久喜提灯祭り
2018年7月18日(水)午後から、埼玉県久喜市の「久喜提灯(ちょうちん)祭り」に行く。
「久喜提灯祭り」は地元では「天王様」と呼ばれ、旧久喜町の鎮守「八雲神社」の例大祭。祭礼期間は毎年7月12日から7月18日までだが、山車が曳き廻されるのは12日と18日。
昼は人形や彫刻に飾り付けをした人形山車が、夜は約500個の提灯に灯りが点る提灯山車に組み替えられ、笛や鉦(かね)・鼓太のお囃子とともに町内を曳き廻される。
久喜市観光協会のポスター。
関越道から久喜白岡JCTを経て、久喜ICで東北道を降り、15:00頃久喜駅東口付近の駐車場に車を駐める。祭り会場となる駅の西口側に移動。
駅西口前に久喜市在住の彫刻家・齋藤馨氏の作品「風の見える街」が建っている。
7町内から7台の山車が繰り出される。廻り舞台形式の屋台形の山車は、各町内ともほぼ同様な構造だそうだ。
伝説や歴史上の人物・素戔嗚尊(すさのおのみこと)、武内宿禰(たけのうちのすくね)、神功皇后、織田信長、日本武尊(やまとたけるのみこと)、神武天皇、鍾馗(しょうき)様などの 人形を山車の上に飾り立てる。山車の内部には、お囃子の奏者が乗り込み、13時から隊列を組んで、町内を粛々と厳かに曳き廻すという。(久喜市観光協会チラシから転載)。
本一(本町5丁目)の素戔嗚尊(すさのおのみこと)と仲町(久喜中央3丁目)の織田信長の人形山車(久喜市観光協会チラシから転載)。
残念ながら、駅西口側に移動した16時前頃には、人形山車の巡行はすでに終わっていた。
道路に沿って出店が並ぶ賑やかな「提灯祭り通り」を歩く。写真は、通りから久喜駅方向を見た景色。
通りを歩くと、「八雲神社」の御仮屋がある。山車の曳き廻しは、この御仮屋の前に集合、式典の後に始まるそうだ。
通りに面して、昼間に曳き廻された仲町(久喜中央3丁目)の人形飾り(織田信長)の置き場もあった。
中央公民館付近では、本三(久喜中央4丁目)の人形飾りを取りはずされ提灯山車に組み換え中。
道路幅20mの広い「駅前通り」(県道146号線)に移動し、駅の方に向かう。この道路には電柱が無い。
駅西口広場でも、組み換え中の東一(久喜東1丁目)の提灯山車。
再び、「提灯祭り通り」と「駅前通り」を回る。
仲町(久喜中央3丁目)の山車に、提灯が取り付けられていた。
本ニ(本町2丁目)の山車の道路に提灯が並べられ、山車に取り付けられる。
山車の四面に、500個の提灯を飾りつけた本ニの提灯山車が完成。提灯山車の高さは7.5m、重さは4トン。
暗くなるころ提灯に灯りが点され、山車は移動を始める。提灯の光源には、現在でもろうそくが使用されている。 その山車の姿は、「関東一の提灯祭り」とも讃えられるという。写真は、仲町の提灯山車。
提灯山車が町内を巡行するころには、道路は見物客であふれ始める。「駅前通り」を巡行する手前の新一(久喜中央1丁目)と後方の東一(久喜東1丁目)の山車。
祭りの最後、20時を過ぎた頃から久喜駅西口広場(ロータリー)に各町内の山車が集まって来る。広場内に、見物客は立ち入り禁止。広場の周囲や歩道橋の上には人だかり。
方向転換する本一の山車。舵取り装置が付いてないので、力任せに車輪を滑らす。また制動装置もない。
入場する手前の本ニ(本町2丁目)の山車、その後ろは本三(久喜中央4丁目)と続々と広場に集結。
各山車が定位置に陣取ると、式典が行われるがその様子は、見物客席からは見えない。
式典後、山車の正面同士を急接近させて挑発したり、実際に衝突させたり(写真中央の傾いた山車)の喧嘩祭りとしてのパフォーマンスが繰り広げられる。
また、山車の上部を回転させたりのパフォーマンス(久喜市観光協会パンフから転載)。
激しいパフォーマンスで、提灯にろうそくの火が移って燃え出す。
20時50分頃には、西口広場で手打ち式があって、祭りは終わる。
21時頃、また祭り気分の覚めやらぬ久喜駅西口前を後にし、車を駐めた東口付近の駐車場に向かう。
「久喜提灯祭り」の由来は、230年余年前の天明3年(1783年)、浅間山の大噴火によって、桑をはじめ夏作物が大きな被害を受けた。生活苦や社会不安などを取り除くため、祭礼用の山車を借りて曳き回し、豊作を祈願したのが始まりと伝えられている。 また、流行病が広まったために、始まったともされる。
祭りが特に盛んになったのは、明治20年代後半だとされている。祭りの日は、大噴火が7月8日だったので、10日遅れの7月18日に行うようになったといわれている。
★ ★ ★
人形山車は、通常の祭りでは日本の伝説・神話上の人物がほとんどであろう。中国伝説上の鍾馗様は良しとしても、歴史上の織田信長が一人混じっているのは違和感がある。義経や頼朝、秀吉や家康ではないのは、何故だろう。熊谷うちわ祭りの人形山車では、歴史上の人物で地元の英雄・熊谷次郎直実がいるのは納得できるが。
今回初めての見学だったので、祭りの一部を垣間見た程度だった。祭りのマップや巡行情報、スケジュールなど、事前によく調べて頭に入れておかないと、祭りの全容はわからない。人形山車の巡行や駅前広場への集合の様子を見られなかったの残念だった。
祭りの町名は、本一ほんいち)、本二、本三、仲町、志ん一(新一、しんいち) 、志ん二(新二) 、東(あづま) 、東一(とういち)など。現在の地図を見ても、住居表示には無いので、昔の町名が使われているのだろうか。各町内はそれぞれに、山車の構造や動かし方、人形や飾り、組み換えのやり方、お囃子などが微妙に違うらしい。長年の伝承がそれぞれに生きているという。次世代にこれらを受け継ぎながら、伝統が維持されている。
1783年8月5日(天明3年旧暦7月8日) 、浅間山の大規模な「天明噴火」。旧暦4月9日に火山活動を数年ぶりに再開した浅間山は、1か月ごとに噴火と小康状態を繰り返しながら、6月27日からは噴火や爆発を毎日繰り返すようになった。日を追うごとに激しさも増し、7月6日から3日間に渡る大噴火で大災害を引き起こした。
最初に、北東と北西方向の群馬県側に火砕流が発生、続いて約3か月続いた活動によって山腹に堆積していた大量の噴出物が、噴火の振動によって崩壊。これらが大規模な土石流となって、現在の嬬恋村や長野原町の一部を壊滅させた。さらに吾妻川に流れ込んでダムを形成するが、直ぐに決壊して大洪水を引き起こす。吾妻川沿いの村々を飲み込みながら、本流となる利根川へと入り込み、増水した利根川は全てを下流に運び、江戸川にも流入、多くの泥流や遺体が利根川下流域と江戸川に打ち上げられたという。
火山の噴火は、関東各地にも火山灰を降らせた。火山灰は直接的被害にとどまらず、日射量低下による冷害をもたらし、農作物には壊滅的被害が生じた。また、大量に堆積した火山灰は、利根川に大量の土砂を流出させ、天明3年と天明6年の大水害など、更には飢餓とともに疫病の流行という二次、三次災害被害を引き起こした。
当時、利根川・江戸川流域の久喜の地から、遠い浅間山の噴火は直接見えなかっただろう。降灰や洪水、冷害、飢餓、疫病など、自然災害や社会不安に対し、山車を引き廻して神仏に祈ったであろうことは、容易に想像できる。
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まさに夏祭り真っ盛り!夜祭は風情がありますね。連続猛暑の夏、23日は埼玉県熊谷市で日本歴代最高気温41.1度の記録で驚きました!今朝はひと雨降り気温もやや一服しましたが、蒸し暑さは変わりませんでしたね。農業従事の方、建設現場の方、エアコン業者さん・戸外で作業をされる方・被災地にボランティア活動に支援活動をされている方、皆様には本当に頭が下がります。この週末は台風直撃ですか・・、水不足解消にはいいですが花火大会真っ盛りの夏休みに来なくても・・と思います。異常気象に翻弄されている夏ですね~。
投稿: ローリングウエスト | 2018年7月25日 (水) 21時52分