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2019年5月31日 (金)

神話のふるさと日向の国ーその1

 2019年5月24日(金)~26日(日)、神話のふるさと「日向(ひむか)の国」(宮崎県)探訪の旅。

 

 1日目の5月24日(金)は、宮崎空港から北へ、300基余りの古墳が点在する西都原古墳群、天孫降臨の高千穂で夜神楽鑑賞。
 

 羽空港発9:45のソラシドエア55便に友人5人と一緒に搭乗、宮崎ブーゲンビリア空港着11:25。

 空港ターミナルビルで、見上げれば藤城清治が日向神話を描いたステンドグラス(縦3m、横21m)設置されている。

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 日本を代表する影絵作家、藤城清治(95歳)の美術展「藤城清治 愛 生きる メルヘン展」が、宮崎県立美術館(宮崎市)で開かれている。来年に県内で開催される「国文祭・芸文祭みやざき2020」のプレイベントに位置づけられ、約120点が展示されているという。会期は、4月13日~5月26日。

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 11:40~12:10、ターミナルビル3Fのそば処「萩之茶屋」で昼食(蕎麦定食820円)。

 12:20、バジェットレンタカー宮崎空港店。予約していたレンタカー(トヨタNOH)に6人が同乗し、12:30出発。

 宮崎ICから清武JCTまで宮崎自動車道を西へ。清武JCTからは、東九州自動車道を北上。西都ICを出て、西都市の中心街へ国道219号、県道24号を走る。西都市は、宮崎県のほぼ中央部に位置し、「西都原古墳群」で知られる。

 

 西都原古墳群のガイダンスセンター「このはな館」の駐車場に13:15、予定より30分早く到着。しばし休憩。

 「西都原古墳群」は、東西2.6㎞、南北4.2㎞、標高70m程度の丘陵地域に319基の古墳が分布する。日本最大級の規模を誇る国の特別史跡。

 13:45~15:35、予約していた観光ガイドボランティアの案内で、古墳群を見学する。

 

 「鬼の窟」(おにのいわや、206号墳)は、石室の中に入ることが出来るが、車で通過する。

 (写真が撮れなかったので、ウィキメディアコモンズから引用)

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 鬼の窟は、直径37m、高さ7m の円墳、墳丘の周囲に高い土塁(外堤)と二重の濠(外濠と内濠)を有し、「西都原古墳群」 では”横穴式石室”を有する唯一の古墳。最後の首長の墓とされている。6世紀末~7世紀初めに造られたもので、この形式は朝鮮半島や中国を源流とする新形式の古墳、国内では「石舞台古墳」(奈良県明日香村)と類似するそうだ。

 平成7(1995)年度の調査によって、石室の中から木棺の鉄釘、馬具、須恵器(すえき)、土師器(はじき)などが出土し、調査終了後現在の形に整備された。

 コノハナノサクヤヒメ(木花佐久夜姫)を嫁にと願う悪鬼が、父の山の神・オオヤマツミカミ(大山祇神、大山津見神)から岩屋をつくる様に命じられ、一夜で完成させたという伝説がある。

 車を降りて周囲を見渡すと、大小の古墳があちこちに点在する。言われないと気がつかないような、小さな古墳もある。

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 こういった小さな古墳までが、千数百年を経て残っていることに驚く。普通は破壊されて畑にされてしまいそうだが、神話と伝説が残るこの地の人々が代々、これら遺跡を大切にしてきたと観光ガイドは言う。

 西都原古墳「13号墳」は、全長79.4m、高さ8.9m。前方部・後円部ともに3段で構成される柄鏡形(えかがみかた)と呼ばれる前方後円墳。

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 4世紀後半ごろに造られたとされ、大正時代の調査で国産の三角縁三獣鏡や勾玉、武器などが出土。1996年(平成8)~1997年(平成9年)に再調査され、墳丘の表面が全体が、河原の小石を利用した葺石(ふきいし)で覆われていることが判明したそうだ。この古墳の手前には葺石を再現した1/20のミニチュアが造られている。

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 現在は、墳丘保護のため葺石の上に土をかぶせ、芝で覆ってある。出土品は、「西都原考古博物館」に展示されていた。

 「13号墳」内部の礫(れき、小石)で覆われた粘土槨(ねんどかく)。中に入って、見学する。

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 粘土槨は、古墳の上から掘られた穴(土坑内)の粘土床に小石を並べその上の木棺を粘土で覆って埋め戻した埋葬施設のことで、石室とは異なる。粘土床は、被葬者を邪気から守るため、赤いベンガラ(酸化第2鉄)が塗られている。粘土床には、副葬品のレプリカが置かれていた。

 観光ガイドの薦めで、予定してなかった「宮崎県立西都原考古博物館」を見学することにする。(写真は、ウィキペディアコモンズ)

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 14:45~15:30、博物館(入場無料)内を、学芸員に案内してもらう。

 弥生時代の展示。瀬戸内系の土器。当時は、九州東岸から瀬戸内海を経て近畿への交易ルートがあった。

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 石器を実際に土器や石器を触れることが出来る展示(ハンズオン展示)もある。

 騎馬像と馬具、装飾品の展示。

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 中央にあるものは軽石製組合式石棺。右側は、地下式横穴墓の出土品。

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  西都原古墳「170号墳」から出土した子持家形埴輪。展示はレプリカで、本物は東京国立博物館にある。(写真は、ウィキペディアコモンズ)

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 「170号墳」から出土した舟形埴輪。展示はレプリカで、本物は東京国立博物館にある。(写真は、ウィキペディアコモンズ)

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 えびの市島内の地下式横穴墓群の出土品。赤いのはベンガラか。

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 西都原古墳群「4号地下式横穴墳」のレプリカと、被葬者が横たわっている姿を三次元ホログラムで見る(写真なし)。今にも埋葬したばかりの被葬者の三次元ホログラムのリアル感は凄い。

 地下式横穴墓は、地面に竪坑を掘り、そこから横穴を掘って死者を葬る玄室が作られた墓。5世紀〜6世紀の古墳時代の南九州特有の古墳。

 その他、古人骨や鉄製品の収蔵した「収蔵展示室」をガラス越しに見る。(写真なし)

 「男狭穂塚」(おさほづか、右)と「女狭穂塚」(めさほづか、左)の模型。

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 「男狭穂塚」(長さ176m、高さ19m)は、日本最大の帆立貝形古墳。「女狭穂塚」(長さ176m、高さ15m)は九州最大の前方後円墳。両者は、南九州古墳文化の頂点とされ、西都原古墳群の中心的存在だそうだ。

 広大な古墳群、充実した展示(しかも無料)の考古学博物館は、予想外でとても短時間で十分見きれない。旅行のスケジュールで十分時間を取れなかったのは残念だった。
 

 「このはな館」から考古学博物館へ車で行く道で、左手に里山のような森があったが、残念ながらその時は「男狭穂塚」と「女狭穂塚」とは気がつかなかった。これらは、ニニギノミコトとコノハナノサクヤヒメの御陵と伝わり、宮内庁が管理する陵墓参考地、立ち入り禁止。

 柵で囲まれた「女狭穂塚」。(写真は、ウィキペディアコモンズ)。

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 「男狭穂塚」と「女狭穂塚」の入口。左手に、宮内庁の立入禁止の立て札がある。(写真は、ウィキペディアコモンズ)

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 西都ICにもどり、東九州自動車道を延岡方面へ北上する。

 門川本線料金所からは無料区間。延岡南道路、延岡南ICから東九州自動車道、延岡JCTから九州中央自動車道と続く。

 北川ICから高速を降り、国道218号線バイパスを走り高千穂方面へ。かつて延岡市から高千穂町まで、旧国道218号線と並走していた高千穂鉄道は、2008年廃線となった。 

 17:25、本日宿泊する「大和屋旅館」(西臼杵郡高千穂町)に到着。

 18:30~夕食後、旅館から「高千穂神社」まで5分ほど歩いて行く。

 

 20:00~21:00、「高千穂神社」の神楽殿で「高千穂神楽」を鑑賞(700円)。

 「高千穂神社」では多くの観光客のため、 夜神楽の一部を抜粋した「高千穂神楽」を毎晩、奉納している。本来は夜を徹し舞う夜神楽が、20時より1時間、三十三番の神楽の中から代表的な四番「手力雄の舞」「鈿女の舞」「戸取の舞」「御神体の舞」を抜粋して披露。

 「手力雄(たじからお)の舞」 手力雄命(たぢからおのみこと)が、天照大神が隠れている天岩戸を探し当てるところを表現した舞。

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 「鈿女(うずめ)の舞」 天の岩戸の所在がはっきりしたので、天鈿女命(あめのうずめのみこと)が岩戸も前で面白おかしく舞い、天照大神を岩戸より誘い出そうとする舞。

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 「戸取(ととり)の舞」 手力雄命が天岩戸を開き、天照大神に再び出て頂き、世の中に光が戻る。先の手力雄命は、白面であるのに対して「戸取」で用いるのは赤面。これは岩戸を取り除くため渾身の力をこめ、顔が紅潮した状態を表しているそうだ。

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 「御神躰(ごしんたい)の舞」 イザナギノミコトとイザナミノミコトの2神が酒を作って仲良く飲んで抱擁し合い、夫婦円満を象徴した舞。

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 高千穂に伝承される夜神楽は、古くからこの地方に伝承された神事。「高千穂の夜神楽」として国の重要無形民俗文化財に指定。毎年11月中旬から翌年2月上旬にかけて、町内20の集落のあちこちの神楽宿と呼ばれる民家や公民館で、夜を徹して三十三番の神楽を奉納する。

 旅館に戻り、22:30就寝。
 

 本ブログ記事「高千穂と宮崎タウン」に続く。
 

 ★ ★ ★

 特別史跡「西都原古墳群」は宮崎県のほぼ中央、一ツ瀬川の右岸、西都市街地の西「西都原台地」とその周辺の中間台地や沖積地に位置し、その範囲は南北4.2km、東西2.6kmに及んでいるという。史跡指定の面積は、58haを超える。

 「西都原古墳群」は、3世紀末から7世紀にかけて築造され、その数は陵墓参考地の「男狭穂塚(おさほづか)」と「女狭穂塚(めさほづか)」を加えた319基が現存、内訳は前方後円墳31基、方墳2基、円墳286基。また古墳群には、墳丘をもつ古墳に加えて、南九州に特有の地下式横穴墓12基や、全国に広く分布する横穴墓10基が確認されている。

 大正元年(1912年)から大正6年(1918年)にかけて、日本で初めて本格的学術調査が行われた地としても有名。大正3年(1914年)、出土品を収蔵するため「宮崎県立史跡研究所」が設立された。後に市に移管され、昭和27年(1952年)博物館法指定で「西都市立博物館」となる。現在は「宮崎県立西都原考古博物館」(2004年4月開館)。

 

 なぜ西都原に古墳が多いのか、以前から疑問だった。それについては、西都原観光ガイドの話も含め、資料を読むと以下のような説がある。

 神話では、天照大神の孫ニニギノミコト(瓊瓊杵尊)は日向の高千穂の峰に降臨した後、居を構えたのが現在の西都市であったとされる。古墳群の周辺に、「都萬神社」(つまじんじゃ、都万神社)があり、天孫ニニギの妃であるコノハナサクヤヒメ(木花咲耶姫)を祀る。「都万(つま)」は「妻(つま)」、「妻万(つま)」とする説が古くからある。律令期には、現在の西都市の中心部の妻地区に、日向国国府、日向国分寺、国分尼寺が置かれ、日向国の中心地(西の都)として栄えたという。

 これはヤマト王権と深い関係があったことの証しと考えられている。その理由の一つが、日向出身の后(きさき)が多かったことだという。古事記と日本書紀には、12代景行天皇、15代応神天皇、16代仁徳天皇がそれぞれ日向から后を迎え、皇子や皇女をもうけたとある。

 それでは、なぜ日向から后を迎えたのか。日向は古代、海上交通の重要なルートであった。九州東岸から瀬戸内海を通過し近畿に至るルートも確認された。また日向が当時貴重であった名馬の産地であることが広く知られてる。さらには、ヤマト王権が日向を重要視したのは、中国大陸や朝鮮半島との盛んな往来で一大勢力を誇っていた北部九州勢力に対し、地政学的なけん制の意味もあったのではないかともいう。

 巨大古墳の多くは4世紀後半から5世紀後半に造られた。あくまでも推測であろうが、そのころに地理的特性をいかして歴代天皇と姻戚関係があったこの日向国の「西の都」(?)の豪族たちが、大型古墳を作ったのではないだろうか。

 ちなみに現在の「西都市」は、1924年(大正13)に下穂北村が町制を施行し「妻町」、1955年(昭和30)上穂北村との対等合併で「西都町」、1958年(昭和33)三納村と都於郡村を編入し「西都市」となった。更に1962年(昭和37)三財村と東米良村の一部を編入している。
 
 

 「記紀の道」(ききのみち)は、西都原古墳群の東側にある全長約4km(徒歩約1時間~1時間半)、いつの頃か散策路として整備された。記紀とは『古事記』・『日本書紀』のこと。これらの文献に記される日向神話にゆかりのあるとされる伝承地を、この道はつないでいる。日向国の総社とされる「都萬神社」から、ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメが知りあって、新婚生活を送ったとされる伝承地などを経由し、西都原古墳群の男狭穂塚・女狭穂塚(陵墓参考地)に至る。

 「記紀の道」をつなぐ伝承地は、以下の通り。

 1.都萬神社=前述

 2.御舟塚(みふねづか)=高天原から高千穂の峰に来降した天孫ニニギノミコト一行の舟が、到着した場所。

 3.逢初川(あいそめがわ)=ニニギノミコトとコノハナノサクヤヒメが出会った場所。

 4.八尋殿跡(やひろでんあと)=ニニギノミコトはコノハナサクヤヒメと暮らすために、縦横八尋(約15m)の御殿を作られたという。

 5.無戸室(うつむろ)=コノハナノサクヤヒメが一夜の契りで妊娠したことを知ったニニギノミコトは、自分の子ではないと疑う。
  ヒメは、身の潔白の証として出入口のない産室を作らせて火を放ち、「ミコトの子ならば無事に生まれましょう」と三皇子を無事に産む。

 6.児湯(こゆ)の池=無戸室で生まれたホオリノミコト(山幸彦)、ホデリノミコト(海幸彦)、ホスセリノミコトの産湯を汲んだ池。

 7.石貫(いしぬき)神社=コノハナノサクヤヒメの父の山の神・オオヤマツミカミ(大山祇神、大山津見神)を祀る。

 8.大山祇塚(おおやまつみづか)=コノハナサクヤヒメの父オヤマツミノカミの御陵と伝わる柄鏡式前方後円墳。90号墳とも呼ばる。

 9.鬼の窟=前述

 10.男狭穂塚・女狭穂塚=前述

 西都原にこれだけの伝承地がうまくつながっているのは、ちょっと話が出来過ぎた感じがする。例えばニニギノミコトの墓は、ここ西都原のほかに、延岡市北方、鹿児島県川内市にも墓があり、宮内庁が管理している。また、ニニギノミコトとコノハナノサクヤヒメが出会った逢初川は、宮崎県高千穂町にもあると聞くし、古事記には笠沙御前(かささのみさき)がその出会いの場所とも記されており、その場所が鹿児島の野間半島だとする説もあるようだ。

 天孫降臨の地が、宮崎県北部の高千穂町と鹿児島・宮崎県境にある「高千穂の峰」の2説があるように、宮崎県内や鹿児島県には同じ物語の舞台とされている場所がいくつか存在し、これらの伝承地を確定することは難しい。

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