春日大社と興福寺
2018/5/26(土)~28(月)、2泊3日の奈良・大和路探訪の旅。
《大和は国のまほろば、史跡が点在する奈良大和路をめぐり、古代の歴史・文化を学ぶ》
1日目の26日(土)午後から、奈良公園の東大寺、春日大社、興福寺を回る。本ブロク記事「奈良・東大寺」のつづき。
「東大寺」の見学を終え、「若草山」(標高342m)を左に見ながら、若草山南ゲート前を通り過ぎる。
春日山遊歩道を横断、水谷(みずや)茶屋の前を通って「水谷川」を渡ると、15:25「春日大社」の境内に入る。
「春日大社」は、全国に約3000社ある春日神社の総本社。中臣氏(のちの藤原氏)の氏神を祀るために768年に創設された。社殿は、春日山(御蓋山=みかさやま、標高294m)の麓にあり、広大な神域手つかずの「春日山原始林」が残されている。
境内には、春日大社の多数の摂社・末社(摂末社=神社本社管理する小規模な神社)がある。うち代表的な摂社2社を記載する。
摂社「水谷(みずや)神社」は、「若草山」と「春日山」の間を流れる「水谷川」のほとりにあり、うっそうとした森に覆われた摂社。
「水谷神社」の敷地・規模は、春日大社の摂末社の中では大きなもの。素盞鳴命(すさのおのみこと)、大巳貴命(おおなむちのみこと)、奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)の3柱が御祭神。平安時代から幕末までの神仏習合時代は、祇園精舎の守護神で医薬の神として尊崇されていた。古くより霊験あらたかな神様として名高く、病気平癒や子授けを祈る人が多い。鳥居の正面、神社に向かい合う位置に、有名な「子授石」が祀られていた。
摂社「一言主(ひとことぬし)神社」は、水谷神社の南側にある。
祭神は、一言主大神(ひとことぬしのおおかみ)。平安時代初期に興福寺境内に創建されたものを遷す。「一言(一件)を真心こめて祈願すれば、必ず叶えて下さる神様としてお参りが多い。」という。
「一言主神社」をさらに南に進むと、摂社「総宮(そうぐう)神社」があり、そこで左(東側)に折れると本殿の参道。
3年ほど前に奈良市民から、仲麻呂の冥福を祈って、春日大社に奉納された。
歌碑には、
遣唐留学生 阿倍仲麻呂公
喜びも やがて悲しき望郷の歌
「天の原 ふりさけ見れば 春日なる
御蓋山(みかさのやま)の山に いでし月かも 」
古今和歌集 巻第九
と、刻まれている。
参道には石灯籠が並ぶ。境内には大小の石灯籠が、全部で2,000基もあるそうだ。
正面は、西回廊の「内侍門(ないしもん)」。
「内侍門(ないしもん)」から西回廊を通って「慶賀門」を抜け、参拝所のある「幣殿・舞殿(へいでん・ぶでん)」へ。参拝所の左手の屋根に大杉が見える。
15:40、二礼二拍手一礼で参拝。右手に「特別参拝受付」があり、500円で回廊内を進み「中門」前で本殿のそばで参拝できるそうだが、割愛する。
参拝所の右端から、朱に塗られた「中門・御廊(おろう)」(重要文化財)を覗く。「中門」は高さ10m。ここから見えないが、その奥に本殿がある。
写真は、春日大社の本殿(出典:ウィキメディア・コモンズ)。本殿は国宝で、主祭神4柱の春日造り4棟が並ぶそうだ。
・武甕槌命(たけみかづちのみこと) - 藤原氏守護神(常陸国鹿島の神)
・経津主命(ふつぬしのみこと) - 同上(下総国香取の神)
・天児屋根命(あめのこやねのみこと)- 藤原氏の祖神(河内国平岡の神)
・比女神(ひめがみ) - 天児屋根命の妻(同上)
総称して春日神と呼ばれ、藤原氏の氏神である。
1998年(平成10年)にユネスコの世界遺産(文化遺産)に「古都奈良の文化財」の一つとして登録された。
一之鳥居に向かって長い参道を進むと、右手に歴史的な建物がある。
ここは、仏教美術資料とその関連資料の調査研究と保管・公開を目的として設置された「仏教美術資料研究センター」。「奈良国立博物館」管理の施設(重要文化財)だそうだ。建築史学者・関野貞の設計により、1902年(明治35年)に竣工した旧「奈良県物産陳列所」だった。
さらに進むと、ムクロジの大木。幹が空洞になって、そこから竹が数本伸びている。
秋に実るムクロジの果実は、黄褐色で半透明。中に真っ黒い堅い種子が入っている。 この種子は、羽根突きの球や数珠に用いられ、また果被には石鹸の成分サポニンが含まれていて代用品ともなったという。
一之鳥居から国道169号線を横断、16:15「興福寺」に到着。
「興福寺」は、藤原氏の祖・藤原鎌足の子息・藤原不比等(ふひと)が、710年(和銅3年)に創建した寺院。藤原氏の氏寺で、名門・藤原氏とともに古代から中世にかけて大いに栄えた名刹。1998年に「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録された。
「国宝館」に入館(拝観料700円)。国宝館・東金堂共通券が900円だが、いずれも閉館は17:00、16:45迄に入館しなくてはならないため、「東金堂」への入館はあきらめる。
「興福寺」の国宝仏像の件数は全国トップの17件で、全体の13%を所蔵しているというから驚く。今年(2018年)1月にリニューアル・オープンした。ガラスケースを外した露出展示、照明や空調が充実しているらしい。
有名な「阿修羅像」を含む「八部衆」や釈迦の「十大弟子像」、筋骨隆々の「金剛力士像」、ユーモラスな「天燈鬼・龍燈鬼」などは必見。
館内はやはり撮影禁止、以下に主な展示物を記載する。
・乾漆「八部衆立像」(国宝)
- 奈良時代の作。もと「西金堂(せいこんどう)」の本尊・釈迦如来像の周囲に安置されていた群像の一つ。体の一部が欠損しているものもあるが、八部衆8体が揃って現存。
八部衆の中でも、三面六臂(さんめんろっぴ、顔が3つで手が6本)の「阿修羅像」は著名。写真は、拝観券から転載。
下の写真は、『週刊 日本の仏像』№1興福寺①(講談社)から転載。
第一手は胸前で合掌、第二手は日輪と月輪を、第三手はに弓と矢を掲げていたといわれている。少年のようなリアルな顔、像長は156cmの人間の身長に近いので、親しみを感じる。下の写真の出典:ウィキメディア・コモンズ。
他の八部衆は順に、畢婆迦羅(ひばから)、五部浄(ごぶじょう)、沙羯羅(さから)、乾闥婆(けんだつば)、鳩槃荼(くはんだ)、緊那羅(けんなら)、迦楼羅(かるら)。五部浄だけは胸から下が無い。写真の出典:『週刊 日本の仏像』№1興福寺①(講談社)。
像長は、阿修羅と同じくらいの149cm~160cm。
・乾漆「十大弟子立像」6体(国宝)
-奈良時代の作。「八部衆像」とともに、「西金堂(さいこんどう)」本尊・釈迦如来像の周囲に安置されていた群像の一つ。十大弟子は釈迦の弟子の中でも優れた10人のことで、当初は10体の群像であったが、4体は明治時代に寺外へ流出した。写真は、10体のうちの一つ、釈迦の実子・羅睺羅(らごら)と伝えられている。写真の出典:『週刊 日本の仏像』№1興福寺①(講談社)。
- 白鳳文化を代表する作品。飛鳥の「山田寺」(桜井市)講堂の本尊だった。後に「東金堂」の本尊となったが、室町時代の落雷火災で頭部だけがかろうじて焼け残った。写真の出典:ウィキメディアコモンズ。
・木造「金剛力士立像」 (国宝)
-鎌倉時代の作。吽形(うんぎょう、左)と阿形(あぎょう、右)。寺門に立ち伽藍(がらん)を守護するのが役目だが、ここでは「西金堂」の本尊の左右前方に安置されていたという。写真の出典:ウィキメディアコモンズ。
・木造「天燈鬼・龍燈鬼立像」(国宝)
-鎌倉期彫刻の傑作。 大きな燈篭を、天燈鬼は肩にかつぎ、龍燈鬼は頭上で支える。像高は、いずれも77cmで、他の仏像に比べ子供くらいの大きさ。写真の出典:ウィキメディアコモンズ。
・木造「千手観音立像」(国宝)
- 鎌倉時代の1229年頃に完成。もとは興福寺「食堂(じきどう)」(僧が食事するお堂)の本尊。現在は、食堂の跡地に建つ「国宝館」の中央に安置される。高さ520cm、見上げるような巨像。記録によると、制作途中で仏師(運慶の父の兄弟子)が亡くなり放置されたりしたため、完成まで4半世紀の歳月を要したという。写真の出典:『週刊 日本の仏像』№1興福寺①(講談社)。
国宝「五重塔」は高さ50m、奈良のシンボルで夜はライトアップされる。左は、国宝「東金堂(とうこんどう)」。
興福寺の五重塔は、現存する古塔では、京都「東寺」に次ぐ高さ。奈良時代に光明皇后(藤原不比等の娘)が730年(天平3年)に創建。以後、5回の焼失と再建を繰り返し、現在の建物は室町時代の6代目。(下の写真の出典:ウィキメディア・コモンズ)
「東金堂」は、興福寺に3つある金堂の一つ。時間がなくて入館(拝観料300円)せず。(下の写真の出典:ウィキメディア・コモンズ。)
「東金堂」の主な仏像は、以下の通り。(写真の出典:ウィキメディア・コモンズ。)
・銅造「薬師三尊像」(重要文化財)
-本尊の「薬師如来坐像」は、1411年(応永18年)の火災後の再興像で室町時代の作。脇侍の「日光・月光菩薩立像」は応永火災の際に救出されたもので、飛鳥時代後期の作。
ほかにも、「東金堂」には、18体の国宝仏が安置されているそうだ。
興福寺の中心となる巨大なお堂「中金堂」は、江戸時代中期に焼失して以来、約300年ぶりに再建中。今年(2018年)10月に、落慶法要と公開が予定されている。下の写真は、翌朝に撮影した。
「南円堂」(重要文化財)は、江戸時代に再建された日本最大の六角円堂。(写真は、翌朝撮影)
南円堂は、「西国三十三ヶ所観音霊場」の第9番札所で、参拝者が絶えないそうだ。本尊は木造の「不空羂索(ふくうけんさく)観音坐像」で、高さ336cmの巨像。木造「法相六祖坐像」は、6名の高僧の肖像彫刻。いずれも国宝で、毎年10月17日の開扉日のみの公開されるそうだ。
国宝「北円堂」には、国宝の仏像などを安置。春と秋に特別開扉される。柵に囲まれて、うまく写真が撮れなかった。下の写真の出典:ウィキメディア・コモンズ。
境内の隅の目立たない場所に、国宝「三重塔」(写真は、翌朝撮影)もあった。
17:00興福寺の境内を出ると、すぐに「ひがしむき商店街」。商店街を北へ。
「ひがしむき商店街」、近鉄奈良駅前で観光ガイドのTさんと別れ、「花芝商店街」へ。17:10頃宿泊先の「奈良白鹿荘」着。
「奈良白鹿荘」は、近鉄奈良駅(東)1番出入口を北へ徒歩2分のところ、奈良市花芝町にある。樹齢2千年以上という古代檜の大浴場は珍しい。夕食は、部屋食で18:30~。22:00頃就寝。
次は、本ブロク記事「平城宮跡」につづく。
★ ★ ★
「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 御蓋山(みかさのやま)の山に いでし月かも」
阿部仲麻呂(あべのなかまろ)は高貴な身分で、容姿端麗、しかも飛び抜けた秀才であった。17歳(数え歳)で吉備真備(きびのまきび)らと一緒に遣唐使として唐に渡った。日本人として初めて科挙に合格し、乞われて仲麻呂だけが唐の朝廷に入って、皇帝に仕えた。
33歳の時に帰国を申し出るが玄宗皇帝の許しを得られず、53歳の時にやっと30年数年ぶりに一時帰国を許された。
日本へ出航する日に送別会が開かれ、停泊中の船の中で海から上った満月を見ながらこの歌を詠んだ。
この海を天の原(広々とした大空)に例え、「天の原をはるかに見渡したときに見える月、この月は私の故郷の春日大社にある御蓋の山(春日山のこと)の上に出る月と同じなんだよなぁ」
末尾の「かも」に込められた想いがある。百人一首にも選ばれている。
仲麻呂の乗った帰国の船は難破し、ベトナムに漂着する。やっとの思いで唐の都・長安へ戻ったものの、日本へ帰国の夢はついに叶わず、70歳でこの世を去った。
★ ★ ★
「八部衆」は、「天龍八部衆」とも呼ばれ、仏法を守護する8神。仏教が流布する以前の古代インドの鬼神、戦闘神、音楽神、動物神・・・だったが、釈迦の教えを受け仏教に帰依、仏法と仏教徒を守護する「天部(てんぶ)」。「十大弟子」と共に釈迦如来の使者を務める。
「天部」は、仏教において天界に住む者の総称で、「天部神」ともいう。インドの古来の神が仏教に取り入れられて守護神となったもの。梵天、帝釈天、吉祥天、弁才天、伎芸天、鬼子母神、大黒天、四天王、竜王、夜叉、聖天、金剛力士、韋駄天、天龍八部衆、十二神将、二十八部衆・・・などの種々の「天部」が存在する。仏像においては、「如来」、「菩薩」、「明王」、「天部」という序列において、「天部」はトップから4番目にあたる。
「アスラ(阿修羅)」は、インドにおける悪魔・鬼神で、戦闘を好み、インドラ(帝釈天)と争う。仏教に取入れられたアスラは、生き物が輪廻転生する6種の生存状態「六道」の一つ。また仏教を守護する8種の神格的生物の一種「八部衆」の一つとされた。
「六道」とは、天道(てんどう)、人間道、修羅道(阿修羅道とも)、畜生道(ちくしょうどう)、餓鬼道(がきどう)、地獄道をいう。修羅道は、阿修羅が住む世界。修羅は終始戦い、争うとされる。苦しみや怒りが絶えないが、地獄のような場所ではなく、苦しみは自らに帰結するところが大きい世界という。「修羅場」という言葉は、ここから来ている。
興福寺の正面の少年のような阿修羅像は、帝釈天を向こうに廻して荒々しい合戦を繰り返し、醜怪な鬼神からはとてもイメージできない。この神が釈迦の教えによって、仏法の守護神となった姿だという。
しかし、やや眉間を寄せ悲しげにも見える表情の奥に、何か激しいもや迷いなどが秘められているように思える。そして正面と左右の顔は、微妙に違っていて、この神秘的な表情は、荒々しい心が仏の教化によって目ざめ、安らかな顔つきになるプロセスを表わしている。恐ろしい顔から清々しい顔へと移り行く過渡期の表情を、見事に表現している。
阿修羅像は少年のような顔つきだが、大人から逆に無垢な子供のような清純な優しい顔になっていく途中(少年)を表現したのではないだろうか。
関連ブログ記事
「奈良公園(春日大社)」 2012年11月11日投稿
http://otsukare-sama.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-c8a1.html
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春日大社・j興福寺は何度も行きましたがまた訪問したいです。爽やかな青空ですね~!ついに今日にも梅雨入り宣言でしょう!爽やかな快晴季節とのお別れもちと悲しいですが、植物・穀物にとっては恵の雨ですからこれもまた必要なことですね。でも地球温暖化の影響なのか、今年は季節が半年から1ケ月早く回っているような気がします。
投稿: ローリングウエスト | 2018年6月 6日 (水) 07時44分
歴史探偵の気分になれるウェブ小説を知ってますか。 グーグルやスマホで「北円堂の秘密」とネット検索するとヒットし、小一時間で読めます。北円堂は古都奈良・興福寺の八角円堂です。 その1からラストまで無料です。夢殿と同じ八角形の北円堂を知らない人が多いですね。順に読めば歴史の扉が開き感動に包まれます。重複、 既読ならご免なさい。お仕事のリフレッシュや脳トレにも最適です。物語が観光地に絡むと興味が倍増します。平城京遷都を主導した聖武天皇の外祖父が登場します。古代の政治家の小説です。気が向いたらお読み下さいませ。(奈良のはじまりの歴史は面白いです。日本史の要ですね。)
読み通すには一頑張りが必要かも。
読めば日本史の盲点に気付くでしょう。
ネット小説も面白いです。
投稿: omachi | 2018年6月16日 (土) 07時43分
>>ローリングウエスト様
半日で、東大寺、春日大社と興福寺を回りましたが、最後の興福寺は時間が足りなくなって、十分見れませんでした。興福寺は、今回初めてでしたので、また機会があれば行きたいと思います。
投稿: ものみ・ゆさん | 2018年6月16日 (土) 17時10分
>>omachi様
コメントありがとうございます。
「南円堂」ばかりに気を取られてしまって、「北円堂」は時間がなくて、ちらっと見ただけで、写真も撮れませんでした。
たしかに法隆寺の夢殿に似ていますね。
興味深い「北円堂の秘密」のNet情報、ありがとうございました。
投稿: ものみ・ゆさん | 2018年6月16日 (土) 17時19分