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2019年3月 2日 (土)

江戸東京博物館

 2019年2月24日(日)、「江戸東京博物館」(東京都墨田区)の常設展を観覧する。
 

 JR両国駅を出るとすぐに「両国国技館」を左に見て歩き、広い長い階段を上がると高床式の倉をイメージしたという「江戸東京博物館」。9:20、チケット売り場がある「江戸東京ひろば」に着く。

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 「江戸東京ひろば」は、「江戸東京博物館」の3階。この建物には2階と4階はない。

 ひろばから「両国国技館」を振り返る。

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 9:30、3階からエスカレータで5階を経て、6階まで上る。6階の常設展示室の入口には、日本橋の実物大の模型。

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 10:00~、ボランティアガイドの案内で館内を巡る。

 日本橋の大きさは全長15m、幅8m。その北側半分が復元されている。床板だけでも、いかに大きい木材が使われたか分かる。日本橋は1603年(慶長8年)に架けられ、諸街道の起点。一帯には魚河岸、米河岸、材木河岸などが造られた。

 日本橋を渡り、「江戸ゾーン」(江戸城と町割り)へ。

 寛永の町人地。江戸初期、日本橋北詰付近。左手前の大きな建物は、現在の三越日本橋店。敷地が広く多くの建物が建っていた大名屋敷に比べ、町人の家は一戸一戸がきわめて狭かった。

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 江戸城の中心部である内堀に囲まれた内郭は、本丸・二丸・西丸・吹上御庭などから構成され、本丸・二丸・西丸にそれぞれ御殿があった。

 この模型は、本丸御殿(奥の方)と二丸御殿(手前)の幕末期における様子を1/200で復元。

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 本丸御殿には御玄関に始まり、表(幕府の政庁)、奥(将軍の執務と日常生活)、大奥(御台所と奥女中が生活)があった。大奥に隣接して天守台があった。

 1657年(明暦3年)に起きた「明暦の大火」で消失するまで、江戸城には全高は60mほどもある日本最大の天守閣(写真右上)があった。城下の復興再建を優先、また天下泰平の世になっていたため、以後は天守閣が再建されることはなかった。

 江戸城本丸御殿、諸大名が将軍に拝謁する大広間。最も高い位置に将軍が座る。右奥は勅使との対面などに用いられた白書院。

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 大広間(左手)と白書院(右手)を結ぶL字型の松の廊下。

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 江戸城本丸大手門の前に建てられた、越前福井藩主・松平忠昌の桃山風の上屋敷。明暦の大火により焼失、以後このような華麗な大名屋敷は姿を消した。

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 寛永の町人地と同じ縮尺で復元。大名の敷地は広く、多くの建物が建っていた。

 豪華な松平忠昌の屋敷の門。

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 「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館所蔵)のレプリカ。

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 木造徳川家康坐像(芝東照宮所蔵)のレプリカ。

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 大名や公家が乗るの豪華な乗物(のりもの)。質素な駕篭(かご)とは区別された。

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 5階に下りると、「江戸ゾーン」(庶民の文化)が展示されている。

 棟の前後で部屋を分ける形のものを「棟割長屋(むねわりながや)」と呼んだ。火事のこともあって、着物や家財道具はあまり持たず、「損料屋」というレンタル屋で借りた。

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 火消は、幕府直轄で旗本が担当した定火消(じょうびけし)、大名に課役として命じられた大名火消と、町人によって組織された町火消の3系統があった。

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 町火消は、第8代将軍吉宗の時代に始まる町人による火消。消火活動は、延焼を防ぐため建物を破壊していくという破壊消防が主で、一般の町人よりも鳶職人で構成された。竜吐水は木製の手押ポンプで水を15mほど飛ばすことができたが、継続的に水を供給することが難しく、それほど消火の役に立たなかったそうだ。

 読み・書き・そろばんの寺子屋の風景。当時から日本人の識字率は高かった。

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 上水井戸。江戸市中には、道路下に上水を通す樋(ひ)が埋設され、上水を供給。長屋に設けられた上水井戸を通して、人々に届けられた。

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 絵草紙屋の店内。庶民が楽しんだ草双紙や錦絵といったさまざまな書物や刷り物も出版された。

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 寿司屋の屋台。現代に比べ一貫が大きい。ネタを赤酢に浸したものを使用したため米が赤っぽかったそうだ。

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 江戸で代表的な呉服店の「三井越後屋」江戸本店。

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 現代のような「店先売り」や「現銀掛値無し」といった、店頭販売や現金取引による新たな商取引が始まった。

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 「神田祭り」の行列の様子。代表的な山車(だし)や神輿(みこし)などを抜粋して復元。

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 「神田祭り」の山車を原寸大で復元。

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 江戸時代9月15日の神田明神の祭礼の日には、神輿の前後に30数台の山車とさまざまな練物(ねりもの)が従い、隔年に江戸城に繰り込み、将軍が上覧したという。この山車は、江戸末期の須田町のものを再現。人形は中国の三国時代の武将・関羽。こういった山車は、明治以降に電線敷設の影響で、東京の祭りから山車が消え、神輿中心になったという。

 江戸の盛り場、両国橋の西詰。

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 両国橋の西詰の広小路には、歌舞伎などの見世物小屋、髪結床(かみゆいどこ)、水茶屋などがいくつも立ち並び、寿司・てんぷら・うなぎなどの屋台、すいか売り、朝顔売りなどの物売りや大道芸人も集まっていた。隅田川は、小舟や屋根舟、屋形船が行きかい、夏には花火大会で賑わった。

 江戸歌舞伎の代表的な演目「助六」の舞台を展示。

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 「助六」は、歌舞伎十八番の一つで、「助六ゆかりの江戸桜」の通称。1713年(正徳3年)に2代目市川団十郎が初演。助六(左、実は曽我兄弟の曽我五郎)は、失われた銘刀・友切丸を探すため吉原へ出入りするが、花魁・揚巻(中央)に横恋慕する髭の意休(いきゅう、右)の所持する刀が友切丸と知り、取り戻すという筋。

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 なお「助六寿司」は、稲荷寿司と海苔巻き寿司を折り詰めにしたもの。花魁・揚巻の”揚げ”が油揚げ、”巻き”は海苔巻きのことから由来する。

 歌舞伎などの芝居見物は、町人や武士といった身分に関係なく、江戸の人々にとっては最大の娯楽だった。

 代表的な歌舞伎の芝居小屋である「江戸三座」の一つ「中村座」の正面部分。

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 「江戸三座」は、江戸時代中期~後期にかけて江戸町奉行所によって歌舞伎興行を許された芝居小屋。江戸には当初数多くの芝居小屋があったが次第に整理され、中村座、市村座、森田座、山村座の四座に限って「櫓をあげる」ことが認められた。最終的に、山村座が取りつぶされ三座となった。

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 「江戸ゾーン」を見終わると、もう11:55。
 

 この後、同じ5階にある明治以降の常設展示の「東京ゾーン」、企画展「春を寿(ことほ)ぐ ―徳川将軍家のみやび―」やミュージアムショップは、時間がなくて省略。

 

 両国駅前の商業施設「両国江戸NOREN」の2階「築地食堂 源ちゃん」で、昼食(~13:00)。「旨味・源ちゃん丼」980円は、松前漬けと天かすが入った海鮮丼の定食。

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 午後から「国立西洋美術館」(台東区上野公園)へ移動。

 

 ★ ★ ★

 「江戸東京博物館」の常設展は、一般600円、65歳以上300円。当日2月24日(日)は「天皇陛下御在位三十年記念式典」が行われる日で、観覧料がだれでも無料。チケット売り場に行かず、直接6階常設展示室入口から入る。

 ちなみに、「天皇陛下御在位三十年記念式典」は内閣府が主催で首相が式典委員長を務め、天皇、皇后両陛下のご臨席の下で、国立劇場(東京都千代田区)で開かれた。「国民でお祝いする式典」だそうだが、一般国民は参加できず、新聞・テレビで見るだけ。

 前回「江戸東京博物館に行ったのは、NHK大河ドラマ『利家とまつ』が放送されていた頃、2002年だと思う。17年も前のことで、ずいぶん前のことだ。日本橋の実物大模型や芝居小屋、文明開化、関東大震災や太平洋戦争中の庶民の生活などの展示を憶えている。特別展だったかどうか、『利家とまつ』にちなんだ加賀百万石の展示もあったようだ。

 今回の江戸の展示は、奥が深くて興味深い内容が多く、またガイドの話も面白くて分かり易く、2時間以上かけても全部は見終わらなかった。機会があれば、「東京ゾーン」も含めてもう一度ゆっくり見たい。

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