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2018年6月24日 (日)

信州・佐久と軽井沢の旅

 2018年6月20日(水)~21日(木)、信州の佐久と軽井沢をめぐる一泊旅行。

 6月20日(水) 朝から終日雨。9:30、駅前を出発。車2台に参加者9人が分乗。

 関越道、上信越道を走り、佐久平インターで降りる。 
 

●信州蕎麦の「佐久の草笛」(佐久市佐久平駅東) 11:50~12:50

 平日だが昼時は混み合っていて、席が空くまでしばらく待たされる。

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 野菜天ぷらざる蕎麦(並400g 1,100円)を注文。
 
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 隣の席の客で、中盛り(700g、400円増)を注文した人がいたので写真を撮らせてもらう。

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 大盛りは、1.2Kg、610円増。この日、この店で大盛を注文した客は、1人だけだという。 信州の蕎麦屋は、並でも関東の大盛くらいのボリュウムがある所が多い。ちなみに、小盛は80円引き。

 

●総合アミューズメント施設「アム・アム・ビレッジ」(佐久市長土呂) 13:10~16:00

 施設内には映画館(8スクリーン1037席)をはじめ、ゲームセンター、カラオケボックス、パチンコ・スロット、レストランなどがある。

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 13:50~16:00、施設内の「佐久アムシネマ」で上映中の『空飛ぶタイヤ』を観賞。池井戸潤の三菱自動車のリコール隠しを題材とした小説の映画化。TOKIOの長瀬智也が主演。

 後日、この映画についてのブログ記事を公開する。 

 県道44号を西へ、百沢東交差点から国道142号を900mほど走り、右折して県道151号、望月トンネルを抜けてひたすら南下。 
 

●春日温泉「かすがの森」(佐久市春日) 16:45着。

 春日温泉は、蓼科山(標高2531m)の北麓に位置する。自然の中で体育館、温泉プール、バーベキューハウス、テニスコート、ゲートボール場などが併設されていて、スポーツ合宿や研修会などにも利用されている宿泊施設。
 
 春日温泉は、開湯三百年以上の歴史を誇る源泉掛け流しの天然温泉。他県ではあまり知られていない温泉だが、古くから湯治湯として親しまれてきたそうだ。アルカリ性単純温泉で、無色無臭で少しヌルヌルした感じ。特に肌荒れの防止や改善に効果があり「美肌の湯」として好評だという。

 写真は、「かすがの森」のホームページから引用。

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 入浴後、18:30~20:00夕食(宴会場)。

 疲れのせいか22:00頃には就寝。参加者の大多数は、TVでワールドカップ(ボルトガル×モロッコ)を23:30くらいまで見ていたらしい。

 6月21日(木) 曇り。7:00頃起床、7:30頃~朝食。8:50、宿を出発。

 県道151号線を戻り、国道142号線を南東へ。跡部交差点で左折し国道141号、石上南で右折し県道139号線へ。やがて県道139号線沿いの左手に「旧中込学校」。
 

●旧中込学校(佐久市中込) 9:30~10:20

 1875年(明治8年)建築の校舎。国内の学校建築のうち、現存する最古級の擬洋風建築物。1969年(昭和44年)に国の重要文化財と国史跡に指定された。入場料:大人250円。

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 明治期、初等教育に力を注いだ長野県は、「教育県」と言われていた。その中で最初に建てられた本格的校舎が「中込学校」だった。建築設計したのは、地元出身でアメリカに渡り建築学を学んだ市川代治郎。建築費用のほとんどは、村内篤志の寄附によって賄われたもので、地元の人々の教育に対する情熱がうかがえる。

 中央の八角塔には、天井から太鼓を吊られ、時を告げていたので村人たちはいつしか「太鼓楼」と呼ぶようになった。また窓に当時は珍しいステンドグラスを使用していたことから、「ギヤマン学校」とも言われていたそうだ。

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 大正になってこの学校も手狭になり、大正8年に新校舎が建築、その後中込町役場、中込町公民館、中込支館、佐久市役所分室、佐久市開発公社と再利用されてきた。

 当時の資料が展示され、当時の子どもたちの勉強風景が想い浮かぶ。

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 今でも演奏できるオルガン。

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 理科の教科書。漢字が多くて、こんな難しいものをよく勉強していたものだ。

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 理科の掛図にカイコが取り上げているのは、当時の時代らしい。

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 同じ敷地にある併設の「旧中込学校資料館」に入館。教育関係の資料や歴代校長の肖像画が並ぶ。

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 全国の洋風学校のパネル写真などを展示。

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 何故か祭りの屋台も展示。

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 屋外には、小海線を走っていた蒸気機関車C56。後ろは、旧佐久鉄道(小海線の小海~小諸間)のガソリンカー・キホニハ56が展示。

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 10:20頃、「旧中込学校」を出発。県道139号線から国道141号線を北上する。長土呂東交差点をを左折して北上し、小諸市に入り国道141号と合流。更に国道18号と合流しながら、北西に進み東御市に入る。 
 

●海野宿(東御市本海野) 11:00~12:00

 海野宿入口交差点を左折、海野宿第一駐車場に車を駐める。

 「海野(うんの)宿」は、長野県東部の上田盆地南東部に位置する。南に千曲川が流れ、北東には浅間連峰、千曲川を挟んだ南西には八重原台地がある。

 このあたりは、平安・鎌倉時代には豪族・海野氏の領地として栄えた。江戸時代になって北国街道の宿場町として開かれた。

 駐車場の入口付近に、「海野氏発祥之郷」の石碑がある。

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 海野氏の氏神だった「白鳥神社」が、「海野宿」の東端にある。本殿の前のケヤキは、樹齢700年以上の御神木。

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 平家と戦う木曽義仲は、挙兵する際にこの白鳥神社前の白鳥河原(千曲川の川原)に兵を集結させたという。海野氏は、挙兵に際しその中核を担ったとされる。

 「海野宿」は、幅10m、長さ650mの旧北国街道(ほっこくかいどう)の両側に、現在も約100棟の歴史的な町並みを構成している。旅籠屋造り、蚕室造り、茅葺屋根など、当時使用された昔懐かしい建物が残る。街道の中央には、旅行者が足を洗ったり、馬に水を飲ませたりする用水が流れている。

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 1986年(昭和61年)、「北国街道 - 歴史かおる街・海野宿」として、「日本の道100選」 に選ばれた。

 「海野宿歴史民俗資料館」は、江戸時代は旅篭屋、明治になって養蚕農家として利用された。入館せず(入館料200円)。

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 旅籠屋には、1階より2階を広くするため梁が張り出している出梁(だしばり)造りが多い。また格子のある家が目立つが、左手2階(上の写真)のように長短2本ずつ交互に組み込まれた「海野格子」の模様は美しい。

 下の写真の手前の建物も、出梁(だしばり)造り。その先に、1階の屋根に隣家との防火壁「卯建(うだつ)」が並ぶ。

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 北国街道は、現国道18号旧道。信濃の追分(軽井沢)で中仙道と別れ、善光寺(長野)、越後を結ぶ。

 もと来た国道18号線を戻り、小諸市からそのまま18号を東進し、軽井沢へ。
 

●信州牛のステーキ「古民家 盛盛亭」(軽井沢町追分) 12:40~13:45
 
 昼食のため、国道18号線沿いのA5ランクのステーキ・ハンバーグ専門店に入店。

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 メニューには、ステーキ定食「シンタマ」 140g 2,980円、170g 3,500円、200g 3,980円。本日のA5サービス「ヒウチ」 140g 3,980円、170g 4,580円、200g 4,980円。

 いずれも、サラダ、御飯、味噌汁、御新香付き。箸で食べる高級な和風ステーキ。

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 「シンタマ」は赤身が多く、「ヒウチ」が霜降りが多いそうだ。たまには贅沢に「シンタマ」170gを食する。肉は柔らかくて、脂身が少なくて美味しい。

 

●追分宿(軽井沢町追分) 13:50~14:15

 腹ごなしに、「盛盛亭」駐車場から歩いて中山道の「追分宿」(軽井沢町追分)を散策。

 「盛盛亭」からおよそ360mほど国道18号を西に行くと、中山道と北国街道の分岐点・追分の「分去れ(わかれされ)」の道標(みちしるべ)」。

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 一番手前に小さな道祖神(写真なし)。次の石塔には、正面に「東 二世安楽 追分町」の文字。右側面は見えないが「従是北国街道」、左側面には「従是中山道」。江戸から来た場合、左は京都や近畿へ向かう中山道、右は越後方面の北国街道。二世(にせ)安楽は、仏の慈悲によって二世にわたって安楽を得るという意味。東の方向には、追分宿がある。

 石塔の後ろは「森羅亭万象の歌碑」。「世の中は ありのままにぞ霰(あられ)ふるかしましとだに 心とめぬれば」と刻まれている(写真下)。森羅亭万象は、江戸時代中期の平賀源内の門人だそうだ。歌の意味は、不明。

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 その隣に手水鉢のような形の道標石(写真なし)がある。正面には「さらしなは右 みよしのは左にて 月と花とを追分の宿」という風流な道案内の歌が刻まれている。他の三面にはここから、各地への里程が示されている。

 歌は、江戸から来て右へ行けば、「田毎の月」で知られた更科(姥捨山)へ。左に進めば、木曽路から東海道を通り、桜(花)の名所・吉野(=御吉野、奈良の吉野)へと道が続いているという意味。
 
 その後ろには、大きな石灯籠(常夜灯)が立っている。寛政元年(1789)に建立、台石には「町内安全」、「是より左伊勢」など。

 そのほか、「分去れ」のエリアにはいくつかの石仏が建つ。

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 更に100mほど先に進むと、「追分宿」(出典:ウィキメディア・コモンズ)。

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 200mほど宿場を歩くと、曹洞宗 浅間山「泉洞寺」の入口。

 「泉洞寺」本堂裏の墓地に回ると、地元の人に「歯痛地蔵」と呼ばれる石仏がある。

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 この地蔵は、作家・堀辰雄の小説『樹下』の一節に描かれ、氏が愛した石仏ということで有名だそうだ。 堀辰雄を慕って追分を訪れた文人も多い。その中の詩人・立原道造の詩集『田舎歌』の「村ぐらし」の一節にもこの地蔵が詠まれているという。

 立て膝に頬づえして思索にふける姿が、歯痛をこらえる姿に見える。この石仏を拝むと、歯痛が治るらしい。こういう姿をした仏像は半跏思惟像(はんかしゆいぞう)と言って、全国には他にもいくつもあるようだ。

 堀辰雄(1904-1953)は、小説家。肺結核を病み、軽井沢で療養、執筆することもあり、そこを舞台にした作品を多く残した。後に軽井沢追分に移り住む。戦争末期からは症状が悪化、闘病生活を送ったが48歳で死去した。代表作『風立ちぬ』は、宮崎駿のアニメ映画の着想元となったことでも有名。

 「泉洞寺」の立派な本堂。

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 本堂の前には、現代風の地蔵がたくさん立っている。

 左は、ストーンに乗ってブラシを持つカーリング地蔵。右は、ラケットを持った卓球地蔵。

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 そのほか、アニメ顔の珍しい地蔵が並ぶ。

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 なんのために、こんな面白い地蔵が置いてあるのか分からない。
 
 「泉洞寺」を出て、街道を挟んだ向かい側に「追分公民館」がある。塀に埋め込まれている立原道造の詩碑がある。

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 立原道造(1914-1939)は、昭和初期に活動し24歳で結核のため急逝した詩人、建築家。1934年(昭和9年)東京帝大入学の年、初めて軽井沢を訪れ、堀辰雄と会っている。

 詩碑は、「 夏の旅  村はづれの歌

  咲いてゐるのは みやこぐさ と
  指に摘んで 光にすかして教へてくれた ──
  右は越後へ行く北の道
  左は木曾へ行く中仙道
  私たちはきれいな雨あがりの夕方に ぼんやり空を眺めて佇んでゐた
  さうして 夕やけを脊にしてまっすぐと行けば 私のみすぼらしい故里の町
  馬頭観世音の叢に 私たちは生れてはじめて言葉をなくして立ってゐた 」

 すぐ近くの追分「分去れ」を詠んでいる。右は越後への北国街道、左は木曽への中山道。夕やけを背に中山道を真っ直ぐ東へ行けば、みすぼらしい故里の町(東京)へ向かうことになる。馬頭観音は現在、近くの「追分宿郷土館」の前に移されているという。

 この先に「堀辰雄文学記念館」があるが、来た道を引き返し「盛盛亭」の駐車場に戻る。

 14:30、駐車場を出発。国道18号を東進。

 

●スーパーマーケット「ツルヤ軽井沢店」(軽井沢町長倉) 14:40~15:10

 「ツルヤ」は、長野県一帯に展開する食品スーパーマーケット。ツルヤ軽井沢店は中軽井沢の辺り、国道18号線沿いにある。
 
 ミカド珈琲のモカソフトクリーム(350円)、高原花豆大粒甘納豆(1,370円)、信州ふじりんごゼリー(323円)の買い物。

 

 南軽井沢交差点を右折、碓氷軽井沢インターから上信越道を東京方面、帰路へ。

 16:05~16:35、上里SAで休憩。渋滞に遭うこともなく、17:30自宅着。

 

 ★ ★ ★

 「海野宿」は、6町(約 650 m)にわたり町並みが続き、本陣1軒と脇本陣2軒が設置されていた。佐渡の金の江戸への輸送、北陸諸大名の参勤交代、長野・善光寺への参拝客なども多く、賑わいがあった。明治・大正時代には鉄道の発達により、宿場町の利用客が減ったため、養蚕の町として発展したという。

 「日本の道100選」と「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されたことを切っ掛けに、1989年(平成元年)から道路の整備、用水路の改修、植栽の整備、電柱の撤去など景観造りの事業が取り組まれた。

 江戸時代に「海野宿」として栄えたこの地は、戦国時代には真田氏の発祥地だともされている。もともと真田氏は、この地を治めていた海野氏の出身。真田昌幸の父で、武田信玄に使えた真田幸隆は、海野氏の子供とされている。

 海野氏は ここ旧東部町(現・東御市)を中心とした海野郷を本拠地とした豪族。禰津(ねず=根津)氏と望月氏と共に、東信濃に基盤を築いた。平安中期に海野・禰津・望月の三氏は、国司として下向してきた中央の名門・滋野(しげの)氏と関係を結び、滋野三家として海野氏はその中心的存在であった。
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 平安末期1156年(保元元年)の政変「保元の乱」には源義朝の下で活躍、1181年(治承5年)木曽義仲の挙兵に際してはその中心となって奮闘。また政権が鎌倉に移ると、源頼朝や北條氏に仕えて重用され、時代を荒波を乗り切り、安泰を保った。
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 鎌倉幕府が滅亡した1331年(元弘元年)の「元弘の乱」以後の混乱の中、一族と共に北條氏の再興を図ったり、守護に反抗したり、ひたすら地盤を守る戦いをしたが、足利幕府が確立されるとその努力は報われず、苦難の道を歩む。
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 戦国時代には、信濃国内でも守護・小笠原氏が弱体化し、豪族間の争いが激化してきたた。1541年(天文10年)信濃侵略を企てた甲斐の武田氏は、村上氏と諏訪氏と連合して海野氏を攻撃した。「海野平の合戦」と呼ばれるこの戦いで、一族は降伏・敗走・戦死などが相次ぐ。信州屈指の勢力を誇った海野氏は、ここに滅亡した。なお一族の真田幸隆も上野国(群馬県)に敗走したが、後に武田氏に仕えその傘下として信濃攻略で活躍、真田氏発展の基礎を築いた。

 1583年(天正11年)には、真田氏は上田城の城下町造りのために海野から上田に人を呼び寄せたため集落が縮小され、その後江戸幕府により1625年(寛永2年)宿場町が開設された。
 

 本ブログの関連記事
 
 「真田の郷」 2017年9月17日 投稿
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 「紅葉の信濃路の旅」 2016年11月30日 投稿
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 ★ ★ ★

 ステーキ肉を、赤身か霜降り、値段の高い安いで選んだが、「シンタマ」とか「ヒウチ」とかは何のことか分からなかったので、後で調べてみた。

 「シンタマ」は、牛肉の部位の一つ外モモの隣り、内モモの下にある丸モモのこと。内モモ肉と似て赤身が多く、きめが細かく、柔らかでたんぱく質を多く含んでいる。他の部位に比べると脂肪が少ない。

 「ヒウチ」は、モモ肉の「シンタマ」の一部で、牛1頭から約2kgほどしかとれない大変貴重な部位。モモの部位としては最も霜降りのサシが入り、味わい深く、やわらかいそうだ。

 牛肉の格付けの「A5」とはどのようなものか。牛肉の格付けには、A、B、Cの歩留等級と、5~1までの肉質等級がある。

 牛肉の歩留等級は、牛1頭から取れる肉の割合を表す格付けで、A:部分肉歩留が標準より良い、B:部分肉歩留の標準、C:部分肉歩留が標準より劣るとしている。つまり牛の体重に比べて、肉となる部分の重いほど高い等級になる。

 次にもう一つの格付けは肉質。BMS(牛脂肪交雑基準)と呼ばれる指標で、赤身の肉にどれだけサシ(霜降り)が入っているかを、No.1(最低)~No.12(最高)の12段階に分類。それを、肉質等級1=BMSがNo.1、肉質等級2=BMS No.2、肉質等級3=BMS No.3~4、肉質等級4=BMS No.5~7、肉質等級5=BMS No.8~12というように、5段階に分類される。

 つまり、歩留等級(肉がたくさん取れるか)がAで、BMS(霜降り度合い)が最高レベルのNo.8~12であれば、A5ランクの牛肉ということになる。

 A5であれば、脂がのった霜降り肉であることは明らかだが、次の点に注意すべきという。

  ・A5ランクであっても、BMS(霜降りの度合い)の段階がNo.8~12まで5段階の幅がある。
  ・産地の指定はないので、ブランド牛とは関係ない。
  ・肉質等級は、人目で見た霜降り度合いなので、肉の味わいや柔らかさとは必ずしも一致しない。また赤みを好み、霜降りを嫌う人もいる。

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信州は殆ど回ったつもりでしたが佐久は見逃しておりました。海野宿は行きましたが・・・。中込学校はいいですね!

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