、1735年( 享保20年)から1760年(宝暦10年)にかけて、棟梁・林兵庫正清・正信の親子らによって建立された。彫刻技術の高さに加え、漆の高度な技術が駆使された近世装飾建築の頂点をなす建物であること、またこのような建物が権力者でなく民衆の力によっての建設されたことが、文化史上高い価値を有すると評価され、2012年(平成24年)に聖天堂(本殿)は国宝に指定された。

 妻沼聖天山 の拝殿。

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 彩色豊かな彫刻で装飾された本殿は、透塀(玉垣)内にあり、拝観入場券が700円 。時間の都合で入場せず。(文末の関連ブログ記事を参照)

 門前にある「妻沼のいなり寿司」の店「聖天寿司」は、この日は定休日。

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 二百数十年前、妻沼郷が聖天山の門前町や利根川の宿場町として栄えた頃から、「妻沼のいなり寿司」が妻沼の名物だったという。油揚げを煮込むタレも独特で、コクのある風味と細長く大きな形のいなり寿司、そしてのり巻がセット。庶民の味、ふるさとの味として親しまれ、今もその人気は根強く、遠方からもこの寿司を目当てに、足を運ぶ人も多いという。

 写真は、「聖天寿司」(妻沼いなり寿司)。ウィキペディアコモンズより転載。

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 「聖天寿司」の店のほか、「妻沼のいなり寿司」は「聖天山」周辺の「小林寿司」と「森川寿司」の2軒の店で売られているそうだ。行って見ると、月曜日は定休日。近くの407号線沿いの「道の駅めぬま」でも売られていると聞き、そちらに行って見ることに。

 

●道の駅めぬま 14:00~14:15

 「道の駅めぬま」にも「妻沼のいなり寿司」が売られてていて、名前は「吟ぎん寿司」。 妻沼出身の日本で初の女医・荻野吟子にちなんだ商品名で、「道の駅めぬま」の地域振興施設「めぬぱる」の管理・運営会社「有限会社メロード」が製造元。

 なお、丸い建物の地域振興施設「めぬぱる」の1階部分は、地元にかかわる品物の売店。2階はレストランと、女医第1号の荻野吟子をはじめとする日本の女性第1号のパネル展示がある。

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 残念ながら、「吟ぎん寿司」も売り切れ。店員に聞くと、この日は「聖天山」周辺の店が休みで、参拝客がこの道の駅に多く買い求めて来たそうだ。

 ちなみに、道の駅の中の「めぬまアグリパーク」では、約400種2000株のバラが植えられている(入場無料)。例年5月中旬~6月上旬、秋バラは10月中旬~11月下旬が見ごろ。すでにこの時期、咲いているバラはわずか。

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 「めぬまアグリパーク」のバラ園に建つ荻野吟子の像。

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 施設の名前がいろいろあって、分かりにくい。整理すると「道の駅めぬま」は、駐車場と「めぬまアグリパーク」と「めぬま物産センター」を合わせた施設全体を指すようだ。「めぬまアグリパーク」は、丸い2階建ての地域振興施設「めぬぱる」とバラ園。「めぬま物産センター」は、直売所と食堂から成るようだ。
 
 

●能護寺 14:30~15:00 

 熊谷市永井太田のあじさい寺「能護寺」は、国道407号線を挟んで、「妻沼聖天山」の西に直線3キロほどの距離にある。

 高野山真言宗の寺院で、743年(天平15年)行基上人が開山し、後に弘法大師(空海)が再建したと伝えられる。近年、妻沼の「あじさい寺」として親しまれ、毎年6月上旬~下旬頃は、境内に50種類800株をこえる色とりどりのアジサイが咲き誇る。

 山門で拝観料300円を払って、入山。

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 鐘楼の鐘は、1701年(元禄14年)に鋳造、市の文化財に指定。建物は1902年(明治35年)に再建された。

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 現在の本堂は1814年(文化11年)に再建。本堂内部は見てないが、奥(内陣)に本尊の大日如来、手前(外陣)に阿弥陀如来を安置。堂内の格天井に16羅漢図、格天井や板戸に花鳥獣が色鮮やかに描かれているそうだ。

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 虚空蔵堂(下の写真)には、丑・寅生まれの守り本尊で、智恵と福徳を授ける虚空蔵菩薩が安置されているという。

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 「能護寺」のアジサイ鑑賞の頃には、曇り空だがすっかり明るくなって、熊谷地方の最高気温は22℃だった。

 15:00、現地で散会。

 

 女医第1号の荻野吟子と「妻沼聖天山」について、関連ブログ記事は以下の通り。

  「池袋周辺の史跡めぐり-その1」 2012年1月29日投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-e97a.html

  「妻沼聖天山」 2012年12月13日投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-8470.html

  「利根川サイクリングロード」 2013年12月14日投稿
    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/2013-47a1.html

 

 

2019年6月22日 (土)

吉見朝観音2019

 2019年6月18日(火)、恒例の「吉見観音朝詣り」で早朝ウォーキング。

 

 坂東三十三箇所11番札所、関東八十八箇所75番札所の「安楽寺」(埼玉県比企郡吉見町)は、古くから「吉見観音」と呼ばれて地元の人々に親しまれている。毎年6月18日は、吉見観音の御開帳に当って開催される「厄除け朝観音御開帳」。朝早くにお詣りすると、ご利益があるそうだ。午前2時頃から参拝客で賑わいを見せるという。

 早朝、ウォーキングの会の参加者が集合場所の市民センターに早朝がそろったところで、午前5時出発。往復8Kmの道のりを歩いて「吉見観音」に参拝する「吉見観音朝詣り」の早朝ウォーキング。

 まだ車の往来の少ない市街地、国指定史跡の「吉見百穴」(ひゃくあな)の前を経て、田園風景の中へ、いつものルートを歩く。

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 ショーカットのあぜ道を歩く。

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 「吉見観音」(安楽寺)の仁王門。

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 「吉見観音」に到着し、さっそく観音様にお詣りする頃、6時の打ち上げ花火が鳴り響く。境内には名物の厄除け団子を売るテントの前に、買い求める参拝客の行列が出来、参道にもいくつか屋台も並ぶ。

 「吉見観音」の境内の様子。

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 「吉見観音」に参拝。

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 現存する三重塔は今から約380年前の寛永年間に建築されたもの。本堂・三重塔・仁王門・大仏等の中では最も古い。

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 なお、本堂、三重塔、仁王門は、埼玉県指定文化財。仁王像は、吉見町指定文化財。

 厄除け団子を買って、参道を帰る参拝客。

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 古くから吉見観音の参道で店を開いている茶店「どびんや」は、本日の「厄除け団子」が売り切れたのか、この日も通りかかった午前6時過ぎには店が閉まっていた。

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 車で駆け付けた会員を含めて、参加者は25人。参拝を済ませた後は、近くの資材置き場の空き地に集まり、朝食の弁当とお茶が幹事から配られた。

 朝食後の6時45分、散会。参加者はお土産の厄除け団子を手に、また来た道を歩いて帰る。

 お土産の厄除け団子。

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 7:45、集合場所の市民センターに到着。
 

 まだ薄暗い早朝の空は雲が多めだったが、陽が昇るにつれ青空も広がり、やがて日差しも出てきた。

 この日午後の最高気温は28℃、夏日だった。
 
 

 

 本ブログの関連記事

  2018年ブログ記事「吉見朝観音2018」は、こちら。
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  2017年ブログ記事「吉見朝観音2017」は、こちら。
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/618-b1a2.html

  2016年ブログ記事「吉見朝観音2016」は、こちら。
      http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-8047.html

  2015年ブログ記事「吉見朝観音2015」は、こちら。
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  2014年のブログ記事「吉見朝観音2014」は、こちら。
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  2013年のブログ記事「吉見朝観音2013」は、こちら。
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-8047.html

  2012年のブログ記事「吉見朝観音2012」は、こちら。
   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-8047.html

 

2019年6月21日 (金)

初夏の赤城自然園

 2019年6月13日(金)、群馬県渋川市の「赤城自然園」に行く。
 

 「赤城自然園」は赤城山の西麓、標高600~700mにある。「人間と自然との共生」の実現を目指し、四季を織りなす美しい自然を感じることができる森。約120ヘクタール(約36万坪)、一般開園エリア約60ヘクタール(約18万坪)。運営は、株式会社クレディセゾン。
 

 国道17号線のバイパスである熊谷バイパス、深谷バイパス、上武道路を北上、前橋市を経て渋川市へ。

 森の中に木造の建物が、公園の出入口の「総合案内所」。

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 10:20、「赤城自然園」に入園。

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 「総合案内所」の向かいにある「展示棟」。

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 園内案内図(図をクリックすると拡大表示します)。

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 入口からゆるい坂の遊歩道の途中にある「シャクナゲ園」、わずかに咲いていたシャクナゲ(石楠花、ツツジ科)の花。

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 「シャクナゲ園」にある池の周りのシャクナゲの花は、終わっている。

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  サクラマンテン(桜マンテン、ナデシコ科)は、桜マンテマ、桜マンテなどいろいろ呼び名があるようだ。

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 咲いているツツジ(躑躅、ツツジ科)も少ない。シャクナゲとツツジの花の季節は終わっている。

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 ミヤコワスレ(都忘れ、キク科)。

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 ミヤマヨメナ(深山嫁菜)はキク科、春に開花する野菊の一つで、ミヤコワスレは本種の園芸品種だそうだ。 

 リュウノウギク(キク科)。

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 日差しは強いが、新緑の木陰は涼しくて気持良い。遊歩道には、樹皮を粉砕したパークチップを敷いてあって、足元が心地よく歩き易い。

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 「ナナフシ橋」を渡ると、左手に東屋(あずまや)がある。12:00頃、東屋のベンチに腰掛け、持参した弁当でランチ。

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 東屋付近の マムシグサ(サトイモ科)。茎に紫褐色のまだら模様があり、この模様がマムシに似ているという。

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 東屋付近の エビネ(海老根、ラン科)。根が海老に似ているそうだ。

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 測量の基点となる標高675mの三等「三角点」。「丸塚」と呼ばれる場所。

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 「昆虫広場」(休憩広場)には、昆虫のトラップや蜂の巣の標本がある。

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 カブトムシが好きなコナラ(小楢、ブナ科)やクヌギ(椚、ブナ科)の「カブトムシの森」。

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 森の中の湧水の泉、神秘的な「ミズスマシの池」。アメンボが時々水面に輪を作る。

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  ミズスマシは甲虫目ミズスマシ科の昆虫、池の水面をくるくる回って泳ぎ、長卵形でゲンゴロウの形をしていて黒褐色。一方、アメンボは、半翅(はんし)目アメンボ科の昆虫、池の水面を6本の足だけで浮いて滑走する。関西ではアメンボをミズスマシと呼ぶことがあり、古語のミズスマシはアメンボのことを指すこともある。ミズスマシとアメンボは、混同し易い。

 木の枝にモリアオガエル(森青蛙、アオガエル科)が産み付けた卵塊。あちこちの池の上にせり出した木の枝で見かける。

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 夏から秋にかけてトンボがたくさん飛ぶという「トンボの池」。

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 「昆虫館」では、昆虫の標本を展示。建物の前には休憩所がある。

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 4月の最盛期には、カタクリ(片栗、ユリ科)が一面に咲くという「カタクリの林」。

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 季節は初夏、この日も夏日。予想通り咲いている花は少なかったが、山麓の森は涼しく、森の癒しを体感した。

 14:40、公園を退出。

 

 ★ ★ ★

 「赤城自然園」には、初めて行った。入園料は、大人(高校生以上)1,000円、但しセゾン・UCカードの提示すると500円でお得。こども(中学生以下)は無料。駐車場(400台)は無料。

 開園時間は、9:00~16:30(入園は15:30迄)。4月~11月は、火曜定休。火曜が祝・休日の場合は、開園し翌日休み。5月は無休。12月~3月は、毎週土・日曜のみ開園(年末年始除く)。

 園内をざっと1周すると、2時間程度だそうだ。今回は花をじっくり観察していたので、全部は回れなかった。レストランなどの飲食設備はないので、弁当を持参すること。無料のガイドツアーが、毎日10時と13時の2回開催されているという。

 

 「赤城自然園」は、公共の公園ではなさそうだと思っていたが、調べてみると運営は、「株式会社クレディセゾン」。「次世代を担うこども達に、豊かな自然を引き継ぐ」ため、企業の社会貢献活動のひとつとして「赤城自然園」を2010年から運営している。

 1980年代に西武セゾングループの堤清二氏が主導となって、「人間と自然との共生」を目的として開発された森。子ども達が、デパートの屋上でカブトムシやオタマジャクシを初めて目にする姿に、氏がショックを受けたことが開発のきっかけのひとつとも言われている。

 「花を育てるのではなく、環境を整えることで植物が育つ手助けをする」。総合自然観察園を目指し、およそ30年の歳月をかけてマツやスギの雑木林の植生を入れ替え、環境を整備し続けて植物が生き生きと育ち昆虫や小動物が 棲みやすい環境づくりを続け、豊富な樹木や花々が生きる豊かで自然に近い森に再生したそうだ。

 「多くの子どもたちが自然に触れ、感性を育むことで豊かな社会にしていきたい」という思いに賛同する様々な個人、企業、団体からのサポートを受けて、運営しているという。オフィシャルスポンサーとして、30社ほどの企業がリストアップされている。

 

 ほとんどのカエルは水中に産卵するが、モリアオガエルは水面上の枝や草の上などに卵塊を産みつける。繁殖期になると、まずオスが産卵場所に集まり、鳴きながらメスを待つ。メスが産卵場所にやってくると、オスが背中にしがみつき産卵行動が始まる。受精と同時に粘液が分泌され、オス・メスが足でかき回し、300~800個の受精卵を含んだ直径10~15 cmほどの白い泡の塊を作る。卵塊の形成が進むに連れ、1匹のメスに数匹のオスが群がる場合が多いという。

 1週間ほど経って、卵が孵化する。孵化したオタマジャクシは泡の塊の中で雨を待ち、雨で溶け崩れるとともに下の水面へ次々と落下する。イモリは、その真下で待ちかまえていて、落ちてくる幼生をパクパク食べるのだそうだ。

2019年6月18日 (火)

大谷石とカルビー

 2019年6月5日(水)、栃木県宇都宮市へ日帰りのバス旅行。
 

 この日は、朝からどんよりとした曇り。関東地方は大気の状態が不安定で天気の急変に注意という予報だが、午後から日差しも出て蒸し暑い夏日となった。

 バスは午前7時半、集合場所の駐車場を出発。参加者24名を乗せ、圏央道から東北道へ。車中でカラオケを楽しむうちに、バスは宇都宮インターを降り、10時半の「大谷資料館」着。

 

●大谷資料館 (宇都宮市大谷町)

 昨年10月に行った時(文末の関連記事を参照)は、「大谷石資料館」の建物から大谷石採石場跡の地下30m、2万平方メートルの巨大地下空間へ長い階段を歩いて降りた。しかし、地下空間へバスに乗ったまま直接行くこともできる。参加者の希望通りバスは、地下への狭い通路で車体を擦るのではないかとハラハラしながら、真っ暗な地下空間へ入る。

 バスを降りると、薄灯りの地下で目が慣れるまでしばらくかかる。

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 壁にある温度計を見ると、坑内気温9℃。半袖シャツでは肌寒い。年間平均気温は、夏は外気より涼しく12~13℃、冬は暖かく1~2℃くらい。

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 地下空間を移動。

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 地下空間から地上に通じる階段。

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 ガイドの案内で地下の採石場跡を巡り、大谷の地質、大谷石の特長、採掘方法、手掘りと機械掘り跡などの説明く。

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 華道家・假屋崎さんの花アートの前。 

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 最初に人の手で地下に開けられた穴だそうだ。

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 この地下空間は、最近ではテレビや映画のロケ、コンサートや結婚式などのイベントに利用されている。

 地下空間を利用したイベントのフォトギャラリー。

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●平和観音像 (宇都宮市大谷町)

 11時過ぎ「大谷資料館」を出て、バスはすぐ近くの「大谷公園」の市営駐車場に移動。

 戦後、太平洋戦争の戦没者供養と世界平和を祈って、大谷石採石場の壁面を利用して「平和観音像」が刻まれた。 

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 また「平和観音像」の左側の階段から登る展望所から、観音像の目線で名勝「御止山(おとめやま)」や大谷の景観などの眺望を楽しむことができる。

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 大谷公園は、元々は大谷石を産出する採石場だった。公園の中央には、大岩が2個ある。

 よく見ると、左の親ガエルと右の子カエルが、向き合っているように見える。

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 この「親子がえる」の説明板には、次のように書いてある。

 「その昔ある聖僧が仏教を広げるため各地を歩いておりますと、このあたりに蜂の大群が住みつき、住民を苦しめているとの話を耳にされました。聖僧は住民を助けようと、当地で三七・二十一日の苦行を重ねて、観音様を作りあげました。そのとき、蜂の大群がこの村に攻めてきました。するとどこからともなく「親子がえる」が現われ、岩肌にしがみつき蜂の大群と戦い、身をもって住民を守ったといわれています。それ以来、住民はかえるに感謝し、今も地守神様として子孫に言い伝えております。宇都宮観光コンベンション協会」
 

●宇都宮餃子館 (宇都宮市徳次郎町)

 11時45分「大谷公園」を出発、12時ちょうど「宇都宮餃子館 健太餃子」宇都宮インター店に到着。

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 焼き餃子、蒸し餃子、水餃子、揚げ餃子の餃子づくしの定食で満腹になって、13時「カルビー株式会社」へ向け出発。
 

●カルビー工場 (宇都宮市清原工業団地)

 「かっぱえびせん」や「フルグラ」でお馴染み、カルビー清原工場に午後1時半到着。

 工場の案内係員から、商品と工場の概要を聞き、ビデオを視聴。

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 徹底した衛生管理、商品が出来るまでの工程などの説明を聞き、自動化した梱包ラインなどを窓越しに見学。

 「かっぱえびせん」が出来るまでの説明パネル。写真をクリックすると、拡大表示します。

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 原料として使用されている小エビは、アカエビ、サルエビ、キシエビ、アマエビの4種類。広島で水揚げの瀬戸内海産との説明だったが、現在は中国、アメリカなど海外産のエビも使っているようだ。

 原料の小麦粉、でんぷん、塩などと、ミンチにした数種類のエビ(頭から尻尾までそのまま)を混ぜ合わせる。蒸してこねると、餅のような生地ができる。これを薄くのばし、「かっぱえびせん」の形にカット。ここまでは広島工場で加工される。清原工場に運ばれたカットされた生地は乾燥させ、そして塩で煎ることで生地が膨らみサクサクした食感が生まれるという。油で揚げてはないが、のど越しを良くするため、味付けの時に適量の油を吹き付け、舌触り・のどごしをまろやかにしているそうだ。 

 ”かっぱえびせん”の歴史のパネル。

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 「かっぱえびせん」は、1955年に発売されたスナック菓子「かっぱあられ」が原点。昭和20年代、清水崑の漫画『かっぱ天国』が大人気で、かっぱのキャラクターをパッケージに使ったためこの名前になったそうだ。

 「フルグラ」は、フルーツ・グラノーラを略した商品名。清原工場では、焼き上げたオーツ麦やライ麦といった穀類を主原料とし、ドライフルーツなどを混ぜた大人気「シリアル食品」(後述)の「フルグラ」を主力に製造している。工場の中のあまい香りは、「フルグラ」の原料を焼く匂いだそうだ。

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 製造工程は、細かくした穀物類にシロップを加え混ぜ合わせ、機械にかけて平たく延ばして1枚のシート状にする。長さ40mもあるオーブン設備で、シート状のまま香ばしく焼き上げる。焼いた後に砕くことで大小の粒となって、ザクザクした食感が得られるそうだ。アーモンド、ココナツ、いちご、りんご、パパイヤ、レーズン、かぼちゃの種などのドライフルーツを加えて混ぜ、包装する。

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 試食タイムでは、「かっぱえびせん」の3種類の味の中から、好きな味を選んで自分で味付け。「フルグラ」に、牛乳のほか、フローズン・ヨーグルトとすりおろしたリンゴを加えて、美味しい食べ方を教わる。

 カルビー商品詰合せのお土産を抱え、15時30分工場をあとにした。

 帰りのバスの中でもカラオケ。18時前に出発地に無事到着。今回も楽しい、有意義な研修旅行であった。
 
 

 本ブログの関連記事
  
  「宇都宮と大谷石」 2018年10月22日投稿

    http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-46a2.html


 
 ★ ★ ★

 「カルビー株式会社」は、スナック菓子やシリアル食品(グラノーラ)などを製造・販売している。1949年(昭和24年)、松尾孝が広島市で「松尾糧食工業株式会社」として設立。1955年(昭和30年)現在の会社名のカルビーに変更した。「カルビー」という名前は、当時の日本人に不足しているとされたカルシウムの「カル」と、ビタミンB1の「ビー」を組み合わせたもの。

 1964年に発売された、瀬戸内海の小海老を使った「かっぱえびせん」がヒット商品となり、カルビーの名が知られるようになる。「やめられない、とまらない、かっぱえびせん」のキャッチコピーのCMは、誰でもが知っている。

 現在販売されている「かっぱえびせん」。

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 1971年、スナック菓子「仮面ライダースナック」が発売。テレビドラマ『仮面ライダー』を題材としたカードがおまけとして付属したことで、爆発的な人気が出た。1975年、「ポテトチップス」を発売。その翌年、当時14歳だった藤谷美和子を起用したテレビCMで、

 「100円でカルビーポテトチップス買えますが、カルビーポテトチップスで100円は買えません。あしからず。」

は面白くて大評判となり、同社はポテトチップス市場でトップに躍り出たという。当時筆者も、おどけた藤谷のファンになった。

 現在販売されている「ポテトチップス」と「サッポロポテト」。

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 現在販売されているその他のスナック菓子の一部。

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 1973年、本社を広島から東京に移転。2005年には3代続いた同族経営を止めて、創業家外の社長が就任。その後も「カルビー株式会社」は 、積極的な経営革新を続け、現在に至っている。

 

 シリアル(Cereal)とは、穀物または穀物の加工食品のこと。長期保存に適した形状に加工、加熱調理した簡便食。主に牛乳やヨーグルトなど、乳製品をかけて食べることが多い。

 シリアル食品の代表的なものには、コーンを焼き上げ薄い形状にした「コーンフレーク」、これに砂糖をまぶしたものが「コーンフロスト」。食物繊維がたっぷり含まれている小麦外皮(ブラン)を焼き上げた「オールブラン」。大麦、小麦、オーツ麦などを焼き上げたものが「グラノーラ」。またオート麦の実を潰して乾燥させたもので味が無い「オートミール」は、加熱調理して食べる。更に「オートミール」にドライフルーツやナッツなどを混ぜ合わせ、食べやすくしたものが「ミューズリー」。

 

 グラノーラ(Granola)は、シリアル食品の一種。オーツ麦や、麦、玄米、とうもろこしなどを主とした穀物加工品と、ココナッツ、ナッツなどを砂糖、蜂蜜、メープルなどのシロップや植物油とで混ぜ、オーブンで焼いたもの。さらにドライフルーツなどが混ぜられることも多い。オーブンで焼く途中に何度かかき混ぜる、または焼き上げた後に破砕することで、適当な粒状でサクサク感のある食品が出来る。日本では主に、カルビー、日清シスコ、日本ケロッグが販売。

 グラノーラは、ヨーグルトや牛乳をかけて朝食としたり、おやつとしてそのまま食べる。軽くて持ち運びやすく栄養価が高いため、アウトドアの携帯食にも向いている。グラノーラを棒状に固めたグラノーラ・バーも人気があるようだ。栄養価が高い半面で、糖質(炭水化物)が低めなため、「低糖質ダイエット」に利用されるなど、人気の理由にもなっている。ただし、食パンなどと比較してもカロリーは低くないので、食べ過ぎに注意すべきという。
 

2019年6月16日 (日)

足利学校と足利氏

 2019年6月1日(土)、栃木県足利市に行く。

 

 足利市は、栃木県の南西に位置する歴史の街。室町幕府を開いた、源氏の流れをくむ足利尊氏の先祖が住んでいた足利氏発祥の地。この辺りは、昔から養蚕が盛んで、織物でも知られていた。足利市には、2015年「あしかがフラワーパーク」に行ったことがある。

 ワゴン車のレンタカーに参加者6人同乗。渡良瀬川に架かる「中橋」を渡って、9:35足利市観光協会の「太平記館」(足利市伊勢町)に到着。休憩後、車を駐車場に置き、歩いて数分の国指定史跡「足利学校」(足利市昌平町)へ。

 

●足利学校(10:10~11:10)

 「足利学校」の創建は奈良時代、平安時代、鎌倉時代など、諸説ある。「坂東の大学」と称され、室町時代から戦国時代にかけては、関東における事実上の最高学府であった。

 国道293号線の歩道橋の上から「足利学校」の全景を望む。

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 足利学校の「入徳(にゅうとく)門」から入場。

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 受付で参観料420円(JAFカード提示で340円)。入学証をいただく。

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 「足利学校の歴史」という紹介ビデオ(約15分)視聴したあと、「学校門」をくぐる。

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 「旧遺跡図書館」は「足利学校」が廃止になった後、明治36年(1903年)に開設。「足利学校」の書物を引き継いだ図書館。

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 「庫裡(くり)」は学校の台所、食事など、日常生活が行われたところ。

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 建物内部に入ると、「足利学校」の歴史を中心に、ゆかりの資料が展示されている。

 「足利学校」の模型。堀と土塁に囲まれている。中央の建物が「方丈(ほうじょう」。その手前L字形の建物が「庫裡」、その右の黒い屋根「書院」。

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 「方丈」は、学生の講義や学習、学校行事や接客のための座敷として使用された。「書院」は、庠主(しょうしゅ=学長)の書斎、応接室。学生への個人授業も行われた。

 「足利学校」の教育内容は、儒学が中心。孔子は儒学の祖。1535年に造られた日本で最も古い「孔子坐像」が祀られている。

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 「足利学校」の蔵書に見る元号「平成」と「令和」の出典。国宝『宋版 尚書正義』(中国南宋時代)と『万葉集』(文化2年(1805年)刊)。写真をクリックすると拡大表示します。
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 「足利学校」跡の東半分は、小学校の敷地になっていたそうだ。1990年(平成2年)、江戸時代中期頃の「方丈」や「庫裡」、書院」の建物や庭園が復元された。下の写真は、「方丈」の建物と奥に「庫裡」の建物。

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 「方丈」の南側にある池と築山の「南庭園」。発掘調査と、江戸時代の絵図を元に復元された。

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 同様に「方丈」の北側にも、復元された築山、池と中島の「北庭園」がある(写真なし)。

 「南庭園」の築山越しに見る「方丈」と「庫裡」の建物。

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 「杏壇(きょうだん)門」と、その先の孔子を祀る孔子廟。改修中のため入門禁止。

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 孔子廟の建物は「大成殿」と呼ばれ、1668年(寛文8年) に造営。様式は、中国明代の古廟を模したものと伝えられている。

 8年前の東日本大震災の影響で傾いてしまったため、2018年11月から改修工事が始まった。屋根瓦を下ろし、回廊や柱を解体する大工事で、創建された1668年以来、記録に残る限り初めての工事だという。工事の終了は2020年3月の予定、総工費・調査費など計9千万円。

 「足利学校」の伝統行事である「釋奠(せきてん)」は、足利市指定の民俗文化財に指定され、毎年11月23日に孔子廟で行われるそうだ。

 工事前の孔子廟「大成殿」での「釋奠」の様子。パンフレット「日本最古の学校 国指定史跡 足利学校」の写真を転載。

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 孔子とその儒学の弟子たちを祭るこの儀式は、古代中国に起源をもち、現在は国内でも数ヶ所でしか行われていない。

 「釋奠」の終了後、庠主(学長)の講話や記念講演も行われるという。今年の11月は、まだ工事が行われているが、「釋奠」行事はどうするのだろうか。 

 「足利学校」から参道「石畳通り」を通って、正面の「鑁阿寺(ばんなじ)」(足利市家富町)の山門に向かう。

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●鑁阿寺(ばんなじ)(11:25~11:50)

 堀に架かる太鼓橋を渡って、立派な山門をくぐる。
 
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 「鑁阿寺」は「足利学校」に隣接し、1196年(建久7年)足利義兼(よしかね)によって創建された真言宗の古刹。足利氏の氏寺。坂東八十八ヶ所霊場十六番札所。この地は足利氏の館(やかた)跡で、国指定の史跡。四方に門が設けられ、境内は堀と土塁がめぐらされているのは、鎌倉時代前後の武士の館の面影を残しているという。

 本堂は国宝。御本尊は大日如来。

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 参拝で正面を見ると、祭壇はシンプルで鏡が置いてある。お寺のイメージが無くなぜ鏡なのか、本堂にいたおばさんに聞くと、「よく参拝客に聞かれるけど・・・」と前置きして「神仏習合の名残り」だそうだ。御本尊は、鏡の後ろの幕の裏に安置されているとのこと。

 国指定重要文化財の経堂(きょうどう)。経堂は経典を納めておくところ、経蔵(きょうぞう)ともいう。

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 栃木県指定重要文化財の西門。

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  国指定重要文化財の鐘楼。

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 「鑁阿寺」の山門を出て、参道へ。

 参道沿いの小公園に建つ「征夷大将軍 足利尊氏公像」。室町幕府を開いた尊氏は、足利氏の始祖・義康(源義家の孫)から数えて八代目にあたる。

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 尊氏は、七代目貞氏の次男として、側室・上杉清子との間に生まれた。生誕地は母の実家で、上杉氏の丹波の国上杉荘(京都府綾部市)とされる。過去、尊氏は足利荘(足利市)で出生したとされていたが、30年ほど前からこの説は否定されているそうだ。尊氏は、鎌倉や京都に住み、足利には来なかったとも聞く。足利一族は、二代目義兼が頼朝挙兵に参加したことや、義兼は母が頼朝のいとこ、妻が北条政子の妹・時子(つまり頼朝の義理の弟)という関係で、鎌倉幕府で優遇されていた。北条家とも代々婚姻関係を結んでいて、尊氏の正妻も北条家の出身だった。

 

●めん割烹「なか川」(11:55~12:55)

 「鑁阿寺」の 参道「石畳み通り」に面して、めん割烹「なか川」(足利市通2丁目)がある。足利市出身の書家・相田みつをの縁(ゆかり)のこの店で昼食。

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 店のお薦め「天ぬきそば御前」(2,100円)を注文。盛り蕎麦、天ぬき、ニシンの甘露煮、炊込みご飯、デザートの水わらびもちのセット。”天ぬき”とは、”天ぷら蕎麦”から蕎麦を抜いたもの。温かいつゆに入った天ぷらでゆっくりと日本酒を飲み、〆に盛り蕎麦を残ったつゆにつけて食べるのが、通の食べ方だそうだ。そんなことも知らずに、まず生ビールで乾杯の後、日本酒を飲みながら天ぷらも蕎麦もニシンも一緒に食べていた。ちょうど昼時で店は満員。地元の人達というより観光客が相手なのか、2,100円はちょっと高かかった・・・・。

 店内には相田みつをの書が、いくつも飾ってあった。

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 めん割烹「なか川」は1945年(昭和20年)、旅館「なか川」として創業した。その頃訪れた相田みつをの作品に対する思いと夢を聞き、支援を始める。「なか川」は、個人では相田みつを作品の日本一の所有者、店内にも季節に応じて作品を展示しているという。
 

 レンタカーを駐めておいた「太平記館」に戻り、お土産購入。

 足利土産は、香雲堂本店の和菓子。日本最古の学校「足利学校」、足利氏の氏寺「鑁阿寺」の古印、足利出身の画家・田崎草雲の落款に因んだ方形の最中(7個入り1,080円)。

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 13:00、レンタカーで出発。「鑁阿寺」の北東方向にある発掘・復元中の「史跡樺崎寺跡」(足利市樺崎町)へ行く。



●史跡樺崎寺(かばさきじ)跡 (13:10~13:35)

 「樺崎八幡宮」の石段下の駐車場に、レンタカーを駐める。

 「樺崎寺」は、「鑁阿寺」の開基で足利氏二代目の義兼によって、1189年(文治5年)に創建。義兼は1195年(建久6年)に出家、1199年(正治元年)に没した。三代目の義氏が、父義兼の霊をなぐさめるため廟所を造り、「赤御堂」と称した。あわせてお堂を建て、八幡神を勧請して義兼を合祀したことが、「樺崎八幡宮」のはじまりとされている。

 「樺崎寺」は、鎌倉時代後期から南北朝にかけて最盛期を迎えたが、戦国時代になって足利氏が力を失うと「樺崎寺」も衰退し荒廃。明治維新後の神仏分離令により、廃寺となった。旧境内域の一部には、「樺崎八幡宮」のみが現在も残る。

 八幡山を背景に、「樺崎八幡宮」が建つ。

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 八幡神は、清和源氏、桓武平氏を始めとする武家に広く信仰されたが、清和源氏は八幡神を氏神として崇敬し、日本全国各地に勧請した。源義家は、石清水八幡宮で元服し自らを「八幡太郎義家」を名乗ったことでも有名。

 本殿は、江戸時代の天和年間(1681〜83年)に再建され、1989年(平成元年)に修復された。

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 「樺崎寺」跡は、1984年(昭和59年)から発掘調査が行われた。旧境内は西側の八幡山を背にし、東を正面として伽藍が営まれていた。山麓には廟所「赤御堂」のほか、多宝塔などがあった。これらの東側には、大日如来を安置する「下御堂」(または「法界寺」)と呼ばれる堂宇があり、浄土式庭園が築かれていた。

 多宝塔の礎石。

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 足利氏御廟の礎石建物跡の案内板。写真をクリックすると拡大表示します。

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 浄土式庭園は、平泉の藤原氏の庭園をまねたものだそうだ。写真は、復元工事中の浄土庭園と池。

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 「樺崎寺」は、「鑁阿寺」と並ぶ足利を代表する寺院であり、鎌倉時代の浄土庭園を持つ寺院として貴重であることから、2001年(平成13年)に国の史跡に指定された。

 次の目的地「ココ・ファーム・ワイナリー」は、 「史跡樺崎寺」から北西の方向、関東自動車道の下をくぐって、足利市田島町へ。

 

●ココ・ファーム・ワイナリー (13:45~14:30)

 1958年(昭和33)、特殊学級の中学生達と担任教師・川田昇によりブドウ畑を開墾。川田は、1969年(昭和44)障がい者支援施設「こころみ学園」を設立し、そして賛同する園生の家族の方々と1980年(昭和55)有限会社「ココ・ファーム・ワイナリー」を創立した。

 平均斜度38度という南急斜面のブドウ畑。ブドウには、日当たりがよく、水はけも良いという。

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 ワインショップ&カフェで休憩。

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 ワインの醸造タンク。

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 ワイナリーはカルフォルニアから専門家を呼んで指導を受け、200年沖縄サミットや2008年洞爺湖サミットで振る舞われ、国際的のも高い評価を受けているという。障がい者支援施設「こころみ学園」は現在140名の園生がおり、88歳を筆頭に約半数が高齢の知的障がい者。園生みんなが、何らかの形でワイン作りに携わっているそうだ。
 
 最後の目的地「織姫神社」は、「ココ・ファーム」から南西の方向、再び北関東自動車道の下をくぐって足利市西宮町へ。「織姫神社」に最も近い織姫駐車場に車を駐める。

 

●足利織姫神社(14:45~15:15)

 織姫山に広がる「織姫公園」、その南端に建つ朱塗りの美しい神殿は足利名勝のひとつ「足利織姫神社」。1300年の歴史と伝統を誇る、足利織物の守護神が奉られている。

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 旧社殿は1879年(明治12)に焼失したため、1937年(昭和12)に再建された。2004年(平成16)には国の登録有形文化財に認定。

 境内から市街地を展望。正面の山は、「足利富士浅間神社(男浅間神社)」。その手前に「女浅間神社」と渡良瀬川に架かるトラス構造の橋「渡良瀬橋」。

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 富士山を眺望、関東平野を遠望できるというが・・・。織姫公園からは「天狗山ハイキングコース」などが整備されている。

 織姫公園の駐車場からでなく、県道40号線の織姫神社交差点から一の鳥居をくぐり、229段ある石段を昇って参拝すると願いが叶うとされている。

 15:15、織姫公園の織姫駐車場に戻り、帰路へ。案内してくれたIさんに感謝。

 

 ★ ★ ★

●足利学校

 「足利学校」の創建については、奈良時代の教育機関という説、平安時代の小野篁(おののたかむら)が創設したという説、鎌倉時代の初期に「鑁阿寺」を開いた足利義兼が建てたという説がある。明らかなのは、室町時代の上杉憲実(のりざね)が学校を再興したという。学校を整備し、孔子の教え「儒学」の五つの経典のうち四経の貴重な書籍(多くは現在、国宝)を寄進。鎌倉から禅僧・快元(かいげん)を招き、初代の庠主(しょうしゅ:校長)とし、学生(僧)の養成に力を注いだ。その後は、代々禅僧が庠主になったという。

 室町時代には儒学、特に「易」について学校に学んだ僧は非常に多く、永正年間(1504~1520)から天文年間(1532 ~1554)には学徒三千といわれ、事実上日本の最高学府となり大いに発展した。フランシスコ・ザビエルは1549年、「日本国中最も最大にして有名な坂東の大学」と世界に紹介した。

 江戸末期には役割を終え、書籍も散逸の危機に陥った。南画家の巨匠・田崎早雲などの尽力で保存され、1903年(明治36)に「遺跡図書館」が造られた。1921年(大正10)、「足利学校」跡は孔子廟、学校門などの建物を含め国指定史跡となった。1982年(昭和57)の「足利学校」の東半分にあった小学校の移転を契機に史跡の保存整備事業に着手、1990年(平成2年)に江戸中期の絵図を基に「方丈」や「庫裏」、庭園などが復元された。

 室町時代から戦国時代にかけて、関東の最高学府と言われる「足利学校」がどんなものかが、よく分かった。明治以降に廃校になってしまったが、その直後に書籍などの文化財を保存しようという有志たちは立派。10年の歳月と15億円をかけて、やっと今の形に復元されたそして足利市の熱意も素晴らしい。

 「足利学校」の「杏壇門」の扁額と「大成殿」の建物。 パンフレット「日本最古の学校 史跡足利学校」の表紙を転載。

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●足利市と足利氏の歴史 

 足利市は、足利氏発祥の地であり、源義家(八幡太郎義家)の孫の義康(よしやす)が源姓足利氏を名乗り、この地を治めたことが始まり。鎌倉時代には、足利氏二代目の義兼が居館を現在の「鑁阿寺」に置き、義兼の子孫も足利に住み、多くの寺社を建てたことから、市内には足利氏ゆかりの社寺が点在する。

 足利は、昔から織物業で栄えた。その歴史は奈良時代まで遡り、絹織物が税として朝廷に納められたとある。大正から昭和初期にかけては「足利銘仙」の生産が盛んで、安価な銘仙は日本中の人々に愛用された。足利銘仙は足利市を大きく発展、銘仙業者の手で「足利織姫神社」も立派に再建された。戦後はトリコット(縦編みメリヤス)生産が盛んで、昭和30年代には日本一の産地に成長。現在では、アルミや機械金属、プラスチックなどの工業が中心となっている。

 平成の時代になって「足利学校」の復原が完成、NHK大河ドラマ「太平記」(足利尊氏が主人公の物語)の放映(1991年)など、足利市は観光のまちとして有名になった。現在では「足利学校」や「鑁阿寺」をはじめとする社寺、「あしかがフラワーパーク」、「栗田美術館」などの名所旧跡に多くの観光客が訪れる。

  足利市は1921年(大正10年)に市制施行、現在の人口は約15万人。栃木県の南西部に位置し、東京から北へ約80km、栃木県佐野市、群馬県桐生市・太田市・館林市・邑楽郡に接している。

 

●森高千里の「渡良瀬橋」

 足利市の中央を渡良瀬川が流れる。「渡良瀬橋」は、この川に架かる県道5号線(足利太田線)、東武足利市駅から西へ約500mほど先、「中橋」の上流にあるトラス橋。足利市は、歌手の森高千里が1993 年に発表した名曲『渡良瀬橋』の歌詞に登場したことによって、ファンの間で全国的に知られるようになった。

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  50万枚に迫る大ヒットとなったこの曲は、リリースした翌月に足利市から森高に感謝状が贈られ、地元の人から愛された。橋の上から望む夕日の美しさは、森高の曲に歌われるほど。2007 年には「渡良瀬橋」と夕日が一緒に見える場所に、歌碑が建立されたそうだ。

 

●ペタンコ祭り(初山祭り)

 この日の足利市街では、打ち上げ花火が1時間おきに聞こえ、どこやらでお祭りの様子。街では、額に朱印が押された幼児や乳児を目にする。6月1日に開催される「ペタンコ祭り」は、400年以上も前から始まったとされ、足利市の指定民俗文化財。その昔、足利地方に起こった洪水・疫病・飢饉で多くの子供が苦しんでいた時、「足利富士浅間(せんげん)神社」の浅間山(標高108m)から見事な龍が立ち上り、子供たちが救われたという伝説があるそうだ。

 「ペタンコ祭り」は、この1年に生まれた新生児を連れて参拝し、御朱印を赤ちゃんの額に”ペタンコ”と押してもらい(御朱印代500円)、無病・息災・開運を祈願する。男の赤ちゃんは男浅間神社(「足利富士浅間神社」の上宮)へ山道を登り参拝。御朱印は、桜の花の形の中に浅間神社と書かれている。女の赤ちゃんは、男浅間神社より低い山の女浅間神社(下宮)に登って参拝。御朱印は、2cm角の角印で山の形と浅間神社と書かれている。

 足利市広報『あしかがみ』 2013年6月号の表紙から転載

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 必ずしも1歳未満の赤ちゃんではなくても、参拝・祈願出来るそうだ。兄弟姉妹がいる家庭もあるので、どちらの山に登ってもそれぞれの神社で、両方の御朱印が用意されている。渡良瀬川右岸の河川敷には臨時駐車場が設けられ、屋台も出て参拝客で大賑わいだという。

 なお、全国に1300余の富士山信仰の浅間神社があるが、御神体は富士山、御祭神は木花佐久夜姫(コノハナノサクヤヒメ)。初めて霊山に登り参拝することを「初山参り」と呼ぶが、このように1歳未満の子供が毎年決まった日(山開きの日?)に、「初山参り」や「初山祭り」の祭事を行うところが、他にも北関東の一部にいくつもあるようだ。

 

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  「紅葉の上州沼田と足利のイルミネーション」 2015年11月16日投稿

   http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/1113-d746.html
   

2019年6月11日 (火)

神話のふるさと日向の国-その3

 2019年5月24日(金)~26日(日)、神話のふるさと「日向(ひむか)の国」(宮崎県)探訪の旅。

 

 旅の最終日 5月26日(日)、宮崎市街から南へ、日向灘に面して美しい海岸線が続く。昭和40年代は新婚旅行のメッカともいわれたトロピカルな「日南海岸」をドライブ。ここにも神話の舞台が点在する。

 6:00起床、7:00~朝食。

 8:10、「ホテルマリックス」を出発。宮崎市のメインストリート橘通りから南へ、国道220号線を走る。 
        

●堀切峠

 青島の前を通過し、8:45国道220号の旧道の峠道を上ると、突然視界が開け太平洋が広がるところが「堀切峠」。

 あいにく曇り空で、海は水平線がはっきりしない、ボンヤリとした灰色。

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 眼下には、波状岩の「鬼の洗濯岩(板)」。

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 波状岩は、約700万年くらい前に海中で出来た水成岩(固い砂岩層と軟らかい泥岩層が積み重なった地層)が隆起し、長い間に波に洗われ、砂岩層だけが板のように見える。  

 「堀切峠」を1kmほど下るとすぐに、「道の駅フェニックス」。

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 ここで休憩、9:10出発。ひたすら国道220号線の日南海岸を南下する。

 「サンメッセ日南」の前を通り過ぎ、新鵜戸トンネルの手前で左折し、国道220号の旧道を進む。

 

●鵜戸神宮

 鵜戸神宮には「八丁坂参道」、「自動車参道」、「新参道」の3つ参道と、3つのの無料駐車場がある。

 国道220号の旧道の鳥居から入り、海岸を通る「自動車参道」を利用すると、鵜戸神宮に近い第1駐車場(50台)と第2駐車場(250台)がある。「観光バス駐車場」(40台)からは、トンネルのある「新参道」もあるが、昔ながらの「八丁坂参道」(本参道)を歩いて行くため、9:35そこに車を駐める。

 「八丁坂参道」の入口は、分かりにくい。駐車場から階段を上る途中、左手にいくつかの石碑とその奥に赤い鳥居があった(下の写真)。

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 昔の風情が残る石積みの「八丁坂参道」(本参道)は、「鵜戸神宮」の神門まで数100m(8丁=872m)。登り坂はやがて下り坂となり、小さな山の峠を越える感じ。

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 石段を下り終えると視界が開け日向灘、左手に進むと「鵜戸神宮」の神門(随神門)。

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 楼門は、ウィキペディアコモンズから転載。

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「鵜戸神宮」の本殿は、日向灘に面した断崖の大きな岩窟(海食洞)の中にある。

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 10:00~、本殿で予約していた神職に案内してもらう。山幸彦(火遠理命、ホヲリノミコト)は、海神の娘・豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)と結ばれ岩窟に産屋を建てたが、鵜の羽で屋根を葺き終わらないうちに御子(御祭神)が誕生、鵜葺草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト、神武天皇の父)と名付けた。

 岩窟内の本殿は、観光客が多くて撮影出来なかったため、2015/10/4に撮影したものを掲載。

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 本殿の裏にある乳房に似た2つの突起「おちちいわ」があったが、暗くてうまく写真が撮れなかった。豊玉姫が御子の育児のために、自らの乳房をくっつけたものと伝えられる。御子はそこから滴り落ちる「お乳水」で作った飴(おちちあめ)を母乳代わりにしたという。現在も安産や育児を願う人々から信仰されているそうだ。

 鵜戸神宮の境内や本殿には、ウサギの像が多い。主祭神・鵜葺草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)の「鵜」の字から、「卯」と「兎」へと転じ、ウサギが神使となったという。

 洞窟内は、天井の岩が剥離して落盤しないか心配になるが、定期的に天井の岩を検査しているという。岩の割れ目を接着剤を充填した後が所々に見られる。

 日南市で春季キャンプを行っている広島カープも、毎年ここに必勝祈願にやって来るそうだ。

 帰りは、トンネルのある近道の「新参道」を使って「観光バス駐車場」へ。11:00、駐車場を出る。
 
 

●サンメッセ日南

 国道220号線の来た道を戻るとすぐに、日向灘を見下ろす丘の上の広い公園「サンメッセ日南」。「太陽と南洋浪漫」のテーマパーク。

 11:10入場(大人700円)、園内を散策。

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 復刻されたイースター島の7体のモアイ像。

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 クレーンメーカーの(株)タダノ(高松市)が1992年、イースター島の倒されたままのモアイの修復を実施することを発表。奈良国立文化財研究所、及び古い石を扱う飛鳥建設(株)とモアイ修復委員会を立ち上げ、大型クレーン1台と1億円を拠出。

 飛鳥建設(株)社長で石工の左野勝司氏の指導により、1995年モアイ15体を再現した。そして、そのお礼としてイースター島の長老会(市長を含む議会)は、日本のチームに世界で初めて日本でのモアイ復刻を許可。日南海岸にモアイ像7体の完全復刻することができたという。モアイ像の高さは5.5m、重さは1体18~20トン。

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 南国の日差しは強いが、海風が心地よい。木陰でしばらく、のんびりと休憩。

 ここで最初にカート(5人乗り)を借り、丘の頂上近くまで上って施設を見学し、センタープラザの「南洋レストラン」で食事する予定だったが省略し、早めに切り上げて青島周辺で食事することにする。

 11:40「サンメッセ日南」を出て、国道220号線を再び北上し、最後の目的地「青島」へ。
 

●青島と青島神社

 「青島」の参道入口の陸橋近くの大駐車場(駐車料500円)は、日曜日のせいか観光客も多く、すでに満車。駐車場所を探し、「P」マークの看板を持つおじさんが立つ「おみやげのすぎた」(1階が駐車場、2階は土産屋)に入る。駐車料は無料だが、全員で合計3,000円以上の買い物をするという条件。観光地の駐車場を持つみやげ屋が、よくやっている商売のパターン。

 車をみやげ屋に駐め、近くの海鮮料理「鬼扇(おにせん)」で12:20~昼食。魚フライ1,080円。

 13:10、陸橋近くのおみやげ&レストランの「青島屋」前で、観光ガイドボランティアと待ち合わせ。

 「青島」は、宮崎を代表する日南海岸の観光スポット。周囲1Kmほど、熱帯・亜熱帯植物のビロウ樹で覆われ、国指定天然記念物の波状岩「鬼の洗濯板」で囲まれた島。熱帯・亜熱帯植物も、国の天然記念物。

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 熱帯・亜熱帯植物のビロウ樹で覆われた「青島神社」は、兄の釣り針を失くした山幸彦(火遠理命、ホヲリノミコト)が海神宮(わたつみのみや)から戻った所。青島全体を境内とする。

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 古くから青島自体が霊域として崇められ、全島が禁足地とされていた。江戸時代の1737年(元文2年)から、一般人に渡島しての参拝が許されたという。

 青島神社に参拝。山幸彦とその妃・豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)、そして塩筒神(シオズノカミ)の3柱を祀る。塩筒神は、塩竈(しおがま)明神とも言い、日本神話の神で潮流を司る神、航海の神、製塩の神としても信仰されているという。

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 青島神社の元宮に向かうジャングルのような手つかずの森に中の参道。

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 山幸彦が居を構えたとされる場所にある元宮(もとみや)。

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 ビロウ樹と鬼の洗濯岩を見ながら、島の遊歩道を一周する。

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 遠くに見えるのは、青島に渡る「弥生橋」。

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 「青島神社」の冬祭は、山幸彦が海神宮から帰還した際に、村人が装束をまとう暇もなく裸で出迎えたという故事から起こったという。かつては旧暦12月17日の夜を徹して、近在の若い男女が真裸になって参拝していたため、「裸参り」とも呼ばれ、この行いは千日参詣に等しいとされた。現在は1月の成人式の日、全国から男女約数百名の人々が神社の前の海で禊(みそぎ)を行い、身を清めて神社に参拝するそうだ。

 後に兄弟が争い、山幸彦に追われた海幸彦がたどり着き居を構えたと伝えられる場所は、全国で唯一の海幸彦を祀る「潮嶽(うしおだけ)神社」。ここから南西に17Km先の山間部(日南市北郷町北河内) にある。

 

 参道入口まで戻り、14:20~35 駐車場を借りた「おみやげのすぎた」で買い物。        
        
 14:55、空港前の「バジェットレンタカー」でレンタカー返却。        

 15:05、宮崎空港着。空港売店で買い物。       

 16:55発のソラシドエア66便に搭乗、18:25羽田空港着。

 

 3日間続けて最高気温が30度を越す真夏日の中、歩いたのは通算3万8千歩、距離にして23キロほどだった。自分で作ったスケジュールがハードで時間管理が大変だったが、計画した所はだいたい回ることが出来た。

 「西都原古墳群」と「県立西都原考古学博物館」、それに「高千穂神楽」は、今回が初めてだった。各スポットで観光ガイドを頼んでいたので、知らなかった面白い話が聞けて良かった。事故もなく、無事に終わってホッとした。レンタカーの運転、会計係りの友人には感謝したい。ただ時間に追われて、適時適当な写真が撮れなかったのは残念だった。    
 

 ★ ★ ★

 山幸彦(火遠理命、ホヲリノミコト)が、兄・海幸彦(火照尊、ホデリノミコト)の釣り針を探しに海神宮(わたつみのみや、龍宮)に行き、海神の娘・豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)と結ばれた。3年後、釣り針を探し当てた山幸彦が海から帰った後、身重になった豊玉姫命は「天孫の御子を海原で生むことは出来ない」と鵜戸の地(現在の鵜戸神宮)にやって来た。

 山幸彦は、急いで産殿を造ったが、鵜(う)の羽で屋根を葺(ふ)き終わらないうちに御子が誕生した。豊玉姫は、「他国の者は子を産む時には本来の姿になる。絶対に産屋の中を見ないように。」と山幸彦に言う。しかし山幸彦は不思議に思って、産屋の中を覗いてしまう。そこには、豊玉姫がワニ(鮫)の姿でなってもだえていたのを見て逃げ出したという。

 生まれた御子(御祭神)は、鵜葺草葺不合尊(ウカズフキアエズノミコト)と名付けた。 豊玉姫は、山幸彦に覗かれたことを恥じて悲しみ、御子を置いて海に帰ってしまう。そして御子を養育するために、妹の玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)を遣わした。「おちちいわ」は、豊玉姫が御子の育児のため、両乳房をご岩窟にくっつけて行ったと伝えられる。

 やがて成人した鵜葺草葺不合尊は、豊玉姫の妹である乳母の玉依姫命(つまり叔母)と結婚し、4人の御子を授かる。その末の御子が、後に初代天皇の神武天皇となる神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)だそうだ。
 
 

 「鵜戸神宮」の本殿前から海を見下ろした所に、亀の形をした霊石「亀石」がある(写真の右下)。しめ縄で囲んだ60cm四方の穴に、男性は左手、女性は右手で願いを込めて「運」の文字が記された「運玉」を投げ入れると、願いが叶うとされている。 

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 「亀石」は、豊玉姫が海神宮から来訪する際に乗った亀が、姫が海に帰ったも知らず待つ間に石と化したものと伝えられる。かつては貨幣を投げ入れる風習であった。しかし子供たちがそれを拾いに下に降りて危険なので、1954年(昭和29年)から鵜戸小学校の児童らが、粘土を丸めて作った素焼きの「運玉」が使われることとなったという。5個で100円。

 

 「鵜戸さん詣り」の「シャンシャン馬」の風習は、江戸時代の中期から明治中頃まで行われていたそうだ。新婚夫婦が、七浦七峠と呼ばれる険しく厳しい日南海岸の道中を、花嫁を馬にのせ花婿が手綱を取り、馬の首にかけられた鈴を「シャンシャン」と鳴らして「鵜戸神宮」へ向かい、宮詣りをしたあと我が家に帰るという新婚旅行であった。

 現在はこの風習はなくなったが毎年、新婚夫婦や婚約カップルの参加者を募集して「シャンシャン馬道中鵜戸詣り」を再現する行事や、「シャンシャン馬道中唄」の民謡全国大会、宮崎神宮大祭の「ミス・シャンシャン馬」行列などのイベントとして行われている。写真は、宮崎神宮大祭のミス・シャンシャン馬(ウィキぺディアコモンズ)。

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 ★ ★ ★

●いもがらぼくと

 「いもがらぼくと」や「日向かぼちゃ」の言葉は、地元の人たちは何気なく使っていてそのニュアンスはよく分かっているが、いざ他県の人からその意味はと聞かれると、即答できない場合もあるようだ。

 「日向かぼちゃ」は色が黒くて小ぶりで、見た目は派手さはないが、美味しい。芯はしっかりした働き者の日向女性を例えているという。「いもがらぼくと」は、「里芋の茎で作った木刀」のことで、見かけは立派だが役に立たない、お人よし、というように理解していた。しかし今回ある観光ガイドから、「サツマイモのツル」のことで何の役にも立たないことだ、という話も聞いた。

 どれが本当かではなく、諸説あるということだろうか。それに、こういった言葉は時代と共に解釈がだんだん変わったりするものだ。「いもがらぼくと」のほかに、熊本の「肥後もっこす」、青森の「津軽じょっぱり」、高知の「土佐いごっそう」、鹿児島の「薩摩隼人」は、どうだろうか。

●サボテン公園

 日南海岸が新婚旅行のメッカだったころに、「サボテン公園」という植物園があった。今は、宮崎市から日南市への国道220号線を南下し、伊比井川を過ぎ、富士川を渡るとすぐに、国道はまっすぐに「日南富土トンネル」へと向かうので、昔「サボテン公園」があった場所には気がつかない。トンネルの前で左折し、海岸に沿った旧道沿いの岬の丘陵に、かつて「サボテン公園」があったのだ。

 宮崎交通の初代社長の岩切章太郎が、「青島」と「鵜戸神宮」との間に新しい観光名所を設けるため「サボテン公園」として開園したのが1951年(昭和26年)。1955年(昭和30年)には、「日南海岸」が「国定公園」に指定された。1960年代になって新婚間もない皇太子と美智子妃殿下夫妻(現上皇・上皇后)がご来県、NHK連続テレビ小説で宮崎が舞台の『たまゆら』が放送されるなど、「日南海岸」は全国に知れ渡り、昭和40年代の「新婚旅行ブーム」を迎えたのだった。そして「サボテン公園」は、「日南海岸」の観光名所としての一翼を担った。海岸の丘陵斜面を埋め尽くす百数十万本ものサボテンの景観は圧巻で、異国情緒に溢れ、大きく広がる太平洋を一望、訪れる人にも新鮮なインパクトを与えただろう。

 やがて「新婚旅行ブーム」も過ぎて宮崎観光が斜陽の時代を迎え、「サボテン公園」の客足も当然落ちた。施設や設備を増築・改築し「サボテンハーブ園」としてリニューアルされた後も、昔のような客足が戻ることはなかった。そして2004年夏に「サボテンハーブ園」は台風で大きな被害を受け、2005年3月をもって休園、閉園へと至ったのだ。開園から68年間、4,500万人の来場者があったという。

 「日南海岸」の国道220号線を車で通れば、かつては必ず「サボテンハーブ園」の横を通りるはずだった。筆者は「サンメッセ日南」が出来たと聞いて、てっきり「サボテン公園」の跡地に出来たのかと、思い違いをしていたことがあった。新しい「日南富土トンネル」が開通して、国道は公園をバイパスして行くようになった。かつて「日南海岸」観光の一翼を担い、多くの観光客で賑わっていた時代の「サボテン公園」が懐かしい。

●天皇のふるさと

 梅原猛は、著書『天皇家の“ふるさと”日向を行く』の中で、日向の各地を回り「これらの伝承はたいへん古いもので、八百年も千年も前に『古事記』や『日本書紀』を読んで、この片田舎に記紀神話の舞台をデッチ上げた知恵者がいたとは思われない」と書いている。何故、日向の国や出雲の国の地名に因んだ神話があって、大和の国ではないのだろうか。梅原猛が言うように、古代の日向の国に渡来人たちがやって来て、何らかの出来事があって、それを元に伝承が作られたのではないかという説に納得できる。 

 しかし史実は史実、神話は神話である。フィクションや観光用とは、明確に区別して理解するなり、子供たちに伝えなければならないと思う。神道は日本人の心であり、その起源は日本人の伝統的な民俗信仰・自然信仰を基盤に自然と生まれた宗教で、教祖はいない。聖書やコーランにあたる聖典が『古事記』、『日本書紀』とされている。しかし神話によって天皇が神格化され、国家神道や軍国主義に利用された時代があったことを忘れてはならない。誤った歴史認識や復古主義に対して批判や、歴史の真実を追求する姿勢は大切なことであると思う。

 現代語訳の由良弥生著の『眠れないほど面白い古事記』(王様文庫)の中の「日向神話」の部分を読んだ。『古事記』は、愛と欲望、ホラーにエロスが渦巻く世界。記紀では、こんな人間味臭い話でなく天皇家の祖先をもっと厳粛に、尊厳深く描かなかったのか、あるいは日本人は如何に優れた民族であるかを書かなかったのか不思議だ。戦前はこんな物語を、美化して都合の良い面だけを切り取って、国民や子供たちに教えたのだろう。

 神話は、考古学的な古代史とは別だ。しかし神話には、いろいろな解釈があったり、いろいろ自由に推測したり、想像したりできる。鹿児島に行くと、この日向神話は少し解釈が違ってくる。薩摩国、大隅国を含んだ南九州を「日向国」という時代もあったようだ。天孫降臨の地も、また宮崎県以外の別の所にあったりする。ニニギノミコトの墓も(宮内庁管理)も、鹿児島県内にもある。明治政府の薩摩出身役人が、我田引水したという話もあるが・・・。

2019年6月 4日 (火)

神話のふるさと日向の国ーその2

 2019年5月24日(金)~26日(日)、神話のふるさと「日向(ひむか)の国」(宮崎県)探訪の旅。

 

 旅の2日目5月25日(土)、山々に囲まれた自然豊かな神々の舞台・高千穂。そして宮崎市内へ戻り、神話ゆかりのスポットを巡る。

 

 5:30高千穂市内の「旅館大和屋」で起床、7:00~朝食。

 午前中、高千穂を案内してくれる観光ガイドと一緒にレンタカーに乗り、8:15旅館を出発。最初の目的地の「高千穂峡」へ。

 9:25、高千穂峡の御塩井駐車場(駐車料500円)に到着。

 朝早くて観光客はまだ少なかったが、駐車場近くの貸しボート乗り場には、8:30~の受付開始を待つ観光客が列を作っていた。


●高千穂峡

 太古の昔、阿蘇の火山活動で噴出した火砕流が五ヶ瀬川に沿って流れ、急激に冷やされ柱状節理となり、浸食されて渓谷となった。80~100mの断崖が東西7km続く。国の名勝、天然記念物。渓谷に沿って、約1Kmの遊歩道が整備されている。

・真名井(まない)の滝
 高千穂峡で良く知られた滝で、日本の滝100選に選定されている。天孫降臨の際、この地に水がなかったため、アメノムラクモノミコト(天村雲命)が水種を移した「天真名井(あまのまない)」の水が滝となって流れ落ちているとされる。ボートから見上げる滝は、迫力満点だそうだ。

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・七ツヶ池(写真なし) 
 「高千穂神社」の祭神、十社大明神であるミケヌノミコト(三毛入野命) は、神武天皇の皇兄。皇弟の神武天皇とともに宮崎から大和に向ったが、伝説では再び故郷の高千穂へ帰って来た。高千穂郷一帯で悪行をはたらいていた鬼八を退治し、この一帯を治めたとされている。
 
 ミケヌノミコトが散歩されると、水鏡に映る美しい娘が映っていた。この娘こそ鬼八が奪って来た鵜ノ目姫(うのめひめ)。ここ「七ツヶ池」は、十社大明神が鵜ノ目姫に一目惚れされた場所と伝えられている。

・鬼八の大石
 「鬼八の大石」は、鬼八がミケヌノミコトに投げ、力自慢をしたという石。力石の重さは、約200トン、凝灰岩の巨石。

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・仙人の屏風岩 
 遊歩道対岸に高くそび立つ高さ約70mの屏風のような岩は、「仙人の屏風岩(びょうぶいわ)」と呼ばれている。切り立った柱状節理(ちゅうじょうせつり)は、そのスケール・迫力に圧倒される。

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・槍飛び
 高千穂峡の中で最も川幅の狭いところ。1591年(天正19)高千穂の三田井氏が延岡の領主・高橋元種に三田井城を攻められ、落城。城を脱出した三田井氏の家来達はここまで逃げて来た。橋がないので槍の柄を突いて渡ったという。「手前の岩に槍を突いた者は無事飛び渡ることが出来たが、向こう側に突いた者は川の中に転落した」と伝えられており、ここを「槍飛び」と言うようになった。「槍飛び橋」の上から撮影。

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・高千穂三段橋
 高千穂峡から見える3つの橋は、「三段橋」と言われる見どころ。手前から、「神橋(しんばし)」(昭和22年竣工:橋長31mの石橋)、「高千穂大橋」(昭和30年竣工:橋長96mの鋼橋)、「神都高千穂大橋」(平成15年竣工:橋長300mのコンクリート橋)。「神橋」は、大正時代に作られた石橋と言われることがあるが、大正時代に架かっていた橋は木橋だったそうだ。

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・おのころ島
 「おのころ池」の真ん中に「おのろこ島」が浮かぶ。「おのころ島」は、『古事記』の中でイザナギノミコトとイザナミノミコトの「国生み神話」で最初に生まれた島。両神が持つ天の沼矛(あめのぬぼこ)という剣の先からしたたり落ちたしずくが固まってできたと伝えられ、両神が結婚式をあげたところとも言われている。「高千穂神社」の大祭では、神輿がこの池を3回廻って禊(みそぎ)をする。池の中には、コイやチョウザメが泳いでいた。

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 ちなみに、『古事記』の「国生み神話」に出てくる「おのころ島」は、架空の島とする説と実在するという説とある。諸説あるが、淡路島周辺の小島であっただろうという説が有力と考えられている。

・玉垂(たまたれ)の滝
 「おのころ池」の上側、道路沿いの柱状節理の岩壁から、いく筋もの岩清水が出ている。

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・月形・日形(写真なし)
 「玉垂れの滝」の上に生い茂る木の間の岩肌ある半月の岩形を「月形」という。スサノオノミコト(須佐之男命)の乱暴により天照大神が天岩屋にお隠れになったとされる「岩戸神話」の後、スサノオは神々の裁きを受けて、高天原を追放されて出雲へ行く。その時に詫びの印として天照大神を表す「日形」と、その半分の存在もない「月形」で自分を表現したと言われている。現在「日形」は崩壊し「月形」のみが残っているそうだ。

 9:25御塩井駐車場を出て、9:25「高千穂神社」着。
 

●高千穂神社

「高千穂神社」は、1900年前に創建されという古社。

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 高千穂皇神(たかちほすめがみ、日向三代と称される皇祖神とその配偶神の総称)と十社大明神(神武天皇の皇兄ミケヌノミコト(三毛入野命)とその妻子神9柱の総称)を祀る。本殿は、国指定の重要文化財。

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 源頼朝が、天下泰平祈願のために畠山重忠を代参に派遣して、多くの神宝を奉納した。この時重忠によって鉄製鋳造狛犬1対(重要文化財)が献納され、境内にある「秩父杉」も重忠自らが植えたという。文永・弘安の役には、元寇の降伏祈願のために勅使が派遣されたそうだ。

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 「高千穂神社」の主祭神の一柱であるミケヌノミコトが鬼八を退治する彫刻像が、本殿の回廊東側にある。

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 前日の24日(金)夜、ここで「高千穂神楽」を観賞した神楽殿。

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 高千穂の夜神楽は、毎年11月中旬から2月上旬にかけて、町内のおよそ20の集落でそれぞれ氏神を民家等に迎えて奉納される。秋の実りに感謝し、来年の豊穣を祈願するため、神々に33番の神楽を奉納する。ここ「高千穂神社」の神楽殿では、年間を通じて毎夜観光客向けに代表的な4番を演じている。

 10:00「高千穂神社」を出て、10:15「天岩戸神社」(西本宮)前の駐車場に到着。
 

●天岩戸神社

 現代的な容貌の天照大御神の像が、「天岩戸神社」の鳥居の前で我々を出迎える。

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 「天岩戸神社」は、天照大神がお隠れになった天岩戸の洞窟を御神体として祀る。

 10:30から神職の案内で、他の観光客と共に遥拝殿から、天岩戸を参拝する。
 
 (以下の2枚の写真は、2017/10/24に撮影したもの) 

 西本宮の遥拝殿。

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 「天岩戸神社」の神楽殿の前で神職の説明を聞く。

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 「天岩戸神社」の神楽殿は、「高千穂神社」の神楽殿で見た舞台の飾りつけと当然のことながら同じだ。神楽が奉納される舞台を神庭(こうにわ)と言い、四方に飾られる紙飾を彫り物(えりもの)と呼ぶらしい。彫り物は、陰陽(月・日)、五行(木・火・土・金・水)や十二支などが和紙にデザインされ、切り絵になっている。神楽は純粋に神道と思いがちだが、仏教や陰陽五行思想などの影響を受けている。

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 一般向けに「高千穂神社」の「神話の高千穂夜神楽まつり」(11月22・23日)や、ここ「天岩戸神社」でも「天岩戸夜神楽33番大公開まつり」(11月3日)として神楽が披露されるそうだ。

 御神木の招霊(おがたま)の木(モクレン科)。アメノウズメノミコト(天鈿女命)が、天岩戸の前で実を付けたこの枝を持って踊ったという。これがよく巫女さんが持っている神楽鈴の起源であると伝わる。例年春先に白い小さな花が咲き、秋には赤い堅い実を結ぶそうだ。

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 おがたまの実(梅原猛著『天皇家のふるさと日向を行く』より引用)。

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 天岩戸神社の前を流れる岩戸川の川上には、八百万(やおよろず)の神々が集まり相談したという「天安河原(あまのやすかわら)」がある。

 天岩戸神社から、川沿いの遊歩道を川上に向かって10分ほど歩く。

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 この洞窟のある河原が、天岩戸伝説で神々が話し合いをしたとされる「天安河原」。

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 11:30、天岩戸神社で観光ガイド終了。観光ガイドと別れ、国道218号線を延岡方面へ向う。

 途中、日之影町の「道の駅清雲橋」で、 12:05~12:55昼食(鶏ごぼううどん600円)。

 

 北方ICを通過、東九州自動車道を南下して西都ICで降りて、国道219号、国道10号を通って宮崎市街へ。

 14:35、境内に北側に位置する県総合博物館駐車場に車を入れる。


●宮崎神宮

 14:55、観光ガイドと宮崎神宮の二之鳥居で待ち合わせ。

 扁額が無く単純な形をした”神明造り”の鳥居。

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 神武東征で神武天皇が乗った船「おきよ丸」(全長12m、重さ2トン)は、県産杉で作られ境内に安置されている。

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 この「おきよ丸」は、神武東征に登場する古代船のレプリカ。2005年(平成17)の「宮崎神宮大祭」から登場した。伝承によると、美々津(宮崎県日向市)に着いた神武天皇一行は、船を建造する。船も仕上がり出航予定日に備えていた頃、天候が良くなったというので急遽日程を変更して出航を早めるよう命じられた。寝ている人々を慌てて「起きよ、起きよ!」と起こしていった事から、「おきよ丸」という船名がつけられたという。美々津の港には、「日本海軍発祥の地」と書かれた巨大なモニュメントが、1942年(昭和17年)に竣工している。

 「おきよ丸」は、「宮崎神宮大祭」で催される「神武さま」と呼ばれる御神幸(ごしんこう)の行列で、市内を引き廻される。

 「おきよ丸」の乗員は20名程度、西都原古墳群で発掘された舟形埴輪をモデルに製作されたという。神武天皇一行は、親族のみが乗船した1隻のみだったのだろうか、多くの兵士を引き連れる水軍ともなれば、数隻~数10隻の船団であったのか気になる。

 宮崎神宮の神門。

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 拝殿の前にある拝所。扁額は中央に「宮崎神宮」、右に「神武天皇」、左に「鵜葺草葺不合尊 玉依姫命」とある。「宮崎神宮」は、神武天皇を主祭神とし、父・鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)と母・玉依姫命(たまよりひめのみこと)の2柱を祀る。

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 宮崎神宮の創建は不詳。社伝によれば、神武天皇の孫にあたるタケイワタツノミコト(健磐龍命、熊本・阿蘇神社のご祭神)が、九州の長官に就任した際、祖父の遺徳をたたえるために鎮祭したのが始まりと伝えられているそうだ。

 現在の社殿は、明治40年に建て替えられたもので、銅板葺きの古代の神社様式とされる”神明造り”。本殿など建物11件が国の有形文化財。

 境内の敷地は、明治神宮の半分くらいだそうだ。1940年(昭和15年)に植林し、現在の境内の森の姿になったという。 

 神武天皇が45歳で大和に東征するまで、ここに都が置かれていたとされる。社務所玄関には、神武天皇が東征に向けた軍議を3人の兄と共に練っている様子が描かれた絵が掲げられている。平澤定人・画の『宮崎の宮』で、戦時中にこの地で描かれたという。外の景色は、高千穂の峰がある霧島連山。

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 16:40、駐車場を出て、16:45平和台公園。
 

●平和台公園

 宮崎市の丘陵地にある県立公園。紀元2600年記念事業として、当時の相川県知事の提案により「八紘一宇の塔」が建設された。

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 塔のデザインは彫刻家の日名子実三氏で、御幣をイメージしているそうだ。「八紘一宇」の文字は、秩父宮雍仁親王の揮毫。日本の支配下にあった世界の国々から、石が持ち込まれたという。1939年(昭和14年)5月から工事開始。翌1940年(昭和15年)11月日に完成し、高松宮宣仁親王を迎えて落成式典が行われた。 

 戦後GHQにより、侵略思想の象徴として「八紘一宇」の碑文と軍人の象徴であった荒御魂(あらみたま)像が撤去され、「平和の塔」に改称。しかし、1962年(昭和37年)に荒御魂像、1965年(昭和40年)に「八紘一宇」の文字が復元された。
 

 18:00 、宮崎市内の繁華街に立つビジネスホテルの「ホテルマリックス」着。 

 荷物を置いて、18:15ホテルを出る。     
  

●宮崎市の繁華街。

 18:25~20:15、中央通りの居酒屋「もも鐡本店」で、鶏もも炭火焼き、カツオのたたき、メヒカリ等の郷土料理を味あう。 

 宮崎の繁華街(西橘通り、一番街、中央通り)を散策、20:25~1時間半ほどカラオケ店へ。    

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 やはり宮崎市は人口の割には、確かに飲み屋が多いようだ。土曜日だったこともあり、人通りの多さ、賑やかさにびっくり。

 21:00過ぎ、「ホテルマリックス」着。入浴後、23:00頃就寝。

 

 ★ ★ ★

 高千穂には、鬼八にまつわる話が多く残されているという。また阿蘇地方にも、鬼八にまつわる似た話があるそうだ。

 梅原猛著の新潮文庫『天皇家のふるさと日向を行く』によれば、記紀神話では神武天皇の長兄は生駒山の戦いで矢傷を受けて亡くなり、次兄は「熊野の海に入った」、そして三兄のミケヌノミコトは「常世(とこよ=あの世)の国へ行った」ことになっている。しかし高千穂の伝説では、ミケヌノミコトは地元に帰ったことになっている。東征の留守中に鬼八という土着の勢力が高千穂を支配していたが、これを退治したという。荒振る神である鬼八は「霜宮」といい、霜の災いを擬人化したもので、今では農耕や厄除けの神として尊敬され日向、肥後地方の人々の信仰を集めているそうだ。

 梅原氏の著書を引用すると、「戦前から戦中にかけて、日向神話の真実性が声高に叫ばれた。日向の地は、やれ天孫降臨の地とか、やれ八紘一宇の根源地とか、やれ海軍の発祥地とか言われたが、それはほぼ近代日本の国家主義的な政策に沿うものに限られていた。・・・戦後は、それに懲りて、逆に神話を歴史から抹殺してしまったのである。」

 宮崎の神話は、明治以降の戦前まで都合の良いところだけ取り上げて、天皇崇拝、国家主義、プロパガンダに利用された。戦後それらは否定されたが、今でも復古主義者たちが、神話を戦前のように利用しようとしている。

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 しかし鬼八のような伝説について、梅原氏は別のインタビューで「こうした事柄を見ていくと、記紀神話が単なるフィクションであるはずない。むしろほぼ事実といえるようなことが、古代の日向で起こったに違いないと確信しています。」と述べている。

 今年1月12日、梅原猛氏が93歳で逝去された。今回の「神話のふるさと日向の国・宮崎探訪の旅」の計画を始めてから、改めて『古事記』の日向神話について学び、そして『天皇家の“ふるさと"日向をゆく』(新潮文庫)を買って読み始めたところで、その訃報を聞いた。憲法9条を守る「九条の会」は、梅原猛氏をはじめ大江健三郎氏、澤地久枝氏、鶴見俊輔氏、井上ひさし氏など9人が呼びかけ人となって10数年前に発足したが、梅原氏の死去で呼びかけ人9人のうち、これで7人が亡くなったことになる。

 昔、梅原猛氏のことを、「国立民俗学博物館」を創設した梅棹忠夫氏の子息かと、勘違いしていたことがあった。宮城県出身で京都大学哲学科を卒業し、立命館大学教授、京都市立芸術大学教授・学長の他、国際日本文化研究センター所長、日本ペンクラブ会長などを歴任された。哲学者で、日本古代史研究やスーパー歌舞伎など、幅広い活動でも有名だ。

 天孫降臨の地をめぐっては、江戸時代以降「臼杵高千穂説」と「霧島高千穂説」の高千穂論争が続いている。降臨にふさわしい、雲にそびえる高千穂峰(標高1574m)の「霧島高千穂説」の方が、有力のように思える。なお「臼杵高千穂説」の中でも天孫降臨の地は、高千穂町内のくしふる峰(標高は低い)、五ヶ瀬町との町境にある二上山(標高1082m)、大分県との県境に位置する祖母山(1756m)などの解釈があるそうだ。
 
 しかし近年、梅原氏が本居宣長(江戸時代の国学者)の唱えた「高千穂移動説」を再評価したことから、この考え方が注目されつつあるという。また、直木賞作家の長部日出雄氏は、梅原説とは逆の移動説を唱えているという。

  梅原氏は、著書の中で本居宣長説を踏まえ、ニニギノミコト(すぐれた稲作技術や養蚕技術を持った渡来人たち)は、鹿児島県の野間半島の笠沙御崎(かささのみさき)に上陸したが、シラス台地は稲作に適した場所ではないため、弥生時代中期から後期頃に臼杵郡の高千穂に入り、西都から更に霧島へ移動したとしている。

 『天皇家の“ふるさと日向をゆく』は、梅原氏が南九州を訪ねて回る古代史研究の紀行文。『古事記』の神話や地元の伝承から、氏の日本古代史論からこれら独自の解釈は、何度読み返しても興味深い。

 
  

【 時間の都合で旅行計画から漏れたその他の見どころ】

・くしふる神社(高千穂町)
 『古事記』にニニギノミコトが降り立った所を「筑紫(九州)の日向の高千穂のくじふる峰」と記されている。その場所と考えられている「くしふる峰」の中腹にあるのが「槵觸(くしふる)神社」。
    
・国見ケ丘(高千穂町)
 標高513mの国見ヶ丘は、雲海の名所として有名。東に五ヶ瀬川に沿って広がる高千穂盆地、西に阿蘇山、北に祖母山をはじめとする連峰、そして南に霊峰「二上山」に続く椎葉の山々を一望できる絶景スポット。
     
・あまてらす鉄道(高千穂町)
 「あまてらす鉄道」は、高千穂鉄道の廃線をうけ2008年に創立。旧高千穂駅~高千穂鉄橋の5.1㎞を往復、所要時間30分。1,300円。
    
・皇宮屋(宮崎市)
 「皇宮屋」(こぐや)は、神武天皇の東征前の皇居跡。神武天皇は、高原郷狭野原(現在の高原町狭野)で誕生、15歳で皇太子となって宮崎へ移り、東征に向かう45歳までここで過ごしたという。現在は宮崎神宮の摂社・皇宮神社となっている。
     
・江田神社(宮崎市)
 「江田神社」は、日本神話に最初に登場する夫婦神イザナギノミコト、イザナミノミコトを祀る。北へ徒歩5分に、けがれたイザナギノミコトが禊(みそぎ)をしたという「みそぎ池(御池)」がある。

 

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